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島村抱月「諏訪町65」判明 [大久保・戸山ヶ原伝説]

suwa65hakoko.jpg 6月7日ブログで、島村抱月の自宅「諏訪町65」がわからず難儀したと記した。新宿区図書館が7月1日より通常利用再開で、同日に「中央図書館」入館。数分で同番地が確認できた。

 地域史料コーナーで最初に眼に入ったのが「明治44年高田村・戸塚村全図」(人文社)。抱月が薬王寺から「戸塚村諏訪65」の新居に移ったのが明治44年、41歳の時。まさに当時の地図です。

 諏訪神社からちょっと右上「大字諏訪」の「大」の字の横に「65番地」(靑丸)があった。当時から今も変わらずは「諏訪神社」と「亮朝院」だけか。その線上の1/4程の位置。後に「65番地」辺りに「明治通り」が開通(池袋~新田裏の開通は昭和6年)した。

 抱月は「諏訪65番地」から「高田馬場駅」まで歩き、松井須磨子は「大久保駅」(新大久保駅開通は明治45年7月)から電車で高田馬場へ。二人は手をつなぐようにして線路向こうの「戸山ヶ原」へ向かう途中で、市子夫人に捉まった。

 数日を要してもわからぬことが、図書館へ行けば数分で解決。改めて「図書館っていいなぁ」です。貧乏隠居の小生に「マンションを売って大島ロッジで暮せばいいじゃん」と勧める方もいる。ポストには不動産屋の「高価買取り」チラシが日々投げ込まれるも、新宿区に図書館7館もあるってことが「新宿暮し」がやめられぬ最大理由です。

 昨日「国立国際医療センター病院」に設けられた「新宿区新型コロナ検査スポット」に入って行く幾人もの姿を初めて観た。昨日の都内新規感染者124人。拡大の兆し、間違いないだろう。

 抱月は大正4年(1915・45歳)、牛込横寺町に新築の芸術倶楽部に「須磨子との愛の巣」を構えつつ、全国公演の暮らし。文字通り〝密〟の中で暮して、48歳で「スペイン風邪」で亡くなった。

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渡辺淳一『女優』⑤須磨子著『牡丹刷毛』 [大久保・戸山ヶ原伝説]

hamlet_1.jpg 松井須磨子著『牡丹刷毛』(大正3年刊)に、島村抱月「序に代へて」あり。女優・須磨子の素晴らしさを記していた。その一部概要を紹介する。

 ~俳優には、言ふまでもなく声が、肉体の釣合が、顔の造作が、記憶もよくなくてはいけない。表情が強く、練習が積まれてゐなくてはいけない。逆に気の散る人、遅疑する人は俳優になれない。眼前の路を一直線に前進する人でなくてはいけない。例えば、舞台に立って科白を言ふ間に他の事を思ふと、科白の中の思想感情が中絶する。言葉を胴忘れしたり、動作に間隙を生じたりするのはその為である。舞台に穴が明き、演技の緊張感が欠ける。

 之れを救う唯一の道は、其の与へられた思想感情を純一なまゝに捧げ持つて、崩さず、惑わずに進行する工夫である。それは情熱の力、信念の力、同化の力によってゐる。俳優といふ肉体芸術家の霊魂が有する描写力、表現力、創造熱の永続。女優としての須磨子女史が有する最大の強味はこれだと思ふ。otiyo_1.jpg

 さらに須磨子の劇団内での不評についても、こう分析していた。~俳優ならではの特性を有する事で、直情径行の癖がつき、理性を忘れて感情に走ると目せられ、世渡りが下手になる。傍から浅はかな、無反省な我がままものゝやうに誹られる。殊に女性としての須磨子女史が世間の一部から孤立してゐる最大の理由がこゝにある。

 抱月が「ラブだぁ~」と叫んでいても、彼女の魅力・欠点を冷静に見抜いているのがわかる。また『人形の家』ノラの稽古で、差し伸ばす腕が真っ直ぐになるまで如何に長い練習をしたかなどにも言及。演技に興味ある方は「国会図書館デジタルコレクション」松井須磨子『牡丹刷毛』をどうぞ。同書には須磨子の17章随筆が収録で、読んでいると須磨子の息遣い、肌の温もりも伝わってくるようです。

 一方、島村抱月著でお勧めは本人著『人生と芸術』(大正8年刊)。雑司ヶ谷墓地の墓石に刻まれた「在るがまゝの現実に即して全的存在の意義を髣髴す 観照の世界也 味に徹したる人生也 此の心境を芸術と云ふ」が同書冒頭に記されている。

 写真上は『牡丹刷毛』より『ハムレット』オフヰリアの真っ直ぐに伸びた腕。写真下は『嘲笑』お千代役。「~つまり男からありがたれゝばこその妾ですものね。もっともそれも若い内だけの事ですから。私はなるべく若い内に死んで了ひたいと思ってゐるんですよ」。

 新宿図書館、通常利用は7月1日だってさ。川村花菱『松井須磨子~芸術座盛衰記』、吉田精一『島村抱月〈人及び文学者として)』も読んでみたく思っていますが、ひとまず終わる。

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渡辺淳一『女優』④改めて抱月年譜 [大久保・戸山ヶ原伝説]

ningyounoie_1.jpg 抱月7周忌の大正14年刊『抱月随筆集』(国会図書館デジタルコレクション)より「島村抱月略年譜」を改めて紹介。

 明治4年:正月10日、島根県邦賀郡久佐村で佐々山一平の長男として生まれる。/明治24年:6月、邦賀郡の裁判所検事・島村文耕氏の養子になる。その前年に上京。10月、旧東京専門学校入学。/明治27年:7月同校卒業。「早稲田文学」の記者になる。(小生注:旧東京専門学校は明治35年に早稲田大学。「早稲田文学」は明治24年に坪内逍遥が創刊)

 明治28年:6月、島村瀧蔵次女いち子と結婚。/明治31年:読売新聞三面主筆となる。9月に旧東京専門学校講師になる。/明治35年:3月、東京専門学校海外留学生として英独に派せられる。/明治38年9月、帰朝。早大文学部講師。傍ら「東京日々新聞」の日曜文壇を主宰。(小生注:帝大卒の夏目漱石の英国留学は明治33年~明治36年1月帰国)。

watajyuyo2_1.jpg 明治39年:1月再興の「早稲田文学」主幹。『囚はれたる文学』『沙翁の墓に訪づるの記』『ルイ王家の跡』等名論文名文を簇出(そうしゅつ)す。/明治42年:文芸協会演芸部内の演劇研究科指導講師となる。早大にあっては既に文学部教務主任。大正元年:精神的、肉体的危機に立つ。(小生注:須磨子に夢中。明治45年・大正元年に市子夫人にデート中を抑えられる。抱月「ラブは命だ。死にたい」)

 大正2年:文芸協会幹事を辞し、芸術座を起す。早大英文科教務主任及教授を辞し、改めて講師となる。由来芸術座の事業に没頭。書斎裡の沈思瞑想の生活から急転して喧騒忍苦の巷の生活に入る、(小生注:横寺町の芸術倶楽部建設の資金稼ぎに国内巡業から海外公演。泥まみれの奮闘。木造2階建て「芸術倶楽部劇場」完成。そこで須磨子と〝愛の巣〟を構える)

 大正7年:11月5日午前2時、芸術倶楽部の一室でスペイン風邪で淋しく永眠。7日、青山斎場で葬儀執行。8月、雑司ヶ谷墓地埋葬。

 上記『抱月随筆集』に相馬御風が「島村抱月先生の七周忌~跋にかへて」が寄稿されている。~華やかな粧ひをした多くの女の人達の賑やかな通夜を振り返って「おもふこと多きに過ぎて御柩にむかへどわれおもふことなし」「通夜の人のにぎはふ中にまじらひて我は何をおもふとすらむ」「此のわれの夢見ごゝちのさめはてゝまことに泣くはいつにかもあらむ」と詠んでいた。

 また先生は「結局一個のさびしい先駆者」だった。先生の美意識は多方面に向かうも、自然の風物に心を寄せること少なく、道楽も少なかった。先生の心や眼は常に人間に、自己に、人の生活相に注がれていて、そこに先生の淋しさがあった。その意では長谷川二葉亭も同じく淋しい死を迎えた~と記していた。(小生注・『浮雲』の二葉亭四迷は朝日新聞特派員でロシア赴任中に肺炎に罹って、帰国船のベンガル湾で客死)。写真は抱月著『人形の家』表紙、渡辺淳一『女優』表紙。

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渡辺淳一『女優』③島村抱月墓を掃苔 [大久保・戸山ヶ原伝説]

hougetuhaka_1.jpg 小生、早稲田通り沿いに在住歴あり。その近くの明治通りあたりが昔の「諏訪町65=島村抱月旧居」だった。過日、その明治通りを「学習院下」まで歩いて都電に乗った。二つ目「雑司ヶ谷駅」下車で、眼前が雑司ヶ谷墓地。「1種16号2側」の抱月お墓を掃苔した。遺族が管理困難で2004年に島根県のお寺に遺骨を移して今は墓石だけ。

 さて渡辺淳一『女優』概要の続き。~トルストイ『復活』に劇中歌『カチューシャの唄』で大人気公演。余裕を得た抱月は、牛込横寺町で劇場作りに着手。大正4年、足らぬ資金稼ぎに国内巡業から台湾、朝鮮、満州、ウラジオストックと海外公演。帰国同時に木造二階建て「芸術倶楽部劇場」が完成した。

 舞台と1・2階客席で250名収容。他に稽古場、事務所、カフェー、そして須磨子の部屋と抱月の書斎。大正5年正月、抱月はついに家を出て、ここに〝愛の巣〟を構えた。同年は10公演。新作9本の大充実。

kacyusya_1.jpg 大正6年、須磨子のわがまま、座員不満は相変わらず。沢田正二郎が脱退して「新国劇」を組織。秋公演はトルストイ『生きる屍』。挿入歌は『さすらひの唄』(作曲・中山晋平)。同年も全国公演から満州公演へ。

 大正7年秋、須磨子は新派の女形と競演。他流試合で自信を得て、次は歌舞伎座との合同公演は舞台は「明治座」。市川猿之助、市川寿美藏と競演。スペイン風邪の世界的流行で、須磨子は舞台稽古中に38度の高熱。

 看護する抱月にスペイン風邪が移り、須磨子は恢復して舞台稽古を続行。だが抱月の熱は下がらず。渡辺淳一は「抱月を入院させる手もあったが、入院させれば市子夫人が病院に駆けつけてくるだろうで、自身が看護する道を選んだのでは~」と記していた。明治座初日を明日に控えた稽古楽屋に「抱月、危篤」報。人力車で芸術倶楽部に走り戻るも、すでに抱月の顔は白い布で覆われていた。(余談だが、この時期に神近市子は入獄中)

 大騒ぎの芸術座。続々と関係者が終結。葬儀委員長が坪内逍遥に。葬儀準備の最中、須磨子は初日の劇場入り。その前に郵便局へ寄り、抱月名義の郵便通帳を自分の名義に書き換えた。芸術倶楽部で通夜と葬儀。青山斎場で告別式。芸術座は須磨子座主となって遺産相続。だが抱月亡き後の芸術座の運営が、須磨子に無理は自明。彼女は頑張れば頑張るほどに孤独と虚しさが増した。

 疲弊した須磨子が仏壇の抱月写真を見つめる。抱月が「こっちにおいで~」と呼んでいる。「わたしも先生のところへ~」。逢引きを重ねた戸山ヶ原の春霞に手をとりあって歩いている幻想~。須磨子は遺書を認め、晴着に女優髷、抱月にもらった指輪と時計をはめて、舞台裏の物置で自死。酔芙蓉著『新比翼塚』には、その日は抱月忌日(5日)で、雑司ヶ谷墓地へ詣でた夜と記されていた。32歳没。

geijyutukurabu_1.jpg 写真は雑司ヶ谷の島村抱月お墓。写真中松井須磨子著『牡丹刷毛』(大正3年刊。国会図書館デジタルコレクション)より「カチューシャ」姿の須磨子。写真下は横寺町の芸術倶楽部(史跡看板より)

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渡辺淳一『女優』②物語概要 [大久保・戸山ヶ原伝説]

tuboutitei_1.jpg コロナ緊急事態宣言解除(5月26日)で、図書館再開のはずだが、新宿図書館の通常利用は7月1日から。全蔵書を消毒でもしているのかしら~、うむ、給付金など超多忙区役所へ図書館員動員~と妙に勘ぐってしまった。

 かくして国会図書館サイトへ。幾冊もの当時の松井須磨子、島村抱月関連書がヒット。著作権消滅で閲覧自由。もう少し両人に迫ってみたいので、渡辺淳一『女優』①で抱月旧宅、須磨子の「大久保」検証をしたので、上記小説から〝愛のスキャンダル〟概要をまとめておくことにした。

