SSブログ
幕末維新・三舟他 ブログトップ
前の30件 | -

関口芭蕉庵(明治) [幕末維新・三舟他]

basyouan1_1.jpg『絵本江戸土産』の次に山本松谷画の「目白台下駒塚橋の景」を見る。東陽堂刊『風俗画報』掲載の明治30年代の作だろう。神田川対岸の目白台左側が「蕉雨園」で、その奥が「椿山荘」。神田川の巾を広くし、7㍍も深く掘り下げて垂直護岸にすれば、ほぼ現在の景色になる。

 

 昭和初期の写真を見ると、駒塚橋下流の大洗堰はすでに撤去され、護岸工事が始まっていた。その後も徐々に改修工事が行われ、昭和33年の狩野川台風の洪水から本格整備開始とか。次第に現在の姿になったらしい。

 

 さてこの地は俳句好き、広重「江戸百」好き、神田川好きサイトでさまざまに紹介されているが、あたしは江戸から明治になっての大変化を、景色ではなく、この地の持ち主らに注目した。一体どうやって私腹を肥やしたのか、山県有朋が「椿山荘」(一万八千坪)を、田中光顕が「蕉雨園」(六千坪)のオーナーになっている。共に長州、土佐の尊王一途。

 

貧しき山村の働き手が徴兵され、仕送りもできぬ僅かな給金(数円)で西南戦争を生き抜いた近衛兵ら300余名が我慢できずに立ち上がったのが明治11年。明治政府は躊躇なく53名を銃殺刑し、何事もなかったように天皇行幸を続けた。これが「竹橋事件」。(詳しくは澤地久枝『火はわが胸中にあり』)。比して陸軍の大御所・山県有朋の給与は1700円だったとか。

 

basyou_1.jpg半藤一利『山県有朋』に給与詳細が書かれている。…目白台の一万八千坪の土地を二千円で購い、みずから指揮して造園し、椿山荘と名づける宏大な邸宅を建てていた。(中略)。参議として五百円、陸軍卿の五百円、陸軍中尉の四百円、議定官の三百円、計一千七百円が山県の月給なのである。

 

長州・萩の足軽以下だった山県有朋は、奇兵隊から明治維新で成り上がった。その金銭欲・権力欲は異常だったとか。天皇を「現人神」にすべく、かつ自身の権力拡大に邁進した。「軍人勅諭」「教育勅諭」「大日本帝国憲法」「治安維持法」等々。その実現に障害と思えば躊躇なく近衛兵も銃殺刑、自由民権派追放、大逆事件の裏にも彼がいたという。いや、彼がそのために築いたシステムによって日清・日露戦争、やがては軍部暴走へ至っている。その裏で彼は狷介爺さながら独りこつこつと「椿山荘」を、京都の別荘・無隣庵、大磯・小淘庵、小田原の別荘・古稀庵などの造園趣味を愉しんでいた。

 まぁ、あたしが明治生まれなら、この絵の神田川ででぇこん(大根)でも洗っているオバさんの亭主ってところだろう。その大根洗うかかぁの背が蕉雨園。これまた土佐勤王党出身の幕末暗殺史に欠かせぬ田中光顕の持ち物になった。彼もまた賄賂疑惑で政界引退とか。

 そんな彼らがいたからこそ自然が守られたという意見もあるが、彼らが生んだ「現人神」、皇国陸軍が後に大暴走した。昨日15日は終戦記念日。写真下は「芭蕉庵」のバショウ。


コメント(0) 

岩倉邸流転、西宮神社「六英堂」へ(ト) [幕末維新・三舟他]

iwakuranon2_1.jpg岩倉邸は高田馬場・玄国寺の他に、明治天皇が岩倉具視の最期を見舞ったという和室が、あの110日に福男を賭けて男らが脱兎のごとく走り競うことで有名な「えびす宮総本山・西宮神社」(兵庫県西宮市)境内にも「六英堂」の名で保存されている。それまた数奇な運命を辿ったようで、西宮神社のサイトでこう紹介されている。

 

 

 具視公薨去後、私邸は宮内省が宮城前広場整備のため買い上げ取り壊されるが、天皇行幸跡と云うことで、有志によりこの建物だけは新宿の国鉄敷地内に保存される。(ここまでは新宿郷土史誌と似ている。別サイトでは新宿からさらに渋谷に移築されたとの記述もあり。そして多田好問の没後)、大正11年に新たな保存先として、川崎造船所の創業者・川崎家の神戸市布引の屋敷に引き取られる。ここで「六英堂」と名付けられた。初代・川崎正蔵は薩摩出身で大久保公の薫風を受けていて、大久保公の縁で引き受けられたようだ。戦後、川崎家の手を離れて布引の敷地に残されていたのを、昭和52年に西宮神社に移築保存された。

 

写真を拝見すると、あの明治天皇が岩倉公を見舞う絵と同じ和室が保存されているらしい。まぁ、岩倉邸一部がそんな数奇な運命を辿って兵庫県「西宮神社」で保存。新宿「玄国寺」の庫裏もまた数奇なドラマを秘めているやも知れぬ。

 

ちなみに岩倉家の菩提寺は京都市北区西賀茂「霊源寺」らしいが、具視公のお墓は品川「海晏寺」にある。何故なのだろう。岩倉公は我が国最初の国葬で、斎場は武蔵国荏原浅間台。隣(後ろ)が「海晏寺」なんですね。式次第、墓誌ノ事…などが「岩倉公實記」に詳細に記されていた。

 

掃苔のサイトを拝見すると「海晏寺」のその墓地には入れず、遠くから覗けば、侵入者を威嚇するかのように、台座に錆びた機関銃が設置されていると写真紹介されていた。“孝明天皇暗殺”の噂に対処した策なのかしら…。

 

『岩倉具視関係文書・八』の巻末「解題」に森谷秀亮・文あり。こう書かれていた。…政情が緊迫を告げ、権力の座にあるものの病死に際しては、流言蜚語が乱れ飛んだことが多い。実証主義的立場にある私としては、孝明天皇死因に関する風説を肯定することにもちろん躊躇し、岩倉一派を毒殺下手人とみる論の如きは、岩倉の行動に疑惑を抱くものが作為した誣言であると極限するに憚らない。

 

この辺の関係資料も辞書を引きつつ読んだが、歴史学者でも病理学者でもないただの隠居爺ゆえに「岩倉邸」の探索だけに止め、それ以上は立ち入らぬことにする。まぁ、ここで一応エンド。

 岩倉邸の参考資料:「岩倉公實記」、「岩倉具視関係文書」、佐々木克著「岩倉具視」、永井路子「岩倉具視~言葉の皮を剥きながら」、小説で堀和久「維新-岩倉具視外伝」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」「新宿の今昔」、笠原英彦「明治天皇」、「日本の歴史・明治維新」「新宿文化絵図」「江戸切絵図集」他。


コメント(0) 

岩倉邸、玄国寺の和洋折衷の庫裏(ヘ) [幕末維新・三舟他]

genkokusyoin_1.jpg高田馬場「玄国寺」の書院(岩倉具視邸)の立派なことよ。鬼瓦は源氏の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」。岩倉具視は源氏・村上天皇の末裔ゆえの家紋。書院を表から拝見するとお寺の庫裏仕様だが、現本堂が二階になってい、階段上から庫裏裏を覗き撮れば、かくもお洒落な和洋折衷、洋館風(写真下)になっていた。

 

新宿区地域文化部刊の『新宿文化絵図』で鬼瓦のことを知ったが、同書はその後がいけない。こんな記述になっている。…その屋敷は、明治政府の最高指導者の地位にあった岩倉具視が晩年を過ごしたところです。庫裏(くり=僧侶居住の場所)の内部は、洋間とそれに続く和室の書院をもつ和洋折衷の珍しいつくりでなっています。成徳記念絵画館(明治神宮外苑)に展示されている明治天皇が岩倉具視の病気を見舞う図は、この書院が舞台になっているとされています。

 

「岩倉が晩年を過ごした」とは、どういう意か。この書き方では岩倉具視が馬場先門の本邸を出て、晩年をこの寺で過ごした…と云う意になる。馬場先門本邸の全容やいかに、また多田好問による角筈移転の詳細も知りたいが、新宿西口の明治資料を漁れど探せず。移築した「松平摂津守」の地は江戸切絵図で確認できたが、その先(明治)に至らぬ。多くが江戸時代から諸学校、淀橋浄水場の記述になってしまう。探索行き止まりに候。玄国寺の庫裏は馬場先門の本邸から移築されたものか、はたまた新宿西口(角筈)移築後、新宿駅拡張の明治30年頃に移築されたのか。この辺もどうもハッキリせぬ。

 

iwakurasyoin1_1.jpgこう考え込むと、思い出すことがある。2年前に石神井公園に鳥撮りに行った際に、三宝寺に足をのばして、同寺に移築された赤坂・勝安房(海舟)邸の屋敷門(長屋門)を拝見した。門をくぐり、しげしげと見上げていると、ご住職らしき方が「おぉ、お主も勝海舟になられましたか」と冗談を云いつつ、移築経緯をお話し下さった。「赤坂から三、四度も彼方此方へ移築されて、もう壊すしかあるまいという段階で、それはもったいないとここへ移築したんです」。

 

ちなみに諏訪神社は、前回に記した通り明治天皇が明治1511月に同神社から戸山ヶ原の近衛隊射的場開場式、及び射的砲術を天覧されて以来、社殿に菊のご紋を戴くようになった。当時の諏訪神社は大盛り上り。元別当・隣の玄国寺も“ウチも頑張らねば”ってことで、特別の縁もないが、壊される運命にあった岩倉邸一部を移築しただけなのか…。


 勝邸の例もあり、隠居爺の戯け推測が当たらないとも云いきれぬ。同寺の由来等の案内表示はあるも、岩倉邸に関しては何も記されていないんです。まぁ、ご近所ゆえに機会があれば玄国寺ご住職に移築の経緯を伺って、改めてご報告でしょうか。

 追記:同寺案内碑に文化財として「岩倉具視邸(現書院)」と明記されていた。

 


コメント(0) 

岩倉邸、新宿西口へ(ホ) [幕末維新・三舟他]

suwatennou_1.jpg 喰違で襲われた岩倉具視はその後… 政務復帰と同時に「佐賀の乱」。大久保利通の指揮で鎮圧し、江藤新平らを処刑。中途半端な台湾出兵。明治10年、西南戦争。翌115月に紀尾井坂で大久保が暗殺される。「具視實記」にはこう書かれている。…大久保利通、将(まさに)朝参セントス途清水谷ヲ過ク暴徒島田一郎等六人突然刀ヲ抜キ其馬車ヲ攢刺(サンシ)ス利通重創ヲ被ムリ遂に薨(こう)ス。

