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『甲驛新話』引用・書籍一覧(34) [甲駅新話]

 早稲田大学・古典籍総合データベース『甲駅新話』(原本)、小学館『日本古典文学全集』の「洒落本・滑稽本・人情本」「黄表紙・川柳・狂歌」、岩波書店『日本古典文学大系』の「川柳・狂歌集」、永井荷風全集より『大田南畝年譜』、『森銑三著作集』第一巻・第十巻、浜田義一郎『大田南畝』、佐藤至子『山東京伝』、新宿歴史博物館刊『特別展 内藤新宿』、『蜀山人 大田南畝と江戸のまち』、岡本綺堂『新宿夜話』、『江戸東京切絵図』、『絵本江戸土産』(画・広重)、『江戸名所図会』(画・長谷川雪旦)、芳賀善次郎『新宿の散歩道~その歴史を訪ねて~』、安宅峯子『江戸の宿場町新宿』、野村敏雄『新宿っ子夜話』と『新宿裏町三代記』、鳥居民『横浜富貴楼お倉』、三田村鳶魚『未刊随筆百話』の「岡場遊郭考」、成覚寺ご住職のお話とプリント資料、久生十蘭『鈴木主水』、喜安幸夫『大江戸番太郎事件帳(ニ)』、新宿区地域女性史編纂委員会『新宿女たちの十字架』、中央公論社『洒落本大成』第九巻収録『甲驛新話』続編の『粋町甲閨』、旺文社『古語辞典』(第十版)、児玉幸多編『くずし字解読辞典』、岩波書店『広辞苑』(昭和三十年版)。


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遊女投げ込みの成覚寺‐Ⅱ(33) [甲駅新話]

muentou_1.jpg 「子供合埋碑」と「旭地蔵」は新宿区指定有形文化財。その説明板も設置されていたが、「子供合埋碑」奥の、箕輪「浄閑寺・新吉原総霊塔」によく似た「無縁塔」には文化財指定がなかった。何故だろうか。

 「子供合埋碑」は安永五年から明治五年まで約二百十七名が弔われているとの説明だったが、住職が下さったプリントには「戒名をつけず、或はこっそり埋葬したこともあったとすれば、これを上回る数になると思われる」の一文あり。多くの旅籠屋が規制外の遊女も抱えていただろうから、こっそり埋葬も伺える。そんな場合は「無縁塔」に弔われたか。昭和四十四年刊の芳賀善二郎著『新宿の散歩道~そ歴史を訪ねて~』に、この「無縁塔」についてこんな記述があった。

 ~無縁塔は遊女・行路病者などの無縁の死者を弔ったもので、三河屋大助という宿屋の親分が、天保八年(1837)に建てたもの。大助は牛太郎(客引男)で、遊女を一手に集めて方々の遊女屋に世話することを商売にしていた者で、新宿宿場では侠客としてとおっていた。

 ちょっとハッキリせぬ文だ。大助は牛太郎(客引男)か、女衒(ぜげん)か、旅籠屋主か、はたまた侠客か。「行路病者(こうろびょうしゃ)=飢えや病で旅の途中で行き倒れた者」。・そして芳賀著には成覚寺の項の冒頭に~

 「明治三十年ごろまで、遊女の待遇は犬猫同様の取扱いで、死んでからも着物ははがれ、髪飾りは取りあげられ、情をかけられても経帷子ぐらいをかけられるだけで、たいていはさらしもめんにお腰一枚で送り込まれてくる。拾文女郎と呼ばれた低い遊女は米俵に屍(しかばね)をくるんだまま投げ込まれてくる。その数は約二千二百人位といわれる」

 出典元はわからないが、いやはや大変な数字が出てきた。それほど多くの遊女らが戒名もなく葬れれ、この無縁塔に弔われているのか。ちなみに「拾文」とは江戸後期のかけ蕎麦十六文から、いかに酷い扱いだったかが推測される。

 野村敏雄著『新宿裏町三代記』に、昭和三年の調査が紹介されていた。新宿の遊郭戸数は五十三軒、娼妓数うは五百五十八人。遊興費規定は特等深夜・席料玉代各二円五十銭=計五円。三等深夜だと席料玉代各一円で計二円。つまり三等娼妓が泊り客をとると、客から入るのは二円。そのうち席料の一円は楼主。残りの一円を楼主と娼妓が折半。定規の取り分は五十銭。ここから六割を前借金として差し引かれ、実際に得るのはに十銭。これで食事、化粧、衣裳、医薬、日用品、風呂代まで賄う。絶対に稼げない、むしろ借金が増える仕組み。まさに底なし沼の地獄。多くの死者が出たことが伺える。

 今度は新宿区地域女性史編纂委員会編の『新宿 女たちの十字架』をひもとく。同著には明治六年の「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」による公娼制度以後の状況が詳しく報告されていた。同年、旧旅籠屋十七名(軒)の連名で「貸座敷」の許可を得、従来からの飯盛女は三百七十五人。加えて引手茶屋から「貸座敷転業」が十一軒。十五歳から二十代前半までが全体の八割。

 明治二十四年から三十六年までの成覚寺過去帳より作成された七十三名の娼妓死因は結核二十三、脚気十六、梅毒五。意外や性病より結核の死亡がずば抜けた数字。明治期の吉原もまた同じだったように推測される。そう云えば江戸末期にはコレラが大流行した年もあった。新宿の昭和十一年の娼妓数は七百四十一名、貸座敷五十三。売防法施行は昭和三十一年(1959)。江戸の旅籠屋時代より、明治以降の公娼性度以降の方がより劣悪だったようにも感じるが、どうだったのだろうか。

 芳賀善次郎著『新宿の散歩道』の掲載写真は左から無縁塔、子供合埋碑、白糸碑ろ並んでいて、今とまったく逆の配置になっていた。他にも「南無阿弥陀仏」の墓標に「山口屋寄子中」と刻まれた墓碑が片隅にあった。これは同旅籠屋で働き亡くなった男衆らの合同墓碑らしい。

 こう記して、新たに不明部分が出てきたが、機会があればまたご住職に「無縁塔」と「子供合埋碑」の違い、江戸時代と明治六年の公娼制度以後との違い、日清・日露、また第二次大戦時の遊郭状況なども伺ってみたいと思う。

 なお内藤新宿の旅籠屋(妓楼)が現・新宿二丁目(成覚寺の西側一画)に移転したのは大正十年(1921)。現・新宿二丁目は明治二十一年から「耕牧舎」という牧場で、舎主はなんと芥川龍之介の父・新原敏三。龍之介は明治25年生まれ。だが発展途上の新宿に牧場はそぐわぬと大正二年に郊外に移転させられた。跡地「牛屋の原」に大正七年の警視庁令で江戸時代からの旅籠屋が移転。大正十年に全軒移転完了。昭和三十三年の売春防止法まで遊郭・赤線だった。今はゲイ・ホモの街で、朝までオネエ言葉で盛り上がっている。

 この「成覚寺訪問記」を遊女らの供養として『甲驛新話』終了。次回に引用・参考本一覧をあげる。


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内藤新宿の投げ込み寺・成覚寺‐Ⅰ(32) [甲駅新話]

seikakuji_1.jpg 『甲驛新話』登場の女郎は二十二歳の三沢さん、嫌な客には「あしか」となる綱木さん。田舎客の骨を抜く折江さん。茶屋の女将(後家)も女郎上がりと説明されていた。メモでは鈴木主水に惚れられた「橋本屋」白糸さん。ハナが落ちた勢州楼の玉河さん。内藤新宿を廃駅に追い込んだ内藤大八の馴染が「信濃屋」千鳥さん。豊倉屋の女郎から横浜・富貴楼女将となって明治の政治家、財界人の間で大活躍したお倉さんが登場した。

 年季を無事に勤め上げるか、お倉さんのように身請けされるかして苦界を脱した女性たちはどれほどいたのだろうか。廓で病み亡くなって、投げ込み寺に葬られた方が多かったようにも思われる。吉原の投げ込み寺は箕輪「浄閑寺」で、内藤新宿は「成覚寺」だった。

 永井荷風は「浄閑寺」を訪ね、「余死するの時は、娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」と記した。荷風四周忌(昭和38年)に「新吉原総霊塔」前に詩碑と墓碑が建てられた。詩は「偏奇館吟草」より「戦災」の詩が刻まれ、墓碑に遺歯二枚と愛用筆が収められて筆塚とされた。

kodomogoumaihi_1.jpg 荷風の真似は出来ぬが、『甲驛新話』完読にあたって、遊女らの霊を供養して〆るのがいいだろう。靖国通りに面した成覚寺を訪ねた。「寛政の改革」で自害した(だろう)恋川春町の朽ちかけたお墓は、すでに幾度か参っているが、遊女らの掃墓は初めて。

 本堂に向かって左側に「子供合埋碑」あり。その左の枝垂れ梅の奥に「鈴木主水」の〝白糸塚〟。「子供合埋碑」前に新宿区指定有形文化財歴史資料として説明板あり。こう記されていた。 ~江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。

asahijizou_1.jpg 読んでいると、ご住職が声をかけて下さった。『甲驛新話』を読んで言うと、丁寧に説明して下さった。成覚寺が投げ込み寺になったのは享保元年(1718)の廃駅から約五十年後の明和九年(安永元年、1772)の復驛から間もない安永五年(1775)からとか。なんと『甲驛新話』刊の翌年である。明治五年(1872)までに二百十七名(大半が十六歳から二十三歳)が埋葬されたそうな。はっきりした数字や年齢が把握されているということは〝過去帳〟があってのことだろう。

 「惣墓=共同墓地」。この「子供合埋碑」は実際に埋葬した「埋め墓」とは別の「拝み墓」。実際の「埋め墓」でお参りすれば〝霊が付く〟と嫌われて、旅籠屋仲間が協力して造った「拝み墓=供養碑」だと説明下さった。

 もうひとつ、恋川春町の墓の説明文と並んで、新宿区指定有形文化財歴史資料「旭地蔵」説明あり。~「三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(1800)から文化十年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうち七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客たちであると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。別名〝夜泣地蔵〟とも呼ばれていたと伝えられる。明治十二年(1879)七月道路拡張に伴いここに移設された。宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。

 寛政十二年の翻迷信士と環浄信女から、文化十年の松野屋での心中、離間信士と照闇信女まで十九人の戒名が刻まれ、横に施主名の碑。豊倉屋、伊勢屋、中村屋など二十四の旅籠屋名が並んでいた。成覚寺の説明では、その後の大黒屋の心中が武士と遊女で、「享保の改革(吉宗)」で情死を〝相対死〟として厳しく取り締まるようになって、以後の情死は表沙汰にしなくなったのだろうと説明。そして気になったのが「無縁塔」だ。吉原・浄閑寺の「総霊塔」にどこか似ている。(続く)


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最後は「跋=あとがき」(31) [甲駅新話]

koeki25_1.jpg粋(すい)とハ梅干、野父(やぼ)とハ鶏の名かときくやうや、新宿田舎にあやめ咲とはしほらしと、ぞめきの声、有頂天にひゞき、ヤツサコラサの息杖(いきつえ)坤軸(こんぢく)にこたへて、茶屋ハどんどん(人が入る)、拍子木かちかち。草鞋うる老父(ぢゞ)もいきはり(意気張)を覚へ、団子商ふ賤女(かゝ)もよしなんしとはねかけ、桑田変じて海道の繁昌を、唯一冊に書しるせしもの、二日酔のちらちら目に見れハ甲驛新話とあり。嗚呼、吾党いき(粋)ちよんの君子をして、これ(内藤新宿)にあそばしめば、即(すなハち)、其尻つまらざるにとかゝらん。随行散人随帰(ずいと行く、ずいと帰る散人)の枕上に跋(ばつ)す。安永乙末秋(安永四年) 新甲館蔵書

 「跋:ばつ=あとがき」。「粋とハ梅干」は、酸い(粋)も甘いもの酸い=梅干の洒落。「野父とハ鶏」はヤボとチャボの語呂合わせで鶏。そんな答えが返ってくるような田舎の新宿で、あやまが咲くとはかわいらしい、と言っている。

 「ぞめき=騒」。ぞめくこと、浮かれ騒ぐこと、冷やかしの客。「息杖」は駕籠かきや重い荷を担ぐ人がひと休みする時に、物を支えたりする杖。あたしは若い時分に山男だったので、荷上げの歩荷(ボッカ)さんが、背負子の後ろに支え棒をついてひと休みする姿を見た記憶がある。

 「坤軸」は広辞苑に、大地の中心を貫き支えていると想像される軸、地軸とあり。「よしなんしとはねかけ」は廓言葉で、客の戯れ言葉に〝よしなんし〟と返している光景。「尻つまらざるにちかゝらん」は尻が詰まらん=おもしろくて止まらない。

 以上で『甲驛新話』完。最後に内藤新宿の投げ込み寺・成覚寺を訪ねたく思います。


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茶屋に戻った谷粋と金公(30) [甲駅新話]

koeki24_1.jpg<谷>よしか、遅いくれへだぞ。サア、金公けへろう、けへろう

<金>そんなら着けへて(着替えて)来やせふ ~と下へ <三>も一所におりて~

<三>あんなにいひじらけ(言白け=言い争って座を白けさす)にして置ちやア、おかしゐもんだね

<金>ナニサ、うつちやつて置なせへ

<三>そんなら、ぬしやアかならずちけへ内に来なんしよ、谷粋さんとやらハどふでモウ来なんすめへ

<金>廿七八日時分に来よふ

<三>けふハ三日(二十三日)だね。そんなら待て居いすよ

~<金>着かへる内を待かね <谷>二階よりおりる~

<谷>どふだどふだ、きつい感通(通じ合う)だの。人のこゝろも知らねへで

<金>サア、もふよふごぜんす

<五郎>モウ、ひとりの女郎衆ハヘ

<谷>よしさよしさ

<三>どなたも憚りもふしんした(失礼しました) ~金公がせなかをつつきて~ ほんにへ

<金>アイ、おさらば

<谷>三さわさん、おやかましうごぜんしたろう

<三>アイ、そんならどふぞ、又此頃にお出なんし

<谷>正月の十二三ある時(そんな時はない)に来やせふ

<三>きついあいそうさ。おさらばへ

<半兵衛>ごきげんよふ。又おちかい内に

<金>おせ話おせ話 ~くぐり戸がぐらりぐらり(廓の朝の常套句。門・戸が閉まって、脇のくくり戸から出る)~

<五郎>夕べハどふでごぜんした

<谷>ナニモウ、いめへましいふんばりよ。寝てばかり居やあがつたから、いざこざをいつたら怖がつて下たつけが、よくよくおそろしそうで、けへるまでつらも出しゑへねへ。金公なんざあとんだ事よ。

