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江戸生艶気蒲焼 ブログトップ

(28)参考資料一覧 [江戸生艶気蒲焼]

kyodentukue_1.jpgkyoudentukueku_1.jpg 最後に『江戸生艶気蒲焼』シリーズの参考資料一覧。それだけでつまらないので浅草寺・奥山の山東京伝「机塚」を紹介。京伝没の翌年に・弟の京山が建立。京伝は子供時分からの机をずっと使ってい、机と同じように自分もガタがきたと詠った歌が刻まれている。「耳もそこねあしもくじけてもろともに世にふる机まれも老いたり」

 197年を経て風化した文字をたどたどしく探れば「耳毛楚古弥(耳もそこね)あしもくし計て(足も挫けて)〇〇〇〇 世丹ふ流机(世にふる机)な禮毛(なれも)老多理(老いたり)」。と判読。「耳」は樹皮部を残した自然木風合いの部分。「なれ=汝、おまえ」。「〇〇~=もろとも」だが、完全摩耗で読み切れぬ。

 この京伝机塚は、哀しくも駐車スペースにあり、車二台を置いて同時期の歌舞伎狂言作者・並木五瓶の句碑「月花乃多ハみ(たわみ)古ゝろや雪の竹」がある。古文書を習い始めると、句碑などの字が読みたくなってきます。

 <参考書一覧> 日本古典文学全集(小学館)『黄表紙・川柳・狂歌』(浜田義一郎校注)、日本古典文学大系59(岩波書店)『黄表紙・洒落本集』(水野稔校注)、小池藤五郎『山東京伝』、小池正胤『反骨者 大田南畝と山東京伝』、佐藤至子『山東京伝』、旺文社『古語辞典』、田中優子『江戸の恋』、森銑三『著作集』第一巻、早大図書館データ『通言総籬』、近代デジタルライブラリーと「新潟大学・古文書・古籍コレクションデータ」で「新内節正本」、国会図書館デジタル化資料『志やれ染手拭合』、小池正胤校注・解説『「むだ」と「うがち」の江戸絵本』、興津要『大江戸商売ばなし』。併せて「大田南畝」関連書と、模写しつつ同時代の浮世絵関連書を多数読んだ。「古語辞典」は『江戸生艶気蒲焼』からの出典・用例が多く、ひもとくのが楽しかった。

 ひらがな中心の黄表紙だったので、次は漢字くずし字交じりの洒落本、大田南畝『甲駅新話』を読んでみようかしらと思っているが~。


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(27)最終章。浮名と夫婦になる [江戸生艶気蒲焼]

kabayakiend1_1.jpgゑん二郎ハ、ちやうどかんどう(丁度勘当)の日のべきれ(切れ)けれバ、こりごり(懲り懲り)としてうちへかへりてミれバ、ゆこう(衣桁)ニミめぐりにてはがれ(三囲にて剥がれ)たる小袖かけてあるゆへ、ふしぎにおもうおりから、一ま(間)よりおや弥二ゑもん、ばんとう候兵衛たちいで、いけんする。ゑん二郎ははじめてよの中をあきらめ、ほんとうのひととなり、うきなもおとこのわるいもふせう(不承)して、ほかへゆくきもなく、ふう婦となり。もとよりしんだい(身代)ニふそくもなく、すへはんじやう(末繁盛)ニさかへ、しかし一生うきなのたちおさめ二、今までの事をくさぞうし(草双紙)にしてせけんにひろめたく、京でんをたのミて、世上のうわきびとをきやうくん(教訓)しける。

弥二右衛門「わかきときハけつき(血気)いまださたまらす、いま(戒)しむる事いろいろありといふを志らぬか。すべてあんじがこうずるとミなこうしたものだ。おそろしきどろぼうとまでミをやつせし、われわれがくふうのきやうげん(我々が工夫の狂言)。いごハきつとたしなミおれ。きのすけやわるい志あん(喜之介や悪い志庵)とも、もうつきあふまいか。そちばかりでハない、よの中二だいぶかういうこゝろいきのものがあるて」 艶二郎「こゝでやきもちをやかれてハ大なんぎだから、めかけもどこぞへかた付ませふ」 浮名「わたしは大きにかぜをひきました」

 「ゆこう=衣桁」だが、あたしが子供時分には「いこう」と言っていた。「あきらめ=諦め」ではなくて、「明(あき)らむ」で見きわめ、明らかにする。「ふせう=不肖」ではなく「不承=ふしやう」で、我慢すること。(古語辞典)

 オチはこの事を京伝に頼んで草双紙に書いてもらって、世の浮気者の教訓にするというくだり。十九、二十歳の艶二郎の妾が四十路の女で、夫婦になった浮名もかなりの大年増とみた。まぁそんなこたぁ~どうでもいい。これにて山東京伝『江戸生艶気蒲焼』完読。明日にでも参考資料一覧を記して終わります。


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(26)素っ裸の艶二郎と浮名 [江戸生艶気蒲焼]

hadaka_1.jpg仇気やゑん二郎 浮名やうきな 道行興鮫肌

乁朝に色をして夕に死とも可なりとハ、さてもうハき(浮気)なことのハ(言の葉)ぞ。それハろんご(論語)のかたいもじ、これハぶんご(豊後・節)のやわらかな、はだとはだか(肌と裸)のふたりして、むすびしひも(紐)をひとりして、と(解)くにとかれぬうたがひハ、ふしん(普請・不審)の土手のたかミから、とんとおちなバ名やたゝん。どこの女郎しゆ(衆)かしらミひも(虱紐)、むすぶのかミ(結びの神)もあちらむかさん志よ、じやうゆのやきずるめ(醤油の焼きスルメ)ぴんとひぞるも、今ハはや、むかしとなりし中の丁、そと八もんじ(外八文字)もこぐなれバ、うち七もんじ(内七文字)ニたどりゆく。

なミだにまぢる水ばな(涙に混じる水洟)に、ぬらさんそで(袖)ハもたぬゆへ、下たのおびをぞ志ぼりける。身に志ミわたるこちのかぜ(東風)に、とりはだだち(鳥肌立ち)し此素肌。とのごのかほ(殿御の顔)ハうすずミ(薄墨)にかくたまづさ(玉章)とミるかり(雁)に、たより(便り)きかんとかくふミ(書く文)の、かなでかなてこすそもよふ(裾模様)。ゆかりのいろも七ツやの、なになかれたるすミだがわ(名に流れたる隅田川)。たがいにむりをいをざき(五百崎)の、かねハ四ツ目や長命寺。きミにハむねをあくる日の、まだ四ツ過のひぢりめん(緋縮緬)。ふんどしなふがきはるの日の、日高のてらにあらずして、はだかのてやいいそぎ行引三重。「うしハねがいからはなをとふす(牛は願いから鼻を通す)」と。ゑん二郎がわるいあんじの志んぢう(心中)。此とき世上へぱつとうきなたち(浮名立ち)、志ぶうちハのゑにまでかいてだしけり。

艶二郎「おれハほんのすいきやう(酔狂)でした事だからでぜひがないが、そちハさぞさむかろう。せけんの道行ハきものをきてさいごのばへ行が、こちらのハはだかでうちへ道行とハ、大きなうらはらだ。ひちりめん(緋縮緬)のふんどしがこゝではへたのもおかしいおかしい」 浮名「ほんのまきぞへでなんぎさ」  

  『江戸生艶気蒲焼』を代表する絵。この絵を何度も目にしてきたが、実際に文を筆写、絵を模写でグンと身近になった。身ぐるみ剥がされた裸の二人。土手の向こうに三囲神社の鳥居上部が見え(模写は省略だが、土手の右に描かれている)、艶二郎のふんどしのながいことよ。「緋縮緬のふんどしが、こゝで映へたもおかしい」と、それでも覚めた台詞の艶二郎。カラー筆ペンで赤く塗ってみた。

 冒頭の「乁朝に色をして夕に死とも可なり」は孔子の教え・論語の漢文「朝聞道。夕死可矣=朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」。その意は「ことわざ辞典」で、朝に人の道を悟れバ、夕に死んだとしても後悔なし。つまり答えは、そう簡単に得られるものじゃないという教え。「矣」が読めず。(イ)で確認断定の意で、読まなくてもいいらしい。

 「二人して結びし紐を~」は伊勢物語の一節。「とんとおちなば~」も豊後節の一節とか。この辺は勉強不足、無知識で、充分な鑑賞とは参らぬ。「しらみ紐=虱をとる紐」は「結びの神もしらん」の洒落だそうな。不勉強と謙虚に言ったが、当時は教養として読むべき本が決まってい、かつ少なく、これは狂歌もそうなんだが、それらのもじりの洒落ゆえにクスッとわらえたのだろうに。今日は情報が多過ぎて、なかなかそこまでに至らぬ。あたしの文学体験だって、そもそもは翻訳の古典世界文学全集、現代世界文学全集だったのだから。お手上げは勘弁していただこう。

 「醤油の焼ずるめ、ぴんとひぞる(乾反る)も~」。この辺の下世話文句ならグッと親しみが湧いてくる。スルメが反るようにすねたり怒ったりすること。「外八文字=花魁の足運び」。「七ツ屋=質屋」。ちなみに京伝は深川の質屋の息子だった。「五百崎=向島の古称」と校注にあった。「鐘は四ツ目や長命寺」。長命寺といえば門前の「桜もち」だが、何度か墨堤散策をしたが、その度に休みだったり売れ切れで、未だいただけない。

