褄黒豹紋の幼虫。明日美しくなる。 [花と昆虫]
舞い衣装脱げば毛虫に蛹かな [花と昆虫]
カメムシの何処に求む越冬屋 [花と昆虫]
春荒に揺れて止まらぬ微細花 [花と昆虫]
名もなき雑草の叫び~ [花と昆虫]
春時雨わが盆栽も艶っぽく [花と昆虫]
ムクムクを食べてみようか傘の茸 [花と昆虫]
フィニッシュは花弁を撮って名を尋ね [花と昆虫]
花芯の秘ひとに叶わぬ自家受粉 [花と昆虫]
咲けば散るせめて後ろをせめて撮り [花と昆虫]
紅い露わが皺の手をしばし見ゆ [花と昆虫]
白露=秋の季。花の露=桜。うむ、季語は難しいゆえ〝赤い露〟。 大久保はツツジの名所だった。鉄砲百人組の地が狭い間口に長い奥行き。彼らはそこで内職のツツジ栽培で、ツツジ名所になった。明治に「躑躅園」もでき、臨時ツツジ列車も走った。
我がマンション前は「さつき通り」。各階ベランダの植え込みにサツキが植えられた。ツツジより花も葉も小さい。本来は岩場育ちゆえ盆栽向き。あたしは、この古いサツキを取り除き、好きな草木を植えている。さて、この花は?
花弁チラッ固く毛深き芯を撮り [花と昆虫]
江戸燃ゆる内藤といふ唐辛子 [花と昆虫]
今年は暑さのせいか、早々と唐辛子を収穫した。と言ってもベランダのプランター栽培。新宿の江戸野菜〝内藤唐辛子〟と伊豆大島〝アオト(靑唐辛子)〟。
唐辛子に小さな白い花が咲く頃に、アブラムシに悩まされた。有機系駆除剤を噴霧したが埒が明かない。ひとボトルを使い切って、ネット検索すると「牛乳」が効くとあった。試みに薄めた牛乳を口に含んでプゥ~ッと吹く。するってぇ~と、なんということか、あれだけしつこかったアブラムシがピタッと姿を消した。これは覚えておいた方がいい。
もうひとつ大事なこと。前回のアオトは肥料、水やりと手塩にかけて大量のアオトを収穫したが、あの独特の辛さがなかった。島の方に伺ったら「そりゃ、手のかけ過ぎだよ。放っておく、いや苛めた方が辛くなるんだ」。今年はその鉄則を守った。収穫量は少なかったがアオト特有のツンッと天に抜けるような辛さが出た。
一方、内藤唐辛子は真っ赤になったら収穫して乾燥させると辛さが増す。江戸時代は内藤新宿一帯が唐辛子の赤で真っ赤に染まったそうな。目下のブログは「狂歌」がらみゆえに、江戸狂歌の最初のメンバーのひとり、平秩東作(へづうとうさく)も、その赤い情景を知っていたような気がする。彼の家は現・明治通りと甲州街道が交差する辺りの間口八間の馬宿を改装した煙草屋だった。
現・牛込北町に住んでいた大田南畝の処女作序文を平賀源内が記し、その橋渡し(世話)をしたのが平秩東作だった。幕府密令で蝦夷地調査、獄死した源内の遺体引き取り、狂歌師らのパトロン的存在だった土山宗次郎が松平定信「寛政の改革」からの逃亡を手伝って「急度叱」の罰。なんとも怪しく活躍した御仁だった。
彼の墓は新宿・善慶寺。同寺周辺も晩夏になれば内藤唐辛子で赤く染まっていただろうか。彼の辞世狂歌は「南無阿弥陀仏と出でたる法名はこれや最後の屁づつ東作」とか。
迷ひ来ぬビルの手摺の秋茜 [花と昆虫]
早くも都心にセミが鳴いたそうです。新宿・大久保のマンション七階ベランダに「アキアカネ」が止まっていました。
その特徴は、胸の黒く太い模様。似た「ナツアカネ」は真ん中の黒模様先端が平らで、これは尖っているから「アキアカネ未成熟♀」らしいです。トンボは胸の模様で〝種の識別〟をするとは知りませんでした。