 

 明治13年、民権運動活発化。天皇制の揺らぎに岩倉らは憲法設立を急ぐ。『岩倉公實記』は憲法一色。明治14年「開拓使官有物払下げ事件」告発の民権派・福沢諭吉らと騒動を起こしたと大隈を追放。この政変で再び薩長が盛り返す(ここで間違えちゃったんだなぁ)。明治15年「軍人勅諭」。ドイツ憲法調査に伊藤博文が渡欧。明治16年、岩倉は京都復興計画に奮闘するも病状悪化。勅命でドイツ人医師ベルツが診るも食道ガン。天皇が岩倉邸に出向いて見舞うも同年520日に逝く。

 

 この辺は書いたらキリないゆえ、本テーマ「岩倉具視“邸”」に入る。同邸は岩倉死後に宮内省が買い取り壊すことになるが、『岩倉公實記』編纂の多田好問(宮内省御用掛)が頼み込んで譲り受け、新宿・角筈に移転したそうな。芳賀善次郎著『新宿の今昔』にこう書かれている。

 

 genkokuji1_1.jpg今の(新宿)西口広場は、松平摂津守などの下屋敷だったが、維新後に新宿駅寄りが岩倉公の所有となり「華竜園」という閑雅な庭園となった。庭には、西郷隆盛の征韓論で激論した時の建物を移して「隣雲軒」と名づけていた。ここには大正天皇がまだ東宮のころ、しばしばご遊覧なされたということである。明治三十年ごろ、同地は新宿駅構内拡張のため「華竜園」はとり払われた。

 

多田好問は、馬場先門内の屋敷の幾棟を新宿に移したのや。隣雲軒のみ、それとも他の建物も移したのだろうか。この辺の詳細、裏付けとれず。そして高田馬場の「玄国寺」の岩倉具視邸の登場になる。

 写真は、諏訪神社の明治天皇の明治1511月「近衛兵射的砲術天覧」碑。同年1月「軍人勅語」で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」で名実ともに「天皇の軍隊」へ。諏訪神社も菊の御紋となる。翌年7月に岩倉具視、59歳で没。そして諏訪神社の隣、元・別当「玄国寺」には岩倉具視邸が移築されている。その経緯の詳細記述探せず。どなたか御存知や…。


コメント(0) 

喰違遭難の和歌(ニ) [幕末維新・三舟他]

tomowaka2_1.jpg 前記『岩倉公實記』に喰違遭難の歌四首が掲載されている。「尓=に、王=わ、能=の、可=か」混じりゆえ、ここは全文を自己流にくずし字、注釈を添えて書いてみた。

 

 優雅な枕詞に霜、葛カズラを詠い込んで心の余裕、落ち着きをみせてはいるが…。兇徒九名は征韓論拒否に苛立つ不平士族で、三日後に逮捕、全員斬首。

 

 和歌を自分流に書き起こしてみれば、現場が見たくなる。冷房の部屋に籠る運動不足解消に自転車を駆った。新宿通りは四谷駅手前右折。右は迎賓館(当時は皇居火災で仮御所。岩倉はここを出て…)、坂を下り始めた所で、左のニューオータニへの道に入る。ここは江戸城外濠で最も高い地形で、両側は深い濠。今は右が弁慶濠、左が上智大グラウンド。喰違見附を入れば紀伊、井伊、尾張屋敷で「紀尾井坂」に出る。

 

 喰違見附を入って、正面のニューオータニを見上げれば360度回転の展望ラウンジあり。40余年も前のこと、あたしはPR会社勤務で、ここで月1「例の朝飯会」を開催。マスコミ人と企業トップに、時の人を招いてスピーチ聞きつつの出社前朝飯会。その100年前に、岩倉具視がここで襲われた。明治はそんなに遠い昔でもない。

 

kuitigai2_1.jpg さらに時代を遡って江戸末期の『絵本江戸土産』第八編に「喰違外」の絵(前回アップ)あり。描くは二代目広重か。こう書かれていた。…赤坂尓(に)あり、その容(さま)およそ〇〇〇〇尓て、封疆(どて)の古松幾千株を知れ須。千仭(せんじん)の御湟(おほり)坐下(みおろ)せバ、眩暈(めくるめき)がたく、他(た)にまた比すへき所なきの地なり。<〇〇は勉強不足で解読できず。どなたかご教授よろしく>

 

 もう一点の絵は「喰違外・赤坂遠景」。この崖から山の手になると、平坦な下町(赤坂方面)を描いている。さて、具視公は漆黒の闇ん中で襲われ、上智大側の崖へ落ちて命拾いしたらしい。この喰違見附は江戸初期に出来た外郭門で、石造りの升形門とは違って、絵図の通り土塁を筋違いにして直進を阻んだ造り。 

 

 現在はやや真っ直ぐだが、かつてL字型喰違構造だったことの名残りが残されている(写真下)。ちなみに岩倉具視が襲われた4年後、今度は紀尾井坂で大久保利通が暗殺された。江戸から明治へのギヤチェンジに犠牲は避けられなかったろうが、明治から昭和へ道を大きく誤る。時代の“喰違”なり。

kuitigaimituke_1.jpg 


コメント(0) 

岩倉具視、喰違で襲われる(ハ) [幕末維新・三舟他]

edokuitigai5.jpg 多田好問編『岩倉公實記』より「具視喰違遭難ノ事」一部を読む。間違い多かろうが自己流に句読点、ルビ、注釈をつける。

 

 明治七年甲戌一月十四日夜、具視赤坂假皇居(前年に皇居は物置から出火で焼失。赤坂御所が仮皇居)ヨリ退出ス途、喰違ヲ過(す)ク、兇徒アリ七八人路傍(ろぼう)ニ彷徨シ、具視カ馬車ノ至ルヲ見テ、一二人前(すす)ンテ將(ま)サニ執(と)ラントス。馬丁之ヲ誰何(すいか)ス。兇徒急ニ白刃ヲ露(あら)ハシ、馬車ノ右轅(うえん、轅=ながえ=車の舵棒)ヲ攀(よ)チテ斫(き)ルモノ有リ。又馬車ノ背ヨリ母衣(ほろ)ヲ斫(き)ルモノ有リ。具視已(スデ)ニ馭者ト偕(とも)二裾(きょ=うずくまる)シテ馭者臺二在リ。乃(の)チ左轅ヨリ下リ、之ヲ躱避(たひ)ス。眉間二微疵(びし)ヲ被ムリ、且左腰ヲ傷ツク。腰ニ短刀ヲ横フルヲ以テ、其刀室(とうしつ=鞘)ノ支フル所ト為リ創口深カラス。

 

 馬車の右、後の幌から襲う兇徒に、具視と馭者は左から逃げた。額に軽い傷。左腰を斬られるも短刀の鞘で深手にならず。街灯もなく人通りもない喰違見附。漆黒の闇だったろう。

 

 兇徒ハ具視カ馬車ノ内ニ座セサルヲ見テ四旁(しほう)ニ走リ、之ヲ索(もと)ム。一ニ人具視ノ後ヲ追テ之ヲ撃ツ中(あ)タラス。<うむ、ピストルでも撃たれたか?> 

 具視湟中(こうちゅう、湟=濠)ニ轉墜(てんつい、轉=ころがる)ス。身ヲ荊棘(けいきょく、いばら・とげ)榛莾(しんもう、繁っている所)ノ中ニ匿(か)クス。一人アリ、左手ニ桃燈(とうか)ヲ提ケ、右手ニ白刃ヲ揮(ふる)ヒ、之ヲ索(もと)ム。

 

kuitigaiakasaka_1.jpg 霜枯れの茨が繁る崖に転がって身を隠せば、一人が左手に提灯、右手に白刃で探しに来る。手に汗握るシーン。さて、岩倉公はどうしたか。

 

具視縞襟ヲ重ヌルヲ以テ、兇徒ノ之ヲ認メンコトヲ懼(オソ)レ乃チ、黒色羽織ノ襟ヲ翻シテ之ヲ覆ヒ、帽薝?ヲ垂レテ其面ヲ蔵(か)クス。適(たまた)マ宮門ノ前ニ人語ノ喧囂(けんごう)スル有リ、兇徒皆惧(おそ)レ倉皇(ソウコウ)奔逃ス。具視崖ヲ攀(ヨ)チテ上リ湟(ほり)ヲ出(いで)ツ。

 

 岩倉公は宮内省で傷の手当てを受けて、二十一日に馬場先門の本邸に戻るが、これは病室で詠ったか、和歌四首が掲載されていた。彼の人となりも分かろうから、いつもの自己流くずし字で筆書きしてみよう。『絵本江戸土産』では広重がここの風景が気に入ったか二点描いている「喰違外」(上)と「喰違外・赤坂遠景」。絵についても次回で…。(続く) 


コメント(0) 

岩倉具視、馬場先門の本邸(ロ) [幕末維新・三舟他]

 隠居爺のお遊びの域で「岩倉具視邸」調べ。まずはネットから。これまたなんと云うことでしょう…。今年2月に新たな資料発見が報じられているではないか。

 「読売オンライン」の見出し。「豪華な岩倉具視邸、ネット競売で古写真発見」。本文は…倉持基・東大特任研究員が、ネットオークション上で写真裏側に「岩倉公邸ノ内」と記された写真を見つけた。写っている門や建物が、岩倉家旧蔵の絵図面や記録などと一致することから、1870年秋から84年頃まで岩倉邸だった建物の表門付近の写真とみられる。…とあって同写真が掲載されていた。

babasakigou_1.jpg 邸宅はもと忍(おし)藩(埼玉県)の藩邸で、具視の死後、一家は移転し、建物は壊されたとされる。岩倉家に関する画像資料を調査してきた研谷紀夫・関西大准教授は「旧岩倉邸は複数の絵図などに描かれているが、写真は極めて珍しい。旧大名屋敷を転用した厳かな門構えから、権勢の大きさを改めて認識できる」と話している。

