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戸山荘と消えた町名「荒井山」 [江戸名所図会]

toyamasuo_1.jpg 『江戸名所図会』は、自宅眼下(東)に広がる地「和田戸山」も読んでみる。

 尾陽君(ひやうくん)御館の地なり。是を戸山御邸(おんやしき)と云。土人相伝ふ、此地ハ往昔(そのかみ、かみ=始め)和田戸何某(なにかし)とかやいひし武士(もののふ)の住し所にして、右大将頼朝卿、隅田川より此地に至り和田戸の弟(てい=邸?)に入(いり)給ひ、軍勢の労を休められしことありしといへり。<今其地に和田戸明神といへる宮社ありと云ふ>。高田馬場の南、尾州御山屋鋪へ行方(ゆくかた)の畑の中(うち)に一條の道あり、里老(りらう)伝へて上古の鎌倉海道なりといへり。

 尾張藩下屋敷は池泉回遊式の広大な大名庭園。都内最高44㍍余の築山・箱根山、36軒の店並ぶ「虚構の小田原宿」など興味尽きぬ幻の庭園ゆえ、かつて関連書を読み記す遊びをしたことがあり、ここでは省略。

 同書は続いて「荒藺山(あらいやま)」へ。・・・同所戸山と大窪諏訪の森との間をいふ。此あたりハ雲雀(ヒバリ)の名所なり。 まぁ、早大辺りがホトトギスの名所で、今度はヒバリの名所だったとは。それにしても「荒藺山」とは?

 『江戸名所図会』で「荒藺山」の他記述を探す。如意山亮朝院の「高田七面堂」の説明にあり。・・・本尊の七面大明神像は、甲州身延山より亮朝院日揮師が授与され、慶安元年に「荒藺山」に於いて社寺を賜り七面堂を造営む。しかし寛文十一年に「荒藺山」の地は尾陽公の御山荘となりし故、今の地に遷さるゝ。

 神田川「面影橋」から早稲田通りへ抜ける「鎌倉海道」途中に「赤門」「黒門」を構える「如意山亮朝院」がある。戦災を免れた七面堂と本堂は、今も『江戸名所図会』に描かれたと同じ感じで残っている。

 話を戻す。「荒藺山はどこ?」 小寺武久著『尾張藩江戸下屋敷の謎』に大正12年の地図が載ってい、現・女子学習院の北側地に「荒井山」とある。かかぁが云う。「アバコ裏のパン屋前が確か荒井山公園じゃなくって」。

jyosigakusyuin_1.jpg おぉ、今も「荒藺山が残っていたか」。図書館で『新宿区町名誌』の立ち読み。「現・西早稲田2丁目は以前は高田町で、江戸時代は“字・荒井山”」。さらに別書に「江戸後期から明治22年までは字・荒井山」。さらに別書に「亮朝院は戸山高校辺りにあったが、尾州侯下屋敷になるのでここに移った」。

 やはり穴八幡から諏訪神社に至る地が「荒藺山」だったらしい。老いた身に猛暑は辛い。冷房の効いた部屋で熱い珈琲飲みつつ、『江戸名所図会』のわずか二行から「消えた地名」とかつての「ヒバリの名所」へ、しばしの歴史遊びでした。

 写真上は「戸山荘」絵図。同下屋敷内北側地(写真では左側地)が現「女子学習院」「西早稲田中学」「戸山高校」などになっている。同下屋敷西の外際(写真では下側外際)辺りにあたしんチがあって、ベランダから東に下屋敷跡が広がっている。写真下は現・女子学習院沿いの道。この先で明治通りと交差し、さらに先の右に諏訪神社あり。


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聳えるフジ、そぐわぬフジ [江戸名所図会]

nisimukie_1.jpg  『江戸名所図会』に「大窪天満宮」あり。別当は大聖院。本文は略。絵の文は・・・社壇西に向ふ、故に西向といひ、又は棗(なつめ)の天神と称すれとも、棗の来由志るへからつ、境内すこぶる幽邃(いうすゐ)あり

 「幽邃」は静かで奥深い、学問や道理が深い。ここで面白いのは、また広重の絵。長谷川雪旦の精緻な絵を見た後で、『絵本江戸土産』の広重絵を見て、思わず「ウッソ~」と腰を抜かした。まぁ、本物の富士山をここに移したかのよう。こうなったら行かずばなるまい。

 幸い徒歩圏内。むろん絵のような富士山は聳えていない。が、同行のかかぁが最初に気付いた。「おまいさん、浅間神社があるようぅ」。おぉ、胎内窟もある。一合目、二合目、三合目と石板を辿って行けば頂上へ。弘化三年(幕末ちょっと前)と、再築の大正十四年の石碑が多い。

nisimukiedo_1.jpg それにしても広重絵の富士山の大きさよ。『富士三十六景』が嘉永五年刊とか。『絵本江戸土産』もほぼ同時期で、彼の頭ん中は富士山がいっぱい、はたまた最晩年に30年前の葛飾北斎の大傑作『富嶽三十六景』への対抗意識が燃えたか・・・。

 一方、地誌『江戸名所図会』の絵は在るがままクールな描写。文また真面目に由緒を探る。安貞年間(鎌倉時代の前期)に勧請され、太田道灌の絡みもあるとか。

 しかし別当・大聖院脇に立派な石坂まさを作詞・作曲、藤圭子・歌『新宿の女』歌碑あり。ヒット歌謡曲は時代の徒花要素大、かつ歌手またスキャンダルにまみれようぞ。あたしはその業界片隅で飯を食ってきて、当時は新宿二丁目の「棗(なつめ)」というバーにも入り浸っていた(関係ない)が・・・。由緒ある寺院に、歌謡曲歌碑は何ともそぐわぬ。ヒット有頂天で歌碑を建てたのだろうが、芸が「謙虚」を忘れたら無粋になる。

 そうだ。荷風さんが『日和下駄』の「夕陽」の項を・・・ 東都の西郊目黒に夕日ケ岡というがあり、大久保に西向き天神というがある。ともに夕日の美しきを見るがために人の知るところとなった、と書き出していた。今は残念ながら「日テレ」ゴルフ練習場&住宅展示場跡地に建った巨大ビルに遮られて西の空は見えぬ。佐野眞一『巨怪伝』によると、正力松太郎はそこにドーム型野球場を造ろうしていたらしい。

 えっ、広重の絵? 芸でも記録でもなく「アート」領域に踏み込もうとしている。広重と北斎の富士、富士塚と藤の歌碑、棗(なつめ)神社と二丁目のバー「棗」。今回は重ね過ぎたか。(写真下は聳える富士の塚、そぐわぬ藤の歌碑)