 須磨子は長野県出身。離婚歴ありの24歳。次の夫は高等女学校教師。彼の勧めもあって坪内逍遥「演劇研究所」生徒募集に応募。色白で大柄な容姿。隆鼻手術済。気性激しく負けん気強くわがまま。合格後は演劇熱中で家事放棄。夫が逃げ出して再び離婚。

 明治43年、最初の試演会『ハムレット』でオフィリア役。体当たり演技の輝きで、帝劇から同演目オファー。小林正子から芸名・松井須磨子へ。帝劇そして大阪公演も大成功。次の演目は抱月翻訳・演出でイプセン『人形の家』。この時、抱月40歳、須磨子25歳。

suifuyoucyo_1.jpg 島村抱月は明治35年より英国・ドイツの3年半留学を経て早稲田英文科教授。知的・ナイーブ・無口のインテリ。学費援助の方の縁戚・島村市子と結婚。仲しっくりせずも4男3女を設け、夜はお盛ん~。

 『人形の家』で須磨子は大スター。文芸協会も有名に。併せて運営も大劇場(興業)志向になって「芸術性より大衆性重視」で、仲間内に亀裂が出来た。須磨子は男心を操る天性を有し、性もおおらか。稽古で胸がはだけても平気。抱月も彼女に夢中で、前回紹介の不倫デートを市子夫人が襲う大騒動へ発展。

 二人の仲は公然。坪内逍遥と早大総長が、二人の仲を冷やそうと画策するも逆に燃えた。逍遥が須磨子に退会勧告。抱月は大久保の須磨子宅に通い詰める。総長は逍遥と抱月の会談を設けて解決を図るが、抱月擁護派が新劇団創設に盛り上がる。逍遥も劇団運営に嫌気がさして研究所4年で解散。抱月らは「芸術座」創設。初期メンバーも各々「無名会」「舞台協会」「近代劇協会」などを設立。

geijutukurabuato_1.jpg 「芸術座」設立で、須磨子のわがままが強くなった。それに怒った座員らがボイコット騒動を起こしても、翌日の須磨子はあっけらかんと稽古再開で〝元の木阿弥〟。幕が上がれば須磨子人気で連日満員。地方公演は生活が乱れる。座員脱退騒ぎがあっても『サロメ』の幕が上がれば超満員。大正3年、抱月・須磨子は劇団内では四面楚歌も、トルストイ『復活』と挿入歌『カチューシャの唄』で人気爆発、全国公演から東京凱旋。巷に同曲が満ちた。以上が長編の約半分。

 小生、中学生の頃に「新劇」を幾度か観た。姉が行けなくなって譲られたチケット。その後、テレビドラマで役者が泣いたり・怒鳴ったりの演技に生理的拒絶反応。芝居も映画も好きになれず。中年の演歌仕事で、歌手らが公演「二部」で演じる芝居稽古・本番取材が多い時期もあったが、仕事でなければ〝舞台〟を観たいとも思わず。好きな役者・芸人・歌手なし。

 写真上は余丁町の坪内逍遥旧居の史跡看板より演劇研究所。写真中は酔芙蓉著『松井須磨子:新比翼塚』(大正8年刊。国会図書館デジタルコレクションより)の口絵。写真下は横寺町9・10・11番地の「芸術倶楽部跡」(島村抱月終焉の地)の史跡看板。

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渡辺淳一『女優』①島村抱月旧居と大久保 [大久保・戸山ヶ原伝説]

simamurahogetu.jpg 同小説は島村抱月と松井須磨子の物語。最初の盛り上がりは明治45年7月末(翌月から大正元年)。抱月の市子夫人が夫と須磨子の不倫デートを突き止める場面。抱月が府下戸塚諏訪町の宅を出ると、市子は中山晋平(書生で住込み中。後の作曲家)に、夫が行くと言った九段の天野博士宅へ向かわせ、自身は女学生の娘を連れて須磨子を見張りに行く。

 須磨子宅は「大久保駅」の東へ2本目の路地の奥。見張っていると須磨子が駅で切符を買う。市子すかさず「同じのを2枚~」で買ったのが「高田馬場」までの切符。須磨子が〝次の駅・高田馬場〟で下車。そこに夫がいた。二人は駅から200m先の天理教会横を右に曲がって雑木林(山手線外側の戸山ヶ原)へ。そこで二人を捕まえた。

 須磨子「死んでお詫びをします」と戸山ヶ原に走り、抱月は自宅で妻に咎めらsumako.jpgれ、酒を飲んで「ラブは命だ。死にたい」と戸山ヶ原へ。翌日になると小説は何故か須磨子の住所が余丁町19番地外山豆腐店方の離れになっていて、もうグチャグチャです。余丁町の坂には坪内逍遥邸(二人が通う文芸協会・演劇研究所を併設)、坂を下った左に永井荷風邸(断腸亭)。共に両者旧居の史跡看板あり。荷風が慶應義塾『三田文学』創刊で、逍遥が『早稲田文学』の総師。

 さて、ここからが難問解決です。まず「諏訪の抱月宅」探しから。『我が町の詩・下戸塚』に「戸山新道の西に水道道路があり、そのあたりに島村抱月は新築2階建てに住んでいた。住所は諏訪町65。だが「戸山新道も水道道路も諏訪町65」もわからない。

 諏訪町~大久保駅~早稲田駅~戸山ヶ原~余丁町。なんだ!我家を取り囲んだ愛のスキャンダルじゃないか。わからないではやり過ごせない。諏訪町は現・高田馬場1丁目。大正時代の「東京市及び隣接郡部地籍図」をも調べるもわからず。

suwacyo65bann_1.jpg ネット調べで、明治通り風景を写して「島村抱月旧居遠景」としたサイトを発見。芳賀善次郎『新宿の散歩道』の戸塚地区地図にも明治通り沿いに「抱月旧居跡」の記入を発見。文章は「戸塚2丁目交差点から明治通りを南に行く。明治通りの池袋~新田裏の開通は昭和6年。コクヨ城西営業所の所が抱月の旧宅跡である。彼は41歳の時に薬王寺町から当地に建てた新築新居に移って来た」とあった。

 当時の地図を見れば現・諏訪通りも明治通りも細い路地に過ぎず。その一画に建っていたのだろう。抱月宅は明治通りの現・諏訪通りと早稲田通りの真ん中辺りらしいとわかった。

 次に「大久保駅」の次の「高田馬場」で下車も~おかしい。「大久保駅」の次は「東中野(柏木駅)」だろう。「新大久保駅」ならば次が「高田馬場」。しかし新大久保駅は大正3年開業で、小説の明治45年7月末には開業していない。

 ここまでが小説の約1/3までの検証? 以上2日にわたってのお調べ遊びでした。写真は国会図書館デジタルの「近代日本人の肖像」より。

 ★7月4日に、島村抱月「諏訪町65番地」判明を当時の地図入りで記しています。

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戸山荘㉔『和田戸山御成記』を終えて [大久保・戸山ヶ原伝説]

tokyosisiko.jpg_1.jpg 戸山荘のあった地は〝地元〟です。16年前に「東京市史稿」より大田南畝(写)の『戸山庭記』他を転載したことがあります。今回は三上季寛による寛政5年の11代将軍徳川家斉に随行した『和田戸山御成記』。文章を吟味しつつ、該当現在地をも確かめつつのアップ。戸山荘資料は多数ゆえ、機会があれば今後も読み込んでみたく思っています。

<「東京市史稿」の『和田戸山御成記』について>  同史稿は翻刻(くずし字で書かれた文献を活字に直して一般に読める形式したもの)ですが、昭和4年刊で、珍しい「くずし字活字」交じり。それはまぁ読めますが旧かな、旧字、濁点なし、無教養ゆえ知らぬ語彙も多く、解釈するのに「古語辞典、広辞苑」が欠かせなかった。

 読めなければ、濁点を付けてみる。旧かなを現代かなに直してみる。読点(、)位置を入れ直してみる。漢字変換をしてみる。~等々を試みつつの解読でした。小生は戦後生まれ。かつ母が茶道華道のお師匠さんでしたから着物の生活、茶道具、華道具などに多少の馴染もあり、道具名から〝あぁ、家にもあったなぁ〟などと懐かしく思い出したりしました。しかし今や「集合コンクリ住宅+デジタル生活」で、小生の子供らには江戸はさらに遠い世界になっているように思います。

 わからない個所はそのまま、またいい加減に読み飛ばした部分も多々です。それらが気になる方は、ぜひ御自分で「東京市史稿」をお読み下さり、御自身のサイトでアップ下さいませ。

<現在地の推定について> toyamaenzu.jpg_1.jpgowariko.jpg_1.jpg 戸山荘25景の推定現在地は「新宿歴史博物館」のチラシ「新宿の遺跡2019」の「尾張徳川家下屋敷」の絵図+現在地=「重ね地図」を、また幾つか建っている史柱を参考にさせていただきました。

<参考絵図> 国立国会図書館デジタルコレクションより①「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全図」 ②「尾候戸山苑図」(平野知雄・原図。戸山邸内の長屋生まれの藩士。42歳で安政6年の戸山御殿全焼に遭遇。明治元年に名古屋に移住して、戸山荘の思い出を『戸山邸見聞記』(明治元年3巻を刊)。そこから皆園圭・写で明治21年刊。 ③「尾張公戸山庭園」(寛政5年) ④「東京市史稿・遊園篇」2巻掲載の宝暦頃「戸山御屋敷図」

<参考資料> ●国立国会図書館デジタルコレクションより「東京市史稿・遊園篇第1~6篇」(昭和4年~11年刊)より、第1篇「和田戸山庭築造」「尾州公戸山御庭記」/第2篇「戸山御成記」(久世善記・大田南畝写)、「和田戸山御成記」(三上季寛)、「戸山の春」(佐野義行)他。

●新宿区歴史博物館の刊行物「平成4年度企画展図録・尾張徳川家戸山屋敷への招待」/「平成18年度特別展・尾張家への誘い」/「所蔵資料展・新宿の遺跡2019(特集)尾張徳川家戸山屋敷とその周辺」及び同テーマの計3回講座資料。

●書籍 ①小寺武久『尾張藩江戸下屋敷の謎』(中公新書1989年刊)/西村ガラシャ『公方様のお通り抜け』(日本経済新聞社2016年刊)/③清水義範『尾張春風伝』(幻冬舎1997年刊)/④芳賀善次郎『新宿の散歩道』(三交社刊)/⑤『我が町の詩 下戸塚』。他に多数ウェブサイトも参考にさせていただきました。

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戸山荘㉓徳川光友と千代姫と~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

segaiji1_1.jpg 三上季寛『和田戸山御成記』最後に戸山荘造営に関して~<尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心(気持ち)に任せ侍らしと仰せありしかば、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓てこと行はれ侍るとそ申伝へたるとなん>

 と簡単に記している。この尾公とは、11代将軍家斉御成りの際の9代藩主・徳川宗睦ではなく、戸山荘を造った2代藩主・光友のことだろう。加えて最後に本堂なしの「世外寺」も登場した。同寺は光友の正室・千代姫を産んだ「お振」の墓所・自証院(現・市ヶ谷富久町)が焼失で、家斉御成りの寛政5年の54年前、元文4年(1739)に世外寺(コブ寺)を移築したため。(絵図は尾候戸山苑図より。世外寺は現・生協辺り)

 ということで、戸山荘シリーズ最後は女性がらみだった光友の「戸山荘造成」経緯を簡単にまとめておく。光友の父・義直は家康の9男で、家光は2代将軍秀忠の次男。家光は衆道傾向ゆえ「おなよ」の孫娘「お振」を春日局の養女にしてボーイッシュ仕立てで側室にあげ、家光最初の子・千代姫が産まれた。「おなよ」は二度の結婚や夫浪人などの経歴、勉学で深い教養を深めており、義理の叔母・春日局の補佐役として大奥や家光の信頼を得た。しかし千代姫の母「お振」は、産後の肥立ち悪く3年後に没。

 12ヶ月の千代姫は、13歳の光友と婚約。寛永16年(1639)、14歳光友と2歳千代姫が婚姻。もし家光に男子が産まれなければ、次は光友が将軍なる密約もあったとか。だが2年後に家光に「家綱」が誕生。

 寛永20年(1643)、家光の勧めで「おなよ」は出家して「祖心尼」へ。同年に春日局も没。1646年、祖心尼は家光より寺社建立をと牛込に1万坪を拝領して「濟松寺」(現・早稲田駅から徒歩7分の榎木町)を開山。

 慶安4年(1651)に家光没。「祖心尼」も大奥を去って同寺へ。翌年に千代姫15歳、光友27歳の間に「綱誠」誕生。(側室が長男を産んでいるも、側室の子で嫡男へ。ちなみに光友側室は10名。子は正室の子も含めて11男6女。庭作りも好きだったが、子作りも好きだったらしい)

