SSブログ
『ミカドの肖像』 ブログトップ

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(24)総括 [『ミカドの肖像』]

kensuimejiro1_1.jpg このシリーズを終える。文庫本約800頁を要した「ミカド巡り」から最後の約50頁が結論らしい。著者は「伊藤博文ら明治国家の創設者たちが創ったのは天皇機関説で、明治天皇は機関説の支持者だったが、そのシステムを壊したのは陸軍だった」。 これは周知のこと。それだけ?

 著者唯一の意見は「僕は、この一世一元の制が、欧米の近代国家観をとりいれた天皇機関説と相容れなかったとみている」 「天皇崩御は不意に訪れ、その儀式は一大浄化作用の場となり、あたかも国家が生き物のように消滅し再生したかのようである」 さらに<天皇も複製技術革命の洗礼を受け、さらに「空虚な中心」になる> これで終わり。

 「なんじゃこれ!」。著者もこれで終われぬと思ったか、内容的にはタブーでもなんでもないのに、仰々しく重大なことを記すかの<禁忌[タブー)X(n)「天皇安保体制」幻想>と、「哲学者Nとの対話」からなる「エピローグ」を設ける。

 いかなるタブーに言及か。<僕は「天皇制安保体制」という明文化されざる構想としての天皇を利用しようとする発想を「天皇安保」と名づけてみることにした。「空虚な中心」の位置が視えてくるからである」 何が言いたい? 再び天皇機関説が出てくる。

 「昭和天皇自身も“天皇機関説の信奉者”で、万世一系を保持するためにも、時の政権から距離を置きながら政治的責任を被らないとする生存戦略。それが「視えない制度」=「空虚な中心」=「秩序の安全装置」=「天皇安保」になっていると繰り返す。タブーでもなんでもない。周知の認識だろう。

 次章「哲学者Nとの対話」は、自分でまとめられぬ頭を他者の力に頼る禁じ手なり。あたしも時に、架空の「かかぁ」をここに登場させる。それでやってみよう。

 ・・・僕は日本の天皇制を語るに“視えない制度”って言葉がふさわしいと思う。中心に権力がない、中心が虚だから、周縁が次々に吸い込まれるブラックホール。それが天皇安保。ゆえに日本に権力闘争も革命も起こらず、ブラックホールのみが新鮮さを保ち続ける。・・・と同章の記述をかかぁに説明すると、こう言った。

 「それだけなら小冊子でよかったのに。そんなのにあんたは真面目に付き合って全部読んだぁ」 「うん、著者は新知事就任の記者会見で<『ミカドの肖像』を読んだかぁ>」と言っていたし・・・」 「で、読んで虚しくなった。きっと書いている本人も自己中心が空虚。ゆえに絶えず虚勢を張っている、カラ威張りしている、自慢する、無理をする、他者を貶める。権力も名誉も金銭の欲も欲しくなる。そうやって生きていなきゃ自分がなくなっちゃうの。それが彼でもあるわけよ」 

 「う・うまいことを言うなぁ。でも空虚ゆえ新ビジョンで東京を世界一の都市にしてくれるかも」 「ばっかねぇ、あんたはミカドを意識して生きてきたことが一度でもあって。それに今の日本はオリンピックやっている場合じゃないの。もし決まれば、それこそ<ブラックホール>で、いま日本が抱えている諸問題が吸い込まれ風化されちゃう」 「あぁ、いまの日本は地道に生きる道を探る大事な時だが、都政も国政もまた高度成長を夢見て、さぁ走り出せって感じになってきた」「そうやって生きる虚しさについて、あの人は何も書いていないの。それよりもあんた、もう寒桜にメジロが群れているよぅ。さぁ、お弁当持って公園に行きましょ」 「かかぁ、おめぇの正体はひょっとして佐高信か、はたまた本田靖春か!」。 (END)

 写真はまだ六分咲きの寒桜に群れる「懸垂メジロ」、可愛いでしょ。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(23)天皇機関説 [『ミカドの肖像』]

syouwatenno_1_1.jpgmeijitennosinsyo_1.jpg 以下、井上ひさし『二つの憲法』よりひく。伊藤博文は「大日本帝国憲法」発布半年前の明治天皇臨席「帝国憲法草案審議」にあたり「枢密院における憲法制定の根本精神についての所信」でこう演説したと記す。

 「我国ノ基軸ハ何ナリヤ」。欧州は宗教が基軸も、日本の仏教は「衰替(すいたい)ニ傾キタリ」で、神道も「宗教トシテ人心ヲ帰向セシムル力ニ乏シ」。それで「我国ニ在テ基軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」。・・・お・おい、そりゃ違うだろう、と叫んでみたが、かくして皇室を基軸に「大日本憲法」が作られたと説明。井上ひさしは「神道と皇室が別と考えられていることに驚いた」と記していた。

 まっ、「ウソも方便」だな。あたしも、これは伊藤博文らが学んだ吉田松陰「松下村塾」の「一君万民論」、はたまた「尊王」思想の延長で、国の基軸を「皇室」にしたんじゃないかなと思った。

 松本健一著『明治天皇という人』では、北一輝は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をこう批判したと記す。・・・「五箇條の御誓文」には「万機公論ニ決スヘシ」とあるように、維新革命は民主主義革命じゃなかったか。「国民の国家」であるべきだろう。しかも「萬世一系」とはなんぞや。鎌倉幕府から徳川幕府末期までの武家政権によって、天皇は主権を奪われていたではないかと。

 なお、昭和天皇は青年期の御学問所で白鳥庫吉(学習院教授)の授業を受けていて、その残された教科書には「我が国には上代よりいひ伝へ来りし神代の物語あり、建国の由来、皇室の本源、及び国民精神の神髄みな之に具(そな)はれり」で、これらは神話。天皇は現人神(あらひとがみ)ではないと、しっかり教えられているとか。(古川隆久著『昭和天皇』)

 またプロシャ風憲法導入派の井上毅が、「議員内閣制」のイギリス型憲法を勧める大隈重信らを追放したのはなぜか。松本健の同著「福沢諭吉と井上毅」の章をひく。・・・福沢諭吉はすでに明治8年刊の『文明論の概略』で、国体を「皇統」という血統に求めるべきではないと記していた。国体(ナショナル・アイディンティティ)は人種、宗教、言語、地理それぞれの国によって異なる。ゆえに「国体」と「正統(政権)」と「血統」は別。

 日本は血統が続くも、政権は何度も変わり、外国に侵略されずに同じ言語風俗変わらずで「国体」は失われなかった。大事なのは皇室「血統」ではなく、「国体」が失われなかったこと。ゆえに「自国の政権を外国によって失われぬよう、人民の智力を進めて文明開化が必要」と説いていた。さらに明治14年の『帝室論』では、皇室は政治という権力闘争の埒外のシステムで、皇室の尊厳と神聖とを、政治が濫用してはいけない、と記していたとも指摘。これは後に美濃部達吉らが主張の「天皇機関説」につながる。

 その福沢諭吉、大隈重信らは井上毅の巧みな裏工作で追われるが、井上は福沢諭吉の著作(『学問のすゝめ』など)に若者たちがなびき、これでは父親や兄の抑えがきかなくなる。危険思想だとの判断で、彼らを排斥したと説明されていた。かくして日本は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」で天皇主権国家となる。

 各著、各長文より、あたしなりにこうまとめ理解したが間違いなかろうや。はい、ボケ防止の隠居勉強です。(★写真は古川隆久著『昭和天皇』(中公新書)、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書) ともにわかり易い書です。)


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(22)大日本帝国憲法発布 [『ミカドの肖像』]

matuteno1_1.jpg あと数回でこのシリーズを終える。さて明治15年「軍人勅諭」の7年後、明治22年の「紀元節」に「大日本帝国憲法」発布。明治天皇38歳。東京市中に祝砲とどろく祝賀ムードだが、ドイツ医師ベルツさんは「(それなのに)誰も憲法の内容を知らぬ」と日記(未読)に記したとか。然もありなん。

 あたしが当時の下町長屋の熊さんなれば、チンプンカンプン間違いなし。だが戦後教育のあたしは、中学で現・日本国憲法 第一章 天皇 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。・・・を教わった。

 明治22年の熊さんにはわからなかっただろう「大日本帝国憲法」の第一章/第一條は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」。第三條 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。第四條「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。 全17條。天皇は陸海軍を支配し、その編成や人数を決め、勲章授与や大赦・減刑も決め、公務員の給料も決める・・・と、なにもかもが天皇大権。その頃、駿府で自転車乗りに熱中の徳川慶喜は、明治憲法をどう思っていたや。

 この辺をもう少しお勉強する。松本健一著『明治天皇という人』(写真)、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)、無学翁の助けに井上ひさし講座のまとめの岩波ブックレット『二つの憲法』(岩波書店、2011年刊)を教科書に、まずは憲法作成経緯から・・・。

 憲法の基本方針は①主権は国民 ②主権は君主と国民 ③主権は天皇・・・の三点(ドナルド・キーン『明治天皇』)だが、井上ひさしは原口清著『日本近代国家の形成』をひき、①黒田清など薩摩派の「絶対・専制君主制」。②大隈重信ら弱小藩派の「妥協しながら、やがては立憲君主制」。③伊藤博文、山縣有朋、井上毅ら長州派の「立憲君主制の形はとるが内容は絶対君主制」で議論白熱。

 埒明かず、明治15年に伊藤博文が憲法調査に訪欧。「皇帝制度で、かつ行政権力の権限が強いプロシャ型憲法が日本向きとし、ドイツからヘルマン・ロエスエさん(法学者で経済学者)を招いて(お雇い外国人)草案を作らせた。急いで国造りをするには③の天皇に絶対権力を与えつつ、藩閥閣僚の自分たちが一気に国造りをするがいいという判断だろう。(追記:古川隆久著『昭和天皇』14頁に、こんな記述あり。・・・伊藤博文は、民権派の急進論を抑えるために、こうした天皇観・国家観を憲法に採用した。しかし、それは天皇の絶対化、ひいては神格化による弊害をもたらした。