アキアカネ=秋茜=赤トンボは、梅雨時に現れるそうですが、秋の季です。やはり赤トンボの群飛=秋到来の情景がいいなぁと思います。コヤツは少々〝お先走りし過ぎて〟ちょっと草臥れた感じでした。世の中、落ち着きが足りないような気がしています。
食い残しユリネひとつの花盛り [花と昆虫]
ユリは夏の季語。好きな句は「うつむいて何を思案の百合の花」(子規)、「胸を病む人を似せてや百合の花」(也有)。
この春、スーパーで食用「ユリネ」を買った。二つ入りパックで、一つを食い、一つを植えた。その球根から三本の茎が伸び、今まさに爛漫。食用ユリは「コオニユリ」らしい。一本に八つ・九つの蕾ができ、下の蕾から順に開花中。ユリネ一株から二十五ほどの花が咲くことになる。蕾も花も下向きで、好きな句とあげた子規、也有の句は、そんな特徴を捉えた句になっている。
「ユリネ」には思い出がある。二十歳の時の「東京オリンピック」で、東京がうるせぇってんで友人と伊豆に遊びに行った。学生の貧乏旅行で、田舎育ちの友人が腹減ったぁと「ユリネ」を掘り出した。ユリを見ると、あの頃を思い出す。
突けば散る露のつらなり程の過去 [花と昆虫]
梅雨入りだってねぇ。「露」は秋の季語だが、梅雨になると「露」を撮りたくなる。あたしの過去は虚業っぽい仕事(歌手や楽曲プロモーションのお手伝い)が多かった。
それら仕事は時と共に色褪せる。係った歌手らも9割はリタイアしていよう。隠居して昔の仕事を思い出すことも稀だが、こんな自虐句が浮かんだ。「突けば散る露のつらなり程の過去」
先日、昔の関係者から突然の電話。「あの連載を某国で転用連載させて下さい」「ご自由にどうぞ。先方の許可を~」「先方があなたの許可次第と言っています」。
知らぬ地、知らぬ言葉に翻訳されて、また1年間の連載が始まるらしい。突けば散る露ほどの仕事ばかりだったが、突いても散らぬ露のひとつふたつはあるってことらしい。「つ」のリフレレイン句。
紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ [花と昆虫]
前回、速写「八重の紅梅」を描いて、芭蕉句「紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ」と書き加えた。同句は概ねこう解釈されている。「紅梅が美しい家に玉すだれがかかっている。王朝文学の趣が揃ったこの家には未だ見ぬ佳人が住んでいるようで、なんとなく恋しさを覚える」。
絵を描きつつ、果たしてその解釈でいいのだろうかと首を傾げた。「伊勢物語」六十四「玉簾」で男が口説く。「吹く風にわが身をなさば(わが身を風に出来るなら)玉すだれひま求めつつ入るべきものを(玉すだれのすき間を求めて入り込むのに)」。女の返歌「とりとめぬ風にはありとも玉すだれたが許すべき(誰が許して玉すだれのすき間から入ってくるのよ)」。
この場合の「玉すだれ」の〝玉〟は簾の美称だが、小生は枝垂れ紅梅が〝玉簾〟のようで、そこから軒下の簾が見えるという〝ダブルイメージの遊び心〟で詠んだ句と解釈したい。芭蕉より百年前の歌人・細川幽斎に「軒ちかき梅が香ながら玉簾 ひまもとめいる春の夕風」がある。梅を〝玉簾〟と詠っている。