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書も愉し「山吹の里」 [江戸名所図会]

yamabukinoe_1.jpg くずし字を「読む」と併せ「書く」も愉しくなってきた。4行表示の初期ワープロ出始めと同時にワープロに切り替えた。三十年余も手書きをせぬ。それまでは万年筆だった。ペンダコが今も消えぬほど書きなぐってきたが、はて、自分がどんな字を書いていたかはもう思い出せぬ。

 『江戸名所図会』にいい手本はないかしらと探せば、「山吹の里」の絵に多めの文あり。楷書とくずし字の混合。何故だろう。楷書風も自分流にくずし字に直して筆を持った。

 太田道灌(持資)と娘の出逢いが記されているが、その場所は未定。「面影橋」橋詰め近くの「山吹之里」碑にも、「ここに碑はありますが、場所は定かではありません」の案内文。

benizarahi_1.jpg 新宿は「西向神社」に紅皿(娘)の墓あり。紅皿は道灌に城に招かれ歌の友を仰せつかったが、道灌死後は尼になり、この地で葬られたとか。その墓と伝承される中世の板碑、燈篭、水鉢、花立あり。この伝承は江戸中期に成立して広まった、と書かれていた。

 「山吹の里」碑、「紅皿の墓」は江戸時代前。新宿にそんな歴史があるのがうれしいと言えば、かかぁが言った。「おまいさん、今年一月に防衛省北側の加賀町の住宅街マンション建設予定地から、縄文時代の人骨11体が出たんだよぅ。ウチのマンション下にも弥生、飛鳥、奈良、平安、鎌倉・・・誰かが眠っているかもよ」。

yamabukifude_1.jpg 言われてみれば、そんな気がしないでもない。「平仮名」「片仮名」誕生は平安時代からか・・・。

 縄文時代の人骨には、歴史の悠久へ想いが広がるが、原発事故の傷は、永久に消えぬだろう。ついでに川柳をひとつ。福島が自民を選ぶ我が姿


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絵に誘われ「板橋驛」 [江戸名所図会]

itabasihidari_1.jpgitabasimigi_1.jpg 連日の猛暑が途切れ、涼しい風が吹いた。『江戸名所図会』の「板橋驛」の絵を見ていたら、人々の営みが愉しげなり。よしっとばかり自転車で「板橋」へ走った。新宿から明治通り、新目白通り左折し、山手通りへ。すぐに中山道。旧中山道に入った。

 生まれ育ちが板橋は北区寄り。板橋には思い出がある。ここで『江戸名所図会』の「板橋驛」を読む。中山道の首にして日本橋より二里あり、往来の行客常に絡繹(らくえき、人馬の往来の絶え間なく続くさま)たり。東海道ハ川々の差支多しとて、近世ハ諸矦を初め往来繁々れバ、傳舎(はたごや)、酒舗(さかや)、軒端(のきば)を連ね、繁昌の地たり。驛舎の中程を流るゝ石神井川に架する小橋あり。板橋の名はここに発(おく)るとそ。

edoitabasie_1.jpgitabasijeki_1.jpg ここで現「板橋」橋詰めの史蹟案内板の記述へ。・・・板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境までの20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌『江戸名所図会』の挿絵から、この橋周辺は非常に賑やかだったことが伺えます。

genitabasi_1.jpg 太鼓橋を渡る人、旅籠で寛ぐ人・働く人、忙しそうな通行人・・・ひとり一人の物語ができるような愉しい絵です。欄干から川面を見ていると、子供時分に七夕の笹を石神井川に流したこと、洪水で川岸界隈の家々が水没したことなどを思い出した。絵には橋下に釣竿を持った子と爺さんが描かれているが、あたしの子供時分はもう汚れて釣りができる状態ではなかった。今は泳ぐ魚が見えて、水鳥も戻っているようです。

 『絵本江戸土産』にも広重の「板橋驛」(写真中の左)あり。ここは「くずし字勉強」の場ゆえ、その絵に添えられた文章を書き写してみた。「廣原」「関東諸将」と読んだが、間違っていないだろうか。(長谷川雪旦の愉しい絵、クリック拡大でお愉しみ下さい)


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内藤新宿の節季候(せきぞろ) [江戸名所図会]

sinjykuhidari_1.jpgsinjyukumigi_1.jpg ウチから東は早稲田で、南は新宿。ってことで『江戸名所図会』は「四谷 内藤新宿」の文を読む。

 甲州街道の官驛(くわんえき)なり <此地ハ旧(いにしへ)内藤家の弟宅(ママ ていたく)の地なりしか 後、町屋となる故に名とす> 日本橋より高井土(たかいと)迄で行程、凡四里餘りにして、人馬共に労す依(よつ)て、元禄の頃、此地の土人、官府(くわんふ)に訴へて新に駅舎を取立(とりたつ)る。故に新宿の名有り。然りといへ共(ども)、故有りて享保の始(はじめ)廃亡(はいまう)せしか、又明和九年壬辰再ひ公許(こうきよ)を得て駅舎を再奥し、今また繁昌の地となれり <此所より高井戸へ一里廿五町あり> 追分というハ同所甲州街道八王子通及ひ青梅等への分道(わかれみち)なれハなり

 絵が愉しい。餅つき、それを見る親子、門松を積んだ馬、味噌「お路し」の看板を掲げた店前で働く人々、役人付きで荷が運ばれ、縞の合羽で馬に乗るは江戸を離れる渡世人か。爺さんが振り分け荷物で江戸に入る。座頭も師走は忙しい。和国屋は飯盛女ではなく妓楼の艶かしい女たちだろう。ぼて振りの二人組が蛸などを売っている。坊主が店先で経を詠み、そして四人組の「節季候(せきぞろ)」が店に無視されつつも騒々しく舞い奏でている。

 sinjyukubun_1.jpgはせ越(芭蕉)句が添えられている。「節季候(せきぞろ)の来てハ風雅を師走かな」。『松尾芭蕉集』(日本古典文学全集)には「節季候の来れば風雅も師走哉」とある。「来てハ」が「来れば」、「風雅を」が「風雅も」の違い。同書に「節季候」の説明あり。

 節季候(せきぞろ)は今日(十二月二十二日)より乞人、笠の上にシダの葉を挿(はさ)み、赤き布巾を以て面を覆い、わずかに両眼を出だし、二人或は四人共に人家に入り、庭上にて躍を催し、米銭を乞う。(後略)。芭蕉句は・・・もう節季候が出はじめる年の瀬の忙しさゆえ、俳諧もここで終わりってことらしい。長谷川雪旦と斉藤月岑のコンビは、芭蕉句をとり込んで内藤新宿をどう描こうか・・・と入念に練り上げて仕上げたような気もする。

