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旧常磐橋の江戸から明日~ [日本橋川]

zenibamecyo_1.jpg 11月8日の新聞に「旧常磐橋」が復元したの報あり。観に行きたくなった。7年前に弊ブログで、飯田橋「三崎端」から隅田川へ抜ける「豊海橋」までの各橋・歴史のお勉強「日本橋川」シリーズを記した。

 その時に「旧常磐橋」は、東日本大震災被害(その前から崩れかけて通行禁止)の修復工事中だった。さて、どう甦ったのかしら~と胸ワクワクと見に行った次第。

 東京駅・日本橋口から神田方向へ。至る所が工事中で、街が騒がしい。大手町2丁目の日本ビルヂングに「銭瓶町(ぜにがめちょう)ポンプ所」(写真)のシャッター。何やら江戸の臭いがした。

 そう、江戸時代に「一石橋」から真っ直ぐ江戸城へ伸びる水路「道三掘yatumenohasi_1.jpg(どうさんぼり)」があって、そこに架かっていたのが「銭瓶橋」(名所江戸百景:八ツ見のはし。絵の正面の橋)。その袂に江戸初の銭湯が出来た。明治になって、その辺りが「銭瓶町」。昭和5年に下水道の「銭瓶町ポンプ所」が出来た。

 さて「旧常磐橋」も、それまでの木橋から明治10年に、小石川橋門の石垣一部を使って都内最古の西洋式2連アートの石橋「常〝磐〟橋(ときわばし)」が出来た。大正9年(1920)、その上流に市電を通すために「新常盤橋」が完成(現橋は昭和63年)した。また昭和元年(1926)に旧常磐橋下流に、関東大震災後の新道路に2連アーチの「常盤橋」が出来た。

 上下流に二つの常盤橋が出来て不要になった「旧常磐橋」は、澁澤榮一の支援で昭和3年に国の史跡になって改修。併せて「常盤橋公園」も再整備され、氏の銅像も建った。

 そして今、従来の痛みに加えて東日本大震災で崩れた橋の改修へ。当初の13億円から20億円へ膨らんだ改修が、このほど完成。その新「旧常磐橋」が渡れるかと期待して行ったのだが、未だ工事壁で塞がれて入れずだった。

tokiwabasi2_1.jpg どうやら公園再整備後に渡れるらしいが、その時は橋の袂のベンチに座りながら〝常盤橋物語〟へ想いを巡らせてみたいと思ったが、同地域にそんな長閑さはまだ先のことらしい。目下「東京駅前常盤橋プロジェクトTOKYO TORCH」進行中で、2027年には日本1の超高層ビル(地上61階390m)等が建つらしい。旧常磐橋もその巨大開発に呑み込まれそうです。

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日本橋川(30)参考資料一覧 [日本橋川]

toyomibasi1_1.jpg 「豊海橋」の先は大川(隅田川)。右側に永代橋が架かっていた。ふとした思い付きで始めた「日本橋川」。数回で終わると思っていたが、凝り性ゆえ30回シリーズになってしまった。江戸弁、旧仮名のお勉強と同じく、東京生まれには必要な地理歴史の、それは楽しい遊びだった。以下、参考、引用した資料を一覧して終える。

 ●鈴木里生『江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会) ●渡部一二『江戸の川・復活』(東海大学出版) ●原信田実『謎解き 広重「江戸百」』(集英社新書) ●嵐山光三郎『芭蕉紀行』 『悪党芭蕉』(新潮社) ●朝日新聞社社会部『神田川』(新潮文庫) ●野村宇太郎『改稿東京文学散歩』(山と渓谷社) ●細川博昭『大江戸飼い鳥草紙』(吉川廣文館) ●『江戸切絵図集』(ちくま学芸文庫) ●池波正太郎『江戸切絵図散歩』(新潮文庫) 『鬼平犯科帳 10』(文春文庫) ●長辻象平『江戸釣魚大全』(平凡社) ●森田誠吾『江戸の明け暮れ』(新潮社) ●高牧實『馬琴一家の江戸暮らし』(中公新書) ●小池藤五郎『山東京伝』(吉川廣文館) ●菅原健二『川跡からたどる江戸・東京案内』(人物往来社) ●酒井茂之『江戸東京橋ものがたり』(明治書院) ●『慶長見聞集』(人物往来社) ●石本馨『大江戸橋ものがたり』(学研) ●佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』(ハルキ文庫) ●永井荷風『夜の車』(全集より) ●岡本綺堂『半七捕物帳』(光文社) ●現代日本文学全集『泉鏡花・徳富蘆花集』 『島崎藤村集(二)』(筑摩書房) ●長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫) ●井上安治画・木下龍也『色刷り 明治東京名所絵』(角川書店) ●山本末谷・画『明治東京名所図会』(講談社) ●野口富士男『わが荷風』 『しあわせ/かくてありけり』(講談社) 『私のなかの東京』(岩波現代文庫)『昭和文学全集14』(小学館) ●『谷崎潤一郎全集 第十七巻』(中央公論社) ●野村尚吾『伝記 谷崎潤一郎』(六興出版) ★その他、各橋詰の史跡案内板の文章や写真、また関連ブログも参考にさせていただきました。

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日本橋川(29)「豊海橋」日本の曲がり角 [日本橋川]

nipoonginkou1_1.jpg 「湊橋」から日本橋川に架かる最後の「豊海橋」へ。途中に「日本銀行創業の地」の史跡案内あり。・・・明治十五年十月十日、日本銀行はこの地で開業した。明治三十九年四月、日本橋本石町の現在地に移転した。

 創業地の建物の絵が刻まれたプレートに、これだけの文章。うむ、何か臭うなぁ。井上安治の絵「永代橋際日本銀行の雪」(左)の木下龍也の解説文をひく。・・・日本銀行は明治十五年設立。翌十六年四月永代橋西詰にあった開拓使物売捌所(うりさばきしょ)を譲りうけて業務を開始。うむ、この開拓使物売捌所・・・ どこかで読んだ記憶があるぞ。

 設計は帝国博物館、鹿鳴館、ニコライ堂設計のコンドルさん。ヴェニス風ゴチック煉瓦造り。同所は政府が北海道開拓のために明治二年に設置の行政官庁。1400万円を投じて竣功するも、長官・黒田清隆が同郷の薩摩出身者に38万円で払い下げようとした。木下龍也は、北海道物産の売店にすぎないのに、かくも贅沢な建物で「公費天国の面目躍如、苦笑するほかはない」と記すが、苦笑では済まされぬことになる。

toyomibasi41_1.jpg 薩摩藩閥の裏取引と世論沸騰。大隈重信らも反対した。しかし薩長藩閥は政府を混乱させたとして大隈重信、福沢諭吉らを追放。これに乗じて伊藤博文、井上毅らはプロシア型憲法、つまり「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「大日本帝国憲法」制定に至る。

 この建物こそ、日本が戦争に突き進む曲がり角の象徴。そんな明治を振り返りつつ歩めば、目前に現われたのが「豊海橋」。すでに永井荷風の月夜散策コース、東京湾汽船発着所探しで何度も訪ねた橋なり。橋詰の案内板をひく。

 ・・・日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至る。現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に架設。形式名はフィーレンデール橋。梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもの。我が国では本橋以外に数例しかなく、稀少価値の高い橋です。そして荷風の「断腸亭日乗」の文章がひかれていた。

 橋から大川(隅田川)を見れば、右側に美しいアーチ型の永代橋が見えた。次回に「日本橋川シリーズ」に引用、参考にした全資料を一覧し、このシリーズ終了です。


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日本橋川(28)「湊橋」の不義密通 [日本橋川]

minatobasi4_1.jpg 「茅場橋」から下流の「湊橋」の間の右岸に「亀島川」が合流。「日本橋水門」から永代通りに架かる「霊岸橋」。「亀島橋」~「高橋」~「南高橋」を経て隅田川へ。霊厳島については、すでに「東京湾汽船の昔の発着場」調べ、かつ永井荷風の月夜散歩路として紹介済。

 「湊橋」橋詰に案内板あり。・・・この橋は霊厳島(現在の新川地区で通称こんにゃく島とよばれていた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が立ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。橋名由来は、江戸湊の出入口から。現在の橋は、関東大震災の復興期に再建され、平成元年の整備事業で装いを新たにしました。

minatobasi3_1.jpg 案内板には「江戸名所図会」が紹介されていた。この絵は「山王祭・其三」で、当時の山王祭の様子が描かれたもの。日本橋川沿いにズラッと倉庫が建ち並んでいる。祭りの行列は日本橋川左岸から「湊橋」を渡って、また上流に戻って「霊岸橋」を渡っている。倉庫前には天幕付き観客席があって見物人がびっしり。「湊橋」を渡った右岸にも莚に座った観客。祭り見学の船も多い。当時の山王祭りは神田祭りと共に江戸天下祭り。永田町の日枝神社と連動で、この地でもかくも盛大に行われたってことだろうか。

 現在の「湊橋」はコンクリートアーチ橋。タイル仕上げのモダンな橋で、中央に下り船か、立派な帆かけ船のエンブレムが飾られていた。ええっ、タイトルの不義密通

minatobasi1_1.jpg 「湊橋」を渡って「霊岸橋」の間の一画に、谷崎潤一郎の祖父が次女に持参金代わりに持たせた百両で買った「真鶴館」あり。明治44年、潤一郎は永井荷風の好批評にブルブル震える感動を得た翌年、徴兵検査に脂肪過多症で不合格。「真鶴館」に籠って執筆。当時の同旅館経営は従兄の江尻雄次。潤一郎は、彼の妻で女将の「お須賀さん」とよからぬ関係になったらしい(噂)のだ。「東京日日新聞」の『羹』連載中なれど、執筆よりお須賀さんとのイチャツキの方が愉しかった。結果、江尻夫妻は離婚し、江尻氏は後に歯医者になった。某が佐藤春夫に歯医者紹介を依頼されて江尻歯科を紹介。潤一郎は秘密がバレると烈火の如く某に怒ったそうな・・・。


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日本橋川(27)「茅場橋」谷崎潤一郎の幼少時代 [日本橋川]

yoroibasi2_1.jpg 「鎧橋」橋詰の案内板に谷崎潤一郎『幼少時代』より「鎧橋」の思い出が紹介されていた。いい機会ゆえ同作を読む。70歳になった著者が、幼少期を鮮やかに思い出している。

 彼の祖父・久右衛門が米相場の変動を朝夕刷る「谷崎活版所」を設立して谷崎家の繁栄を築いた。彼は日本橋蛎殻町の祖父の家に同居の父・倉五郎、母・関の長男として明治19年に生まれた。幼少期に最も長く住んだのが南茅場町の家。