<五郎>ミさわさんのほんにーが気に入やせんよ

<金>ナニサ、谷粋さんを、なんでも連もふして来い、とつてさ

<谷>おれをば、とつぽどおそれて居よふよ ~いろいろはなしの内にさかミやの門ト~

<後>おはよふござります。サア、お上りなさりまし

<金>イイエ、もふ遅く成やした

<谷>モウ直にいきやせう

<後>そんなら煮ばな(煮端=煎じたての香味のある茶)を一ッあがりまし。~脇ざし、笠など出して~ 夕べの残りを上ませう ~と前きんちやくへ手をかけるを~

<金>~おさへて~ 何よしさ。取て置な

<後>それハありがとうござります

<谷>そんなら、おさらば

<後>ハイ、左様なら。又どふぞおちかい内にお出なさりまし

<金>アイ、おせわに成りやした

<五郎>どなたも御きげんよふ

<後>モシ、お羽折のお衿がまだおれません

<金>アイ、さあ、おさらば・おさらば

〇夏の夜は、まだ宵ながら明ぬるを、知らせよふとて烏がかあかあ、鐘がごんごん(天龍寺の鐘。今も明治通り沿い山門あり。中に入って右手に時の鐘がある)、舂米屋ががつたりがつたり(玄米を搗く店の臼の音)。

 

 『甲驛新話』の挿絵は金公と谷粋の姿を描いた一点だけで、あとは行替えなしの全文棒組み。それでは読みずらいし、おもしろくもないので、今の会話文体裁のように会話毎に行替えし、内容に即した絵をあちこちから探して模写絵を加えた。シリーズ(4)で金公を、(5)で谷粋の絵を別々に模写したが、物語の最後で元の絵のように二人揃った一枚絵に戻した。

くずし字、江戸言葉の勉強に加えて筆ペンでの絵の模写は、いずれはオリジナル、たとえば筆ペンでさらっとスケッチでも描けるようになったらいいなぁとの魂胆がらみ。さて、思い通りに行きましょうか。

くずし字はひらがな中心の山東京伝の黄表紙『江戸生艶気蒲焼』、そして今回の漢字交じりの大田南畝(山手馬鹿人)洒落本(遊里文学)を筆写、読み書きしたことになります。洒落本は次の世代に十辺舎一九『浮世道中膝栗毛』、式亭三馬『浮世風呂』や『浮世床』の〝滑稽本〟へ。さらに為永春水『春色梅児誉美』などの〝人情物〟へ発展して行きますが、今度は何を読みましょうか。おっと、あと一頁。あとがき「跋」が残っていました。


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「おっせんす」と「ごぜんす」(29) [甲駅新話]

koeki23_1.jpg~<金・三>も来て~

<金>谷粋さん、こりやアどふでごぜんす

<谷>まあ聞てくんねへ。宵から今までふさり(臥さる=うつむく。ふす。ねる。江戸語)やあがつて、ちつと起したとつて、そつちこつち(其方此方=そちこち=あれこれ)いやあがるから、あんまりいめへましい(ネット調べをしたら甲州弁辞典で=くやしい。谷粋は甲州出身か)

<金>それでも、おめへでもごぜんすめへ(校注:通人のお前ににあわないだろう。この「ごぜんす」については後述)。しづかにおつせんしな。

<三>アイサ、お腹のたつ事がおぜんしても、志づかにおつせんすりやアようおぜんす。

<谷>なんだな、おめへ方まであじに並びを付て(校注:いっしょになってだが、「あじ」は手際よく、こざかしく、調子に乗っての広辞苑にあり)おればつかりつき出す(広辞苑:遊女に始めて客を取らせる、が出てくるが、校注:悪者にする。)のか

<金>どふしておめへを突出もんでごぜんす

<綱>ナニサ、おかめへなんすな、わたしもそうおふにハつとめ(相応には務めた=裏意ではイタした)いした

<谷>又口を出しやアがる

<三>綱木さん、おめへハ、マア、あつちへいきなんし

<綱>アイ、そんならゑへよふにお頼もふしんす ~と立ってとなりのざしきへはいり~ 哥松さん、おやかましうおぜんせう~

<哥松>アイ、なんだなむづかしねへ

<綱>ナニサ、もふいつそすきいせんよ

<哥>たばこを呑なんせんか

<綱>まあ、往て来いせう

<三>成ほど、お腹の立事もごぜんせうけれども、どふぞきげんを直しておくんなんし、わつちがどのよふにもあやまりいせう

<谷>そりやアもふ、思しめしおかたじけなふごぜんすが、あんまり安くするからのこつてごぜんす。そしてマア、おめへの前じやアいひにくうごぜんすが、こゝれへ来てあつかわれた(ここ新宿に来て安っぽく扱われちゃ)といつちやア、どふもげへぶん(外聞)が悪ふごぜんす。大きな声をしていふがミめ(見目=面目)でもねへけれども、あんまりでごぜんさあナ

<三>ほんに綱木さんも悪ふおぜんすが、あの子も若ふおぜんすから、気が付なんせん、そしてぬしも ~金公が事~ きげんよく居なんす事でおぜんから、ちつとハ御ふ肖(不肖=父に似ないおろかなこと、とるにたらないの意だが、校注=胸に収めて。校注の判断元を知りたいものです)もなんして、マア、お休みなんしよ

<谷>ナニサ、今からけへろうの何のと、おやしき物かなんぞのよふに、いやミからミをいふのじやアごぜんせん

<三>そりやアもふ、何おめへを悪く思ひす物でおぜんす。堪忍せへしておくんなんせバ、何も申事ハおぜんせん

<金>モウ、夜があけるそふだ。阪見屋も来やせふからきげんを直しなせんし

<谷>ナニサ、きげんを直すの直さねふのと、寝起のやゝさまじやアあるめへし

<三>コレサ、そんな事をおつせんしちやアふしが立て(角が立つ)悪ふおぜんす、なんでもわつちにおくんなんし

<五郎八>~ろうかより~ はい、お迎でござり、あす

<三>五郎どんか、とんだ早いね。サア、這入てたばこを呑なんし

 

 ここでは遊里語の「おつせんす」と「ごぜんす」について記す。「おっせんす=おっしゃります。(言う)の尊敬語と辞書にあり。 「ごぜんす」は辞書になく、こう判断した。「御ぜんす=おぜんす=おぜえす」。こう変化すると考えれば「おぜんす」は辞書にある。「おぜんす=おぜえす=「ある」の丁寧語でござります。あります」。「ございます、ござんす」に当たるが、それより敬意の度は低い。「ございます」のありんす言葉は「ござりんす」。文脈から「ある」と判断したが、これで正しいとした。

 江戸言葉については、以前調べたことがあって数冊の辞典が本棚にあり、子供時分を思い出すべく志ん朝落語口演本も読みこんだ。一方、遊里(廓)言葉は広辞苑に載っている言葉もあれば、載っていない言葉も多い。校注者はどんな資料でどう判断したのだろうか。

中野栄三著『江戸秘語事典』は6081円。真下三郎著『遊里語の研究』は古本で2700円(定価は1万円位か)、『江戸語大辞典』は古本で6042円。『江戸語辞典』は定価で20520円。隠居遊びゆえ、そこまではいらんように思うが、まぁ、古本市で安く出廻っていたら購いましょう。
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嫌な客には「あしか」になる(28) [甲駅新話]

koeki22_1.jpg二階座敷 <谷>是これ、ちつと起ねへ

<綱>ウゝゝ

<谷>是さ、用があらアな、目をさましなせへ、コウコウ

<綱>おがミいす、寝かしておくんなんし

<谷>マア、ちよつとこつちよヲむきなせへよ

<綱>エゝモウ、うるせへ。よしなんしよ

<谷>エゝ、何だ、此ふんばり(下等遊女を卑しめていう語)やア。ゑへかとおもやあがつて、あめへことば(甘い言葉)を懸りやア、つきあがりのしたびろうどべりのぼんござに寝ると思て、めつたに大きな面アしやアがる。なんぼ高くとまつても、たかゞ飯もりだ。此よふな貧乏屋てへ(屋台)でやすくされるよふなやろうじやアねへよ。惣(そう)てへいめへましい(すべていまいましい)、~と、たばこぼんをほうり出す。火ハなし(ト書きですね)~

<綱>~おき上り~ もしへ、何のこつでおぜんす。おつせんす(おっしゃりたい=廓言葉だろう)事があるなら、しづかにおつせんしたがよふおぜんす。新ぞう衆(若い遊女)じやアおぜんすめへし、怖がりもしゐすめへ

<谷>くそをくらやアがれ。しずかにいおふが高くいおふが、おれが銭でおれが買た座敷で、おれが口でおれがいふに、何の頓着(とんちゃく、とんじゃく=深く心に掛けること、気づかい)が有もんだ。それが悪かア、いわれねへよふにしやあがつたがゑへハ

<綱>わつちも、勤る所ハつとめて置ゐした。(イタすことはイタしたって意だろう)

<谷>何だ、勤た。あんまり虫がゑへ。百合若大臣(舞曲、浄瑠璃、歌舞伎の復讐物の主人公で、闘った後に三日三晩眠りこけたとか)の娘だかしらねへが、あしかから五節句を取るほどふさり(伏さる、臥さる=寝る)やあがつて、人聞(きとぎき)のゑへ。第一、うぬが名からして気にいらねへ。蕎麦切へ入る饂飩の粉(つなぎ)じやアあるめへし、つなぎだのなんだのと、おしのつゑへ(押しが強い=我が強い、ずうずうしい)。つなぎよりやア、
つばき(唾液)をなめてゑへ風だ。

 

全編会話構成で、場面説明(ト書き)を小文字で記入。『甲驛新話』はそのまま脚本として使えそう。 「おぜんす=おぜえす=〝ある〟の丁寧語。ございます、ござんす、あります」廓言葉。「つきあがりしたびろうどべりのぼんござに寝ると思て」は、「付き上がり」は丁半博打の張札。ビロウド縁の盆御座に寝ると思って、大きなツラをしやぁがる、と言っている。 「あしか」はよく寝るの代表的存在。五節句=七草、桃、菖蒲、七夕(笹)、菊の各節句にだけ起きるとか。その五節句もないほど寝ていると怒っている。綱木は酒事の会話から、ボソッと「嫌なヤツだ」とつぶやいていたから、寝りこけるのは確信犯だとわかる。

芝全交作・北尾重政画『遊技寔卵角文字』に、それにピタリの絵があったので模写した。ご丁寧にも絵の横に「よくねるあしかのよふだ」と書かれていた。当時の流行り言葉でもあったのだろう。
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メモ:豊倉屋お倉、明治を操る(27) [甲駅新話]

okura_1.jpg 内藤新宿で代々旅籠屋(妓楼)総代を務める大見世が豊倉屋。太宗寺の斜め向かい。ここに安政三年(1856)、谷中生まれの伝法でちょいといい女(19歳)が身を売った(遊女)。彼女の活躍逸話の数々は横浜に移ってからだが、それまでの人生も面白いので、ここに記す。

 父は丑五郎、祖父は川村屋徳次郎。一家は浅草堂前の私娼窟の店頭(たながしら)で、かつ十手持ち。「天保の改革」で岡場所取り壊し。一家は裏営業をつづけて摘発された。父は三宅島へ、祖父は流刑地の大島で亡くなった。(大島の流人墓地を探ってみましょうか)

 かくして一家離散。六歳のお倉は浅草・馬道の夫婦に育てられた。娘になると水茶屋に立ち、一枚絵に描かれるほどの評判美人になった。鉄砲鍛冶の鉄六と恋仲に。所帯を持つが、安政大地震で鉄六は大怪我。まとまった金を得るために内藤新宿の旅籠屋に身を売った。金を鉄六に渡して「ちょっと風呂に行って来る」と家を出たまま姿を消した。行く先は豊倉屋。たちまち人気を得て、座敷持ちの女郎になる。今度は遊び人・亀次郎に惚れて、山谷堀の芸者・小万と競い合った。

 大田南畝が「詩は詩仙、書は米庵、狂歌はおれ、芸者は小万に、料理八百善」と詠った小万だが、お倉に会って身を引いた。しかし亀次郎の遊びの尻拭いはきりがない。同じ内藤新宿「菊池屋」に移り、ここで八丁堀の与力・高橋藤七郎に身請けされて妾宅へ。亀次郎と切れずが発覚して放逐される。今度は品川「湊屋」へ。身代金の百五十両はむろん亀次郎の懐へ。ここでは金座の役人・誉田に二百両で落籍されて妾宅へ。またも亀次郎と脱走して、今度は吉原の引手茶屋「新尾張屋」の芸者に。吉原を逃げ、大阪を逃げ(大阪では芸者ではなく芸子)、さらに蒸気船に乗って横浜へ逃げた。

 そこまでくっつき通した遊び人・亀次郎の祖父、父は植木屋。祖父の代に青花の石斛(せっこく、ラン科)を持っていたことで吹上奉行の目に止り、吹上御所の庭仕事を請け負う。十一代将軍は風蘭(ふうらん、ラン科)も好きで、風蘭の中でも特に素晴らしいのが「富貴蘭」。これを献上した褒美に、将軍から「富貴」なる書をいただく。これが後の横浜「富貴楼」命名へ。さらに加える。父の代になって飯田町から高田馬場は穴八幡辺りへ移転。広大な植木畑に職人と小作人合わせて百人。「穴八幡周辺に植木屋多い」の記述をどこかで読んだことがあるが、その植木屋の一人が亀次郎の父らしい。

 横浜芸者時代に、井上馨と両替屋・糸屋平八の密会場所として小料理屋を持たされ、それが「富貴楼」の最初。店は次第に大きくなり、併せてお倉は明治の政治家、財界人を自在に手玉にとる大女傑になって行く。富貴楼・お倉を贔屓の政治家は伊藤博文、後藤象二郎、大熊重信、陸奥宗光、松方正義、西郷従道など。大臣参議も富貴楼で行われ「お茶屋の内閣」と言われたそうな。

 お倉の本名は「渡井たけ」だが、彼女は内藤新宿「豊倉屋」での遊女名・お倉で生涯を貫いたそうな。この文は鳥居民著『横浜富貴楼お倉』と野村敏雄『新宿っ子夜話』よりまとめたもの。より詳しくお倉を知りたければ、鳥居著巻末に「参考・引用文献一覧」が載っている。内藤新宿の旅籠屋には、こんな遊女もいたというお話でした。