小生が一昨日描いたのは新宿御苑の紅梅。その横に茶室「楽羽亭」がある。その前に梅(と蕾)が咲いて玉簾のようで、そこから茶室の簾が見える。その絵を想像して描けば、こんな絵になる。
ついでにつまらん句を紹介。「蔭清くその儘絵がくまどの梅」。誰の句だと思いますか。北斎句。「富嶽三十六景」を描いていた頃の句。宿六心配著「謎解き北斎川柳」には北斎の下ネタ・下世話川柳670余が紹介されているが、時にこんな俳句もあって戸惑ってしまうと紹介されていた。北斎はどんな梅の絵を描いたのだろう。
梅は一筋縄で行かない [花と昆虫]
新宿御苑の「梅」が満開です。「梅」は撮るも詠むも苦手です。かつて咲き始めの梅を撮ったが、花弁やオシベが水気足らずで乾き縮んだ感。そこで「紅梅や咲くと同時に姥になり」と詠んだことがあった。
紅梅の蕾のほころび始めは、ピンクがちらっと覗いて妙に艶っぽい。「紅梅や朱唇ほころぶ色気かな」。蕾が割れた瞬間を「春近し朱唇を割ってぽっと咲き」とも詠んだ。しかし梅は300種もあるとか。撮っても詠んでも、種によって趣が違う。一筋縄では行かない。あの節くれ立ち苔むした幹からして小難しい。
「おまいさん、湯島天神へ行ったことがないよぅ」と新宿生まれのかかぁが言う。そこで大江戸線「上野御徒町」下車で行った。「梅まつり」で大賑わい。「宝物殿」に入ったら、なんと!横山大観、菱田春草、川合玉堂、奥村土牛、杉山寧、伊東深水、前田青邨など日本画の巨匠らの梅の絵が一堂展示。ベストタイミングの絵画鑑賞なり。だが描かれた梅は、紅梅の一重の丸みのある5枚花弁ばかり。節くれ立って苔むした枝・幹で画面構成がされて鳥が止まっている。まぁ、同じような絵ばかりだった。
あたしは新宿御苑の梅を描こうと試みた。だが一重の白梅はあるも「一重の紅梅」は見当たらず。結局「八重の紅梅」をスケッチ。最初は不透明水彩で入念に描いたが、上手く描けなかった。ならばと〝速写+透明水彩〟で描き直し。「梅」は撮る、詠むに加えて「描くも苦手」と相成った。来春には上手に描けるようになるだろうか。
福寿草と日本水仙を描く [花と昆虫]
半年振りに「花」を描いてみた。初心者ゆえスケッチの教本(平山郁夫著)の記述を思い出した。概ねこんな内容。「線には速写もジワジワと引く線もある。花鳥は繊細で複雑な形を写し取るのが肝心。感情を抑えて微細に描きましょう」。
慎重に観察しつつ描けば、この福寿草の花は開き過ぎだなぁと思った。確か咲き始めの形は大鉢かパラボラアンテナ状。弱い冬の陽を花芯に集めて温度を上げて虫を誘っていたはず。開き具合には〝花には花の事情〟があるらしい。花言葉は「永遠の幸福」だが〝毒草〟ゆえフキノトウと間違えて食せば一大事。
日本水仙の花弁は6枚(外側3枚はガク)で、白く柔らかそう。中心に筒状の「副花冠」あり。ここが肥大の「ラッパスイセン」など多種あり。
水仙句は多いが、日本水仙の特徴を詠んだ芭蕉句「其にほひ桃より白き水仙花」。白い花弁が引き立つ。白樺派・木下利玄に「真中の小さき黄色のさかづきに甘き香もれる水仙の花」。副花冠を詠っている。
花を描くのは難しかった。描き終えてネットで花の絵を見た。梅や桜は概ね図案化された描き方が多くて面白くなかったが、福寿草や水仙は描き手それぞれに捉え方、描き方があって面白かった。花を描く画家は多い。〝花を描く〟楽しさが少しわかったような気がした。ジワジワ線で描いた後は、速写(の線)で福寿草の花を描いてみた。