 俳人は風雅を控える謙虚さを有し、食えぬ者は芸で施しを得る。安給金でも健気に働く人々。今は金が欲しければ殺人、強盗、詐欺となんでもありの節操なき時代に相成った。江戸の年の瀬には、どこか優しさ、懐の深さが感じられる。そんな絵です。


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落合の蛍狩り [江戸名所図会]

edootiaihotaru5_1.jpg 『絵本江戸土産』四編に「落合の蛍」あり。文は・・・井之頭上水の水脈(みちすち)にて流れ早し、その水中にさし出でたる石あり 是を一枚岩と唱ふ この邊(あたり)蛍の光り 他に類なしとて都下の騒人(さうしん)夏月遊観(かへついうくわん)の地とす

 今もこの辺りでは「椿山荘の蛍」と「落合の蛍」が江戸風情を残している。「落合の蛍」は、今年は7月13・14日「おとめ山公園」(写真下)で、整理券発行で鑑賞会。あたしは行列嫌いゆえ行かぬ。

 次に『江戸名所図会』の「落合蛍」(写真上)の文を読む。くずし字の解らぬ字は、前後文から推測し、くずし字辞典で確認する。推測ということは、その字を知っている、またかくあろう表現だろうと知っているから頭に浮かぶワケで、その知識がなければ推測も不可。それが叶わぬなら「ふり仮名」頼りになるが、図版から判読できずでお手上げになる。

hotaru_1.jpgotiaihotaru7_1.jpg まず「芒種」がわからなかった。麦を刈り稲を植える六月上旬のこと。「蛍狩り」「芒種」共に俳句では夏の季語。これら漢字に加え、慣れぬ表現も多く、くずし字をスラスラ読むには、己の勉強不足を痛感するのみ。比して斉藤月岑の知性・センスに感心しきりと相成り候。

 此地の蛍狩ハ芒種の後より夏至の頃迄を盛?とす。草葉にすかる(すがる)ハ、こほ(ぼ)れぬ露かと うたかひ(疑い)、高く飛をハ(ば)、あまつ星かとあやまつ(蛍の描写ですね。葉がしなった先に露のように光り、そうかと思えば夜空の星と誤るほどの意か・・・) 遊人暮(くれる)を待て、ここに逍遙し壮観とす。夜涼しく人定り、風清く月朗なるにをよひて(しっとりと落着いた夜になって)、始て帰路をうながさん事を思ひ出たるも一興とやいはん

otomeyamakouen1_1.jpg 左頁に、後奈良天皇の「何噌」(ナゾナゾ集)より 秋の田の露おもけ(げ)なるけしきかな 「秋の田の穂、草が重たげだが、これなぁ~に?」ってナゾで、答えは「蛍」。この句から右頁の「落合蛍」の文章が生まれました、と暗示しているようです。この解釈が正しいかどうかはわからぬが、まぁ、どうにか苦労して読み切ってしまうと、今度は不思議に読めるようになっている。まぁ、こうして進歩は遅いも少しづつ読めるようになりましょうか。


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富士山、登頂す。 [江戸名所図会]

hirosigetakadafuji5_1_1.jpg 昨日、猛暑と雷雨をついて富士山にアタックした。人々は涼しくなってから登り始めるのだろう。麓では、それら人々の出を待ってさまざま屋台が準備中。まず「浅間神社」でお詣り。右脇から登山道が始まる。社側面に年代物の天狗、龍の面。溶岩で拵えた階段状を一歩一歩登る。危険防止の柵がうれしい。五合目の小御岳大神を詣で、右へ左へつづれ織りの道を登れば、間もなく頂上。ここで「カーン カーン カンカンカン カーン」と鐘を敲いて健康と安全を祈念。

 麓に下りると明治十五年建立の「御胎内」の石碑あり。元祖・藤井藤四郎の名あり。また大正二年建立の「富士山北口胎内窟修築記念碑」。あたしは藪蚊に刺された腕にムヒを塗りつつ「高田富士」頂を見上げた。

 入口看板に説明書きあり。・・・大先達、日行藤四郎をはじめの富士講の人々が、富士山頂から岩や土を運ぶこと九年五ヶ月の末、ついに富士塚を築いた。藤四郎さんの富士参拝は、実に五十八回とか。写真はそこに展示の広重「高田富士」。添えられた文は・・・同所寶泉寺水稲荷の境内にありて餘の富士と等しからず。六月十八日まで参詣せしめ麥藁(むぎわら)の蛇等を售(う)る茶店を出して諸商人出て数日の間賑ひまされり。「富士塚」でちょっとだけ江戸気分なり。

asamajinnjya_1.jpggotainai_1.jpgfujitop_1.jpg 写真左は浅間神社、御胎内、山頂。 


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高田富士と富塚古墳 [江戸名所図会]

 早大9号館辺りに、江戸で最古・最高(10㍍)の「高田富士」があった。『江戸名所図会』の「高田富士」を読む。

 稲荷宮の後にあり。巌石を畳むて其容(そのすがた)を模擬す。安永九年庚子(かのえね)に至り成就せしとなり。此地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者これを企てたりといふ。毎歳六月十五日より同十八日まで山を開きて参詣をゆるす。山下に浅間宮を勧請してあり。

 富士山の世界遺産登録には、富士信仰も考慮されたと思えるが、この江戸最古・最高の「高田富士」から各地の富士塚が広がったそうな。ここは元々が前方後円型「富塚古墳」跡。その地を利用して「高田富士」が聳えた。現「戸塚」名はこの「富塚」からと言われている。

tomidukakofunn1_1.jpg 昭和38年の早大キャンパス拡大によって、この「高田富士」「富塚古墳」「水稲荷」は現在地に縮小移転された。早大に渡すには氏子らの大反対もあったそうだが、どう強行したか。芳賀著『新宿の散歩道』には述べ六百人、ダンプカー六百台動員で移動、また藤四郎さんのお墓は宝泉寺にありと書かれていた。

 移転縮小の「高田富士」だが、地元住民は江戸から続く「高田富士祭」を今も大事に守っている。今年は明日・明後日(14・15日)の二日間だけ山開き。それを知らせるチラシ文の以下概要・・・。

 昔、植木職人・藤四郎は富士講の仲間と、白行布の身支度で富士山より運んだ岩土で富士塚を築き、大評判になった。それを真似て江戸中に富士塚が造られた。本物の富士山に登れぬ人達が大勢来て大賑わい。

 tomidukakofun2_1.jpgまた水稲荷(富塚稲荷に霊水が湧いて水稲荷の名へ)と併せて「富塚古墳」も縮小移転。現・水稲荷の裏に古墳と、その石郭利用の洞窟・小稲荷(写真下)も再現されている。ここには狐が棲んでいて「狐塚」、それが「戸塚」になったの説もあるとかで、古墳頂には狐が何匹も遊んでいた。(写真上)