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田舎客の骨を抜く女郎(26) [甲駅新話]

koeki21_1.jpg<孫>去年の正ぐわち(正月=しょうがつ、しょうがち、しやうぐわち)、御年頭に出府のヲして(領主の江戸屋敷に新年の挨拶をして)、けゑりがけにふと晩とまつてから、たげへに根性ぼね(骨)のヲぶちまけるよふに成るたアも(心底割って惚れあった)、前世のゑんにんぞく(因縁ずく?)だんべへよ

<折>なんでも、わつちやア、ぬしの所へいきゐすによ(どんなことがあっても、私はあなたといっしょになりますよ)、又いなかで性悪をしなんすなよ

<孫>でへせんもん(大誓文=起請文)、お身さまに(そなた、あなた様に)あにを(豈=決して)見けへべへ(見返ない、裏切らないの意だろう)

<折>なんぼ、ぬしがそふいひなんしても、先から(先方の女から)しかけられなんしたら、只ハ置なんすめへ

<孫>それに付(つい)て咄(はな)しがあるよ、去々年(おつとし)うらが国の生土(おぶすな=産土=うぶすな。土地の神様、氏神様、鎮守様、産土様)の祭りが有て、かぶきのヲした時に、うらも役者に成(なつ)てな、かやの勘平(忠臣蔵の早野勘平)のヲしたら、あにがはあ、江戸役者のよふだあとつて、ぢよなめいた(なまめかしい雰囲気)アほどに、隣村の庄屋アどんのおまんじよう(嬢=娘の名の下に付ける敬意語。名・おまん+嬢)が、がら(まったく)うつ(まるまる)ぼれて(惚れて)んの、おめへまいらせそるべく候(女性の手紙の決まり文句)の、惚証文(ほれぜうもん=恋文)のよこしたア事よ。それからあ、おき名(浮名)が立て、村中取ておつけへしたアよ

<折>それ見なんし

<孫>イゝニヤサ、それもはあ、今じやア、おつぱなれたア(離れた)から、あぜ、りん(悋)気する事ハおざんねへ

<折>ほんにかへ、真実わつちをかわいゝと思ひなんすなら、さつきの事を忘れなんすなへ

<孫>アニ、わすれべへ。かたびらふたあつ(帷子=単衣物)とふとへ物(?)だの、モウ、あに(何)もいらねへか

<折>どふも、そんなに、ぬしに斗(ばかり)ハ、いひにくふおぜんす

<孫>アゼ、そんなにきやく心(隔心)だア、あんでもいひなさろ

<折>そんならいひすよ、アノンネ、小遣にしいすからね

<孫>金か

<折>あい

<孫>いくらべへ入(いる)な

<折>弐両ばかりおくんなんし

<孫>あしたやるべへよ

<折>遅くつてもよふおぜんす、いつそわつちやア、気の毒でおぜんすけれども、外(ほか)に客衆がおぜんせんから

<孫>アニサ、お身さまがいふ事ハはあ、おでへかんさま(お代官様)のお触だア、とおもふもの

<折>ほんにかへ、いつそ嬉しうおぜんすよ

<孫>嬉しかア、こつちへ寄なさろ

<折>待(まち)なんし、ゆかたが引かゝつていひす

 

 「じょなめく」をはじめに方言っぽい語が多いが、広辞苑や古語辞典をひけば、意外や意外ちゃんと載っている言葉が多かった。文字筆写は「くずし字辞典」で、新字体に直してからは「広辞苑」「古語辞典」。辞書ひき遊びでも御座います。

物語は隣座敷でも〝濡れ場〟へ。金公の相方・三沢も手水から帰って来て〝濡れ場〟でしょう。あちこちの座敷でウハウハ。そこで模写絵は故意かうっかりで〝濡れ場〟を見て、アンレマァと驚いている男衆。参考にしたのは歌麿の〝和印〟から。物語は二階の谷粋と綱子のカップルへ移ります。


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居続け田舎客と女郎の~(24) [甲駅新話]

koeki20_1.jpg<隣座敷><折江>アノ、ぬしやア、あすも居なんすかへ

<田舎客孫右エ門>まだ三晩げばかりもいちづけ(居続け)のヲ、すべへさ(「する」の田舎言葉)

<折>そんなに居なんして、首尾(事のなりゆき)が悪くハごぜんせんか

<孫>アニサ、今度もうら(「おら」の転。俺、おら)は、お地頭さま(ぢとう。小領主や代官か))の御用事で出たアに依て、「あぜ(何=なぜ、どうして)町宿(一般の町人宿)へさがらずと、おやしきにとうりょう(逗留)しろ」とつて、せち(「切=せつ、ひたすら、しきりに)におとゞめなさつたアけれども、お屋敷にとまつたア時にやア、御門(門限)がげへに(校注:とても)やかましくつて、出べへにも入(いる)べへにも、やれ切手(通行許可証)だあ、事の引手だあのとつて、おつくうだアから、君に逢事(あふこと)がならねへと思案のして、「あんでも(校注:なんでも)町宿へさがらねへじやア、御用事が弁じ申さねふ(用事が済まない)」と、ちくのヲ(常陸・下野の方言で嘘)ぶん抜いて(嘘を言い放って)、町宿さあに居るもんだアから、アニ(なあに)はあ、三晩げや四晩げ、いちづけのヲしたアとつて、あぜふすべへ

<折>夫でも、ひよつとおやしきの御用が有たらどうしなんす

<孫>そのよふなア、ぐん(段取り)もして置たアよ

<折>どうしてへ

<孫>定(じょう)づけへの与太郎を宿さあに置たアから、御用事があれバ、ふとつぱしり注進のヲする申かわしだアよ。もしハア、ちんじちうやう(珍事中夭=思いがけない災難)で、間にあわねへとつても、御家老さまでもあんでも、ひでんの入るもなァねへ(不明だが、苦情の入るものはねぇ、のような意だろう)。あぜといつて見なさろ、こらいつちやア、どふかはあ、みそをあげる(味噌を上げる=自慢する。手前味噌を並べる)よふだあけれども、うらが曾祖父(ひゐじい)の代から、でけへ御用金の出して置もんだから、あにハア、寝せべへとおこすべへと、うらが心儘(こころまゝ)だあよ

<折>ヘエ、そんなら田舎でも、さぞ、ミんながこわがりいせうね

<孫>そりやア、はあ申にくいこんだが、新田のヲ、孫右衛門といつちやア、誰しらねへ者もねへ。分限(金持ち)のヲ内でも、一といつて二たアさがらねへよ

<折>わつちやアね、ぬしが此月はじめに来なんす筈で、来なんせんから、いつそ案じいしたよ

<孫>アニ、ちく(下野の方言で、嘘)だんべへ

<杉>そんなら、誰にでも聞て見なんし。法印(山伏)さんを頼(たのん)で八卦を置たり、待人(まちびと=逢えるようにとのおまじない)をしたりしゐしたものを

<孫>いかさまハア、縁ぞく(縁が結ぶ、とでもいう言い回しか)といふもなア、あじなあもんだよ

 

 前回記した通り〝和印〟は出版されるようになったが、江戸時代の書籍は学者、好事家、大学などに秘蔵され、一般の人が見るのは叶わなかった。それが、なんということでしょうか。昨年末あたりから各大学などが蔵書する古典書籍類を次々にデータ公開するようになってきたじゃありませんか。この『甲驛新話』もしかり。今まで古典文学全集の新字体で読む他になかったのが、早稲田大学図書館のデータ公開で初めて原本(版)を読むことが出来ました。この積極公開に至る経緯はわかりませんが、なんと素晴らしいことでしょうか。感謝・感激・大絶賛です。このブログ『甲驛新話』は、公開データを祝しての歓びの表明でもあります。

 〝一般公開〟の反対が隠蔽、隠匿、秘蔵、秘密でしょう。昨今の行政は、なぜか時代に逆行して隠蔽方向です。「特定秘密の保護に関する法律」で国民の知る権利を奪い、先日は内閣決議で「集団的自衛権」とか。こちらは憲法の勝手解釈。今の内閣陣の顔を見ますと、とても信用できる顔ではありません。狸か狐か。そう思えるのも無理はなく安倍晋三の選挙区は山口県で、副総理・麻生太郎は福岡県。あたしには縁遠い存在。知らない人なんですね。そんな彼らによる勝手解釈の「内閣決議」で、日本が変わって行くのは、なんとも怖く、嫌な感じです。個人情報保護法だって逆に名簿流出が止まりません。どこでどう調べるのか、セールス電話の多いことよ。まずは江戸書籍のデータ公開活発化に大絶賛・大感謝です。


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あじな仕打ちに会話も途切れ(23) [甲駅新話]

koeki19_1.jpg<三>オヤ、それよりうへかへ

<金>六さ

<三>とんだ若いね。わつちが年をあてて見なんし

<金>コウト、二度目の厄年(数え三十三歳)が過たろう

<三>ばからしい。よしておくんなし。又くすぐりいすよ

<金>アゝ、そんならほんにいおふ。二十三か四だろう

<三>よく見なんした。二でおぜんす。女といふものはふける物だねへ。谷粋さんとやらハへ

<金>いくつだか知るらねへ

<三>オヤ、連衆(つれしゅう)の年を知りなんせんかへ

<金>ナニサ、そんなに心やすかあねへ。一座ハ今夜が初だもの

<三>ほんにかへ。いつそよく口をきゝなんすね

<金>こうまん(高慢)ばかりいふよ

<三>新やしき(大名屋敷を後に武家屋敷にした地)かへ

<金>ウゝ

<三>ぬしやア、何所だへ

<金>わつちも新やしきさ

<三>嘘をつきなんし。今度からひとりで来なんしよ、という事もねへさ、おさげすミも知らねへで(さげす「蔑」まれているとも知らないで~と卑下している)

<谷>来ねへでどうするもんだな。しかし十日ほども前から仕廻(しめへ)を付ずハ、いつでもさしだろう。(今風に言えば、十日間ほど前から指名をしておかなければ差し=他の客と差しあうことになろのだろう)

<三>又、てうし(調ず=整える、調理する、懲らしめる、いじめる。ここではいじめる)なんすか

~と今度ハおき上り、金公がうへえ乗かゝり、こそぐる。是よりあじなしうちに成り、はなしもとぎれ、しばらく有て~

<金>アゝ、あつく成た

<三>うちわを上んせうか

<金>ウゝ、かしな

<三>手水に往て来いすよ

<金>そんならどふぞ。茶を一盃持て来てくんな

<三>ソレ、見なんし。人の呑なんせんかといふ時ハ呑もしなんせんで 

~といひながら、かやを出て、びようぶ引あけ、ろうかをばたばた。あとハ金公一人成。世間も物おとしづまりて、となりの咄、手にとるごとく~

 

 『甲驛新話』は艶っぽい場になったが、隣座敷の会話へ移る。妓楼(旅籠屋)とて、隣座敷とは襖一枚。耳を澄ませば秘め事も筒抜けか。これは庶民の長屋とて同じ。暮らしぶりも秘め事も明け透け。晒し晒されて、大らかに笑って生きる他はない。

 江戸文化に関心を持てば浮世絵は欠かせぬ。浮世絵なら〝和印〟も無視できぬ。そこに〝覗き・盗み聞き〟は当然として描かれている。まぁ大らかなことよ。しかし、ここにお上の手が入るとねじ曲がる。

堅物・松平定信「寛政の改革」は衣食住に限らず、出版統制にまで及んだ。隠密を市中に放ち、隠密を見張る隠密も放ったとか。こうなると大らかさは地下に潜り、隠蔽され、陰湿になり、息苦しくなってくる。暮らしから笑いも消える。蔦重は財産半減、山東京伝や喜多川歌麿は手鎖の刑。恋川春町は自害に追い込まれた(内藤新宿の投げ込み寺=成覚寺に彼の朽ちかけた墓あり)。

ついでに言えば、後の「天保の改革」では芝居小屋移転や七代目市川団十郎の江戸追放。戯作者では為永春水(手鎖50日)や柳亭種彦(執筆禁止)などが処罰されている。

お上は怖い。嫌いだ。明治になると庶民が知らんうちに「ミカドの民」となって「大日本帝国憲法」で、戦争に突っ込んで行った。隠密に代って憲兵・特高・秘密警察・公安が暗躍し、日本の大らかさは遥か遠い過去のものになった。

「表現豊かな春画の秘部を、黒く塗りつぶした野蛮な時代がようやく終わりを告げたことを、喜ばずにはいられません。日本の近世・近代のセクシュアリティの研究は、これでようやく本格化するでしょう」 上野千鶴子(東大文学部教授)

これは河出書房新社刊、林美一+リチャード・レイン共同監修『定本 浮世絵春画名品集成』の推薦腰巻の一部。1990代末に24巻刊。一巻1600円~2800円ほどで、今は「古本市」で500800円ほど。あたしは先日の池袋の古本市で五冊購った。

かくして〝和印〟は刊行に至ったが、日本はねじ曲がり、深く病み、もうあの頃の大らかだった時代には永遠に戻らぬ。失ったものは計り知れない。
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上になったり下になったり(22) [甲駅新話]

koeki18_1.jpg<金>もふちつと咄してお出なせんし

<谷>どふもかゝあがやかましいよ

<綱>エゝ、あつかましいのふ

<三>そんなら、お出なすか。お休なんし

<綱>ハイ、あなた、おやすみなんし

<金>あゐ。御きげんよふ

<綱>三沢さん

<三>アイ、もふめへりやすめへ

<金>谷粋さん明日、ホンニ寝忘れたら、どふぞ起しておくんせんし

<谷>サア、おさらば・おさらば

<三>モシモシ、たばこ入が有いすよ

<谷>オット、ありが・ありが ~<谷・綱> 二かゐへ。<谷・三>ハかやに入る。

<三>手をたゝく <はる>来ル~

<三>はるのか、是、エゝ子だからの、よふく火をいけての(蚊帳の季節に火をいける?=炭に灰をかぶせて=煙草の火だねか)。そして茶も一ツ持て来てくりや

<はる>あい

<金>跡のほうをよく押付なせへ、蚊がへへろうよ

<三>じよさいハおぜんせん(如才=手ぬかり、はありません)。よふくしいゐした

<金>今夜もあついのふ

<三>それでも、いつち爰の座敷が涼しうおぜんすよ 

~<はる>火入、茶持来ル~

<三>ヲ、よくした・よくした

<はる>ぬるうごぜんす

<三>ヲイ、よしとし。往て寝や

<はる>アイ、お休なんし

<三>茶を呑なんせんか

<金>いやいや

<三>たばこハへ

<金>たばこもいや

<三>オヤ、きついあゐそ(愛想)づかしさ。そんならおらも呑めへ ~とうちわ取て遣ひながら金公が方へ風の行よふにする~

<金> アゝ、ゑへ風だ

<三>是ばつかりお気に入いしたの

<金>まだ気に入た事が有のさ

<三>なんだへ

<金>なんでもさ

<三>サア、いひなんし

<金>外でもねへ、美しい所が気に入た

<三>ナゼ、そんな事をいひなんす ~と、こそぐる~

<金>アゝ、御免だ・御免だ。どふもそれでもうつくしい物を

<三>まだいひなんすか

<金>アゝ、あやまつた・あやまつた

<三>そんならだまつて寝なんすか

<金>寝るとも・寝るとも

<三>ぬしやア、年ハいくつへ

<金>あてて見な

<三>あてんしようか。二か三でおぜんせう

<金>三十か

<三>ナニサ、二十のうへがさ

<金>こりやア、ありがてへ。酒でもかをふ

 