水仙や芽吹け伸びろと腰伸ばし [花と昆虫]
昨年末、プランター二つに水仙の球根を各十個ずつ植えた。以来、ベランダに座り込んで、虫眼鏡で土からの芽吹きを今か今かと探した。今は球根の数だけしっかりと伸び始めている。一度座り込むと、立ち上るのに「ヨイショ」の掛け声で錆び付いた足腰に気合を入れる。立ったら痛い腰をそっと伸ばしてみる。歳だな。<水仙や芽吹け伸びろと腰伸ばし>。季重ねだが、まぁいい。
球根包装紙に「ミックス」とあった。植えた時期が遅かったから、春になったら白や黄色の花が咲くかもしれない。こんな観察が、隠居のささやかな歓び・愉しみ。もしこれが、宝籤で何億円でも当たっていたら、この「ささやかな愉しみ」なんぞはどこかに吹き飛んでいただろう。あぁ、今年も貧乏隠居で「ドンマイ・ドンマイ」と痩せ我慢。宝籤は1万円で300円が2枚当たった。
混入ぞ蠅虎の茶番かな [花と昆虫]
チェーンスモーカーだったが7、8年前に禁煙した。一方、チェーンカフェというか、机に飲み物は相変わらず欠かせない。この日はコーヒーを何杯も飲んだ後でお茶を淹れた。半分ほど飲み、またカップに手を伸ばせば、なんと、何かが混入しているじゃないか。ギョギョッ。よく見れば〝飛び蜘蛛〟らしい。ネット調べすると、正しくは「はえとりぐみ(蠅取蜘蛛、蠅虎)とか。網を張らずにピョンピョンと跳ねまわって小虫を捕獲するらしい。
この混入が。もしコーヒーの中だったら琥珀色に馴染んで気付かずに飲んでいたかもしれない。蠅取蜘蛛に毒はないのだろうか。こころみに歳時記をひもとけば、驚いたぁ。こんな蜘蛛にもちゃんと季があって夏の季とあった。「歳時記」恐るべし。正岡子規門の青木月斗(げっと)の句「蠅歩く蠅虎も歩くかな」が紹介されていた。
あたしは昨今の食品異物混入を意識して「混入ぞ蠅虎(はえとりぐも)の茶番かな」と詠んだ。「番茶」が「茶番」にひっくり返ったのは、〝飛び蜘蛛〟をカップから救い出せば、何もなかったようにピョンと飛んで姿をくらましたからなんだ。
騒がしきテレビを消して秋茜 [花と昆虫]
テレビについて記します。まず観ない筆頭が「テレビドラマ」。これは子供時分から大嫌いで、この歳までずっと観ていない。泣く・怒鳴る・叫ぶ・惚れた腫れたなどを大声で演じるシーンに虫唾が走るんです。ゆえに泣いたり怒鳴ったりを演じる「役者」ってぇのも、どうも好きになれないんです。役者かぶれ、役者臭い俳優は特にダメ。いきおい映画もあまり好きじゃないような。
ひょんなことで音楽業界で飯を食ってきましたが、「歌」も余り好きじゃありません。カラオケもしたことがない。「歌」の多くは惚れた腫れた、頑張って生きよう、仕合せかい~みたいな詞が多く、そんなのは聴くも唄うも恥ずかしい。仕事がらみじゃないと「歌番組」も観ません。
お笑芸人も好きじゃない。子供時分の東京のテレビは、東京の芸人が主だったんですが、いつの間に関西系お笑芸人で溢れています。そんな芸人同士がゲラゲラ笑い合っている番組もありますが、あれは何なのでしょうか。観る気もせん。でも亡くなった古今亭志ん朝は大好きで、CD全集を持っています。
こう記せば、テレビは役者・お笑い・歌手ら芸人で成り立っているワケで、裏から言えばテレビは芸能プロダクションとずぼずぼ関係で成り立っている媒体なんですね。CMだって芸人の出ぬのは稀で「おぉ、なかなか頑張っているわい」とCFながら喝采を送ってしまう。