 ちなみに、王政に対する市民革命、フランス革命は18世紀末だった。当時の日本は化政期で市民・下級武士の手で豊かで円熟の文化が開花、いや爛熟した。それゆえの「寛政の改革」で恋川春町が死に、山東京伝が「手鎖50日」、蔦屋重三郎が「財産没収」、大田南畝が狂歌をやめて学問吟味の試験に挑戦。それほど豊かな文化を形成するパワーを持ち、かつその百年後の国民に、なぜに主権を委ねなかったか・・・。次回は内容を吟味してみる。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(21)近衛兵53名銃殺刑 [『ミカドの肖像』]

takebasijiken4_1.jpg 明治11年の近衛兵決起は「竹橋事件」。「軍人勅諭」に影響を与えた事件で、澤地久枝著『火がわが胸中にあり~忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』(昭和53年に「野生時代」に一挙掲載後、角川書店から単行本後、角川文庫、文春文庫、今は岩波現代文庫)がある。

 同書を開けば、冒頭に青山墓地の「旧近衛鎮台砲兵之墓」顕彰碑・碑文が掲載。「行くしかないでしょ。いつ行く。今でしょう」とCF文句をつぶやきつつ三度の青山墓地へ。絵画館前の銀杏並木を抜け、青山通りを横断して青山墓地へ。左に行くと乃木将軍墓所、西周の墓、西南戦争警視隊墓地あり。今回は右の「外苑西通り」側へ。高台から道路際の窪地に、その墓(「合葬之墓」右の木に寄り添う小さな墓)と顕彰碑(右側)があった。「碑文」は長文ゆえ私流抄訳と同書のデータをひく。

 明治11年(1878)8月23日の「竹橋事件」殉難者鎮魂の碑なり。事件は西南戦争で命を拾った東京・竹橋の近衛砲兵大隊兵士を主力に、東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者、将校や下士官の連座者を含む300余名が、待遇改善と明治維新後の政治不満を天皇直訴すべく決起した。

 叛乱は鎮圧され、同年10月15日、兵士53名が深川越中島で銃殺刑。青山墓地に埋められた。明治22年(1889)の帝国憲法発布の大赦で、56名の事件殉職者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。同墓は第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になるも、100年忌の昭和22年(1977)に現在地に移されているのが発見された。事件真相は明治政府に抹殺されていたが、今は全国的な研究と調査で、全容が明らかになろうとしている。

 当時の並定食30銭。兵卒の月給は数円。比して陸軍卿・山縣有朋は兼職給与含めて1400円の月給。西南戦争の死者6000千余名のほとんどが平民出身兵。大尉以上は勲章や御下賜金あるも、兵卒には財政圧迫だと僅かな日給や官給品も削られた。いつの世も為政者は保身・強欲で、庶民は命を削っている。

 山縣有朋は自由民権運動を弾圧し、後の大逆事件をおしすすめた。「日本軍閥の父」「官僚の父」となり、その金銭・名誉欲は異常執着とか。彼方此方に豪邸を持ち、あの目白・椿山荘もそのひとつ。国葬に「民」は一人も参列しなかったとか。また藩閥政府官僚らは伊藤博文をはじめ好色漢、実に多し。近衛兵らは彼らが日々花柳界(柳橋では相手にされず、主に新橋)で遊ぶ姿も眼にしていただろう。

tekesibaizoku1_1.jpg 貧しき農家らの惨状に決起した青年将校らの「2・26事件」も根は同じ。近衛兵には後の「秩父困民党」を生む地の出身者もいたりする。彼ら53名銃殺の3日前に「軍人訓戒」発布。「軍人勅諭」は4年後の明治15年1月。

 ドナルド・キーン著『明治天皇』には、同事件の記述は5行ほどで、三条実美の「一時の暴挙のために巡幸延期は朝廷の威光を損なう」で、天皇一行は8月30日に北陸東海両道巡幸に出発とあり。天皇帰京は11月9日。それまでに53名銃殺刑を済ませ、事件を封印したきらいあり。(写真下は碑の反対側にあった「竹橋事件 墓と碑の由来」。クリック拡大で読めます)。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(20)軍人勅諭 [『ミカドの肖像』]

gunjincyokuyu1_1.jpg 「五箇條の御誓文」の翌年、明治5年(1872)に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と書き出す福澤諭吉『学問のすゝめ』がベストセラー。9月、新橋~横浜間に鉄道開通で文明開化。明治6年、「徴兵令」。金で逃げられぬ平民・農民が服役。

 次第に世情が騒がしくなる。自由民権運動の盛り上がり。民権運動と兵力が結びつく危さ。明治10年「西南の役」を闘った近衛兵らが、翌年に待遇不満で決起。53名が銃殺刑。これらを踏まえて明治15年1月、「軍人勅諭」発布。

 ここで『お雇い外国人』を著した梅渓昇著『明治前期政治史の研究』(未来社、1963年刊)を読んでみる。・・・(近衛兵反乱に慄いた)政府首脳らは西周(あかね)起稿の「軍人訓戒」を発布(※正確には銃殺刑3日前に発布)。同訓戒は「軍人精神は古来より武士道の精神」と規定し、軍人の守るべき十八ヶ条を記述。しかし武士イデオロギーの中核は封建領主への「忠」ゆえ、天皇制にそぐわぬ。加えて盛り上がる自由民権運動にも対処すべく、明治藩閥首脳陣は日本軍隊を政治、議会から分離させ、天皇統治「プロシャ風君主制」にし、改めて「軍人勅諭」発布に至ったと記す。

 西周の「軍人訓戒」では、天皇は軍隊における「秩序の象徴」だったものが、こうして日本軍隊は「絶対君主制」へ。以下、全2700字の「軍人勅諭」を「原文」に口語文混じりで綴ってみる。

 「我國の軍隊は世々天皇の統治し給ふ所にそある」で始まり、皇位に就いて天下を治めてきたが「凡七百年の間武家の政治とはなりぬ」。わが祖先に背いて嘆かわしい事態だった。徳川幕府が衰えて、仁考天皇や孝明天皇を悩ませたが、朕が皇位継承して15年を経て現・陸海軍になった。「兵馬の大權は朕が統(す)ふる所なれは}(軍の大権は朕が統治するものぞ)、その運用は臣下に任せても「其大網は朕親(みずから)之を攬(と)り」(その大網は朕みずから掌握し)、臣下に委ねるものではない。「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」。汝らが職分を守り、朕と心をひとつにするならばわが国の国威は世界に輝こう。そのためにここに訓戒する。

 ちょっと無理で強引な「歴史認識」を押し付け、軍人心得五箇条へ。「一 軍人は忠節を盡(つく)すを本分とすへし」「一 軍人は禮儀を正くすへし」「一 軍人は武勇を尚(とうと)ふへし」「一 軍人は信義を重んすへし」「一 軍人は質素を旨とすへし」。

 以下、私流解釈・・・。軍隊が「軍人勅諭」をもって「絶対君主制」になったことで、明治23年の「教育勅語」、「大日本帝国憲法」に至ったと言えなくもなしや。かくして「明治維新の精神」と評された「五箇條の御誓文」の民主主義はギアチャンジされた。

 それにしても「軍事勅諭」に影響を与えたという「近衛兵らの決起、53名銃殺刑とは?」。あたしはまた青山墓地に走ることになる。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(19)五箇條の御誓文 [『ミカドの肖像』]

meijijingu2_1.jpg 「御真影」浸透経緯を知れば、「大日本帝国憲法」も気になる。告白すれば、東京生まれゆえ薩長らの明治維新は好かん。明治維新へのアプローチは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟からか。加えて永井荷風好きゆえの薩長嫌い。「あぁ、嫌だ・嫌だ」で、この歳まで明治維新を避けてきた。

 かくして老いぼれた身で、まずは明治神宮参拝。そう、この森でオオタカ育雛、祠に棲まうオオコノハズクを撮ったが、今回は神妙にお参り。本殿を出るとお守り等を扱う長殿脇に「五箇條の御誓文」の絵と説明文あり。説明文は次の通り。

 明治元年(慶応4年)三月十四日、天皇は公卿・諸侯を京都御所の紫宸殿に集め、神前で明治の新しい政治の基本方針五箇條を誓約され、国民に知らせるよう指示されました。御誓文は、簡潔な文章で政治の基本とすべき不朽の方針を述べたもので、明治時代の驚くべき躍進の基となったものです。

gokajyo2_1.jpg 同絵下の配布パンフに「五箇條の御誓文」が掲載(写真左)されていた。長屋の熊さん的あたしにも、まぁ、理解できた。小学校クラス会風に解釈してみた。

 ★皆で議論して公正な意見で決めましょう。★身分に上下なし。心を一つにして考えを整えましょう。★誰もが自分の役割を果たし、希望を失くさないことも肝心。★今までの悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいて行いましょう。★智識を世界に求め、天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして、大いに国を発展させましょう。

 おや、小学校で習った民主主義のようではありませんか。松本健一著『明治天皇という人』(毎日新聞社、2010年刊)には、こう記されていた。 ・・・この時、明治天皇は満15歳4ヶ月。作者は横井小楠(しょうなん)で、実際は弟子の三岡八郎が草案を書いた。これぞ明治維新の精神、王政維新の方針、明治維新国家の理念。勝海舟の「おれは今迄に天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷隆盛」をひき、横井小楠を評価していた。