 以上の文を読んでいると「言文一致」は、江戸後期・近世文学で、すでに確立していたのではあるまいかと思われる。ちなみに「言文一致」を辞書でひけば、こんな説明になる。

~日常用いられる話し言葉によって文章を書くこと。また、特に明治期を中心として行われた文体改革運動をいう。明治初期より、その運動ならびに実践が行われ、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが小説に試み、明治40年代以降、小説の文体として確立した。その後、次第に普及して、今日の口語文にいたっている。

 ちなみに二葉亭四迷は『小説神髄』『当世書生気質』の坪内逍遥アドバイスで、三遊亭圓朝の落語口演速記を参考にした、は有名なエピソード。改めて言うまでもなく、この『甲驛新話』は全編会話文で構成。しかも郊外から内藤新宿に馬をひいてくる馬子らの方言丸出しの会話、加えて次に出てくる隣座敷から聞こえる田舎客孫右衛門と遊女・折江の会話の妙。

 すでにこの時代の戯作で「言文一致」はとうに完成されていたと言えそう。坪内逍遥も江戸戯作好きだったとか。「文言一致」の説明は、江戸後期の黄表紙や洒落本の時代にすでに確立されており~と記すべきじゃなかろうか。
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メモ:鳶魚『岡場遊郭考』の新宿(21) [甲駅新話]

naitoumokei_1.jpg 三田村鳶魚(えんぎょ)『岡場遊郭考』に、内藤新宿の記述あり。同随筆は同氏編で昭和二年より三年間にわたって刊行された『未刊随筆百種』の二十三冊に収録。昭和五十一年に中央公論社より『鳶魚全集』が出た際に、同社より姉妹出版の形で全十二巻の形で再刊。お目当ての『岡場遊郭考』は第一巻に収録。さっそく図書館でひもといたが、内藤新宿の記述はわずか六頁だった。その一部を紹介。

 まず『世俗奇語』に云~とあり、こう引用されていた。~此地、甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和安永の頃ハ殊之外盛んなり、陰見世には美服を著し、紅粉の粧ひ、恰も吉原におとらぬ春花を置たり、見世は三人ツゝはる事なり。

 次の『江戸図解集覧』に云とあり。~今按(したべ)るに、旅籠屋政田屋・和国屋・国田屋・山田屋・高砂屋など玉揃といふべし、山崎屋は越後国の玉多し、料理よろし、政田屋は美玉にてきやんなり、岡田屋は座敷奇麗なれば、人のたとへに政田屋の玉ならべ、山崎屋の料理にて、岡田屋の座敷にて遊ばんといへり。吉原よりも女郎来る事あり、茶屋は山科屋を第一とす、当時南北の国より賑ふ所なり、安永の始に三光稲荷祭りの際、上総屋(今品川へうつる)の前より橋本屋迄往来を袴せ、橋燈籠を懸たり、近頃度々此祭りに怪我ありて、今はかくの如き事なし。又北横丁に双蝶菴又八(当時市ヶ谷自性院前にあり)といふ者あり、新宿の判人にて、女郎のとや内、双蝶菴にて養生す。(写真下は三光稲荷、現・花園神社の祭り風景)

aisatu_1.jpg 『江戸名所図会』の「四谷 内藤新宿」の絵の余白に「節季候の来てハ風雅を師走かな」の芭蕉句が書かれ、年末ゆに見世仕舞いしたのだろう、格子が開け放たれた見世前に、節季候(せきぞろ=年末に店先で踊り囃しでお金を乞う)が来て、見世前を通る様々な人が描かれている。その見世脇の用水桶に「和国屋」の文字。さて、どんな店かとずっと気になっていたが、推測していた通り旅籠屋(女郎屋)だと判明した。

 「三光稲荷」は現・花園神社。「とや」は梅毒。「判人」は遊女の身売り保証人になる人、女衒(ぜげん)。この文より遊郭には当然ながら性病(特に梅毒)の危険があったことが伺える。野村敏雄著『新宿っ子夜話』の「ハナの散るらん」なる章あり。

akibajinnjya_1.jpg 嘉永元年(1848)に廓内で二、三百両も使って大名行列をした(それほど儲かっていた)勢州楼に、明治中頃に越後出身の十八歳「玉河」というお女郎がいた。彼女が明治二十九年の新宿大火前に「秋葉(神社)さま(左写真。現・地下鉄の新宿御苑前駅出入り階段口の横)の屋根に白い鳥が飛ぶのを見た。白い鳥が飛ぶと大火事がある」と予言。下町(現・一丁目)一帯、街道の両側二百四十三戸が全焼した。その「玉河」さんが、後に「とやについた」。「とや=鳥小屋=冬毛に換わるために羽毛が抜けるので鷹を鳥小屋に入れる=遊女が梅毒で髪が抜け、養生のために仕事を休む=鳥屋につく=鳥屋籠り」。そして、ハナが落ちた後の悲惨な人生が描かれていた。

 『岡場遊郭考』に戻る。次は寛政二年の「明寛秘録」よりとして ~吉原と同じく繁盛したので吟味があった。部屋持女、黒塗之箪笥、食売女のちりめんにお叱りがあり、以後、衣服は木綿、女は三人までの御達しが文が転載されて、二十三の旅籠屋名が列挙。旅籠屋名入り地図も掲載。最盛期は茶屋、大見世の総数八十軒余とも記されていた。(写真上は新宿歴史博物館の内藤新宿の街並み模型)


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しっぽりと蚊帳の中へ(20) [甲駅新話]

koeki17_1.jpg<三>そりやア、ほんにぞんじゐせんで、おかまゐも申しいせん。サア、下へお出なんし ~と金公が手をとる~

<金>今にいきやす

<谷>畜類め、つれていきたがるの

<三>ぬしのおじやまに成ゐせふかとおもつてさ

<谷>いらぬお心遣ひさ。まだ、かんじんの相手が来ねへもの

<三>今にお出でなんすのさ。

<金>おめへも下へお出なせんし

<谷>そんなら往て見よふか

<三>~金公が帷子、羽折を持て~ 何かをわすれずに持ていきなんし

<金>こうと、よしよし、さあさあ ~三人ともおりる~

<金>何所だ・何所だ

<三>爰でおぜんすよ

<谷>是ハ、エゝおすめへだ。しかし、へつつゐがねへの

<三>おがミいす。よしなんし

<谷>へつつゐの代に、きりきりす籠が二ツあるが、中には何も居ねへの

<三>此ぢう客衆に貰ゐしたが、つい逃ゐした

<金>どうして

<三>ナニサ、はるのが草を取けへてやるとつて、二ツながら逃しゐした。いつそ悔しくつて、わつちやア、泣いしたよ。ホホホ、ホホホ

<谷>エゝサ、その代り、おめへが又はやく受出されるハな ~<三>きせるを取て、谷粋をたゝく~

<谷>アイタ・アイタ

<綱>~来り、あんどうのかげへすわり、かんざしにて、あんどうををむせうにつゝき(行灯を無性に突っつき) ~じれつてへぞよ~

<金>何じれつてへエ

<綱>なんでもさ

<谷>色事か、ただし盆の仕廻(盆は決算期で、そのやりくり)か。ぼんの工面なら案じなさんな。おれがうけ込ハ。

<綱>それハモウ、おかたじけなふおぜんす。 お礼から先へもふしんす

<谷>是ハお礼で、いたミ入やす。

<綱>ホンニ、おめへも、ゑへかげんにしやべりなんし。ひとりで口をきゝなんすね

<谷>今まで、おめへが来ねへから、二人めへの口をきいて居たのさ

<綱>それハ御苦労さ。ホンニ、三沢さん、お前の何さんハ、富さんに似て居なんすね

<三>アイ、しづかな所なんざあ、いつそよく似て居いすよ

<谷>似た者ハ烏瓜と睾丸(きんたま)の梅漬だ

<綱>まだ、むだア、いんなすよ。サア、往ておよりゐし。ぬし達の邪魔になりいす。サァ、お出なんし

<谷>是ハ大の不首尾だ。御意にまかせて、サア、めへりやせう

 

 「畜類め=仲のよい男女をやきもち半分にけなす語」。他に「自分の心を惑わす女性についていう語、こいつめ」 別の辞書には「江戸後期の流行語。物事が思い通りに運びそうな時などに発する語。しめしめ」とある。つまり状況次第で意が変わる。国語学者はもっと広義の意で捉えるべきだろう。あたしなら「こんちくちょう、ざまぁみろに準ずる言葉」と解釈する。

「へつつゐがねへ=竈がねぇ」は、新所帯じゃねぇとからかっている。キリギリスが籠から逃げて悲しがる女郎に、その功徳で「おめへが早く受出される」と言う谷粋。叶わぬ現実があるだけにキツい冗談になる。そんな谷粋に相方の綱木がしだいにキレてゆく。

 

蚊帳とキリギリスが出てくるので、美女が蚊帳を吊るシーンを描いた歌麿「婦人泊り客之図」を模写。昔の夏の夜に蚊帳は必需品だった。クーラー普及で蚊帳は忘れられた。いや、あたしは立派な蚊帳持ちなんです。

伊豆大島にロッジを建て、週末遊びを四、五年を続けた頃のこと。いざダイビングへと玄関でウエットシューズへ足を突っ込んで激痛。靴ん中から赤黒い大ムカデが這い出した。激痛に悶え、島の友に助けの電話。彼がうれしそうな顔をして「マムシ入り焼酎」持参。〝毒には毒で制す〟と足の指にソレを塗ってくれた。秋には部屋ん中で虫が鳴く。蜘蛛をはじめ見たこともない虫も出没する。蛇もいる。都会生まれ育ちには、余りに厳しい小動物らとの遭遇。

そんなワケで六、七万円はした底付きの立派な蚊帳を購った。これで初めて島の夜も裸で寝ても安眠と相成候。遊女の色っぽい蚊帳吊りの絵から、つまらん話をしてしまった。


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床入りの部屋へ(19) [甲駅新話]

koeki16_1.jpg<後>イイエサ、まだお約束のお客が有(ある)はづで御座ります。そしてまだ、亀本へもよります。あすの朝ハ何時(なんどき)へ(茶屋が旅籠屋・妓楼へ迎えに行くのだろう)

<谷>おらアいつでもゑへ。金洲、何時

<金>七ツ半(五時頃)さ

<後>ハイ、さよいふなら、御きげんよふ

<二人>おさらハ・おさらハ

<金>アニ、かゝあもよく呑やすね

<谷>ウゝ、ぜんてへ(全体:名詞=すべての部分。副詞:もともと、もとより。江戸弁で大工=でえく。「た」を「て」変化が多い)勤(女郎勤め)をした女だ。どうだ、気があるか

<金>どふも色が黒いね

<谷>大木戸のわら屋(同じく茶屋だろうか)のかゝあハ見なすつたか

<金>いゝへ

<谷>今度見なせへ。とんだうつくしいよ

<金>今度のとハ(見立てた女とは)、どふだね

<谷>ホンニ、おれがやつも、うつくしさあ美しいが、ちつとけんてへ(倦怠=けんてへ?校注では傲慢なこと)ぶるよふだの。ぬしのハおとなしそうだ 

<金>成るほど、綱木とやらハわつち共が歯には合やせん

<谷>あゝゆふやつを買こなすと、おもしれへもんだよ

<半兵へ>チトあちらへお出なさりまし

<谷>床といふ所か。サア、何所だ何所だ

<半>廊下ざしき(廊下に面した座敷?)で御座ります

<金>一所(ひとところ)か

<半>イイエ、おまへハ下で御座ります

<金>それハわるいの

<半>イエ、その代り涼しいよい所で御座ります。先是(まずこれ)にお出なさりまし ~すずりぶた、てうし(銚子)、たばこぼんなどはこぶ~

<はるの>~ゆかた持来り~ お召なんし

<谷>そけへおきや。コレ、よく水を呉ねへの

<はる>今にあげいすよ。コウ、半兵へどん、下でよばつしやるよ

<半>それでは、からだは二ツハねへものヲ ~といゝな下へ<はる>もつゞいて行~

<谷>サア、着けへよふ。しわになつちやアいてへ

<金>どれがそだね

<谷>どれでもゑへハナ。むきミしぼり(むき身絞り=貝のむき身のような模様の絞り染)にしや。おれが仲蔵嶋(なかざうじま=歌舞伎の中村仲蔵が好んだ縞模様)にしよふ。コレ、見や、此袖のちいさサ。そしてでへぶ(大分)汗くせへ ~ふたりともゆかたに着かへる~

<金>ドレ、おめへのきせるをお見せなんし。ゑへなり(容子)だね

<谷>ナント、よかろう。そしてとんだ目(目方の目=重い)があるよ。さくら張(真鍮製)をニ本一所にした上に、角蔦(吉原の妓楼)の女郎にかんざしを貰て足たものヲ

<金>ホンニ、よつぽどごぜんせう

<谷>いつでも二ぶづつの(二分金相当づつ)の早玉(?)さ

<三>~廊下にて~ 綱木さん・綱木さん

<綱>~奥ざしきの方にて~ アイ今いきいすよ

<三>オヤ、ぬしたちやア、いつも間に爰へ来なんした

<谷>先おとてへから来ておりやす

 