絵図面があるなら誰も読めるように公開して欲しいもの。『岩倉具視関係文書・八』巻末には岩倉村の幽居旧跡図が三つ折りで挿入されているが、馬場先門内の屋敷図はどこにあるや。忍藩は松平下総守。「江戸切絵図」を見れば馬場先門を入ってやや右側に「松平下総守」(写真正面やや右側)にあり。現・皇居前は芝生と松の大広場になっているが、江戸時代はここに大名屋敷が連なっていた。

osihanteiato_1.jpg余談だが、あたしは冬になると飛来するミコアイサ(パンダ模様のカモ)を撮りに馬場先濠へ行く。写真下は馬場先門内から岩倉邸のあった辺りを写しています。また中央公論社『日本の歴史・第20巻』の「明治維新」編に、「明治5年ごろの外務省」なる写真あり。『東京都の歴史』なる書に慶応4年「東京府庁舎」イラストあり。どれもがネット競売の古写真「岩倉具視邸」と非常に似ている。門内には江戸時代の藩邸を改修した新政府官舎や維新中心人物の屋敷が建ち並んでいたのだろう。

岩倉具視がここに住んだのは、明治3年秋から明治17年。面倒だが明治維新を駆け足で振り返る。明治元年、江戸城は無血開城。10月に明治天皇が東京入り。江戸城が東京城、皇居へ。明治3年「神仏分離令」。各地で寺院破壊。明治4年「廃藩置県」。岩倉はその前年秋から「松平下総守」邸に入ったのなら、門内の大名邸はすでに蛻の殻…。

明治4年「岩倉使節団」欧米出発。全員洋装も岩倉のみ和服にチョンマゲ姿。110ヵ月の欧米の旅。価値観一変の日々だったに違いない。岩倉具視は帰国後に屋敷一部を洋風に改築したような気がするのだが…。

明治6年、西郷の征韓論に岩倉が猛反対。西郷に続き薩摩兵帰郷。政府は徴兵令発令など天皇制確立へ。明治7年正月、岩倉は天皇の晩餐に陪席後、馬車が赤坂喰違に来た所で襲われた。

岩倉具視「邸」が主テーマだが、次はこの襲撃事件を『岩倉公實記』から拾ってみる。

★スズキ様へ。コメント返信が不具合で、ここで返信させていただきます。小生が調べたのは図書館で借りて読んだ「岩倉公実記」(関連文書を含む)と、2013年2月の「読売オンライン」の記事です。ネットでヒットしなければ読売新聞の縮刷版で2013年2月分に目を通されるのがいいかと存じます。そこにコメントされた研究者らの名前も載っているように記憶しています。


コメント(1) 

岩倉具視と猪瀬知事と玄国寺(イ) [幕末維新・三舟他]

suwajinnjyae_1.jpg あの猪瀬知事は就任記者会見で、記者らに<『ミカドの肖像』を読んだか>と偉そうに言った。ならばと今春、同書の検証読書(25日に亘って)をさせてもらった。佐野眞一の取材力・筆力には圧倒されるも、『ミカドの肖像』は隠居爺でも書けるかなって感じで、威張るほどの書ではないと判断した。

 彼は最終章も終わり(文庫本827~829頁)で、孝明天皇の崩御について、こんな事を書いていた。・・・死因は天然痘と発表されたが、岩倉具視ら討幕派により毒殺されたという噂がひそかに流布された。日本に駐在し政争の真只中にいた英国外交官アーネスト・サトウも、ディープスロートの証言から毒殺説を確信していた(筆者<猪瀬>注:明治政府が刊行した公式記録に毒殺説は見られない。そのことをもって毒殺説を否定する向きもあるが、それよりナマの証言のほうを採るべきだ)。

 そして、こんな文章に続く。「明治天皇は、父親の死因に不審感を抱いていたと思う」(中略)「開国に反対した孝明天皇が毒殺されて年少の明治天皇が担ぎ出されたとき、近代天皇制の行く末は地球儀とともにグロテスクに暗示されていたのである」

 ここから天皇機関説、“象徴天皇”を説明し、日本は東京の真ん中に実態のない空虚=ブラックホールができて、周縁が次々に吸い込んで行く構図ができた・・・と同書をしめくくっていた。

 笠原英彦著『明治天皇』では、「現在の史料からでは、悪性の天然痘に死因を求めるのが妥当」と記していて、あたしも同書記述の方がクールな判断だろうと、読書備忘に記したばかり。目下は佐々木克著、永井路子著『岩倉具視』を読んでいるが、共に“噂”を否定している。

suwajinjyaa_1_1.jpg あたしは東京生まれゆえか、どうも「薩長」は好まぬゆえに、明治維新も関心が薄い。それじゃいかんと勝海舟、山岡鉄舟ら東京側の維新関連書を少し読んだ。大日本帝国憲法ができる経緯を少し勉強した。それで終わりと思っていたのに、なんと!自宅地の鎮守様「諏訪神社」は明治15年の明治天皇「近衛兵射的砲術天覧」から菊の御紋になり、隣の元「別当・玄国寺」は書院が「岩倉具視邸」と知った。今度は岩倉具視にひっかかっちゃった。

 机には五冊の岩倉関連本。読むと、すぐ眠くなる。「おまいさんも歳とったねぇ。読みながら、また眠っていたよぅ」とかかぁが笑う日々に相成候。『江戸名所図会』には諏訪神社と別当・玄国寺の絵(上)があるも、本文はなし。写真下は「諏訪神社」。


コメント(0) 

芋坂の團子頬張り明治かな [幕末維新・三舟他]

goindennozu_1.jpg 「子規庵」から日暮里方面に歩くと薬王寺跡があり、芋坂際に「羽二重団子」があった。薬王寺跡に「御隠殿跡」の史跡案内板があって、ここは輪王寺宮の別邸とあった。「おぅ、彰義隊に擁立された宮様じゃないか」。最後の輪王寺宮(日光輪王寺、浅草寺、上野寛永寺の山主)は、後の北白川宮能久親王。当ブログ<幕末維新・三舟他>で、その数奇な人生をちょっとクローズアップしたことがある。

 「あぁ、こんな所に別邸を持っていたんだぁ」。史跡には写真の「御隠殿の図」があった。今は暗渠の音無川から谷中の崖に向かって描かれた図。この絵を持って谷中側に向けば、三千数百坪の当時の様子が伺える。右端に「芋坂」、左端に「御隠殿坂」が描かれている。輪王寺宮は「御隠殿坂」を経て上野寛永寺の本坊(現・東京国立博物館辺り)と行き来したのだろう。

 芋坂際の音無川のほとりに文政二年から営業していたのが「羽二重団子」。子規は<芋坂の團子屋寝たりけふの月>などを詠んでいる。森まゆみ著「彰義隊遺聞」には同店主人の、次のような話が記されていた。「上野戦争当日、家人は店を閉めて避難していたが、帰ってみるとお山から逃げた彰義隊が食糧を取り、家の野良着に着替えて落ちのびた様子。店にある槍や刀は、彼らが邪魔だと置いて行ったものです」

 あたしは525円のお茶と團子のセットをいただきつつ、慶応4年=明治元年の彰義隊を想った。この時に「御隠殿」も焼けたそうな。<芋坂の團子頬張り明治かな>


コメント(0) 

泥舟の引き際みごと秋の寺 [幕末維新・三舟他]

deisyunohaka_1.jpg 「幕末の三舟」掃苔の最後は、上野桜木町・大雄寺の「高橋泥舟」。クスノキの大樹の隣で眠っていた。墓石裏に「執中庵殿精一貫道大居士」の戒名が読み取れた。

 噺はちょっと飛ぶ。今、新宿歴史博物館で「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」特別展開催中(12月4日迄)で、去る16日に関連の街歩き「江戸の文化と文人たちを訪ねて」と、記念講演「大田南畝における大江戸と風雅」に参加した。街歩きは旗ぁ~持った方の後ろにゾロゾロ歩いてゆくアレで恥ずかしかった。ボランティアの説明だから、こっちの方がよく知っていたりしたが、一方、大学教授(「大田南畝全集の編纂のひとり、揖斐教授)の講演は、学生に戻ったような楽しい充実感。来月の講演「大田南畝の狂歌活動」も予約した。

 で、言いたいことはこうだ。新宿の歴史に関心ある方は郷土史好き。そんな方々にとって、高橋泥舟が牛込矢来町で亡くなっているも、その旧居がわからぬことに関心があった。亡くなった家がわからぬのに、なぜ矢来町と流布されているか、ちょっと謎・・・。

 維新で薩長土肥は藩閥内閣をはじめ下級武士らも官職と地位を貪り競った。泥舟が守り抜いた徳川慶喜は公爵、貴族院になり、旧幕臣の勝海舟は要職歴任後に伯爵に、榎本武揚や義弟・山岡鉄舟は子爵にお成りになったが、高橋泥舟だけは潔く身を引いた。それは亡くなった家がどこかも分からぬほどの見事な隠棲で、なんという引き際の潔さよ。これぞ江戸っ子。エライねぇ~。そして旧幕臣の誰よりも長生き(69歳)した。


nice!(0)  コメント(0) 

森まゆみ「彰義隊遺聞」 [幕末維新・三舟他]

morisyougitai_1.jpg 落語は古今亭志ん生、志ん朝。ブンガクは金剛寺坂から余丁町の永井荷風、化政期の牛込中町の大田南畝(蜀山人)。俳句は其角。東京生まれゆえ、東京の芸人、文人が好き。で、東京っ子てぇのは潜在的に薩長土肥による幕末維新ものを好かん。

 それが自転車で走りまわれば、さほど遠くない小石川・小日向に最後の将軍・徳川慶喜邸跡があり、大正2年まで愛車(自転車と自動車)まで持って暮らしていたと知って、いささか驚いた。 そこから本所の勝っつぁんこと勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟を経て「彰義隊」に行き着いてしまった。毛嫌いしていたが、どっこい江戸っ子や東京っ子の幕末維新史観というのがしっかりあって面白い。かくして森まゆみ「彰義隊遺聞」(2004年刊、2008年文庫)。

 前段が長くなったんで本題をはしょる。著者は下町の地域誌創刊。古老から彰義隊の昔噺を聞く機会が多かったのだろう。腰を据えた調査16年を経て同書を著した。あらんかぎりの文献・資料、古老らからの聞き書き、実際に彼方此方歩いて考察。「彰義隊」を語るに欠かせぬ労作・力作、立派な仕事。それでも著者は「明治30年代の山崎有信の著作を超えられるはずもなく」と調査に区切りをつけたと記す。