 「長命寺」の時の鐘がが出てくれば「長命丸」も出てくる。これは両国米沢町(東日本橋の薬研堀)の媚薬・秘具(張形=帆柱など)販売の四ツ目屋が売り出して大人気になった「長命丸」。陰茎に塗る強精薬というより勃起持続の淫薬で「江戸のバイアグラ」。四ツ目屋は古今亭志ん生の「鈴ふり」のまくらにも出てくる。「虱紐」は芝金杉通りの鍋屋源兵衛の店が売り出した虱除けの薬を染み込ませた紐。「虱除けの紐=鍋谷紐」。ちなみに馬琴が売っていたのは「奇応丸」。

 「四ッ過ぎの緋縮緬」とは何ぞや。古語辞典で「四つ=午前十時」で昼前ゆえまだ古びていないの意。浮名が身請けされてまだ十時。これまた出典は当箸より。「日高の寺にあらずして裸の手合い~」はひだか・はだかの語呂合わせ。日高の寺は道成寺。「三重」は校注で浄瑠璃終末部の三味線の手とか。京伝は絵を習い始める前に長唄、三味線を習っていた。「牛は願いから鼻を通す」は、自分から望んで苦しみや災難をうけるたとえ(ことわざ辞典)。以上、浄瑠璃を真似た文なのだろう。さて、残すは最後の一頁だけ。


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(25)身ぐるみ剥がされて [江戸生艶気蒲焼]

oihagi_1.jpgさいごのば(場)も、いき(粋)なぱつとしたところとの事にて、三めぐりのどて(三囲の土手)ときめ、よがふけてハきミがわるいから、よいのうちのつもりにて、ゑん二郎につとめたるちやや・ふなやど・たいこまつしや・げいしや(茶屋・舟宿・太鼓末社・芸者)ども、だいだいこう(太々講)のおくりのやうニ、はかまはおり(袴羽織)にて、大川ばしまでおくり申(もうし)、たゞのやくし(多田の薬師)のあたりにて、ミなミな(皆々)にわかれ、 ゑん二郎ㇵ日ごろのねがいかないしと、こゝろうれしく道行をしてゆき、こゝこそよきさいごば(良き最期場)と、はくおきのわきざし(箔置の脇差)をぬいて、すでにこふよとミへ、なむあミだびつといふをあいづニ、いなむら(稲叢)のかげより、くろしやふぞくのどろぼう(黒装束の泥棒)二人あらわれいで、ふたりをまつぱだかにしてはぎとる。

泥棒「わいらハどふで志ぬものだから、おいらが、かいしやく(介錯)してやろう」 艶二郎「これこれ、はやまるまい。われわれハしぬための志んぢう(心中)でハない。ここへとめて(留め手)がでるはづだ。どふまちがつたか志らん。きものハミんなあげましやうから、いのちハおたすけ・おたすけ。泥棒「此いご(以後)こんなおもいつきハせまいか・せまいか」 艶二郎「もうこれにこりぬ事ハございません」 浮名「どふで、こんなことゝおもいんした」

 「三めぐりのどて」は三囲神社脇の土手。ここの景色は先日、自転車で訪ねたので<新宿発ポタリング>で後日記す。「太鼓末社」は校注で「太鼓持ち」。「太々講」は仲間でお金を積み立て合って、籤当たりの人が伊勢参りをすること(古語辞典)。子供時分に祖母は近所(町内)のオバさんらと「無尽講」をしていた。今はあたしのマンション住民でも名を知らぬ方が多い。「~講」も昭和中頃に死語になったか。「大川ばし=吾妻橋」。「多田の薬師」は吾妻橋東詰より川下の現・東駒形にあった東江寺。昭和になって現・葛飾東金町に移っている。

 艶二郎らは吉原をに抜け出た後は、舟で吾妻橋、さらに川下の東駒形辺りで送りの皆と別れて、今度は川上の三囲神社に向かって歩いたのだろう。下ったり上ったりして、三囲神社の土手でコトに及ぼうとして、本当の泥棒に襲われる。「もうこれにこりぬ事はござりません」は否定のダブル表現。文章はひらがなのくずし字を漢字変換すれば、充分に意がわかる。さて、この泥棒らは艶二郎が仕組んだ輩ではなく~。(模写にも慣れてカラー筆ぺんまで使い始めました)


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(24)二階から道行・身請け [江戸生艶気蒲焼]

sinjyu_1.jpgうきなハたとへうそ志んぢうニても、くわいぶんわるい(外聞悪い)と、とんだふしやうち(不承知)なりしが、此あん(案)じを志ゆび(首尾)よくつとめたあとハ、すいたおとことそわせてやろうと、ゆらのすけ(由良之助)がいふやうなせいふにて、よふよふとく志ん(得心)させ、此あききやうげん(此秋狂言)にハ、ゑん二郎がむ利息にて、金もとをするやくそく(金元をする約束)にて、ざもと(座元)をたのミ、さくら田にいゝつけて、此ことをじやうるり(浄瑠璃)につくらせ、たちかた(立方)ハ門の介とろこう(路光)にて、ぶたいでさせるつもり。はたきそうな志ばゐなり。もとよりすなをに、身うけしてハいろおとこ(色男)でないと、かけおち(駆け落ち)のぶんにて、れんじ(檽子)をこハして、はしごをかけ、ニかいから身うけする。

内しやう(内証)でハ「どふで身うけなされた女郎ゆへ、おこゝろまかせ二なさるがいゝと、れんじ(檽子)のつくろい代ハ二百両でまけてあけませう」とよくしん(欲心)をぞ申しける。 わかいもの共ハ御しうぎ(祝儀)をちやくぶくして、にげたあとで、ほうぼうへいゝふらせとのいゝつけ也。 内側から「おあぶなふござります。御しづかにおにげなさりませ」 艶二郎「二かいからめぐすりとハきいたが、身うけとハ、これがはじめてじや」

 この頃の心中未遂は、日本橋南詰広場で三日間晒された。外聞最悪なり。「案じ」①考え、工夫、計画(江戸生艶気蒲焼)。②心配、気苦労(浮世風呂)と古語辞典に用例・出典が記されている。古語辞典をひけば、江戸文学は概ねわかるってこと。「由良之助」は忠臣蔵での大石内蔵助モデルで、遊女に言った台詞から。「桜田」は狂言(歌舞伎)作家の桜田治助。ちなみに桜田治助と狂言作家の双璧だった並木五瓶の句碑が、浅草寺裏の京伝の机塚の隣にある。艶二郎が金主になって市川門之助、瀬川菊之丞出演の芝居を興行させるという大見得。

「れんじ=櫺子、連子」。窓などに設けた格子。またその窓。「はたきそう」は「叩き=損失」で失敗しそう。「内証」は古語辞典に多数意あり。ここでは主人の居間・帳場。「ちやくぼく=ちゃくふくの転」と古語辞典にあり。「どふで」も「どうせ」の転だろう。最後の「二階から目薬」の諺が出てくるが、この諺はいつの時代からあったのだろうか。話の内容は心中、道行、身請けのゴチャ混ぜ吉原脱出劇。


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(23)遊びが過ぎた嘘心中 [江戸生艶気蒲焼]

sinjyucyakusyoku_1.jpgゑん二郎いよいよのりがきて、かれこれとするうち、七十五日の日ぎりがきれ、うちかたよりハ、かんどうをゆるさんとまい日のさいそくなれど、いまだうわきをしたりねバ、志んるい中のとりなしにて、廿日の日のべをねがひ、どふしてもしんぢう(心中)ほどうわきなものハあるまいと。てまへハいのちをすてるきなれども、それでハうきながふしやうちゆへ、うそしんぢうのつもりにて、さきへきのすけと志あん(喜之介と志庵)をやつておき、なむあみだぶつといふをあいづニ、とめさせるちうもん(注文)にて、まづうきなを千五百両にて身うけをし、しんぢうの道ぐたて(道具立て)をかひあつめる。ついの小そでのもようにハ(対の小袖の模様には)、かたになかてこすそにハいかり(肩に金てこ、袖には碇)、志ちにおゐてもながれのミ(質においても流れの身)というこか(古歌)のこゝろをまなばれたり。これも中屋とやまざきのもうけものなり。

 ふたりがじせいのほつく(二人が辞世の発句)ハ、すりもの(摺物)ニして中の丁へくばらせる。 志庵「花らんがかいたはすのゑを大ぼうしよ(奉書)へからずり(空摺り)とハ、いゝおほしめしつきだ」 喜之介「わきざしハはくおき(脇差は箔置)ニあつらへました」

 絵は艶二郎、志庵、喜之介、髪結い、そして浮名と二人の禿の七人が、嘘心中の小道具揃えの準備中。数珠、小田原提灯、蛇の目傘、毛氈、揃いの小袖、箔置の脇差~。模写が大変にて四人の上半身のみ。

 「いよいよノリがきて」。こんな言い回しは江戸時代からあったとは。「ゆるさん=許さない」ではなく、推量・意志・当然の「む」が「ん」になっての「許さん」だろうか。「肩に金てこ、裾に碇」は当時流行った歌らしい。ここまで重くすれば、質入れしても流れないの意。ちなみに京伝は質屋の息子だった。あたしも若い時分に、やっと買ったブロニカ+交換レンズ(6×6のカメラ)を流したことがある。質屋へ行くのは毎回辛かったが、かかぁは若い頃を振り返って「貧乏も愉しかった」と言ってくれる。

 「花らん=花藍」は京伝の絵の師、北尾重政の俳号。師は絵の他に俳諧、狂歌、書家のマルチアーティスト。京伝も師を受け継いだのだろう。「はす(蓮)のゑ」は追悼花、一蓮托生がらみと校注にあり。「ほうしよ=奉書」は高級和紙。「からずり=空摺り」は顔料なしで凹凸だけの贅沢摺り。「はくおき=箔置」で、銀箔を貼った竹光。他には難しい言葉なし。

 さて、遊女の心中といえば、おおむね男が入れあげた挙句に「羽抜け鳥」「手振り編み笠」となり、遊女も「身上がり」させての共倒れ。死ぬ他にない状況に追い込まれてのことだが、この光景はなんとも贅沢な遊び。遠足に行くみたいにはしゃいでいる。