 吉原、遊郭関係書は幾冊もあろうが、読む気の湧かぬままで、廓遊びの洒落本理解にままならぬところがあり。物語はいよいよ床入りで、男は浴衣、女郎は長襦袢に着替えます。

若い時分に、縁あって二つの着付け教室(学園)の教科書(各四冊)を作ったことがあるが、着付けの解説が主で、長襦袢の歴史には触れなかったのだろう。このたび「長襦袢」調べをすれば、アラビア語「ジュッパ」がポルトガル語化して「ジバゥン」。これを当て字で「襦袢」になったとか。ウヘッと驚いた。

「ジバゥン」なる言葉がいかなる経緯で日本に入り、それが当て字「襦袢」になった経緯も面白そう。それはさておき、江戸前期までは半襦袢で、後期あたりから遊女らが部屋着として用いたのが長襦袢。それが今の長襦袢になったらしい。遊女らが着物文化を育んだとも言えそうです。

母が茶道、華道のおっしょさんで、子供時分から着物には馴染んで来た。だが、よく言われる「袖口、裾から覗く襦袢の色気」なる意識は皆無。子供だったせいか。二十代後半に着付け教科書を作り、中年になって演歌歌手の密着仕事などもしたが、それら時期にも「長襦袢の色気」には無縁。そして今、隠居になって改めて浮世絵を見るってぇと、華やかな長襦袢のさまざまが鑑賞できて、改めて「いいなぁ」と思う次第です。老いぼれてからでは「後のまつり」でございます。

模写絵は、二階の床の様子でも盗み聞きしたのか、女が「オホホッ」と忍び笑いする姿を描いた芝全交・作、北尾重政・絵『遊技寔卵角文字』より。


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長襦袢と浴衣に着替えて(18) [甲駅新話]

koueki15_1.jpg<綱>客衆ハのミなんせんがよふおぜんすよ

<谷>こりやア、 おらも止ねへけりやアならねへわい

<綱>ぬしのこつちやア、おぜんせん

<谷>アゝ、ソレデ安堵した

<金>おめへ、お近付のため、あげんせう

<綱>アイ、あがらんそふだから、あげんすめへ

<谷>水いらずにおれがつごうか

<綱>よしなんし、給(たべ)んせん

<谷>それでもおめへ、今、此ぢうハ酔たといひなすつたじやアねへか

<綱>つきてによりいす ~是より、だんだ盃廻、時をうつす内に膳出る~

<はるの>どなたも、おめしをおあんなんし

<谷>めしには気なしだす

<後>お茶漬になすつてあがりまし

<半兵へ>何も御座りません。よふあがりまし。お気に入た物をおかへなさります。はるの、ソレ、お汁でもかへてあげろよ ~といひすてゝ行~

<三>サア、どなたもおあんなんし

<金>アイ、谷粋さん、どうでごぜんす

<谷>そんならつき合てちつと喰ふか。かゝさんハどふだ

<後>イイエ、いただきますまゐ

<三>ホンニ、給(た)べなんせんか

<後>アイ、いゝへ

<綱>わたし共が内のまんまもちつと喰てみなんし

<後>ナニ、お時冝でも、何でもござりません。御酒を給(たべ)ると、どうもいけません。ホンニ、金公さんハ、御酒ハあがらず、たんと上りまし。お汁ハへ

<金>アイ、ごぜんす ~暫く有てめしもすミ、膳さげる~

<谷>コレ、あつちへいつたらの、水を一盃持て来てくりや

<三>水のミ茶碗に汲たてを持て来て上りもふしや

<はる>あゐ

<後>ホンニ、おまへ方、召かへてお出なせんし

<綱>あゐ

<三>そんなら往てめへりやせふ ~<三・綱>着かへに下へ~

<後>わたくしも、お暇(いとま)にいたしませう

<谷>モウ、一ツ呑でいきなせへ

<後>いゝへ、もふ大(おゝき)に酔ました

<金>エゝハナ、もふ寝なさろう

 

 今回は漢字のお勉強。よく出てくる「祢(ね)」は「禰宜(宮司)」の禰の異体字(俗字)。字義不詳で漢字熟語もなく、現在はほとんど使われていない。「しめすへん」ゆえ、当然ながら「弥生の弥」とは違う。次は「安堵の堵」。土を築いて外部を遮蔽した「かき」。かきね、へい。「安堵」はかきねの中で安全に暮らす。自分の家で安らかに暮らすの意。「者」に点がある。まぁ、「安堵」以外は使われぬ。そんな字のくずし字まで覚えるのは大変です。

 「給=たま‐う、たも‐う、キュウ」だが、ここでは「(たべ)る」のルビ。これも覚えた方がいいか。「此ぢう」もよく出てくる。「ぢう=中」で「此中=この間、このごろ、先日」。「お時冝(じき)」とは。「冝」は「うかんむり」ではなく「わかんむり」。「冝」は「宜」の異体字か。時宜=適当な時期の状況。「時宜を得た発言」などと使うが、この「時冝(じき)」は、校注で「遠慮」。あたしの辞書には載っていないので、確かめようがない。「暇」は近世では「いとま」。


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メモ「坤驛」は品川宿か新宿か?(17) [甲駅新話]

yotuya1_1.jpg 「甲驛新話」(9)(15)(16)で模写した三人の遊女絵を並べると、北尾政演(京伝)代表作の錦絵「当世美人色競 坤驛」(左)になる。小池藤五郎著『山東京伝』(昭和36年、吉川弘文館刊)の扉頁口絵に同絵の白黒写真が掲載されてい、<品川駅の傾城をえがいたもの。「当世美人色競」の中の一枚で、政演の版画技量の最高点を示すもの>のキャプションあり。本文にも「政演画錦絵中の傑作」の項があって三頁にわたって同絵について説明されている。

 書かれた通りに理解していれば、新宿歴史博物館刊「特別展 内藤新宿」をひもとけば、同絵がカラー掲載で「内藤新宿の旅籠屋・橋本屋にいた食売女を描いたもの」のクレジット。さぁて、この京伝錦絵「坤驛」は果たして品川か? いや新宿か?。

 同絵は「近代デジタルライブラリー」でも公開されてい、拡大して見れば「坤驛」にしっかりとカタカナで「ヨツヤ」のルビ。さらに「橋もとのゑ」が読み取れる。大田南畝の洒落本『甲驛新話』の〝甲驛〟は、甲州街道の宿駅のこと。加えて同本文中にも旅籠屋(女郎屋)の品定め会話に〝橋本〟が登場。また橋本屋は「鈴木門主水白糸口説」で全国的にも有名。「坤驛」のルビ(ヨツヤ)、「橋もとのゑ」より、この絵は誰が考えても、内藤新宿の橋本屋の遊女画と判断できる。

 なのに、山東京伝研究の第一人者、故・小池藤五郎教授(1982年没。子息・小池正胤氏は黄表紙研究者)は「坤驛」を「品川宿」としたのだろうか。今度は別角度から「坤驛」を考えてみた。「坤」は「乾坤一擲」のコン。ひつじさる、つち、ひつじ。その意は①つち、地。②易の八卦の一つ。③女性のこと。熟語を構成する場合は女性の代名詞的役割をする文字。④ひつじさる。南西の方角。ちなみに山東京伝は『古契三娼(こけいのさんしょう)』で品川宿を〝南驛(シナガワ)〟のルビで記している。さて「坤驛」は江戸城からみて南西の驛の意で品川宿か。いや、これは③の〝女驛〟の意か。

 現在最も新しい山東京伝本が佐藤至子著『山東京伝』で、ここには天明三年刊の「青楼名君自筆集」(翌年に大田南畝の序、朱楽管江の跋で画帳仕立てになって「新美人合自筆鏡」の題で刊)についての言及はあるも、「当世美人色競」への言及は一切なし。ついでに言えば、浅草の京伝机塚の彫られた文(原文)を知りたかったが、同著にその記述はなし。さらには、この『甲驛新話』も大田南畝の作ではないかも~とハッキリせぬ。

 江戸後期なれど、知りたいことは「わからない」のが実情なんですね。なんとも情けない。図書館に行けば「日本の近世文学」のコーナーは腰が抜けるほど僅少。近世文学の世界、またその学者らの世界、実情ってぇのは一体どうなっているんだろう、と首も傾げたくなってくるんです。


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江戸弁、廓言葉、ギャグの戯れ(16) [甲駅新話]

koeki14_1.jpg<後>その代(かわり)に、モウ、漸(よふよふ。古語辞典:やうやう=次第に、かろうじて、やっと)かへりまして、あすの朝迄、何もしらずに一ト寝入(ひとねいり)にふせりましたから、ほうぼうのお客さん方に叱れました。夫(それ)にあくる日ハ一日頭痛がいたしますね。大きなめ(ひどい目)に合ました。覚てお出なせんし(「し=しゃい」の軽い命令語か)

<綱>ホンニ、あの時ハわつち(廓言葉:わたくし)もいつそ(廓言葉:とても)酔いしたよ

<三>そんなら、ちつと(少し)つ(注)ぎんしようから、出しなんし(廓言葉)

<綱>是ハ憚でござります オトオト、ハイ、谷粋さんおゝさへを給(たべ)ます(谷粋さんが押えた分をいただきます)

<谷>どうだ、丁どあるかね。味方見ぐるしい酌だぞ(味方同士の遠慮した酌だぞ)

<三>ナニサ、一盃(いっぱい)つ(注)ぎんした

<後>アイ、左様なら

<谷>もう一ッかの

<後>とんだ事をおつしやるぞ

<金>お前にやア、わつちが酌をしやせう

<谷>こつちハこつちどうしだの

<三>ひゐきをしなんすと聞いせんよ

<谷>チット、ありあり(有難う有難う)

<後>お肴をあげませう、何がお望へ

<谷>なんでもよしさ

<後>そんなら是をあがつて御ろうじまし。イッソ、よふござります

<谷>例のびわか。びわ突出しのその日よりだ

 

「突出し」は新造が初めて客を取り、一本立ちするお披露目の儀式。廓の中を歩く「道中突出し」は七日間行われ、費用は旦那持ちで二百~五百両とか。簡単に行うのが「見世張突出し」。この辺は廓事情をしらぬゆえ詳細わからず。まぁ、そんな言葉に「びわ突き出し」と言ったか。以下、延々と当時の言葉遊びが続く。

 

<金>ひよりひより、ひより(ひとり)二人三人

<谷>(「さんにん」に絡んで)むにんだノ。むにん・むにんと。むにん夏の虫とんで火に入

<金>にいる・にいる・にいる。にいるのつらへ水さ、ハハハ・ハハハ

<綱>とんだえへね

<谷>ナント、えへ口だろう。半口乗って無尽を買なせへう

<網>無尽とハ何の事かぞんじいせん

<谷>なむさん(失敗した時に言う〝しまった〟)、雪のあくる日だ

<綱>それも知りいせん

<谷>てれた(照る、てれる)といふ事さ、サァ、金洲さそう

<金>こりやア、ちつと上(あげ)やせう

<谷>夫がいやたから、ぬしにさしたのだァな。そんなら一寸とお頼申やす

<三>おあゐ(御間=盃のやりとりで、間に誰かが入ったりすること)かへ。お手元(酌の手を止める)ともうしんせうか

<谷>そりやァむごい、マアマア

<三>そんならおあかさん、つゐでおくんなし。アイ、おぜんす(盃が一杯になったでございます)

<谷>モシエ、あゐハ手本とやら。わたしも灰吹にのませ(呑むふりをして煙草盆に捨てる)やすぜへ

<三>ナニサ、ミんな給んした

<谷>何かハしらず、ありがてへ。かゝさん、おれにもつでくんな

<後>サァ、お出しなさりまし

<谷>オット、よし。さあ金公

<金>かゝさん、はばかりながら、アイト

<谷>金公ハどふぃもらぢ(埒やァあかねへ

<三>ナゼ、呑なんせんかへ

<後>アイ、ねつから上りません

 

 江戸言葉、廓言葉、語呂合わせ、親爺ギャグで盛り上がる盃事の戯れ会話。まぁ、ここは感じがわかれば、それで良し。先にすすみましょう。
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まずは初会の盃事(15) [甲駅新話]

koeki13_1.jpg<三>おとなしいねへ

<半>はゞかりながら、あなたへ上げませう

<金>谷粋さん

<谷>マア、呑ねへ

<金>~半兵へが耳へ口をよせて~ あさぎへ

<半>はゐ

<三>ちつとあげ申しんしよふ

<金>まづまづ

~<三>のミてさかづき(呑みて盃)を臺へのせる。<半>心得て谷粋が前へ~

<谷>おさわりもふしやせうか

<三>マア、お取りあげなんし ~<谷>のミておく。<半>又こころへて、綱木が前へ~

<綱>~さかづき取りあげ、のミて~ かかさんあげんしよふ

 

 若い衆「半兵衛」が、客「金公」へ盃を渡す。「金公」が呑んで、相手に決まった「三沢」へ。「三沢」は次に「谷粋」へ盃を渡す。「谷粋」が呑んで、相手の「綱木」へ。「綱木」が呑んで、最後に茶屋のおかみさんが呑んで初会の儀式が終わるそうな。

 

<後>チット  おゝさへもふしやせう

<綱>マア、呑なんし

<後>アイ、左様なら

<半>サァ、 出しなせへ

<後>つきなさんな

<半>なぜへ

<後>まだ、お約束のお客がごぜんす

<三>夫でも一ッや二ツハよふおぜんせう

<後>あゐ ~とうけてのミ、ひかへて居る

<半>ソンナラ、おばさん、お頼申やす

<後>ナゼ、呑でいきなせへな

<半>イイエ、後にいただきやせう。今夜ハ下がいそがしうごぜんす

<後>清介どんハへ

<半>風を引て寝て居やす

<後>ホンニ、夫じやア、鬧(いそが)しかろう

<半>ハイ、左様なら。どなたも緩りとあがりまし。おばさん、よろしくお願申やす ~此間にすゐ物、鉢、肴の出る~

<後>サァ、お吸なさりまし モシ、谷粋さん、お久しぶりでちつと憚申ませう

<谷>そんならおれも、久しぶりでおせへよふ

<後>是ハ悪い事を申ましたつけんの ホホホホ

<金>おさかなをしようか ~と硯ぶたを引よせて~ 何がよかろう、是かの

<谷>ナニサ、後家が玉子を喰て(精力を付けて)どうするもんだ

<後>谷粋さん、又わる口をおつせんすよ

<金>そんならくわいかの

<後>左様なら、ソノびわを下さりまし

<金>おつナ 希(のぞみ)だの

<後>ハイ

<谷>びわといふ物ハめんよふ女の好(すく)ものだの。おらもびわになりてへ物だ

<綱>~谷粋を方をじろりと見て口の内にて~ すかねへ

<三>サア、おかさん、のミなんし、つぎんせう

<後>イイエ 爰(ここ)へ下さりまし。三沢さんのお酌にはこりました

<三>ホンニ、此ぢうはよくのみなんしたの

 

dainomono_1.jpg「桃栗三年柿八年枇杷は早くて十三年」の「枇杷」が盃事(さかずきごと)の話題になっている。今のような大玉枇杷が日本で本格栽培されたのは宝暦元年(1751)頃に千葉・富浦でとか。『甲驛新話』刊は安永四年(1775)だから、出回ってまだ珍しかったか。『馬琴日記』には、神田明神下同朋町時代に庭で育てた葡萄の実を商人に売って家計の足しにしていた。生真面目・馬琴が育てた葡萄が、遊里の「台の物」になっていたと想像すると可笑しかった。