ってことで観るのはニュース、野球以外のスポーツ中継、ドキュメンタリー、ネイチャー、健康系の番組。でも、そこにも居なくてもいい芸人が必ず紛れ込んでいるワケで、ブツブツ文句を言いつつも観ています。
豪雨災害、デング熱の蚊、朝日新聞の両吉田がらみ誤報、覚せい剤のアスカ~ ここ最近は何かと騒がしいテレビを消してベランダに出れば、アカトンボが止まっていたんです。ノシメトンボ(熨斗目蜻蛉、写真上)とアキアカネ(秋茜、写真下)らしい。いよいよ秋です。
耐へ堪へてトロリ滴る梅雨の悦 [花と昆虫]
春が来たと思っていたら、早や梅雨の気配です。昨日は雨。ベランダの銀杏の葉に、雨粒が溜まっていた。小雨のなかでマクロレンズで遊んだ。小さな雨粒が魚眼レンズのように、道路向こうの大きな建物を丸ごと写し込んで、妙なる世界を作っていた。雨粒が膨らむと、その世界がポタッと落ちた。
そのなかの一葉が、露を大きく膨らませて耐え抜いていた。その滴る瞬間を撮らんとカメラを構えた。いつ滴るか。我慢比べ。滴る瞬間に悦楽の味わいがありそうで、ファインダーを覗き続けた。だが、我慢比べに負けて先にシャッターを切リ、その直後にトロッと滴った。あたしには〝粘り〟が足りない。まぁ、せっかち。それが性分でもあろう。
せっかちで好機を掴み、また逃して来た。貧乏隠居ゆえ、逃がしたことが多かったのだろう。だが、老いぼれるのも先のことではない。身体が動かなくなったら、動かずじっくり粘れよう。そうなって、初めて見えるものもあろう。
そう呟いたら、かかぁがガハッハッと笑いやがった。「おまいさんのせっかちは、死ぬまで直らない。きっと死にざまも、せっかちだよぅ」
ローズマリー青紫がつひに咲き [花と昆虫]
北斎の「ベロ藍」、シロバナタンポポの「白」、カタバミの「黄」の次は「青紫」。早春にメジロが遊ぶベランダのローズマリーは、白にほんの少し紫がかった花だが、ベランダ反対側にもう一本のローズマリー在り。これは大島ロッジ庭角に植えた種で、濃い青紫色の花が咲く。それを東京で挿し木から大きくした。だが七、八年も経るも「花付き」悪し。
それがどうしたことでしょう、今春、突如として満開なり。それだけの年月が必要だったか、何かの刺激があったかで、まぁ見事な青紫花の満開。思わず歓声と拍手。さて、これから、この木にどんな昆虫や鳥が集いますか。
歳を経て身体ボロボロも「ド近眼が球体遠視化」で、眼がちょっと良くなりました。ローズマリーも幾年を経てやっと満開。年月の経緯も、少しは良い事が有るってことでしょうか。
★幾年も経ての変化を記しましたが、比して先日撮った多くの野草花を記す間もなく、早や季節は変わって藤が、アヤメが、ツツジが咲きだしています。季節の変化に「花のブログ」も追いつかぬ。追記:4月25日に戸山公園の藤棚が満開で「キムネクマバチ」が幾匹も飛び群れていた。
長らへて花の蜂やら蠅を知り [花と昆虫]
窓辺で本を読んでいた夕暮れ間近のこと、ふとベランダを見ると「クマバチ」らしきが飛んでいた。もう高速シャッターも切れぬ頼りない光。ISO感度を3200に上げ、絞り3.5で、どうにか1/200のシャッターを確保して撮った。以前に撮った「クマバチ」は、初夏の昼で1/2000のシャッターで羽搏きを止めて撮れたが、今回は飛翔中の全カット大ブレ。羽を休めた瞬間の一枚だけにピントが合った。