 谷中・根津・千駄木・・・はポタリング機会も多く、同著を読んだあとは彰義隊が遺した傷が見過ごせぬ。一冊購えば一冊捨てる蔵書せぬ信条も、同書は手許に置きたいと新宿ジュンク堂、馬場・芳林堂に走れど在庫なし。著者の芸術選奨新人賞受賞「鴎外の坂」もなし。DVD付き「美木良介のロングブレスダイエット」を購って帰った。

 翌日、「あぁ、ネット販売があるじゃないか」。アマゾンなどで同書古本1円から売りに出ていたが、三省堂書店お取り寄せサービスに依頼。昨日、神田まで走って定価入手。神田は27日~来月3日の「神田古本まつり」の準備で忙しそうだった。


nice!(0)  コメント(0) 

彰義隊落ち葉はらはら上野かな [幕末維新・三舟他]

syougitaihaka1_1.jpg 昨日、上野周辺ポタリング。写真は「彰義隊の墓」。今から143年前、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野戦争は半日で終わった。累々と放置された彰義隊士の遺体。

 三ノ輪・円通寺の仏磨和尚と侠客・三河屋幸三郎が新政府に火葬許可を乞い、266名の遺体を埋葬。山岡鉄舟による墓碑「戦死之墓」前に、「彰義隊之墓」と書かれた小石がある。これは明治2年に二人の住職がそれぞれの寺号より一字ずつ合わせた匿名で、密かにその地に埋納したものとか。

 そして明治7年、東京府に埋葬地に建墓願いが寛永寺から、旗本で剣豪の榊原鍵吉らから、彰義隊残士の小川椙太(興郷)らから出た。結局、小川らが建墓の任にあたり立派な唐銅の宝塔をもった墓を完成。しかし借金がかさんで債権者が宝塔を持ち去った。宗派を越えた再建計画をもって、現在の墓が完成。

syougihaka4_1.jpg 小川椙太は神田で剣術道場を営みつつ建墓、墓を守ってきた。氏が亡くなり、妻「りて」と娘「しか」が引き継ぎ、娘が先に亡くなって、姪「みつ」を養女にして、「みつ」と夫が茶屋(彰義隊資料室も併設)を設けて墓を守り、平成15(2003)年の「上野彰義隊資料室さよなら展示」まで、実に120年余にわたって小川一族が墓所を守り続けてきた。現在は墓を東京都が管理し、資料を台東区教育委員会が保管とか。

 他に「彰義隊の墓」は三ノ輪・円通寺(上野の遺骨一部を合葬。また弾痕夥しい黒門を移築。幇間になった土肥庄次郎をはじめ大島圭介など多数彰義隊士の墓がある)、そして台東区蔵前の西福寺にも。同寺の墓標は「南無阿弥陀仏」のみ。当時、寛永寺の山守をしていた高木秀吉(のち市村座座主)が、擂鉢山辺り(東京文化会館裏辺りにある前方後円墳)の132遺体を火葬して遺骨が納めたとか。(以上、森まゆみ「彰義隊遺聞」より) 間もなく彰義隊の墓に、143年目の落ち葉がはらはらと舞う・・・。


nice!(0)  コメント(0) 

彰義隊から幇間・松廼家露八(その2) [幕末維新・三舟他]

uenosennsou.jpg 昨日の続き。・・・吉川英治「松のや露八」は史実をねじまげたフィクション。森まゆみ「彰義隊異聞」の「幇間になった彰義隊士」の章には、松廼家露八が67歳のときに語った「身の上ばなし」が再構成・紹介されている。

 同章によれば、露八こと土肥庄次郎は弟・八十三郎が隊長として守る一番隊(黒門)に他の二人の弟と共に参戦している。だが吉川小説では、八十三郎は勤王派で桂小五郎に伝馬牢より救出されて官軍に加わったように描かれている。これには森も「いかな小説とはいえ、子母澤寛ならこうは書くまい」と記している。

 同章より土肥庄次郎の主な事実を箇条書きにする。まず、こう語り出している。「生れは天保の四年の巳でム(ござ)います。代々一橋家御家形附を命ぜられまして~」。祖父は土肥新八郎で御旗奉行、父・半蔵は御近習番頭頭。庄次郎が惣領で11人の子がいた。

 ★武術好きだった。剣術、柔術、槍術、馬術、弓道の各修行流派を語る。★19歳で母が死去。継母が気に入らず放蕩。講釈師になって寄席に出て父が激怒。(荷風さんに似ている)。廃嫡されて弟が家督相続人。★安政2年の大地震には家に戻ったが、遊女屋火炎玉屋山三郎の食客に。玉屋の幇間・荻江露友こと佐藤清兵衛のひきで同年5月に荻江正二(のち露八)で幇間に出る。★これまた父にわかって大阪で虎八の名で幇間。

 ★上野戦争が始まると、黒門を守る弟・八十三郎を隊長にした一番隊に参加。(写真は上野「彰義隊の墓」案内板掲載の黒門激戦図)。★戦い破れて飯能に逃げた後、咸臨丸に乗ったが大シケで駿河湾へ。清水の次郎長の厄介で旧主幕臣のいる静岡へ。同地で13年暮らした後に吉原に戻って幇間。師の荻江露八亡き後に、松廼家露八に改名。

 ★他に慶応4年、戯作者・仮名垣魯文に「ひきがえる」と陰口を云われてひと悶着。★明治6、7年に剣客・榊原鍵吉の撃剣会の呼出役を勤めるなど。

 ★明治36年に71歳で死去。辞世は「七十一歳見あきぬ月の名残哉/夜や寒き打ち収めたる腹つづみ」。土肥家代々の牛込・浄輪寺ではなく、遺言で同士の眠る三ノ輪円通寺でのお墓に葬られた。


nice!(0)  コメント(0) 

彰義隊から幇間・松廼家露八(その1) [幕末維新・三舟他]

matunoya_1.jpg さて、次は何処に走りませう。幕末維新関連で訪ね残るるは、上野寛永寺の弾痕残る黒門保存と、彰義隊戦死者眠る三ノ輪・円通寺。西に眼を見やれば田町駅近く、勝海舟・西郷隆盛会見の地と薩摩藩邸跡。ネット調べすれば、円通寺に「彰義隊から吉原・幇間になった土肥庄次郎の碑・お墓」在り。「むむっ、小説ネタじゃないか。誰かが書いている」と、閃き図書館検索すれば吉川英治「松のや露八」有り。徒歩数分の大久保図書館にあった。

 大衆歴史小説家・吉川英治は未読。読めばいかにも大衆小説。約5時間、一日で読了。氏は身体が丈夫ぢゃなかったか、息切れするように読点多用。以下、それを、真似して記す。

 土肥庄次郎は、一ツ橋家(慶喜)の、近習番頭取息子。小石川武島町、今の水道町2丁目生まれ。あたしんチから、自転車で15分ほど。どん臭い男で、13年もかかって、剣術免許皆伝。彼に渋沢栄一、榊原鍵吉、荻江節おっ師匠さんチの美人三姉妹が絡む。糸が切れたように、放蕩から勘当の身へ。桂小五郎が伝馬牢の勤王仲間を救い出す作戦に絡めば、逃亡するのは、弟の八十三郎。弟を追って、騒乱の京都へ。京で荻江節の流しで暮らせば、それを教えてくれた、美人姉妹に再会。深間のお蔦と長崎、博多、下関に流れる。馬関芸者で稼ぐお蔦は、奇兵隊の男に惚れる。そんな流転・痴情から、江戸に戻って、彰義隊に参加。

 一夜で敗退した彰義隊。榎本の軍艦で、函館に逃げるつもりが、駿河湾に漂着。そこは、すでに徳川家一統が移り住んでい、彰義隊くずれは、江戸派にも相手にされず。「べら棒め、いってぇ、何のために戦をやったんだ」とぼやく他にない。しかたなく、江戸に戻って荻江節で、吉原の幇間になった、という物語。おもしろおかしい大フィクション。

 さらに、ネット検索すれば、荘司賢太郎さん「せんすのある話」が荻江流長唄、松廼屋露八の、史実詳細調べのエッセイ掲載のサイトに出逢った。これは、小説に比し、読み応え十分。

 さらに「いかな小説とはいえ、子母澤寛ならこうは書くまい」と吉川英治の同小説に暗に噛みついているのが森まゆみ。こちらは松廼家露八本人が67歳のときに語った「身の上ばなし」を紹介。この記を読むと、同小説がいかに史実を歪めたフィクションかがわかる。明日は(その2)を記す。


nice!(0)  コメント(0) 

宮さん宮さんお馬の前に~ [幕末維新・三舟他]

arisunomiya_1.jpg 本棚の「昭和流行歌史」の冒頭、<昭和前史>に掲載される歌が『宮さん宮さん』(トンヤレ節)だ。 ♪ 宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか~

 6番まで続く。以下、気になる歌詞を抜粋。<手向いする奴を覗(ねら)い外さずどんどん撃ちだす薩長士> <おとに聞えし関東武士(さむらい)どっちへにげたと> <薩長士の先手に手向いする故に> 長州藩の品川弥二郎作詞、大村益次郎作曲。いや京都祇園の芸者が作曲という説もあり。東征軍は、本邦初の西洋音楽の同曲を歌いながら江戸を目指して行進した。我が国最初の流行歌で、明治25年に小学校の教材掲載。薩長嫌いの江戸っ子たち、奥羽越列藩なじみの方々も、歯ぎしりして悔しがったに違いない。

 その「宮さん」が、有栖川公園に建つ銅像・有栖川熾仁親王。台座も高く聳えるような威圧感。案内板に、こう記されている。・・・有栖川熾仁親王(1835~1895)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され~

 戦歴や官職など興味ないから引用はここまで。ともあれ西郷隆盛(参謀)の東征軍・大総督が有栖川宮。宮さんは仁孝天皇の皇女・和宮と万延元年に挙式予定も、幕府は朝廷との融和目的して、和宮を将軍家茂に御降嫁。宮は幕府への憎悪を胸に江戸へ向かったに違いない。西郷隆盛、勝海舟、輪王寺宮、有栖川宮、(靖国神社の大村益次郎像は割愛)と続いた明治維新の銅像巡りはこれにて終了。「幕末シリーズ」は上野・大雄寺の高橋泥舟の掃苔を残すのみ。


nice!(0)  コメント(0) 

吉村昭「彰義隊」と「たい焼き」 [幕末維新・三舟他]

rinnoujimiya_1.jpg 北の丸公園の東京国立近代美術工芸館(赤レンガの旧近衛師団司令部)隣に、こんな立派な銅像在り。都心には誰だかわからん(小生には)軍人や財閥系銅像が多い。この銅像、誰だかわかります? 案内板には概ねこう書かれている。