「此ぢう」はよく出てくるので調べた。「ぢう=中」で「此の頃」。ここでは「この間、先日」だろう。「爰=ここ」もよく出てくる旧字。覚えましょう。「つぎんせう」は「注ぐ」の丁寧語の音変化で「注ぎん」+「せう=しょう」で「注ぎましょう」。遊里の「ありんす」言葉系か。「ん」変化は「ごぜんす」「おぜんせう」「せんすよ」「なんし」とやたら出てくる。江戸弁+ありんす言葉の満載。

絵は浮世絵に描かれた「硯ぶた(蓋)」に盛られた「台の物」。、概ねこんな感じで酒・肴が運び込まれたのだろう。<綱>が谷粋の方をじろりと見て口の内にて「好かねへ」と言う。今後の展開を予感させる一言です。
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メモ「廃駅は大八の喧嘩両成敗」(14) [甲駅新話]

zukaisinjyuku_1.jpg 『江戸名所図会』の「四谷 内藤新宿」(絵・長谷川雪旦/文・斉藤月岑)にこう記されている。~元禄の頃、此地の土人、官府に訴へて新たに駅舎を取立る。故に新宿の名有り。然りといへ共、故有りて享保の始、廃亡せしが、又明和九年壬辰再ひ公許を得て駅舎を再興し、今また繁昌の地となれり。

 野村敏雄著『新宿っ子夜話』に、内藤新宿が廃駅となった原因の一つとされる旗本子弟・内藤大八の事件が『鯨の大八』題名で記されていた。著者も参考にした岡本綺堂・戯曲『新宿夜話』は著作権切れでデータ公開されてい、これも拝読したが、芝居効果的省略が多く、ここは野村著の概要を記しておく。『甲駅新話』登場の旅籠屋名も登場で興味深い。

 四谷大番町の旗本四百石・内藤新五左衛門の弟・大八は、部屋住みの二十代で夜ごと内藤新宿で喧嘩を売ったりの厄介者。時は内藤新宿の開設二十年後の享保三年(1718)。まず大八事件の前に、「上総屋」で遊女と客が心中し、厳しい吟味があるも、遊女が正規の食売女二名外の女だったことが見過ごされた。

 大八がここにつけ込んで「上総屋」をゆすり、金をせしめた。「上総屋」は三田村鳶魚編『未刊随筆百話』に、三光院稲荷(現・花園神社)の祭りで、甲州街道を跨いだ向かいの「橋本屋」まで橋燈籠を掛け渡すなどした大見世と記されている。また同著には『江戸名所図会』に描かれた絵に「和国屋」名あり。あの格子が遊女見立ての張見世(絵は営業を終えた年末で開け放立てれいる)だとわかる。

 話を戻す。大八は「上総屋」でせしめた金を懐に、馴染遊女・千鳥のいる「「信濃屋」へ行った。大八は千鳥が他の座敷に出ているのが気に入らず怒鳴り出した。日頃の彼の狼藉に我慢の「信濃屋」奉公人らの堪忍袋の緒が切れた。幸い、腰の物(刀)も預けられている。彼らに袋叩きにされて素っ裸で屋敷に戻った大八に、兄の怒りが爆発した。「武士が町方に打擲(ちょうちゃく)され、丸腰で帰って来るとは旗本の恥、内藤家の恥。腹を切れ」。

 兄は弟・大八の首を大目付に差し出し「それがしの知行を召上げ、内藤新宿も潰し下され」と喧嘩両成敗を訴えた。同年十月に廃駅決定。内藤新五左衛門の家も潰され、旅籠屋は二階座敷の取り壊しと転業を強いられた。内藤新宿の復活は、実に五十年後だった。

 岡本綺堂『新宿夜話』では、大八の馴染は「信濃屋のお蝶」。大八が袋叩きされて倒れていたのは旅籠前で、そこに兄が通りかかった。大八は兄に助けを求めるも、中間が抱えても立てず。兄がキレて、屋敷に戻れぬなら、ここで腹を切れ、兄が介錯してやる ~となっている。また同舞台一幕は、それからン十年後。老僧になった新五左衛門が内藤新宿に戻ってきて、安旅籠の床几に腰を下ろす場から始まっている。老僧が亭主に潰された内藤家のその後を問えば「お武家の屋敷に草は生えても、色町に草は生えません。今はこの賑わいです」。

 老僧はこの安旅籠に泊まろうとしたが、夜になると各旅籠屋二階がドンチャン騒ぎの大賑わいで「これでは眠れん」と宿を出て夜道を歩き出すシーンで幕になっている。同芝居は明治二年初演で、各小屋で上演されている。なお『鯨の大八』最後は、「上総屋」は幕末に品川宿に移転し、「信濃屋」は屋号を変えて明治まで繁盛した、で結ばれていた。どこまでが事実で、どこからフィクションかは定かではない。『未刊随筆百話』も読んだので後述する。


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見立てた遊女とまずは~(13) [甲駅新話]

koeki12_1.jpg<後>どふで御座ります

<谷>アノ、藤色との

<後>今、かんざしでつむり(頭)を掻て居なさるのかへ

<谷>イイニヤサ。こつちから三番目のさ

<後>アイ、そしてへ

<谷>アノ、団(うちわ)を持て居るあさぎだ

<後>アイ、是、半兵へどん。三沢さんと綱木さんだよ

<半>ハイ、よふ御座ります。サァ、お上りなさりまし 

~と、先へ立(たつ)て二かゐ(階)へ。<谷・金>もつづゐて、<後>てうちんけし(提灯消し)同じくあがる~

<半>~表ざしきのせうし(障子)をあけ、あんどうもとぼし(行灯も灯し)~ 

さあ、是へおはゐりなさりまし。子供、お茶を持て来いよ 

~といひながら、いそがしそふに下りて行~

<金>良へ内だね

<後>去年の夏か、普請をいたしました

<谷>普請の内ㇵとなりに居たつけの

<後>アイ、左様で御座ります

<子供はるの> ~茶を三ツぼん(盆)にのせて持来り~ あい、お茶ァ、おあんなんし

<後>置ていきや。ドウタ、眠そふな皃(原文で白に脚がハ)だの

<はるの>寝ておりゐした

<谷>押付(おっつけ)見せへ出よふが、そのよふに眠がつちやァ客衆がいやがるぜへ

<はる>知つたかへ

<後>ホンニ、あなたへ水あげをお頼申しや

<はる>おがミゐす(拝みます=冗談は勘弁して)。おめへまで、おんなじよふになぶんなんす。にくいぞ(からかってなさって憎いぞ)

<半>~女郎のたばこぼん、きやくたばこぼん(客煙草盆)も持来る~ 又、何をさわぐ

<谷>イイニヤサ、ミづあげの約束よ

<半>ナニサ、水あげハ、わたくしがとふにいたして置ました

<はる>又、半兵へどん、よさつせへ。すかねへぞよ ~と半兵へがせなか(背中)をたゝゐてにげる~

<半>逃たとつて、にがす物か ~とつづゐて下へ行~

<金>女郎の名ハ、どうどうだつけの

<後>藤色が綱木さん、あさぎが三沢さんで御座ります

<谷>ぬしの注文の二人ハ、あの内じやァねへか

<後>アイ、三沢さんハわたくしの申たので御座ります

<谷>金公、きまりだぜへ

<金>なんなら取替やせうか

<谷>ゆふもんのふんどしだぞ(憂悶の褌?語呂合わせで龍紋・竜紋=絹の平織物で帯、袴、羽織などに用いる~のふんどし?よくわかりません)

<半>~てうし(銚子)、硯ぶた持出、あんどうのおき所を直し、ろうかへむかひ~ さあ、お出なせんし

<綱木・二沢> ~二人来り、口を揃へ~ どなたも、よふお出なんし

<三>おかさん、どふしなんした

<後>はゐ

<綱>ナゼ、おもとさんを連て来なんせん

<後>モウ、ふせりました

 

模写絵は、芝全交作・北尾重政画『遊妓寔玉角文字(ぢょろうのまことたまごのかくもぢ)』(女郎の誠心、玉子の角文字)より。勝手に着色。同書は漢文(角文字)で儒教本を装って「女郎の誠心」を「遊妓寔」と書き、「女郎の誠と玉子の四角(この世にない)、あれば晦日に月が出る」なる唄に合わせた戯れ本。北尾重政は京伝(北尾政演)の師。芝全作は京伝と同時代の黄表紙作家。
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旅籠屋(妓楼)で〝見立て〟(12) [甲駅新話]

koeki11_1.jpg<谷>かゝさんハ、い(行)きなさらんか

<後>まいるハ、わたくしがまい(参)ります ~<谷・金>二人とも帯を〆直しなどして身こしらへする内に<後>もゆかたを出してきがへ、こしの物(脇差)、すげ笠も戸たなへ仕廻(しまい)、錠をぴんとおろして(これらは茶屋で預かる事になっているのだろう)~

<後>五郎どん、たのむよ。馬幸さんがござつたら待せもふしておかつせへ。直に帰るから

<五郎>亀本への返事を一寸(「かゝ」の字が欠けているらしい)さん出しておくんなんしな ~と出してわたす。<谷・金>たがゐに何か耳そうだんして<金>ふところより弐分(一両の半分)出してわたす~

<谷>~取て紙にのせ~ かゝさん、サァ

<後>はい。~といたゞき紙にひねり~ お預り申ます ~前きんちやくへ入て、帯にはさむ~

<金>サア、めへりやせう ~<五郎>庭(土間)へおり、はき物直す <後>同じくおりて、てうちん(提灯)さげ~ さあ、お出なさりまし

<五郎>左様なら、御きげんよふ

<後>五郎どん、門の明りがまだつかねへによ

<金>とんだくらい晩だね

<谷>その筈さ、コウト、四ツ八分(校注に博打用語でお先真っ暗の意とあり)の月だもの

<後>モシ、いよいよ紀の国かね

<谷>しれし・しれし

<後>お見立なさりますかへ

<谷>金公どふ志ようの

<金>どふでもよふごぜんす。かゝさんどふするがよかろう

<後>ナンナラ、ゑへ女郎衆を出し申ませふか。 夫(それ)ともお見立なさらバお見立なさりまし

<谷>ソノゑへといふのハ、としまか新ぞうか

<後>二人とも中としま(2223歳)衆で、とんだ気どりのゑへ女郎衆でごぜんす

<金>そんなら、夫(それ)に志よふかの

<谷>志かし、呼出し遊びハするなと指南集にもあるぜへ。ソシテ手には(てにをは=つじづま)の悪い物だよ

<後>そんならお見立になさりまし

<谷>~いきな声して~ 見立られたが嬉しさに ~紀の国屋にいたる~

<若イもの半兵へ> お出なさりまし

<後>半兵へどん、お見立てだよ

<半兵へ>あい ~と、かげみせの方へ行て~ お見立がごぜんすよ

~<谷・金>二人ハ張ミせに居る女郎をしり目に見ながら上ル<後>も、はき物とつてあがる~

<谷>~声をひそめ~ どふだ金公、見たか

<金>耳を出しな

<谷>ウウ・ウウ

 

 内藤新宿の女郎と遊ぶシステムが詳しく記されている。その意では同書も『指南書・案内書』のひとつと言えなくもない。あたしは内藤新宿の洒落本類は、内藤新宿再開時に町の上納方を仰せつかった平秩東作(狂歌名。馬宿・煙草屋の通称・稲毛屋金右衛門。本名立松懐之)の企てだったように思えてならない。

平秩東作は、平賀源内と友人で、この時代の狂歌・戯作界の長老的存在。彼が企てた「内藤新宿プロモーション」に、弟分らが加担したのではなかろうか。靖国通りは成女学園隣の「善慶寺」に眠っている平秩東作のお墓に、この辺の事情をぜひ訊いてみたい。

 模写した絵は、朱楽管江(あけらかんこう)による『売花新驛』の桃江画より。朱楽管江も平秩東作の弟分(大田南畝、唐衣橘洲と共に狂歌三大家のひとり)で、牛込二十騎町に住む御先手組与力。ちなみに妻は狂歌名「節松嫁々(ふしまつのかゝ)」。先手組与力とは言え、狂歌や戯作に入れあげていたのだから、大した仕事はしていなかったのかも。『売花新驛』は『甲驛新話』より二年後の安永六年(1777)刊で、同書巻末に『甲驛新話』の広告あり。


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11:メモ「堀之内・妙法寺」 [甲駅新話]

myouhouji1_1.jpg 冒頭で「金公:堀之内に籠ったとも言われやすめへ」とあり、(9:)でも「それでもお連立(つれだち)なすつて堀之内へお出なさつたじやァござりませんか」なる台詞があった。これは杉並区堀之内・妙法寺のことで、そこへ〝厄落としに行く〟が内藤新宿で遊ぶ言い訳(誤魔化し)だったそうな。「浅草の観音様にお詣り」と言って吉原で遊ぶのと同じ。

 恥ずかしながら、この歳まで「堀之内」知らずで、さっそく自転車を駆ってみた。実況見分ったこと。実は最近まで「目黒不動尊」も知らなかった。『江戸名所図会』を見て初めて訪ねてみれば、江戸時代に描かれたとほぼ同じ景観が遺っていて、ちょっと感動したんです。若い時分に目黒「大鳥神社」隣の某財団(ポプコンや世界歌謡祭からデビューの方々)の仕事をしていた頃に日々通っていたも、迂闊にもその近くに「目黒不動尊」があるのに気付かず。

myouhoujisanmon_1.jpg かくして、内藤新宿から青梅街道を西に走って「堀之内」を訪ねた。広重『絵本江戸土産』第三篇に描かれた絵、同じく広重『江戸名勝図会』の「堀之内妙法寺」(祖師堂から仁王門を望む絵)、長谷川月岑の『江戸名所図会』四巻の絵、また粗忽者が御祖師様へお詣りに行く志ん朝落語『堀之内』などを頭に浮かべながらのペダルのこぎこぎ。