 その家は南茅場町45番地。「茅場橋」架設が昭和5年ゆえ、「goo」の明治地図を見ながら、記述を追ってみる。・・・小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町と云い(中略)、その通りを南へ一二丁行くと~。また別の文で・・・「霊岸橋」から百メートルほど西~。地図を指で辿れば45番地あり。現・永代通りと新大橋通りが交差する「茅場町」辺り。

 ・・・南茅場町の地内は、徂徠や其角が住んでゐた宝永享保頃は、一面に蘆萩の生ひ茂る閑雅な土地であつたと云ふが、明治廿年代でも、今から思へばほんとうにのんびりとした長閑なものであった。

 45番の隣に薬師堂と日枝神社。電車通り反対側に「其角住居跡」碑。そこから亀島川に架かる「霊岸橋」を渡って小岸幼稚園へ。6歳まで母の乳房を放さず、教室の机脇にばあやがいないと泣き出す子。日本橋川と亀島川の角に、祖父が百両で買って持参金代わりに次女・半(母の姉)に与えた「真鶴館」あり。

 阪本尋常高等小学校入学。埋立られた「楓川」(同作には、もみぢ川のルビ)沿いで消防署の隣。入学式は講堂ゆえ、ばあやの姿が見えず泣き逃げる子だった。入学2年後に霊岸橋寄りの南茅場町56番地に移転。友達と遊べるようになると、鎧橋下の荷揚げ場に繋がれた船が住まいの鐵公、蒲鉾屋の新公、髢屋(かもじや)の幸吉、仕出屋の徳太郎などの友達、また先生の思い出。

 こんな文章もあり。・・・小網町河岸には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいた。(略)。前の流れを往き来する荷足船や傅馬船や達磨船などが、ゴンドラと同じやうに調和してゐたのは妙であった。この景色は野口富士男著『かくてありけり』で、母と離婚して流れ者のように暮す父を小網町へ訪ねる大正9年のシーン。・・・対岸に白壁の倉庫がずらりと建ちならんで箱根川には伝馬船や荷足船がぎっしり入っていて、天井の低いその土蔵造りの店の鉄格子がはまった二階の窓からは、軽子がひょいひょいと板子をしなわせながら荷揚げをしている姿が眺められた。でも描かれている。

 これら情景は、井上安治描く「鎧橋之景」(写真上)ではないかと思うと、さらに当時が忍ばれる。


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日本橋川(26)「茅場橋」傷心の其角がいた [日本橋川]

kayababasi41_1.jpg 「江戸橋」の下流、新大橋通りに架かるのが「茅場橋」。江戸城が出来た当初は茅原で、屋根葺の材料となるカヤ商人が住んでいたとか。「鎧橋」から「霊岸橋」までの茅場河岸は、次第に下り酒の酒蔵、酒問屋がならぶ商業地へ。それでも橋はなく、昭和4年(1929)の震災復興事業で架橋。平成4年に老朽化で架け替え。新しいだけに江戸や明治の逸話なし。当時は「鎧之渡」から「鎧橋」を渡って対岸に行ったのだろう。

 「茅場橋」を南に渡ると永代通り。この辺は茅場町一丁目。通りに面して「其角住居跡」の碑あり。同碑は昨年十月の夢枕獏『大江戸釣客伝』(1)で紹介済。この小説は其角と多賀朝湖(英一蝶)が佃島沖で春キス釣りを愉しむ場面から始まる。

m_kikakukayabacyu_1[1]_1.jpg 其角は魚河岸の項で記したが、日本橋堀江町生まれ。14歳で蕉門に入って<十五から酒をのみ出てけふの月>。田舎育ち・芭蕉に叶わぬ江戸っ子の粋が溢れた句で、蕉門十哲の筆頭俳人へ。芭蕉を看取った4年後、元禄11年(1698ん)に南港(芝)に新居を構えるが、間もなく類焼で一切を失った。火災八日前には将軍を揶揄した咎で親友・多賀朝湖が三宅島に流刑。傷心を胸に元禄13年、40歳春の転居だった。

 「其角住居跡」裏に「智泉院」「山王日枝神社摂社」あり。其角句に<梅が香や隣は荻生惚右衛門>あり。ここへの移転は悲しみを抱えてか、<憎まれてながらへり人冬の蠅>。酒量が増したか、若き日々の放蕩がゆえか、5年後に47歳で病没。

 多賀朝湖は其角死去の4年後、綱吉死去による将軍代替わり大赦で12年振りに江戸に戻った。島を去る時に、菊の花房に蝶が舞った。母の旧姓「花房」から「英」に、一蝶で「英一蝶」を名乗って再び大活躍。百両で買い占めた初茄子を肴に酒を呑む大画家になって73歳没。これまた自転車を駆って、高輪の「承教寺」の英一蝶の墓を掃苔済み。

 東京をポタリングしているってぇと、すでに別件で触れた好きな文人らのゆかりの地に幾度となく出逢うのも歓びなり。其角が住んでいた頃は長閑な地だったそうだが、明治廿年代になると谷崎潤一郎がこの地で幼少期を過ごす。


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日本橋川(25)「鎧橋」の谷崎潤一郎と池波正太郎 [日本橋川]

yoroibasi3_1.jpg 「江戸橋」下流に架かるのは「鎧橋」。橋右岸に「東証」こと東京証券取引所ビルが見える。貧乏なあたしには無縁だが、ここで120年余も株売買が行なわれてきた。昔の立会場は1999年閉鎖で、今は「東証アローズ」。株の話はさっぱりわからぬが、今は「アベノミクス」とやらで儲けている人がいるらしい。そんなもんは泡銭に等しい。橋詰に史跡案内板あり。

 ・・・明治五年、当時の豪商が自費で橋を架けた。前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し大いに賑わった。明治二十一年に鋼製のプラットトラス橋に架け替えられた。その頃の様子を文豪、谷崎潤一郎は『幼少時代』でこう綴っている。

 ・・・鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・ 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・ 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。

yoroinowatasi41_1.jpg 現在の橋は昭和32年に完成で、ゲルバー桁橋とか。そして明治24年の鎧橋の絵と、江戸の「鎧之渡」の絵が紹介されていた。

 井上安治は、ここの景色に画趣を覚えたとみえて「鎧橋夜」「鎧橋之景」「鎧橋遠景」「鎧橋」の四作を遺している。橋詰めの案内板の絵は、井上安治「鎧橋」と酷似。車夫の姿までまったく同じで謎を残す。共に小網町から見た景色で、橋向こうの建物は第一国立銀行。清水喜助設計で五階建て。壁は漆喰塗り、屋根は青銅、天守閣状の塔が聳えている。明治五年竣功で三井組為替座だったが、間もなく第一国立銀行に譲り渡された。(井上安治画の木下龍也の解説文より)

 右側の川沿いの洋館は明治21年落成の渋沢栄一邸。辰野金吾設計でベネチアのゴート式建築。国立銀行の初代頭取が渋沢栄一。この人はよほど金儲けと世渡りがうまかったのだろう。

kabutojinnjya_1.jpg 明治・大正を経て昭和10年になると、池波正太郎が小学校を卒業して株式仲買店で働き出す。子供ながら内緒の相場で月給を上回る稼ぎで、大人の遊びを覚えたとか。勤めていたのは兜神社(江戸橋と鎧橋の間)と道をへだてた松島商店で、毎日、鎧橋を渡っていた。

 かつて井上安治に画趣を沸かせた地だが、今は味気ないビル街で人々の欲望が蠢いているような気がした。


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日本橋川(24)「江戸橋」の三菱倉庫とコレラ [日本橋川]

edobasi2_1.jpg 日本橋の下流、昭和通りに架かる「江戸橋」。橋上が「江戸橋ジャンクション」で都心環状線、1号上野線、6号向島線の合流で空を覆っている。橋、川好きには悲惨な光景なり。

 目下、橋南詰「江戸橋倉庫ビル」建替中。工事現場を囲む塀に、倉庫ビルの説明あり。・・・煉瓦造倉庫は三菱の創始者・岩崎彌太郎が、明治9年(1876)に蔵所を開設。明治13年(1880)仏人レスカス設計監理による煉瓦造2階建7棟が完成。関東大震災による飛び火で焼失。昭和5年(1930)、跡地に鉄筋コンクリート地下1階地上6階の「江戸橋倉庫ビル」に建替え。日本橋川をロンドンのテムズ川に見立て、外国航路の本船が船首を丸の内方向に向け停泊するモチーフとか。以来80年余が経過で三度の建替中。そして昔の煉瓦造倉庫の絵と、昭和5年建築の倉庫ビルの写真が添えられていた。

edobasimitubisisouko1_1_1.jpgedobasimitubisi2_1.jpg 昭和6年の航空写真を見ると「倉庫ビル」右岸際に、今は埋立てられた「楓川」が写っていた。「楓川」は江戸湾を埋立てた時の海岸線を残した水路で、昭和35年(1960)に埋立て。ここには「海賊橋」改め「海運橋」が架かっていた。そして絵は明治16年に三代広重が描いた『古今東京名所』の「江戸橋三菱の荷蔵」。

 また昔は左岸に「西掘割川」(昭和3年消滅)と、「思案橋」「親爺橋」が架かる「東堀留川」(昭和24年消滅)も合流していたが、これも埋立てられた。「思案橋」は吉原遊郭で遊ぶか、芝居小屋で遊ぶか思案したゆえの橋名とか。また江戸時代の木橋だった頃の「江戸橋」は、長谷川時雨『旧聞日本橋』の天保14年生まれの著者の故父・渓石深造が描いた「実見画録」よりの挿絵で見ることができる。

edobasikorera_1.jpg 挿絵題名は「虎列刺(コレラ)除のをはぎに橋上の行者と疱瘡神の送り」。コレラ流行時に牡丹餅(ぼたもち)を食せば罹らずで大繁盛の様子が描かれていた。また疱瘡に罹って全快したら桟俵(さんだわら)の上に赤飯を盛り幣束(へいそく)を添えて川岸または橋際へ置く風習、橋上の行者は掌に油を点して銭を貰うなり・・なども描かれていた。この絵を見ると当時の江戸橋大繁栄もまた長閑なり、と思った。


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日本橋川(23)伝馬町の松陰と時雨 [日本橋川]

denmacyourougoku2_1.jpg 日本橋は魚河岸散策から「傅馬町牢屋敷跡」に足を伸ばした。伊藤博文らによる天皇を軸にした「大帝国日本憲法」制定が、「松下村塾」吉田松陰の尊王思想からで、松陰終焉の地を見ようと思った次第。