 寛文8年(1668)、濟松寺内に江戸有数の名庭を有していた80歳の祖心尼が、戸山荘の地4万6千坪余を光友に譲る。光友は翌年から造営開始。寛文11年(1671)、その隣接地8万5千坪余を幕府から拝領。理由は千代姫御病気御静養のためとか。周辺地も入手して計13万6千坪余の戸山荘へ。(尾張藩の江戸屋敷については徳川黎明会によるPDF「大名江戸屋敷の機能的秩序」渋谷葉子氏に詳しい)

 そして寛文末から延宝期(~1681)に戸山荘の主施設完成。戸山荘の作事奉行は尾州の加藤新太郎とか。なお「祖心尼」は濟松寺で余生を過ごし88歳で没。千代姫は元禄11年(1699)に62歳で没。増上寺に葬られたが、後に尾州瀬戸の定光寺に合祀されたらしい。この項は多数ウェブサイト巡りで自分流まとめ。また『和田戸山御成記』の三上季寛は、当時は御先手頭を勤めていた600石旗本と記したが、改めて同名検索すれば「火付盗賊改方頭」180代長官(鬼平モデルの長谷川宣以の8年後)でヒットした。多分同一人物だろう。次回にこのシリーズ主な参考資料を記して終わります。

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戸山荘㉒五重塔、世外堂で完 [大久保・戸山ヶ原伝説]

gojyunotouup_1.jpg ここかしこめくりて、なたれ(傾)たる芝生の清き事いわんかたなく(言いようがない)、塵もなく、さし出し草もなく、たゞのしにのべたるか(伸ばし絶え間なく続くさま)ごときうちに、見上るばかりの大石をこともなけにすへ、そのほとりに芝つつしなとたへたへに(控え目に途切れ途切れに)あしらへるさま、御庭の事司しめさせ給ふ人の心の行しことぞおし量られて、いと感することの限りなりし。右りもかたの長畑道とて細く清らに直なる道に入らせ給ふ。<この大石風景は幾つもの絵図に描かれているも省略>

 左に「番神堂」また「五重の塔」有。事ふりし(事旧りし=ふるめかしい)白木造りにて、是なん餘慶堂にての眺望なりけらし(~だったようだ)。このほとりは竝木(なみき)の松数もしられぬばかたちつゞきたるか。林の竹の生たるようにて、枝もすくなくすなほにてのびやかなる。西北の風烈しき所なるにや、梢は皆東南になびきて、吹ぬに残す風の姿(風が吹くことによって残った姿)もめづらかなり。「稲荷」の宮ゐ(宮居)など拝まれおはします。

segaiji2_1.jpg 此道をはるばると過させ給ひて「世外寺」と名付られし古寺の跡有。地内に地蔵堂また大きなる鐘あり。楼は節々多くたくましき荒木にて造りたるも古めかし。八幡観音虚空蔵殊勝にも又とふとし。小高き岳より見やりけるに、こは名におふ大久保などいへるあたりを見おろしたるけしき。折から青みわたりしもたくひなくぞ覚え̪し。むかしはまことの寺にて、墓所なんと有しとし。万治の年号刻る石燈など有き。誠に閑寂たることともあわれけに見へしも、皆御庭の風情もとめんたよりに作りし成べし。西南山の車力門より還御おはし給ぬ。これは寛政五のとし、けふの暮つかた(暮つ方)のことになんありけらし(~たらしい)。

 そも此御庭と申は、将軍家大猷公(徳川家光)の姫宮、尾州家へ御入輿ましましたる時、御遊び所にとて進せしめ給ひし、二とせ三とせ過にし頃、さいつ頃(先つ頃=先頃)の外山の庭はいかにとも尋され給るに、尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心に任せ侍らしと仰せありしかは、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓て(やがて、にわかに)こと行はれ侍るとぞ申伝へたるとなん。

seikyo_1.jpg けふの御もてなしの御調度ともは、皆御宝にて尾州国よりはこびもて来しものなるか。程もなく築地の御屋敷なる御蔵へ運き行て舟艤(ふなよそおい)し、尾州国の御宝蔵へ送り、かりそめに造られし御調度迄一ツとして残し給はず、皆御宝の数に入られたるよし聞伝へし。其折しも幸に御供にまかりて、ここかしこ見し聞しこと計をおもひ出しはしはし書つづり侍るもよしなし。『和田戸山御成記』(16)完。

 <世外寺(せがいじ、コブ寺)があったのは現・生協(写真)辺りか。世外寺は千代姫がらみゆえ、尾張2代藩主・徳川光友の造営経緯をまとめる最終回に詳しく記してみたい。「五重塔」は現・小生マンション7F眼前が14、15階の戸山ハイツ群だが、昔ならば眼前に五重塔が建っていたのだろう>

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戸山荘㉑望野亭で無礼講の宴 [大久保・戸山ヶ原伝説]

bouyateup_1.jpg 扨かの「望野亭」(ぼうやてい)の御殿には、御上段をかまへ餘慶につぎたる大との(殿)造りなりき。御床には喚鐘撞木(かんしょう:小さな釣鐘+しゅもく:それを叩く木の棒)をかけられ、寄合書の三十六歌仙の手鑑。筆はしるし(著名)なけれ共、ふるき筆の跡位も尊とげにて某人の名もしたはし。画は藍をもて艸々と書たるか。さもめづらかなる御物也。唐かねの菊の折枝の文鎮のさひしけなるをそ置き給ふ。

 数々の御殿につづきし御厨(みくりや=台所、御供所)をば、あらたに造そへられ、御井(みい=井戸)は大広床の最中にありて、かたへ(片方)には大いろり、青竹もて作れるおちゑん(落ち縁=雨戸外の座敷より一段低い縁側)なんどいさぎよし(景色などが清らかである)。御はめ(板張り)には御画師の何某打つけて気より畫(かくす)る。いかにも浮たつさまにそかゝせ置る。御手水入られしは南京とかや、いかにも大きなる瓶なり。水満ち満ちてきよき事のかぎり言葉もなし。人々めづらしき器也とて感じぬ。

kanzan_1.jpg 大納言殿(尾張公)より贈物にと檜重三組(重箱)、からはらに紙片木器なんぞ取そへて、たばこの火に茶のまふけまで残所なく出しおかれし。御前にて御供の人々に御酒など給はり、興すること限りなし。酔(よえ)る貌は夕日のかがやかされてまくよりあかし。

 たはふれののしれども聞とるべきこと人もちかずかす。心そらになして御前の事も覚へず顔になるまでゑゝる(出来ている)もあり。御酒たけぬものには御菓子をとり広めよとて、御庭に氈むしろなんとしどろ(乱れ)に敷わたし、をのをの腹ふくらかしていねむり出るもおかしき事になん。御供のおさの誰かれは、傍なる小座敷にて御酒肴とも数々給りける。皆せきふくれたりとて、かの広き芝の原を走競せばや(したならば)とて、酔るはころびころびてさまよへるなど、いと御気色よかりし。

 日のかたむくもしらで(不知で=知らずで)ありけるに、かねて期せさせ給ひし事ありて、鴈かしまし(喧し)うたせせよとあれば十匁の炮薬もいとつよふこめて、三放まで大井の何某つかふまつれが、御供の人々あつまり侍りける。

 御名残惜し、今一廻り給んとて出立勢給ひ。「乾山」に登らせたまふ。この御山は九折なり。老木の松の枝垂しをばひくくり、根などに取付登りみれば向うには「諏訪明神」の御林しんしん(森々)たる御よそほひなと、又たくひなき風景也。あたりの野原には秋のためにや萩薄など植置れし。をのがさまざま(己が様様=思い思いに)芽生出て、花咲秋をまた見まほしげ(見たいようす)にて、人々も行なやまり(悩めり=悩んでいるようにみえる)。『和田戸山御成記』(15)

 <絵図上「望野亭」は現・学習院女子大の敷地内。絵図下「乾山」は現・明治通りと諏訪通り角の区立西早稲田中学校辺り。富士山も描かれている。この記述を読んでいると「寛政の改革」から解放された御供らの、いかにも楽しそうな姿が浮かんできます。>

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戸山荘⑳臥龍渓・養老泉・望野亭 [大久保・戸山ヶ原伝説]

garyukei_1.jpg <全図拡大で、宿場木戸を出た所の「石カケ嶋・臥龍渓」を確認して~> しばし行ほどに「石カケ島・臥龍渓」。ここには橋などのかたちに御床几やうのものをいくつもならべて広くまふけ、尾州にて造りしものとて、黄なる氈(もうせん)に色々の山水の画をえもいはれぬほどうつくしく織出したるを、広やかに敷わたされしも興ありて覚へし。

 <次も位置確認に絵図(西が下)を拡大。琥珀橋の左に「四ツ堂」。池沿い先に「傍花橋」。小池奥に尾張瀬戸焼の阿弥陀像安置の「阿弥陀堂」。奥に「奥の院」。四ッ堂の斜め左下に「養老泉」。奥に「薬師堂」。さらに左下に「望野亭」>

yorosyuhen_1.jpg 「三嶽権現薬師堂」「養老泉」。抑(そもそも、さて)此いづみと申は石にて作れる井なり。いかにも清き水の湧出て、さされ石のかくれぬほどにさらさらと音して流行も耳にとまりぬ。この茶屋には紅の氈を敷ひろげて、ゑにしだ(金雀枝。黄色の蝶形の花がいっぱい咲く)の花を籠にいれて、垂撥(すいばち=花器を掛けるべく板に切り目を入れた道具)にぞかけられたり。人々にもやすらへとにや(~であろうか)、小き棚におかしげなる茶わんひさぐ(拉ぐ=ひしゃげる)なんどまで取そへられしに、ものわびしげにも見へし。(現「養老泉跡」支柱の奥は、学習院女子大敷地内になります) 

 斜に向ふ「四ツ堂」といへるは、四間四方程もありて、いかにもゆへあるさまなり。柱はあけ(朱)にして、銅ものは緑靑をもてぬり、床はなく石畳にて、水引(四本柱上部に横に張る細長い幕)なんどいへるあたりは、皆彫物に手を盡し、真中にはもの釣べきたより(手段)と覚しくて、大きな環を打てたれにける。yorosen2_1.jpgyorosenato_1.jpg此御堂は何の為ならんやといふかしき見もの也。市買(いちがい=市ヶ谷)の御館の御庭にも四ツ堂とて、是にたがはぬ御堂ありと聞侍る。

 「傍花橋(ぼうかきょう)」のこなたより左りの寺に「阿弥陀堂」あり。奥の院と名づけしは、山のかたはらを少し平めたるに、ちいさき屋根計の堂に、尾陽瀬戸(尾張瀬戸焼)の造りし仏像古びわたりてさむさげにぞおはします。凍にやとちけん(?)、ひび多くありて、見事さ、殊勝さ、たちふべきにもあらず。四尺計も有なん座像にてぞ有し。

jyusuidou.jpg 爰にてまずおほよその御けしきはのこりなく見尽されたるならんかしと思ふにはや(ばや=~したいものだ)。大原の「望野亭」といへる殿にぞ入り給ふ。此大原と申は、広く平らかなるもたとふべき處なし。小松などしげからずに生て、はれやかに右の方の向ふに「拾翠台」(左図。御成御門脇にある)とて小高き所あり。面白げなる道を廻りて登りいたれば、日おふひの紅と白の布幕にてこしらへ、小き御ゆかをかまへ、遠眼鏡などかけられ、其かたはらは皆うすべり(薄縁=縁をとったゴザ)などいへる筵を広く敷て、青竹の節をもて鎗のやうにこしらへ、地にさし貫て風のふせきまでこまかなる御事なり。見渡されたる方は、名さへ高田の馬場隈なく見へて、ぞうしがや(雑司ヶ谷)鬼子母神など云あたりまちかく手もとゞきぬべきやはと覚ゆるもおかし。萩のかれえの垣ゆひ廻してさはやかなり。『和田戸山御成記』(15)

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戸山荘⑲古驛楼や高札の戯言 [大久保・戸山ヶ原伝説]

odawarajyukuzen_1.jpg <カットは全図の部分拡大。写真は小広場に建つ「古驛楼跡」史柱(赤丸)。この辺から右奥の建物(現「シルバー活動館」昔は児童館)へかけて小田原宿を模した町並が続いていたらしい。160年前の我家近所に、そんな戯れの宿場町があったとは、信じるも信じないも貴方次第。

 本陣といへる家には紫と白との布ませ(仕切り)の御幕引廻されしも、ちりめんにてあんなれば(~と聞けば)、風に吹なびきたるさまうやうやしくぞ見渡されたる。菓子(果物)の名をくすりに戯ぶれて茘枝(ライチ)丸、龍眼(リュウガン)圓、蜜漬丸などやうのkoekirousiseki5.jpg数々。金だみ(だみ=彩潰し。塗り潰す。金だみ=金泥で彩色すること)たる看板を臺にすへて、うしろには虎の絵かきたる屏風を建られたり。こゝをなん(強調)「古驛楼」と名付て、内のさまつきづきし(ふさわしい)。御上晴(御上=おうえ、座敷+旧字の晴=?)のご縁は高欄作りにて、氈敷ひらめ(平め)かしてことやう(異様、風変り)にこしらへ、こゝにはしばしやすらはせ給ひて興をそへ給ひし。