 富士山には、十代の頃に所属していた社会人山岳会の冬山前の訓練で行った。五合目辺りで滑落時のピッケル、ザイルワークの練習を繰り返した。リタイア後の鳥撮り趣味で五合目「奥庭荘」に泊まった。そこの水場に来るホシガラス、ウソ、メボソムシクイ、ルリビタキ、ヒガラ、カヤクグリ、ヒガラ、キクイタダキを撮った。明日はいよいよ富士山頂上にアタックする。


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毘沙門天とムカデ [江戸名所図会]

bisyamonten3_1.jpg 『江戸名所図会』は宝泉寺が別当の「毘沙門堂」を読む。・・・同境内に小高き丘の上にあり。本尊毘沙門天王の霊像は慈覚大師の作にして、武蔵守藤原秀郷(ひでさと)の念持佛なりといへり。相伝ふ慈覚大師、江州唐崎の濱に至り、ひとつの笛を拾ひ得給ふ。内に御長一寸八分の多聞天の霊像あ里。大師随喜して自(みつから)是を念持佛とす。

 まぁ、話が早稲田から近江・琵琶湖に飛び、そこで拾った笛から5.45㎝の多聞天像が出て来たってぇんだ。不謹慎だが「一寸八分の観音様」ってぇとアソコのこと。記述に戻る。

 仁寿年間旧里下野国(志もつけのく尓)に下り、佐野の大慈寺に入り給ひ、御長二尺五寸の多聞天像を彫刻ありて、先の霊像を其胎中に篭(こ)めまゐらせ、大慈寺に安置ありしを、天慶中武武蔵守秀郷、平将門を征伐の後、此地に移したりとあり。

 藤原秀郷が平将門を征伐後に、佐野・大慈寺の「ダブル多聞天(毘沙門天)」をこの地に移したと書かれている。中略して、文はこう続く。

 其傍(かたわら)に朝日庵と云ありて、眺望尤(もつとも)幽雅なり。此地の時鳥(ほととぎす)ハ世に勝れて早く啼くゆゑに、其名を得たり。

 昔はこの辺でもホトトギスがいたとは。そして文は旗立桜(帆立桜)や船繋松の説明に続くが割愛する。この毘沙門堂は明治30年代まであったそうだが焼失。江戸時代に隆盛を極めることになった「毘沙門天」に注目。

 特に興味なしも、毘沙門天の使いが「ムカデ」と知って面白くなった。神楽坂の毘沙門天では「ムカデのひめ小判守」なるお守りがあるとか。黄金色小判に二匹のムカデが蠢く姿が刻まれて、百の足で福を掻き込んでくれるそうな。先日、明治33年正月の「朝日新聞」を見ていたら、こんな記事あり。・・・昨日ハ初寅とて毘沙門天の初縁日なれど、例年の通り百足小判を出し、同所の芸者等我勝に其小判を得て喜ぶを見受けたり。昔からのお守りらしい。

bisyamonkuzusi_1.jpg 先日、明治通りの「オリンピック」でワンタッチの底付き蚊帳を買った。実は十五年も前の伊豆大島ロッジで、いざダイビングへと玄関でウエットシューズに足を突っ込んだら、激痛に飛び上がった。二寸を超える赤黒いムカデがニョロッと出てきた。余りの痛さに島の友に電話をすれば、うれしそうな顔をしてマムシ入り焼酎を持参。小皿に注いで、刺された指を漬けておけと云う。毒には毒で制す。酒を呑み酔っ払いつつ痛みが薄らぐのを待った。

 以来、ムカデが怖くて、7万円を投じて底付きの大型本格蚊帳を購った。数年前に「オリンピック」で同じく底付きワンタッチ二人用蚊帳を見つけた。ワンタッチに加えて安く(3900円)、両サイドに出入り口付き。すこぶる使い勝手が良い。で、客人用に新たにもう一つ買った。

 ムカデは怖い、毛嫌いゆえに、あたしは毘沙門天に見放されて貧乏なのか。早稲田の毘沙門堂は焼失ゆえ、神楽坂の毘沙門天の絵を添える。絵にくずし字あり。久し振りに筆を持つ。「寅」「参詣」「等」「賑」の解読に難儀した。どの字もよく出てこよう。永く日本人をやっているゆえ、この位は辞書をひかずもスラスラ読みたい。覚えましょ。「月毎の寅の日にハ参詣夥(おびただ)しく植木等の諸商人市をなして賑へり」 


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宝泉寺境内は今、早大・・・ [江戸名所図会]

sinsoudai1.jpgsinsoudai2.jpg 『江戸名所図会』の「高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池 寶泉寺」の俯瞰絵図を見ると、今では想像もできぬ風景。何故?と食いつけば、この俯瞰図一帯が早稲田大学になったと知る。

 早大は相馬永胤(彦根藩生まれ、官軍、維新後は米国で法律・経済を学び、専修大を創立。横浜正金銀行頭取)所有の、後に甘泉園となる地を昭和8年(1933)に取得。その一部を昭和38年(1963)に水稲荷神社敷地と交換。水稲荷跡地に早大9号館を建てた。同地にあった水稲荷(高田稲荷)、江戸最古・最高の「高田富士」は同年に現在地に縮小移転。

 『江戸名所図会』に描かれた地に現存は「宝泉寺」だけか。「穴八幡宮」から早大への坂を下り、早大手前左の「宝泉寺」へ。二十代半ばから馬場在住も、初めて「宝泉寺」に入ってみた。

hosenjiboti_1.jpg 「早大合格祈願」「勝守り」の旗が揺れ、本堂は四角いコンクリート造り。本来の本堂は、現・大隈重信像辺り(写真下)にあったらしい。現・本堂の奥へ進むと、想像もしていなかった広い墓地あり。墓地北面に早大9号館が巨大壁のように聳えていた(写真左)。ここで『江戸名所図会』の「禅英山寶泉寺」の項を読む。

 稲荷と毘沙門両社の別当寺にして、天台宗東叡山に属す。開創の年歴未考(いまだかんか)へす。本尊薬師如来の像ハ伝教大師の作なり。<或人云(あるひといハく)花落鮹薬師と同体なりといへり>