 北白川宮久能親王銅像 伏見宮邦家の第九皇子として御誕生。輪王寺宮を相続。上野寛永寺の門跡となられる。明治3年に還俗して伏見宮に御復帰。ドイツに留学して兵学を学ばれ軍籍に就かれて活躍云々~。

 実はこの方、彰義隊の冠、あの輪王寺宮。吉村昭「彰義隊」には上野の彰義隊が敗れた後の、宮の逃亡行が詳細調査をもって小説化されている。討幕軍の大総督は有栖川宮熾仁親王で、参謀は西郷隆盛。徳川慶喜は恭順の姿勢を示して江戸城から上野寛永寺で謹慎。同山主が22歳の輪王寺宮だった。討幕軍に慶喜の寛大処置を嘆願するに絶好の人材で、山岡鉄舟らの説得で宮は京行きを決意。駿府城に入った有栖川宮に嘆願するも、和宮を徳川に取られた有栖川宮は憎悪むき出し。まぁ、結局は西郷と勝海舟、山岡鉄舟らの交渉で江戸城無血開城、慶喜の処遇が決定。

syougitai_1.jpg 江戸に入った薩長らの狼藉に、勝は上野の山に屯集の彰義隊に江戸の治安巡回を指示。江戸っ子は彰義隊に喝采したが、大総督府はこれに危機を感じた。勝に解散を命じるが、輪王寺宮側は聞く耳持たず。かくして長州・大村益次郎が大砲をぶち込んで一夜決着。彰義隊と共に宮の逃亡が始まった。

 宮一行は大洪水の下町を中根岸、三河島村、上尾久村、さらに浅草・東光院から市ヶ谷・自証院、鉄砲洲の回漕問屋の松阪屋、ここから榎本武揚率いる海軍の「長鯨」に乗って平潟に逃亡。今度は奥羽越列藩同盟に祀り上げられて会津、米沢、仙台城へ。敗戦相次ぎ、宮はついに帰順を決意。京都の生家・伏見宮屋敷で謹慎。さらに敵対した有栖川宮の屋敷へ。

 宮はたまらず海外留学を直訴。プロシア(ドイツ)留学が決定し、6年経て明治10年にドイツ陸軍大学校を卒業して帰国。この時、31歳。戸山ヶ原の陸軍学校に入学後、近衛師団を率いて台湾へ。同地でマラリアによって薨った。吉村昭の著には書かれていないが、多くのサイトには留学中にドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約し、「なにを馬鹿なことを考えているんだ」と政府に叱責されたと書かれている。出典がないが、どの資料にその記述がありましょうか。ともあれ数奇、波乱の人生を歩まれた。

 ★自転車で北の丸公園へ行った際に、四谷に寄って「わかば」のたい焼きを購った。人形町「柳家」のたい焼きよりズシリと重い。それだけあんこ量が多い。「自転車こぎこぎ」の伊藤センセイもポタリング途中で「わかば」でたい焼きを食い、木村荘八や安藤鶴夫を語っていた。「たい焼き御三家」あとは麻布十番「浪速屋総本舗」。麻布へ行けば有栖川宮公園。ここに有栖川宮熾仁の銅像。たい焼きと宮家の軍人、妙な取り合わせになってきた。


nice!(0)  コメント(0) 

石神井の長屋門抜け勝になり [幕末維新・三舟他]

katuyagayamon1_1.jpg ツーキニストなら日々自転車に乗ろうが、隠居ゆえ何か目的を作らないと自転車に乗れぬ。今まで鳥撮りに行った都内公園へ自転車を駆ってみましょうか。ってんで石神井公園に向かった。すでに新青梅街道を走って公園直前で暗雲に引き返したことがある。同街道は道狭く走り難い。そこで昨日は、目白通りで石神井公園に走った。環八を越えてガスタンク前を右折すれば「光が丘公園」。もうちょい先の富士街道に入れば石神井公園で約14㎞、1時間だった。

 鳥撮りが「オナガガモ、ハシビロガモが入った」と言った。冬鳥状況を得た後は、もうひとつの目的、赤坂の勝安房邸の屋敷門(長屋門)が三宝寺に移築(写真)されているとかで、それを見たかった。「おぉ、長屋門をくぐって参られたか。おぬしも勝海舟になられましたなぁ。えぇ、この長屋門は勝邸後に3、4回も彼方此方に移築されて、壊すしかないという段階でここに移築したんです」とお寺さんの説明。

 三宝寺の隣は石神井城主・豊島氏の菩提寺「道場寺」。太田道灌との闘いに敗れた豊島氏の娘・照姫が三宝池に身を沈めた歴史小説を読んだことがある。徳川以前の歴史。その意では江戸もまた三河・尾張の徳川に占領され、薩長土肥に占領された地だった。


nice!(0)  コメント(0) 

江藤淳「南洲残影」「南洲随想」 [幕末維新・三舟他]

saigobon_1.jpg 新大久保生まれ。愛犬はコッカースパニエル。1996年に「荷風散策」を発表。親しみを感じないわけでもない氏の「海舟余波」を読んだ後に、その24年に著した「南洲残影」「南洲随想」を読むのも筋だろう。

 著者は、政治的人間として一度も失敗しなかった勝海舟が、政治的人間として大失敗した西郷南洲を追慕してやまなかったのは何故か・・・を探っていく。海舟は南洲戦死後、人知れず南葛飾郡上木下川の浄光寺境内に「西郷南洲の留魂祠」を建てている(海舟亡き後は、洗足池の自身の墓の隣に移動)。綿密な戦略家の西郷が、何故にかくも杜撰な西南戦争を展開したか。欧米留学を経て近代世界を知った知的青年らが西郷を慕って死に向かったのは何故か・・・。

 西郷は西南の役にあたって「拙者儀、今般政府へ尋問の廉有之(かどこれあり)」と立った。「明治維新をそんなふうにやっていたら、日本はだめになる」と言いたかったのだろう。このへんを私流に記せば・・・西洋に追いつけ追いつけで、日本語を棄て英語をと言った森有礼や、日本語を棄てフランス語をと言った志賀直哉、さらにはローマ字運動など、日本が培ってきた文化を棄ててまで西洋化の道を歩もうとしたと同じ過ちで、明治政府が走り出したことへの「尋問の廉有之」だったように思われる。ここには西洋を知って西洋化に走る派と、西洋を知って日本ならではの良さを知った派の深い溝がある。加えて明治政府を私欲の場にした偽善者ら。比して勝も西郷も「無功亦無名」が信条。

 こう記せばすっきりするのだが、江藤淳は妖しい方向に舵を切る。田原坂の戦跡に見つけた蓮田善明の文学碑より、蓮田が16歳の三島由紀夫を見出し、蓮田・三島・西郷の自裁の宿命を見つめる。西郷も若き青年たちも滅亡を求めて挙兵したに違いない。ひとつの時代が終焉を迎えるときは、行動を興す者も瓦全(なにもしない)者も、結局は一切滅亡あるのみ。勝も徳川の滅亡を求めたが、滅亡の美学上では西郷の全滅には遠く及ばない。ゆえの追慕だったのではなかろうかと・・・。

 江藤淳は「南洲随想」のあとがきを愛妻が不帰の人となった翌日に記し、翌1999年7月21日に自ら形骸を断ずると自刃した。そこに滅亡の美学がなかったとは言い難い。


nice!(0)  コメント(0) 

上野の西郷さんの銅像に・・・ [幕末維新・三舟他]

saigouzou2_1.jpg 江藤淳「南洲残像」「南洲随想」を読んだので、自転車で上野の西郷像を見に行った。動物園に通った子供時分に何気なく見た西郷像を、しげしげと見上げたのは初めてのこと。

 西郷像は、彰義隊の墓の隣にあった。幕末維新ものの俄か読書の頭では、なぜここに西郷像が建っているのかわからない。彰義隊には勝海舟も山岡鉄舟も西郷隆盛も手を焼いたとかで、それを長州の大村益次郎が禁断のアームストロング砲をぶち込んで、一瞬に壊滅させたとか。その大村益次郎銅像は靖国神社に聳えている。

 西郷像は江戸城無血開城で江戸を戦禍から救ったことが建立由来だろうが、それなら江戸っ子は勝海舟に感謝が筋だろう。その海舟像は今から8年前に墨田区役所の隅田川沿いにやっと建った。勝海舟は西郷が西南戦争で亡くなった直後に、人知れず南葛飾郡上大下川の浄光寺の境内に「南洲西郷先生留魂祠」を建立。勝は遺言によって洗足池畔に自身の墓を、その隣に留魂祠も移している。(下写真)

saigoryukonsi_1.jpg 上野の西郷像由来にこう記された一部あり。「・・・征韓論が閣議に上るや(西郷は)断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し~」。おやぁ、読んだばかりの圭室諦成著「西郷隆盛」とは真逆記述なり。こっちの記述はこうだ。「西郷はうかつにも山県有朋の口車にのせられて徴兵制発布に賛成してしまった。ここに西郷の悲劇が始まる。封建的土地所有の再編成を要望する鹿児島士族団は、軍人を士族に限定することが絶対に必要で、彼は鹿児島士族団につきあげられて征韓論に狂奔せざるをえない立場に追い込まれた。それで征韓戦争誘発のための遣韓大使を望むが・・・」

 とまれ、彰義隊も西南戦争も王政復古、廃藩置県、さらには新政権に群がって私欲を貪った輩や江戸で狼藉の輩への、総じて新時代へ切り替えに不満を抱いた士族の哀しい結末だろう。幕末維新の理解は、隠居の頭ではなかなか理解覚束ぬ。若い頃に勉強しておけばとよかったと反省するが後のまつりよ。


nice!(0)  コメント(0) 

本所の「勝っつぁん」巡り [幕末維新・三舟他]

katuseitanti2_1.jpg 両国橋を渡ってすぐの回向院。ここからちょっと東に行った所(本所松坂町・現両国3丁目)に「忠臣蔵」の吉良邸跡がある。さらに東に両国小学校角に「芥川龍之介文学碑」。その東奥が剣聖・男谷精一郎宅跡の両国公園(旧本所亀沢町・現両国4丁目)。ここの片隅(写真)にひっそりと「勝海舟生誕之地」石碑が建っていた。書は西郷隆盛の嫡男・寅太郎の三男で、佐藤内閣の法務大臣・西郷吉之助。