 江戸っ子は薩長、明治維新嫌いだ。前述『日本橋魚河岸物語』にもこんな記述あり。・・・江戸三百年の伝統と歴史を薩長の田舎侍に踏みにじられてなるもんかと、魚河岸の精鋭千人余が竹槍、鳶口、包丁を武器に日本橋、江戸橋を一歩も渡さぬと覚悟した。

 江戸は、太田道灌から徳川の地で、天皇にはなじみが薄い。比して吉田松陰の家系は一条天皇に朝勤の藤原行成から出たそうで、子供時分から天皇詔勅や神官・玉田永教の『神国由来』を暗唱とか。根っからの「尊王」だ。加えて萩藩隣の島根は熊野大社、出雲大社など神話の里。京都も伊勢神社も近い。

syouinnhi_1.jpg 「傅馬町牢屋敷」は当時2618坪の広さだったが、今は小さな「十思公園」に江戸時代最初の「石町・時の鐘」、吉田松陰先生終焉之碑、江戸傅馬町牢屋敷跡の史跡があった。「時の鐘」は江戸九ヶ所のうち最古のもの。この鐘は傅馬町獄の処刑合図にもなってい、その日は遅れて鳴らしたために「情けの鐘」とも言われたとか。

 傅馬町牢屋敷は、明治8年に市ヶ谷囚獄ができるまで約270年も存続。入牢者は数十万人余。屋敷は広いが牢は90坪の狭さに4、500人も押し込める酷烈な環境。松陰はペリー艦船へ密航しようとして入牢。「安政の大獄」で再び入牢で処刑。終焉之碑は、公園の公衆便所脇なり。公園脇の大安楽寺に「江戸傅馬町処刑場跡」の碑あり。

 あたしは市ヶ谷・左内坂にオフィスを構えていたことがあって、同じく左内坂で『女人藝術』発行の長谷川時雨の著作を何冊か読んできた。彼女は日本橋油通町生まれで、幼き頃の日本橋を『旧聞日本橋』に綴っている。

 「牢屋の原」の章に、「父は転がり込んで来た金玉を、これは正当な所得ではないと返して貧乏した」と記す。父は首切り場の一画を「長谷川の名にしておけ」と言われたが、斬罪になる者の号泣を聞いているから、あんな場所は欲しくねぇ」と断った。その後「牢屋の原」は小屋がけの見世物で賑わったそうだが、日本橋は「土一升金一升」の地。母がいつも父に「もったいないことをした」とぐちっていたと書いていた。


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日本橋川(22)「魚河岸」の芭蕉と杉風と其角 [日本橋川]

nipponnbasiuogasi1_1.jpg 次は「日本橋魚河岸」について。橋北詰に「魚河岸発祥の地」石碑あり。説明文を要約。・・・日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いは、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干物を荷揚げする「魚河岸」があった。日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表の店先の板(板舟)に魚を並べて売買を行った。大正十二年の関東大震災後に、現在の築地に移った。 当時の写真(上)が添えられていた。

 魚河岸の歴史は、魚問屋「尾寅」十三代目・尾村幸三郎著『日本橋魚河岸物語』(青蛙房刊)が詳しい。「魚河岸」は本船町がメインストリートで、本小田原町、按針町、長浜町。上記の「板舟」権利を有する者が商売できた。三浦按針(ウィリアム・アダムス)が住んでいて(現・按針通りに旧居跡の石碑あり)、英国の市場取引の方法を指導の説もある。

 同書は何年も前から高田馬場の古本市で眼にしてきたが、この機についに買ってしまった。私事ついでに、あたしは日本橋に行くたびに「はんぺん」好きかかぁに、「神茂」で土産を購う。「神茂」そばの佃煮屋「鮒佐」店先に、芭蕉の句碑あり。こう書かれている。

nihonbasiuogasi_1.jpg 松尾芭蕉は、寛文十二年(1672)二十九歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝八年(1680)までの八年間、ここ小田原町(現・室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られている。

 これには諸説あり。芭蕉はト尺(ぼくせき)が京都から江戸に帰るのに同道して江戸に下ったが、住んだのは小田原町の淡水魚問屋・杉山杉風の「鯉屋」二階。『日本橋魚河岸』の著者は俳人ゆえ「魚河岸と俳句」の章を設けているが、ト尺への言及はなく、杉風や其角について詳細に記している。(写真上は句碑説明文に添えられた江戸時代の魚河岸の絵)

 嵐山光三郎『芭蕉紀行』(新潮文庫)にはこんな記述もある。・・・芭蕉が甥の桃印(二十歳)と妾の寿貞と暮らしていたが、桃印と寿貞が密通。妾とはいえ実質的な妻ゆえ密通死罪。それを隠すために杉風の深川の草案(養鯉場跡の番小屋)に移った。

 なお、其角は日本橋堀江町(江戸橋寄り)で医者竹下東順を父に、榎本氏を母に生れた。14歳にして才気発揮で芭蕉に認められて蕉門の首席をしめる高弟へ。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』で、・・・宝井其角の家の跡に「其角」という料亭があって何度か行ったことがある、と記している。堀江町よりさらに西側が「元吉原」だ。「元吉原」より北の「油通町」には明治時代に長谷川時雨が生れ育って『旧聞日本橋』(岩波文庫)を著している。古地図で昔の町名を探りつつ江戸・明治に想いを馳せる愉しさは奥が深い。書き出したら止まらないので、ここで止める。


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日本橋川(21)「日本橋」慶長と明治の見聞 [日本橋川]

nihonbasihirosige1_1.jpg 史跡案内板から離れ、資料をひもとく。お馴染みになった三浦浄心著『慶長見聞集』より「日本橋 市をなす事」の章より。

 ・・・日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時分、新規に出来たり、その後此橋御再興は元和四年戌午の年なり。大川なりとて川中へ両方より石垣をつき出しかけ給ふ。敷板のうへ三十七間4尺5寸(約68㍍)、広さ四間五寸(約8㍍)なり。此橋におゐては昼夜二六時中諸人群をなしくびすをついて往還たゆる事なし。

 江戸町中で町人が渡れる最初の橋で、昼夜の区別なく大勢の人が往来した橋だと書いている。そしてこう続く。

 ・・・然るに件の日本橋にふみ入人、老若男女、尊きも賤きも、智者も愚者もをしなへて心正路にありて人よくわれもよく此橋を渡る事わたくしの智からにあるへかたす。橋は菩薩の尊形を表し給ふゆえだと書いている。皆さん、お行儀よく橋を渡っていて、誰もが日本橋を師として鏡として常にこゝろに懸おき、世を渡っていると書いている。まぁ、徳川への賛美文だな。

nipponnbasi1_1.jpg 次は『井上安治の色刷り明治東京名所』(角川書店刊)の木下龍也解説文をひくと、そんなきれいごとでは収まらぬ。・・・寛文二年(1662)の『江戸名所記』には、混雑のうちに帯を切られて刀や脇差を失ったり、巾着や手に持ったものをもぎ取られたり、たまたま犯人を見つけてもたちまち人ごみにまぎれ見失ったりした人たちがいた、と記している。ラッシュアワー並の混雑が伺える。そこには善い人も悪い人もいるってぇのが世の中ってぇものだろう。

 写真上の広重「日本橋雪晴」は、下流から俯瞰で見た日本橋。手前に魚河岸が、遠くに江戸城が描かれている。写真下の井上安治が描く「日本橋」は、同じく下流の江戸橋から見て、魚河岸より対岸の赤煉瓦の三菱七つ倉、その向こうの赤煉瓦造り洋風建築(明治15年竣工の日本橋電信支局)に焦点が当てられている。望む日本橋は石造り二蓮アーチ橋以前、明治六年(1873)五月竣工の「西洋風を以って、中に馬車道、左右に人道」の木橋。他に明治の『風俗画報』に描かれた山本松谷の「日本橋新年の景」は、橋正面から正月晴着の人々と、橋中央を初荷の日の丸をたなびかせた山車、鉄道馬車が描かれている。賑わってはいるがラッシュアワーというほどの混みようではない。


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日本橋川(20)「日本橋」のお勉強 [日本橋川]

nipponnbasi5_1.jpg 日本橋川シリーズ、やっと「日本橋」に辿り着いた。日本橋の歴史書、資料は多いが、まずは橋の碑文集から。最初は「日本橋重要文化財 ・日本橋・指定の意義」なる碑文要約・・・

 「明治時代を代表する石造アーチ道路橋。ルネサンス式の橋梁本体と和漢洋折衷の装飾の調和も良く意匠的完成度も高い。建設省国道に係る物件の初重要文化財指定」


 かくも重要な文化財を、なぜに高速道路で被ったか。次は歴史案内板の文を要約。・・・架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)頃。幕府は五街道の起点を日本橋とし、江戸経済の中心となる重要な水路にもなった。橋詰に高札場あり、魚河岸があった。幕末の繁栄の様子は、安藤広重の錦絵でも知られている。

★追記:平成29年(2017)7月21日の新聞一面トップに「日本橋景観改善へ 首都高地下化 国・都が検討 着手は早くても五輪後」の記事が踊っていた。十年、二十年の大プロジェクトらしいから、あたしは日本橋の上の青空を見ることができないかもしれないが「あぁ、良かった・良かった」と思った。

nipponnbairyu_1.jpgdourokiten2_1.jpg さすが日本橋。説明文は長い。・・・現在の日本橋は明治四十四年に石造二蓮アーチの道路橋として完成。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆。青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表す。橋中央にある日本国道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴った道路整備を契機に、同四十七年に柱からプレートに変更。プレート文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆。平成十年に照明灯装飾品を修復。同十一年五月に国の重要文化財指定。

 史跡案内板は橋の彼方此方にある。・・・慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治44年3月に現在の橋に生れ変わった、のプレートもあり。次は「日本橋由来の記」なる碑板。旧漢字やカタカナを今風に、句読点も入れて読み易くして全文を紹介。