 <古語辞典、広辞苑ひもときつつ四苦八苦です> 我等ごときは始ことたりぬ(不足)など申せしも、いとふ(厭ふ)さみしげに成たるなどいいて、蓮葉につつみしかれいい下し(言い下し)給ふを手々に(てんでに)取てそたひにたひける(粗大に度ける?)。酒たうべ(飲む食うの謙譲語)など興ずるも多かりけり。御共のくすし(具すし=従い歩く)何がしかれがしそれがし(誰・彼某・某=だれ・あんた・わたくし)など、かの駕に乗てかたげ(乗手・担げ)ありきしも興尽ぬ事ぞ多かりし。かたへ(片方、傍ら)の経師表具したてて、かり張(無茶、むやみ)に懸置けるも、御もてなしの数なんめり。

 此所を過て大きなる木戸のある番所はいかめしくかまへ、火の番などいふめる(~ようだ)。とほしなとのさま(通行などの様)にいたるまでこまやかにぞ、其外面に星霜ふりし制札あり。たはふれの製し詞ことある中、落花狼藉尤くるしき事、草木の枝きりしたん停止の事。人馬の滞あつてもなくてもかまいなき事と、さもことごと敷そ建られたり。このころのたはふれ(戯れ)に書たらんものなりせばばかばかしき、御前にたてゝおかるべくもさむらはねど(さむらふ=「あり」の謙譲語。傍に控える、近づくことはございませんでしょうが~)、年ふりたれば(年を経たれば)、文字もさだかならず。やうやうとさゝやきあんじて(考えて)読つゞくるほどになんありけるにぞ。ふりにし(古るくなってしまった)世のしたはしげにや、人々もとふとみあへりき。『和田戸山御成記』(14)

 <高札原文と現代訳を以下に記す> 一、於此町中喧嘩口論無之時、番人ハ勿論、町人早々不出合、双方不分、奉行所江不可届事。(この町中において喧嘩口論これなきとき、番人は勿論、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所に届けべからざること) 一、此町中押買不及了簡事。(この町中で押し買いは了簡およばざること) 一、竹木之枝幾利支丹堅停止之事。(竹の枝、キリシタン堅く停止のこと) 一、落花狼藉いかにも苦敷事。(落花狼藉いかにも苦しきこと) 一、人馬之滞有てもなくても構なき事。(人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと)>

 <小寺著には37軒の町屋は約207m。1軒平均間口は約3間半(5.5m)。北端の木戸内に番所、外に高札。古驛楼と称する本陣は、以前は小田原名物の老舗「外郎屋」の名。この宿場町は享和3年(1803)の正月火災で27軒焼失。文化12年(1815)に古驛楼はじめ8軒再建。文政3年(1820)に11件、同4年に10軒完成で完全復活。弘化4年〈1847)の12代将軍家慶の来遊時にも町は健在。安政6年〈1859)の大火で焼失。同著は「虚構の町」で1章を設けて当時の図面入りで詳細紹介している>

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戸山荘⑱小田原宿を模した37軒の町並 [大久保・戸山ヶ原伝説]

koekiroup_1.jpg 抑(さて、それにしても)世に言伝へ侍る五十三駅(つぎ)を写し給ふなど申侍る其所におもむかせ給ふ。まづ左り右りの家居竝立(いへゐたちならび)てあやしの茅葺の屋に茶釜などいかにも鄙びたるさまにこしらへさせ、団子でんがくなどいふものを木にて造り、白々とぬりてならべ置けるさまもいと興ありき。弓師が見せには、白木ぬり木さし矢(差し矢)弓なんどまで二三十弦もかざりて、弓がための木などもかけ、小刀前がんな小かんな、大板には弦天鼠(くすね=接着剤)皮ことごとく握皮なんど切ちらし、隣の矢師は矧立(はぎたて)の矢多く錺り、矢柄竹ことごとし(弓道用語調べをどうぞ)。

matiyaup_1.jpg 本肆(ほんや)には、唐本和本誰か著述かれる石すか(石摺り?)新板色とり草紙袋へ入たるなんど棚に満、見せに錺りて夥し。薬種屋にはいろいろの薬種あらゆる数々取そろへ、袋の銘などやうありげに(わけありげに)唐めきて、御共のくすし(者?)共も胆をけし侍るほどにさへありてこしらへたり。

 合羽色々数を尽くし、桃灯(ちょうちん)はかたちもさまざまにかはり、思ひ思ひの紋をば書たり。茶売る家には茶壺を並べ竝(なら)べ、宇治の名所の数々さも風流なる手跡にて書たり。又下さま(下様)の茶には筆もまたいやしげにて荒々しく大きなる袋に入、かねて取散したるもおかし。

 金商ふ家には、天秤分銅などいへるものに大福帳、懸硯(手提金庫)などいふもの取そへ、銭は藤かづらやうのものにてさも誠しやかに造置たり。米屋にはさすが名におふ尾張俵を杉なり(三角状)に積たり。菓子見せには色々のもの共皆木にて造り、うましげにぞ見へし。医師か家迄造なせり。和田戸庵と宿札かけて、いづち(何所)へか出行けんさまして、薬箱に菖蒲草のおほひをかけ、碁将棋盤に茶臼をもそへて置たり。国助といふ鍛冶もあり。いろいろの打もの吹革(ふいご)ことごとしく炭取散らしていさぎよかりし。

 植木屋には腰懸などさわやかにつくり、家のうちを通りて奥の方へ行ば、いろいろの植木をうへ、石台(せきだい、植木鉢の一種)など花もいろいろ盛に葉をわきてつやつやし。「問屋」などいへる家は一きわ棟高く、見せは土間にして広く、四ツ手かごといふのりもの三ツ四ツ新に造りて置たり。

 其外数々思ひ思ひの秀作とも中々覚も尽くがたし。色々ののうれん(=のれん)紋所など家の名迄それぞれに似やわしくて、腹ふくるゝわざにぞ。炭屋薪屋酒屋せうゆ(醤油)味噌酢扇店、造花見勢(店)などわきてうるはし。生花いろいろ大桶小桶筒などそれぞれに多く入たり。御いへつとにとて一ツ二ツめされ給ひし(主君はすでに幾つかを召しあがったの意?)。小間物屋きせるこの外数も覚へねどいづれいづれおとらぬ事の多かり。『和田戸山御成記』(14)<ゆっくり読めば、なんとか解釈できそう。長いのでここで区切る>

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戸山荘⑰招隠里を探す [大久保・戸山ヶ原伝説]

syouinri_1.jpg 「招隠里」といへる世の常ならぬ御物数寄(ものずき)と覚しく、大樹生茂りたる枝払ふ事もなく、いつの世よりか苔も蒸し(苔は生える=むす)そへしにや。深みどりなめらかに、いやむしにむしそへて、いはんかたなく(言はむ方無く=言いようがなく)物すごきさまなり。「しづかなる庭のうちなるかくれ里 これも浮世のほかとおもへば」

 是は尾州家二代の君(光友)の自詠自筆にて、たやすく出さえ給はぬ御事と申されしもむべなり(いやはやもっともである)。誠に木の葉も去年のまゝにて雪のをのづから(自然に)消しあとなどと覚しく。其儘に草もねじけ(拗け)木もねじけて枝もきらず。なべてみどりの色にうつりて、人々のかほまで青ミたるやうに覚へしも、又なきしづけさなるべし。御すまゐの閑寂たる事はたとふるものなし。ひとりなと行たらんには物すごくたへかたかるべきと思ひやられ侍りし。

 扨、此山を出させ給ひ、左の方の沢には紫と白の杜若今を盛なりき。「大日堂人」「丸の堂」あり。この像はほのぼのとの画のさまをうついしたるかたちなり。過し年、狩野栄川法印(余慶堂で登場の狩野惟信の父・典信)此御庭を拝し奉りし時。御像を申syouinriurakara.jpgていはく、画の心に叶ひたりとていとふかく感じたるよし申伝しと承りき。『和田戸山御成記』(13)

 <招隠里(隠里御茶屋)は、絵図から現在地を探せば23号棟西側辺り。坂を少し登った地ゆえ、勝手に写真の辺りだろうと推測した。この写真の背(反対)下側方向に「古驛楼跡」史柱有り。余談:その地を探して同地へ行けば、女の子がヘビを持ち、嫌がる小生に迫ってきた。新宿とは云え、古の隠れ里に今だヘビ棲息なり。戸山荘には関西のカエル、ホタルも持ち込まれたが、そのヘビの先祖も関西系か。

syouinri3_1.jpg 「大日堂・人丸の堂」は、絵図の通り小田原宿を模した町並の西側。「大日堂」は大日如来を安置した堂。「人丸の堂」は柿本人磨を祀った堂。次回はいよいよ小田原宿を模した町並へ>




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戸山荘⑯カニ川源流と排出 [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanigawa1_1.jpg ここで「カニ川」のお勉強です。芳賀善次郎『新宿の散歩道』より~ コマ劇場を中心とした一帯は、大正のはじめまで元長崎の大村藩主・大村子爵の屋敷で「大村の山」と呼ばれ、うっそうとした森林で池もあり、そこが水源のカニ川になって西向神社下へ流れていた。明治20年頃の同池は閑静なカモ場だったが、明治30年代に一帯を尾張屋銀行の頭取・峰島喜代女(尾張屋5代目の女性実業家)が買い取り、森林を伐採し、淀橋上水場建設で掘った土で池を埋めて平坦地にした。(現在、コマ劇場跡に30階「新宿東宝ビル」が建ち、目下はミラノ座跡に40階ビル工事が始まろうとしている)

 カニ川の水源はもう一つ。新宿2丁目の太宗寺裏「新宿公園」の池は、元太宗寺庭園一部で、その池もカニ川(金川)の水源。以上の二つの流れが西向神社下で合流して戸山荘に流れ込んでいた。(小生の若い頃の記憶だが、同公園は薄暗い奥が窪んで池だったような。今は明るく平らな公園になっている)

hirayatoyama1_1.jpg ちなみに『江戸名所図会』『絵本江戸土産』の大窪天満宮(西向天神)を見ると、門前に小川と小さな池(水色で着色)が描かれている。それが北上して(絵では左へ流れて)戸山荘へ。全図の拡大図から判断すれば、カニ川が流れ込んでいたのは現・東戸山小学校と東戸山幼稚園との間辺りと推測される(写真上)。

 昭和45年(1970)の地図を見ると、当時の「東戸山小学校」は現在地より西側に建っていて、その西側が崖状(崖下の道は現存)。同校校歌~♪富士の高嶺を西空はるか「玉の泉」の湧き出るところ~は、その西側崖からの湧水で同校裏門辺りに50mほどの池になっていたそうで、「玉の泉」とはそれだろうと推測する。また湧水は学習院女子大内はじめに幾つもの湧水があって、それらも戸山荘の池へ流れ込んでいたらしい。さらに同地図の東側(地図右際)が土手状地形になっていて、ここにカニ川が流れ込んでいたと思われる。

nisimukikawa_2_1.jpg 戸山荘からの流出については『我が町の詩~下戸塚』(下戸塚研究家)を参考にする。~戸山荘を出たカニ川は、穴八幡角の八幡坂下(三朝庵辺り)に「駒留橋」があり。その下をカニ川が流れていた。葦や熊笹が密生し、大小の樹木が繁茂。野鳥も多く特に雉が多く棲息していた。

 また『戸山荘御邸見聞記』には~ 穴八幡坂下に正覚寺あり。先年の戸山御泉水水抜けの節、境内本堂の縁上まで水が満ちた。水が落ちた後、近辺の若者が墓所に入って鯉、鮒、うなぎなど夥しく捕えたと記されているそうな。またこの水没は20町(約2.2㎞)先の中里村まで及んだとかで、戸山荘の池泉量を物語る記録になっているとか。なお「正覚寺」は「江戸切絵図」を見ると穴八幡前、現・早大戸山正門辺りにあった。