 勝海舟の祖父・平蔵が3万両で株を買い取って千石取りの男谷家を継ぎ、平蔵の三男・小吉が、支配勘定の勝家の一人娘・信子の養子になったが、実際は男谷家に仮住いしてい、勝はここで生まれ育った。男谷一族に大奥に上がっていた女性が二人いて、その一人がお茶の局で御本丸の呉服の間勤め。お茶の局に連れられてお庭を拝見した際に、将軍家斉の眼に止まって、初之丞(12代将軍・家慶の五男)の学友に。勝は7歳から大奥へ。

kaisyuuoi_1.jpg 勝9歳の時に、野犬に金玉を噛まれて生死をさまよう。無頼の小吉だったが我が子への愛情は深い。水垢離で妙見堂詣でをし、連日ハダカで勝を抱き寝して命を救った。病床70日で全快。その妙法堂が、ここより三ッ目通りを北に走った本所4丁目にあり「勝海舟翁像」が建っている。石碑にこう記されていた。「勝海舟九歳の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ勝海舟の偉徳を永く後世に傳へるために地元有志に依ってこの胸像が建てられた」。勝っつぁんは金玉の傷も癒えて、再び初之丞の学友となって将来が期待されたが、初之丞の急逝で御殿を去って剣術と勉学へ。

 勝海舟の像はこの妙見堂のみだったが「江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄に感謝せねば・・・」と、今から8年前、2003年7月21日に有志基金によって墨田区役所の広場に立派な銅像が建てられた。(以上、半藤一利「それからの勝海舟」、勝部真長「勝海舟」より)。 さて、今度は自転車でどこに行きましょうかねぇ。

sumidakatu_1.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

諸田玲子「お順」(昨日の続き) [幕末維新・三舟他]

sumidakatu1_1.jpg 昨日は中チャリを駆って本所界隈から墨田区役所へ彷徨った。30㎞、5時間のポタリング。写真は墨田区役所の裏側、隅田川沿いに8年前に建てられた勝海舟像。「いよぉ~、いい男!」

 で、諸田玲子「お順」の続きを記す。お順が嫁いだ佐久間象山が国元蟄居となり、静かな信州松代の生活を始めたところで、同書唯一、35字の野鳥記述あり。「キーコーキーコーという斑鳩の声やキョッキョッという啄木鳥の声で目覚めた」。季節は十一月。

 鳴き声表記は微妙で、イカルは長音二音の繰り返しより複雑な囀り(野鳥本には「お菊二十四」」「フィロソフィー」と囀るとある)だと思うが、まぁ間違いではないだろう。しかし「鳥=囀り」とは限らぬ。この時期のイカルは地に落ちた実を噛み砕くパチパチという、実のはぜるような音を発す。数羽ではなく50、100羽の群れが一斉に発するその音は、一度聴いたら忘れぬ。「大寒やイカル群れ来てはぜる音」はあたしの拙句。大寒(1月20日)に小金井公園に行くってぇと、イカルの大群とこの音に出逢える。鳥撮りとしてはイカルの群れの中に混じる希少種のコイルカ狙い。そして啄木鳥。キツツキ科は10種を超えるが、キツツキもまた囀りより木を突くカンカン、コンコンなどの音が特徴。森の中を耳を澄ませて、その音を頼りにキツツキ探しをしたりする。著者は期せずして囀りより他の音に特徴を有する鳥を選んだ。野鳥は机上描写ままならずってこと。

 話を戻そう。象山が京都で斬殺された後、お順は赤坂元氷川の勝海舟邸で過ごしながら、象山の仇、長州武士を討ちたく、山岡鉄舟の配下で居合抜きの剣豪・村上俊五郎に惚れる。この男、とんでもない奴だった。酒乱で女ったらし。未亡人・お順は仇討か身悶えか曖昧な事態に陥る。勝安芳邸に移っても、亭主面して金の無心絶えず。ラストシーンはあの大銀杏を見上げながら老いた勝とお順・・・。

 いやはや、本当に面白かった。著者の筆力で一気に読ませる。著者は生まれも育ちも静岡市。「あとがき」で実家の裏の蓮久寺にお順の墓があり、父方の祖先が勝親子と親しくつき合っていた事がわかったと記す。今まで好きでなかった勝海舟がスゴイ人だとわかったとも書いていた。半藤一利さんの“勝っつぁん” 好きが著者にも移ったようだ。「サンデー毎日」連載で、昨年2010年12月、毎日新聞社刊。


nice!(0)  コメント(0) 

諸田玲子「お順」~勝海舟の妹と五人の男 [幕末維新・三舟他]

ojyun_1.jpg 勝海舟関連本を読んだら、図書館で同書が眼に入った。上下巻の上巻のみ。読みだしたら面白くて一気読了。しかし下巻が貸出中でなかなか読めぬ。日曜日にやっと手にして一日で読了。面白かったなぁ。なぜか・・・。今まで読んできたのが史実書で、頭にたたみ込まれた人々が、時代小説でにわかにイキイキと動き出したからだ。時代小説は史実書を先に読んでからが愉しいようでございます。

 赤坂の勝安芳邸の屋敷図面に、広大な庭にポツンと「お順」家屋があった。小説を読むと、そこに明かりが灯って、おきゃんな娘時代に剣豪・島田虎之助に恋心を募らせ、佐久間象山の妻になり、未亡人になって女ったらしの村上俊五郎に身悶えたお順の息遣いが聞こえてきた。諸田玲子、さすが也。

 諸田玲子「お鳥見女房」シリーズでは、鳥見役の女房が主人公ながら肝心の鳥の描写がなく、思い出したように鳥の記述が出てくれば、コマドリが雑司ヶ谷の欅の股に営巣するなどの間違い記述があったりして、それが機でこのブログでも将軍~鷹匠~鳥見役~鳥刺し、また御鷹部屋調べ、江戸の野鳥や飼鳥調べなどをした経緯がある。

 それはさておき、「お順」はやはり面白い。書くことを薦めたのは勝海舟を“勝っつぁん”と呼ぶ半藤一利だったとか。著者は勝っつぁんの13歳下の妹・お順の生涯を描きつつ兄・海舟を、父・小吉と母・信を、海舟の妻・お民を、さらにはお順からみた幕末維新の激動を描いていく。物語の主軸はお順の男遍歴。おきゃんなお順は、兄の従兄で聖剣・男谷精一郎の直心影流道場の兄弟子・島田虎之助に恋心を抱く。剣は凄いが野暮天の虎之助。やっと恋が実りかけたところで虎之助が急逝。この辺は史実を壊さぬ範囲でのフィクションならの面白さ。

 お順は傷を癒すように兄が砲術を習う異相・異能の自信家・佐久間象山に嫁ぐ。象山には子を産んだ側室・お蝶がいたが、妻女として佐久間家を盛り立てる。日夜欠かさぬまぐわいだが子は出来ぬ。やがて吉田寅次郎の密航事件に連座して国元蟄居。江戸を離れるシーンでは、読み手を中山道の旅に共に誘う筆力で、またまた「うまいなぁ」と関心した。そう思ったところに野鳥が出てきた。今度はイカルとキツツキだ。(長くなったので、また明日)。


nice!(1)  コメント(0) 

勝海舟旧居巡り(2) [幕末維新・三舟他]

katuabouato1_1.jpg 勝海舟旧居巡り(1)は、赤坂元氷川の「勝海舟邸」。次は駿府暮しを経て再び赤坂に戻って“終の屋敷”となった「勝安芳邸」へ。さて、どこにありましょう。同邸は後に東京市に寄付~氷川小学校~廃校~特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザになったとか。

 迷いつつも同施設に辿り着いたが石碑が見当たらない。施設スタッフが施設右角の緑の中の石碑と案内板を教えて下さった。石碑は「史蹟 勝安芳邸阯 勝海舟伯終焉の地」。案内板には「施設内に屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示」とあったが、開館前ゆえに石碑確認のみ。

 帰宅後に改めて勝部真長「勝海舟」をひもとき、赤坂元氷川邸からの歩みを整理した。元治元年に軍艦奉行になって「勝安房守(あわのかみ)」(千葉の安房とはまったく関係なし)。明治元年に徳川慶喜の駿府暮しに従う。名を「勝安芳(やすよし)」に改名。明治政府から要職を仰せつかるが辞退を繰り返し、明治4年の廃藩置県で藩への義務が解け、明治5年に海軍大輔に就任。土地の売買が自由になって旧「勝海舟邸」近く、赤坂氷川町4の大旗本・柴田七九郎邸(2500坪)を5百両で購い、5百両で改修して腰を落ち着けた。半藤一利「それからの勝海舟」には、この地はもともと浅野内匠頭の屋敷で、それが松の廊下の刀傷で没収され、五千石の旗本屋敷になり、その旗本子孫から買い取った、とあった。勝っつぁんはここで49歳から76歳で亡くなるまで暮らした。★(追記)あららっ、昨日の勝部真長「勝海舟」掲載の古地図だが、ここにある「柴田松之丞」邸(地図の中央やや上)が、勝が買い取った「柴田七九郎」の親のような気がする。位置的にも間違いなかろう。これ、勝部さんが見落とした新発見かも。

sibatatei.jpg 勝部真長「勝海舟」序章で、著者は海舟の孫(お糸さんが産んだ逸さんの子)から勝邸の暮し詳細を訊いている。妻妾同居に加え、邸内に画家・川村清雄のアトリエ、徳富蘇峰・蘆花兄弟が住み、石碑傍の大銀杏がもっと後ろの裏門辺りにあり、勝の葬儀の記憶と写真、さらに立派な長屋門が今は石神井の三宝寺に移築されていることなどが紹介されていた。また「勝安芳邸」脇にホイトニー赤坂病院」「教会」があり、これはクララの兄のウイルスが英国で学位をとって設けた病院と教会とあった。これらは何時まであったのだろう・・・。

 あたしはデスクワークが主の“居職”で出歩くことが少ないが、24歳の時に勤めたPR会社が赤坂で、友人のカメラマン事務所、フォトエージェント、プロダクションが赤坂にあり、TBSや昔のディスコメイト(アバや因幡晃が所属)、コロムビアでの取材などそこそこに赤坂に通ってきた。しかし乃木坂通りと六本木通りに挟まれた一画を歩いたのは今回が初めて。そんな未知の界隈を巡るのもポタリングの愉しみ。涼しくなったら両国公園の勝海舟生誕地、吾妻橋の区役所うるおい広場の銅像を見に走ってみましょうかねぇ。


nice!(0)  コメント(0) 

