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老いぼれてあと幾春の愉しみぞ [おくのほそ道]

kannzakuramejiro_1.jpg 芭蕉の「おくのほそ道」は、敦賀に曾良手配の弟子が迎えに行って、三日を要して8月20日(陽暦10月3日)ごろに大垣着。160日間、約2400㎞に及んだ旅を終えた。深川「芭蕉庵」を引き払い<草の戸は住替る代ぞひなの家>を最初の句に芭蕉50句、全62句がここで終わった。最後の句は、<蛤のふたみにわかれ行秋ぞ> この句は大垣に集った門人らと別れ、伊勢の遷宮式を拝みに再び旅立つ際に詠った。句意は、離れ難い蛤の身とふたが別れるように、また皆と名残惜しいが別れなければならない。折から秋も暮れようとしていて、淋しさがしみじみ感じられるよ。

 旅立ちの最初の一歩、千住で詠った<行春や鳥啼き魚の目は泪>と対をなす句で締め括られている。共に別れを惜しむ句。「おくのほそ道」の冒頭文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」で、「日々旅にして旅が栖(すみか)」が貫かれている。

 「おくのほそ道」定稿が出来たのは、旅を終えて4年後の元禄6年末か7年頃。旅の最中に詠んだ句の他に、同草稿を書いた元禄5、6年頃の句も多い。また「おくのほそ道」掲載句の他に、旅の途中で曾良に「書留」させ、これまた何度も推敲して後に発表された句も多い。

 さぁ、最後の句を遊んで、あたしの62日間にわたった「おくのほそ道」シリーズも終える。<老いぼれてあと幾春の愉しみぞ> 春はもうそこです。今は我が7Fベランダに遊びにきているメジロらも、間もなく新宿御苑の寒桜に群れ集うでしょう。つまらんシリーズにご訪問いただき、ありがとうございました。

 「おくのほそ道」シリーズ参考書:小学館「日本古典文学全集・松尾芭蕉」、岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」を主に、次の本を参考にしました。金森敦子「芭蕉はどんな旅をしたか」、上野洋三「『奥の細道』の謎」、嵐山光三郎「芭蕉の誘惑」「悪党芭蕉」、山本鉱太郎「奥の細道なぞふしぎ旅」、安東次男「おくのほそ道」、山本健吉「奥の細道」、尾形仂「『おくのほそ道』を語る」他。 


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浪の間やシギが啄む餌に毒 [おくのほそ道]

kosagi3_1.jpg 芭蕉は西行の「汐そむるますほの小貝拾ぐとて 色の浜~」の「ますほの小貝」を拾ってみたく、敦賀から舟を仕立てて種の浜(色ヶ浜)に行った。<波の間や小貝にまじる萩の屑> 「ますほの小貝」は学名・千鳥ますほ貝。薄紅色がさす小さな貝。それに混じって萩の花屑があったよの意。

 あたしが鳥撮りによく通った葛西臨海公園は東京湾の最奥部で荒川河口と江戸川河口に挟まれている。今、福島原発から風に乗り散った放射能が、山や野を経て川に流れ込み、河口部に沈殿し始めている。場所によっては原発近海より高いセシウムが検出されている。やがて東京湾いっぱいに蓄積されようとニュースが報じていた。

 河口の底に溜まったセシウムをゴカイらが食い、それらを餌にするシギ、チドリをはじめの水鳥ら。彼らが優雅に餌を啄む姿を見るたびに、「あぁ、セシウムが」と思ってしまう。人の営み、故郷を奪い、物言わぬ水鳥らも蝕んでいる。いったい全体、原発はなんてことをしてくれたんだ。<浪の間やサギが啄む餌に毒> 


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鳥撮りは数にかちたる情趣かな [おくのほそ道]

torifuukei_1.jpg 元禄2年8月16日、晴れ。芭蕉は敦賀から有名な「ますほの小貝」を拾ってみたく、舟に乗って「種の浜」(今の「色ヶ浜」)に行った。まずこう詠った。<寂しさや須磨にかちたる浜の秋> 

 須磨は「源氏物語」以来よく語られる寂しい秋の地として名高いが、この浜の情趣は須磨以上であるよ。物語で美化された「須磨」に、物合せの用辞「かちたる」を使って、実景「種の浜」を褒めた。寂しさは「淋しさ」ではなく、しみじみした情趣。

 芭蕉がそこまで褒めた「色ヶ浜」だが、今は眼前に不気味な敦賀原発があって情趣どころじゃなかろう。福井に入って原発云々がくどくなってきたので、ここでは原発から離れる。

 この句のポイントは「かちたる」かな。あたしは隠居して「鳥撮り」を趣味にした。この趣味は、いきおい多種を撮ることに夢中になる。みていると、現役時代に営業ノルマに血祭りをあげたような勢いで鳥撮りに夢中の御仁がいる。鳥撮りポイントに行けば、そこの主のような狷介老人がいる。鳥撮り老人同士のケンカにも出くわす。でかいレンズを持った人が威張っていたりもする。どこか変だな。

 老人の鳥撮り趣味ってぇのは、鳥類学者でもなく、鳥類図鑑を作ろうってワケでもなく、高価でデカいレンズ較べの場でもなく、あくまでも「花鳥風月」を愉しもうって姿勢が本道だと思うが、いかがだろうか。ってことで<鳥撮りは数にかちたる情趣かな>と詠んでみた。写真はトモエガモを撮った見沼の池。あたしの場合は稀少種カモその個体だけではなく、そのカモがいた見知らぬ郊外の、見知らぬ風景の、それぞれの季節の情趣に接する愉しみの方が勝ったりするんだが・・・。


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豊かさや花鳥風月売り払ひ [おくのほそ道]