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戸山荘⑮カニ川は二手にわかれ~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanihairu.jpg 「濯纓川(たくえいせん)」はあさき流なるに、おもしろげなる石をしけく(繁く=いっぱい/をしけく=惜しいこと。〝繁く〟と読んでみたが~)おきて、つたひありくさまも清げなりき。「清水御座郷屋」とて田舎めき(めく=~らしくなる)たるか、御ゆか(床)もなく、御腰休めばかり竹と木と交あはせて作られたるに、夏毛と冬毛の鹿の敷革を六ッ七ツ重ねて出しおかれしもゆかしけなりし。その横さまに御供のやすらひ所も有けり。これはなをひきく竹にて造られし。此御屋の内は、皆砂を敷わたして箒の跡も乱さぬさまにてありし。こわ(これはまぁ、なんとまぁ)御座のみあり。ちかく通り侍らねば、爰かしこに通べき道なきまゝに、かくまで心を懸られしは、御はからひと思はる。此ところのさま見渡し給ふけしきもなく、ひたすらにおくらきさま、餘の御すまひにかわりたるも興ある御事にて、又深き故もやあるらんかし(あるだろうよ)。『和田戸山御成記』(12)

simizuya.jpg_1.jpg <戸山荘に流れ込むカニ川は、上の全図(寛政年間作)部分拡大から、荘内に入るとすぐに北上する「古流」と、湿地へ流れる「流」に二分しているのがわかる。「流」は「清水御在郷屋」前の小泉水となり、そこから周囲の田畑への用水となって、名を新たに雅名「濯纓川」(大井川)になる。

 今年3月の新宿歴史博物館講座「尾張徳川家戸山屋敷とその庭園」講師・渋谷葉子氏(徳川林政史研究所)は、池泉は年代によって大幅に造り替えられたと説明。まず池水は南から「上の御泉水」「下の御泉水」「御泉水」の三構造。第一段階:主にカニ川より取水で満水。第二段階:「下の御泉水」が湿地化。北側(早大側)の「御泉水」はカニ川以外の水源によった。第三段階:南の「上の御泉水」が消滅し「下の御泉水」と「御泉水」が満水になって併せて「御泉水」になったと説明。

simizuya2_1.jpg 絵図(中)の「尾張公戸山庭園」(寛政5年)は第二段階の形だろう。カニ川は荘内に入るとすぐ二分され、「流」が小池泉にダイナミックに流れ込んでいるのが描かれている。そして絵図(下)「尾候戸山苑図」(幕末近くの様子)は、渋谷氏説明で「同図は東上空から南西方向を見たパノラマで、遠景の大久保から細いカニ川が石組トンネルを経て流れ込んでいる。それが「古流」。絵は林に隠れているが北上して「下の御泉水」へ。「清水御在郷屋」前の小泉水へは〝掘り抜き井戸二ヵ所からの流入だろう〟と説明された。文中の「御供のやすらひ所」は、図の赤いコの字型のことだろう。また「濯纓川」には摂津国小田の蛙(カジカカエル?)が放たれ、宇治の蛍(ゲンジホタル?)が放たれたとか。

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戸山荘⑭「称徳場」(馬場)へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

baba_1.jpg (筆者・三上季寛は、ここから戻るように「称徳場」へ)野道をつたひて「御馬場」にいたり給ひ。そも此御かまへはなみなみならず。馬場の中に一はしの土手をまふけて、めぐりめぐりて乗べきためにや(や=~であろうか)とも覚ゆ。むま(馬)のあし冷さしめ給んためなりとて、石をもて畳みおろしたる所ありき。この頃のさまにはめなれぬもの也。馬場殿にはうんげん縁(繧繝縁=格の高い畳縁)のあけ(赤・朱)畳なんどもありて、御間数々のありて、きらきらしかりし御事とも也。(『和田戸山御成記』(11)

 <絵図は「尾張公戸山庭園」(上)と「尾候戸山苑図」(下)の「称徳場」。現・東戸山小学校前広場の西土手際に「称徳場跡」史柱が建っている。その辺りから学校を突き抜けて大久保通り際まで伸びていたのだろう。小寺著ではこう説明されていた。~馬を見る御亭syoutokujyo_1.jpg(馬見所)があり、うしろに馬の脚を冷やす堀が造られていた。『戸山御屋敷御取建以来伝聞記』には、かつては馬場周辺に蹄鉄をうつ鍛冶屋などの建物があり、見物席や広い楽屋などを具えて本格的な舞台も付近にあって「門前五軒茶屋」と称する長屋風の茶店も並んでいた。(次回はカニ川について)


syotokuhiroba_1.jpgsyotokusicyu_1.jpg

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戸山荘⑬称徳場~彩雲塘~弁天島 [大久保・戸山ヶ原伝説]

babakatabenten_1_1.jpg 左の方の「紫竹門」(余慶堂内庭からの出口)を出させ給ひて、林のうちを過給ひける。ちいさき橋のあまたありけるが、皆新に造らしめて人の踏そめし(染し)跡だに一ツもなかりし。ふみならずまじとのおほせことありて、御供の人々もよきて(避きて)そ通りし。「称徳場(馬場)」といへる所を過て「彩雲塘」(弁天社に至る道)と名づけられしは、猿すべり(百日紅)という木の大きなるかきもとゝいふべbenten_1.jpgき、かぎりもなく左右に広がりて、枝は地をほふて、梢は雲に立のぼり。右りの方は、池の汀になびき、左の方は広き田面に枝さしおほひ、百日の盛に雲をも染なずべき名も思ひやられし。こまやかなり枝茂りあひて、もろこしの画などにみへしさまなるも、年ふりし(年古りし=歳月が経過している)御事の御いつくしみ絶せぬしるしなんめり(なめり=~であるようだ)と、心おどろかぬはなかりしか(ないのではないか)。

 「弁天島」は細道をつたひて、あけ(朱・赤)にぬりたるから橋(唐橋=中国風欄干の橋)をふむもおそれみ、ふるひふるひ(震い震い)わたるもあり。又けがし(穢し)奉る事なんはばかりて、ふし(伏し)拝みて通るもありき。宮居(神社)とふとけき御よそをひにして、宮めぐりするあたりも皆同じ。花の木ばかりぞ茂りあひける。そもそも此弁才天と申奉るは、ゆへある御事とて扉開き奉らぬならはしにとて、扉開き奉らんとせし時さはひなし(障なし)給んやなとの御事申も愚なるべし。『和田戸山御成記』(10)

bentenkoeki_1.jpgbentenjimaatari_1.jpg <戸山荘全図より「称徳場~彩雲搪~弁天島」部分をアップし、「尾張公戸山庭園」より「弁天島」部分をアップした。弁天堂はいわれがあって扉を開かぬことになっていたそうな。赤い唐橋の右の小橋から百日紅の「彩雲塘」が続いている。では「弁天島」はどこにあったか。おそらく現20号棟5階から俯瞰した桜の小広場辺りだろう。正面25号棟の右奥と26号棟左の間に見える木の茂み下に「古驛楼跡」(戸山荘を代表的する小田原宿を擬した37軒の街並の本陣=古驛楼)史柱が建っている。

 写真下右の桜の奥は19号棟~箱根山。19号棟は「平屋の戸山ハイツ」時代は、陸軍戸山学校時代の50m程のプールが残っていて、同棟を建てる際にプールを壊しての基礎造りゆえ建築業者が苦労していた。また広場辺りは更地で、後に桜が植えられた~と当時を知る友人が語ってくれた。同写真右端の20号棟手前辺りに百日紅の道「彩雲搪」があったのだろう。そこで箱根山に向かって立ち、両手を広げる。右手先に「称徳場」、足元に「彩雲塘」、眼の前に「弁天島」、左手先が「古驛楼」。現風景から陸軍戸山学校時代をも透かして、江戸時代の戸山荘の風景が浮かんでくる。

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戸山荘⑫餘慶堂の描写 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yokeidouezu_1.jpg 中央卓、紅地唐銅獅子の香炉。うしろの御間の御床には越雪湖の梅。右卓、朱からがね(唐銅)驢馬香炉。御湯殿のかたはらの御床には林和靖、李太白(共に中国詩人・文人の詩世界を描いた)探幽(狩野)筆にて一きわ見事なりし。御湯の御まふけし給ふ御ものはあらたに造らし給ひし名だゝる木曾山路の檜杉もて造らせ給ひたるしるしにや、匂ひも常ならず、なべてのいさぎよきことゝも申ばかりもなく、いちじるかりし(かりし=詠嘆)。

 偖(さて)此殿より廊二すじあり。越行て見るに、かぎりもしられぬほどの大御屋造(大書院造)にて、けつかう(結構)なることどもの数々ありて、案内なく入ては帰るさ(帰り道)わきまふべくもなかりきに。御障子御畳など一ツとして古きはなく、みな新に造らしめ給ひしか。うやまはせ給ふのかぎり尽されし御事のとうとさと覚え侍り。

yokeidousirusi.jpgyokeidousya_1.jpg 監の間宮氏御しりえ(後方)のとのに侍りしか、しわぶき(咳)からましけなるもおかし。この殿計にもあらぬか(?)。御手水の御調度御臺子(茶道具一式をのせる棚)なんと、きらきらしくあらたにまふけ給ひし。御庭のさまは大石の数々ねしけかゞまり。又石の工(たく)み手を尽したるなんと取合て、見所多かる限りあつめ尽されし。其ひまひまにはこまやかなる石をもて土は見へぬまで敷ならしたるも見物也。

 餘慶堂の御額は明人の筆。さも殊勝げに懸られし。御庭のさま、向ふの方には大樹かぎりもなくgotenatari1_1.jpg植つづけて、遠山のごとくなるを、一きは(一際=一段と)筥(はこ)などのやうに切平(ひら)めさせて、五重の塔はるばると見へける。何れの伽藍にやと思るゝに、是も此御庭の内にてまふけ(設け)させ給ひしと聞へて、おどろき感じあへり(しっかり感じた)。又左の方に是も梢を平めしめて馬場の埒(柵)などのやうに切ぬきしさま。何のためにかはと見るに、富士の高嶺白々とぞ見へける。裾野のかたはひたすらに見へもやらで、青葉計つゞけたるけしきいはんかたなくぞ(何とも言いようがなく結構)覚へし。

 木は松楓ぞ多かる。よのつねの森林には下草まだらなるか。此御庭にかぎりて下草のみどり深く、蛮国の羅紗なんといへる布を敷たるやうにぞ見渡されし。又きびたき(キビタキ)などいふ小鳥の所悪かふに(交ふに)飛めぐり、おかしきさましてさへずり。けふの御もてなしかふなるも又情ありてぞみえし。『和田戸山御成記』(9)

kigitaki.jpg.jpg <餘慶堂の旧称は「富士見御殿」。林の上部を平らに刈って緑の額縁「木の間の富士」。江戸百富士の一つとか。御殿も餘慶堂も安政6年の大火で焼失。餘慶堂はどこに建っていたか。まず戸山荘全図から確認。「御殿」の西側に張り出ているのが「餘慶堂」。その場所は、写真の丸印に「餘慶堂跡」の史柱が建っている(史柱の左向こうが11号棟・生涯学習館で、背が9号棟)。写真下の広場と10号棟辺りの奥に「御殿」が建っていたのだろう。おまけの鳥写真は小生が昔に葛西臨海公園で撮ったキビタキ> 

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戸山荘⑪御殿続きの「餘慶堂」 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yokeidou_1.jpg 峯を下りてかたわらの細道をしばし過給ひぬほどに、左りのかたに御鞠の御かゝりの跡とて、礎のうちにはいまも砂を敷わたして、かゝりの木と覚しくて、相生乃松(赤松・黒松が一つ根から生えたように見える松)あり。幾世経にけん(けむ=だったのだろう)しるしにや、三人ばかりにてもいだき(抱き)つべくもやあらん(出来るだろうが出来なかった)。高き木ずえはみどりもふかく、いや(きわめて)生に栄へたり。其いにしへは御垣の内にかゞまりたらんさまぞおもひやられて、誠に目出度木にぞありけし(あったようだ)。

yokeizenzu.jpg <それは何処?と資料を探すもわからず。ようやく「戸山御屋敷絵図」(下の図)で御殿西側に「御鞠場」「御土蔵」「石段御門」を見つけた。蹴鞠の御懸(かかり=蹴鞠を行う場)。木を四隅に植えた約15㎡の場で行われる。小寺著『戸山の春』では~ 玉円峰を下ってさらに進むと「御鞠場」の跡。内に砂が敷かれ、かつての懸り木と思われる相生の老松が一本(昔は四隅に四本あった)とあり>

 石段門を入ては、石を敷置たり。四角もあり、三角にこしらへしも有。さまざまの状の石もて(以て)、雨にも道わづらひながらん(煩ひ長らん)為とぞおぼゆ。左の方に御宝蔵とて棟高からぬに扉三所迄ありて、さながらくろがね(鉄)などにて造りたるやうに。きらきらしく見侍り奉りし。すべて此門の内はよ所にはばかりて(際立った)石とも多く、木も色々に造りなせれ、きりしまつづじの紅(くれな)ひ又たとふべきものなし。かしこ(彼処)には龍宮より得たるよしの鐘あり。色はみどりにして、かねのかたちはゑもいはれぬほどにねぢけ古めかしく、穴など幾つもありて、龍頭などいへるものもよの常にはあらで(なくて)、さも珍しき御宝にこそあんなれ。あらあらしき木もて造りたる柱にぞ懸られし。こゝかしこ御覧終りて、ひときはうず高き餘慶堂にいたり給ふ。

omariba_1.jpg <「石段御門」を入ると四角や三角などさまざまな形の飛び石が敷かれ、左に宝蔵殿があり、餘慶堂前に吊られた鐘。これは尾張の海で漁夫が網にかけた古墳時代の銅鐸らしい>