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(22)江戸のイケメンは地紙売り [江戸生艶気蒲焼]

jikamiuri_1.jpgゑん二郎はのぞミのとふり、かんどう(勘当)をうけけれども、はゝのかたより、金ㇵ入用次第ニおくるゆへ、何ふそくなけれども、なんぞうわきなしやうばい(浮気な商売)をしてミたく、いろ男のするしやうばいㇵぢかミうり(地紙売り)だろうと、まだなつ(夏)もこぬにじかミうりとでかけ、一日ニあるいて大キにあしへ豆をでかし、これニハこりこり(懲り懲り)とする。此時、大キなすいきやうもの(酔狂者)だと、よほどうきな立けり。

女「オヤ、とばゑ(鳥羽絵)のやうなおほのひとがとふる。ミんな、きてミなせい」 艶二郎「そとをあるくと、日にやけるであやまる。こまつたものだ、またほれたそふだ。いろおとこもうるさいぞ」

 「ぢかミうり=地紙売り」。夏に扇の地紙を売る小商い。扇型に切った新しい紙を折って扇に貼った。色男が絵のような恰好(若衆姿、頭を被った手拭の端を口に含んで、地紙を肩に担いで)で売り歩いたそうな。馬琴の『燕石雑誌』に「昔ありて今はなきもの」と記されているそうだから、馬琴の時代にはもう姿を消していたか。興津要『大江戸商売ばなし』に川柳が紹介されていた。「地紙売り親爺に会って横に切れ」「地紙売り母に逢うのも垣根越し」「勘当が許りて地紙を売り残し」。勘当された道楽息子がやる商売と決まっていたらしい。

 「とば絵=鳥羽絵」。当時の漫画・戯画。ここでは「漫画のような顔の人が通るよぅ」と水茶屋の娘が騒ぐが、本人は「また惚れられた」と思っている。

 ひらがな中心に飽きて、そろそろ漢字のくずし字に移りたいが、『江戸生艶気蒲焼』も最後の盛り上がり。終わりまで頑張りましょう。最近は「くずし字」筆写より、絵の模写の方が愉しくなってきた。


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(21)芸者に跣参りをさせる [江戸生艶気蒲焼]

hadasimairi_1.jpgやげんぼり(薬研堀)のなあるげいしや七八人、ゑん二郎ニやとわれ、かんどう(雇われ勘当)のゆ(許)りるよふ二と、あさくさのくわんのん(浅草の観音)へはだしまいり(跣参り)をする。なるほど、はだしまいりといふやつが、大かたㇵ、うわきなもの也。 芸者A「ゑゝかげんになぐつて、はやくしまわをねへ」 芸者B「十どまいりくらいでいゝのさ」

 「薬研堀」は現・東日本橋辺り。両国橋西詰=柳橋の南側で今は「薬研堀不動尊」がビルの狭間に建っている(写真下)が、当時は料理屋が多く、多くの芸者が住んでいた艶っぽい町だったらしい。「ゆりるよふに=許りるように」で、「許(ゆ)」の活用<り・り・る・るる・るれ・りよ>。「はだしまいり=跣参り」。「なぐつて=殴る、擲る=投げやりにする、念をいれない」(古語辞典をひくと、出典元『江戸生艶気蒲焼』がかなりある)

 絵は三人の芸者の裸足参り姿。石畳の足許に銀杏の葉が落ちていて、季節は秋。芸者の後ろは楊枝の柳屋。確か「浅草奥山銀杏の木の下の楊枝の柳屋のお藤」は看板娘。「蔦屋およし」「笠森お仙」と共に浮世絵に描かれたいる。

 もう一つ注目は、芸者の「おはしょり」。裾引き着物で跣参りだから、芸者は思い切り「おはしょり」をとって、腰下辺りに腰紐(赤色に塗った)で止めている点。これが現・着物の「おはしょり」の原型だろう。こんなことに気付いたも、あたしは若い時分にH社とA社の「着付け教室」の教科書を作ったことがあってのこと。

yagenbori_1.jpg 余談。渡辺保『東洲斎写楽』では、大田南畝が始めて各氏に延々書き継がれてきた『浮世絵類考』の、斎藤月岑が突如「写楽は俗称・斎藤十郎兵衛、居・江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり」と増補する以前の、文政四年の風山本「~東洲斎と号す俗称金治。やけん堀不動尊通りに住す」の篠田金次(治)が写楽だと記していた。金治は旗本の息子。実家騒動、放蕩、家出、漂白、食客、そして俳諧、狂歌、地誌、台本、作詞、滑稽本、合巻、読本、人情本作者で、絵も描いた超マルチ人間とあった。もうひとつ、これまたどうでもいいことだが、同著は昭和62年刊で、付録に現・法政大総長の田中優子が著者と対談していた。ショートヘアの若い助教授時代の写真が載っていた。あたし、江戸文学(文化)の田中優子先生のファンなんです。


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(20)艶二郎、憧れの勘当へ [江戸生艶気蒲焼]

kandou_1.jpgゑん二郎せけんのうわさ(世間の噂)するをきくに、金持ゆへミなよく(欲)でするといふことをきゝ、きうニ(急に)かねもちがいやニなり、どふぞかんどう(勘当)をうけたくおもひ、両しんニねがいけれども、ひとりむすこのことゆへ、けつしてならねども、よふよふはゝ(母)のとりなし二て、七十八日が間のかんどうにて、日ぎりが切ㇾると、早々うちへひきとるとの事也。 

父「のぞミとあるから、ぜひがない。はやくでゝうせろ」 番頭「これㇵわかだんなのおぼしめし、志か(然)るべうぞんじませぬ」 艶二郎「ねがいのとふり、御かんどうとや、ありがたやありがたや。四百四びやう(病)のやまい(病)より、かねもちほどつらいものㇵないのさ。かわい男ㇵなぜ金持じややら」

 「然るべう存じませぬ=最もとは思えない」。「四百四病(しひゃくしびょう)の病より~」は「人の病は四百四病あるそうだが、それより貧ほどつらいものはない」の諺を、貧を金持ちに変えた台詞。絵は部屋の中に艶二郎、両親、番頭が描かれているが、ここでは両親のみを複写した。

 文が短く終わったので、先日読んだ高橋克彦『だましゑ歌麿』が面白かったので記す。田沼意次に代わって老中になった松平定信「寛政の改革」によって、蔦重が身代半減、京伝が「五十日の手鎖の刑」になったが、深川を襲った高波被害に乗じて歌麿の妻「おりよ」が殺された。松平定信、その忠臣の鬼平、南北の奉行所に対して歌麿、北斎、蔦重、そして主人公の同心らが体制に挑むという大スケールの時代小説。長編だが面白くて一気読了した。

 同作の評判が良かったのだろう、著者はここでの登場人物で、力の抜けた『おこう紅絵暦』『春朗合わせ鏡』などのシリーズを書いたが、それらは軽く過ぎてつまらん。また山東京伝が主人公の『京伝怪異帖』もお粗末。二度手にしたが二度とも前半で放り投げた。


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(19)ぶたれて悦ぶ艶二郎 [江戸生艶気蒲焼]

nagurareru_1.jpgゑん二郎、志はゐをミて(芝居を観て)、とかくいろ男といふものㇵ、ぶたれるものとおもひ、志きりニぶたれたくなり、じまわりのきおひ(地回りの競い)を、ひとりまえへ(一人前)三両つゝにて、四五人たのミ、中の丁の人高い所にてぶたれる徒もりにて、ちやや(茶屋)の二かいニㇵ(二階には)藤兵へ(衛)をやとゐおきて、めりやすをうたわせ、ミだれたかミ(乱れた髪)をうきなにすかせるつもり(浮名に梳かせる積り)にて、さかやき(月代)へㇵせいたい(青黛)をぬり、あげやまち(揚屋町)のぎんだし(銀出し)にて、さつとミつかミ(水髪)にゆひ、たぶさをつかむと、ぢきにばらばらとほどけるよふにして、ぶたれけるが、ついぶちところわるく、かたいき(片息)ニなつて、かミ(髪)すき所でㇵなく、きつけよはりよ(気付けよ鍼よ)とさわぎて、よふよふきがつきけり。此時、よつぽどばかものだといふうきな(浮名)すこしばかりたちけり。

地回り「うぬがやふないゝ男がちらつくと、女郎衆があだついてならぬゆへ、おいらもちつとやきもちのすじ(焼餅の筋)だ」といふせりふㇵ、こつちからちうもん(注文)でいわせるなり。 地回り「きりおとしから、ばちがあたるといふばだ」 艶二郎「そのにぎりこぶしが、三分つゝについている。ちといたくてもよいから、ずいぶんミへのよいやうニたのむたのむ」

 「うぬら=己等」で「うぬ=きさま、おまえ、てめえ」。「じまわり=地廻り」は昭和世代でも通用する。「きおひ=競い」で競い肌・勇み肌の略だろう。「人高い=人が多く集まっている」(古語辞典)。「ちやや=茶屋=引手茶屋」。「藤兵衛=めりやす巧者の萩江藤兵衛」。「みだれ髪を女に梳かせ~」の文句は「めりやす+芝居」にあるそうな。 

 「せいたい=青黛」。役者が月代を青くするのに使う顔料。「揚屋町の銀出し」は妓楼・揚屋跡の町名で、ここの商屋や茶屋で売っている「銀出し=頭髪用水油」。「水髪=水でなでつけた髪」。「たぶさ=もとどり=髻」は髪を束ねたところ。「かたいき=片息=絶え絶えの苦しそうな息」。「あだついて=浮気っぽくなる、心が浮つく」。「きりおとし=切落=歌舞伎の平土間最前の大衆席」。「ばちがあたるといふばだ=二枚目を殴る役者に客席からそうヤジが飛ぶ場」。江戸言葉、吉原言葉、芝居言葉がたくさん出てきた。