 唐で共に学んで「伝教大師最澄」が天台宗で、空海が真言宗。仏教界の大仲違い。「年歴未考へす」は、古い歴史ゆえにハッキリせぬということだろう。ここは「宝泉寺」のパンフを読んでみる。

wasedaohkuma_1.jpg 『和漢三才図会』や『吾妻鏡』などによると、西暦810年頃の草創と伝えられます。また承平年間(931~938)、平将門の乱を平定した藤原秀郷の草創とも伝えられ、そのどちらをみても千年の歴史を持つ古寺であることがわかります。

 記述はその後の荒廃、再興の歴史が記されて、牛込時国が天文19年(1550)に再興。江戸時代は隆盛を極め、本堂(本尊薬師如来)、毘沙門堂、鐘楼を擁し、なかでも藤原秀郷の念持仏・毘沙門天が安置されていることで有名になり、江戸で最初の「富くじ」が行われた寺となり、また隣接の水稲荷神社の別当となり、そこにある高田富士は江戸最古で最高(10㍍)で、これまた大人気になったと記されていた。

 宝泉寺を有名にした毘沙門天は、インドでは財宝神。七福神では勝負事に利益。お金がらみのご利益、欲がらみで人気になるは、穴八幡宮「一陽来復」と同じであります。一見えらそうで、厳粛そうなお寺お宮も、庶民の欲で支えられているんだと思うと、てぇしたこたぁ~ねぇなぁと思えてくる。

 追記:相馬永胤の説明で「横浜正金(しょうきん)銀行」頭取と記した。永井l荷風はアメリカ~フランスで父のコネで正金銀行ニューヨーク支店、フランスはリヨン支点に勤めた。明治38年~40年の頃で、むろん荷風に真面目な銀行勤めなど出来るはずもない。


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高田馬場 広重と長谷川雪旦の絵 [江戸名所図会]

ehonbaba7_1.jpg 『絵本江戸土産』の「高田馬場」の文。 穴八幡の傍にあり、この所にて弓馬(きゆば)の稽古あり、また神事の流鏑馬を興行?せらすとあり、東西へ六丁南北二十余間、むかし頼朝記、墨田川よりこの地に至り勢揃ありしといひ伝ふ

 虫食いとネット粗画像で読み難し。次に『江戸名所図会』四巻十二冊「高田馬場」を読む。原寸復刻版ゆえ、読めず・間違いは初心者(あたし)の恥晒し。

 追廻(おひまは)しと称して二筋あり、竪(たて)ハ東西へ六町に、横の幅ハ南北へ三十余間あり。相伝(あいつた)ふ、昔右大将頼朝卿、隅田川より此地に至里(いたり)軍(いくさ)の勢揃ありし旧蹟なりといへり。土人の説に慶長年間越後少将<忠輝卿>(家康六男で松平忠輝。越後高田藩主)の御母堂・高田の君、遊望の儲(もうけ)として開かせらるゝ所の芝生なりしか。

takadanobaba2_1.jpg 「高田の君」は、浜松城時代の家康が鷹狩りの際に、夫の敵討ちを直訴した女で、余りに美人聡明ゆえに城に連れて行かれたとかの茶阿局、後の「高田の君」。この辺に屋敷があったのだろう。文はこう続く。

 寛永十三年に至り、今の如く馬場を築かせ給ひ、弓馬調練の所となさしめらるゝとなり。<或人云(あるひといふ)林丹後守勝正、加藤佐内、河村吉左衛門等是を司とりて築かれたりとあり。又云、北の馬場ハ武田信玄入道、小田原の北条家を攻(せむ)る時、馬を試みられたりし旧蹟なりといふ。北の方の列樹(れつじゆ)は享保の頃、台命(だいめい、将軍令)により風除のために是を植られるゝといへり。延宝天和の頃にて雑司ヶ谷群参(くんさん)の輩(ともがら)、此地にいたり賭的大的小的騎射其外(そのほか)能囃子、土佐外記(とさけき、浄瑠璃だろう)放下(遊芸人、大道芸人)の類出て賑ハしかりとなり>

 馬場誕生から、鬼子母神参拝客がここで休憩し、大道芸人で賑わうまでを記述。斉藤月岑の取材力に改めて感心です。馬場は見物客多く、地元農家が茶店を開いて「茶屋町通り」。文は文字の大きさを元に戻して、こう続く。

 大将軍御代の始にて国家安全の御祈祷の為、御嘉例として此地に於て流鏑馬の式あり、形装善尽し美を尽せり、其式の図説ハ穴八幡の別当放生寺に収蔵せり、文章ハ神田白竜子(享保期の気位高い講釈師で軍学者)撰する所なり。

takadanobaba1_1.jpgmitisirube_1.jpg はは~ん、やはり「放生寺」だ。流鏑馬は目下、戸山公園で開催中。「高田馬場」跡は、現バス停・西早稲田の北側。三叉路角(写真)の寿司屋の壁と、その奥の路地に「馬場跡」の史跡看板あり。「茶屋通り」表示もある。馬場跡の北が「水稲荷」「甘泉園公園」そして神田川へ。「水稲荷」脇に江戸最古・最高と言われた「高田富士」と、その前に「堀部安兵衛之碑」あり。

 「水稲荷」「高田富士」は現・宝泉寺の裏辺りにあったものの、昭和38年に早大キャンパスになって縮小移動させられたもの。「茶屋通り」は古道・鎌倉海道(奥州街道)で、そう言われれば馬場沿いの道の賑わいも頷ける。馬場跡西端に「道しるべ」あり。北に曲がると「面影橋・雑司ヶ谷」と書かれてい、鬼子母神参拝客が立ち寄るのも納得。小生、「道しるべ」より早稲田通り反対側の「子育て地蔵」並びのビル4階に20代半ばから住んでいた。


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穴八幡の謎(5)一陽来復と一陽来福 [江戸名所図会]

 『江戸名所図会』の「出現所」を読む。・・・坂の半腹絶壁にそひてあり。往古の霊窟も旧址なり。近頃迄其地に出現堂と号(なつ)けて九品仏の中(うち)下品上生(仏教用語でお調べ下さい)の阿弥陀如来の像を安置せし堂宇ありしが~」

 良昌上人が発見した霊窟、阿弥陀様について「放生寺」に訊ねれば、「穴八幡宮が最近造った“出現殿”の奥だと思います」。穴八幡宮に戻って訊ねると「いたづらが多かったので霊窟前に扉を設け、それをお守りする出現堂を建立(平成18年)しました」「昔はよく覗きましたが・・・」「公開は一切致しません」。