 さて此殿は大屋造にして、あけ蔀(しとみ=雨戸のようなもの。それが開けられて)御簾(みす=すだれ)かけの具などまふけさせ給ひて、雲の上の御よそほひをぞまふけ(設け)させ給ふ。其御床の三福対は、狩野法眼養川惟信(狩野これのぶ。木挽町の狩野派7代目。29歳で法眼の称号。号が養川)にあらためゑがゝしめ(改め描かしめ)給ひし福禄壽山水(七福神の一つが描かれた山水画)、祝ひにひにてこまやかにいさぎよきぞめでたし。砂もの(生け花の古典様式の一つ、砂鉢に木の株を立てたもの)とていかにも広やかなる御器に、松いぶき(伊吹:ビャクシン属の常緑高木)柘榴躑躅に手まり(紫陽花?)。牡丹、きぼうし(擬宝珠)、無儘草(シュンギク)、いちはつ(アヤメ科)なんとにて、さも活き活きとたて造らしめ給ふ。御二の間の御床には雪舟筆、これも山水をえがきたるにてぞありし。思ひのまゝに書なしたるやうにて、とどこふれる事少しもなく、やすらに妙なる事を感じぬるも愚なり。『和田戸山御成記』(8)

 <絵巻は餘慶堂。上が「尾候戸山苑図」。下が「尾張公戸山庭園」より。地図は宝暦頃「戸山御屋敷絵図」の蹴鞠場>

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戸山荘⑩大日本帝国の痕跡 [大久保・戸山ヶ原伝説]

toyamagako_1.jpg 尾張藩下屋敷戸山荘の地には「大日本帝国」時代の痕跡が幾つか遺されている。箱根山の麓に「戸山荘」史跡看板があり、その一段下がった所に「箱根山陸軍戸山学校址」の石碑も建っている。立ち止まって読む機会も稀ゆえ、ここに全文を写しておく(読み易く句読点をつける)

 この地は和田戸という武士の館の跡で、源為朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ、後代、和田戸山と呼ばれた寛文年間、尾張徳川候の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし、東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された。明治六年、その地に兵学寮戸山出張所が設けられ、翌七年陸軍戸山学校と改称されて以来、約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ、国軍精神の基を培ったばかりではなく、国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である。この度、東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたって、この記念碑を建てて東京都に贈る。昭和四十二年十一月 元陸軍戸山学校縁故有志一同

syoukoukaigijyo_1.jpg 戦後の民主主義教育で育った小生には、いかにも「大日本帝国・陸軍」らしい碑文と感じられるも、日本の歴史として無視するは避けられない。その暗部をも抱えているのが日本人でもある。

 「新宿区平和マップ」に区内の戦争に関する史跡が紹介されて、戸山荘該当地の史跡も写真付きで掲載。そこに「(国立感染症研究所内)納骨施設」もあった。そこは戸山荘の「臨遥亭」があった地だろう。同マップから説明文を写す。

 「平成元年7月、国立感染症研究所の建設工事中に、土中から少なくとも62体の人骨が発見され、その供養のため石碑が建てられました。この一帯には、敗戦まで陸軍軍医学校があり、鑑定の結果、陸軍軍医学校の標本などに由来する人々のものである可能性が高いと判断されました。その後、厚生労働省ではこれら遺骨を保管することとし、平成14年3月に(研究所敷地内に)納骨保管施設が完成しました。」

gungakudou_1.jpg 同パンフレットには他に「陸軍の将校会議室跡」(現在は私立戸山幼稚園の園舎として利用)、「軍楽隊野外音楽堂跡」、学習院女子大内の「近衛騎兵連隊之跡碑・近衛騎兵連隊宿舎・炊事場跡」などが紹介されていた。

 またかつての国立病院戸山5号官舎の下にも、当時の証言で陸軍軍医学校の標本人骨が埋められているとされ、2010年に同官舎解体後に発掘調査が行われたらしいが、その結果報はどうだったのだろうか。同地はいまは更地にのまま。明治通りを挟んだ反対側の戸山公園(大久保地区)は〝戸山ヶ原〟と称された練兵場(射撃など)などがあった。そこに忍び込んでゴルフに興じたのが大正時代の〝戸山アパッチゴルファー〟(当時の新聞記事を弊ブログでも紹介)。また多くの文人が散策記、多くの画家がスケッチも残している。次回『和田戸山御成記』に戻る。

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戸山荘⑨茯苓坂~和田戸明神~玉円峯へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

bukuryuzaka.jpg_1.jpg 坂下門左に「琥珀橋」「茯苓坂(ぶくりょうざか)。右に「桜の茶屋」。こゝの御まふけ(設け)には、臨粽などいへる花入に、杜若(かきつばた)にはあらぬ同じゆかりの花の色も絶なるをぞ入給ふ。御床のかけし(掛軸)は柴野大心一行もの(一行に書いた墨蹟)。「黒木の茶屋」のかけ物は雀鼬の画。是は名におふ曽我蛇足(じゃそく。一休に画を教えた室町後期の画家)の筆也。中央の卓桑の木地なるに、唐銅鯉の香炉、仙台萩を青磁の陶にぞ入給ふ。御棚には香匙、火筋建(こじたて。灰を扱う火箸立て)、南蛮のたくみなる梨地の盃にぞ錺られたり。

bukuryozakasiseki_1.jpg 右りのかたの石段を登りて「和田戸明神」を祭り奉るいとたふとげ(尊げ)に覚ゆ。神主の住所とて板の掘有りて、少坂をのぼりていかにも数寄にかまへたる家あり。御床には釣瓶(つるべ)に燕の飛遊ぶさまをいかにも面白くぞ画たり。よのつねの英一蝶といへる筆はざれざれ(戯れ戯れ)しく貴けき御前に出べきさまならぬやうに覚しか。此御かけしのさまはさうなふ心ありげに恥じからぬも御宝のゆへなるべしと、ひとり感じぬ。

 <英一蝶は江戸中期の画家。三宅島に流罪。大赦で12年ぶりに江戸へ戻って、さらなる人気絵師へ。小生は高輪・承輪寺の墓を掃苔済。〝ざれざれしい絵〟を一蝶が聞けば〝てぇやんでぇ、江戸っ子の粋が田舎侍にわかるもんかぇ〟と言うかもしれない>

 さて後のかたに引かくしたる御ま(間)にて、焼飯にしめもの(煮しめ物)など取揃へせり。色片木といふものに盛てぞありける。是は我等ごときよりも末のもの迄の御恵なりとて、人々つどゐて忍びかほしてたうべ(頂戴した)。御茶たまへ水給へととよみあひて(大声で騒ぎあって)興じぬ。しばしば御供の事も忘るゝ計りたのしみあへるさま、おのづから御心にもかなひまいらせしやらん(叶うことも忘れてしまった)。

hakoneyama_1.jpg 此あたりは町両側につづきて、家々に茶椀棚釜なんとへつゝい(竃)に懸置たり。そのさまよの常ならぞに、木瓜の形、又口のさし出たる。また口の小きさまざまの古きにぬるひたるなと殊勝かなり。茶道すきの人々はあなめづらし。かゝるたふときものを此さまにあまたありけなるをぞ感じあへる。

 <小寺著『江戸の春』では~ 坂下門を入ると坂の左右に町屋(擬似街並み)風あり。右の「黒木之茶屋」床の間に曽我蛇足の画、その先に「二之御茶屋」「三之御茶屋」(柴野の一行もの軸)、「四之お茶屋」(臨粽の花筒にあやめ)。左側に「桜之お茶屋」、その隣に釣竿などを売る茶屋。その先に「和田戸大明神」の鳥居。社は高い石段の上に祀られ、鳥居の脇に神主の家。床の間に英一蝶の画。この家の奥に焼飯などが用意されていた>

 「達磨堂」を過ぎ給ひて「玉円峰」に登り給ぬ。さゞゐ(栄螺)の状につくりて、高きことは凡五丈斗(15mばかり)もあんあるに、うちのぼらせ給ふ。むかしは見渡されしがたもあらんに、今は老樹雲をしのぐ計なれば、近きあたりは見へざりけり。晴やかならん折からには、遠境のけしきさぞと思ひられ侍りぬ。『和田戸山御成記』(7)

 <丸ヶ獄~玉円峰、そして今は箱根山。その周囲も高く標高は44.6m。都内一の山。★昔を知る方に聞くと「隅田川の花火の時は、箱根山頂上は人がいっぱいになった。よく見えたんだよ。反対側を向けば山の手線が馬場~目白と見えた」。『尾州公戸山御庭記』に、男女15歳以上の者に給金を払い、御泉水を掘らせ、その土を運ばせてこの御山が出来たと書かれている。絵巻『尾侯戸山苑図』の絵と現写真(茯苓坂の史柱あり)。その上の平らな所に「達磨堂」があったのかしら。茶屋が並び「和田戸明神」があったのは、現・箱根山トイレ辺りから手前の広場辺りだろうか>

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戸山荘⑧修仙谷を渡り錦明山、そして下る [大久保・戸山ヶ原伝説]

tounanbu_1.jpg かなたこなたつたひ下りて見れば、谷水したゝりて草もめなれぬ(目馴れぬ)が生茂り、丈ケひきゝ(背低き)人は行方も見とめぬ程にぞあんなれ(あるようだ)。雨降なば(~ならば)草も木も高からぬは皆水底に沈むさまならんかとおもひやらる。小き茅葺の「御やすらひ所」ありけるに、御床には青銅の布袋を置給ふ。そもいかなる人いつの頃にか作りけん。銅いろいろ艶有りて何やらん仰ぎ見るさまして、左の足をあげて笑ふくみたるよそほひ。あやしげにも見やられける。御次とおぼしき御やどりには、唯こしやすめのミゾありける(腰掛縁)。御手水なども清げにて、木賊(とくさ)なんど生て、小き石など所々にすえられしは、けふの御まふけ(準備)とど見へ侍りし。

 <小寺著『戸山の春』(佐野義行の記)を参考にする。「修仙谷」を下ると、流れは涸れて沢渡りの石伝いに歩むと、対岸に草葺茶屋あり。三畳の床に布袋像が置かれ、四畳半の土間には腰掛け縁。手水鉢の形もおもしろく、木賊が垣根のように生えて幽隠の境地のように思われた。この屋は一度取り壊されていたが寛政5年に再建>

sunrise_1.jpg 錦明山(絵図は右上。現在は写真左の区立障害者福祉センター辺り)、天満神を崇め奉らせ給ふ。御みやづくり神籬(ひもろぎ)のみありさまよのつねならず(並々ではない)。みかぐら(御神楽)奏し奉るみとゝのゝ(?)うちより、老木松生出たるか。四方に枝さし覆ひたるけしき、又なく面白侍し。茶など商ふ屋などもあり。左に水神の宮、元在郷屋とておかしげに造らし給う。

 <小寺著には、老松が屋根を貫いていたのは「絵馬堂」と記されていた。「水神の宮=水天宮」は社うしろから清水が湧き出して修仙谷へ流れ込んでいたが、光友没の頃に涸れたそうな>

jinkotunohara_1.jpg 「宇野のや地蔵」(絵図左下の「宇津谷地蔵堂」)は、山の中伏に白木造りの御堂にたゝせ給ふ。こゝもはるばるとのどやかに(長閑やかに)見所多し。かけ道(懸け道=険しい山道)をつたひ下りて、右は山、左は地水の清げなるさゞ波もたゝず。只凹なる鏡に向ふこゝちになん。初め見侍りし「随柳亭」を左の方に見なしたるか、風になびくみどりのいとゞ(ますます)王昭君(中国四大美人の一人)のむかし忍びかほなるもおかし。此辺に「在郷屋敷屋敷」ありし。すべて此家のさま、籾なんど敷たるうへに、荒きむしろひろげ敷おほひて、竈は皆ひとつなん(なむ=推量)あるに、黒木柴など取そへてくすほをりたるさま(燻りたる様)也。壁なども手してぬりくろめたるに、松葉なんとやうのもの、そぞろにかきものしたるもおかし。窓なども竹をあらはにのこし、三角丸四角などきわもなく(限りなく)ぬりにぬりたるまゝにこそ見へし。其あたりは竹の荒々しき垣、せんさいにはささけちぞ、春菜の苗手むさげに(適当に)植し。門は黒木をし立て竹のあみ戸しどけなくそまふけられし(杣葺けられし)。はねつるべ(跳ね釣瓶)などいふものありて、井のはたには水汲まふけて(設けて)、泥も浅からぬさまを催し、木履(ぼくり=下駄)のあとなんどいかにもあらあら敷付置(しくおきつけ)たるは、心深(ふこ)ふも数寄造られしにやと感じて過(あやたま)ぬ。『和田戸山御成記』(6)