 ・・・日本橋は江戸名所の随一にして、其名四方に高し。慶長八年、幕府諸大名に課して城東の海浜を埋め市街を営み、海道を通し始て本橋を架す。人呼んで日本橋と称し、遂に橋名と為る。翌年、諸街道に一里塚を築くや、実に本橋を以て起点と為す。当時既に江戸繁栄の中心たりしこと推知す可く。橋畔に高札場を置く、亦所以なきにあらす旧記を按するに、元和四年改架の本橋は長三十七間余幅四間余にして、其後改架凡そ十九回に及へりと云ふ。徳川盛時に於ける本橋付近は、富賈豪商甍を連ね、魚市あり酒庫あり、雑闇沸くか如く。橋上貴賤の往来昼夜絶えず、富獄遥に秀麗を天際に誇り、白帆近く碧波と映帯す。真に上図の如し。明治聖代に至り、百般の文物日々新なるに伴ひ、本橋亦四十四年三月新装成り今日に至る。茲に橋畔に碑を建て由来を刻し以て後世に伝ふ 昭和十一年四月 日本橋区

 橋に立ち止まってじっくり碑文を読む人も少なかろうゆえ、以上は橋の碑文集。次回は資料を多少読んでみる。


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日本橋川(19)花柳章太郎・玉三郎の「西河岸橋」 [日本橋川]

 nisikasibasi1_1.jpg「一石橋」下流、三越裏から八重洲方面に通じる「日銀通り」に架かるのが「西河岸橋」。その橋詰に史跡案内あり。

 ・・・このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として栄えてきた。この橋は、日本橋から一石橋までの右岸地域が「西河岸」という地名で「西河岸橋」と命名。初代(明治24年架設)の橋は、弓弦形ボウストリングトラスという当時最新式の鉄橋でした。関東大震災の被害で、大正14年に現在の橋になった。架設後65年を経たので平成2年に痛んだ部分を修復した。

 「西河岸橋」といえば、泉鏡花『日本橋』になる。「西河岸橋」から南、呉服橋と鍛冶橋の中間辺りが「檜物町」(現・八重洲一丁目)で花柳界だった。泉鏡花が檜物町の芸者物語を書いたのは大正3年、41歳で、その後に自ら脚曲化もした。

nisigasijizou2_1.jpgnisikasijizou5_1.jpg 「清葉」姐さんに姉の面影を見た医学士・葛木が「一石橋」で栄螺と蛤を投げ(放生)て、巡査に咎められて困っているところを、奔放な「お孝」姐さんが助け舟。そこに抱えの若い「お千世」が合流して西河岸のお地蔵様へ。その帰りに「青葉」姐さんと鉢合わせ。事件はそこから始まる。その謡うような美文一節を紹介しよう。

 ・・・雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査の帳面に、名を並べて、女房と名知つて、一所に詣でる西河岸の、お地蔵様が縁結び。・・・これで出来なきや、日本は暗闇だわ~。 もう一節をひこう。

 ・・・あゝ、七年の昔を今に、君の口紅荒れしあたり。風も、貝寄せ(春の西風の意)に、おくれ毛をはらはらと水が戦(そよ)ぐと、沈んだ栄螺の影も浮いて、青く澄むまで月が晴れた。と、西河岸橋、日本橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、松の姿の常盤橋、雲の上なる一つ橋、二十の橋は一斉に面影を霞に映す~。

 21歳で無名だった新派・大部屋俳優の花柳章太郎が、『日本橋』の「お千世」役を切望して西河岸地蔵尊に祈願。この「日限(ひぎり)地蔵尊」は、心から祈念すれば日ならずして御利益に授かるとかで、花柳章太郎は「お千世」役を得て一気に人気女形になった。章太郎は昭和40年に70歳没だが、昨年末(平成24年)、日生劇場で坂東玉三郎が25年ぶりに『日本橋』の「お孝」役を演じた。

 その地蔵尊は、今も西河岸のビルの狭間にひっそり建っている。縁結びの絵馬がやけに艶っぽい。玉三郎も公演前にお参りしたのかしらと「西河岸地蔵」を見ていたら、証券会社勤めらしきオジさんや青年が一目憚るように熱心に何やら祈念していた。そこぞに好きな女がいるや、いや、上昇株との出会いを求めてか。

 「西河岸橋」は古色蒼然風だが、かつての花街の妖艶・情念ドラマがここで展開されたと思えば、妙に艶かしい。


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日本橋川(18)鏡花と夢二の「一石橋」 [日本橋川]

itikokubasi7_1.jpg 歌川(安藤)広重が「一石橋」からの風景「八つ見のはし」を描いた。広重は八代洲河岸に勤める定火消同心の息子。『江戸切絵図』を見ると馬場先御門前(八代洲河岸)に「定火消役屋敷」あり。ここからも今の「丸の内」が八重洲だったとわかる。

 広重は安政2年の江戸大地震の翌年から「名所江戸百景」を描きだした。あの橋の絵は、早くも復興後の景色か、はたまた幻や。これまた興味深い謎だが、それを含んでも江戸庶民のバイタリティーが伺える。比して今の日本は復興も行政がんじがらめで遅々と進まぬような。

 ★広重の「名所江戸百景」スタートと同年刊『安政見聞録』は地震詳細レポートだが、版元と絵師は処罰された。この全頁は「日本社会事業大学」のサイト「デジタルライブラリー」で見ることが出来る。あたしは勉強不足ゆえ読めぬ。日本人なのに日本語が満足に読めぬ悔しさよ。

 「一石橋」(写真正面が常磐橋、右側が一石橋)は「道三堀」と「外濠川」が埋め立てられ、直角カーブした所に架かっている。橋の両詰めに案内板あり。二つの記述をまとめる。 ・・・江戸初期に西河岸町と北鞘町を結ぶ木橋が架けられた。北側の金座御用の後藤庄三郎、南側の御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があって「五と五」で「一石」とか。明治6年(1873)に最期の木橋が撤去され、大正11年(1922)に鉄筋コンクリート・花崗岩造りのモダンな橋になった。アーチ部分が石積み、重厚な石の高欄、親柱、照明。現在の橋は平成9年竣工で、大正時代の親柱一基のみが残されている。

maigosiraseisi41_1.jpgyumeji_1.jpg 「一石橋」南詰めの親柱脇に、都指定文化財「一石橋迷子しらせ石標」(写真左)あり。その史跡案内文を要約。・・・江戸時代後半、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かった。迷子は町内で保護することになってい、安政4年(1857=広重が「八つ見のはし」を描いた翌年)に迷子探しの告知石碑を建立。右側面に「迷子を知らせる紙」を、左側面に「迷子を探す紙」を貼った。

 泉鏡花『日本橋』は、橋の南の檜物町(ひものちょう/ 現・八重洲一丁目)花柳界芸者の物語。医学士・葛木が「一石橋」で栄螺と蛤を捨てて(放生)、巡査に訊問される。そこに「お孝」姐さんが助け舟。事件がそこから展開するが、詳しくは次の「西河岸橋」で記す。

 「一石橋」を呉服橋方向へ渡って左折角が「みずほ信託銀行」で、同ビル端に「夢二・港屋の地」の碑あり。竹下夢二30歳、大正3年(1914)に当地で「港屋絵草紙店」を開き、自身デザインの版画、封筒、絵葉書などを売った。岸たまきと結婚、離婚、同棲、また別居と繰り返し、この店で紙問屋の娘・笠井彦乃と出逢ったそうな。

 絵描きが自身デザイン商品の店を開くのは、山東京伝も同じ。彼は30歳で吉原の「お菊さん」と結婚、馬琴が弟子入り。翌年に手鎖50日の刑。33歳の寛政5年に「お菊さん」病死の悲しみのなかで自身デザイン商品を並べた煙草入れ屋を銀座一丁目に開いた。誰もが迷子みてぇ~に生きている。


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日本橋川(17)島崎藤村の「鍛冶橋」監獄 [日本橋川]

kajibasienkei.jpg 島崎藤村は「鍛冶橋監獄」に実兄の面接に行く。書かれているのは『破壊』に次ぐ長編『春』。明治41年の「東京朝日新聞」連載。内容は執筆より15年ほど前、明治26年夏から29年夏の自身の体験。

 当時のプロフィール。明治25年が満21歳で明治女学院教師。教え子への恋に悩む。仲間と『文学界』創刊。22歳で放浪。関西、鎌倉円覚寺滞在、そして東北へ。11月に母と兄の家族が上京し三輪に住む。23歳で再び明治女学院教師。北村透谷が25歳で命を絶つ。ちなみに筆名・透谷(とうや)は「数寄屋橋」のスキヤから。長兄・秀雄が公文書偽造の疑いで収監。樋口一葉を知る。24歳で本郷新花町に移転。仙台の東北学院教師赴任・・・。

 理想の春、芸術の春、人生の春を問う青春小説だが、ここでは「鍛冶橋監獄」の長兄との面会場面に注目。彼は本郷新花町(現・湯島二丁目)の家で母に起こされる。「今度という今度は無罪と思ったが・・・」母の言葉を背に、町から町へ歩いてやっと陽が昇る。

 鍛冶橋監獄前には、すでに7時開門を待つ人々。番号札は十九番。次は面会順の籤箱で三十番をひく。長い待ち時間。判決決定の囚人を乗せる箱馬車が巣鴨へ走り去る。面会室に入る。小窓が開いて兄と面会。湯島に戻ると空は真紅だった。

 兄は上告が認められて名古屋裁判所へ移動。監獄署前で兄が出てくるのを待った。橋のたもとでしばし和む。煙草を差し出す。巡査が黙認してくれる。高輪辺りまで見送った・・・とあった。未だ東京駅なし。兄に希望が見えたところで、彼は仙台への教師赴任で上野発の列車に乗る。東京駅は大正3年開業で、上野駅は明治18年開業。

 あたしは目下、松田裕之著『高島嘉右衛門~横浜政商の実業史』読書中だが、高島は今でいう「外国為替管理法」違反で万延元年(1860)に日本橋の小伝馬町牢屋に入った。囚人療養施設・浅草溜から石川島人足寄場へ。苛酷な日々を生きのびて、新橋~横浜間の鉄道用地(後の高島町)埋立事業をやり遂げ、次第に政商に昇り詰めて行く。

 「鍛冶橋監獄」から「小伝馬町牢屋」に話が遡ったのでここで止める。写真は井上安治絵の「鍛冶橋遠景」。外濠川がこんなに大きかったとは。遠くのアーチ橋が「鍛冶橋」。その向こうの洋風建物が警視庁や鍛冶橋監獄や。次回は改めて「一石橋」。泉鏡花、竹下夢二がからむ。


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日本橋川(16)木下杢太郎の「八重洲橋」撤去 [日本橋川]

toukyoueki1_1.jpg 東陽堂「風俗画報」が明治29年から15年間に及ぶ企画で全64冊の『新撰・東京名所図会』(絵・山下昇雲)を発行。その「麹町区の部」を見ると・・・