 さて阿弥陀霊像は何処へ行ったやら。また中腹から出土の阿弥陀を表す梵字の板碑片も気になる。近くに戸塚の地名由来の「富塚古墳」あり。穴八幡も元は古墳の説ありて、霊窟も阿弥陀像も古墳がらみの気がしないでもない。

itiyouraifuku_1.jpgkikutomoe2_1.jpg 出現所脇にあった「布袋様」は昭和44年に穴八幡宮の手水舎に移されている。菊の御紋の本殿前に布袋様はちょっと似合わぬか。そして最後の謎は、やはり「一陽来復」です。「穴八幡宮由緒」看板文には記述なしゆえ、放生寺の「一陽来福の由来」を読む。

 現 在暦や易占の礎となっている書物は「宿曜経」と云い弘法大師空海が平安時代に初めて中国から我が国に伝えたものであります。当山授与の一陽来福は冬至(陰極まって一陽を生ずる)を示す一陽来復に因み、観音経の「福聚海無量」と云う偈文より「福」の字を結んで一陽来福と名付けられました。(中略)。江戸天保年間に、冬至前七日間真言密教による御祈祷を修して、別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。以来、今日に至るまで御修法を師資祖伝継承し、冬至より節分迄の間授与しております。一陽来福が当山由来でありますことは、虫封じと共に古老諸彦の熟知される所であります。

 うむ、明治維新の「神仏分離令」で菊の御紋を戴いた穴八幡宮は、観世音菩薩の仏教も、恵方・節分の「陰陽道」も切り離したはず。しかし穴八幡宮の「一陽来復」をいただくと、その包み紙に、こんなことが書かれていた。 ・・・この御守は江戸時代の元禄年間から行われた穴八幡宮だけに伝来する長い伝統のある「特別の御守りであります。

 江戸時代は、何度も記したが穴八幡宮の運営・祭祀は別当「放生寺」が行なっていた。しかも驚いたことに、こんな記述が続いていた。・・・近年付近の社寺等で類似のお守りを出して居る様ですが、当社とは全く関係ありません。御参詣の方は間違のない様穴八幡宮の御社殿でお受け下さい。

 なんだか欲がらみのイヤらしい記述。ここは『徒然草』の第11段をおくりたい。~大きなる柑子の木の枝もたわゝになりたるが、まわりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。(意はご自分でお調べ下さい)

 『江戸名所図会』にもお札の記述はなかった。昭和48年刊の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』にも、穴八幡宮の「布袋像」の説明はあるも「一陽来復」には触れていなかった。昔を振り返れば「一陽来復」のお札を求めて長蛇の列なんてぇのもなかったような気がする。商売繁盛・御融通のお札人気は、なんだか戦後から平成へ、世知辛さ増す世の反映のような気もしないでもない。

 かく言うあたしも長年「一陽来復」をいただいてきた。ここで改めてこう思う。天皇の菊紋好きは「一陽来復」。徳川の葵紋好きは「一陽来福」。強欲なあたしは両方貼って、老い朽ちる前に一度でいいから宝くじが当たってみたい。あぁ、このお札を思えば、己の欲も顔を出す。ちょいとイヤな気分になってきた。(写真は我が家の「一陽来復」と、穴八幡宮の「天皇の十六八重の菊御紋+三つ巴の紋」)。 さっ、この位にして『江戸名所図会』 先に進みましょう。


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穴八幡の謎(4)葵の御紋・菊の御紋 [江戸名所図会]

 ananokikumon_1.jpghosyojiaoi_1.jpg「穴八幡宮」を有名にした良昌上人とは。今度は隣の「放生寺」へ行ってみた。境内に「放生寺由来」の案内看板あり。

 放生寺は寛永十八年(1641)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。良昌上人は高野山奥の院、安芸宮島、さらに諸国を修行していた折の寛永十六年二月、霊夢の中に老翁現われ、「将軍家の若君が辛巳の年に夏頃御降誕あり、汝祈念せよ」と告げられ、直ちに堂宇に籠って大願成就まで祈願したところ、同年巌有院殿(四代家綱公)が御降誕されました。

 なんだか、これも怪しい世界なり。文章は続く。・・・その後、このことが上聞に達し、大献院殿(三代家光公)が当山に御参拝になり、正保三年御厄払の御祈祷を厳修、慶安二年(1649)良昌上人より寺社の由緒を聞かれ、「威盛院光松山放生會寺」の寺号を賜り、付近一帯は放生寺門前と称されました。(※江戸後期の町名は牛込放生寺門前) 爾来、将軍家の崇信殊の外篤く徳川代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格として独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)の衣の着用を許されました。さらには、御遊猟の際に当山を御膳所に命ぜられるなど、徳川實記には放生寺と将軍家との往来が詳細に記されています。

 良昌上人のその後は・・・。おもしろいですねぇ、ネット検索すれば、こんなことまでがわかるんです。『江戸名所図会』に周防生まれで、毛利家の家臣に仕えた身とあったが、晩年は元の主・毛利家臣「榎本遠江就時」の菩提寺、山口県長門市の「西の高野山」ともいわれる「大寧寺」で過ごし、そこで亡くなった。新宿は早稲田「穴八幡」に社僧として招かれ「放生寺」を開創と記され、そのお墓は史跡のようになっているとか。

 由来記を読み、お寺を見上げれば徳川の「葵の御紋」なり。参道(坂)を下ると、記述通り「霊場第三十番札所」の石碑、そして梵字が刻まれた板碑上部片あり(写真下)。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』によれば、同地より発掘された板碑は阿弥陀を表す梵字で彫られ、南北朝のものではないかと書かれていた。霊窟の阿弥陀様と関係ありやなしや。

hosyojiitahi_1.jpg 再び穴八幡宮に戻って改めて社殿を見上げれば、こちらは天皇の「菊の御紋」(正確には天皇の十六八重菊に、真ん中に八幡宮の時計周りの三つ巴。この辺のことは無知だが、かなり珍しい紋なのかも知れない)なり。

 「穴八幡宮由緒記」には、将軍家祈願所として江戸屈指の大社として壮麗を極めたとあったが、明治元年の「神仏分離令」についての記述はなし。明治維新による<廃仏毀釈、神道国教化>の嵐がいかに吹き荒れ、菊の御紋を戴くようになったか。この辺も謎のひとつだが記述なし。明治維新から大日本帝国へ。「菊(天皇神道)は栄え、葵(徳川)は枯れて」の言葉が浮かび、出兵兵士を送る光景も浮かんでこないワケでもないが・・・。(写真上は放生寺の葵の御紋でお寺さん。穴八幡宮の菊の御紋でお宮さん) 