 芭蕉が敦賀に泊まったのは8月14日。「明日の十五夜の天気は」と宿の主人に訊くと「変わりやすいのが北陸路の常で、明日の天気はわかりません」と答えた。そして15日、雨が降った。<名月や北国日和定(さでめ)なき> 仲秋の名月を楽しみにしていたのに、なるほど、北国の天気は変わりやすいものよ。

 さて、スケール大きく地球を詠ってみよう。今は北極圏の氷が解けて、寒気が北半球に下がってきたそうで、日本だけでなくヨーロッパ各国も記録的寒波に襲われている。これまた地球温暖化の歪みでしょうか。<大寒波地球日和も定めなき>

 ちょっとスケールが大き過ぎた。鳥になって福井県を飛んでみよう。まず敦賀で上昇。眼下に「敦賀原発・2炉」と廃炉中の「ふげん原発」がある。ここから西に飛ぶ。「もんじゅ原発」がある。美しい白茶色の砂浜が続いて「美浜原発・3炉」、絶景の海岸線が続いて「大飯原発・4炉」、「高浜原発・4炉」・・・あぁ、まさに原発銀座だ。原発交付金で潤っているか、立派なハコ物も点在する。欲が欲を産んで歯止めがきかなくなった感がしないでもない。

 美浜出身の某歌手は、少年時代を振り返って「貧しかったが、豊かな自然が夢を育んでくれた」と言った。むろん芭蕉の時代はもっと貧しかった。しかし何処にも劣らぬ、須磨に勝ちたる花鳥風月の豊かさを誇っていたはずだったが・・・。<豊かさや花鳥風月売り払ひ>


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行く春や乗り越してゐる一人旅 [おくのほそ道]

 芭蕉は8月14日の夕暮れに敦賀に着いて出雲屋に宿をとり、気比神社に夜参りをした。月光がきれいで、神社前の砂浜が輝いていた。宿の主人がこう説明した。「昔、遊行二世(他可上人)が草を刈り、土や石を運んで水たまりを乾かしたりした。それが今も受け継がれて代々の遊行上人が神殿に砂を運んで、これを“遊行の砂持”と云う」。それを聞いてこう詠んだ。<月清し遊行のもてる砂の上> 「遊行=僧が布教・修行で行脚すること)

 敦賀には、某歌手が故郷の福井・美浜でマラソンをするので、その取材に10年余も通った。当初は一人旅。新幹線「米原」乗り換えで「敦賀」へ。途中下車して、何度か気比神社も散策した。ここから小浜線に乗り換えて「美浜」下車で取材現場に着。一度、「敦賀」で降り忘れて「鯖江」まで行った。なかなか戻る電車がこないので焦った。そんなこんなでマスコミ陣の一行に加わったりしたが、もっと気楽な方法はと、ファンクラブのツアーに便乗することにした。敦賀で関西と関東のファンが集結して、ここから福井各地を観光しつつのバスツアーで美浜まで。そんなワケで、まぁ、ひょんなことで10年余も敦賀に通ったんだから我ながら驚いてしまう。敦賀で降り忘れたことを思い出して・・・<行く春や乗り越してゐる一人旅>


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余波なく次々詠むも俳句かな [おくのほそ道]

 芭蕉は曾良と別れて、金沢の俳人・北枝を供にするが、福井・松岡の天龍寺で彼とも別れる。ここで詠んだのが<物書て扇引さく余波(なごり)哉> 句意は、もう秋で使い慣れた扇に、いろいろ書き散らして捨てようと思ったが、名残り惜しくて引き裂けない。あなたとの別れも惜別の句まで書いたが、別れがたいことよ。

 さて、あたしは「大川で尻(けつ)を洗った」ようなサッパリ好き。人にも物にも「別れ難い」余波(なごり)の情緒が希薄らしい。ゆえに「余波」の句は出来そうもない。一日も休まずに「おくのほそ道」シリーズを続けられたのも、昨日の駄句に執着せずに、次々と日を改めたからだろう。まぁ、寝起きのひと時のお遊び・・・。

 山本健吉著「奥の細道」で芭蕉の「即興感偶」を論考してい、芭蕉の言う「即興」は「物の見えたひかり、いまだ心に消えざるうちの言ひとむべし」を引用し、「感動と表現の距離が可能な限り最短であること、それが即興だ」と記していた。その即興が軽みに通じ、季語が有す本意・本情のマンネリからも脱っする。逆にその距離が長いと、そこに作為が介在するとも記していた。かく言う芭蕉さんだが、旅を終えて5年もいじくりまわして「おくのほそ道」を完成させている。

 芭蕉さんは蕉門の多くの弟子と組織の煩わしさのなかにいて、サッパリした暮しとはとても言い難い。あたしはそもそも荷風さんの句が好きで俳句をかじったワケで、文壇とも家族と社会とも交わらずの荷風さんの句の方が、断然さっぱりしているなぁと思うわけで、このシリーズが終わったら、また荷風句に戻って行くような気がしている。


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刈り込んだ芝も束のま草いきれ [おくのほそ道]

kijibato_1.jpg 芭蕉が一夜泊めてもらった全昌寺を発とうとすると「若き僧ども硯をかゝえ、階(きざはし=階段)のもとまで迫来る」。ぜひ一句をと追いかけてきたので即吟してこう詠んだ。<庭掃て出ばや寺に散柳> 一夜泊まった寺を出るにあたって庭を掃こう、ちょうど庭の柳も散っているの意。「出ばや」の「ばや」は接続助詞「ば」+係助詞「(や」。未然形に付いて「~したら」。已然形について「~(た)から」。

 マンション7Fの東京暮らしには庭がないゆえ、当初は大島ロッジの庭仕事が楽しかった。マメに通っていたから芝は5ミリほどに刈り、雑草があれば一本一本抜いていたもの。次第に島に通う回数が減って、久し振りに島に行けば庭は逞しき雑草に被われている。あれほど丹精した芝は消えた。今はエンジン草刈り機をブルンブル~ンと振り回し、土が見えるまでの雑草刈りに相成った。<刈り込んだ芝も束のま草いきれ> 土がむき出しになると、出てくる虫がご馳走なのか、キジバトのつがいが必ず降りてくる。「おくのほそ道」シリーズあと6句。