 外濠川に架かる「鍛冶橋」の真ん前が「東京府廳」。道を隔てて「日本郵便会社」(今年3月開業のJPタワーと同じ場所)。そして現・丸の内寄りに「東京裁判所」、明治7年完成の「警視廳」、明治20年完成の「鍛冶橋監獄署」が並んでいる。その前に架かっていたのが「八重洲橋」。この絵を見ると「鍛冶橋監獄廳」跡に東京駅が建ったのがわかる。同監獄は明治36年に市ヶ谷監獄と合併する。

 現東京駅の写真で説明すると、駅の裏側に幾本もの線路をまたぐ長橋があって、外濠川に架かる「八重洲橋」があった。そして駅舎は「鍛冶橋監獄廳」跡。当時この辺が「八重洲」。その名は豊後に漂着したオランダ船の航海長ウィリアム・アダムス(三浦按針)と共に乗っていたヤン・ヨーステン(和名・耶楊子=やようす)が、家康の通訳を務めてここに屋敷を構えていたことから。写真下は丸ビル横の彼らが乗っていた蘭船デ・リーフデ号。なお三浦按針は日本橋「按針通り」に旧居跡あり。

yaesunofune_1.jpg 「八重洲橋」は明治17年(1884)に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋。大正3年(1914)に東京駅の開業で撤去。しかし大正14年に東京駅入口として再び架橋。昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。野田宇太郎著『改稿東京文学散』の「丸の内」の章では外濠川の埋め立て、詩人・木下杢太郎設計の「八重洲橋」が壊される愚策を涙ながらに記していた。

 「ステーション・ホテルが東京の代表的ホテルとして出現して間もなく大正七年八月のこと、詩人木下杢太郎がその七十一号室に泊まった」と書き出す。満州赴任で遅れていた処女詩集『食後の唄』の序文を書くためだったが、彼は序文にこの二年間の東京の様変わりに抑えきれぬ腹立たしさを記せずにはいられなかったと記す。そして・・・

 「昭和二十二年までの江戸城濠の光景を思い出す。そこには八重洲橋という幅広い頑丈な石と鉄との橋が架かっていた。東京駅が出来て明治以来の橋は一度取り払われ、大正十二年の震災以後また架設されていたのである。この橋が木下杢太郎の設計であることを知る人は少なかった。詩人で小説戯曲の作者であり、評論家であり、歴史家であり、また美術家であると共に、医学者であった木下杢太郎は、震災後の新しい東京の復興に際して、橋の設計までしていたのである。」

 木下杢太郎『食後の唄』序文に重ねて、野田宇太郎もまた戦後復興の心なき破壊的建設法によって、美しい外濠川が埋め立てられ、美しい橋が毀されてゆく現場を見つつ、こう嘆いていた。「水が片っ端から埋め立てられるのは、人間が生きながら埋められるようなものである。そして詩人が設計の橋は他にない。真の文化にお構いなしの敗戦国役人らしい破壊作業であった。」


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日本橋川(15)幻の「道三堀」「外濠川」 [日本橋川]

yatuminohasi_1.jpg 江戸時代は「(旧)常磐橋」下流に架かる「一石橋」に立つと、「外濠川」の「呉服橋」「鍛冶橋」が見え、「日本橋川」上流の「常磐橋」、下流の「日本橋」「江戸橋」が見え、さらに「道三堀」の「銭瓶橋」「道三橋」を見渡すことができたので、ここを「八つ見橋」とも言ったそうな。広重が『八つ見のはし』(左)を描いている。「一石橋」から正面に見えるのが「道三堀」に架かる「銭瓶橋」。今は「道三堀」も「外濠川」もない。

 菅原健一著『川跡からたどる江戸・東京案内』(洋泉社)、酒井茂之著『江戸・東京 橋ものがたり』(明治書院)より、両川について簡単にまとめてみる。 「道三堀」(江戸切絵図の青色)は、徳川家康が江戸入りした直後(天正18年・1590)に江戸城を造るための資材・物資の船運水路として最初に開削。「和田倉濠」から「道三橋」「銭瓶橋(ぜにがめばし)」を経て外堀(日本橋川)へ。『江戸切絵図』では「銭亀橋」表示。慶長年間にはこの堀に面した河岸は、多くの材木商が軒を並べた材木町、柳町という傾城(遊女町)もあって、「銭瓶橋」近くには江戸最初の銭湯もあったらしい。後に一帯は大名屋敷になり、「道三堀」は明治43年(1910)に埋め立てられた。

 「外濠川」(絵図の赤色)は、神田川と共に江戸を代表する河川で「常磐橋」から「呉服橋」「鍛冶橋」「数寄屋橋」「山下橋」を経て汐留川へ合流。ちなみに「呉服橋」に北町奉行所、「数寄屋橋」に南町奉行所があった。この川は戦災瓦礫の埋め立て地にされて、昭和22年(1947)に東京駅の「呉服橋」「鍛冶橋」を皮切りに順次埋め立てられた。昭和37年の河川法改正で「外濠川」の名が消えて、現在の「日本橋川」へ。

kietakawa1_1.jpg 三浦浄心著『慶長見聞集』いわく、「江戸町東西南北に堀川ありて橋も多し。其数をしらす」。江戸は縦横に水路が巡る美しい町だったに違いない。しかし多くの川が震災・戦災の瓦礫の捨て場になり、残った川の上には首都高速が走っている。まぁ、明治幕藩政治以来、江戸を知らぬ役人によって東京は激変を繰り返している。荷風さんが浅草、深川、荒川放水路、三ノ輪、玉ノ井に足を向けたのもよくわかる。

 明治時代は「鍛冶橋」「八重洲橋」前の内堀側、つまり現「東京駅」の辺りは「鍛冶橋監獄」だった。詩人で小説・戯曲の木下杢太郎設計の「八重洲橋」、また島崎藤村が「鍛冶橋監獄」の実兄・秀男を訪ねる『春』についても記したいが、長くなったので次回へ。


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日本橋川(14)「旧常磐橋」大改修中なり [日本橋川]

kyutokiwabasikoji.jpg 「新常盤橋」下流が「盤」を「磐」に替えて「旧常磐橋」。常磐門の枡型門一部が残って小公園あり。橋は明治10年(1877)に常磐門の石垣を使って西洋式二蓮アーチ橋として架橋。昭和3年に都内最古の石橋で国指定史跡。

 『慶長見聞集』に「御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋より大きなれはとて是を大橋と名付たり」とある。それが大猷公(だいゆうこう=家光)になって「大」が同じで改名して「常磐橋」になったとか。

 その橋が目下、ご覧のような大規模改修中。今年3月27日の「東京新聞」都心面に、この改修工事の記事が大きく載っていた。橋の痛みが激しく3年前に通行禁止。そこに3.11の東日本大震災。アーチがゆがみ、路面陥没、アーチ下の石がずれ落ちかかる等で3億円予算で橋解体、石積み直すとあった。

nipponnbank2_1.jpg 今は工事塀で囲まれているが、昨年見た時は枡型門跡に近寄れて、地震で歪んだ石にチェックマークが付けられていた。その小公園に「青洲澁澤榮一」銅像が建つ。明治6年の「第一国立銀行」初代頭取ゆえで、「旧常磐橋」左岸は重厚な「日本銀行」(写真左)。明治29年の辰野金吾設計の重要文化財。なお「日本銀行」創業当初は、日本橋川が隅田川に合流する「豊海橋」手前にあって、史跡案内に当時の明治建物が金属板に刻まれている。

 また佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』は「金座裏の十手持ち」が主人公だが、その「金座」は『江戸切絵図集』を見れば、その地に「日本銀行」が建っているのがわかる。南分館に「貨幣博物館」あり。入場無料ながら充実の展示。小判から紙幣の歴史が丁寧に説明され、「金座絵巻」もあった。「金座」が幕を閉じたのは明治2年の造幣局設立まで。

tokiwabasi5_1.jpg 「日本銀行」裏(北側)は「三井越後屋」改め「三越日本橋本展」裏に接している。昭和10年完成で、当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築だったそうな。

 そして架橋として現役なのが「旧常磐橋」下流60メートルの「常盤橋」。二蓮アーチ型を踏襲のデザインで、大きな親柱が印象的。


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日本橋川(13)「外濠橋」「龍閑川」の謎 [日本橋川]

ohboribasi1_1.jpg 「鎌倉橋」を下ると左岸に「龍閑川」跡あり(左写真の駐車場下)。正面にはJRの煉瓦アーチ高架橋が連なり、日本橋川に石組アーチ橋「外濠橋」が架かっている。日本橋川の関係書やサイトは、なぜか「外濠橋」に言及せぬ。鉄道架橋ゆえのスルーだろうが、日本橋川に架かる橋には違いなく、ここでは「外濠橋」と「龍閑川」そして「新常盤橋」について記す。

 「外濠橋」は、神田駅開業(中央線開通)の大正8年(1919)の架設だろう。鉄道サイトを拝見すると橋の図面、石積みアーチ橋の工事中写真、竣工時の写真など掲載で興味深い。高さ10メートルの親柱が四隅に建つ立派な姿だった。アーチ中央には誇らしげな鉄道エムブレム。気付かず撮った写真を改め見れば、今も鉄道マークあり。

sintokiwabasi1_1.jpg 大正14年には山の手線、京浜東北線も開通。電車がひっきりなしに走っているが、90年余も経て崩壊の危険なしや。さらに東北・上越新幹線も加わって補強拡張。目下は東北縦貫線の高架工事中。

 「外濠橋」で日本橋川を越えた神田寄りの煉瓦アーチ架橋下は駐車場。続いて外堀通りを跨ぐ鉄筋「龍閑橋架道橋」。再び煉瓦アーチへと続く。その煉瓦壁に昭和7年に消えた町名入り「第一(本銀町)高架橋」のプレートがあった。この辺りには、大正時代が息づいている。

 高架橋下を抜けると「江戸通り」と交差し、「外濠橋」並列で「新常盤橋」(写真上)が架かっている。大正9年(1920)架設で、当初は路面電車が走っていた。現在の橋は昭和63年(1988)竣工。橋右側歩道下から川面を覗けば「東北・上越新幹線」を支えているのか鉄柱基礎が建って、その奥に「外濠橋」のアーチが見える。河岸を渡れば目前に東京駅。振り帰れば神田駅。

meijiryuukanhasi_1.jpg 次は「龍閑川」。菅原健一著『川跡からたどる江戸・東京案内』(洋泉社)によると、「龍閑川」は神田と日本橋の境界線。明暦3年(1657)の大火後に火除土手が作られ、天和3年(1683)に土手沿い北側に広い道ができ、元禄4年(1691)頃に沿って「龍閑川」が開削された。川は「龍閑橋」から小伝馬町牢屋敷を経て「浜町川」(明治座近く)に合流し、「神田川」経由で「隅田川」に流れていた。