 ネット調べをしていたら『江戸生艶気蒲焼』が国立劇場で平成三年に上演されていると知った。三幕五場で、主演は澤村宗十郎。荻江藤兵衛を六代目片岡十蔵が演じていた。さて、どんな舞台だったか。 


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(18)手水場の吊り手洗器と手拭い [江戸生艶気蒲焼]

uwaki15_1.jpgゑん二郎ㇵやくしや(役者)・女郎などのこゝろいき(心意気)にて、ゑこういんとうりやう(回向院道了)のかいてう(開帳)へ、ちやうちん(提灯)をほうのう(奉納)せんとおもひ、うきなとてまへ(浮名と手前)のもん(紋)をひよくもん(比翼紋)ニつけさせるちうもん(注文)にて、きたのきの介うけあいて(北里喜之介請け合いて)、たまちのてうちんや(田町の提灯屋)へあつらへける。中や(屋)へㇵちやうづてぬぐい(手水手拭)をあつらへ、これもひよくもん(比翼紋)にて、志よ志よ(諸所)のはやりがミ(神)へずいぶんめニたつやうにほうのう(目に立つように奉納)する。これもよつぽどのいたこと(痛事=出費)也。もちろん何のぐわん(願)もなけれども、このやうニ奉納ものㇵ、なるほどうわきなさた(沙汰)なり。

喜之介「とんだいそぐ(急ぐ)ね。ほねㇵ志げほね(骨はしげ骨)にして、かわ(側)ゝほんぬり(本塗り=漆塗り)ニ、志んちう(真鍮)のかなもの(金物)、いくらかゝつてもいゝから、ずいぶんりつぱに志てへの」 提灯屋「ちときう(急)ニㇵできかねます。このあいだㇵよしわらのさくらのちやうちん(吉原の桜の提灯)をいたしております」

 「回向院道了の開帳」校注では、両国東詰めに建つ回向院の道kyoudenekoin.jpg了尊の出開帳~と素気ない。ここはやはり回向院は京伝の菩提寺と一言あるべきだろう。本来は回向院奥の墓地内にあったが、今は「鼠小僧の墓」の近くに京伝(岩瀬醒)及び山東京山(弟)や岩瀬氏之墓が移されている。(写真)ちなみに京伝没は文化十三年(1816)、56歳だった。大田南畝の追悼狂歌は「山東の嵐に後の破れ傘身は骨董の骨とこそなれ」。戒名は「弁誉智海京伝信士」。

 「比翼紋」も校注では、あっさりと「男女の紋を重ねたもの」とあるが、「相愛男女の」と艶っぽく説明していただきたい。「田町」は港区芝の田町ではなく、吉原の日本堤下(山谷堀と浅草の間辺り)のあった町。正月心中のカワラ版を読んでのあたしの句「元旦にひよくれんりのなれのはて」。

 「手水手拭」は懐かしい。あたしらの子供時分には、便所脇の廊下外に「吊り手洗い器(バケツの下の棒を上に突っつくと水が出て手を洗った)」があり、手拭いも吊るされていたっけ。あれは水洗便所が普及して姿を消した。「ほねㇵ志げほね=骨はしげ骨」の「しげ=繁=密」にしての意だろう。


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(17)妬くほどに箪笥に貯まる晴れ着かな [江戸生艶気蒲焼]

uwaki14_1.jpgゑん二郎ㇵ五六日ぶりにてうちへかゑりけれバ、まちまうけたるめかけ(待ち設けるたる妾)、こゝぞほうこう(奉公)の志ところと、かねてふくしておゐたぞんぶんをやきかける(予て=前もって、復して=反復しておいた存分=思い通り充分に妬きかける)。

妾「ほんニおとこといふものㇵ、なぜそんなにきつよいもんだねへ。それほどニほれられるがいやなら、そんないゝおとこにうまれ徒かねへがいゝのさ。また女郎も女郎だ。ひとの大じのおとこをとめておきくさって。又おまへさんもおまへさんだ。あい、そうなすつたがいゝのさと、まづこゝぎりニ志やせう」

艶二郎「はづかしいこつたが、うまれてからはじめてやきもちをやかれてミる。どふもいへねへこゝろもちだ。もちつとやいてくれたら、てめへがねだつた八丈と志まちりめん(縞縮緬)をかつてやらふ。もちつとたのむたのむ」

 絵は妬き餅に涙する妾と、まんざらではないと頭を掻く艶二郎。妾の後ろに立派な箪笥があって、それを模写した。墨の上に白線をひいた感があるも、木版ではどんな処理をするのだろう。あたしはガッシュ(不透明水彩)で白線をひいてみた。箪笥横には「起請さし」。ここは志ん朝の「三枚起請」を聴きたい。「まちまうけたる=待ち設けたる」。「設け=用意、準備、したく」。立派な箪笥は妬くたびにご褒美の着物が貯まる寸法。

 話は逸れるが、桜田常久『画狂人 北斎』(昭和48年刊)にこんな記述(概要)あり。~女性を美しく描いた歌麿はデブで、鼻が大きく開き、眉と眼のあいだが遠い醜男。彼が描く美人とはうらはらに、彼自身は腕も手も毛むくじゃらの男だった」。そう云えば京伝、北斎像はあるも、歌麿は自分の顔を誰にも描かせていない。作者はその歌麿の容姿をどうして知ったのだろう。(追記:栄之が「歌麿之像」を描いている。見たら、老いた相撲取りのようだった。桜田常久もこの絵を見たのだろう


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(16)吉原の桜尽くしに犬も咲き [江戸生艶気蒲焼]

uwaki13_1.jpgゑん二郎ㇵいへざくら(家桜)をおもひだし「かへるさつげるいぬざくら(犬桜)、くぜつ(口舌)のつぼミほころびし、そでをかぶろ(禿)が力ぐさ、ひかれてゆくやうしろかミ(後ろ髪)、こころつよくも(心強くも)きりがやつ(桐ケ谷)」といふもんくより、ほかのきやく(他の客)人のつかまるを、うらやま志きことニおもひ(羨ましき事に思い)、何の事もないに志んぞうやかぶろ(新造や禿)をたのミ、こつちから大門につけてゐて徒らまり、はおり(羽織)ぐらいㇵ、ひつさけてもだいぢない(ひっ裂けても大事ない)といふやくそく(約束)にて、ひきづられてゆく。 志んぞう、かぶろ(新造、禿)ハ、人形をもらふやくそく(約束)にて、むたをいゝいゝ、ひきずつてゆく。 艶二郎「これさ、まア、はなしてくれろ、こうひき徒られてゆく所ハ、とんだぐわいぶん(外聞)がいゝ」

 東京の桜はソメイヨシノが散り、今は八重桜へ。ここでは吉原の桜尽くし。「家桜」は、吉原仲之町に桜が植えられた(春に植え込み&撤去)ことを詠った「助六所縁江戸桜」挿入の関東節『桜尽くし』の一説とか。ここでは「縁語」のお勉強。「縁語=和歌の関連語・連想語を用いる修辞技法の、その関連語のこと」。「桜」の縁語「つぼみ・ほころび・力ぐさ」が使われている。「かへるさ」の「さ」は接尾語か。移動する動詞の終止形に付いて「~する時」「~する場合」の意の名詞を作る。

「犬桜=落葉高木。瓶を洗うブラシ状に咲く桜。見劣りするゆえの名」。芭蕉句に「風吹けば尾細うなる犬桜」。ブラシ状の花房が風が吹いて犬の尾のように細くなる、と詠っている。吉原からの朝帰り時に犬が啼く~から犬桜にかけている。小石川植物園に天まで届きそうな二本の木に「イヌザクラ」の札あり。今頃は咲いている頃かも。「きりがやつ=桐ケ谷」は一枝に一重と八重の桜が咲く種。

 「口舌=苦情、文句、口論。近世では男女の痴話げんか」(古語辞典)。「力ぐさ=力と頼むもの」。古語辞典には「力立て」など「力」熟語が多い。吉原の遊びはわからないが、ここでは「帰っちゃイヤイヤと引き止められるモテ男の気分になりたく、新造や禿に〝人形を買ってあげるから〟と引き止める演技をさせている。絵がゴチャゴチャしているので、こんな絵で省略した。


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(15)花魁の床入り~デジタル和印 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki12_1.jpg艶二郎「てまへがおれがとこへくると、あつちらの大じん(実は志庵)はやけをおこして、やりてやまわし(遣手や廻し)をよんで、こゞとをいふうちのこゝろもち(小言を云う内の心持ち)のよさㇵ、どうやすくふんでも五六百両がものはあるさ」 浮名「ほんニぬしはすいきやうなひと(酔狂な人)でござりんす」 志庵「おれがやくもつらいやくだ(俺の役も辛い役だ)。ざしきのうちㇵ大じんで(座敷のうちは大尽で)、とこがおさまる(床が収まる)と、まきへのたばこぼん(蒔絵の煙草盆)とおればかり。これもとせい(渡世)だとおもへバはらもたゝぬが、五ッふとん・にしきのよぎ(錦の夜着)でねるだけ、ぢにならねへ」

 金を使うが冷たくされる大尽の怒り・愚痴を、遣手婆さんや男の雑用係りからモテ男が伝え聞く~。そんな仕込みをして〝あぁ、いい気分だ〟とほざいている。「ふんでも=値踏みをしても」。「床が収まる=酒宴が終わって床入りへ」。「まきへ=まきゑ(古語辞典)」。上級遊女の部屋には「蒔絵」の煙草盆があるそうな。だが肝心の志庵の部屋には女郎はいず、艶二郎の部屋に行っていない。「五つふとん=三つ蒲団をオーバーに言っている」。「ぢ=痔ではなく=持=引き分け、あいこ」。 