 昔は新宿・十二荘も行楽(歓楽)地だったはずで、そこを右に見て進む。やがて鍋屋横丁。落語では、ここまでくれば太鼓をドンブク叩きつつお題目を唱える堀之内へ行く集団に出逢えることになっているが、今はそんなこたぁ~ない。山手通りを越えて東高円寺、蚕糸の森公園へ。ここに「青梅街道」の説明看板あり。その概要は~

 慶長十年に江戸城修築の城壁用に現・青梅市産出の石灰を運ぶ道として開かれた。江戸中期以降は江戸の発展に伴って物流、秩父巡礼、甲州への脇往還(裏街道)として発達。明治に入って乗合馬車、大正十年に淀橋~荻窪間に西武鉄道が開通。

horinouti_1.jpg そして環七を超えると、やっと堀之内だった。内藤新宿から5.5㎞。ここも「目黒不動尊」と同じく「絵本江戸土産」(左)に描かれた景観がほぼそのまま遺された貴重かつ有難いお寺でした。山門を入ると鐘楼、大きな祖師堂から本堂、日朝堂。江戸時代後半の十月・御会式には、善男善女や文人墨客で境内は足の踏み場もないほどの賑わいで、浅草観音と並び称されたとか。

 江戸下町から歩いて堀之内へ。厄払いして再び江戸の入口・内藤新宿に戻ってくれば、もう足はクタクタ。「ハっつあん、どこぞの旅籠屋でちょっと休んで行こうよ」なるセリフが自然に出る、そんな距離でした。


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10:女郎の手紙は茶屋が配達 [甲駅新話]

koeki10_1.jpg<谷>まだ早かろうの

<後>アイ、暮てからが、よふ御座ります

<谷>モウ床(床屋)ハ仕廻(しまつ)たかの

<後>もふ仕廻(しまひ)ましたろう

<金>ナアニ、まだ結(いひ)なさらずと、よふごぜんすぜへ

<谷>見ともなくはねへか

<後>ナニサ、きんきんで御座ります。又たとへお髪(ぐし)ハ悪しともさ、~と谷粋を尻目二かけて、あやなす~ (きんきん=当時の流行語で、立派の意と校注あり。すると恋川春町『金々先生栄花夢』は〝立派な先生〟なる意と理解できる。これは「古語辞典」になし。「江戸の流行語辞典」なんてのがあるかしら)

<谷>又、かゝさん、上手も久しい(近世語=きまり文句だ。珍しくもない)ものさ。道理で、とつさんが若死だ。~いろいろむだをはなして居る内に~

<坂見屋ノ若イ者五郎八>~屋敷よりかへり~ 是ハどなたもよふお出なせんした

<金>あい

<谷>どふだ色男、久しいの、橋本己来だろう

<五郎>ホンニ、何と思召(おぼしめし=「思う」の尊敬語)てお出なせんした。花あふぎ(扇)へばかりお出なんすね

<谷>~花おふぎへいつた事ハなけれども、金公への見へに、どふいつた事のあるよふな皃(かお)をして~ 嘘ばつかり

<五郎>ナニサ、ぞんじておりやす

<谷>ヘエ、悪い所を見られた

<後>ひもじかろう。マア、めしをくわつせへ

<五郎>イイエ、おやしきで給(「たまわる」だが、ルビは「たべ」)てめへりやした

<後>ドウダ、よこしたか(五郎はお屋敷に売掛金集金に行った。それがもらえたか)

<五郎>アイ、三分(校注に約15千円とあり)取てめへりやした。跡ハぬしが明後日持て来なさる筈でごぜんす

<後>久しい物さ(珍しくないことさ)。ソシテ、何ハ、文どもハミんな届ひたか(女郎が客に出す文は、茶屋が届けて返事を貰ってくるのが普通、と校注にあり)

<五郎>アイ、ミんな御返事を持てめへりやした。縁志さんハお留守でごぜんす

<後>外のハゑへが、亀本から二三度返事を聞に来たから、ちつと休んだら一寸と出して来さつせへ

<五郎>アレハ、どれだつけね

<後>ソレ、丸の内(校注:江戸城の内郭)のさ

<五郎>ヘエ、平(ひら)さんかへ。又無心だろう

<後>油ハ買て来さしたつか

<五郎>アイ、かうじ町(麹町)の仲蔵でかひやした。サア

<後>アイ、よしよし

<もと>なんだ。見せな

<後>ばかめ、油だハ喰ふ物じやァねへ

<もと>かゝさん、ねん寝志よふ

<谷>もふ寝るのか。床いそぎ(子供に遊郭言葉を使っている)だの

<金>サア、構ハずと寝せな・寝せな

<後>ハイ、左様なら(そうならば)、おゆるしなさりまし ~まくらかやを出し、娘をねせ付る 志ばらく有て~ <後>御ろうじまし(御覧じまし:「御覧ず」の音変化。「見る」の尊敬語、見て下さい)。モウ、ふせりました。

<谷>おとなしいねへ

<後>あがき草臥て、夜ハよふふせります ~日もくれ、あんどうともす~

<谷>モウいかふかの

<金>あい

<後>五郎どん、つけて下せへ

 

模写は(8)と同じく、山手馬鹿人『粋町甲閨』の勝川春章の挿絵一部より。坂見屋の若い者・五郎八のつもりで模写した。


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9:さて、どの旅籠(女郎屋)へ [甲駅新話]

koeki7_1.jpg<後>ハイ。是は有難ふござります。いたゞきや・いたゞきや。エェ、仕合な ~此内に酒のかん出来。肴もとなりより持来り、則(すなはち)出す~

<後>サァ、お一ツ上がりまし

<谷>マァ、はじめなせへ

<後>ハイ、左様なら(さようなら=別れの挨拶、この場合は接続詞で:それなら)、お燗を見て上ませふ。ヘェあなた

<金>はゐ

<後>憚ながら(はばかり:恐縮ですが)

<谷>金公、お先へ

<金>はゐ

<後>お肴をお取なさりまし

<谷>あい。サァ金公さそふ

<金>ちつとあげやせうか

<谷>まづさ

<後>サァ、お上がりなさりまし

<金>爰(こゝ)へくんな

<後>さあさあ、お出しなさりまし

<金>是は憚り、つぎ(注)なさんなよ

<後>ナゼ上りませんかへ

<谷>宗旨ちげへさ(甘党だろう)

<後>それでも、お連立(つれだち)なすつて堀の内へお出なさつたじやァござりませんか

<谷>是ㇵ一言もねへわい

<三人>ハハハ ホホホ

<後>さあ、いたゞきませう

<谷>そんなら、サァ

<後>是ㇵもふ、結句(けつく:結局、むしろ)おむづか志う御座りませふ ~此間暫く盃事あり~

<後>こよひは何所へお出なさります

<谷>俺ア何所へでも往く気だが、ぬしがまだきまらねへよ

<後>なぜで御座ります

<金>どふも内がやかましうごぜんす

<後>それでも、どうせ今からお帰りはなさりますめへ、お宿(お宅)はへ

<金>下町(さて、どの辺でしょうか)でごぜんす。ホンニ何時だね ~と椽(たるき:垂木=小屋根組の下支えの木)へ出てそらを見る

<後>モウ、おつつけ暮ます

<谷>サァ、もふ、どふで埒はあかねへ。お覚悟・お覚悟

<後>何とおつしやつても、モウお返し申事では御座りません。ソシテもふお遅ふ御座ります。

<金>~十町(歌舞伎役者の名)が声色にて~ モウぜひに及ばぬ

<谷>どふでもかゝかさんのすゝめは利目(ききめ)があるわい。きまり・きまり。トキニ何所にしようの

<金>カノ上総屋はどふだね

<谷>普請ばつかりで、玉(女郎)が能(よく)ねへ。

<後>橋本はへ

<谷>まつぴら御免だ

<後>ナゼエ、あれほど美しゐものを

<谷>是は御挨拶痛入(いたみいり=恐縮する)ました

<後>ハハハ・ハハハ 何所がよふ御座りませふ。山城かね

<谷>是も同じくだ

<後>成ほど谷粋さんは性悪(あちこちと女郎を変えて遊ぶ人)だぞ ~暫し考へて~ ホンニ紀の国がよふ御座りませふ。

<谷>あすこは良へ、サァ紀州に落札(おちふだ)落札

<金>良へのが、あるかの

<後>女郎衆は揃て、よふ御座ります

<金>そんなら夫夫(それそれ)

 

siraitoduka_1.jpgmondosiraito_1.jpg「橋本屋」は、『鈴木主水しら糸くどき』で有名。天保~嘉永期に歌舞伎になったり、口説節、やんれ節、盆踊り歌として全国に普及。その冒頭は ~花のお江戸のそのかたわらに、さしもめずらし人情くどき。ところは四谷の新宿町よ。紺ののれんに桔梗の紋は、音に聞こえし「橋本屋」とて、あまた女郎衆のあるそのなかに、お職女郎衆の白糸こそは、年は十九で当世姿。立てば芍薬、座れば牡丹。我も我もと名指しで上がる(それぞれで詞が多少違う)。

その白糸に入れあげたのが、女房と二人の子持ちながら四谷塩屋(または青山)の剣術道場の倅・鈴木主水。女房お安は思い余って「橋本屋」白糸に訴え、白糸も了解だが、主水は聞く耳を持たず。お安は自害し、これを知った白糸も自害。これを知った主水も後追い自害の三人心中。昭和26年には久生十蘭が『鈴木主水』を書いて直木賞受賞。

「白糸塚」は、大宗寺裏の靖国通りに面した成覚寺にある。同寺は内藤新宿の遊女(子供)投げ込み寺で、そのシンボルとして「子供合埋碑」がある。その左の繁った枝垂れ梅を左右に分けると、奥にひっそりと隠れ置かれている。同塚は、嘉永五年に市村座で当時の千両役者・沢村長十郎が主水を、白糸を坂東志うかが演じて大当たり。志うかが造立。志うかの句「すえの世も結ぶえにしや糸柳」が刻まれている。この話はフィクションらしいが、武士と遊女の心中はままあり。

★ワードとブログに関するメモ:会話毎に行替えの現・会話文体裁にすべくワード作成文をブログへコピーしているが、ブログ上で一字でも校正しようとすれば体裁がグチャグチャに崩れてしまう。つまりアップ後の直しが利かぬ。この場合はブログ文をワード機能頁にコピー戻し、ブログを全文削除して最初からやり直すことになる。こんな不便がまかり通っているんですね。


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8:まずは茶屋・坂見屋にあがる [甲駅新話]

koueki6_1.jpg<谷>かゝさん、どふしなすつた ~坂見屋ハ後家持の茶屋なり。谷粋ハあまり物にもならぬ客ゆへ、さのみ(それほど、さほど)とりはやし(取り囃し=にぎやかにする)もせず。たゐがい(大概=ほどほど)のあしらいに見へる~

<坂見屋の後家 カミハキラズ>これハ谷粋さん、どふなさりました。ねつから(根から=いっこうに)お見へなさりませんね。あなた、よふお出なさりました。サァおあがりなさりまし

<金>アイゆるしなせんし。谷粋さん、足をあらいてへ物だね

<後家>あい。~立(たた)んとする所を~

<谷>どれどれ、おれが ~としこなしぶり(うまくやりこなす風で、通ぶって)に、たらひを出して水をくミこむ~

<後>ちつとお待なさりまし。一寸とわかして上ませう

<金>ナアニ、水がよふごぜんす

<後>それでもおつめ(冷め)とふ御座りませふ ~といゝながら、どうこ(銅壺=へっついや長火鉢脇に作られた銅の湯沸し)のふたを取り、ゆびを入て~ 是も同じ事だ。

<谷>ナニ、よしさよしさ

<金>手ぬぐひをあげふか

<谷>ウゥ、かしなせへ。おれがのハ汗手ぬぐひで役にたゝねへ ~二人とも足をあらひあがる内に、盃だい(盃台・さかずきだい)など用意して、二人が前へ直し置(おき)、となりの女房らしきをよびよせ、ミゝへ口をあて、何やらさゝやく~

<谷>かゝさん、かめへなさんなよ

<後>アイ、けふ(今日)ハあやにく五郎をおやしきへ遣(つかわ)しました

<金>御亭主ハへ

<谷>ナニサ、まんこう御前(後家)だよ ホンニ、なぜ(旦那を)入なさらん

<後>どふも気に入た男が御座りません。ハハハハ

<坂見屋の娘もと>~外よりかけ来り~ かゝさんや、かゝさんや

<後>ナンダ お客があるぞ。おじぎをしろ

<谷>むすめ、どうした。大きく成たの

<後>イイエ、もふどうも形(なり)ばつかりて、いたづらにはこまります

<もと>~谷粋が持来りし風車を見付て~ かゝさん、あれがほしい

<後>ナニサ、あれはおみやげになさるのだ

<金>~風車を取て~ 此事か

<谷>サア、やろおう、やろう

<後>ナニおよしなさりまし。直に悪くいたします

<谷>悪くしてもよしさ、サァサァ

 

 内藤新宿の旅籠屋と茶屋の関係が描かれていて興味深い。また旅籠屋とは言え「見立て」(張見世に座る女郎を、客が見定めて相手を決める)のシステムを有していて、まぁ「旅籠屋=妓楼」と言ってもいいだろうか。「まんこう御前」に興味の方は、ご自分でネット検索をどうぞ。「風車」は、堀之内(妙法寺)土産。新宿で遊ぶのを「堀之内詣り」を言い訳にしたらしく、その証拠にと土産の風車をわざわざ買ってきている。懐にはきっと張御符も入っていよう。

絵は『甲驛新話』の続編として4年後刊の、山手馬鹿人(大田南畝)作の『粋町甲閨(すいちょうこうけい)』の勝川春章の絵の一部を模写アレンジした。 

なお会話文ながら原文は棒組表記で読み下し難いので、前回より現・会話文の体裁(会話毎に行替え)にしてみた。しかしこの体裁は、当ブログでは不可能(改行すると一行アキになる)なので、ワードで打ち込んだ文を、ブログへ「コピー・ペースト」。だがブログとワードの相性が悪いのだろう、時に行替えなどが乱れたり、思うようにならぬが多々。だましだましでやってみる。