モニターで見ると、お馴染みの「キムネクマバチ(黄胸熊蜂)」とは違って、胸ではなく尾端が赤褐色で、毛はボサボサ。調べてみると「コマルハナバチ(小丸花蜂)」らしい。ツツジが咲く頃によく眼にするハナバチだそうな。うむ、眼下を見れば確かに歩道際のツツジも咲き始めていた。
そして眼を手すりに向ければ「蠅」が止まっていた。これもマクロレンズで撮った。ちょっとオシャレな白地に黒のストライプ。「クロオビハナバエ(黒帯花蠅)」らしい。複眼が離れているのが♀で、これは接しているので♂らしい。
「長らへて ~冬の蠅」の其角、子規、荷風句を幾度か記したが、ここでやっと「春の蠅」も詠めた。
オッタチかタチかも知れぬカタガミぞ [花と昆虫]
シロバナタンポポの次は黄色の小花「カタバミ」。写真に撮った後でネット植物図鑑で調べるが、カタバミ属に間違いはないも、その先がわからぬ。悩んでいるうちに、子供時分に地を這うクローバーに似た葉、黄色い花、その小さな「さや」を潰して中の白い実をほじくり出して遊んだことを思い出した。それが「カタバミ=片喰、傍食」。古語辞典では「酢漿草(かたばみ)=難読です」。「酢漿草の花」は夏の季語。別称「酸物草・酸漿草(すいものぐさ))、酸味草」など。酸味があるらしい。
だが、この季節ここに咲く「カタガミ」は、クイッと茎が伸びて黄色の花が咲いている。「タチカタバミ」か、帰化植物の「オッタチカタバミ」か。観察が甘かったゆえ写真からは判断出来ぬ。
芭蕉門下の山本荷兮(かけい)句「蔵の陰かたばみの花めずらしや」。村上鬼城句「かたばみに同じ色なる蝶々かな」。俳句はよくわからぬが、両句とも「どうってこたぁねへ」。野草マニアでもないから、この黄色の花が「オッタチ」でも「タチ」でも、ただの「カタバミ」でもどうでもいいような気がした。間違いのないのはカタバミ科カタバミ属。まぁ、時にはこんな「いい加減さ」も必要かな、と思った。
江戸っ子は白いタンポポ見て魂げ [花と昆虫]
北斎の「ベロ藍」の次は「白」。花々が一斉に咲く春爛漫ゆえ、犬散歩(戸山公園)にカメラを持参した。咲いている花を次々に撮り調べ、知らぬ野草名を十ばかり知った。身近な足許のことなのに、この歳なのに知らぬことばっかり。
まずは「エッ、白いタンポポかよ」と驚いた。四つ咲いていた。調べれば「シロバナタンポポ(白花蒲公英)」。日本在来種。子供の頃から、タンポポと云えば黄色タンポポ。大人になってから、それは外来種の「セイヨウタンポポ」で、総苞片が反り返っていないのが日本在来種「ニホンタンポポ(カントウタンポポ)」と知った。鳥撮りに行った郊外公園で「二ホンタンポポ保護域」なる囲いがあった。日本在来種は保護育成される希少種らしい。
九州や中国地方でタンポポと云えば、この「シロバナタンポポ」のことらしい。関東は、ここ新宿・戸山公園になぜに「シロバナタンポポ」が四つ咲いていたのだろうか。ここに根付いたには、如何なる経緯があってのことだろう。日本在来種なら「ここでもっと増殖しておくれ」と願いつつ周囲をよく見れば、総苞片が反っていない「二ホンタンポポ」(写真左)もあるではないか。
シロバナタンポポ発見をはじめ、様々な野草を覚えて、その日はなんだかとても愉しい気分になった。だが何ということでしょうか。二日後の犬散歩で同ポイントに行けば、その跡形まったくなし。誰かが根こそぎ採り去ったのだろうか。あぁ、思わずそこにへたり込んでしまった。