 この辺は吉原を知らぬゆえ、洒落もピンと来ない。絵は五つ蒲団、蒔絵の煙草盆の部屋に志庵がいて、手洗い場の隣の煎餅蒲団の部屋に艶二郎。その間に乱れた衣裳の廓芸者・おゑんが部屋を移動中の構図。ここは、いやらしっぽく模写してみた。ここから先は「和」の世界だろう。

 浮世絵に「和印」「和本」は欠かせぬ。真面目に生きてきたあたしは、その意がわからなかった。「和=わらい本、わらい絵、わいせつの〝わ〟」。古書業やテキヤさんの間では春本・春画の隠語。合図は指で輪を作るそうな。今は昼間でも歌舞伎町を歩いていると、お兄さんが隠居のあたしにも「DVD、DVD」とささやいてくる。「和」もデジタル映像の時代となりにけり。


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(14)筆で細く真っ直ぐに [江戸生艶気蒲焼]

uwaki11_1.jpg艶二郎もとよりうわきもの(浮気者)なれバ、ふか川志な川新しゆく(深川品川新宿)ハいふニおよハず(言うに及ばず)、はしばし(端々)までかつて(買って)ミたれども。うきな(浮名)ほどて(手)のある女郎ハないとおもひしが、ひととふり(一通り)でハおもしろからずとおもへども、たゞまぶ(間夫)にならふといつてㇵ、むこふがふせうち(向こうが不承知)ゆへ、わるゐ志あんが名あてにて、うきなをあけづめに、じぶんㇵ志んぞうかい(新造買い)にてあい(逢い)、おもいれかね(思入れ金)をつかつて、此ふぢゆう(不自由)なところがにつぽん(日本)だとうれしがりけり。

 まぁ、二十歳かそこらで深川品川新宿は言うに及ばす~と、艶二郎は大変な放蕩息子。金にあかせて江戸中の岡場所で遊んできたらしい。性豪とも云えようが、残念ながらモテたことがない。

 「一通り=普通」。「名あて=表向きは志庵の名で」。「あげづめ=揚げ続け」。つまり志庵の名で浮名を連日独占させて~。自分は通といわれる「新造買=姉女郎の客が重なった場合に、少女遊女が性関係なしで時間つなぎの相手をする」をして~。「思入れ金=思い入れがたくさん含んだ金」を使って、この不自由さが「日本=日本一」だとエツに入っている。馬鹿の骨頂です。

 絵は手水鉢横に貼り紙あり「火の用心 一 居続御客不仕候(いづつけお客つかまらずそうろう=いたしません) 一 表二階ヨリ往来ニ芥捨不可候(ゴミすてるべからずそうろう)」。読み方はこれでいいだろうか。

 解説に「京伝は線画もさすが」の文あり。あたしも頑張ってみた。どうでぇ。この筆線の細さ、真っ直ぐさ。実は昔むかし、箸を握るように面相筆とガラス棒を持ち、直定規の溝にガラス棒の玉を滑らせつつ線をひく練習をやったことがあるんです。今はガラス棒も溝付き定規も持っていないが、ゼブラ筆ペンとサインペンを握り、平行線をひく三角定規に沿って線をひいた。これで高齢者諸症状による線の乱れも消えた。もう一度言わせてもらおう。「どうでぇ」


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(13)二十歳の艶二郎に四十路の妾 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki10_1.jpgゑん二郎、女郎かいにてゝ(買いに出て)も、うちへかへつてやきもちをやくものがなけれㇵ(家に帰って焼餅を妬く者がなければ)はり合がないと、きも入をたのミ(肝入を頼み)、やきもちさへよくやけば、きりやうㇵのぞまぬ(器量は望まぬ)といふちうもんにて、四十ぢかい女を志たく(支度)が金二百両にてめかけ(妾)にかかゑる。

艶二郎「きよねんのはる、なかず(中洲)でかつたぢこく(地獄)でㇵねへか志らん。志やうべんぐみ(小便組)などゝいふところㇵごめんだよ」 女「わたしをおかゝへなされましても、大かた女郎かいやいろごとで、わたしをおかまいㇵなされますまい」と、もう、すこしてミせ(手見せ)にやきかける。

 冒頭に艶二郎は「としもつづや(十九)はたち(二十)といふころなし」とあったが、それで四十路ぢかい女を妾にかゝゑる」とある。とんだ年増好きらしい。

「きも入=周旋屋」。校注に支度金二百両は異例の額とある。「中洲」は佐藤春夫『美しい町』、小山内薫『大川端』、永井荷風の「中洲病院」で、その地の歴史調べ&自転車で幾度も訪ねている。中洲には「舟まんじゅう」まであった「淫ら島」。ピンキリだったらしい。

「小便組=妾奉公で、わざと小便を漏らして解雇され、支度金をせしめる悪い手口」らしい。絵には「小便無用 花山書」あり。校注は「此のところ小便無用花の山」の其角句のしゃれとあった。よくわからないので興津要『江戸川柳散歩』を見る。~金屏風に紀伊国屋文左衛門が悪戯書きをした。これじゃ洒落にならぬと、其角が「花の山」と加えて句にした。この逸話から川柳に「小便に花を咲かせる俳諧師」があるとか。「手見せ」は手練手管の腕前を見せる。

 ややマンネリ気味ゆえ、今回は模写も頑張った。と云うのも実は抽斗から「ホルベイン・ガッシュ(不透明水彩)12色」が出てきたので、「白」を使ってみたくなってのこと。買った覚えがないんだが、さて~。


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(12)吉原の「ありんす言葉」 [江戸生艶気蒲焼]

ukina2_1.jpg ゑん二郎ㇵうきなやのうきな(浮名屋の浮名)といふて(手)のある女郎にきめてとうがとうなから(十が十ながら)ほれられるつもり(惚れられる積り)にて、いつぱいニミへをし、ぢばんのえり(襦袢の襟)ばかりいぢつていて、いろおとこもさてきのつまることなりとおもふ。

 喜之介「大こくやじやアねへか、なんでも女郎衆のそうろくだね」 志庵「モシおいらん、おまへをバ、せけんでとんだて(手)のある女郎だと申ます」 浮名「ちゃ(茶)をいゝなんすな、おがミんす」

 「て=手」は手練手管の手。客扱いがうまい。「とうかとうながら=十が十ながら=初めから終わりまで、すっかり、みんな」。「大黒屋」は吉原検番を創設した大黒屋惣六のこと。女郎の総元締め。「て」の権威の意。日本歴史人物事典にこうある。大黒屋庄六。吉原の検番を創設。烏亭焉馬が彼をモデルに浄瑠璃「碁太平記白石噺」に大福屋惣六の名で妓楼主人として登場させ、のちに大黒屋惣六として演じられた。

 「ちゃをいいなんすな、おがみんす」は吉原の「ありんす言葉」。「ちゃ=茶=茶々を入れる」で「茶々を言いなすな。頼むからやめてください」の意。「ありんす言葉」は全国から集められた女たちが各方言を遣っていたのでは情緒もなかろうと、方言・訛りなしの廓言葉を造ったとか。廓というひとつの言語国を作ったわけで、凄いアイデアです。

 くずし字は濁点が付いたり付かなかったり。江戸以前はまったく濁点なしとか。ゆえに例えば「てゝ」は濁点なしで「てて・手で・出て」で、さて、どれだろうかと頭をひねることになる。

 ここで当時の歴史のお勉強。『江戸生~』は天明五年春の刊だが、天明二年(1782)から西日本・東北から「天明の大飢餓」が始まる。天明三年には浅間山大噴火で東日本にも飢餓が拡大。津軽藩、南部藩、仙台藩だけでも餓死者五十万人とか。米不足は天明七年にピークで、江戸でも米屋や豪商が打ち壊し。百文で一升の白米が買えたが、この年はひと握りの米も買えなくなったとか。この頃、北斎は「春朗改め群馬亭」。歌麿は蔦重の許で修行中か。共に和印(春本)も書かねばとても食ってはゆけない。田沼意次が失脚して松平定信が筆頭老中になると、その和印も描けなくなる。(講談社刊『日本全史』、桜田常久『画狂人 北斎』などを参考)


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(11)京伝、蔦重は吉原案内人 [江戸生艶気蒲焼]

kucyami1_1.jpg 艶二郎、く志やミ(くしゃみ)をするたび、せけん(世間)でおれがうわさ(俺が噂)をするだろうとおもへども、いつこう二(一向に)町内でさへ志らぬゆへ、此うへは女郎かいをはじめてうきな(浮名)をたてんとおもひ、中の丁うハきまつや(松屋)へきたり。わる井志あん、きたりきのすけ(北里喜之介)などかミ(神)に徒(つ)れ、いつぱいに志やれる。

 女「せ川(瀬川)さんとうたひめ(歌姫)さんのうちをききにつかわしましたが、さつき小まつや(松屋)で、このもをミかけましたから、うたひめさんㇵてつきりおわる(悪)うござりませふ」「こびき丁(木挽町)でかうらいや(高麗屋)がぼくが(墨河)さんをするそうでござりますね」

 ★「かミに徒れ」は「神に連れ」・校注で「かみ=素人の太鼓持ち、取り巻き」とあり。さて、素人の太鼓持ちは、落語によく登場の「野幇間(のだいこ)」だろう。首をひねりつつ古語辞典をひけば、幾つもの意のひとつに、遊里語。大尽=大神にかけて、大のつかぬ「神」は取り巻きの意とあり。