勝海舟旧居巡り(1) [幕末維新・三舟他]

katuteisiseki_1.jpg 勝海舟「本」読了で、酷暑ん中を中チャリを駆って赤坂の勝旧居巡りをした。赤坂山王下から乃木坂を上がって赤坂五丁目交番を左折。さて、この辺のはずだがとポケットから地図を取り出せば、目の前が「勝海舟邸跡」だった。濶部真長「勝海舟」と詳細史跡案内板を参考に、以下を記す。

 勝海舟は、19歳で剣聖・男谷精一郎(従弟)の本所道場より免許皆伝。剣術の次に熱中したのが蘭学。赤坂溜池の黒田藩邸の蘭学者・永井青崖より学んだ。23歳で2歳年上の深川芸者お民さんと結婚。永井先生の許に通い易くと赤坂田町中通り(現・みすじ通り)のあばら屋に所帯を持った。極貧生活をお民さんがよく支えた。本所の勝っつぁんが、ここから赤坂の勝っつぁんになる。安政6年、37歳で赤坂元氷川に移転。氷川神社の裏で盛徳寺の隣。ここが写真の地。「THE GABY」なる店の角を曲がったところに「元氷川坂」の案内柱あり。

 勝部真長著「勝海舟」では、この地より数分の49歳から亡くなるまで住んだ「勝安房邸」での暮らしを紹介した章に同邸家屋図面と、それ以前に住んでいたこの勝海舟邸の古地図が掲載されていて、なんとも紛らわしい。この古地図(下写真左)と現在住所表示を比べてみると、昔も今もあまり変わっていないのがわかる。実際に訪ねてみると、わからぬこともわかってくる。次はその終焉の地へ。

katuteikotizu_1.jpghaisyutei1_1.jpg


nice!(1)  コメント(0) 

「勝海舟」それぞれの三作 [幕末維新・三舟他]

katukaisyupon_1.jpg ひょんなことで幕末維新本を読むことになった。ポタリングで徳川慶喜の終焉の地に出逢って、そこから幕末維新の三舟へ。7月末から8月16日までに以下を読了した。

 松本健一「幕末の三舟」、山本兼一の鉄舟小説「命もいらず名もいらず」、そして写真の海舟三冊。頭ぁくたびれた。

 まず「それからの海舟」は半藤一利。昭和5年生まれの、東京は向島生まれ。「文藝春秋」編集長など歴任後に作家。氏の「荷風さんの戦後」を読んでいるから、なんとなく気ごころがわかる。氏は同書で勝海舟を“本所の勝っつあぁん”と記す。薩長嫌いの江戸っ子にお勧め。

 「海舟余波」は江藤淳。全集から「勝海舟論集」で読んだ。江藤淳は昭和7年生まれの大学教授で文藝評論家。平成11年に自ら形骸を断ずると世を去った。我が街・大久保は百人町生まれ。コッカースパニエルを愛した。我が家にも亡き愛犬・コッカーの遺影が飾られていて、やはり親しみが湧く。勝海舟が直面したさまざまな難局判断を分析して評価している。読んでいると、こっちの頭も明晰になってくる。

 「勝海舟」(上下)は勝部真長(みたけ)は、江藤淳らと「勝海舟全集」を共同編集したお茶の水女子大の名誉教授。大正5年、東京生まれ。同書は小説ではなく勝著作・関連書を引用しつつ勝海舟の生涯を紹介。小説なら一気に読めるが、引用構成で読むのにいささか疲れた。しかし勝の全生涯を調べきった超労作。

 疲れた頭を癒しに、中チャリで赤坂の勝邸(二つ)巡りポタリングでもしましょうか。


nice!(0)  コメント(0) 

泥舟と鉄舟のお隣同士旧居跡 [幕末維新・三舟他]

nisyuuato3_1.jpg 昨日のこと。中チャリをちょっと乗ってみたく、炎暑をついて小石川・播磨坂まで走った。速度計を付けたら、やはり時速24㎞ほど。小チャリより10㎞早い。

 播磨坂には何度も行った。小石川植物園への道だし、春は桜並木が見事。だが、坂の上に「高橋泥舟・山岡鉄舟の旧居跡」があるとは知らなかった。何事も関心がなければ、何も気付かぬってこと。史跡案内には概ねこう書かれていた。

 下図は高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷。高橋家は享保5年、山岡家は文化8年以降この地に移り住んだと思われる。泥舟は槍術の大家・山岡静山の弟で、母の実家の高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身だが、泥舟の妹・英子と結婚し、山岡家を継いだ。~中略~ 泥舟は徳川慶喜の身辺警護に当たり、鉄舟は勝海舟の使者として駿府の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城の道を開いた。海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。そして丁寧にも当時の地図も紹介(写真下)されていた。

 帰りは庚申坂を下って切支丹坂を上り、江戸川橋に出て帰還。多少寄り道して往復10㎞、消費カロリー107.6キロカロリーなり。

nisyuato1_1.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

勝海舟の女たち [幕末維新・三舟他]

 連日酷暑。熱中症で何人倒れ、何人亡くなった・・・が日々報じられている。クーラーの効いた部屋で読書する他なし。8日のブログで、勝海舟の本当のお墓はどこにあるんでしょう、と記した。勝の赤坂氷川邸には妻と子と孫と、さらに妾とその子や居候らの大所帯で、“にわか勝っつあぁんファン” には誰が誰だかわからぬ。ここ一ヶ月に関連本・・・松本健一「幕末の三舟」、山本兼一「命もいらず名もいらず」、半藤一利「それからの海舟」、江藤淳「海舟余波」を読んだが、さらに勝部真長「勝海舟」を読書中で、ここから下世話に、まずは勝っつぁんの女性関係から整理してみた。

 まず勝っつぁんは23歳で深川芸者だった二つ年上の「お民さん」と結婚。極貧生活だったが、ずばぬけてよくできた女房で、勝を支えつつ二男二女を産んだ。長男は小鹿、長女はゆめ、次女は孝(たか)。勝っつんは小鹿13歳の時に、私費で学友二人を添えて渡米させた。小鹿はその後、官費留学となって明治10年にアナポリス海軍大学校を卒業し、英仏に渡欧後に帰朝。海軍関係ポストを歴任するも、勝70歳の時、明治25年に40歳で死去。偉大な親のプレッシャーを背負い続けた人生だった。小鹿さんのお墓は青山墓地。

 勝家の跡取りがなくなって、勝が亡くなる直前に小鹿の娘(孫)の伊予子さんに徳川慶喜の11男、12歳の精(くわし)さんを婿にして「勝静」とした。静さんは慶喜公の血を受け継いでスポーツや物作り好き。伊予子との間に一男五女を設けつつ、自宅の鉄工所で1000CCのバイクを作ったり(鉄工所メンバーが後にあのメグロを作った)、オリエンタル写真工業、浅野セメント、石川島飛行機製作所などの重役を歴任。しかし伊予子さんが亡くなった後に、愛人・水野まささんと妾宅を設け、昭和7年、44歳でカルモチン心中。静・伊予子夫妻のお墓は勝家ではなく、谷中の慶喜公の向かい側で眠っている。

 時代を戻す。勝っつぁんは小普請組から抜け出して懐が豊かになるに従って好色の虫が騒ぎだす。まず長崎伝習所時代(34歳~)に、梶久磨(お久さん)を愛人にする。お久さんは14歳で、すでに未亡人。勝っつぁんはロリコンかと思ったが、当時はこんな年齢が普通だったんですね。二人は一男一女を設けるが、女児は亡くなって梅太郎が育つ。お久さんは梅太郎出産の2年後、25歳で死去。長崎の聖無動寺で眠っている。梅太郎はその後、勝邸で生活し、勝が支援した商業講習所の初代校長ホイットニーさんの長女クララさんと結婚。6人の子を産むが、勝っつぁん死後に離婚。クララさんは帰国し、後に「クララの日記」(講談社)が昭和51年に出版される。勝っつぁんには蒼い眼の6人の孫がいた。

 勝っつぁん38歳、安政7年の咸臨丸渡米前に、増田糸「お糸さん」に手を出し、帰朝後にお糸さんは勝の三女・逸子さんを産んだ。お糸さんは気遣いとおしとやかさを有し、勝のお気に入り。勝の身の回りを世話して、勝臨終にも付き添った。お糸さんが産んだ逸子さんは、大蔵官僚・目賀田種太郎に嫁して男爵夫人となった。お糸さんは我が子・逸子さんを「お嬢さん」と呼び、民夫人も自分の娘のように育てて、逸子さんは長じるまでお糸さんが本当の母とは気付かなかったとか。お糸さんは勝家でも特別な存在で、青山墓地の勝家のお墓で眠っている。

 勝っつぁんは、5歳から赤坂氷川邸にきていた森田米子・お米さんにも手を出した。お米さんは洗足池の別荘や日光東照宮お参りなどに同行。お米さんは18歳まで氷川邸にいて、後に木下川の梅屋敷の別荘管理をした。お米さんは「女史」と言った感じで、時に梅屋敷から赤坂氷川邸に来ると孫たちは「およねが来る」とちょっと緊張したとか。

 勝っつぁんはまた62歳の時に、揮毫の際の手伝いに来ていた近所の旧幕臣・清水家の娘「とよさん」にも手をつけて、妙子さんを産ませている。とよさんはその後に暇をとって香川家に嫁して香川とよ。妙子さんは、上記のお米さんが梅屋敷で育て、そこから学校に通わせた。

 勝っつぁんは氷川邸で働く女性に手をつけるのが癖のようだ。赤坂氷川邸は冒頭で記した通り大所帯で、その台所方を一手に引き受けて、超多忙な小西兼子(お兼さん)にも子供を産ませている。お兼さんは、勝邸では台所仕事の他に、佐久間象山未亡人の瑞枝さん(勝の妹の順子さん。すでに13歳のお蝶さんのほか、お菊さんも妾にしていた象山42歳に順子さんは17歳で嫁いだ)の相手もしていたとか。なお、お兼さんの子は、後の岡田義徴(七郎)。なおなお、諸田玲子「お順」がえらく面白い。