 <元在郷屋に施された細やかな演出の紹介は、旧仮名・古語の楽しいお勉強になります。「天神山」は天明8年(1788)に「錦明山」と改称。絵図の「両臨堂」は現・戸山ハイツ1号棟辺りか。同1・2号棟は目下、国立病院宿舎建設で解体中。「宇津谷地蔵堂」はそれより一段下がった池側ゆえ写真下の更地辺りか。同地蔵近くに宗春の時代には「鬼の岩屋」があり、奥に木製の鬼がいたらしい。西山ガラシャの小説では、怖がらせる程度をどれほどにするか思案する場面が面白かった。まぁ、お化け屋敷的仕掛けとでも云えましょう。さらにこの地は戦後に人骨騒動もありの大日本帝国陸軍の暗い遺産もあるが、それらは後でまとめて記しましょう。

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戸山荘⑦眺望の臨遥亭、幻の修仙谷 [大久保・戸山ヶ原伝説]

rinyoutei_1.jpg 松のたくましげなるにうちまじはりて(打ち交わりて)、盛なるもいと見事にも覚えし。少し高き所にのぼらせ給ふ。これぞ「臨遥亭」(絵図中央上)と名づけ給ひ。この御床には菜の蝶の趙昌(北栄の花鳥画家)の筆にて花に遊べる風情なり。唐銅の花入杵の折と名づけられしに、大山連翹ゑびね(レンギョウエビネ。ラン科)を水際きよけに入玉ふ。二條為氏卿(鎌倉中期の和歌の二条家の祖)の古今和歌集、文鎮は唐銅の亀、書院の御床には釣香炉、金紫銅の鱗、硯は列星石、硯屏は寧波(硯屏=硯の傍に立てる塵除け衝立。寧波=中国の地名)、筆は堆朱(彫漆)、筆架唐銅龍、黒い丸形にて、被是ともに唐と大和の古き御調度とも目なれぬさまなんめり(~のようだ)。

rinyotei_1.jpg 御庭は清き芝原にて、むかふの方はおのづからくだり。右の方には四つ目にゆひたる竹垣(縦横四角に隙間を開けて編んだ竹垣)、其内外にやすらかなるさまざまの木立はてしもなくてぞ植つゞけられたり。君にも御目とまりし。彼原には木もなかりしか(なかったのでないか)。中央に老木の柏の梢は、丈(ぢぅう=約3m)にも過ましきか(ないか)。四方の枝は芝をはふて三丈あまりはひろこりて(広ごりて=広がって)、葉も広やかにあさみどりの色つやつやし。むかふの方を見やれば、名におふ目白関口(目白台、神田上水の関口)とやらん遠きちかきさまざまのけしき、若葉の茂りあひたるは、誠に目にも余りたるなんといふもおろかなるぞかし(言うもおろかなり=言い尽くせない)。けふの警固の御為とて、非常のいましめのかしこきに(警備の立派さだが)、往かふ人もなかりし。「修仙谷」を下り玉ふころ、もろこしの仙人集りてもろもろのあやしげなるすさみ(遊び事)などなしけるもかゝる所ならんかしと思ひやられ侍る。(『和田戸山御成記』(5)

anaomiru_1.jpg <享保20年の『戸山御庭記』(吉春「花見の宴」)では「望遥亭」からの眺めは穴八幡、目白台、小石川、さらに筑波山も見ゆると記されていた。そこで著者・久世舎善が詠んだのは「目も遥に民のかまどの長閑さを煙にしるき庭の数々」。そして「きり島山」(キリシマツツジが一帯を覆っていた)の先の天神山(錦明山)を望み、松に〝トキ〟という鳥の巣に居けるを見るとあった。当時はこの地に「トキ」が営巣していたとは驚いた>

 <「臨遥亭」は写真奥の靑色の建物=現・国立予防衛生研究所辺りだろう。今も北側の眺望が良さそうだが部外者は入れない。「尾侯戸山苑図」にそんな遠景が描かれていたのでアップする。平成元年に同所手前のmejirodaiomiru_1.jpg新宿区障害者福祉センター辺りの弥生時代集落・戸山遺跡調査で、そこに〝埋没谷〟があったことを確認。谷幅40m比高差6mと推定。戸山荘絵図には埋没谷=大谷(後に修仙谷)と説明。その周辺に「大谷御数寄屋(後に修谷御茶屋)」や「水神之宮」が建っていた。周囲は紅葉や赤松の大木が多く、夕景もすばらしかったとか。この谷は当初は池で、光友逝去の頃に涸れたらしい。また同地北東(早大敷地内)では縄文土器や江戸時代の地下室や陶磁器、土器が出土したらしい> ★芝生の庭は、平安時代からあったらしい。

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戸山荘⑥享保&寛政の改革 [大久保・戸山ヶ原伝説]

ryumonnnotaki.jpg ここでちょっと脱線。寛政5年(1793)3月の11代将軍家斉(いえなり)の「和田戸山御成記」が進行中だが、時の尾張藩主は9代徳川宗親(むねちか)。そこで7代藩主・徳川宗春「花見の宴」での「龍門の瀧」はどう紹介されているのだろうかと久世舎善記『戸山御庭記』を読んだ。

kubousama_1.jpg そこでハッと記付いた。吉春と云えば8代将軍吉宗「享保の改革」に逆らった藩主。吉春『恩知政要』(享保17年・1732)は、吉宗の厳しい質素倹約では逆に経済が停滞し、庶民生活・文化も阻害すると説いた。芝居興行の推進(その結果名古屋は〝芸処〟になる)、遊郭営業も許可、盆踊りも盛大に行われ、自らも派手な衣装で練り歩いた。

 享保20年に吉原大夫・春日野を落籍して戸山荘に迎え、華々しく「花見の宴」を展開。清水義範の小説『尾張春風伝』では、荘内の小田原宿を模した町屋で、吉春は瓦版売り、春日野は大根売りの田舎娘に扮して、それは楽しく盛り上がった様子が描かれていた。

 だが4年後の元文4年(1739)、吉宗はついに吉春に謹慎蟄居を命じた。ちなみに吉春に仕えた尾張藩御用人の一人が『鶉衣』の横井也有。吉春の隠居と同時に〝官路の険難しのぎ尽くて〟彼は隠棲して同書を著わした。

 さて吉宗は時代劇とは違って農民に実質2倍の増税、貧民層への差別政策も行ったとか。その吉宗の子・家重が9代将軍。健康芳しくなく田沼意次が献身的に補佐。10代将軍が家治で田沼の老中政治が始まった。家治の子が18歳没で、一橋家の家斉が養子になって15歳で11代将軍になった。

soudaigawa_1.jpg 家斉の実父・一橋治斉が、田沼追放と松平定信の老中首席を画策。尾張藩主・宗睦も定信を推薦した。だが定信の偏執的とも云える「寛政の改革」施策の数々・姿勢に、家斉は成長するに従って嫌悪感を抱き出した。独裁化する定信に、老中らにも反定信派が形成された。そんな折に定信は外国圧力に備えるべく伊豆・相模視察。その最中に行われたのが家斉の「戸山荘御成」だった。そこに宗睦が居ないワケもなく密談もあったと推測するのは当然のことだろう。案の状、4ヶ月後に松平定信失脚。

 かくして「戸山荘」の裏に「享保の改革」や「寛政の改革」が透けて見えて來る。定信失脚に江戸庶民喝采の声が渦巻いた。その後の化政期(文化・化政時代)に江戸文化(町民文化)が一気に開花。ちなみに家斉は妻妾16名で子は55人。性(繁殖)も謳歌。

 かくして小生は「龍門瀧」の激しい瀧つせに、人間性謳歌の叫びを感じてしまうのだが、いかがだろうか。無論こんな指摘は誰もしていないが~。写真上は「絵巻・尾侯戸山苑図」より「龍門の瀧」(国会図書館デジタルコレクション)。写真中は西山ガラシャ『公方様のお通り抜け』表紙(徳川美術館所蔵を使用)。そして写真下は「龍門瀧」があった早稲田大学生会館辺り。

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戸山荘⑤龍門瀧のドッキリ仕掛け [大久保・戸山ヶ原伝説]

ryumonnotaki_1.jpg さて「鳴鳳渓」とて深き谷の有けるを伝ひ伝ひて下りぬ。爰は大きなる竹のはやし立つづきたるに、木も交りてをくらく(手許も暗く)物すごきさま也。木の根竹の枝などに取りつき下りけるに。いとはやき流れありて、ほとばしる水のするどけなるなんどと詠め侍りける。右の方の「龍門橋」より流れ出る瀧つせ(瀧つ瀬=激流、急流)のさま、誠に白浪高く岩角にあたりて、玉ちるけしき。画(えが)くとも及びがたく、又かたるにも聞人よも誠とも思はし。瀧の音山岳に響き、さゝやけども聞へず。しばしの内に、はじめ渡りし石つたひも、みな白浪の底にしづみて物すさまじあやうし(凄まじ危うし)などいゝて、向ざま(ざま=方向や向きを表す接尾語)の岩のかけ道などやうやうにつたひのぼりて見侍るに、竹林のもとに草といふものは尋ぬれどもなきまでに塵はらひ清められし事のとふとさと感じぬ。此水はわざとたゝへて置てほどよしとて關の板をはづして落し懸たる瀧にて有けると後で聞へ侍りし。

 <戸山荘を代表する龍門瀧。現・早大学生会館建設前の平成10・11年発掘で瀧の石組が出土。その石組が名古屋・徳川公園で再現と知り、小生は名古屋での仕事の際に二度ほど訪ね見たことがある。サイト「徳川園」の(散策案内)クリックで瀧の四季写真がアップされている。

ryumonotaki_1.jpg 左の本の表紙は、その石組と絵。新宿歴史博物館のマップ説明文に、~三上季寛の見聞記として「一行が飛び石をつたって対岸に渡ったのを見計らい、上流の堰板を外し、飛び石を水没させ驚かせるという趣旨の舞台となった場所です」と記されているが、それがこの全文です。前述の西山ガラシャ氏小説『公方様のお通り抜け』では、この瀧の石組、細工、堰板を外すタイミングの実験・本番などが面白おかしく描かれていた。58年前の吉春の「花見の宴」に従った久世舎善をはじめ他の戸山記には〝この瀧のドッキリ仕掛け〟の記述はなく、家斉御成に特別に造られた仕掛けと推測される> 

 右の「竹猗門(ちくいもん)」にはとふとき額あり(尊き2代藩主・光友卿の筆の額)。これぞ君子の出入らせ給ふならん。左の垣根にそふてのぼり行に、右はそことしもなき山路なるか。松楓生茂りてみどり深く、芝きよけ(清げ)に青ミ渡りたるに、紅の躑躅のこく薄き色々ありて藪もわきかたかりけらし(わかりにくいようだ)。高さは丈にも餘りしなんと珍らし。木立しげからず木高からずやすらにふりありて(様子があって)、めなれぬ風情なるか。『和田戸山御成記』(4)

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戸山荘④ 随柳亭~行者堂~文殊堂へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

zuiyouteikaramonjyu_1.jpg かたはらに老木の柳の木ずえ(梢)高く風になびき、緑も深き江にそふたる一ツのおほん(御)屋作り。是をなん「随柳亭」<絵図:左下>と名付て、御とのゝ(殿の)画はかの御家にて養壽(尾張藩御用絵師・神谷養壽)とかやいへるか。手を盡してぞえがきし墨絵の山水にこそ。所々砂壁なと取合て、かりそめのおぼん(御)住居の様なり。御縁(縁側)には緋の氈(かも・せん=毛氈)を敷わたし、御床には范安仁か藻に魚の絵いける(活ける)がごとし(范安仁=没骨描法の藻魚図が有名)。世に有所の写しなどもかねて見しが、似もにぬ(似るも似ぬ)ものなり。藻と魚とをそのまゝにとり出で、帛(ハク・絹)におしあてゝ見る心地にこそ。

zuiryutei_1.jpg 小卓靑貝、御香炉紫銅のおし鳥つきづきしく(しっくりしている)ぞ見べし。書院の床には明〇とかや、さゝやかなる唐銅のふくべのかたちなるに、いかにも立花のさまにて、松・尺南花(シャクナゲ)・まるめろ(バラ科の落葉高木。セイヨウカリン)・杜若(カキツバタ)・金銀花(スイカズラ)・さつき・しやか(アメマ科)をぞ立かれける。かく立花しける事、だれだれもいまだ見ぬ事とて、いとめであへりし(愛で饗りし)。ふた間三間隔て、御釜子其外の御調度まで取そへてかざらせ給いける。其余の御間には、釜なんと二ツ三ツすへられ、茶のぐ(具)など数多ありし。