 「龍閑川」堤は松並木。北側は神田の職人町。江戸湊から龍閑川で運ばれた資材が荷揚げされ、加工・製品化されて日本橋商人が売った。この水路は安政4年(1857)に埋め立てられ、明治16年(1883)に浜町川が神田川まで延長された時に再び防火・排水用に開削。戦後になって「龍閑川」は不用河川として戦災残土の処分場所に。下水道使節が埋設されて昭和25に埋め立て完了。

ryuukannhasiato_1.jpg 「龍閑川」の変遷は、江戸から現在までの歴史になる。最後の「龍閑橋」は、外堀通り脇の小緑地に記念保存され、明治時代の写真も添えられていた。


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日本橋川(12)佐伯泰英著『鎌倉河岸捕物控』 [日本橋川]

jidaisyosetu3_1.jpg 池波正太郎が昭和42年から清水門前を役宅にした『鬼平犯科帳』シリーズを始めた。その50年前の大正6年に岡本綺堂が「三河町の親分」こと『半七捕物帳』シリーズを開始。今は佐伯泰英が「鎌倉河岸」から「常磐橋」沿いを舞台の『鎌倉河岸捕物控』シリーズを書いている。

 日本橋川沿いを自転車で走りつつ、思いもかけず上記捕物3シリーズをちょい読みすることになった。日本橋川沿いが、それだけ江戸の歴史や情緒を秘めているってこと。また日本橋川を拠点にするのも、時代小説のひとつの定石なのかも、と思った次第。

 佐伯泰英は神田雉子町名主の齋藤家三代によって著された『江戸名所図会』(7巻20冊)の、長谷川雪旦による絵「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商う図」を見たことから、同シリーズを書くきっかけになったとか。現在は22巻目が発売中(ハルキ文庫)。小説舞台の界隈を自転車で走っていたら、「龍閑橋高架橋」が東北縦貫線工事中で、その工事壁面に「豊島屋」の絵の一部が漫画タッチで描かれていた。

tosimayanoe1_1.jpg 同シリーズの時代は寛政から享和へかけて。主人公は常磐橋門外の「金座」裏の宗五郎親分と、むじな長屋育ちで呉服の松阪屋手代から十代目の若親分になる(なった)政次。二代目親分が「金座」に入った強盗を手首を斬られつつ守ったことで、将軍家光公認の由緒ある十手持ち。

 同じむじな長屋育ちで、宗五郎親分の代から手先になった独楽鼠の亮吉と、「龍閑橋」の船宿の船頭になった彦四朗がいる。彼らが集う場が「豊島屋」。雛祭りの旧暦2月18日から19日朝までに白酒1400樽が売れる大繁盛店。三人か憧れ、後に政次と所帯を持つことになる看板娘しほがいる。

 同シリーズの巻頭に「鎌倉河岸」「豊島屋」「常磐橋」「金座」など『江戸切絵図』通りの地図が載っている。捕物小説は江戸の彼方此方で事件が起こるが、同シリーズは事件前と解決後に必ず「鎌倉河岸」に暮す人々の交流があたたかく描かれているのが特徴。読んでいるってぇと、フィクションながら江戸の日本橋川界隈の情緒が漂ってくるようがちょっとうれしい。


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日本橋川(11)江戸繁昌と米機掃射の「鎌倉橋」 [日本橋川]

kamakurabasi1_1.jpg 『江戸切絵図』を見ると「神田橋」の下流が「常磐橋」。今はその中間辺りに昭和4年完成の震災復興橋「鎌倉橋」が架かっている。鉄筋コンクリートのアーチ橋。ここらは昔の「鎌倉河岸」。

 橋たもとに「鎌倉河岸跡」史跡案内板あり。以下要約。・・・天正18年(1590)の家康入国の初期から同河岸は魚、青物など生鮮食品をはじめ木材、茅などの物資集積地。江戸城築城では鎌倉からの石材を荷揚げしたので「鎌倉河岸」。別史料では、鎌倉から来た材木商たちが築城の木材を荷揚げしたので「鎌倉河岸」とあり、どちらが正しいや。案内板の説明はこう続く。

kamakurabasi2_1.jpg ・・・『江戸名勝誌』には(鎌倉河岸は)神田橋より常磐橋の辺の御堀はたを云」とあり。また『俗江戸砂子』には「鎌倉町、かまくらがしと云、御堀ばた米屋多し」と記されている。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹、薪などを荷揚げ。この河岸の豊島屋十右衛門という酒屋が売り出す雛まつりの白酒は有名で、時期になると余りの繁盛に店内で絶倒する客があった。同店は戦災までこの河岸で営業していたが、現在も神田(猿楽町1丁目)で営業中。昭和にになっても建築材料の荷揚げが行われていました。当時の「鎌倉町」は、現在の内神田一丁目六番地、二丁目二・三番地の区域。

 文中の「豊島屋」の繁盛ぶりは、(7)で記した神田雉子町の名主、齋藤長秋、莞齋、月岑の三代による『江戸名所図会』(7巻20冊)の長谷川雪旦の絵「鎌倉町豊島屋白酒を商ふ図」に描かれている。自転車で周囲を走っていたら、神田駅~龍閑橋辺りの高架鉄道工事現場の壁画に、その絵の一部が漫画タッチで模写されていた。

kamakurabasidankon1_1.jpg さて、鎌倉橋の欄干に「昭和19年(1944)11月の米軍による爆撃と機銃掃射の被弾跡」があった。今も生々しい銃痕跡。昭和の江戸っ子が悲鳴あげて逃げ惑ったのは70年ほど前のこと。この橋のたもとに佇めば、江戸から平成の四百数十年余が見えてくる。人の営みは間違っていなかっただろうかと。


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日本橋川(10)「神田橋」と半七親分 [日本橋川]

kandabasi1_1.jpg 「神田橋」際に「物揚場跡」石碑と「内神田一丁目」史跡案内板あり。要約する。

 ・・・この界隈には徳川家康の江戸城築城と町造り資材を運んだ荷揚げ場あり。神田橋は江戸城外郭門の一つで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道。要所ゆえ明治の頃まで建造物なし。明治初期の地図には交番と電話があるのみ。空き地の状態は第二次大戦戦後まで続いた。 神田は江戸っ子の職人、商人でごったがえした下町と思いきや、そんな一画があったとは。・・・そして昭和五十八年、神田橋土木詰所の敷地に内神田住宅が完成して九十世帯が住み始めました。

 この案内板には明治30年頃の神田橋の絵と、江戸切絵図(安政三年・1856)が掲載。外濠門側の石垣の高さよ。内堀と同じく濠際は敷地より土手状に高かったのだろう。そして絵図をよく見ると「御宿稲荷」あり。ひょっとしてと自転車で走りまわれば、今も「御宿(みしゅく)稲荷」があった。以下、神社の由来。

kandabasimei30_1.jpg ・・・徳川家康は関東移封の際に神田村郷士宅に投宿。そこに宇迦之魂命(うかのみたまのかみ)が祀られていた。後に幕府が家康の歩んだ記念に社地を寄進。大震災と戦災で焼失して三度の再建。ここは昔「神田三河町一丁目」。家康と共に三河国の臣下が住みついてのこと。また鎌倉から来た材木商たちが築城の木材を荷揚げした場で「鎌倉河岸」。昭和10年から「神田鎌倉町」そして今は「内神田一丁目」。

 オットォ~、「神田三河町」と云えば「三河町の半七親分」じゃないか。岡本綺堂『半七捕物帳』。同捕物帳に地元舞台の二話あり。「神田橋」門外の鎌倉河岸で赤ん坊を抱いて倒れていた男の謎『三河万歳』と、「一ツ橋」門外の事件『雪達磨』。ここでは後者を紹介しよう。

kandabasi2_1.jpgmisyakuinari_1.jpg ・・・半七の縄張り内ですから、威張って話せます、と半七老人が語り出す。文久2年は元旦から大雪。「一ツ橋」門外の「二番御火除地」隅に大きな雪達磨。十七日に雪が解けて、中から死体が出てきた。半七は南京玉を見つけた。ここから贋金造りの一味を捕まえる物語。

 鬼平の役宅が清水門外。半七親分が三河町。そして今は佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』シリーズが人気。捕物小説は日本橋川沿いが定石らしい。


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日本橋川(9)荷風の「錦橋」 [日本橋川]

nisikibasi1_1.jpg 「一ツ橋」の下流が鉄筋コンクリート・アーチ橋「錦橋」。昭和2年の架橋ゆえ「江戸切絵図」に橋はなく、この辺りは「二番御火除地」が広がっていた。

 ここで注目は「一ツ橋」から下流に向かって露出の護岸石組。皇居の石組と同じく角がキチッと決められて、その内側が「乱組」。石をよく見れば工事を請け負わされた藩の印が刻まれているかもしれない。高層ビル乱立の東京に、江戸が覗いている。

 「錦橋」は「神田錦町」からか。その「錦町」は一色なる旗本が二軒いて「二色」が「錦」になったとか。武家地がなくなったり火除地の空地は、明治になると概ね軍隊用地か文教地区になる。ここは南高(東大)、華族学校(学習院)、電機学校(東京電機大)、英吉利(イギリス)法律学校(中央大)、神田高等女学校(神田女学院)など文教地区の観を呈した。

nisikibasigogan_1_1.jpg ここからは余談。永井荷風に昭和4年『夜の車』がある。・・・人力車に乗るってぇと車夫が身の上話をする。倅が遊女と心中し、命は助かったが監獄暮し。亡くなった女には母と眼の見えぬ婆さんがいた。打っちゃって置けずに植木職をしつつ夜なべ仕事で車夫をし、彼女らに仕送りをしていると語る。そう聞けば乗る方もば蟇口の底を叩くこともある。

 そんな義理人情も薄れ、車夫が運転手の時代になった。日比谷で車に乗れば運転手がこう言った。「今日は土曜日。お遊びに行くならいいところへ案内しますよ」。日比谷通りで<神田橋>をわたって<錦橋>を左に見たあたり。震災復興の区画整理が終わったばかりで(<錦橋も出来たばかりで>)、貸家の札が多い。横丁の路地へ。案内された二階屋のなまめかしい部屋。泊まりで遊ぶなら隣の空家へ。押入れの引き戸を開ければ、そこが隣の家の部屋になっている仕組み。荷風さんが、そこでどんな遊びをしたかは読んでのお楽しみ。