 ★「瀬川(おす川)」は松葉屋(松田屋)の実在の名妓。文京(松前志摩守の次男・旗本三千石池田頼完)が五百両で身請けした。また当時の狂歌、戯作者らは大名御曹司、下級武士、町人、妓楼主人、遊女などが狂歌名で共に盛り上がる世界が形成されていた。京伝らの仲間の妓楼・扇屋の主人が墨河夫妻で、そこの名妓が滝川と花扇。彼女らも加藤千蔭の門下。ちなみに狂歌では吉原・大文字屋主人の加保茶元成(かぼちゃのもとなり)が有名で、妻は秋風女房。他に町民では湯屋の元木網(もとのもくあみ)、妻が智恵内子(ちえのないし)。裏長屋の大屋が大屋裏住(おほやうらずみ)、本屋の浜辺黒人、旅籠屋の宿屋飯盛、汁粉屋の鹿都部真顔などなど。

 ◎これは余談だが、いま明石散人『東洲斎写楽はもういない』を読んでいるが、まず始めに「東洲斎」は「トウジウ斎(とうじゅうさい)」と読まれていたと、えらくもったいぶって書いていた。「州」がシウなので「洲」もシウと間違えて読まれている。そして史料より「東洲」がジウと読まれた証拠を提示し「トウジウ斎」。だが狂歌の創始者・唐衣橘洲については触れていない。この名ならフリガナ付き史料もあろうに。「カラゴロモキツシウ」だろう。歴史検証を小賢しい小説仕立て。途中だが読むのをやめよう。

 ★京伝の最初の妻は扇屋の菊園(お菊)。お菊が三十歳で亡くなり、七年後に迎えた二度目の妻が玉屋の玉の井(百合)。ゆえに京伝が記す吉原関連書は常に遊女側に立って書かれているそうな。

 ★「中の丁」は吉原の真ん中を通る道。版元・蔦重も吉原生まれで、大門前に本屋を開いて『吉原細見』(ガイドブック)の成功から江戸の出版界へ。現・吉原跡を歩けば当時の道の名残りあり。また一画がトルコ(特殊浴場)街になっていたりする。

 ★「木挽町で高麗屋が墨河さんをする」は校注で、森田座で四代目・松本幸四郎が、墨河が素人芝居で「工藤」を演じたことから、「工藤」主役の『初暦閙(にぎわい)曽我』を上演ってことだとある。話が彼方此方にバラけたのでここまで。


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(10)艶二郎とパブリシティー [江戸生艶気蒲焼]

yomiuri2_1.jpg このうわさ(噂)、さぞ、せけん(世間)でするだろうとおもひんのほか(思いの他)、となりでさへ志らぬゆへ、はりあいぬけ(張り合い抜け)がして、よミうり(読売)をたのミ、此わけをはんこう(版行)ニをこして、一人まへ一両づつにてやとい、ゑど中をうらせる。

 読売「ひやうばん評判、あたきやのむすこゑん二郎といふいろおとこに、うつくしいげいしや(美しい芸者)がほれてかけこミました。とんだ事とんだ事。ことめいさい(明細)、かミ代はんこうだい(紙代販行代)におよバず。たゞじや、たゞじや」

 窓からの女「なにさ、かたもないことだのさ。ミんなこしらへごとさ。たゞでもよむがめんどうでござんす」

 ここで注目は天明五年(1785)で、マスコミ(読売)露出でPR(public relations)の一手法「パブリシティー(publicity)略してパブ」展開が行われていること。大江戸文化、恐るべしです。

 小生、実は昭和44年頃に某PR会社に勤務。日本のPR会社最初の頃で、入社時に梶山季之が同社によるCM権争奪戦の鮮やかな手際を小説にした『ベラチャスラフスカを盗め』(題名うろ覚え)が発表された頃。入社時に薦められたのが米国で確立のPR理論書。PRは大統領選挙活動より構築されたとあった。同社クライアントには政治家、芸能人、諸企業が名を連ねていた。

 例えば逆境にいる子が首相に手紙。これを読んだ硬派首相が涙する。情にも厚いと訴えたPR演出。同社社長は異業種を結びつけるシステムエンジニアリングをPRに採り入れた展開が得意だった。

 あたしは同社退職後にフリー。PR誌編集やレコード会社の歌手、楽曲のプロモート企画書などをペンダコができるほど書きまくった。艶二郎の依頼があれば、効果抜群の「艶二郎浮名のプロモート計画書」を書いてあげたのにと思った。


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(9)雅号、画号、狂歌名、戯作名 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki5_1.jpg かない(家内)の下女どものぞきミて「おらがわかだんな(若旦那)ニほれるとハ、せんけかこりうかゑんしう(千家か古流か遠州)かしらぬがとんだちやしん(茶人)だ」とさゝやく。

 ここでの「茶人」は物好きな変わり者の意だが、あたしの母はお茶が江戸千家、お花が古流のおっ師匠さんだった。戸籍名と俗称名と茶道名と華道名を持ち、名と顔を使い分けてい、子供心に羨ましかった。

 山東京伝の本名は岩瀬で、幼名は甚太郎。十三歳で伝蔵、改め醒(さとる)。戒名は弁誉智海京伝信士。画号は北尾重政に学んで北尾政演(まさのぶ)。狂歌名は身軽織輔。京橋の伝蔵で「京伝」だが、他に者張堂少通通辺人、臍下辺人、王子風車、醒醒斎、兎角亭亀毛、巴山人など。まぁ、江戸前の二枚目だが絵では京伝鼻のように、名も卑下た名が多い。比して昨今の作家は美男次女風名が多い。虚名を使うなら素顔は晒さぬがいいのに。

 おゑん「ミづからと申ハ、そも、よ(寄)るべさだ(定)めぬころひつま(転び妻)、この志んミち(新道)ニすミなれて、ひとのこゝろをうわきにする白ひやうし(拍子)てござんす。かやば(茅場)丁の夕やくし(薬師)で、こちのゑん二郎さんをうゑき(植木)のかげからミそめました。女ぼう(房)ニすることがならずハ、おまんまなとた(炊)いてもおりたいのさ。それもならぬとおつしやれバ、志(死)ぬかくご(覚悟)でござります」などゝちうもんどをり(注文通り)のせりふをならべたてる。

 艶二郎「ハテ、いろおとこといふものハ、どんなことでなんぎ(難儀)を志よふか志れぬものだぞ。もふ十両やらふから、もちつと大きなこへで、となりあたりへきこへるやうニたのむたのむ」

ばんとう(番頭)候兵衛「わかだんなのおかほ(顔)でハ、よもやこふいふ事ハあるまいとおもつたに、コレお女中、かどちがいでハないかの」

 艶二郎がおや弥ニ衛門、たのんだことハ志らず、きのどくニおもひ、いろいろといけんしてかへしける。

 「そも=そもそも」。「よるべ=寄る辺」で頼りとする所・人。古語辞典には「夫また妻をさす」ともあり。夫のいない「ころひつま=転び妻=お金で寝る女」。「白拍子=近世では遊女」。「茅場丁の夕薬師~」は薬師堂の夕方縁日。江戸時代には植木の露店が出て、男女の出会いの場になるほどの大賑わいだったとか。江戸遥かなり。


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(8)芸者おゑんに狂言を仕込む [江戸生艶気蒲焼]

uwaki4_1.jpg 絵は芸者・おゑんの家に志庵が頼みごとに来たところ。棚に三味線の箱がある。おゑんは帯締めなしの幅広い帯。わざわざ「踊り子」と記されてい、校注で「橘町・柳橋辺に多かった女芸者の称」。柳橋は神田川が隅田川に合流する辺り。橘町はその南側で現・東日本橋三丁目。当時はそんな色っぽい町だったとは想像し難い。

 ゑん二郎ハやくしや(役者)のうちへ、うつくしきむすめ(美しき娘)などのかけこむを、うわきなことゝうらやましくおもひ(浮気な事と羨ましく思い)、きんじよのひようばんのげいしや(近所の評判の芸者)おゑんといふおどりこ(踊り子)を、五十両にてやとい、かけこませるつもりにて、わるい志あんたのみきたる。志庵「これがたのみの、ともかくも、あやかり申て、ちとしゆつせのすじ(出世の筋)さ」 おゑん「かけこむばかりなら、ずいふんしようちさ」

 役者に夢中の女が、その家に駆け込むという〝狂言〟を仕込んだってこと。小生は隠居するまで音楽業界の片隅で生業ってきた。アイドルや演歌歌手に老若男女が夢中になる姿をイヤというほど見てきたが、自分には芸人に夢中になるって気持ちが微塵もなく、この辺のファン心理ってぇのがどうもわからない。

 さて五十両とは。先日、化政期貨幣の現代換算を勉強したばかり。一両が十二万八千円で、五十両は六百四十万円相当。当時の大工年収の二倍強。この話がいかに馬鹿げているか。

 おゑんを模写するも、うまく描けなかった。描き直せばいいが、基本はくずし字も絵も一発書き。谷峯蔵著『写楽はやっぱり京伝だ』に面白い分析あり。「写楽の病的線描と京伝の心臓疾患」で、写楽の病的線描は第二期に始まり、第三期に顕著になったと指摘。起筆の不安定さ、線の震え、よどみ、結滞。これらは同時期の京伝の心臓疾患と合致すると「写楽=京伝」説の判断材料のひとつにしていた。あたしの模写は筆で絵を描くが初めてに加え、老人性諸病症のデパートの感が否めぬ。

 追記:浮世絵の版下絵を描くには、墨や絵具がにじまぬように、まず紙に膠(にかわ)を水に溶かして明礬(みょうばん)を加えた礬水(どうさ)をひいておく。(宇江佐真理『寂しい写楽』より)