 松本健一は、同文のまとめに「左派の遠山茂樹、田中彰は批判し、岩波書店の岩波茂雄、戦後民主主義の丸山眞男、竹内好は高く評価。また北一輝も<維新革命の本質は実に民主主義に在り>と評したが、後の憲法は批判したと結んでいた。

 先生が一人では偏ろうから、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)も読む。・・・開かれた政治、新しい体制を希求しており、国際化まで言及している。しかし「過大評価するのは危険だ」と記して、遠山茂樹『明治維新』をひき、(御誓文は)「天皇制絶対主義をこの世に送り出す陣痛剤であったにすぎない」。「天皇親政と公議政治」で矛盾していると記す。

 最後に私流解釈をひとつ。昭和21年元旦の、云うところの昭和天皇の「人間宣言」(新日本建設に関する勅書)で、この「五箇條の御誓文」をわざわざ挿入していることに注目。なんだか「ここまでは民主主義だったんだがなぁ」と言っているような気がしないでもないと・・・。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(18)「御真影」浸透 [『ミカドの肖像』]

gosinei1_1.jpg 前述の多木浩二著『天皇の肖像』(岩波新書)、みすず書房『続・現代史資料(8)教育~御真影と教育勅語』より、「御真影」普及の経緯をお勉強する。まずは、みすず書房の同書より佐藤秀夫「解説」をひく。

 ・・・「御真影」は、幕藩権力に替わる天皇制権力による統治体制成立の表象として、一八七〇年代以後、府県庁など地方長官、及び師団本部・軍艦など軍施設を皮切りに、政府関係諸機関に公布されていった。これは、新政府が天皇を頂点にいただく政府であることの証左を示すとともに、その新統治体制の発足を下僚及び国民に視覚を通じて確認させる「文明」的手段であったと考えられる。

 ちなみに日本のラジオ放送開始は大正14年(1925)。媒体は今の学級新聞的体裁の新聞だけ。その状況でよくもまぁ徹底普及したなぁと感心させられる。多木著では「御真影」は「下付」の形で普及とあり。あたしは下世話ゆえ「下つき」と読んだが、「かふ=上から民間へ下げる」の意。「交付」「下賜」だな。

 明治6年末から内田九一の写真が全府県に「下付」。徴兵制度も同年から。明治15年の「軍人勅諭」と共に軍隊へ「下付」。明治21年にキョッソリーネの絵を丸木利陽が撮影した「御真影」完成。明治22年に「大日本帝国憲法」制定。明治23年発布の「教育勅語」とともに全国の高等小学校へ「下付」。そして教職員および全生徒は学校の「ご本尊=御真影」に向かって拝礼。この「下付」は生徒⇒学校⇒郡⇒県⇒文部省⇒宮内省順の階層化も生んだとか。

 みすず書房の同書には、ミッションスクールの苦渋の「下賜」出願の経緯が紹介されていた。また明治21年には文部省が『紀元節の歌』『天長説歌』を学校唱歌として楽譜送付。

 キョッソリーナの絵は、もう一枚、銅板に刻んだ版画(立ち姿)もあって、彼が印刷寮退職後の明治26年に印刷完成で、これも「下付」。そのうちに天皇や皇后の肖像を描いた錦絵や石版画が多く刷られ、やがては新聞付録になるなどして日本の津々浦々まで普及。かくして日本人は「新統治体制」「天皇の臣民」になっていった。

sazareisi_1.jpg 子供時分の記憶だが、田舎に行くと、どの家にも「御真影」が飾ってあったような。遠い昔のようだが、先日の2月11日は「建国記念の日」。昔の「紀元節」。今も式典では『君が代』と、♪雲に聳ゆる高千穂の高根颪(おろし)に草も木も 靡(なび)き伏しけん大御代(おほみよ)を 仰ぐ今日こそ楽しけれ~ の『紀元節の歌』が斉唱されているとか。

 写真上はみすず書房の資料本口絵の「御真影」。写真下は明治神宮にあった『さざれ石』。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(17)天皇毒殺とすり替り [『ミカドの肖像』]

oyatoi_1.jpg 昨今、新大久保コリアンタウンが騒がしい。日章旗・旭日旗(きょくじつき)のデモあり、「天皇制反対」のデモあり、それら怒号浴びつつ韓流熱中の女性たち。

 さて今回は、猪瀬直樹『ミカドの肖像』の孝明天皇毒殺説に参ろう。彼はこう肯定していた。・・・「明治天皇の父親孝明天皇が三十六歳で突如崩御したのは、慶応二年十二月二十五日のことである。死因は天然痘と発表されたが、岩倉具視ら討幕派により毒殺されたという噂が流布された。(中略)。アーネスト・サトウも、ディープスロートの証言から毒殺説を確信していた」と記し、()括りでこう追記。(筆者注―明治政府が刊行した公式記録<あたし注:『明治天皇紀』だろう>に毒殺説は見られない。そのことをもって毒殺説を否定する向きもあるが、それよりナマの証言のほうを採るべきだ。) そして、「明治天皇は、父親の死因に不信感を抱いていたと思う」。

 笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)には、・・・王政復古派による毒殺の可能性も捨てがたいが、現在の史料だけからでは、悪性の天然痘に死因を求めるのが妥当かもしれない。この判断の方がクール。

 『ミカドの肖像』では、イタリア・ジェノバまで訪ねてキョッソーネさんを探る延々の記述があるも、キョッソーネさんの隣のお墓、グイド・フルベッキさんには微塵の言及なし。ここに梅渓昇著『お雇い外国人』(講談社学術文庫、2007年刊)より、「近代日本建設の父、フルベッキ」の概要・・・。

 ・・・オランダ、イギリス、フランス、ドイツ語堪能。安政6年(1859)来日。長崎で布教活動と併せ「斉美館」と「致遠館」で英語、政治、経済、理学を教えた。大隈重信、副島種臣、伊藤博文、大久保利通をはじめ、後に明治政府の高官、指導的人物になる多くの人を輩出。政府顧問になって東京へ。大隈重信に欧米遣外使節の健白書提出。2年後の明治4年に岩倉具視が同建白書に基づいて約50名の岩倉欧米視察団を率いて出発。フルベッキはその後、各専門のお雇い外国人が多数来日で、身をひいて宣教師へ。岩倉欧米使節団メンバーらが帰国後に「教育勅語」「大日本憲法」を発布。

tukurareta1_1.jpg その意では、フルベッキさんもまた『ミカド』に関係した人物なのだ。しかも「フルベッキ」でネット検索すると「フルベッキ写真」なるものが騒がしい。フルベッキ親子を囲む門弟44名の集合写真で、撮ったのは日本写真の開祖・上野種彦。その群像の中の一人が「明治天皇にすり替った大室寅之祐」だと、まことしやかに論じられている。

 孝明天皇が毒殺され、親王睦仁が明治天皇になった(『ミカドの肖像』)だが、江戸に来たのは(親王睦仁も殺害されて)すり替った「大室寅之祐」だと主張する裴富吉著『創られた天皇制』(同時代社、2009年刊、写真))も読んでみた。両著で頭が少々白くなったが、松本健一著『明治天皇という人』には、この辺は微塵の記述なく、あたしは笠原英彦『明治天皇』の説に落ち着くことにした。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(16)多木浩二著『天皇の肖像』 [『ミカドの肖像』]

otatenno3_1.jpg 今回は『ミカドの肖像』と双子題名、多木浩二著『天皇の肖像』(岩波新書)を読んでみる。同著は1986年『思想』2月号掲載論文を、加筆・変更して1988年刊。

 論文では「御真影」に対し、「政府当局者は写真と複製の区別をはっきり付ける感性をもっていなかった」とした見方を、新書版では「彼らは複製技術による記号の性質をかなり正確に認識していたのでは」という見方に変更したとか。同書の第五章「理想の明治天皇像」で、著者はキョッソーネによる明治天皇像を鋭く分析している。以下はその要約・・・

 天皇の肖像は、身体の視覚化である以上、“生きた身体”には変わりないが、それを超えて超歴史的な“身体”、聖性を帯びなくてはならぬ。ゆえに個性表現ではなく、あくまでも肖像表現。ゆれ動く存在の一瞬ではなく、それを超えて概念的、抽象的“身体”を類型的に視覚化、つまり、生きていながら超歴史的な“身体”に図案化、宗教的な図像(イコン)化されなければいけない。比して明治6年の内田九一撮影写真は、椅子に凭れていかにも“生々しい”。

 キョッソーネ原画を撮影の仕上がりを見た宮内大臣・土方久元は「神彩奕々、聖帝の威容儼然として真に迫る」と喜んだとの「明治天皇紀」をひき、・・・そこには、したたかな政治的戦略(無意識にしろ)に基づいたイメージの認識があったのでは、と推測して・・・

 「国王は国権の肖像(シンボル)」。つまり「天皇の肖像写真は独立国家の象徴」ということを明治憲法草案者、とりわけ井上毅(こわし)らは承知していたのではないかと記す。その容貌も「家父長的君主制」にふさわしく、人々に受け入れられるべく、きついまなざしは消え、重厚かつ意志強固、威厳と優しさに満ちた仕上がりになっている。

 猪瀬直樹『ミカドの肖像』は、90頁を要して言いたかったのは、こういうことだったのではと思った次第。さぁ~て、次は「御真影」が「教育勅語」や「明治憲法」と共にいかに国民に浸透して行ったかを読んでみる。おっと、その前に『ミカドの肖像』でも肯定の「孝明天皇毒殺」について・・・。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(15)青山・外人墓地 [『ミカドの肖像』]

oyatoi2_1.jpg 日々、ウォーキングか自転車運動を欠かさぬ。歩きは一時凝った。新宿から上野辺りまで韋駄天のごとく歩き回って、踵を痛めた。今は新宿御苑まで歩き苑内一周するか、小田急デパ地下・鮮魚コーナーへの往復くらい。自転車に乗るようになると、踵を傷めずも徘徊(ポタリング)範囲が都内全域に広がった。