<将軍家斉の御成は、新暦で今頃。戸山公園(箱根山地区)を散策すれば上記と同じ花々が咲き誇っている。「随柳亭」と「養老泉」の間辺りのシャクヤクも満開だった>

 是は供奉の人々に給はらんための御もふけ(設け)ならんかし(~なのだろうよ)。此殿にて御わりこなとき(?)こしめした(越しめして=丁寧語)、御供の人々にも給られかしと有しに。みなみな後の事の思ひやられて、しばしと申あへりしかば。やがてとく(着く、到着する)宿内といへる御やとりにぞおくり遺しける。<座敷に将軍の座布団もあり、供の者にも握飯などの接待があるも、皆は庭の前途への心配があったので、それを断って宿内といへる御やどりへ先送りした~の意)

koujicyu_1.jpg 此所を出たゝせ玉ひて、「役の行者堂」、古ひわたりし様なり。傍に鈴木三郎か(義経の家臣・鈴木三郎か)の笈(おい=修験者が背負う籠)螺貝なりといにしより云ならはし伝はりしなと聞へし。「王子権現」に「廬山そさんし(盧山寺)」など過行ほどに、「文殊の御堂」左の山におはします。石の階を登りて左り右りに石もて柱の様したるものぞ有ける。これもろこしの花表(中国の鳥居)などいへるものならんかし。すべて此御庭の仏も石も垣も塔も皆ももとせ(百年)あまり五十年も過にたれば、古みわたりて殊勝さいわんかたもなし。

<一行は池伝い随柳亭~吟涼橋~行者堂~王子権現(池の中に鳥居あり)~廬山寺~文珠堂へ。絵図下は「随柳亭」(「尾張公戸山庭園」より)。写真は「文殊堂」があった辺り。そこは目下「メゾンドール早稲田」(池側の国家公務員宿舎を買収して)の建替工事中(写真下)。その工事前発掘で池の土留め、古道岐(園路)跡、中国系の陶磁器類・煙管・擂鉢などが出土。また池跡からは明治9年頃に試射された米国銃の弾丸、英国銃の薬莢が出土。その上の地からは花卉栽培跡などが確認・調べられたらしい>『和田戸山御成記』(3)

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戸山荘③「山里御数寄屋」の逸品の数々 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yamazatosukiya_1.jpg 山をくだりて松楓樅など生茂し、あたりに一棟作りし萱の屋あり。外のさまにかはりて数寄(すき・風流)をつくし、棟梁(むねはり)なんともふとき(りっぱな)伽藍のごとく、垂木のミな竹にて言葉にも盡しがたし。ふしぶし多くありていとたふとく拝し奉りける。御床(床の間)には島物とやらんの瓶に、夏菊の花をいとたへたへしくも(途切れ途切れに)入られける。書院のかざりには夢の浮橋といへる彼御家に名たる盆石を置れける。いつの世よりか伝はりけん。古めかしくおかしくあはれげにまたなき御宝とこぞ思ひやられ侍し。

<釈迦堂(二重の塔)右の「山里御数寄屋(おすきや)」(茶室)に尾張家の御宝が置かれて、それら説明が延々と続く。著者・三上に限らず当時の上級武士らには茶道の嗜みがあったと伺える。これら御宝は今も名古屋の徳川美術館にあるかも知れない。>

 御釜責細のさまにて浄味(信長に仕えた京釜師)の作。紹鷗棚(炉用の棚)には御かざりの御天目(茶碗)あらたに造らせられけん。今焼の瀬戸、杉の木地の御蓋、御臺は朱色、御茶入はもろこし(中国)とり伝へし御壺なり。四方盆靑貝、御水差青磁、茶釜置はいま渡りの呉洲、御茶杓利休の作なり。おほん(御)水屋にはもろこしの炭斗菜籠(すみとりさいろう=籠製の炭取)、香合(香の容器)跤趾(こうし焼き?)ミつ羽(茶道具の三羽の羽箒)はちとせ(千歳)を祝ふて置せ給ふ。南蛮の灰鉢には老松となんいへる名におふ薄茶器を取そへ、御茶碗は是もあらたに造られし唐津の産なり。古田綾部の御茶杓を錺られし。誠や世に茶敷寄く人々を此御数寄屋にあつめて目を悦ばしめたき事になん。御うやまひの至りにや。御棚の四方を羅にてかこひ、御釜もともに大納言ミづから〆(標)をぞ懸られし。

 夫より山を下りに石をもて沓(くつ)のたよりにそま(杣)ふけ(深け)られし。此石なんとも世に似ぬさまなりしゆへにとび侍りければ、尾州の産する所にこそありけれ。垣根は黒木(クロモジ属の落葉低木の皮つき丸太)もて造り、わらび縄(蕨根の繊維の縄)結びめ長くたれしもいはんかたなく(何とも言いようがない)わびしげなり。手水石の姿又なく面白く珍らしけなり。山を逆さまに返したるやうに覚ゆるもおかし。

fujitogakusyuin_1.jpg 爰を下り盡くして「吟涼橋」は芝萩などもてつくれる橋なり。左りの入口の汀には、むらさきと白き藤の打まじりて盛なりけり。右りの方を見やれば、つる亀島とて万代のためし盡せぬ松竹梅柏などいかにも小さく造植置れしも、年ふりたれば(年を経れば)おのづからさまに見ゆるもめでたし。

 <絵図は釈迦堂(二重塔)の隣に山里御数寄屋。石伝いに下ると小さな入江に吟涼橋。西山ガラシャの小説『公方様のお通り抜け』では〝芝萩などでつくれる橋〟を〝柴を萩の蔓で編み込んだ吊り橋〟とあってアレッです。「柴橋=庭園の池に架け渡された柴などの雑木で作った橋」。絵図も吊り橋ではなく、新宿歴史博物館刊チラシには(元・王子土橋)ともある。柴(雑木)を蔦で結わえ、軽く土で覆った小橋が正しいだろう。「随柳亭」先の池には鶴・亀の島がある。これは夢窓疎石からの池の定番。さて今も学習院下辺りに見事な藤棚が咲き誇っていた。そこでアッと気付いた。将軍が御成りの3月23日は旧暦で、現4月27日。まさに今頃だったと。写真の藤棚の奥は現・学習院女子。千駄ヶ谷の秩父宮ラグビー場の地にあったが空襲で焼失。昭和24・25日に戸山町へ移転>。『和田戸山御成記』(2)

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戸山荘②家斉、穴八幡放生寺から御成門へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

onarimon_1.jpg 以下『東京市史稿・遊園篇』(珍しい〝くずし字活字〟交じりの昭和4年刊)より、寛政5年の11代将軍家斉(20歳・いえなり)が戸山荘(尾張藩9代藩主・宗睦)を楽しんだ際の三上季寛(御手先頭600石)による『和田戸山御成記』を読んで行きます。読み易く濁点を付け、固有名称は「」で、小生の勝手解釈を( )で、誤り多々も少しずつ解読です。絵図は「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全図」(国会図書館デジタルコレクション)より部分アップして行きます。

 けふは弥生下の三日(寛政五年三月の二十三日)なりけるに、妻こふきゝす(雉♂)のありかをもとめ、又のこんの鴈(残っている雁)など獲給はんとて、辰の時のはじめ(午前七時頃か)西の御門の拮橋(西拮橋・にしはねばし)より出たゝせ玉ふに、きのふまでは春雨こまやかに事ふりたりけるに、けふは雨もふらずいとゞ(いっそう)こゝろものどやかなり。まづ穴八幡放生寺といへる御寺に入らせ給ふ。したがひ奉る人々に物たうべ(食ぶ=丁寧語)などせさせとて、しばしやすらはせ給ふと、よけの告(禍除け)ありて、御むつましの(慕わしい)とふとき(尊き)かの尾張大納言(宗睦)の山荘和田の戸山に入らで玉はんとす。

kirieana_1.jpg <現地図で説明すれば、皇居の西拮橋~武道館の田安門~早稲田通りを神楽坂下から牛込~高野馬場か。〝鷹狩りのついでに寄る〟はあくまでも建前。この頃の家斉はすでに松平定信に嫌気充分で(4ヶ月後に定信罷免)、定信が江戸に居ぬ間の戸山荘訪問は、かつて定信の老中首座推薦の宗睦も、すでに反定信で動いていての極秘会談があったかも知れない。そこを探るのも面白そうだが、ここはまぁ、政治抜きで戸山荘を楽しみましょう>

 まづ御庭のかこひなんどつねよりもあらたに(囲いなんど常よりも新たに)二重のかまへ内の門をば「神明車力」のかどと(洒落て?)名づけ、茅もてふけるもさわやかにこそ、左り右り(みぎり)に白と藍との布ませ(仕切り)の幕張わたしたり。扨(さて)門のうちへ入らせ給へば、左の方に見渡されたるは所謂(いわゆる)大原とてかぎりもなき廣芝原なり。右の方の小き岳には神明のミやしろ(御社)神さびわたり(万葉集にある語。神々しさが広がって)、木ずえ高く生茂(はえしげ)りて、いとどふとし(さらにしっかりしている)。古道の跡とて川越道鎌倉道とて二筋の道あり。かまくら海道とて右りの方へ入らせ給ふ。からはらの(傍らの)六社の神を崇め奉れり。新たに宮造りしてしづめ(鎮め)祭れり。又こくらき(小暗き)森の内に釈迦堂ものさびしげにたてる。右に稲荷社ふり(古り)にしさまなり。

gakusyuinjyos_1.jpg <絵図に川越街道と鎌倉道の分岐「古道岐」の名あり。その先に広大庭内に散在の小祠を集めた「六社」。西側に二重塔の「釈迦堂」、左は「稲荷社」。その45年後の「江戸切絵図」を見れば穴八幡、別当放生寺の位置は当時から今も変わっていない。その道(現・諏訪通り)を西へ行けば左に現・学習院女子大の北門辺り(写真)に「御成門(神明車力)」があった> 『和田戸山御成記』〈1)

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戸山荘①尾張藩下屋敷とは [大久保・戸山ヶ原伝説]

hakoneyama.jpg 過日、新宿歴史博物館で「尾張藩下屋敷・戸山荘」の3回講座を受講した。小生の部屋から、かつての戸山荘の「箱根山」が見える。16年前のHPで戸山荘について、また大田南畝が写本した久世舎善『戸山御庭記』(享和20年)をアップしたことがある(写真はその時の箱根山)。

 今回は東山文化の庭園もお勉強した。それらを記念して『東京市史稿 遊園編」より『和田戸山御成記』をアップしてみようと思い立った。時は「寛政の改革」の寛政5年、11代将軍家斉20歳が、高田で放鷹の際に戸山荘へ立ち寄った際の御手先頭・三上季寛(600石旗本)による記録。なお三上季寛で検索すれば〝鬼平〟モデル・長谷川宣以8年後の「火付盗賊改方頭」180代目(寛政9~10年)でヒット。多分同一人物だろう。

 小野武久著『尾張藩江戸下屋敷の謎』は、同日に御小姓・佐野義行の随行記『江戸の春』を中心に、三上季寛の文章も参考に戸山荘を紹介だったが、小生は逆に三上季寛『和田戸山御成記』を中心に、小野著を参考に読み込んでみたい。

toyamaso2_1_1.jpg まずその前に、簡単に戸山荘概要。江戸時代に現・戸山町1~3丁目一帯に尾張藩徳川家の下屋敷「戸山荘」があった。広さ13万6千坪(約43万㎡)。東京ドーム9個分。浜離宮庭園20万㎡の倍の広さ。江戸大名屋敷の随一の池泉回遊庭園。

 現地図で説明すれば明治通り、諏訪通り、大久保通りに囲まれた一帯。今は同地に新宿区立西早稲田中学、都立戸山高等学校、学習院女子大・中・高校、東京都心身障害福祉センター、戸山公園(箱根山地区)、戸山ハイツ、一般住宅、国立国際医療センター、国立感染症研究所、早大一部を含んだ地域。ここからもその広さが伺えよう。

 戸山荘の造営は、尾張藩2代目藩主光友が綱誠に家督を譲った寛文9年(1669)から24年間にわたって行われた。池泉は約2万坪。その土で築かれたのが玉円峰(箱根山)。寺社多数、遊びの町「小田原宿」(36軒の町屋)、25景の名勝ポイント(儒者・細井徳民による命名。その意でも禅師・夢窓疎石の庭とは趣旨が違う)、また田畑、花卉栽培場もあたったそうな。

 尾張徳川家は庭園好き、無関心の藩主さまざまだったが、第15代将軍家斉(いえなり)は4回も訪れて「すべての天下の園池はまさにこの荘をもって第一とすべし」と言ったとか。明治になって陸軍が接収。戦後に上記諸施設や住宅が建ち、一部が公園として残されて「箱根山」など当時の名残が多く残されている。

 発掘調査も断続的に行われている。戸山荘以前の地層から弥生式土器が出土。早大文学部学生会館建築前の発掘では「龍門滝」の石組発掘(この石組は今、名古屋「徳川園」で再現されている)。最近でも池の土留め、街道跡、生活品、花卉栽培場の跡、近衛騎兵連隊遺構などの発掘調査が行われている。

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