 勝海舟の妻妾同居には、こんな理由もあるとか。江戸の武士は公務以外は外泊禁止が原則。勝は在宅の印、玄関に高張提灯をたてることを怠らなかったとか。ゆえに氷川邸の女子に手を出し、そのまま同居。すべて民夫人の度量の大きさあってのこと。

katukenohaka_1.jpg 勝家の本来のお墓は、新宿の赤城元町の清隆寺。明治維新の駿府移転で両親の勝小吉・お信の墓を静岡・蓮永寺に移したが、明治28年に清隆寺から青山墓地に移動。ここには小鹿さんと妻の栄子さん、お糸さんらが眠っている。お民さんは、もう勝っつぁんのそばは嫌で、小鹿のそばがいいと青山墓地に眠っていたものの、勝が洗足池畔の墓に入って、お民さんもここに移されて夫妻の墓になった。しかし、夫妻のお墓は子供らがよじ登るなど公園化されてい、子孫が別のお墓に遺骨を移したとネット記述があった。★追記:写真は平成28年春の青山霊園のお墓。昭和28年7月改修とあるが荒れていた。脇に「増田糸之墓」だけがあった。

★井上遠遊様より質問をいただきました。コメント機能がうまく使えませんので、ここで返答させていただきます。この文を記したのは3年前で記憶が薄れつつありますが~。「お民さんが勝っつあんの墓に入るのはイヤだ云々」は、同年8月8日のブログで「洗足池畔の勝海舟のお墓」(マイカテゴリー「幕末維新・三舟他」で記しています)を訪ねた際の記事で、その文については半藤一利「それからの海舟」からと記していますから、引用元は同書に間違いないと思います。半藤一利氏の同書巻末に参考書一覧があれば一次資料(文献)先もわかるかもしれません。

★この記事で小生が読んだ本(引用元)を列挙していますが、他には半藤一利氏に薦められて書いたとかの諸田玲子「お順」も読みました。以上の他には自転車で勝海舟史蹟巡りをした際の案内板などで得た知識が小生の「勝海舟関連の全知識」ですから、以上のいずれからの引用です。一次的資料(古文書)による記事ならよかったのでしょうが、そこまでの文ではないことをお詫び致します。


nice!(1)  コメント(0) 

洗足池畔の勝海舟のお墓 [幕末維新・三舟他]

katunohaka1_1_1.jpg 炎暑が途切れた8月初旬、小チャリを駆って洗足池の勝海舟のお墓へ。このポタリングは後日に記すとして、まずは“勝っつぁん”のお墓について。

 半藤一利「それからの海舟」を読んだが、そのエピローグが「洗足池の墓詣で」。半藤先生は向島生まれの江戸っ子で薩長嫌いだ。プロローグ「本所の勝麟」ぶらぶら記・・・でこう記す。「幕末における薩長は暴力組織以外のなにものでもないと思っている」。ゆえに「官軍」とは言わず、一貫して「西軍」と記す。幼児期より祖母の「高位高官だと威張っておるが、薩長なんてのは泥棒そのものだて」と聞かされつつ成人したと述懐。明治の夏目漱石や永井荷風の薩長嫌いをしっかり受け継いだ昭和生まれ。ゆえに“勝っつぁん”と親しみを込めて呼ぶ。

katunokao_1.jpg 大久保百人町生まれの江藤淳も勝海舟好きで、その「海舟余波」は有名。半藤っつぁんの同著はこの「海舟余波」を意識して「プロローグ」で始まり「エピローグ」で終わる同じ構成になっている。半藤版「海舟余波」といったところか。さて半藤っつぁんは冒頭に記したように「エピローグ」で梅雨の晴れ間に池上線に乗って洗足池に行ったと記している。向かって左に「勝海舟室」と書かれたお民さんの墓。長年の妻妾同居の生活に耐えて、死んだら息子・小鹿の傍に眠りたいと青山墓地に入っていたものを、誰が不細工したか夫妻で並ぶ墓に相成る経緯を記し、その筆は隣の西郷隆盛の留魂碑と留魂祠についての説明になる。そして半藤っつぁんは心静かにでぇ~好きな勝っつぁんと対話をするんだが、若い娘の携帯電話する黄色い声にかき乱されるところでエピローグを結んでいる。

 で、あたしの場合は厳粛な気持ちで頭を下げた掃苔だったが、その直後に5、6人の子らがワッと勝夫妻のお墓によじ登り飛び降りたりで驚愕した。「おぉ、余りに不謹慎」と思ったものの、事前にネットで読んだ「ここに遺骨はなく、子孫が自家の墓に移した」の記述を思い出し、かつここは墓地ではなく公園の一角だから致し方ないかと思った。さて、半藤っつぁんもそこんとこは承知の介だったのだろうか。では勝っつぁんの本当のお墓はどこにあるんだろう。調べてみたら勝っつぁんちの墓はかなり複雑なことになっていて頭が混乱してきた。頭の整理が出来たら、この続きを記す。


nice!(0)  コメント(0) 

山本兼一「命もいらず名もいらず」 [幕末維新・三舟他]

yamaokahon_1.jpg 東京生まれだが、未だ東京タワーに上っていない。東京生まれだが、江戸城開城・幕末維新もの小説を読んだことがない。江戸末期は化政期(狂歌や戯作)もの、明治大正文学好きだが、幕末維新辺りは手垢だらけで読む気にならず。でぇいち薩長らの我がもの顔でのさばってるなんぞ、読みてぇとも思わぬ。それが新宿発ポタリングで徳川慶喜終焉の地~谷中墓地~全生庵の山岡鉄舟のお墓~、まぁ、そんな経緯をもって、そろそろ寿命も尽きるってぇ歳になって、やっと幕末維新もの小説を読むことに相成候。

 山本兼一「命もいらず名もいらず」は、山岡鉄舟の生き死にの娯楽時代小説。幕末維新の史実に疎いから、まぁ、フィクションを楽しませていただいた。小野鉄舟は江戸生まれだが、父の飛騨高山の郡代任命にともなって10歳から飛騨育ち。子供時分から書と剣道好き。父の死で7年後に江戸は小石川小日向(徳川慶喜の終焉地辺りじゃないか)へ。ここから千葉周作のお玉ヶ池の玄武館で熾烈な修行。やがて「鬼鉄」の異名を有す剣豪に。19歳で実家を離れ小石川同心町(おや、大田南畝の遷喬楼辺りじゃないか。正確には播磨坂の上)へ。その隣に天下無双の槍の名手・山岡静山がいて弟子になる。静山の弟が、母の実家の養子になった高橋泥舟。これで二舟が揃った。

 静山急死で、鉄舟が同家の英子の養子になって山岡家を継いだ。これで山岡鉄舟と高橋泥舟は義兄弟。安政3年に幕府の講武所が開設。黒船来襲に備えた武の鍛錬所で、その頭取のひとりに勝海舟。三舟が揃ったところで、時代は一気に幕末維新の激しい渦へ。長くなるからここで止める。

 終盤は山本兼一描く、鉄舟の剣と禅の奥義を極める筆が冴えて面白いこと。力のある作家です。奥付上の著者プロフィールを見れば「利休にたずねよ」で直木賞受賞とあった。NHK出版、平成22年刊。


nice!(0)  コメント(0) 

松本健一「幕末の三舟」 [幕末維新・三舟他]

tessyuuhaka_1.jpg 幕末維新に疎いから、三崎坂の全生庵についても疎かった。三遊亭圓朝のお墓があり、夏に「圓朝まつり」があって落語家らが集い、圓朝が鉄舟の亡くなる直前に一席演ったことぐらいは知っていたが<全生庵は山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々を弔うべく建立した>と知って、己の無知を恥じた。ここで松本健一「幕末の三舟」で三舟のお勉強。

 明治元年(慶応4年・1868)」3月5日のこと。有栖川宮親王を大総監とする西軍が、徳川幕府(慶喜)を討つべく駿府まで進出。その参謀・西郷隆盛へ、勝海舟が「江戸幕府は恭順の意を表し、慶喜は謹慎しているゆえ、江戸攻撃で日本を大混乱させてはならぬ」の手紙を届ける使者に高橋泥舟を選んだ。

 泥舟は上野寛永寺に移った慶喜の護衛中で、ここを離れると恭順反対派から慶喜を守れないと、義弟・山岡鉄舟を推薦。鉄舟は六郷まで到着していた西軍の先鋒部隊をかき分けて3月9日に駿府の西郷と会談。江戸城の総攻撃中止の五ヶ条のうち「徳川慶喜を備前へ預ける事」のみに反対して無血開城を仮成立。西郷が高輪の薩摩藩邸に入った3月13、14日に勝海舟・山岡鉄舟が面会。西郷が江戸城総攻撃停止の命令を下した。

 三舟はすでに「徳川家のため」ではなく、日本の新たな姿を見ていたが、こうした広い視野を持たぬ侍たちのさまざまな動きが続いた。勝海舟は新政府の顧問的役割を担い、鉄舟と泥舟は駿府に移った慶喜に従った。その後に鉄舟は勝からの依頼で明治天皇の侍従職になり、泥舟は隠棲した。明治15年の維新勲功では薩長らがあざとく勲功を得んと蠢くなか、勝海舟は素直に履歴書を提出も、鉄舟はそんなものはそっちで書けで、泥舟は一切無視。

 同書では勝海舟を、合理主義に基づいた政治的ヴィジョンとアイデアと機を掴むに優れた政治的人間。山岡鉄舟を政治的人間ではなく、自分に与えられた役割を一途に尽くす至誠の人。高橋泥舟を、忠義を尽くすが引き際を知って、隠逸・風流に生きることも知った人・・・と分析。

 最後に三舟の最期。山岡鉄舟は座禅を組んだまま死を迎えた。そこに勝海舟が来て「先生、ご臨終ですか」に「ただいま涅槃の境にすすむところでございます」と応えて享年53歳。勝海舟はそれから11年後に脳溢血。死に際して「コレデオシマイ」と言ったとかで享年77歳。(慶喜は重しが消えて小躍りした)。泥舟は隠棲して書画を売ったりしていたそうだが、勝海舟没4年後に牛込矢来町で世間も知らぬようにひっそり世を去った。享年69歳。

 以上、松本健一「幕末の三舟」の生き死にの物語一冊を900字で要約。あたしは昨日、洗足池の勝海舟墓地掃苔に小チャリ・ポタリング。14㌅自転車が2台になってGGBを貰ってくれる方が決まって最後のロングラン。勝海舟夫妻のお墓では、子らが楽しそうによじ登って遊んでいた。


nice!(0)  コメント(0) 
前の30件 | - 幕末維新・三舟他 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。