 先日、青山辺りを走っていたら、ひょいと青山霊園「中央通り」に出て驚いた。青山墓地は「外苑西通り」と「外苑東通りから六本木方面に抜ける道」に鋏まれて、まぁ、縁者の墓がない限りは立ち入らぬ。そんなワケで初めての道(車なら青山通りからの一方通行)だった。

 その「中央通り」を走ると中ほどに外人墓地。思わぬ異国情緒に自転車を降りて歩み入れば、目前になにやら記憶ある名。おぉ、猪瀬直樹『ミカドの肖像』第Ⅲ部の「つくられた御真影」に登場のキヨソーネさんのお墓じゃないか。確か同著には写真も載っていた。

 写真右側の古色蒼然ドッシリとした黒っぽいお墓がそれで、新しい石碑板があって、こう書かれていた。・・・エドアルド・キヨッソーネ(1833~1898) イタリア人の紙幣原版彫刻師。1875年にお雇い外国人として大蔵省紙幣寮に雇用され、明治初年の紙幣肖像彫刻などに従事。また肖像画家として優れた銅版画などの制作を行い、日本の印刷技術の進歩発展と両国間の友好促進に貢献した。 なぜか明治天皇「御真影」を描いたの記述はないも、あのキヨソーネさんに間違いない。

 その左隣(四角錐状)は「フルベッキ」さんのお墓。管理事務所で尋ねると、A4版8頁折りカラーの立派なパンフを下さった。それによると「フルベッキ」さんは「遣外使節派遣等を建言」とあり。あの岩倉欧米使節団をお膳立てをしたのが「フルベッキ」さん。使節団は帰国後に「朕惟ふに~」で始まる「教育勅語」を、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ではじまる「大日本帝国憲法」を発布。まさに『ミカド』国家制定にかかわる人物。猪瀬直樹『ミカドの肖像』には「キヨソーネ」隣のお墓に気づかなかったか一切の言及なし。加えて青山墓地は薩長土肥の明治政府高官らの多くが眠っているが「フルベッキ」さんの門弟多し。さらに乃木大将をはじめの日清・日露戦争の軍人さんらの多くも眠っていて、ここだけで明治が語れそう。

 『ミカドの肖像』では「御真影」が描かれた経緯、イタリアはジェノヴァの「キヨソーネ東洋美術館」まで訪ねるなど90頁ほどを要しているが、例のごとく長々と狙い定まらぬ記述ゆえ、ここからは『ミカドの肖像』と双子のような題名『天皇の肖像』多木浩二著(岩波新書)と、梅渓昇著『お雇い外国人』(講談社学術文庫、2007年刊)を読むことにした。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(14)秩父困民党 [『ミカドの肖像』]

titibu2_1.jpg あたしは池袋のキャバレー楽屋でトニー谷に会ったことがある。それは昭和46年頃。今なら彼に「アーニー・パイル劇場」のこと、『ミカド』ココ役で出演如何を訊きたいが、それは叶わぬ。そのキャバレー・オーナーが秩父小鹿野出身で、小鹿野を訪ね、「秩父困民党」関連書も読んだ記憶がある。さて、喜歌劇『ミカド』舞台が、なぜに「ティティブ」か・・・。

 今度は岩田隆著『ロマン派音楽の多彩な世界』より「ティティブ」についてをひく。・・・『ミカド』初演は1885年3月。その数ヶ月前の1884年10月31日から11月9日にかけて埼玉県秩父郡で、貧困にあえぐ農民たちが大規模な一揆を起こした。(中略)。この事件は「ザ・タイムズ」などにも報道されたことでもあろう。10月~11月は、ギルバートとサリヴァンが次のオペラの題材で相談を重ね、ようやく日本を題材にすることで話がまとまった時期と一致する。(153頁)

 『ミカド』には、英国の1381年の農民一揆「ワット・タイラーの乱」の潜在的恐怖心を呼び醒ます台詞があるとも指摘していた。さて、反乱農民らが貴族を襲ったのはわかったが、その後に鎮圧されただろう彼らは、どんな制裁を受けたのか。今度は井出孫六著『秩父困民党群像』(新装版、新人物往来社刊)、筒井作蔵著『おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ!』(街と暮らし社、2010年刊)を読むことに相成り候。

 両著より「秩父事件」の概要は・・・。明治17年(1884)10月31日~11月9日、秩父を中心に約1万人の農民が武装蜂起。貧農を苦しめる高利貸しへ負債延納を、また行政に雑税軽減などを申請し続けるも埒あかず、ついに我慢の緒が切れて高利貸や窮民弾圧の国家権力に立ち向かった。農民軍は軍紀・組織を有し、悪徳高利貸を打壊し、役場や警察を襲って書類を破棄。つかの間のコミューンを築いた。

 しかし憲兵、鎮台兵(※師団兵)、警察に攻められて解体。裁判は蜂起の目的や動機を問題にせず上告も破棄。「官の暴挙」判決で、埼玉県だけで死刑11名、無期2名を含む重罪296人、軽罪448人、罰金科料2642人。重罪判決者は北海道、樺太監獄に送られて、極寒の地で鎖をつけられたままの道路工事などで多くの方々が亡くなった。

 ロイター通信の長崎、横浜支局が明治4年(1871)開設で、明治20年(1887)前後に本格始動とか。「秩父事件」はロイター通信、ロンドンタイムズ紙によって「ワット・タイラーの乱」を想起させる形で大きく報道されたと推測される。

 かくして喜歌劇『ミカド』の舞台は「ティティブ」になったらしい。なお、筒井作蔵著『おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ!』のタイトルは、現「秩父鉄道」の長瀞駅と寄居駅を直線で結んだ真ん中辺り、風布地区の大野苗吉(22歳、懲役7年6カ月)による農民組織化のスローガン。猪瀬直樹『ミカドの肖像』は「秩父事件」をさらっと数行ゆえ、この辺りを読んでみた、の記。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(13)伊藤道郎 [『ミカドの肖像』]

 まずは猪瀬直樹『ミカドの肖像』の間違いを指摘。同書では長門美保歌劇研究所がアーニー・パイル劇場で『ミカド』を上演し、それが昭和21年8月14日のNHK第一放送でオンエアーと記す。これ、グチャグチャな間違い。何度も記すが長門美保らの『ミカド』初演は同年6月の「東劇」だが、それは著作権問題で「舞台稽古」の形で米兵夫人らに見せただけ。ゆえに8月のNHKオンエアーは、「アーニー・パイル劇場」の本国からオペラ歌手を呼んでの8月上演『ミカド』だろう。長門美保らは2年後の昭和23年1月29・30・31日の日比谷公会堂(当時の朝日新聞に劇評あり)、翌年には大阪でも公演。まっ、そんなことはどうでもいい。

 ここでビッグヒーロー登場! 「東劇」や「アーニー・パイル劇場」上演より19年も前、昭和2年(1927)にブロードウェイは「ロイヤル劇場」で、アメリカのスタッフ・出演者による『ミカド』を総指揮して大喝采を浴びた日本人がいた。それが世界的舞踊家・演出家の伊藤道郎(写真)。若い伊藤は坂本龍一に似て、白髪の伊藤は白洲次郎に似ている。

itoumitio1_1.jpg 彼は大正元年(1912)に19歳でドイツ留学。第一次大戦でロンドンへ。ここでモダンダンスを極め、作曲家ホルスト(あの『ジュピター』作曲者)が伊藤に捧ぐ『日本組曲』を創り、またウィリアム・バトラー・イェーツが伊藤とコラボレーションで戯曲『鷹の井戸』(西洋能)を創作。世界的評価を得て23歳で渡米。カーネギーホールに自分のスタジオを設け4千名余にダンスを教え、名実ともにアメリカ現代舞踊の先駆者の一人に。そして前述のブロードウェイで『ミカド』総指揮。彼のこと、ダンスシーンふんだんの『ミカド』と思われる。

 36歳でNYからハリウッドへ。ロスでも舞踊学校設立。昭和4年(1929)にローズボウルで野外ダンス「光のページェント」、その後にパナマウント映画「ブール―」出演。2万人収容の野外劇場「ハリウッドボール」で100名余のダンサーが踊る「プリンス・イゴール」、「美しく青きドナウ」を成功。しかし昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃の翌日に逮捕されて日系人収容所へ。1年9ヶ月後に捕虜交換船で帰国。この時、52歳。「東京宝塚劇場」接収で「アーニー・パイル劇場」の芸術監督に迎えられた。前回紹介の齋藤憐著には白髪になった伊藤道郎がダンサーに振付している写真が多数掲載されていた。

 ねっ、凄い人でしょ。 これは「アーニー・パイル劇場」をネット調べしていたら、「YouTube」の「宮本亜門が追跡!アメリカに夢を売った男 伊藤道郎」がヒットで、上記は同番組を観てのまとめ。テレビ番組投稿の著作権如何は承知せぬが、平成8年の中京テレビ制作番組。参考資料として齋藤憐の前回紹介本と、藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う』(新風舎文庫)、ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』(早川書房)がクレジットされていた。

 なお伊藤道郎は東京オリンピックの開会式、閉会式の演出をオファーされて張り切っていたが昭和36年(1961)11月に逝った。69歳。舞台美術の伊藤熹朔、俳優座主宰の千田是也の兄で、ジェリー伊藤の父。またジェリー伊藤の妻・花柳若菜は山口瞳の妹。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(12)アーニー・パイル劇場 [『ミカドの肖像』]

ernie1_1.jpg 次は斉藤憐小説『幻の劇場アーニー・パイル劇場』(新潮社、昭和61年刊)を読んでみる。同作は同劇場テーマの「三つの芝居」をもとにしての物語仕立て。フィクション部分カットで、公演記録をひろってみる。・・・昭和20年のクリスマスイブに米軍第8軍が「東京宝塚劇場」を接収し、「アーニー・パイル劇場」と改名。GHQが芸術監督に伊藤道郎を指名。