不思議なり精子が泳ぐイチョウかな [花と昆虫]
またエッチっぽい句だな。桜満開と同時に、多くの花や葉の堅い蕾も一斉にほころび出した。写真は銀杏の若苗の葉の芽。昨年、種から発芽した幾本かを拾って鉢植えに。悪戯心でニ本の苗をクルクルと絡めたら、そのまま固まって変わり銀杏になった。そして今春の発芽。さてどの芽を摘んで、どの芽を伸ばしましょう。お爺さんになると、こんな意地悪な遊びをするんですねぇ。
で昨日、銀杏は精子で受胚と知った。自転車で桜伝いにさまよって「小石川植物園」に辿り着いた。早くも満開の桜に花見客で混雑していたが、大銀杏に石碑と看板あり。石碑には「精子発見六十年記念 昭和三十一年」。看板には「1896(昭和29)年、平瀬作五郎はこの雌の木から採取した若い種子において精子を発見した。それまで種子植物はすべて花粉管が伸長し造卵器に達して受粉するものと思われていたので、この発見は世界の学界に大きな反響を起こした。」
同植物園には裸子直物のソテツにも「精子が存在することを池野成一郎が発見した」なる看板あり。銀杏と蘇鉄はいったいどのように射精し、精子が雌内にもぐり込むのだろう。春のクエスッチョンです。(ネットでNHK「ミクロワールド」の「精子が泳ぐ イチョウの不思議」映像あり。これを見ると不思議の全てがわかります。)
クロッカス僅か十日の健気かな [花と昆虫]
歳ぃとってくると、同じ事を何遍も繰り返す。毎年、早春にベランダでクロッカスが咲く。普段は球根が埋められているのを忘れているゆえ、ちょっとうれしい驚きになる。花は十日ももたぬだろう。残るはか細い葉だけ。その命は再び地中に戻る。クロッカスの花を見ると、健気さに駄句をひねりたくなってくる。
2010年「クロッカス有為転変も春を告ぎ」 ~自分にも世の中も常に事件・変化が起き続けているが、クロッカスはそんなことにお構いなく、決まって早春に花を咲かせてくれる。
2011年「クロッカス年々萎る我が身かな」 ~球根は地植えのままだから、年々花も葉も小さくなってゆく。老い行く我が身のようだ。
2012年「クロッカス開いて閉じて幾度ぞ」 ~陽が当たると咲き、夕方に萎む。それを幾度か繰り返すだけで、また命を地中に戻す。花の命の短さよ。
2013年は猪瀬都知事の『ミカドの肖像』シリーズで、クロッカスの句をアップ出来ず。
2014年「クロッカス僅か十日の健気かな」 ~ひょっとして誰に愛でられることもなく、僅か十日ほどの開花。そのために一年を頑張っている。健気だなぁ、地道だなぁ。見習わねばと思う。
駄句続き。うまくならず初心者の域で愉しむ。それが肝心と心得ている。
桃割れて花芯も疼く四手辛夷 [花と昆虫]
桃割れ:江戸時代後期より十代の娘が結った髪型・左右に髪を分けて鬢を膨らませる。
花芯:瀬戸内寂聴が昔、同題の小説を書いた。子宮作家と揶揄されてひと時文壇から干された。
四手辛夷:シテコブシ。準絶滅危惧種。別称は紅辛夷、姫辛夷、田内桜。「四手」は玉串や注連縄に垂らす紙。花弁が四手のように縮れ気味にビラビラ風に開く。きっとソメイヨシノ開花前に咲きだすだろう。
生真面目なあたしとしては、ちょっとエロチックな句になってしまった。今日は「春一番」が吹くとか。