 ※昨日、大久保の7F自宅ベランダのローズマリーにメジロが遊びに来始めた。昨年は1月18日からだったので、文字通り鶴首して待っていた。今年は22日遅れ。さっそく歓迎のミカンをあげた。


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終宵酒の肴に火を見つめ [おくのほそ道]

yomosugara_1.jpg 芭蕉は8月8日に北枝と一緒に大聖持という城下町のはずれの全昌寺に泊まった。ここで曾良が前日に残し置いた句<終宵秋風聞やうらの山>を手にした。この項に、芭蕉は「終宵嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松 西行」と記すが、この歌は蓮如上人の作らしい。

 曾良句の「終宵(よもすがら・よすがら)」は「夜」+助詞「も」+接尾語「すがら」。夜通し、一晩中の意。翁と別れ、一人の旅寝はひとしお淋しく、昨夜は裏山を鳴らす秋風を一晩中聞いていたよの意。中年の男同士が、ホモセクシュアルじゃなきゃ言えぬ句です。

 終宵(よもすがら)で一句。伊豆大島のロッジで20年余、薪ストーブを愉しんできた。眠れぬ夜に、ストーブのチロチロと燃える炎を見つめつつグラスを手にしていると、いつの間に無心となり、やがては酩酊に至る至福の時を何度も愉しんできた。<終宵酒の肴に火を見つめ> おや、まぁ、基角の句に <かたつぶり酒の肴に這わせけり>がある。


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ケリを撮り鳥撮りにけり付けるかな [おくのほそ道]

 芭蕉は曾良と別れ、彼が書き置いた句を記した後に「行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も亦・・・」と記し、自身の句<今日よりや書付消さん笠の露>を載せている。 「隻鳧=二羽のケリ」。旅の門出にあたって、笠の裏に「同行二人」(どうぎょうににん)と書いたが、今日からは一人で旅をしなければならない。一人旅の笠の露で、その書付をけさなくてはなるまい。季は「露」で秋。

 とは云え、芭蕉は大垣に戻るまで曾良の手配により弟子らが次々に案内・同行で、それほど淋しくない。そう詠む側には「北枝」がいる。さて、あたしは「鳥撮り」ゆえ、句ではなく散文の「隻鳧」をいじってみたい。鳧(ケリ)はチドリ科で、耕作地に飛んで来るそうで、新宿暮しのあたしには耕作地を探し歩く機会がなく、未だケリもタゲリも撮っていない。まぁ、いずれ撮るとは思うのですが・・・。そこで<ケリを撮り鳥撮りにけり付けるかな> 

 短歌俳句は「けり」で終わる例が多く、これは「詠嘆・感動」や、過去に起こって今も続いて回想で使われる助動詞。またそこから「結末、決着」の意になって「ケリをつける」などにも使われる。句は二つの「ケリとけり」で隻鳧(せきふ)。四つの「り」で「支離(しり)滅裂」句になり申した。


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たふるゝば大手術せず逝くもよく [おくのほそ道]

simayuhi1_1.jpg 芭蕉、曾良、北枝が共に山中温泉で逗留も、曾良は腹痛で芭蕉の世話どころではなく足手まといになると、芭蕉らと別れる。「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりば、先立て行に<行/\てたふれ伏とも萩の原>(曾良)と書置たり。」

 紀行文のなかに曾良句を挿入し、次の文章につなげて最後に自分の句で結んでいる。全五十章のなかで一味違った構成。挿入された曾良句の意は・・・師と別れて旅を続け、道中倒れたとしても、それが折から盛りの萩の咲く野であったなら、死んでも本望である。誰が考えても、なんだか変な別れ方だ。いろいろ詮索してみたくなるが止めとく。

 「たふ・る」は「倒る」。「行行(ゆきゆき)て」は二字繰り返しの「くの字点」で、これは岩波文庫「芭蕉おくのほそ道」も、小学館の日本古典文学全集もちゃんと「くの字点」になっているが、これがワードでは縦書き、横書き共に出ない。「くの字点」は「斜め=/と\」で「/\」、「くの字濁点」は「斜め/+”+\」で「/″\」で対処。古典がスムーズに打てぬとは、なんとも情けない。

 さて、芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた5年後、51歳で亡くなった。曾良が亡くなったのは62歳だったらしい。あたしもいつ死んでもおかしくない歳になった。長生きすれば概ねガンで死ぬ。気付いたら末期ガンでアッという間、この世とアッサリおさらばしたい。<たふるゝは大手術せず逝くもよく>


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柚子に薔薇たをらず入るバスクリン [おくのほそ道]

kawa3_1.jpg 芭蕉、曾良に北枝が合流して、7月27日から8月4日まで山中温泉に逗留した。ここで詠んだ52句目が<山中や菊はたおらぬ湯の匂> 句の前に「温泉(いでゆ)に浴す。其効有明に次と云」の文。「其効」は底本で「其功」誤記。「有明」は「有馬」の間違い。句の「たおらぬ」も正しくは「たをらぬ」。旅が終わってから5年も推敲したが間違いが多い。「たをらぬ」は「手折る」の否定。この温泉に浴していると、長寿延命の中国伝説のように菊を手折る必要もなく、霊効の湯の香で満ちているよの意。

 いやぁ、中国伝説を持ち出されたら無教養ゆえお手上げ。あたしの温泉浴は、湯に浸かった後に温泉効果を洗い流したりせずに上がる。これをそのまま詠めば<上がり湯をかけずに残す湯のにほひ>。おぉ、今朝は珍しく調子がいいから、もう一句参ろう。<柚子に薔薇たをらず入るバスクリン>ってのはどうだろう。