 第1回公演は昭和21年2月「ファンタジー・ジャポニカ」(構成・演出:伊藤道郎)。3月末に「劇場専属舞踊団員募集」の新聞広告で女性60名、男性10名採用。第2回公演「フェスティバル」。第3回は8月の4日間公演「ジャングル・ドラム」(演出:伊藤道郎)。「ニューヨーク・タイムス」も好評で、日本人向けに同年12月に「日劇」でも上演。

 昭和22年2月公演「タバスコ」(作・演出:伊藤道郎)。3月公演「椰子のそよ風」(演出:宇津秀男・三橋蓮子)で、翌年8月再演。4月公演「さくら」(演出:青山圭男・三橋蓮子)。6月公演「ヴギ・ビーツ」(作・演出:宇津秀男、振付:来日したドロレス・グレゴリー女史、音楽:小口臸)と「ティゴーの樹の下で」(作・演出:三橋蓮子)。7月公演「ヒット・キット・ショー」(作・演出:宇津秀男)。8月公演も2本で「海底」(共同演出:宇津秀男・三橋蓮子)と「ラプソディー・ブルー」(作・演出:伊藤道郎)。

 著者は7月公演から貧窮の日本人救済に劇場従業員千名に増加と記し、新憲法「華族令」による生活苦で三笠宮の父・高木元子爵が7月9日に自殺と追記。猪瀬直樹『ミカドの肖像』第Ⅰ部の、離籍された宮家の土地を堤康次郎が次々買収の時期だろう。

 また同年4月の戦後初の選挙で社会党大躍進。これはGHQの民主化、労働組合育成で、吉田内閣打倒で片山社会党政権誕生。しかし組合運動は東宝にも及び日劇がストライキ闘争本部になり、撮影所籠城の組合員に米軍出動の騒ぎへ。

 GHQは従来の「民主化」から「日本の産業育成」へ、さらにはアジア諸国の共産化を警戒して「反共」、自由主義陣営防衛へと政策変更。朝鮮半島も不穏になって、昭和23年(1948)は劇場公演より10名単位での米軍キャンプまわり(立川。厚木、朝霞、横浜、横須賀)中心へ。同年公演は『ミカド』だけ。昭和25年に朝鮮戦争。

 斉藤憐著には昭和23年の『ミカド』出演者スナップ写真が掲載。そこにトニー谷の顔はなく、「この年、アーニー・パイルで唯一上演された作品は、GHQ向けのショ―の演出家として来日したジョー・スティーブンスが造った『ミカド』(あるいは「ティティブの町」)である」。そして「・・・スティーブンスは、アメリカ文化の高さを証明すべく、本国からオペラ歌手を何人か呼んで、『ミカド』を上演したに違いない。美術は伊藤熹朔、ここでもトニー谷の記述なし。彼より俄然気になる人物が、同劇場芸術監督の「伊藤道郎」。いかなる人物や・・・。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(11)トニー谷 [『ミカドの肖像』]

tonytani1_1.jpg レディース・アンド・ジェントルメン、アンド・おっとっつぁん・おっかさん、グッドモーニング・アンド・おこんばんは。

 昭和のみーちゃん・はーちゃん熱狂のヴォードビリアン・トニー谷が、あの世に召され、早やトゥエンティーシックス。早いざんすチョロリンコ。遥か娑婆を見下ろせば、全共闘出身ながら丸投げ小泉ドン、元青嵐会石原ドンに仕えた後に、畏れ多くも都知事タナバタ、ポタリンコ。自著『ミカドの肖像』を、質問記者に「読んだかぁ」とタカビシャ・バッキュ~ン。同書にかの喜歌劇『ミカド』のうんちく語っているとか。あたしがソロバン片手に説明するざんす。

 ディス・イズ・トニーが、アーニー・パイル劇場の、『ミカド』に出たかどうかのクエスッチョン。そもそも話せば長いでざんす。オーライ・オーケー。あれは昭和17年に出征で、そのまま上海、香港、 シンガポール彷徨で、昭和20年は28歳でオール・ナンニモ・ナッシング、焼け野原ニッポンに帰ってきたざんす。

 ガキ時分熱中の少女歌劇、あぁ懐かしの東宝宝塚劇場に来てみれば、「米軍専用劇場専属舞踊団員募集」のチラシにベッタンコ。「フー・アー・ユー、ナニ出来ますかぁ」にアイアム・ナッシング。そこでスタコラサッサ、進駐軍慰問のショウの事務所に飛び込んで、演出助手に潜り込んだでざんす。

 ここで米軍キャンプにエブリナイト。「便利な男」と重宝がられ、先に断られたアーニー・パイル劇場より、スタッフに来てくれのナイス・オファーにベリーベリーOK。差出人はパーカー少尉。チーフの伊藤道郎さん、とっても可愛がられたざんす。振付の青山圭男さん、タップの萩野さん、日舞の西崎さん、演出の宇津秀男さん。宇津さんは憧れの宝塚の先生で、ボクの胸はドキリンコ。先生方に頭ペコペコ・ペタリンコ。一生懸命勉強すれば、認められての主任助手。演った仕事が『ミカド』でざんす。

zensu1_1.jpg 以上は、村松友視著『トニー谷、ざんす』で引用の昭和29年「オール読物」掲載の、トニー谷の手による「サイザンス人生」を参考に、勝手に書きいじりした次第。で、全編くまなく読んでも、伊藤道郎のもとで『ミカド』をやったとは書かれているも、<「ココ」役出演>の記述はなかった。まぁ、「ちょいと代役で舞台に立つだけでいいから」ってことでもあったのか。もう少し調べてみましょうか。

 写真上はビクターより昭和62年リリースのLP『This is MR.TONY TANI』ジャケ写。『さいざんす・マンボ』から『レディス&ヂェントルメン&おっとさん&おっかさん』まで全12曲収録。ライナーノーツは小林信彦。カヴァー・デザインは平野甲賀。プロデュースは大瀧詠一。写真下は松松友視著『トニー谷、ざんす』(幻冬舎アウトロー文庫、平成11年刊)。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(10)東京宝塚劇場 [『ミカドの肖像』]

tokyotakataduka_1.jpg ネット検索を続ける。次は岩田隆著「ロマン派音楽の多彩な世界」(朱烏社、2005年刊)の153頁あたりがヒットした。『ミカド』は1885年のサヴォイ劇場初演から2年後、明治20年に横浜居留地で早くも上演とあった。

 ・・・1870年代の半ば過ぎから、横浜居留地では、ゲーテ劇場やパブリック・ホールあたりで、すでにオッフェンバック(※オペレッタ原型を作ったフランスの作曲家)やサリヴァンのオペレッタが、アマチュア劇団やヨーロッパから訪れた歌劇団によって盛んに上演されていた。(中略)。1887年訪日のイギリスのサリンジャー一座が、サリヴァンの『ペンザンスの海賊』『軍艦ピナフォア』『ペイシェンス』そして『ミカド』を上演した。 『ミカド』は日本を刺激せぬよう劇中歌『卒業した三人の乙女』を題名にし、台本も一部変更・削除して上演と記し、トニー谷の『ミカド』出演の記述へ続く。

 ・・・戦後まもなく、『ミカド』は、アーニー・パイル劇場(GHQ接収の東京宝塚劇場、観客はGHQ関係者、総監督は国際的な舞踊家・伊藤道郎)で上演され、その際、ココ役で往年のヴォードビリアンのトニー谷が出演したことはあまり知られていない。

 「ホントかいなぁ」。あたしは彼に池袋のキャバレー楽屋で会ったことがある。トニー谷が演じた「ココ」は、ティティブの町の死刑執行長官。『ミカド』第1幕、2幕ともに舞台はココ公邸の庭。喜歌劇『ミカド』の舞台が、なぜに「ティティブ」になったかは後述するとして、まずはトニー谷の「アーニー・パイル劇場」での『ミカド』ココ役出演を探ってみる。

 長門美保の『ミカド』上演は、昭和22年6月の「東京劇場」(東劇)。 一方、「アーニー・パイル劇場」は有楽町駅日比谷口の「東京宝塚劇場」。昭和9年(1834)開場で、戦争中は「風船爆弾工場」として使われ、昭和21年(1946)よりGHQに10年間接収されて劇場名を変えた。

 さて、その「アーニー・パイル劇場」とは、伊藤道郎とは、そこで上演の『ミカド』とは、トニー谷のココ役出演とは・・・。未知の世界が一気に広がって隠居爺の胸は乙女のようにときめいた。えぇ、猪瀬直樹『ミカドの肖像』をおっ放ったことで得る読書の愉しみ。次はトニー谷を描いた村松友視著『トニー谷、ざんす』(幻冬舎アウトロー文庫)を読んでみることにした。

 写真は現「東京宝塚劇場」。日比谷通り側に「日生劇場」があるも、当時はさら地で「アーニー・パイル劇場」に来る米兵らの駐車場になっていたとか。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(9)GHQと忠臣蔵 [『ミカドの肖像』]

syono1_1.jpg 大逆事件については、すでに「佐藤春夫関連」や「読書備忘録」で記した。ここでは猪瀬直樹『ミカドの肖像』をもおっ放って、自前<日本の喜歌劇『ミカド』>を記す。調べるたって、小一時間ほど。隠居の早起き“朝飯前”の遊び。