 ここでは『江戸名所図会』までにとどめることにして、次は肝心の「一陽来復」について。「穴八幡宮由緒」には同御札についての記述は一切なし。さて・・・


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穴八幡の謎(3)霊窟発見と家綱誕生 [江戸名所図会]

syutugenreikutu_1.jpg 今度は穴八幡宮が何故に脚光を浴びたかを探ってみる。『江戸名所図会』の続きを読む。

  ~社記云(しやきにいはく)寛永十三年(1636)丙午(ひのえうま)、御弓隊の長(おさ)松平新五左衛門尉(さえもんのせう=官職のひとつ)源直次に与力の輩、射術練習の為、此地に的山を築立(つきたて)らる。八幡宮は源氏の宗廟(そうひやう)にして、しかも弓箭(ゆみや)の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。此山に素より古松二株あり。其頃、山鳩来たりて日々に此松の枝上に遊ふを以て、霊瑞(れいずい)とし、仮に八幡大神の小祠(こみや)を営みて、件(くだん)の松樹を神木とす。

 八幡太郎の活躍も、やがて平家全盛へ。時代は移って鎌倉幕府へ。源氏から北条の時代へ。そして時代の波を幾つも越えて570年余。いつの間に江戸時代は三代将軍家光の寛永へ。八幡太郎の勧請の祠があったとしても朽ち、石ならば苔むし埋もれていただろう。だがここが射術練習の場となって、再び八幡宮が盛り上がる。その前に、当地がいかなる地だったか。

 文は寛延四年(1751)に酒井正昌が著した『南向亭茶話』からの引用。~<南向亭いわくこの地は早稲田邑(むら)の地中島(ちなかしま)という。この地に青柳六兵衛といへる富民あり。往古(そのむかし)北条家に仕えし士にて、主人の持伝へし山林にてありしとぞ>。 この地、昔は阿弥陀山と呼来里(よびきり)したなり。されどその所以(ゆえん)を知者(しるもの)なかりしに。

syutugendou_1.jpg 阿弥陀如来なる仏教の地に、源義家が八幡宮を勧請したってことか。その勧請から約600年の寛永十三年(1636)に改めて小祠が造られた。そして五年後、寛永十八年(1641)にドラマが訪れる。 『江戸名所図会』の続き~

 同十八年辛巳の夏、中野宝仙寺秀雄法院の會下(えげ・えか。師について修行の僧)に威盛院良昌といへる沙門(修行者)あり。周防国の産にして山口八幡の氏人なり。<幼くして毛利家の侍・榎本氏某に仕えしが、榎本氏没して後、十九歳の年(とし)遁世して高野山に登り宝性院の法印春山の弟子となり、一祀の行法をとけて三十一歳の時より諸国修行の志を発(おこ)しその間、さまざまな奇特(不思議)をあらはせりといふ>。依てこの沙門を迎へて、社僧たらしむ。

 故に同年の秋八月三日草庵を結ばんとして山の腰に切開(きりひらく)時に、ひとつの霊窟を得たり。その窟(いはや)の中(うち)石上に金剛の阿弥陀の霊像一体たたせゐへり。<御長(みたけ)三寸ばかり>。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。<穴八幡の号ここに起れり、其旧址、今猶坂の傍にあり>。又この日は将軍家御令嗣<巌有公(四代将軍家綱)>御誕生ありしかは、衆益其霊威を志(し)る。

 かくして寂れていたお山が、威盛院良昌上人の霊窟発見と家綱誕生が重なって一気に盛り上がる。加賀の前田侯が数百の人歩(にんふ)を贈られて地固めして造営。その後も宮居など次々造営。穴八幡を一気にメジャーにした良昌上人とは。お坊さんゆえ隣の「放生寺」へ行ってみる。(写真は『江戸名所図会』の出現地アップと、現「出現殿」の写真)


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穴八幡の謎(2)家光までの概史 [江戸名所図会]

anahatiman2_1.jpg 長年にわたって「一陽来復」をいただいてきたが、穴八幡がいかなるお宮かを知らずにきた。今回「穴八幡由緒」看板を初めて読む。まず御祭神は仲哀天皇・神功皇后・應神天皇とあり、文章はこう始まっていた。

 康平五年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊の先蹝(せんしょう。先例)にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護として祀られました。

 時は平安時代末期だな。義家は京都郊外・石清水八幡宮で元服ゆえ「八幡太郎」。彼らが氏神様に崇めたのが日本武尊(ヤマトタケル)の子の仲哀天皇、その妃・神功皇后、その二人の子・應神天皇。祭神は神話の領域だな。

 そして江戸時代後期の『江戸名所図会』の齋藤月岑による記述は、こう書き出される。以下、手前の拙い現代文訳で記す。・・・「高田八幡宮」は牛込の総鎮守にして高田にあり。<世に穴八幡とよべり>。この地を戸塚と云う。別当は、真言宗にして光松山放生会寺と号(かう)す。<旧名は威盛院中之坊と唱(とな)へしとなり。祭礼は八月十五日にて放生会あり。旅所ハ牛込神楽坂の中服にあり>。

hosyoji1_1.jpg ここで「別当」のお勉強をしなければいけないだろう。江戸時代は多くの神社の運営管理、読経・祭祀も寺の僧侶によって行われていて、これを「神仏習合」。その寺を別当(寺)と言った。我が家より東にあるのが穴八幡で、北西にあるのが諏訪神社で、諏訪神社脇に玄国寺あり。『江戸名所図会』の「諏訪明神社」の絵を見れば「別當玄國寺」とある。この例のように神社傍にお寺があれば、それは明治維新までは神社の「別当」だと思っていいだろう。

 しかし「尊王攘夷」、天皇を御旗に薩長兵らが「宮さん宮さんお馬の前に~」とトコヤレ節を唄いつつ東征行進し江戸に攻め入った。「王政復古」。天皇の時代になって「五箇条の御誓文」。その三日後に「神仏判然令」(いうところの神仏分離令)。天皇崇拝の神道教義を日本唯一の宗教に統一すべく、他の弾圧が始まった。神社から仏教色を排除、別当(寺と僧)を失くし、天皇絶対化の道が推し進められた。これによって全国で「廃仏毀釈」のとんでもない運動が広がって寺、仏像などが壊された。いったい誰がこんな無茶なことを言い出したのだろう。

 薩長らの維新政府は、こりゃちょっと無茶だったかと改めるが、天皇絶対化は「五箇条の御誓文」から「軍人勅諭」へ、そして「大日本帝国憲法」の「大日本帝国ハ萬世一系天皇之ヲ統治ス」へ至る。この国家神道は終戦で天皇が(神ではなく)人間宣言するまで約80年続いたんでありますなぁ。