 ※昨日<カワセミや石より白き糞の上>と記した後、新宿御苑へ防寒着上下、折り畳み椅子の重装備でカワセミを撮りに行った。飛び込む辺りにMF(マニュアルフォーカス)でピントを定めておいて、後はその瞬間に連写するだけ。句に関係なく今日もカワセミ写真で、水面に突っ込んだ瞬間。水面が鏡になっている。 


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カワセミや石より白き糞の上 [おくのほそ道]

kawa1_1.jpg 芭蕉が小松から西、紅葉の名勝地でもある那谷寺(なたでら)で詠んだ句が<石山の石より白し秋の風> 那谷寺境内には白い大きな石英岩の洞に観音像が安置されているそうだが、山本鉱太郎著では「那谷寺にそんな岩はなく、ここの岩は薄黒い凝灰岩だが・・・」と記している。これまた「秋の風」に「白」を置いたフィクションだろうか。

 元禄2年秋から、今は平成24年立春。「秋の風」ならぬ「冬の風」がまだまだ厳しい。一昨日、かかぁを誘って新宿御苑散歩へ向かったが、余りの寒さに途中で引き返した。そして昨日、やや穏やかゆえに御苑へ出直した。彼方此方の池が凍って、カワセミが至近で撮れる凍らぬ池に移ったとかで「カワセミ撮り」が並んでいた。

kawa2_1.jpg カワセミを観ていたら、尾をピクッと上げて白い糞をピュと放った。那谷寺の石英岩でも凝灰岩でもなく、普通の灰色の岩に白い糞跡が幾状もあった。「それがカワセミ出没個所の探し方」とベテランが教えて下さった。ヤマガラの番も飛んで来て水を呑んでいた。あたしとかかぁは近くの日向ベンチで、そんな鳥撮り達を見ながら崎陽軒のシューマイ弁当を食った。かかぁがシュウマイを頬張りながら芭蕉句をもじった。<カワセミや石より白き糞の上>

 追記)元禄5年の芭蕉句に<鶯や餅に糞する縁のさき>がある。復本一郎著「芭蕉俳句16のキーワード>で、同句をえらく褒めていた。鶯が持つ本意(その季語が有する意味合い)、本情(季語が有する情緒)を見事に超克した句だと記す。うむ、その意では<カワセミや石より白き糞の上>は秀句ではないか。かかぁは芭蕉かもしれないと思った。


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むざんやなメジロの愛が地に転び [おくのほそ道]

mejironosu_1.jpg 芭蕉は小松の太田(多太)神社に参詣し、斉藤実盛遺品の兜を見てこう詠んだ。50句目 <むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす> この兜を見ると実盛が自分の育てた木曾義仲と戦わんと出陣して討死した、いたわしさが偲ばれる。哀れを誘うように兜の下でキリギリスが鳴いているよの意。芭蕉は「きりぎりす」を多く詠っているが、さて「キリギリス」と「コオロギ」のどっちだろうか。実盛が白髪を黒く染めて若々しく戦った最期、義仲との関係などは「平家物語」による。西行を師と仰ぐ芭蕉にとって「平家物語」は欠かせぬ読物だったに違いない。

 過日、新宿御苑を散歩していたら枯草に、こんな鳥の巣が引っかかっていた。あそらくメジロの巣と思うが、春の繁殖に備えた巣作り最中にカラスに襲われたのだろう。御苑では落ちたメジロの巣を数度見ているから、相当数がカラスにやられているとみた。<むざんやなメジロの愛が地を転び>


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しほらしき大地も時に牙を剥き [おくのほそ道]

susuki1_1.jpg 金沢を出た芭蕉は、7月24日から26日まで小松に滞在した。「小松と云所にて」の詞書で49句目<しほらしき名や小松吹萩すゝす> 小松とは可憐な名で、その名と同じ小松があって、そこに吹く風が萩やすすきもなびかせて情緒のある秋の景色だことよの意。松・萩・すすきと季が連なる。「しほらしい」と「しをらしい」どっちだろう。旺文社の国語辞典は「しをら・し」。

 うむ、「しほらしい」ってのは曲者で、時に猛々しく豹変もするから「しほらしい」人を侮ってはいけない。世の人は概ね「しほらしく」生きている。あたしは黒子(ゴースト)ライターも生業だったゆえ、とてもしほらしく健気に生きてきた。ウソじゃないって。組織のなかにもしほらしいイエスマンが多い。なかには虎の威を借りて威張っているバカもいる。一方、トップもその座に胡坐をかいていれば足をすくわれる。企業ならマーケティングリサーチも肝心か。謙虚さと努力を忘れたら「アラブの春」を挙げるまでもなく、しほらしく耐えてきた人々が牙を剥く。

 今はしほらしく物言わぬ自然・地球が、なんだか怒っているような気がしないでもない。<しほらしき大地も時に牙を剥き> 季は「大地」で四季。写真は小松ならぬ新宿のすすき。


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亡き犬の日向で吾が本を読み [おくのほそ道]

yuki1_1.jpg 芭蕉が金沢で詠んだ3句目は「途中唫」の詞書で<あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風> 赤々と照りつける残暑の日はまだ暑いが、さすがに風は秋らしい爽やかさだの意。 この句も地の特定なく金沢の三ヶ所に句碑があるそうな。

 さて今年は大寒波。テレビニュースが連日、日本海側や北海道の記録的大雪を報じている。それでも4日は立春で、春の兆しもある。夕方5時で暗くなっていたが、まだ明るい。夕まぐれ(夕まづめは釣り言葉?)が延びている。戸外では耳も鼻も眼も痛くなるほどの凍てついた風が吹いているが、ガラス窓越しの日当たりはかすかに暖かい。