 庄野潤三『サヴォイ・オペラ』の「あとがき」に、・・・(『ミカド』は有名な作品だが)日本では戦前に上演されなかった。また、昔は日本の皇族が英国を訪問している間は、一切上演はまかりならぬという習慣があり、どんなに反対の声が上ろうがイギリス政府は態度を変えなかったといわれる。戦後、長門美保歌劇団がこれを取り上げ、十八番の演目として連続上演していたから、ご覧になった方もいるかもしれない。

 「ゲゲッ」。長門美保といえば『愛馬進軍歌』や『出征兵士を送る歌』など大政翼賛会系大ヒット歌手。その彼女がなぜ『ミカド』を? それは何処で?

syonimikado1_1.jpg 次はネット調べ。大澤吉博著『言語のあいだを読む:日・英・韓の比較文学』(思文閣出版、2010年刊、定価9450円)の336頁、<我見と離見~杉村楚人冠の英国旅行記と「ミカド」>の章がヒットした。なんと、長門美保歌劇団の『ミカド』上演はGHQ、歌舞伎上演の許可がらみとあった。

 ・・・戦後、松竹(株)が『忠臣蔵』を上演したかったがGHQが禁止していた。徐々に歌舞伎への理解が得られて、ならば『ミカド』と抱き合わせなら『忠臣蔵』を上演してもいいと許可した。そこで松竹(株)は長門美保歌劇研究所に『ミカド』上演を依頼。昭和22年6月、東京劇場での上演は著作権の問題から舞台稽古という形で米軍夫人たちが目にしただけで、昭和23年1月29日の日比谷公会堂公演も、進駐軍の兵士及びその夫人に見せるためのものだった。

 筆者は続いて、・・・タブーとされていた『ミカド』だが、その内容は国辱的なものではなく、当時の英国への風刺だと内容を説明。また「東京劇場」初演五ヶ月後には、念願の『仮名手忠臣蔵』通し上演が許可されたと記していた。

 「東京劇場」(東劇)は、築地は万世橋際。歌舞伎座が東京大空襲で焼失し、1951年(昭和26年)の再建まで東劇が歌舞伎の拠点になっていた。一方、有楽町駅前「東京宝塚劇場」でも『ミカド』上演の記述がヒット。こっちはなんと、トニー谷がココ役で出演とあり、腰が抜けるほど驚いたでざんす。

 ※写真は庄野潤三著『サヴォイ・オペラ』。開いた頁左上に・・・癇癪持ちだが根は人情家のギルバート(左)と恋愛はするが一生結婚しなかったサリヴァン・・・の似顔絵が掲載されていた。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(8)宮さん宮さん [『ミカドの肖像』]

m_arisunomiya_1[1].jpg 昨年12月20日頃から、弊ブログ記事「宮さん宮さんお馬の前に~」にポツリポツリと閲覧記録がでた。自分で言っちゃナンだが、小生ブログを、しかもそんな記事をば誰も見ん。

 それは一昨年秋「幕末もの」読書中のこと。薩長兵らが東征にトンヤレ節で気勢上げつつの行進。馬上にいたは、和宮を取られて徳川に憎悪たぎらす東征大総監・有栖川宮熾仁(たるひと)親王。その宮さんの騎馬銅像を有栖川公園で撮っての(写真)記事だった。

 誰も見向きせん記事を閲覧とは、「憂き世」に何かがあったらしい。それは新都知事が就任記者会見で質問者に横柄な口ききで逆質<『ミカドの肖像』を読んだか。オーケー>とやった頃からに符合する。

 英国の「喜歌劇ミカド」は脚本:ギルバート/作曲:サリヴァン/サヴォイ劇場:ドイリー・カートによって、1885年に初演。578回を超えるロングラン。序曲は日本衣装の群像が日本語で歌う「宮さん宮さん~」。

 庄野潤三『サヴォイ・オペラ』(河出書房新社、昭和61年刊)に脚本家、作曲家、劇場主のプロフィール、時代背景、出逢い、各作品が詳細紹介。猪瀬直樹は1982年版のLD『ミカド』を入手と記すが、あたしは新宿図書館で1973年レコーディング、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のロンドンレコード『サリヴァン喜歌劇「ミカド」全曲』(二枚組LP)を借りた。保柳健によるライナーノーツが、アーティスト紹介、「ミカド」あらすじ、全曲対訳で詳細解説していた。

 さて、ミカド=処刑イメージはどこから来たか。同喜歌劇初演は1885年(明治18年)。薩長兵らの東征行進曲『宮さん宮さん』は1868年。江戸城は西郷・海舟によって無血開城。その半年後に明治天皇が江戸へ。御旗をもって幕府勢は「朝敵・賊軍」となり上野戦争(彰義隊)、東北戦争(白虎隊)、函館戦争(五稜郭)他で多くの血が流された。だが、この戊辰戦争が「ミカド」イメージになって英国に届いたとは思えぬ。

 「ミカド」の怖さと言えば、やはり「大逆事件」だろう。1882年(明治15年)に刑法「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」が施行。1910・11年(明治43・44年)の「大逆事件」(幸徳事件)で多数の社会主義者、無政府主義者が逮捕・検挙され12名が処刑、12名が無期刑で多く方が獄死した。

 都庁眼下の西新宿・正春寺に「管野スガここにねむる」の慰霊碑あり。同じく新宿は余丁町に「東京監獄 刑死者慰霊塔」がひっそり建っている。しかし「大逆事件」が喜歌劇「ミカド」にヒントになるには、年代が合わぬ。

 『ミカドの肖像』は「大逆事件」に言及せぬまま、相変わらず焦点定まらぬ記述を延々続けるゆえ、この辺を自分なりに考えてみることにした。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(7)論理破綻 [『ミカドの肖像』]

mikado1_1.jpg 第Ⅱ部は「歌劇ミカドをめぐる旅」。まずは第六章「ミシガン州ミカド町へ」。著者は同地を訪ねて町名由来を探る。・・・汽車開通で駅名を申請。似た名が他にあり、当局担当者の頭にあった「オペレッタ・ミカド」から「ミカドにしたら」。バッカみたい。

 第七章「ミカドゲームと残酷日本」。著者はミカドゲーム前身が、金属製ゲーム「ジャックスロート」と推測。英和辞書サイトに「プレーヤーが、ジャックスロートの山から、他を動かすことなく、それぞれのジャックスロートを取っていくゲーム」の例文あり。

 「ジャック・スロート」は英国1381年の農民一揆の首謀者ワット・タイラーの仲間のひとり。彼らは貴族の首を刎ね、裕福な商人の倉庫を略奪。そこからゲーム名になったと解く。金属製が「竹ひご」になって大普及。その際に「竹ひご=日本」、「ワット・タイラーの乱=首を刎ねる=日本の天皇」でゲーム名が「ミカド」に。その「ミカド」は喜歌劇サヴァイ・オペラ「ミカド」からと推測を重ねる。

 第八章「西洋人の日本観と歌劇ミカド」。ここでは「ミカド」は恐怖イメージからではなく「ジャポニスム」の影響と記す。

 「あれは何だ」と探れば、どうってこたぁねぇ。「あれは山か」と推測して山の記述を延々と続け、「いや、川かもしれない」。今度は川調べ。「捨象されることのない記述」に加え、論理・推測の破綻も構わずの紆余曲折を延々と書き連ね、いたずらに長編に仕上げている感が否めぬ。

 あたしは改めて論理とは、「演繹法・帰納法」とは、を考えてしまった。いまは佐野眞一『巨怪伝』読書中だが、例えば50頁に正力松太郎をめぐる30名の男が登場で、彼らの人柄、時代背景、出逢いの意味などが小気味よくまとめられてスリリングに展開していく。「捨象」することは「知力」に通じる。なんだか鼻が詰まっているような『ミカドの肖像』とは雲泥の差だなぁと思った。

 ちなみに『巨怪伝』を検索してみれば「松岡正剛の千夜千冊」がヒット。同書は「主張、構成、調査、表現力、説得力、訴求力、歴史観、分量、資料性など、どこをとっても申し分なかった」との書き出しで、これ以上ない書評は、こう〆られていた。「ぼくなら(『旅する巨人』に大宅荘一賞が贈られたけれども)『巨怪伝』にあげていた」。その授賞を妨害した人物がいるとの流布あり。それが誰かはおいておき、上記各要素ともに不十分が、『ミカドの肖像』と言えようか。

 写真は図書館で借りた1973年レコーディング、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のロンドンレコード『サリヴァン 喜歌劇「ミカド」全曲』(二枚組LP)。庄野潤三著『サヴォイ・オペラ』にも、このジャケ写の舞台写真が掲載されていた。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(6)本田靖春 [『ミカドの肖像』]

honda_1.jpg 第Ⅱ部に入る前に、(1)で記した佐高信引用の、本田靖春の遺著『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社、2005年刊)を読んだので、同書の猪瀬批判をひいておく。氏は読売新聞社会部記者で、正力松太郎の「新聞は読売グループ諸事業の宣伝媒体」的考えに反対して辞職。以後、フリーのルポライターへ。(もう死語か)。

 第一部は「由緒正しい貧乏人」に「おんぼろアパートが終の棲家」の章あり。そして終盤に再び記している。「自分はアパート暮しで生涯を過ごそうと決めた」が、「全共闘世代は汚濁の世をすいすい泳ぐのが上手だ」。続けて余談と記し、猪瀬直樹について書いていた。

 「いまを時めく猪瀬直樹氏がフリー仲間の佐野眞一氏と連れ立って、拙宅にやって来たことがある」。面識ない無名の二人が、原稿料値上げ運動を起こしたいが、若手だけでは心細いゆえ、「この私に一枚噛んでくれ、というものであった」。