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(7)艶二郎と荷風の刺青 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki3_1.jpgゑん(艶)二郎ハまづほりもの(彫り物)がうわきのはじまりなりと、両ほうのうで(腕)、ゆび(指)のまたまで二、三十ほどあてもなきほりもの(彫り物)をし、いたい(痛い)のをこらへて、こゝかいのちだとよろこひけり。

吹き出し風に艶二郎「いろおとこ(色男)ニなるもとんだつらいものだ」

喜之介「中にちときへた(消えた)のもなくてハわるいから、あとでまたきう(灸)をすへやせう」

「バカだねぇ」。笑ってしまった。そう言えば永井荷風も三十歳で、慶應義塾大文学部教授の身でありながら、新橋の芸妓・富松(吉野コウ)と相惚れで、よほど情が昂ぶったのだろう、左の二の腕内側に「こう命」の刺青が彫られた。互いに彫り合うのだろう。後で荷風は「富松は近眼で細字では墨が入れ難く、その字の大きいことよ」と悔やんでいた。荷風は富松の身体のどこに「かふう命」と彫ったや。この辺のことは秋庭太郎著『考証永井荷風』に書かれている。荷風もエッセイ集『冬の蠅』の「きのふの淵」で、富松との出会いと別れを書いている。

刺青と云えば谷崎潤一郎のデビュー作『刺青』も思い出す。荷風が激賞し、谷崎青年は震えるほど喜んだ。谷崎は端からマゾ系変態だった。あたしは生まれ育ちが板橋と北区の境目辺り。子供時分は北区の銭湯、板橋区の銭湯の両方に通っていたが、時に倶利伽羅紋々の職人さんがいたような気がする。


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(6)遊女の封じ目 [江戸生艶気蒲焼]

 前回の続き文は… ふミ(文)のもんく(文句)にハ、だいぶでんじゆ(伝授)のあることさ。ふうじめ(封じ目)をつけぬと、ゑん(縁)がきれると申やす。ふミのすへ(末)へおさな(幼名)をかくよふになるとむづかしね。

 「文の文句」に校注(浜田義一郎)があって「女の恋の手紙」とあった。古語辞典で「文」をひけば上代では文書、書物、漢学、漢詩など広義だが、近世では「文=恋文」とあった。その「文」には様々な伝授があると言う。そのひとつが「封じ目」。今なら封書の封に「〆」。略字ではなければ「締」、または楕円形のなかに「緘(カン・とじる)」の字を捺印。それも今は姿を消した。

遊女は手紙を巻いた端を折り曲げて糊をつけ「封じ目」に「通う神」とか「五大力」と書いたそうな。「通う神=道祖神」で、恋の文・心が相手に届きますようにの願いがこめられた。「五大力」は京都・醍醐寺の「五大力尊」。歌舞伎や浄瑠璃の「五大力恋緘(こいのふうじめ)」で、芸子・菊子が三味線の裏皮に恋変わりせぬ誓いとして<五大力>と書く場面で…乁いつまで草のいつまでも~と唄い出される「めりやす」が流行ったせいか。

まるで子供の好奇心で、今度は「いつまで草」を知りたくなった。古語辞典では「何時迄草=木蔦(キヅタ)」の異名とあり。大きな木や壁に這い登ってゆく、あの蔦木だ。心変わりせぬはいいが、あんな感じでまとわりつかれたらイヤでございます。また植物書には「マンネングサの別称」。再び古語辞典で「万年草」は高野山や吉野に生える苔とあり。さて、この「めりやす」はどちらの植物をさしているのや。

そして本文末に遊女名ではなく「幼名=幼い時の名」を書くようになると、これは商売抜きの気持ちですよのメッセージ。

  

吹き出しは…艶二郎「とんでもない浮名の立つ仕打が、ありそうふなものだ」

志庵「ひつさきめ(裂き目)にくちべに(口紅)のついてるのハ、いつでもぢもの(地者)のふミでハねへのさ。どねへにじミ(地味)でもミヽ(耳)のわきニまくら(枕)だこのあるのでしゆうばいあがり(商売上がり)ハ、ソレじきにしれやす」

 

校注では、遊女が巻紙を切るに口で濡らして裂くので口紅がつく。それが特有の色気になると説明されていた。今は手紙もメールになって、色恋の情緒もなくなった。 「ぢもの(地者)=素人娘」。「どねへに=どのように」だが、これは江戸弁っぽい。今でも遣われる。「枕だこ」から遊女だとわかるとは恐れ入谷の鬼子母神だ。あたしはキーボード以前の万年筆時代のペンタコが今でも残っている。


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(5)京伝作詞の「めりやす」 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki2_1.jpg ゑん二郎ハきん志よ(近所)のどうらくむすこ(道楽息子)きたりきのすけ(北里喜之介)、わるゐ志あん(庵)といふたいこいしや(太鼓医者)なぞとこゝろやすくして、いよいようわきなことをくふうする。

喜之介「まづめりやすといふやつが、うハきにするやつさ こいつを志らねばなりやせん。およそひとの志つた、口ぢかひ(近い)めりやすのぶん、小くちのところを申やしやう」

 

ここから「めりやす」の題名六十余が列挙されるので略。当時は「めりやす」大流行だったか。●「めりやす=萩江節」。語り系新内節より軽い唄。短編長唄。ネット検索で「めりやす」正本へ。それはひらがな・くずし字。二曲ほどを手前勝手解釈の漢字、句読点付きで記してみる。間違いは御承知下され。まずは『あけがらす』から…

 乁たまに逢ふとよ、逢えば短(みじか)、夜に愚痴を言ふまい、飽きられまいと、心で心窘(たしな)めど、好いたるぐわ(側)の味なきや、眠い眠いを擽(こそぐ)り起こし、訊いて下んせ、初不如帰(ほととぎす)、東雲(しのゝめ)近き鐘の音、恋し床(ゆか)しい夏山茂み、黒い羽織を跡から見れば、塒(ねぐら)出て行く明がらす。

 もう一曲。『きゞす』の抜粋を。乁雉子(きゞす)鳴く野辺の若草摘み捨てられて、人の嫁菜といつか、さて、焦がれ焦がるる苦界の舟の~(略)~虫さへも番(つがい)離れぬ揚羽の蝶(てふ)、我々とても二人連れ、粋な同士の中なのに、菜種は蝶の花知らず、蝶は菜種の味知らず。知らず知られぬ仲ならば、浮かれまい物(もの)~

 

meriyasu5_6.jpgこんな感じの内容。抜粋だが、十分に江戸の浮気の表現豊かな情緒がわかろう。佐藤至子著には『通言総籬』に京伝作詞のめりやす「すがほ」が詠われる場面の会話が紹介されているが、肝心の「すがほ」詞の記載がない。京伝作詞、節付けは泰琳(荻江露友)。天明六年六月一日に吉原仲の町の茶屋・長崎屋でお披露目。京伝は子供時分から音曲を習っていたから、作詞はお手のものだったろう。

再び早大図書館のデータ公開『通言総籬』より「すがほ」が唄われる場面(写真左)をくずし字初心者のあたしが読んでみる。「乁水無月も、流れは絶へぬ浮世の岸に、夜舟こぐ手にふり袖の、顔に籬のあとつくほどに、はでな浮名の手習いも、くさめくさめのやるせなく…」(顔に籬の跡が付くほど待ち焦がれる派手な恋修行をすれど、くしゃみするたび噂が気になって切ないよぅ)とでもいう意か。間違いチェックをよろしく。

 

「惚れたはれた」が辛かったら、しゃれた文句に三味の音、粋な歌声の「めりやす」「新内」で身悶えるも恋の味。しかし今は想いが叶わぬといきなり殺傷に及ぶ世になってしまった。


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(4)色恋の情緒は新内で [江戸生艶気蒲焼]

sinnai1_1.jpg最初の絵は、艶二郎が寝そべって本を読んでいる図。読んでいるのは新内節正本の『帰咲名残の命毛(かえりざきなごりのいのちげ)』と『仇比恋の浮橋(あだくらべこいのうきはし)』。艶二郎が<「玉木屋伊太八」や「浮世猪之介」がうらやましいなぁ>と呟いてい、その主人公が上記新内節。

★艶二郎に浮気の夢を膨らませた新内節正本とは。探せば「近代デジタルライブラリー」(写真)や「新潟大学・古文書・古典籍コレクション・デース」に新内節正本『帰咲名残の命毛』があった。当然ながら「くずし字」。しかも寄席文字(ビラ文字、橘流)風で読むも難儀。

『帰咲名残の命毛』は延享4年(1747)の実際の心中未遂事件がモチーフ。津軽藩士の伊太八と吉原遊女・尾上の心中未遂を、武士を町人にして艶っぽく仕上げているそうな。現・日本橋南詰「滝の広場(日本橋川遊覧船の発着場)」が当時は「罪人晒し場」。彼らが最初の「晒し刑」とか。

新内は子供時分にラジオから流れる柳家三亀松の「新内流し」を聴いたうろ覚えがある。「岡本文弥」関連本を数冊読んだ折に、氏の新内カセットも聴いた。今はナマで聴くなら「邦楽公演」だろうが、本来は色街でしっぽり濡れた雰囲気の中で耳にするものだろう。荷風小説を読むと、そんな情緒たっぷりの描写が随所に出て来る。明治、大正には生きていた芸だろうが、今は歌舞伎よりも遠くなってしまった。

 

余談は続く。どんなネット経路かを思い出せぬ(二度と辿りつけぬ)が、懐月堂安度による肉置(ししお)き豊かな年増の、それは見事な極彩肉筆春画を見た。そこで懐月堂(出羽屋源七)を調べれば「江島生島事件」がらみで伊豆大島流刑とかで興味が湧いた。しかも懐月堂安度は英一蝶に私淑。その一蝶もまた三宅島流刑から江戸に戻っている。師弟共に流刑とは驚きなり。さて安度こと源七は、伊豆大島でどんな流人暮らしだったろう。