 まっ、ビルだらけの神田錦町だが、そんな時代もあったというハナシ。


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日本橋川(8)鴎外・南畝の「一ツ橋」 [日本橋川]

hitotubasi4_1.jpg 「一ツ橋」たもとに史跡案内あり。まず橋名の由来を前述『慶長見聞集』からひき、こう続ける。「橋近くに松平伊豆守の屋敷があって伊豆橋とも言われた。その屋敷跡に八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居を構えて「一ツ橋家」と称した。明治6年(1873)「一ツ橋」を撤去。今の橋は大正14年(1925)架設。橋の北側の如水会館一帯は商科大学(一橋大)があった」

 この説明には五代将軍綱吉が欠けている。綱吉がここに大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立した。享保2年(1717)正月大火で焼失。その跡地が火除地「護持院原(ごじいんがはら)」になった。現在の神田警察の南側辺り。

 森鴎外に『護持院原の敵討』あり。物語は天保4年暮。大金奉行の山本老人が金部屋警護の宿直中に襲われた。老武士は「敵を討ってくれ」の遺言を残した。22歳の長女りよ、19歳の倅宇平に、姫路在住の実弟・九郎右衛門が助太刀を名乗り出た。女りよの同行は許さず、老武士に世話になり、かつ敵の顔を知る文吉が同行した。

hitotubasi1_1.jpg 敵を探して日本中を彷徨う暮らし。当てのない旅の虚しさに宇平が消えた。路銀も絶えた頃に「敵が江戸にいる」の知らせ。江戸中を探し求めて、ついに敵を見つけた。「龍閑橋」を経て「鎌倉河岸」から神田橋外の「元護持院原二番」に出たところで敵を捕まえた。

 りよの奉公先に宇平が走った。「母危篤」と外出を願う。宇平の顔を見たりよは、敵を見つけた知らせと直感し、遺品の短刀を忍ばせて走った。見事に敵討ち成功。翌朝の護持院原は見物人が押し寄せた。江戸に絶賛の声が湧き上がる。三人それぞれに幕府から褒美が与えられた。

 森鴎外はこう締めくくる。屋代弘賢は彼らを讃美する歌を作ったが、幸いに太田七左衛門が死んでから十二年立(ママ)っているので、もうパロディを作って屋代を揶揄(からか)うものもなかった。

  屋代弘賢は当時の学者。彼と交流のあった七左衛門は「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた狂歌の大田南畝の晩年名。南畝ならば勧善懲悪、封建的道徳・美徳に熱狂の世を笑っただろう、の意をこめて鴎外は小説を締めくくった。思わぬところで大田南畝(蜀山人)が出てきた。鴎外・南畝が出てくれば荷風の出番になろう。それは次にまわして「江戸切絵図集」を見れば、一ツ橋門外にちゃんと二番~四番までの「御火除地=護持院原」が広がっていた。あれもこれも隠居読書の愉しみなり。


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日本橋川(7)けんもほろろの「雉子橋」 [日本橋川]

kijibasi1_1.jpg 「宝田橋」の次が「雉子橋」。専大前交差点から皇居方面へ架かる。写真上の橋向こう左ビルは「住友商事・竹橋ビル」で、角を曲がると「毎日新聞社」。

 橋たもとに橋名由来の看板があるも、ここは文久2年(1862)刊の古書『慶長見聞集』をひく。同著は明治・大正・昭和と何度も復刻されて、今は中丸和伯注(江戸資料叢書、新人物往来社、昭和44年刊)を読むことができる。同著に「江戸の川橋にいわれ有る事」の章あり。

 「家康公関東へ御打入以後から唐国帝王より日本に勅使わたる。数百人の唐人江戸に来たり。これらをもてなし給ふには雉子にまさる好物なしとて諸国より雉子をあつめ給ふ。此流の水上に鳥屋を作り雉子をかきりなく入置ぬ。雉子小屋のほとりに橋一つ有けり。それを雉子橋と名付けたり」

kijiba5_1_1.jpg さらに下流の橋へ言及。ついでゆえ引用を続ける。「其下に丸木を壱本わたしたる橋有りければ、是をひとつ橋とまろき橋共いひならはす。扨(さて)又、御城の大手の堀に橋ひとつかゝりたり。よの橋よりおおきなれはとて是をは大橋と名付けたり」

 橋たもと看板には、こんな説明もあった。「江戸城本丸にも近いため警備も厳しかったといわれます。“雉子橋でけんもほろほろに叱られる”。 旧雉子橋は、この橋より百メートル程西側に架けられていました」

 そこで『江戸切絵図』は「日本橋北・神田辺之絵図」を見る。「神田橋」近くに「雉子町」あり。神田雉子町は現・神田司町。雉子小屋があった地か、はたまたここに移ったか。神田雉子町名主の齋藤幸雄(長秋)、幸孝(莞齋)、幸成(月岑)の三代が、かの『江戸名所図会』(7巻20冊)を著した。また雉子町には陸羯南の「日本新聞」社があった。正岡子規が大学を諦めて(落第)、母と妹を羯南の根岸宅の西隣に越してきて、彼の新聞社記者になった。根岸から雉子町へ徒歩通勤。神田の歴史は探ればキリなく奥が深い。

 『慶長見聞集』にある「数百の唐人~」を調べようとしたが、酒井茂之著『江戸・東京 橋ものがたり』(明治書院)に書かれていた。「唐人というのは、朝鮮通信使のことで、朝鮮国王が江戸幕府に派遣した使節である。将軍がその職につくと、慶賀のために慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回も使節は来日した」

 まぁ、その度に雉子料理では関東に雉子がいなくなったのでは。あたしは手賀沼ほとりで野生の♂雉子に出逢い、やや興奮して写真を撮ったことがある。


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日本橋川(6)鬼平渡れぬ「宝田橋」 [日本橋川]

takaradabasi3_1.jpg 渡部一二著『江戸の川・復活』(東海大学出版会)は日本橋川テーマの書だが、「俎橋」のちょい下流「宝田橋」について、こう記していた。

 ・・・旧小出河岸近くに架かる橋。橋の名になっている「宝田」は、江戸開城以前からあった村の名前。清水門がまっすぐ正面にみえる位置にあった。小説(池波正太郎『鬼平犯科帳』)にでてくる橋。

 同小説シリーズのどの物語や。あたしはバカゆえ『鬼平犯科帳』文庫本①から順に「宝田橋」が出てくる物語を探した。何巻読んでも出てこぬ。『鬼平』ファンのかかぁに訊いた。「おまいさん、その橋は江戸時代にはなかったんじゃないかい」。

takaradabasi5_1.jpg 改めてネット検索。「あららっ」。昭和4年に初めて木橋が架けられ、現在の橋は昭和43年に架設。これじゃ『鬼平』に出てくるワケがない。渡部先生はどこぞのサイト引用で、ご自分では調べなかったらしい。写真上は清水門より50メートルほど手前から見た「宝田橋」。また、まっすぐ正面とも言い難い(写真下の地図参照)。

 池波正太郎は「江戸切絵図」の清水門前「御用屋敷」を、フィクションで「鬼平役宅」にした。この「御用屋敷」だった地には、平成19年完成の千代田区役所本庁舎・九段第3合同庁舎が建ってい、その脇道「竹平通り」に架かるのが「宝田橋」。

 この地は、戦時中は憲兵下士官の宿舎で、戦後はGHQの日本人職員や引揚者が住んでいた大蔵省関東財務局管理の地。ネットに平成10年の「第142回国会・行財政改革・税法等に関する特別委員会」議事録がアップされている。益田洋介議員が松永光大蔵大臣、橋本龍太郎内閣総理大臣に、国有財産の洗い出しと処分の必要を迫って、その例として「竹平寮」に言及している。「ここは元陸軍の宿舎。戦後に国有財産として管理され、引揚者の方に賃貸していた。現在120戸のうち19戸がお住まい。時価150億円。こういうものが戦前の姿のまま残されている。売却した方がいいでしょう」。いつやるか、今でしょう。・・・かくして更地になり、千代田区役所本庁舎・九段第3合同庁舎になったらしい。

takaradabasitizu_1.jpg さて、なぜに「宝田橋」か。太田道灌が長禄元年(1457)に日比谷入江際に城を築いた当時、この地は千代田村、祝田村、宝田村で、そこから「千代田城」。千代田区の由来もそこからか。徳川家康が江戸に来るってぇと江戸城拡張で上記三村を移転させた。宝田村は氏神様「宝田神社」と共に日本橋に移転。それが今も「べったら市」で有名な「宝田恵比寿神社」。この辺のことは同神社サイトに書かれていた。

 なお、清水門内「北の丸」は田安家、清水家の屋敷だったが、明治からは「近衛歩兵連隊」の駐屯地。あの「竹橋事件」にはせ参じた兵士もいたかもしれぬ。


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日本橋川(5)「俎橋」の鬼平と忠吾 [日本橋川]

manaitabasi3_1.jpg 日本橋川は「堀留橋」「南堀留橋」を経て、靖国通りの「俎橋」(写真上)に至る。千代田区サイトと九段坂公園案内板より、まずは「九段坂」の歴史・・・。

 神保町へ続く「靖国通り」開通は、武家地が廃された後で、明治37年(1904)に路面電車が開通。当初は九段坂が急で登れず、坂脇に勾配を緩くした専用軌道を設けていた。関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し(長くして)傾斜を緩くする工事で、市電(都電)を中央に設置。さらに「九段坂公園」の説明文は続く。

 ・・・この「高燈篭」(写真左)は、坂上の靖国神社前にあって、品川沖の船はもちろん、遠く房総からも望見されたとか。つぅワケで、路面電車開通までは尾崎紅葉をはじめ「硯友社」(飯田町の坂上)作家ら、また永井荷風、田山花袋もみぃ~んな歩いて神田~九段坂を歩いていた。その急な九段坂上からは海も臨める眺望だったらしい。

takatoudai1_1.jpg そして「俎橋」。九段坂公園の案内板には「江戸名所図会」の「飯田町(中坂・九段坂)」(写真下)の金属版あり。江戸の「俎橋」は、かくも小さな木橋で「今魚板橋(いままないたばし)」。九段坂を下って「俎橋」を渡るとT字路。神保町への直進路はなかった。「俎橋」上流は「俎河岸」で日本橋川の最上流荷揚げ場。