 やはり猪瀬、佐野はむかし盟友だった。それが、いつから、どうして仲違いしたのだろう。本田氏記述は続く。「本田が猪瀬の師匠だ、と一部でいわれたことがあったが、その事実はない。だいたい、生き方のまるで違う彼が、(生涯アパート暮しの)私に学ぶことなんてありはしないではないか」。

 「猪瀬氏は西麻布に事務所ビル(地下一階、地上三階)を所有し、郊外に持家を構えている」に続き、「猪瀬氏は勉強家だし、仕事熱心だし、世渡りも上手だと思うのだが、なぜか、人に好かれない。それは、単に、威張り過ぎるから、といったような表面的理由だけによるものではなさそうである」。※上記二か所の()はあたし。

 絶筆「拗ね者の誇り」の章に、「私には世俗的な成功より、内なる言論の自由を守り切ることの方が重要であった。でも、私は気の弱い人間である。いささかでも強くなるために、このとき自分に課した禁止事項がある。それは、欲を持つな、ということであった。欲の第一に挙げられるのが、金銭欲であろう、それに次ぐのが出世欲ということになろうか、それと背中合わせに名誉欲というものがある」。

 それが誰を指しているかは記さぬも充分に頷けよう。「それらの欲を持つとき、人間はおかしくなる」で結ばれていた。平成16年、享年71。天国の本田さんに、猪瀬直樹が東京都知事になったのを教えていけない。

 昨夜、風呂に佐野眞一『巨怪伝』(正力松太郎と影武者たちの一世紀)を持って入ったら、かかぁが「あんた、生きてるぅ」。夢中で読んで時を忘れていた。比して『ミカドの肖像』の頁をひらけば眠くなる。差は歴然。これで「大宅荘一ノンフィクション賞」とか。もう同賞受賞作は読むまい。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(5)メジロの来る庭 [『ミカドの肖像』]

meji1_1.jpg 『ミカドの肖像』第Ⅰ部は、昭和天皇のゴルフから第四章「避暑地軽井沢と八瀬童子」、第五章「修羅としての大衆」で終わる。

 かつて阿久悠は・・・♪上野発 夜行列車/おりた時から/青森駅は 雪の中~ で「僕はたった22字で、上野から津軽海峡の冬景色まで誘った」と自慢していた。『ミカドの肖像』は捨象されることなくダラダラと長い記述が続く。時に論理(推測)が破綻するも、お構いなしに次の事象へ移って行く。(笑い)。

 第四章・・・村が時代に乗れるか否かはリーダー次第。東長倉村は軽井沢村に変え、堤康次郎と組んで避暑地、レジャー地へ発展した。比して天皇の棺を担ぐ京都八瀬村の八瀬童子は、天皇が京都を去った後も明治天皇、大正天皇崩御に棺を担ぐことを執着し、同村は西武の「宝ヶ池プリンスホテル」に呑み込まれた。

 第五章・・・再び堤康次郎の軽井沢開発の逸話に戻って、「まずは土地」の信条から、プリンスの名を冠した諸事業が、皇太子・美智子妃のテニス、そしてゴルフブームなどと相乗的に発展し、西武は大衆消費、レジャー時代の帝王になった。著者は何を言いたかったのか。約6千字を、250字でまとめた。飽きてきたので、余談・・・

mejirocup2_1.jpg 余談1) 第Ⅱ部「歌劇ミカドをめぐる旅」に併読すべく庄野潤三『サヴォイ・オペラ』を入手。するってぇと同氏著に『メジロの来る庭』あり。実は大久保の我が家(7階)ベランダに、今年もメジロが来た。一昨年が1月18日から、去年が2月7日、今年は1月10日。気象状況も毎年違う。かつ昨今はメジロが殖えているようにも思われる。本を読みつつ、ベランダに集うメジロを愉しむ毎日で御座候。(追記:メジロは例年、東京マラソンの頃、新宿御苑の梅が咲き、寒桜が咲くころに来なくなる。)

 余談2) 昭和天皇の新宿御苑ゴルフコースを記したので、御苑がらみ・・・。長く工事中だった新宿御苑の温室が完成した。大期待していたが外観・室内共にすっきりモダンで、なんとも味気ない。例えば今までの温室は「ドン.キホーテ」みたいに溢れるほどの商品(植物)を迷路廻りで探し見るかの楽しみがあった。今はスッと通り過ぎるだけ。新しくなって、つまらなくなるものも多い。新しくなった都政、国政ともに観察を怠ってはいけない。

gyoenonsitu_1.jpg


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(4)新宿御苑9ホール [『ミカドの肖像』]

gyoengolf2_1.jpg 以下、田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』備忘メモ。

 昭和天皇が初めてクラブを握ったのは大正6年。場所は高輪の東宮仮御所。頑強とは言えぬゆえ心身鍛錬として勧められた。(当ブログ「戸山ヶ原伝説」登場の「戸山アパッチゴルファー」の鳥羽老人も健康のために明治末よりゴルフを開始。これまたゴルフ史の貴重な一コマ。)

 日本最初のコースは明治36年に六甲に造られた「神戸ゴルフ倶楽部」。(小生、縁あって今は亡き夏坂健さん、児玉清さんとまわった)。関東最初のコースは大正3年開場の現・駒沢オリンピック公園の「東京ゴルフ倶楽部」。

 昭和天皇の初ラウンドは「箱根仙石原コース」で、同年に沼津御用邸近く、田子の浦に砂浜リンクスを造って練習。大正10年に外遊。パリ郊外のコースでプレイ。帰国後の大正11年に新宿御苑に皇室専用の9ホール(1736ヤード、パー32)が完成。田代著には新宿御苑のガイドマップ上に当時のコースが書き込まれていたので、あたしも真似をした。(写真) 追記★2013年5月29日の東京新聞「東京トリビア」では、上記ホールとは別の、新宿門まで伸びる9ホールが紹介されていた。皇室自前の庭なら好きなように変更できようゆえ、さまざまとコース・アレンジされたと推測してもよさそうです。

 同年、英国エドワード皇太子がお召艦「レナウン」、供奉艦「ダーバン」で来日。駒沢ゴルフ倶楽部で日英皇太子が「フォーボール・ベスト」を楽しまれた。裕仁皇太子の第1打はトップでチョロ、は余りに有名。猪瀬直樹『ミカドの肖像』には、裕仁皇太子組に高木秀寛が、英国皇太子組に西園寺公一が(キャディに)付いた、との記述があるが、おやおや、他の二人は自分でバッグを持ったのか。そりゃ、間違いだろう。

 「フォアボール」は4名プレイゆえキャディは4名。裕仁皇太子に高木秀寛が、大谷光明に西園寺公一が付き、英国側には英国随行員の二人が付くが正しい。田代著にもそう書かれている。『昭和天皇のゴルフ』表紙写真(3に掲載)は、その時の昭和天皇ショット姿。

 新宿御苑コース完成後の大正14年に赤坂離宮(現・迎賓館)に6コース、那須御用邸に9ホール、皇居吹上御所に9ホールと次々に造成。昭和天皇がいかにゴルフ好きだったかが伺える。(大谷光明もお寺に隠しショートコースを造っていたと、何かで読んだ。本願寺派の坊さんに大谷光明の日英皇太子ゴルフの話をすると、皆、狐につままれたような顔をするから面白い。)

 大正12年12月16日、新宿御苑で午前、午後のプレイを楽しまれた11日後に、難波大助によるステッキ銃の昭和天皇狙撃の「虎の門事件」。(大逆罪適用で死刑判決二日後に処刑/田中伸尚著『大逆事件』より)。それでもゴルフを止めぬ昭和天皇だったが、昭和12年7月の蘆溝橋事件勃発に怒りを込めて「ゴルフは止める」。吹上御所コースの手入れも止めさせて、趣味を植物に変えたとか。

 なお、「虎の門事件」当時の警視庁警務部長が正力松太郎。免官された彼は、36年後の長嶋ホームランの天覧試合で、この汚辱を晴らす。このシーンから書き出すのが佐野眞一『巨怪伝』。猪瀬直樹には遥か及ばぬ筆力、取材力でグイグイを引き込み読ませてくれる。


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(3)プリンスとゴルフ [『ミカドの肖像』]

seibuhoukai_1.jpg 第Ⅰ部「プリンスホテルの謎」第一章は「ブランドとしての皇族」。国土計画本社の社長応接室での堤義明インタビュー場面から始まるも、肝心のインタビューは一向に始まらぬ。

 同社の軽井沢の土地取得・開発の経緯説明が延々と続く。読んでいれば、怪物的人物・堤康次郎の自伝、評伝を読みたくなる。各種事業へ挑戦も失敗続きで、大正7年、30歳で軽井沢に乗り込む。金がないのに秘策をもって土地取得から開発への展開はまさにドラマだろう。

 昭和22年、GHQにより皇族11宮家が離籍。生活成り立たぬ彼らの土地を次々に買収。朝香宮家の軽井沢別荘が皇室向け「千ヶ滝プリンスホテル」になり、目黒のアール・デコ建築の本邸が「吉田茂首相公邸」から「白金迎賓館」へ。この間に西武が買収して「白金プリンス迎賓館」。ここにホテル建設を計画するも住民反対運動。都に売却の利益をもって旧白川宮邸跡地に「高輪プリンスホテル」を建築。

 この要約は『ミカドの肖像』からではなく、共同通信社経済部編著『「西武王国」崩壊』(東洋経済新報社刊)他から。(1)で「文は人なり」と書き出したが、「書も人なり」。読書は著者が誘う次の展開へ胸おどり、併せて著者にも惹かれて行くものだが、同書にはそれがないゆえに関連書への浮気と相成り候。

tennogolf_1.jpg 朝香宮家に関する記述も然り。目下は改修工事で閉館中だが「東京都庭園美術館」サイトの「旧朝香宮家の歴史を訪ねて」が、写真多数で同家・同邸の歴史41回連載が一挙掲載されて、こっちの方が面白く楽しい。