 そこで時代小説『江島團十郎』を読んだ。著者・早瀬詠一郎はなんと「岡本文弥」弟子で「岡本紋弥」。今では貴重な「新内語り」の一人とかでまた驚いた。新内語り&時代小説作家らしい。彼の時代小説は芸の内幕に詳しい。しかし同小説には残念ながら懐月堂安度は登場せず。そこで流刑史や伊豆大島史などをひもとくことになったのだが、ここは『艶気樺焼』に戻らなくてはいけない。次は「めりやす」…
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(3)仇気屋の艶二郎 [江戸生艶気蒲焼]

 uwaki1_1.jpg本文に入る。…こゝに百万両ぶげん(分限)とよはれ(呼ばれ)たる、あだきや(仇気屋)のひとりむすこをゑん(艶)二郎とて、とし(歳)もつづや(十九)はたち(二十)といふころなりしか。ひん(貧)のやまひ(病)ハく(苦)にならす、ほか(他)のやまい(病)のなかれかしといふミ(身)なれとも、しやうとく(生得)うハきなことをこのミ、しんないぶし(新内節)の正ほん()などをミて、たまきや(玉木屋)伊太八、うきよ猪の介が身のうへをうらやましくおもひ、一生のおもひでに、このやうなうきな(浮名)のたつしうち(仕打ち)もあらば、ゆくゆくハいのちもすてやうと、ばからしき事を心がけ、いのちがけのおもひ付をしける。(画の一部も模写した)

 

●「ぶげん」は分限、ぶんげん。その人の社会的身分、地位、財産等を示す語。身のほど、分際。小池正胤著『反骨者 大田南畝と山東京伝』では、この絵の右側の暖簾にオランダ商館マーク入りを指摘。仇気屋財力を物語ると記す。(左にそのマークを入れておいた)

●「あだきや」は仇気屋。古語辞典では「あだ=徒」で、浮気なさま、心変りのさま、不誠実。「徒気(あだけ)=浮気、好色」「徒徒(あだあだ)しい=誠意がない」。ならば仇より徒が良かろうや。男が「徒気(あだけ)」で、女は「婀娜(あだ)」っぽいがいい。

●「ゑん二郎とて」。「郎」のくずし字は「ら」みたいと覚える。「とて:体言に付いて、~と言って、~と思っての意」。『江戸生艶気樺焼』刊の2年後、天明七年の洒落本『通言総籬(つうげんそうまがき)』で同書の主人公らが再び登場。「艶二郎」は「艶治郎」。「あだきや」はやはり「仇気屋」になっていた。★『通言総籬』は早稲田大学図書館公開のデータベースで読める。そこに「吉原では金持ちの野暮を“艶二郎”と云うほどに『~艶気蒲焼』が流行した」との記述があるそうな(佐藤至子著)。

●「なりしか」の「しか」は「然」。そのように、さようで、このように。●「貧の病は苦にならず、ほかの病のなかれかし」は河東節一説から。●「なかれかし」の「かし」は終助詞で意味を強める語。「さぞかし」の「かし」も同じく意味を強める語。念を押す「なのだ」の意。●「しやうとく=生徳」。生まれつきもっていること。

●「うきなのたつ志うち」。今も売名にこの手を使う芸人あり。「志うち=仕打ち=他人に対する行い、振る舞い、やり方」。●「しける」は「し+ける」。

 絵には吹き出し風に「こういふミ(身)のうへニなつたらさぞおもしろかろう よい月日の下で生れたてやひ(手合い=連中)だ」。次は「新内節」について。


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(2)艶気と“京伝鼻” [江戸生艶気蒲焼]

kyoudenkao_1.jpgedohyousi_1.jpg 題名『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうはきのかばやき)』は「うなぎの蒲焼」のもじり。化政期文人の先輩格・平賀源内が「土用の丑の日」に蒲焼を食うことを広めたが、京伝の源内へのリスペクトもあるやも。深読みすれば江戸前の「蒲焼」は美味も、調理前は醜い。粋と野暮を含んでいる(端からオリジナル解釈)。

 

まずは法大総長就任決定を祝して田中優子先生の『江戸の恋~「粋」と「艶気(うわき)」に生きる』(集英社新書)より「艶気」について。…江戸の恋は「好色」と言ったり「浮気=艶気」と言ったりする。それが江戸の恋の、もう一つのいいところである。浮気とはつまり、地に足がついていない、現実世界からはぐれているという意味だ。~略~。(恋が)切ないならばそれもいい。夢が覚めたらそれもまあ、しかたがない。固くてひんやりした地面も、なかなかいいもんだ。それが江戸の恋である。

…フムフム。大田南畝も酔狂から覚めれば下級武士「徒組」。京伝も「手鎖50日の刑」に処される運命にあり。浮気と現実。ゆえに「好色・浮気(艶気)=セックス・助平」ではなくて、恋心の切なさ・辛さ・厳しさを気遣い・教養・芸をもって昇華するが「江戸の“粋”な恋」だと。それらが小唄、端唄、歌舞伎、浄瑠璃、黄表紙などに昇華され、それらを愉しむ心の余裕が肝心とおっしゃっている。

次に『江戸生艶気樺焼』の主人公・艶二郎について。この解釈は京伝関連書の著者それぞれゆえに、ここは私流解釈がいいだろう。まず注目は、実際の山東京伝は江戸っ子らしい細面の鼻筋通った粋な優男容貌(1の似顔絵)で、彼は三十年余に亘って描き続けた戯作主人公の顔が上を向いた団子鼻。“京伝鼻”。ここに鍵があると推測する。

つまり作者・京伝は、戯作の主人公を“京伝鼻”にすることで「フィクション」を貫き、自身を晒さぬことを貫いた。京伝鼻=艶二郎が“野暮”の典型なら、その裏の本人は“粋”の領域に居ると読みたい。売名せず、自慢せず、騒がず。謙虚で控え目、シャイ。人生や恋の厳しさ・辛さ・哀しさも騒がず静かに心の遊びへ昇華する「粋」の心持ち。

この図式の他に「江戸っ子」図式はもう一つある。「やせ我慢」に通じる「鯔背な粋」に比して傲慢、強欲、自慢、力のひけらかし「硬派野暮」の図式もあろろう。この辺はおいおい記すことにして、いざ本文へ。

 

『江戸生艶気樺焼』は天明五年(1785)の日本橋通油町の蔦屋重三刊(板)。上・中。下巻構成で題字が楷書、行書、草書になっている。「気」は旧字「氣」で逆ガンダレの寸縮まったくずし字。「樺」は旁の「華」が「花」のくずし字。

 絵は『江戸生艶気蒲焼』の前年刊『志やれ染手拭合』に早くも登場の京伝鼻の手拭デザイン。なお“京伝鼻”については、佐藤至子著『山東京伝』が詳細考察している。
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(1)荷風~南畝~京伝へ誘われ [江戸生艶気蒲焼]

kyoden1_1.jpg『黄表紙』はひらがな中心ゆえ、どうにか読めるようになった。目下は山東京伝『江戸生艶気樺焼(えどうまれうはきのかばやき)』(絵は京伝自身の画号で北尾政演、天明五年・1785年、蔦屋重三郎板)を愉しんでいる。「どうにか読める」だけではつまらぬゆえ「筆写」しつつ、その文章を味わい親しんでいる。

 まずはじめに「山東京伝」への興味経過から記す。そもそもは「永井荷風」好き。荷風は「大田南畝」好きで、彼の年譜も作成。南畝の人生が面白く、あたしも南畝好きになった。南畝は牛込御徒町(現:新宿区中町)生まれ。荷風は欧米から帰国後は大久保余丁町の父の家に在住。共に“新宿仲間”。

南畝は十八歳で平賀源内の序文で『寝惚先生文集』でデビュー。漢詩、狂歌、黄表紙、洒落本で江戸後期代表の文人となり、「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた。ずっと牛込御徒組の小さな家に在住も、56歳で初めて自分の家を小石川・金剛坂に持った。偶然ながら荷風生誕地も同じく金剛坂。大田南畝が黄表紙評判記『岡目八目』で、山東京伝『御存知商売物』の絵と文を絶賛して、京伝人気が不動になった。京伝は南畝より十二歳下で深川木場生まれ。十三歳から銀座に移って浮世絵を学んで画号は北尾政演。

 

 寛政改革が彼らを襲った。南畝は吉原「三保崎」を身請けして妻妾同居を始め、狂歌仲間と連夜の宴。危険を察知して仲間と交際を絶って「学問吟味」合格で難を逃れた。一方、京伝は手鎖五十日の刑。版元・蔦屋重三郎は財産半分没収。寛政五年、煙草入店を開店直後に、妻お菊死亡。寛政十二年、お菊と同じく吉原の玉ノ井(百合)を妻に迎える。京伝の机塚は浅草に、墓地は回向院(写真)。話が長くなるのでここで止める。

 

 かくして荷風~南畝~山東京伝の『江戸生艶気蒲焼』に至る。より京伝に近づくべく遊びの始まぁ~り。ここで当シリーズは小学館『日本古典文学全集』の「黄表紙・川柳・狂歌」編収録の山東京伝作・北尾政演画(京伝の画名)『江戸生艶気樺焼』、浜田義一朗校注(昭和46年刊)を手本に筆写しつつ、小池藤五郎「山東京伝」、小池正胤「反骨者大田南畝と山東京伝」、森銑三の京伝関連随筆、佐藤至子「山東京伝」をはじめとする京伝関連書・関連文を参考に、自分調べも加えた自分流解釈でやってみる。

目的の第一は覚えつつある「くずし字」を忘れぬこと。第二は山東京伝を身近に感じたく。第三は江戸文化を知るため。絵は鳥橋齋栄里。京伝の四十代の顔。


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