 昔、バーキーと呼んだ愛犬がいて、冬になると斜めに細く射し込んだわずかな日当たりで寛いでいたが、今はあたしがそこに寝転がって本を読んでいる。<ガラス戸の外は凍てるも陽は緩み> つまんねぇ句だな。<亡き犬の日向で吾が本を読み> ははっ、これも冴えぬ。「芭蕉だって大半は駄句だ」と誰かが言っていた。写真は雪が降った日に撮った、ビルの狭間越しに見た「明治通り」を舞う雪。(1/30sec)


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炬燵なく手毎に剥いたミカン消へ [おくのほそ道]

 芭蕉は金沢で「ある草庵にいざなはれて」の詞書で、47句目を詠んだ。<秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子> 秋の涼しい風を受けながら、もぎたての瓜や茄子(なすび)をめいめいに皮でもむいて気楽にご馳走になろうの意。瓜はわかるが、茄子は皮をむいただけでは食せぬ。揚げる、煮る、焼く、蒸す、漬けるのいずれかの手間がかかろう。おっと、水茄子は生食OKで、皮をむいて味噌ダレで食べるとか。元禄2年の金沢に水茄子があったのだろうか。

 同句をいじる。う~ん、そうだ、我が家から炬燵が姿を消したのはいつだろう。炬燵があった時分は、炬燵の上に必ずミカンを入れたカゴがあって、テレビを観つつミカンの皮を剥いて頬張ったもの。その炬燵がなくなって、ミカンも消えた。そう記せば、テレビニュースがミカン出荷が10年前の半分に落ちたと報じていた。あたしにミカン業界のPRをお任せ下されば、まずは炬燵復活から始めるがいかがだろうか。かくしてこう詠む。<炬燵なく手毎に剥いたミカン消へ>


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国滅ぶ軋みの中に春が咲き [おくのほそ道]

boke1_1.jpg 7月15日、芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢入り。蕉門の新進気鋭「一笑(いつせう)」に逢えると楽しみにしていたが、昨年12月に早逝したことを知って愕然とする。その悲しみをこう詠んだ。<塚も動け我泣声は秋の風> 私の泣く声は、秋風となって塚を吹く。塚よ、わが深い哀悼の心を感じてくれよ。

 山本鉱太郎著「奥の細道なぞふしぎ旅」では、芭蕉がそこまで落涙するワケがわからぬと記す。金沢で支配的だった貞門派に比し蕉門派盛り上げに「一笑」をともくろんでいたも亡くなってい、そこに「北枝(ほくし/刀研ぎ商)」を据えて逆転せんとする芭蕉一流のプロパガンダで詠んだ句だろうと推測。嵐山光三郎の「悪党芭蕉」で描かれた、芭蕉のもうひとつの顔が浮かんでくる。そんなこんだで芭蕉は金沢で8泊している。

 そういえば『ふりむけば日本海』なる歌謡曲の取材で小松空港より金沢・内灘海岸へ行き、五木寛之と五木ひろしの海岸を歩くフォトセッションから市内会館のコンサートを取材したことがある。松原健之君『金沢望郷歌』もここで初披露されたか。

 さておき、この句をどう遊ぼうか。こっちはより大きく国を憂おう。<国滅ぶ軋みの中に春が咲き> どうもこの国は立ち行かなくなったようだ。大地震、大津波、放射能汚染、さらに関東にも大地震予測、国の財政破たん、政官のていたらく・・・。お先真っ暗だが、そんなことに関係なく咲く花は咲く。せめて、そんな花に癒されましょ。ボケ(緋木瓜・寒木瓜)ないように。


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荒磯や眺めるだけの海になり [おくのほそ道]

araiso_1.jpg 芭蕉は7月13日に市振を発って14日に高岡。ここから「くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出」、さらに早稲の香のする田の道を分け歩み、越中と加賀の境の倶利伽羅峠に出た。峠から見れば右に有磯海が見えると45句目<わせの香や分入(わけいり)右が有磯海>を詠んだ。「有磯海」は地名ではないから、場所特定できず句碑が何か所にもあるそうな。

 伊豆大島は荒磯に囲まれている。磯釣りとダイビング好きで、この荒磯が気に入って遊び小屋を建てたのが20年も前のこと。ねっ、魅力的な磯でしょ。磯前にはダイバーの車がズラッと並ぶ。磯に座って海を眺めれば、かつて親しんだ海の中の景色・地形が浮かんでくる。美しい魚が泳ぎ、旨そうな魚や貝もいる。だが歳と共に海は次第に眺めるだけになってしまった。<荒磯や眺めるだけの海になり>。今朝は身体に加え頭も動かねぇ。こんな句を詠んだせいで、ちょっと哀しい。「おくのほそ道」残すは16句。16日も経てば梅も寒桜も咲こう。


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遊女また貞女も揺るる春兆し [おくのほそ道]

roubai1_1.jpg 芭蕉は「今町」から「高田」へ。地元俳人の待遇が良かったか、歌仙を巻くなど機嫌を直している。越後は遊女が多い。この辺は例の深川芸人・繁太夫「筆満可勢」に詳しい。そんな艶っぽい地から「親しらず、子しらず、犬もどり、駒返し」の難所を越えて7月12日に市振(一振)に泊。ここで44句目、<一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月>」 思いがけず遊女と同宿で、自分のような男と遊女の組み合わせは月と萩のような不思議な取り合わせの妙よ・・・の意。いつの間に季が秋になった。

 この句は「曾良にかたれば、書とゞめ侍る」と記すも、曾良の日記にはそんな記述は微塵もなし。加えて当時の越後で遊女二人旅は考えられぬとも言われて、これまた芭蕉のフィクション説が勝る。俳句は虚構が面白い。

 あたしもフィクションで参ろう。取り合わせの極みは対極だろう。遊女に貞女、真面目と助平、勤勉と怠惰、嘘と誠、善と悪・・・両面を有して人。これ鬼平(池正)の得意科白。さらに加えれば、日本人は「夏・冬」に「秋・春」の良さも知っている。12ヶ月それぞれの良さも知る。職業、性別、年齢を越えてみな同じ人間という許容も広い。<遊女また貞女も揺るる春兆し>。 ははっ、お粗末!(写真は早春のロウバイ)