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7:普請が続いた内藤新宿 [甲駅新話]

koueki5_1.jpg全会話文だが〝棒うち〟表記。ここからは現・会話文の行替え体裁で書き直し、文中に調べた注(主に古語辞典)や漢字表記を( )内に挿入。

 

<金>さあ是からハ日かげもの(日陰者=公然と世間に出られない者)だ。~と、あせ手ぬぐひ(汗手拭)を出して笠ひもへはさみ、鼻から口をおゝひかくし人目を志のぶといふ身をする。

<金>なぜそふなせんす。(んす=ますの転。武士なのに遊里特有言葉を遣っている)

<谷>そこいらぢうの女郎共がミんな知て居(いる)から、見付るとやかましくつてならねへ。アノ今のやつが見つけやアしなんだか。(谷粋、相当の遊び人ですね)

<金>イイエあれハ何屋へ。(へ:疑問詞)

<谷>いづみやさ。

<金>わたし共が友達が、和泉屋へ往(いつ)たといひやしたつけ。

<谷>それは小いづミだろう。和泉屋も大見せと小ミせと二軒あるよ。

<金>大見せと小みせハどふして知れやすねへ。

<谷>めゑら戸(めいら戸=舞良戸:引き違い戸のように多くの細い横桟が入った板戸)が大ミせ、から紙が小見せさ。

<金>何所がへ。

<谷>見せの後ロがさ。

<金>ひと志きりさびれたと聞やしたが、そふもごぜんせんね。

<谷>ナニサぜんてへ(全編が会話文で〝江戸弁〟の宝庫です)初中(初めごろ)がさびれはしねへけれども、初而(しょて=最初)は普請が悪かつたから、どの内も大かた普請を仕直して引越引越して、その跡が明店(あきだな)で有た物だから、知らねへやつらが見て、悪く評判をしたのさ。ホンニ上総屋の普請を見なすつたか

<金>ナニサついぞこつちの方へㇵめへりやせん

<谷>聞ねへ。階子(はしご、梯子)が黒ぬりだあナ

<金>とんだ事たね。何処かた出た内でごぜえんすへ

<谷>氷川から来たよ

<金>どれがそだね

<谷>ソレそこの左のさ

<金>ホンニ良へ二階だね。ソシテあの寺は何ンといひやす。大きな物でごぜんすねへ。

<谷>あれが大宗寺さ。庭が又とんだ大そうじだよ。

<金>泉水(せんすゐ)でもあるかね

<谷>泉水もあるが畑もある。おそろしく廣いよ

<金>見られやすかへ

<谷>随分見られるとも。二分いたむ(払うと)と、女郎をつれて行かれるハ(当時の1両は128,000円。1両=4分で2分だと62,000円? 校注では1万円とある)

<金>それはおつ(乙:趣があること)だな

<谷>せん(先、以前)どもつれて往(いつ)て、笋(たけのこ)を盗んだり何かして、とんだおもしろかつたよ。マア何ンにしろ一盃(いつぺへ)のんで往ふじやアねへか ~と坂見屋といふ茶屋へはいり

 

naitoukehaka_1.jpg★大宗寺のメモ:大宗寺は家康の家臣・内藤家(元禄四年に信州高遠藩主。現・新宿御苑一帯が下屋敷)の菩提寺。江戸六地蔵、閻魔像、脱衣婆(おばば)像、三日月不動明王などがあって、縁日は大賑わいだった。二代清成はキリシタンだったらしく切支丹灯篭などもある。二丁目の「新宿公園」も同寺庭園一部で池があった。同池が雑司ヶ谷まで流れるカニ川の水源。若い頃の「新宿公園」は、まだ池があったように覚えている。
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6:メモ「内藤新宿の歴史」 [甲駅新話]

 naitosinntizu1_1.jpgここで『甲驛新話』を中断し、内藤新宿の歴史を簡単に復習。徳川家康が江戸幕府を開き、五街道を定め、その一つが甲州街道。半蔵門から調布、八王子、甲府への道。日本橋から高井戸まで休憩所がなく、五人の浅草商人が「内藤新宿」開設を願い出た。時は江戸開府から約百年後の元禄十年(1697)。金五六〇〇両上納を約束した裏には〝大儲けの企み〟もあってのことだろう。幕府は内藤家中屋敷一部と旗本屋敷などを取り上げ、その名も「内藤新宿」を開設。

 浅草商人の代表が高松喜兵衛(後に喜八)で、上総の出身。高松家が内藤新宿の名主役を代々務め、「上総屋」は彼の経営だろう。旅籠屋は一軒に二名までの「食売女」を許可。むろん隠れて多くの遊女を抱えて大繁盛。吉原を脅かすほど乱れ、徳川吉宗の代の享保三年(1718)に廃宿。この時の旅籠屋は五十二軒だったとか。

tenryuji1_1.jpg trnryujikane.lpg_1.jpg内藤新宿が復活したのは五十数年後の明和九年(1772)。食売女は百五十人までが許可。上納の残金や冥加金も決定。同年十一月に改元で安永元年。この再開時の町方上納方を仰せつかったのが馬宿・煙草屋を営む稲毛屋金右衛門。この人が誰あろう、あの狂歌の、いや平賀源内と友人で、蝦夷まで旅した 平秩東作(へづうとうさく)。

taisouji1_1.jpg 本名、立松金右衛門。大田南畝を平賀源内に紹介してデビューさせた恩人。南畝はじめの狂歌三大家(朱楽管江、唐衣橘洲)は牛込加賀屋敷に住む内山椿軒の門下で、平秩は彼らの先輩格。平秩東作に関しては、マイカテゴリーの<大田南畝関連>ですでに紹介済。牛込・善慶寺の墓も訪ねている。彼については森銑三著作集・第一巻「平秩東作の生涯」に詳しい。

 さて、この『甲驛新話』は安永四年(1775)刊ゆえ再興三年後。本文中に普請が話題になるのもうなずける。再興時に食売女百五十人までと規制されたが、裏(実情)は容易に想像できる。加えて江戸人口の増大化、物流に欠かせぬ宿場として品川宿、千住宿、板橋宿と共に江戸四宿となって大発展した。だが元禄十五年(1702)から元治元年(1864)までの百六十二年間の火事が実に二十六件。大儲けも容易でなかったと想像できる。

ohkidoato1_1.jpgokidomon_1.jpg 次に地理の復習。内藤新宿は天龍寺から大木戸門までの間。「江戸切絵図」の「内藤新宿新屋敷之図」をアップする。「玉川上水」の右端、水番所辺りが大木戸門(現・四谷四丁目交差点)。ここから西に向かって内藤新宿下町、内藤新宿仲町、内藤新宿上町と続く。上町脇に天龍寺。今も当時の「時の鐘」が遺されている。『甲驛新話』本文冒頭で「大木戸の塵ㇵ水売の雫にしめり、天龍寺の鐘は蜩の声にひゞく」とあって、簡潔に内藤新宿の範囲が説明されている。

 下町と仲町の間に広大な境内を有する「大宗寺」がある。内藤家の菩提寺になっている。大宗寺正面が「問屋場」。ここは街道宿駅で駕籠や馬の継立てをする所。現・地下鉄「新宿御苑前」、御苑の「新宿門」辺り。また大宗寺の奥、靖国通りに面して「成覚寺」がある。ここは内藤新宿の遊女(飯盛女)の「投げ込み寺」。吉原が「閑浄寺」なら、新宿は「成覚寺」と言えよう。同寺には大田南畝らの仲間、恋川春町の墓もある。ご住職にもお話を伺ったので、別項で改めて紹介です。

 そして上町・仲町・下町の南側は広大な「内藤駿河守頼寧(信濃高遠藩)下屋敷」(現・新宿御苑)で、内藤新宿の鎮守様は現・明治通り沿いの「花園神社」。写真は上から「江戸切絵図」。次が現・明治通り沿いに建つ天龍寺の山門と時の鐘。次が大宗寺。下が新宿御苑の大木戸門。左の建物横にある「大木戸門跡」石碑。

edonaitou7_1.jpg (1)で『絵本江戸土産』の「四谷大木戸内藤新宿」(画・広重)を載せたので、ここでは長谷川雪旦・画の『江戸名所図会』をアップ。「五十にて四谷をみたり花の春」なる嵐雪句が書かれているが、時代小説家は、この絵からわかりやすくこう記している。~街道の大木戸は町の木戸とちがい、なにぶん人通りが多いので寛政四年に取り払われ、いまでは名ばかりのものとなっている。それでも街道の両脇から大人の背丈の倍ほどもある石垣が突き出して道幅をせばめ、その部分の通りは石畳となって番屋もそのままのこされ、出役(しゅつやく)のときに使う突棒や刺股や袖搦、それに松明までもが板壁にずらりと立てかけられているのが街道から格子戸ごしに見てとれ、府内に入る者へ無言の威圧感をあたえている。(喜安幸夫『大江戸番太郎事件帳(ニ)』。(以上を頭に入れて、再び『甲驛新話』に戻ります。


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5:「堀之内」へと女郎屋へ [甲駅新話]

koueki4_1.jpg 次は「金七 ナレドモシヤレテ金公」 もぐさ嶋(縞)、さらしのかたびら。白あさのゑりをかけたあミじゆばん。嶋ちりめんの帯を〆、かたびらの切レと見へて同じ嶋のひもを付たすげ笠に、茶がへし小紋のちりめんの羽折を一所にして手にさげ、但羽折のひもハかくれて見へづ、鼠色のたびをはき、もちろん丸こしなり。

 「もぐさ嶋=艾縞」。茶と白で織り込んだ木綿の単衣だろう。その下は夏用の袖なし半襦袢で白半襟。帯は縞縮緬。菅笠に単衣と同じ生地の紐をつけ、脱いだ茶返し小紋の羽織と一緒に手にしている。羽織も紐は隠れて見えないが、鼠色の足袋を履き、丸腰姿ということだろう。『甲驛新話』の挿絵は勝川春章による二人の姿を描いた一枚のみ。簡単に終わったので、もう少し先に進んで、二人の会話冒頭へ。

<谷粋>金公、なんときつい馬じやあねへか。<金公>いつそもう、引切(「ひつきり)がごぜんせんねへ。思へㇵ道があんまり悪く成りやせんの。<谷>商べへ屋が出来てから石をいけへこと入れたから、ちつとㇵ直つたのさ。<金>それでもふる時ㇵおへやすめへ。わたし共が方なんざあ、ふれバふるほどよく成りやす。<谷>道ㇵそつちの事たよ。志かしふれバふるほどとㇵあんまり味噌だぞ。<金>ハゝハゝ。<谷>なんと金公、どけへぞ上らふか。<金>どふも内がつまりやせん。<谷>ナゼ、よかろうぜ。<金>堀の内にこもつたともいわれやすめへ。<谷>われが所へとまつたといやれな。張御符せへ持てけへれバ、おやじㇵあやなされるはア。<谷>イイエサ、おやじよりやア おふくろがやかましくつて成りやせん。 かれこれはなしの内に、ほどなく女郎屋のまへにさしかゝる。

 「きつい」の意は諸々あるも、ここは文脈で「=はなはだしい、ひどい」だろう。「引切=ひつきり」のルビ付きだが、これは江戸弁特有の促音化。切れ目、区切り。「ひっきりなし=切れ目がない。絶え間なし」。「いけへ」の「いけ」は「いけしゃあしゃあ」の「いけ=接頭詞、侮蔑強調」と判断した。現代俗語なら「ゴッツイ」だろう。「おへやすねへ=どうしようもねぇ」。「味噌=手前味噌」。「内がつまりやせん」は、家の者が承知しないか。「商売=しょうべぇ」で、二人の会話には江戸弁(下町言葉)が多い。ここは志ん朝なんかに語ってもらいてぇとこだ。

 「堀之内」が出て来た。当時は「堀之内へ詣でる」と言って新宿の女郎屋で遊んだそうな。吉原に遊びに行くには「浅草の観音様へお詣り」が誤魔化しの常套句。あたしは堀之内・妙法寺を知らぬゆえに、いい機会なので自転車で行ってみた。機会があればこれも記す。


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4:半可通の谷粋衣裳 [甲駅新話]

koueki3_1.jpg さて、馬をひいた馬子らが去り、本編主人公が登場。まず二人の衣裳が入念紹介される。原本は小文字だが、ここは江戸文化に親しむ遊びゆえ、しっかりと筆写・解釈する。まずは谷粋(ヤスイ)の衣裳。

 藍さびちゞミのかたびら。紅麻に白ぬめゑりのじゆばん。帯ハ黒びろうどに、あさぎ小伯を合せたちうや帯。呂の山まひ染に桐の三ッ紋付た羽折。ひもハ駿河打のほそ。色ハむらさきなれども、さめて藤色かとうたがふ。茶つかの少しよごれた脇さし一本おとし指にし、かまぼこ形のすげ笠に白キ麻のひもを付てかむり、笠の裏に小サキ風車二本さしたり。

 「藍錆=やや赤みの藍色」。つまり青紫の縮みの「かたびら=単衣、夏物」。襦袢は、紅色に染められた麻地で白むめゑり(白絖襟=白絹のなめらかでつやのある襟)。帯は黒びろうどに浅黄色の昼夜帯。つまり黒と浅黄のリバーシブル帯。羽織は呂の山繭染に、桐の三ッ紋付(背中と両袖後ろ)。紐は紫だが褪めて藤色かと疑われる駿河打ちの細紐。脇差は茶色のつか(柄=握り)の少し汚れたものを一本落し差(柄が胸に近い崩れた差し方=臨戦態勢でない差し方。水平の差すのは、かんぬき差し)。すげ笠はかもぼこ形で、白の麻紐をつけてかぶり、笠裏に小さい風車(当時盛んだった堀之内=妙法寺詣りのお土産)を二本さしている。

 大田南畝自身は最下級武士の御徒歩組だが、さて、この人物は何所のどんな身分の男だろうか。廓遊びなら落語でも長屋の熊さん八っつあんも登場だが、彼は遊び人風の衣裳に凝った中年男で、脇差まで帯びて、遊ぶ金の余裕と暇がある。まぁ、暇な独身中級武士(次男・三男坊)ってところだろうか。読み進むに従ってわかってこよう。

 なお「半可通」は、粋に見せようと遊里などの事情通ぶって軽蔑される者。あたしも「くずし字」初心者なのに近世文学の「半可通」。どうしようもない「生半可な隠居」です。


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