 九段坂から「俎橋」手前で右折すると「清水門」あり。「江戸切絵図」を見ると清水門前に「御用屋鋪」がある。池波正太郎は『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)でこう書いている。・・・私は「鬼平犯科帳」を書くとき、京都から江戸へ帰任した長谷川平蔵が、一時、目白台に屋敷をもらっていたので、どうも、小説の上から、これを役宅にしてしまうと不便のような気がして、清水門外に[御用屋鋪]と切絵図にあるのを利用させてもらい、ここへ役宅を置き、目白台の屋敷には、長男辰蔵に留守番をさせることにしたのである。

manaitabasi5_1.jpg ゆえに『鬼平』には「俎橋」が「俎板橋」の名でよく登場する。例えば文庫本10巻目収録『五月雨坊主』。・・・駆けつけて来た忠吾に平蔵が言う。「またしても、俎板橋のたもとに出ているだんご屋で、餡ころ餅をしこたま買い込み。ふとんの中にもぐりこんで絵草紙でもめくりながら、むしゃむしゃと食っていたのであろう」「よ、よくご存知で・・・」。

 絵図を見れば「俎橋」たもとに、「だんご屋」がありそうな気がしないでもない。


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日本橋川(4)馬琴「飼い鳥」物語 [日本橋川]

bakinido_1.jpg あたしが野鳥撮りを始めると、馬琴の別の顔「鳥飼い」の姿が見えてきた。馬琴は文化4年(1807)41歳、『椿説弓張月』で名声を得て、『上総里見八犬伝』に入ろうかの時期。流行作家の忙しさに精神困憊し、「折々逆上して口痛の患あり」。イラ立って家人に当たりだした。病弱ながら医者を目指す息子がいて、息子がお路さんを貰えば、お路に嫉妬する妻・お百がいた。

 お百は、ここ飯田町中坂の下駄屋の娘。養子を迎えたが不縁。その後釜に馬琴が入った。世話をしたのは奉公先の蔦屋重三郎と師・山東京伝。お百、不細工で悪妻。『馬琴日記』に・・・夜にいり、お百、また予に対して怨みごとをのべ、身を<井戸>に捨てるなどという」とあり。

 これは小池藤五郎著『山東京伝』に書かれていた。忙しさと家人のゴタゴタ。「これじゃ頭がおかしくなってしまう」で、小鳥を飼い出した。最初に「ウソ」を飼った。あたしは今年正月に近所の戸山公園でウソを撮った。胸の紅いのが♂。桜の蕾や紅葉の実を食っていた。

 馬琴が飼い鳥を始めると、江戸中の鳥屋が次々訪ね来て、あっという間に百羽ほどになった。「牛籠船河原なる鳥屋庄兵衛、安藤坂の鳥屋金次、小石川飛坂なる鳥屋松五郎、粂吉などと云う者、日毎に和鳥・唐鳥をもて来て見せて売まくす」。

 「文政10年(1827)5月8日 昼後、エゾ鳥其外庭籠の鳥騒候につき、立出、見候へば、大きなる蛇、縁頬(えんがわ、縁側のこと)へ上り、庭籠へかかり候様子につき、予、棒を以、手水鉢前草中へ払落し候へば、縁の下へ入畢(はいりおわんぬ。畢=ひつ、おわる、おえる)。」 など『馬琴日記』には鳥飼いの記録も多し。大蛇にイタチも出たか。

 馬琴さん、百羽は余りに多かった。これは大変な事態と翌年に多くを処分も、カナリアなど幾種は生涯飼い続けた。天保5年(1834)の68歳の時には、ついに『禽鏡』(きんきょう)と題した巻物6巻の鳥図譜(図鑑)も出版。馬琴が文を書き、末娘の夫で絵師の渥美覚重が絵を描いた。

bakinido5_1.jpg 以上はブログ紹介済の細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』(吉川廣文館刊)より。なお馬琴は天保7年(1836)に神田明神下から四谷信濃町辺りに移転。四谷ポタリング中に「馬琴終焉の地」と書かれた地図看板を発見。周辺を何度も走ったが「終焉の地」は見つからず。きっと住民が史跡表示を外したのだろう。

 写真上は「滝沢馬琴宅跡の井戸」表示がある地図看板。あたしは「南堀留橋」近くのマンション「ニューハイツ九段」(写真下)エントレンス奥の井戸を眺めつつ、史跡保存に感謝し、ここで馬琴が硯の水を、また鳥たちの水も汲んだかぁ~としばし灌漑。

 追記:馬琴は文政七年(1824)に飯田町宅を長女の婿に与え、息子・宗伯に買い与えた神田明神下同朋町へ移転・同居した。この頃のことは『曲亭馬琴日記』に詳しく、後日読んだ。また深川の生誕地、神田同朋町、終焉の信濃町を自転車で巡った。これらはいずれ記す予定。


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日本橋川(3)馬琴の井戸 [日本橋川]

bakintakuido_1.jpg 日本橋川「堀留橋」辺りの住所看板を見ると「南堀留橋」右岸に「都旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」表示あり。 「おお!」と思い、自転車で同井戸を探すもすぐには見つからぬ。そのはずで「馬琴の井戸」は史跡表示なしのマンション入口をズズッと入った奥の玄関脇にあった。

 現住所は千代田区九段北1丁目5番地。マンション名は「東建ニューハイツ九段」。旧住所は「飯田町中坂下」。馬琴さん、この地に寛政5年(1793)の27歳から文政7年(1824)の58歳まで、神田明神下に移るまで約30年間住んでいた。

 森田誠吾著『江戸の明け暮れ』(新潮社刊)には、馬琴の曾孫・橘女の回想録『思ひ出記』に、当時の飯田町がこう紹介されていたとある。「・・・御維新までは山の手の銀座で、当時の金持ちは飯田町に地所を持っていることを、一つの誇りにしていた。(中略)。中坂からこの坂下へかけては、町屋で相当いいものがあったし、芸者もいいのが居た」。 武家地のはざまの開けた町だったらしい。なお、馬琴が去った後は長女・お咲が住み、その婿に自家製の薬(亡くなった馬琴長男で医師・宗伯が遺した薬だろう)を売らせつつ、三日にあけず呼びつけて雑用をさせていたとか。

 野村宇太郎著『改稿東京文学散歩』(山と渓谷社、昭和46年刊)に、「馬琴の井戸」訪問記がある。著者は大正4年の内田魚庵の『思ひ出す人々』の「震災で破壊された東京の史蹟の其中で最も惜まれる一つは馬琴の硯の水の井戸である」という文章に出会って、同井戸を訪ねたと記す。震災で破壊され、戦災で壊された昭和26年が最初の訪問。「荒涼とした戦災ではあったが、(井戸)跡は板囲いをした工務店の瓦置場の中に、井戸の形だけが何とか生きのびているだけであった」。

 著者はその18年後にまた訪ねる。今度は手作りの案内板が出来ていた。「ここは滝沢馬琴が寛政5年以来31年間住まい、名高い八犬伝などの書を著述したところで、この奥に当時の井戸がある」。工務店が馬琴の井戸を文化財としてしっかり保存していることに感激した。さらに昭和46年に三度の訪問。すでに工務店はなく、工事の板囲い。中をのぞくと馬琴の井戸だけがポツンと残されていたと追記。それから42年後にあたしが訪ね撮ったのが、この写真。

 あたしは2011年1月のブログで森田著『江戸の明け暮れ』と高牧實著『馬琴一家の江戸暮らし』(中公新書)の読書備忘録を記している。二冊とも馬琴が律儀に家事、歳時、家計などを克明に記した日記より、江戸の暮しを探った書。両著を読んだあたしは生意気に、こんな事を記していた。<江戸の戯作者らが魅力的なのは、大田南畝が「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいたように酔狂、風流、粋、不良の危うさ、不沈人生の面白さゆえで、比して馬琴は倹約と保身を信条に、しかも「勧善懲悪」の読み物で人気作家になった。つまらん男よ。>


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日本橋川(2)高松藩主は釣りキチだった [日本橋川]

horidomebasi1_1.jpg 「三崎橋」から「新三崎橋」「あいあい橋」「新川橋」そして「堀留橋」(写真上)辺りは、元和6年(1620)の江戸大改修工事で埋め立てられていた。ここは右岸(飯田橋側)を走れば、その頃の史蹟案内板三つを読める。

 最初の案内板は「飯田町遺跡周辺の歴史」。まずは神田川と日本橋川の歴史紹介。(1)でアップの絵図通り、埋め立て地が「松平讃岐守=讃岐高松藩上屋敷」になっていて、平成12年の遺跡発掘で同上屋敷跡、江戸初期の盛土や石垣、板の土留め護岸による「堀跡」が写真掲載されていた。 

 二つ目の案内板は「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」。初代藩主・松平頼重は水戸藩二代目藩主・光圀の兄。神田川の向こう側、後楽園一帯は水戸藩上屋敷で、兄弟仲良く隣に屋敷を構えていた。ちなみに讃岐高松藩の下屋敷は、目黒の現「自然教育園」。明治に火薬庫になり、大正10年に朝香宮の邸地へ。それを西武の堤康次郎が買収してプリンスホテルを建てようとして住民が反対。これは『ミカドの肖像』シリーズで記したばかり。

horiati_1.jpguki_1.jpg 三つ目の案内板は「讃岐高松藩上屋敷の庭園跡」。屋敷内庭園に造られた池跡から出土した漆塗り浮子の写真(左)が掲載されていた。殿さまは、よほどの釣り好きだったとみた。いや、馬琴と交流のあった江戸家老・木村亘(わたる)の趣味だったか。

 昨年11月に、長辻象平著『江戸釣魚大全』備忘録を記した。享保8年(1723)に同書を著した津軽采女政兕(まさたけ)が釣りに熱中したのは、それより36年前の綱吉「生類憐みの令」の頃からか。長辻氏は江戸の釣りブームの第一期を元禄以前(~1687)、第二期を享保(1716~)、第三期を天明から幕末[1781~)としたが、この漆塗り浮子は、江戸の釣りブーム考察に貴重な資料になろう。

 なお史蹟案内板には、明治維新後の「神田川と日本橋川」について、こう説明していた。「この地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道・飯田町駅が開業。明治36年(1903)に日本橋川を再び開削して神田川と接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物ターミナルになった」。

 「飯田町駅」は貨物駅で、飯田橋駅と水道橋駅の間。現・日本橋川右岸の「ダイワハウス東京ビル」辺りにあった。日本橋川を埋め立て、また開削して両川を接続させた理由が分からなかったが、物資の舟運と鉄道のターミナル化と知って納得なり。この辺で「俎橋」方面に下ってみよう。


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