 ※有馬哲夫「原発・正力・CIA」読了で、次に同氏著「日本テレビとCIA」を読み始めた。2005年になってワシントンの国立第二公文書館から出てきたGHQやCIAの資料によって読売新聞、日本テレビ、正力松太郎の隠されていた顔が白日に晒された。これまた人・企業の別の顔で面白い。そう、芭蕉だって嵐山光三郎「悪党芭蕉」が面白い。


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織姫も汚れた国に眼をそらし [おくのほそ道]

syoriki2_1.jpg 前句<文月や六日も常の夜には似ず>で「天河(あまのがわ)」が浮かんだのだろう、あの有名句<荒海や佐渡によこたふ天河>が詠まれた。出雲崎で想を得て、直江津でまとめたとされるが、曾良の旅日記には出雲崎滞在の二日間は雨で、天の川は見えない。「流刑の佐渡」と「天の川」を幻視して詠んだ句だろう。名句はかく誕生すると肝に銘じた。

 さぁ、あたしも幻視(嘘)力を磨こう。空を仰げば、あぁ、なんという事よ、空に舞い散った放射能が浮かぶ。今は山野から川へ海へ流れて東京湾河口に沈殿・蓄積されつつある。眼に見えぬ放射能の恐ろしさよ。

 日本はどこで道を間違えたのだろう。東海村の実験炉が臨界に達したのが昭和32年(1957)。街には浜村美智子「バナナボート」、石原裕次郎「錆びたナイフ」、三波春夫「チャンチキおけさ」などが流れていた。それに先立つ昭和31年(1956)1月1日、初代原子力委員長に就任したのが、読売新聞と日本テレビの社長で衆議院議員の正力松太郎だった。正力の事業欲と総理大臣への野望で、安全性より性急に推められた日本の原発行政。政局、そしてCIA絡みの読売グループ挙げたメディア展開・・・。日本の原発は、端から個人の欲がらみで走り出していた。ねっ、読売のナベツネさん。<織姫も汚れた国に眼をそらし>

 有馬哲夫「原発・正力・CIA~機密文書で読む昭和裏面史」(新潮新書、2008年2月刊)が、この辺を詳細レポートしていると知って、さっそく図書館で借りて昨夜読了した。ブログは目下「おくのほそ道」の途上。旅が終わってから、読書備忘録を記しましょうか。はたまたマイカテゴリーに「原発関連本」を設けて読み漁ってみましょうか。


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睦月末ゆび折りて待つ開花かな [おくのほそ道]

fujikomati1_1.jpg 6月18日、芭蕉らは鳥海山を眺めて、再び11里半南下して酒井に戻った。津軽まで行きたかったらしいが、身体を心配した曾良に止められ。芭蕉は象潟で自分の二句のほかに、曾良二句と低耳の句を載せた。何故だろう。さらに酒田から越後・市振にかけての九日の長旅をたった100字ほどの記述で済ませている。「此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」。一日九里を歩いているから体調は悪くなかったはずで、不機嫌な芭蕉の顔が浮かぶ。

 このへんは「おくのほそ道」研究者に任せて、記述通り越後に入る。ここで詠んだのが<文月や六日も常の夜には似ず> もう七月の六日となって七夕を明夜に控えた。そう思うと六日の夜も、普段の夜と違っているような・・・。直江津に同句碑が建っている。

 さぁ、これをどうひねるか。今は一月・睦月も下旬。<睦月末ゆび折りて待つ開花かな> ベランダのフジコマチは蕾をびっしりとつけたが(写真)、なかなか開花せぬ。2月になれば梅が、椿が咲く。新宿御苑の寒桜にメジロが群れ、我が家のベランダのローズマリーにもメジロが来よう。春はもうすぐです。


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西風の怯える夜にミサゴをり [おくのほそ道]

misago4.jpg 「おくのほそ道」象潟の項は五句も記されていて、最後に「岩上に雎鳩(ミサゴ)の巣をみる」と詞書があって、曾良の句<波こえぬ契ありてやみさごの巣> ミサゴは雄雌仲睦まじく、愛情こまやかな夫婦の引き合いにされる鳥。ミサゴが岩の上に巣を作っている。ミサゴは夫婦仲良い鳥だから、固い約束を結んで、波が越えそうもない岩の上に巣を営んでいるのだろう、の意。

 ミサゴは魚食性で、かつ白い顔に褐色の過眼線でパンダ顔に見えて、タカ科の怖さはない。芭蕉が象潟を訪れた6月中旬(陽暦8月初旬)は繁殖期も後半。ひょっとすると育雛中だったかもしれない。しかしミサゴの季は冬で、あたしも冬の伊豆大島に行けば、海岸沿いの空をミサゴ夫婦が飛んでいる姿をよくみる。

 大島ロッジは海っぺりに建っている。冬は西風が家を吹き飛ばさんばかりに襲ってくる。木々が断末魔の叫びのように荒れ狂い、まんじりもできぬ夜がある。そんな時にふと、あのミサゴ夫婦はどこに巣を作り、どうやって風から身を守っているんだろうと思ったりする。<西風の怯える夜にミサゴをり>

 ※「四か月以内に関東大地震」の報で、きのう防災用に「ミドリ安全」ヘルメットを二つ購った。ウム、これ自転車用ヘルメットにもなるじゃん。20㌅折り畳み自転車で「ミドリ安全」のヘルメットをして走っている人を見たら、その人はあたしです。かかぁはNASA開発の-10度でも23度維持の防寒シートも買おうと張り切っている。


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行水や盥とともに姿消し [おくのほそ道]