 西武(国土)の土地買収と開発の詳細は第二章も続くが、第三章でいきなり「天皇裕仁のゴルフコース」になる。ここでやっと堤義明インタビューが始まるが短文8コメントほど。特別な内容でもなく、あのもったいぶった書き出しは何だったのか。

 昭和天皇のゴルフについても、かつて日本のゴルフ史を読み漁った身には承知のことばかり。ここでは従来のゴルフ史の間違いの数々を訂正して昨年刊の田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』(主婦の友社)がお勧め。

 つまり、こういうことなんだ。 『ミカドの肖像』には求心力ある芯がない、あっても芯に磁力なし。希薄、空虚ゆえに、集めた諸相などが拡散ベクトルを発して、読む者を他著へ誘うってこと。読者を引き込む力がないんだなぁ。(続く)


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(2)皇居前百尺ビル群 [『ミカドの肖像』]

hibiyatori1_1.jpg 猪瀬直樹に関する書を読み、テレビで新都知事の顔を拝見するってぇと、「あぁ、金と、名誉欲、権力欲の塊なんだぁ」と思うようになってしまった。『ミカドの肖像』にも触れるのがイヤになったが、皆が選んだ都知事の代表作。我慢して読み進めることにしましょ。

 「同時代ノンフィクション選書・第8巻」に書かれた柳田邦男の解説通り、同著は・・・あらゆる大小のエピソード、データ、さして意味のなさそうないくつかの出来事を『捨象されることなく~』で、焦点定まらぬ記述が延々と続く。

 書き出しテーマは「東京海上ビル」。日比谷通りの皇居前、日比谷濠前から第一生命、帝国劇場、東京会館、郵便局丸の内分室、明治生命館と高さ百尺(約30㍍)に揃った建物で統一感ある景観(写真上)をつくっている。しかし「行幸通り」(皇居から東京駅に抜ける道)の和田倉濠前の「東京海上ビル」(写真下の右奥の赤茶色建物)から、その景観が崩れる。

hibiyatori2_1.jpg 同書では同ビルの昭和41年末の建築申請から、昭和49年完成までの、姿を現さぬ数々の障害がレポートされていた。「そういえば、同ビルが高さ制限・美観問題でマスコミを賑わせたこともあったなぁ」との記憶も甦る。併せて、昭和41年といえば6月にビートルズ武道館公演だが、あたしは風月堂でモダンジャズに首振りつつヘンリー・ミラーなんか読んでいて、夜になって酒場に入れば、哀しく虚ろな眼をしたベトナムからの若い休暇兵らがいて、時に浅草のストリップ小屋を覗きつつ、「はたして俺は社会人になれるのだろうか」と不安だったことも思い出した。

 同ビルの建築申請から完成までの8年は激動の時代だ。学生運動、新宿騒乱罪、フーテン、シンナー、ケネディやキング牧師暗殺、よど号、三島由紀夫の割腹、万博・・・。それら横目に、あたしは何とか広告制作会社にデザイナーで就職し、2年後にPR会社に2年在籍。そして早々とフリーになって数年後のこと。自分にも激変の8年。

 昭和49年には、同ビル近くの丸の内・三菱重工ビルの爆破事件もあった。同社は最初の勤め先のスポンサーで、パンフや広告の打ち合わせで毎日のように通っていたことも思い出した。

 話を同書に戻す。「東京海上ビル」完成までの記述が終わって、そこから<天皇制への言及>があるやと期待していたが、<同ビルから眼下をみれば天皇の住まい、日本の「空虚な中心」が見える。>で終わっていた。そして次の逸話「原宿の宮廷ホーム」へ。お召列車運行の、まぁ薀蓄(うんちく)の域の「捨象」されぬ記述がまた延々と続く。以上が長い長いプロローグ。第Ⅰ部「プリンスホテルの謎」がやっと始まります。(続く)


コメント(0) 

猪瀬直樹『ミカドの肖像』(1)捨象されぬ記述 [『ミカドの肖像』]

mikado1_1.jpg 「文は人なり」。人間に魅力がないと文章もつまらん。何頁か読むと欠伸が出た。その都度、関連書を読むなどして仕切り直し、再び読み始めた。そんな繰り返しで、なんとか読了。

 まず佐高信『自分を売る男、猪瀬直樹』冒頭の『ミカドの肖像』についての記述をひく。・・・猪瀬は大宅壮一ノンフィクション賞がほしかった。ほしくて仕方がなかった。そこで同賞の選考委員だった本田靖春に接近した。そして見事に籠絡することに成功したのである。その結果、猪瀬の『ミカドの肖像』を受賞作に推してしまう。

 私は『ミカドの肖像』を「皇居のまわりをジョギングしているだけ」と批判したのだが、立花隆も「この作品の中心は空虚である」と批判している。(中略)。本田は後年、遺作となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)にも猪瀬批判を書いた。そして、猪瀬の作品を大宅賞に推したことを恥じて、間違いだった、とも言っていた。(同書未読。本当にそんな事が書かれているのだろうか。読んでみる必要がありそうだ。★『ミカドの肖像』(6)で紹介。

 佐高信は自著『現代を読む~一〇〇冊のノンフィクション』(岩波新書)にも同書を入れていない。もう少し公平な書評が他にないかしらと見わたせば、「同時代ノンフィクション選書」第8巻「現代史の死角」(文藝春秋、平成5年刊)の柳田邦男の解説があった。

nonfic_1.jpg ・・・ルポルタージュでもない。あらゆる大小のエピソード、データ、さして意味のなさそうないくつかの出来事のシンクロニシティ(共時性)、人物紹介、場所や建築物のいわく因縁、文化文芸の説明、ビジネスの収支決算、等々、捨象されることなく、一千枚のなかに放り込まれている。そのこと自体がミカドの国のパロディなのかもしれない。

 この文章を吟味すれば、<捨象されぬことなく>とは、「書こうとする概念に焦点が定まらぬ曖昧さのまま」、つまりミカドの存在と同じく曖昧、空虚な書、という痛烈な批判を含んで、佐高や立花評と同じ指摘のようでもある。あたしがもっと正しく言えば「一千枚のなかに」ではなく、「捨象されぬままの記述をだらだらと一千枚も書き連ねて」だろう。「読めば欠伸」は誰もの感想だろう。

 あたしの結論から先に記す。「第Ⅲ部 心象風景のなかの天皇」の最終章「複製技術革命の時代」から「エピローグ」を読めば充分で、あとはあたしのように隠居のボケ防止と、暇つぶす他にすることがなくなったら、残る11/12を拾い読めばいいように思った。(続く)。


コメント(0) 

佐高信『自分を売る男、猪瀬直樹』 [『ミカドの肖像』]

satakainose_1.jpg 副題は「小泉純一郎に取り入り、石原慎太郎にも・・・」。帯コピーは「石原慎太郎の小役人にはまかせられない」。(七つ森書館、2012年12月10日刊)

 正月読書用に年末に文庫本・新書をまとめ買い。新宿「ベローチェ」でコーヒー飲みつつ同書を開いたら、そのまま一気読了。全編、猪瀬直樹の正体を暴くかの、腹に何やら含んだ告発書。猪瀬批判を書けば、彼から内容証明郵便が届き、ペンの議論を司法へ持ち込むかの恫喝、さらに上司や企業トップに「あいつには書かせないでよぅ」の電話をいれるのが彼の常套手段とか。おぉ、怖い・怖い。ゆえにここでは同書の目次のみを紹介。目次から内容を察していただこう。

 <第一章 自分を売る男、猪瀬直樹> 「自分」を売るジャーナリスト/棄てる程度の思想しか持ち合わせていない/子分にしかなれない人間/石原以上に「暴」に走る/言葉の力を棄てている/自己顕示欲の塊/苦労人が成り上がると・・・/出発点のない人

 <第二章 目立ちたがり屋のエセ改革者> 背伸びしたゴマスリ小僧/ベスト・ノンフィクションには入れられない/自慢話以外の話を聞いたことがない/せめてミミズから人間に昇格してほしい/死ななきゃなおらないシアワセ者/自分に都合の悪いことは答えない/人間の七面鳥性を教えてくれる/あなたはエライんだよと言ってあげようか/ミョウバン直樹という筆名を進呈しよう/持ち上げればどこまでも登っていく俗物/猪瀬と小泉の二人はエセ改革者にすぎない/「コイズミカイカクバンザーイ」がただ一つのお題目/権力に対してイエスという“石原ヒットラー”の手下/虚名と無責任のマグマ/「禁忌」に挑むジャーナリストではない

 まぁ、エラい本、トンでもない本を読んでしまったと後悔しきり。あぁ、これが今後の都政をお任せする都知事様のお姿とは。ホントかいなぁ。猪瀬直樹は新知事就任記者会見で、記者に逆質問、「『ミカドの肖像』を読んだか?」そして諒解の口癖「オーケー」と言ったそうな。(「YAHOO!」や「産経ニュース」サイトより)。あたしは都知事担当記者じゃないが、今後の都政を託すゆえに『ミカドの肖像』を拝読することにした。

 『ミカドの肖像』を読み進むに従って、猪瀬新知事が記者らに同著を読んだかと逆質の際に、記者らは「佐高信の『自分を売る男、猪瀬直樹』を、本田靖春の遺著『我、拗ね者として生涯を閉ず』を、櫻井よしこ著『改革の虚像~裏切りの道路公団民営化』(※新潮文庫『権力の道化』を改題)を読みました」と応えるべきじゃないかと思った。


コメント(0) 
『ミカドの肖像』 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。