 横道にそれたが、『江戸名所図会』は江戸時代ゆえに、「穴八幡宮」の説明は、当然ながら上記の通り、別当の光松山放生寺(こうしょうざん・ほうじょうじ。長谷川雪旦の絵には現・放生寺の所に「別当」の記入あり。写真は穴八幡の隣の現・放生寺の入口。早大戸山キャンパス正面)の記述が中心になる。次に穴八幡宮が何故に脚光を浴びたかを探ってみる。


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穴八幡の謎(1)広重の絵 [江戸名所図会]

anahatiman_1.jpg 『絵本江戸土産』四編に広重絵「穴八幡」あり。我が家に至近ゆえアップする。おや、これは本殿に背を向けて楼門(髄神門)を描いてい、文もまた味気ない。

 穴八幡ハ尾州侯戸山の御館(おんやかた)の傍(かたはら)にあり此(この)あたり植木屋多く四季の花物(はなもの)絶ゆることなし

 思わず「広重、どうした」とつぶやいた。そこで再び『江戸名所図会』をみる。「高田八幡宮」として「別当」を含め、お山全景が詳細に描かれていた。下の道から階段を登ると、まず立派な楼門(髄神門)。本殿に向かって右側に手水舎と井戸。広重の絵は何故に本殿を背にしているのだろう。これが最初の謎。(上は広重の絵、下は同方向から撮った写真)

 小生、長年に亘って穴八幡「一陽来復」をいただき、節分の24時に恵方に向けて貼る習慣を続けている。フリーからミニ会社経営で浮沈の世渡り。近所の商店主らと同じく、いつからか「一陽来復」をいただき、ついでに免許証入れに交通安全、財布に御融通様の御札が習慣に相成候。時に儲かれば「一陽来復のお蔭かしら」、苦しさをしのげば「御融通様のお蔭かしら」。穴八幡の術中にはまって、もう止められぬ。

hirosigeana_1.jpg 穴八幡の隣に「別当・放生寺」あり。こちらのお札は「一陽来福」。「復と福」違い。例年、冬至から節分まで長蛇の列をなすのは穴八幡で、「放生寺」がなんだか寂しげでとても気になる。

 いい機会ゆえ、穴八幡のお勉強をする。まずは冒頭の謎。「広重の絵は何故に本殿に背を向けた構図なのか」。現・穴八幡の階段脇に「穴八幡由緒」の看板あり。『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵が大きく添えられている。その由緒文に、こんな一節があった。

 ・・・安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府から造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。

 ふむふむ、『絵本江戸土産』は嘉永三年(1850)から安政四年(1857)にかけての刊。この絵は四編に収録で、広重が描こうとした時、すでに焼失していたのではないか。すでに『江戸名所図会』四編は天保七年(1836)刊で、長谷川雪旦の詳細図は世に出ていた。広重はこの絵を参考に描いたのではないか。楼門に浅草寺・雷門と同様の大提灯らしきも描かれていて余計に嘘っぽい。こんな推測で最初の謎が解けたことにして、次に参りましょう。


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原寸復刻版を手にして・・・ [江戸名所図会]

edo3tukue_1.jpg 古文書初級「くずし字に親しもう」講座の教材が『絵本江戸土産』だった。そこから、当然の流れで、ずっと気になっていた『江戸名所図会』を手にした。幸い家から東と西、共に徒歩5分の両図書館に『原寸復刻 江戸名所圖會』あり。株式会社評論社の1996年刊。上・中・下の三巻を借りたら、まぁ、あたしの14㌅折り畳み自転車と、ほぼ同じ重さだった。

 監修は田中優子、石川英輔。上巻冒頭で両者連名で「なぜ原寸復刻か」を記していた。・・・何種類かの縮小した復刻版を繰り返し見ておなじみの絵だが、実物をはじめて手に取って息を飲む思いだったと書き始めていた。縮小版では見えなかった部分が(ネット画像もまた粗い画像で同じこと)、原画でははっきりと見える。細密な描写に新たな発見が多い。また数多い名所図会のどれと比べても細密さは際立っている。それで原寸の復刻版を作ることを思い立ったと記す。優子先生(あたしファンなんです)素晴らしい!

 文章は原画(底本)、パノラマ図版などについての説明後に、田中優子著名で<『江戸名所図会』解題>へ。ここではまず、天保五年(1834)に三巻十冊、天保七年(1836)に残りの四巻十冊が、日本橋の須原屋茂平衛・亥八の両店から刊の経緯が紹介され、作者の説明へ。以下、その概要・・・

 神田雉子町の齋藤家は「草創名主」。家康入府時の江戸名主24人のなかの一人。七代目の齋藤幸雄(長秋)は京都の『都名所図会』などに刺激されて『江戸名所図会』制作に取りかかった。しかし寛政十一年(1799)没。この時の絵師は六十歳に近い大家・北尾重政で、彼もまた絵を描かずに亡くなった。八代目・齋藤幸孝(莞齋)が父の事業を受け継いだ。莞齋も版元も人を雇って近郊取材。この時に絵師・長谷川雪旦を迎えた。

 八代目自身も忙しい名主仕事を縫って雪旦と共によく歩きまわったが、文政元年(1818)に48歳で没。15歳で九代目を継いだのが幸成(月岑)だった。彼もまた名声や金銭のためではなく「江戸を記録する」という信念と情熱で無報酬ながら『江戸名所図会』制作に取り組んだ。雪旦も信念は同じだが職業絵師ゆえ、町名主や町年寄らも金銭バックアップをしたらしい。最初の十冊刊行は月岑が数え三十歳のころ。雪旦もまた息子・雪堤と共に親子で絵を描き続けた。また広重も『名所江戸百景』の資料考証に齋藤家を訪ねていたとも書かれていた。

 月岑は後に『東都歳時記』『音曲類参纂』『武江扁額』等々の膨大な著作を残し、明治十一年(1878)没。晩年にはカメラで東京を撮りまくっていたとか。

 次に石川英輔が『江戸名所図会』の構成を説明。江戸城を北極星として、江戸全体を北斗七星に見立てた順で七巻が構成されていると解説。一巻が江戸城周辺。二巻が南下して品川・大森方面。そこから時計まわり放射状に三巻が四谷・新宿・渋谷・目黒・世田谷方面。四巻が大久保・高田馬場・中野・池袋方面。五巻がお茶の水・駒込・王子方面。六巻が上野・浅草・足立方面。七巻が深川・葛飾・葛西方面の順。

 さて、あたしは順不同、気になった場所の頁をひもとき(くずし字の勉強を兼ねて)、また実際に現地を訪ねたりして遊んでみようかなと思い立った。このブログ、また新たな<マイカテゴリー>が加わってしまった。


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