 「おくのほそ道」40句目は、象潟の「祭礼」二句目として岐阜長良の商人で俳人・低耳(ていじ)の句が載っている。<蜑(あま)の家や戸板を敷て夕涼> 「蜑」は漁師、海女。海岸の漁夫の家々は簡素な生活を営んでいて、夕方になると、海辺に戸板を敷いて涼をとっている。

 あたしの子供時分のとびきりの夕涼みは、浴衣姿になって縁側でスイカを食うひと時だったか。スイカは早くから井戸で冷やされてい、縁側には香取線香が揺らぎ、団扇の風もあった。浴衣になる前は、家族全員が順番で行水を澄ませていたかもしれない。戦後の貧しくも幸せだった夏の情景。今は行水も、あの大きな木の盥(たらい)も姿を消した。気候も変って、夏は灼熱地獄。夕涼みの風情どころではなく、夜も熱中症の危険からいかに身を守るかが問題になっている。<夕涼み>という情緒ある言葉も死語になりつつあるのか。

 今朝の東京は、昨夜の雪が凍って、早朝に歩く人の凍った道を割るバリバリという音が響く。季節も時代も違う「おくのほそ道」シリーズのページビューはすこぶる悪いが、あと20句は続く・・・。


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江戸ほどの質素な膳の美しさ [おくのほそ道]

 象潟に着くと、神祭りの最中だった。芭蕉は「祭礼」として曾良と、美濃商人で俳人の低耳(ていじ)の二句を載せている。曾良さん、腹が減っていたか、こんな句を詠んでいる。<象潟や料理何くふ神祭>。この祭りは魚肉を食べない習慣とかで、人々はお祭りのご馳走に何を食べるのだろうという句。魚肉がダメなら菜食だろう。野菜だけでも料理次第で美味しくいただける。

 ダイエット中に温野菜を食べ続けたことがある。そんな時に江戸時代の小説や映画に出てくる一汁一菜の膳を思い出す。それを気取って「おい、今夜は大根おろしだけでいいぞ」とかかぁに言えば、それに加えて他数品が食卓に並べられる。「一汁一菜」の食卓なんて考えられんのだろう。意識された「慎ましさ」は「美しさ」に通じる。<江戸ほどの質素な膳の美しさ>


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夏干潟セイタカシギの優美かな [おくのほそ道]

seitakaoya2_1[1].jpg 芭蕉が象潟で詠んだ二句目が・・・<汐越や鶴はぎぬれて海涼し> 「鶴はぎ=鶴脛(はぎ)」で「脛」はすね、はぎ、ケイ、ギョウ。「汐越」は象潟の北方で「海北にかまへて、浪打入る所を汐ごしと云」と案内している。潟が海に通じていた個所で、今も「大塩越し」の名あり。句の意は、汐越に降り立つ鶴の足は、浅瀬の潮にぬれ、あたりの海もいかにも涼しげだの意。

 しかし6月17日は、太陽暦8月2日。真夏に鶴がいるわけがなく、芭蕉が見たのは何だったのか。またも幻視か。安東次男「おくのほそ道」には、曾良が松島で詠んだ<松島や鶴に身をかれ~>の写しの洒落だと記しているが、「鶴に海涼し」では洒落にもならぬ。

 東京湾の干潟に鳥撮りに行けば、鶴もコウノトリもいないが、サギやシギの涼しげな光景はよく眼にする。そのなかでも脚が最も長く美しいのはセイタカシギだろう。この写真は昨年8月の葛西で撮った。隣の観察者が「昔は珍しかったが、今は普通にいるんだよなぁ」と呟いていた。<夏干潟セイタカシギの優美かな>


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御苑にて満面の笑み福寿草 [おくのほそ道]

fukujyusou1_1[1].jpg 芭蕉は6月15日に酒田から象潟を見るべく、北へ砂浜を歩いた。雨が激しく6里歩いて吹浦に泊。翌日も雨だが女鹿の関所を越え、馬も通れぬ難所を越え、再び砂の道を北上して塩越へ。翌日、舟を浮かべて西行が「きさがたの桜は波にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」と詠んだ絶景を堪能した。

 この地は嘉祥3年(850)の大地震で陥没して九十九島、八十八潟が現出して名勝となった。そして文化元年(1804)の大地震で今度は隆起。潟の水が引いて八十八島はただの丘に。芭蕉が訪れたのは元禄2年(1789)。さぞ美しい景色だったのだろう、こう詠んでいる。<象潟や雨に西施がねぶの花> 象潟(きさがた)の雨に煙る景色を見ると、合歓の花が雨に打たれて、あの美人の西施(せいし)が物思わしげに目を閉じたさまとも見えると・・・。「西施」は中国越(えつ)の美人。「歌枕+雨+中国美人+合歓の花」。なんと複雑に凝った句だろう。西行の句が頭にあったか、芭蕉さん力が入り過ぎた。

 これをもじり遊ぶのは至難。「象潟」を近所の新宿御苑に、「ねぶの花」を福寿草にし、人を模して詠む。<御苑にて満面の笑み福寿草> 福寿草はパラポラアンテナ効果で、花芯の温度を高めて虫を誘う。御苑の福寿草は未だ咲いていないので、写真は昨年撮ったもの。あと1週間もすれば咲き出すだろう。


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大寒をはぜて知らせるイカルかな [おくのほそ道]

ikarumure1_1[1].jpg 芭蕉さん、酒井湊でもう一句詠んでいる。36句目。 <暑き日を海にいれたり最上川> 暑い一日を最上川が海に流してくれたおかげで、夕方になって少し涼味が出てきたよ・・・の意。

 「暑き日を」を明日21日の「大寒を」としたら、こんな句が出来た。<大寒をはぜて知らせるイカルかな>。鳥撮り数年だが、なぜか大寒の日に小金井公園でイカルの群れを撮っている。50羽ほどの群れが、木々から一斉に舞い降りて、落ちた木の実を啄む。枯葉の音と木の実を割るパチパチというはぜたような音が、静かな公園に地鳴りのように響き渡る。黄色い頑丈なクチバシと実を割る音。眼と耳を愉しむのは、これまた冬の風流なり。この舞い降り、飛び散るを5~10分おきに繰り返すが、2年目に群れの中に希少種のコイルカが混ざっていることを知った。ファインダーの中で頭の黒が喉まで広がっているコイルカを探す。

 さて、今年は冬鳥の出が例年に比し大きく遅れているようだし、天気予報の按配もよくない。果たして今年の大寒(明日)も小金井公園でイカルの群れに逢えましょうか。


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浦安や恐竜辺り春の澱 [おくのほそ道]

kyouryukyou_1.jpg 6月11日、芭蕉は羽黒を発って鶴岡へ。6月13日に川舟に乗って酒田湊の医師・淵庵不玉の家を宿にした。酒田は諸国の舟が出入りして大繁盛。ここで二句詠んでいる。35句目<あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ> 最上川の河口の袖の浦に舟を浮かべて夕涼みをしていると、南に温海山(あつみやま)、北は吹浦辺りが望める。大自然の景観に、のびのびとした気持ちで夕涼みをする快さよ。

 芭蕉が元禄2年の酒田湊なら、こっちは江戸の最新ランドマーク・東京ゲートブリッジと参ろう。鳥撮りに「葛西臨海公園」の渚に出ると、東に浦安のディズニーランドが見え、西に2月12日開通の同橋が見える。2頭の恐竜が向き合っているようで「恐竜橋」。江東区若洲から大田区城南島の約8㎞がつながる。橋は陸上部を含んで約3㎞、高さ約88㍍。2月4、5日に渡り初めイベント。また新たな東京名所。自転車で行ってみましょうか。

 だが、15日のNHKスペシャル「知られざる放射能汚染~海からの緊急報告」で江戸川、荒川の河口部にセシウムが蓄積中をレポートしていた。両川に挟まれているのが葛西臨海公園。また江戸川河口より上流8㎞上流に河口部の2倍、福島原発沿岸とほぼ同じ汚染ポイントあり。2年後には東京湾全域に汚染が拡大。10年間はなくならないだろうと報じた。3月の福島原発事故による放射能が、野山から川に流れ下っている。「春の澱」と記したが、これは人類にあってはならぬ最悪のセシウム134、137の蓄積。原発は国土を、故郷を、海を、山を、野を、田を、街を、産業を、営みを、生命を、文化をも破壊している。原発事故は欲を貪った結果だろう。日本人は慎ましく生きることを学び直さなければいけないのだが、まだ欲を貪ろうとする懲りない人々がいる。ドイツと人間の成熟度が違うのかも知れない。


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長蛇成す穴八幡のご融通 [おくのほそ道]

anahatimanezu1_1.jpg 曾良も湯殿山の句を詠んでいる。34句目<湯殿山銭ふむ道の泪かな> 湯殿神社のご神体は、大岩の女陰に似た部分から湯が湧き出し、その穴に賽銭を投げ込むと幸運が拓けるってんで、銭が踏むほど落ちている。俗世間と違い、それを拾う人もいない。銭の上を踏んで参拝するとは、神のご威光ならではと感涙にむせぶの意。現在もご神体は撮影禁止。参拝は素足になって、赤茶けた巨岩を巡るらしい。

 さて「賽銭、女陰」を「御札、穴」に替えて・・・<長蛇成す穴八幡のご融通>と詠んでみた。冬至から節分までの間に早稲田・穴八幡の「一陽来復」をいただき、節分の24時ジャストに恵方に向けて貼る。ここらで商売している皆さんがそうしてい、フリーという浮沈稼業のあたしも「ご融通様」と云われる「一陽来復」をいただいてきた。併せて免許証入れに「交通安全の御札」、財布用に「一陽来復御守」を家族分いただく。

 そんなワケで、穴八幡は冬至から連日長蛇の列。もう空いた頃だろうと数日前に並べば「私は九州から」「私は東北から」と、「ご融通様」頼りの熱心な方々が尽きぬ。並んでると閑ゆえ、卑しくも「一人ン千円×45日×一日ン千名」と穴八幡の売り上げを皮算用。まだ列は長く、今度は五木寛之が早稲田入学当初に穴八幡の軒下で野宿していたと記した文を思い出した。「あぁ、御利益が続いているか、今も大活躍だぁ」。あたしもフリーながら世の定年期まで勤められたのも穴八幡のお蔭かなと感謝御礼。今の穴八幡は御札で儲けたんでしょう、それは立派な社に建て替えられている。写真は境内に展示されていた江戸絵図。


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語られぬ湯殿談義に事件あり [おくのほそ道]

mikaiketu_1.jpg 芭蕉の出羽三山の三句目は湯殿山を詠った。<語られぬ湯殿にぬらす袂かな> 湯殿山の神秘は口外してならず。それだけに湯殿山神社から受けた感動がより内にこもり、涙で袂を濡らしたの意。季語は「湯殿詣」で夏。口外ならぬワケは、なんてこたぁ~ない、ご神体が女陰に似た岩で、そっから湯が湧いているんだ。芭蕉は律儀にご神体の秘密を漏らさなかったが、世の中、語れないことは多い。

 のどかな伊豆大島だが、最近は未解決殺人事件や大麻関連の逮捕者が出たりして穏やではない。12月22日の朝日新聞・東京面に<「未解決」島を包む不安>と題した6段記事も載った。人口8604名、4863世帯。狭い島ゆえ、うっかり口にも出来ぬ。島に行けば露天風呂で沈む夕陽を見つつ、古老らが語る島の昔話や噂を耳にするのが愉しみだが、今は誰もが口にチャックなのではと思われる。<語られぬ湯殿談義に事件あり> 写真は前述新聞を1/5秒でズーミング。


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