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堀田善衛『ゴヤ』と『ミシェル城館の人』 [鶉衣・方丈記他]

bordeaux_1.jpg 堀田善衛『方丈記私記』は53歳の作。『ゴヤ』(全4巻)刊が59歳。『定家明月記私抄・続編』刊が70歳。最後に歴史舞台を宗教戦争が激しいフランスに移して『ミシェル城館の人』全3巻が76歳。堀田善衛はその4年後に80歳で亡くなった。

 『方丈記私記』と『定家明月記私抄』を読んだ手前、スペインの『ゴヤ』、フランスの『ミシェル・ド・モンテーニュ』も眼を通すべきか。まず『ゴヤ スペイン光と影』を読む。歴史書のような同書半ばあたりで、やっとゴヤが顔を出した。

 スペイン辛苦の歴史は、第二次世界大戦前の「スペイン内戦」で米軍義勇兵で戦死した「ジャック白井」紹介の川成洋『ジャック白井と国際旅団』、石垣綾子『スペインに死す』を読んでいるので多少は知っていた。堀田善衛のゴヤ取材は「ジャック石井」戦死の1936年(昭和11年)末から29年後の1965(昭和40年)頃からとか。

 ゴヤ(1746~1828)の画家成功の最初は1771年(江戸は田沼意次老中の江戸文化が花咲いた頃)で、イタリア修行後に故郷の聖堂丸天上の絵を、名の通った画歌の画料60%ほどで受けてからだった。27歳で宮廷画家の妹ぺパと結婚。40年間に20回も妊娠させ、ペパ没後も40歳下の女性に子を生ませたらしい。堀田はゴヤの性欲を「ヴィクトル・ユーゴーは初夜で20回射精」と比較させていた。

 乱暴者、ガムシャラ、粗野、種牛のようなゴヤ。妻の兄の尽力とアカデミー独裁者へのお世辞で34歳でアカデミー会員へ。かくゴヤは動き出すも、主題はスペインや欧州史のようで、小生は2巻まで手が伸びなかった。

 ゴヤは晩年に自由主義弾圧を避けて「ボルドウ」へ亡命して82歳で亡くなった。堀田はその225年前まで「ボルドウ」の城館で暮らし、宗教戦争を生き抜きつつ『エセー(随想録)』を書いたモンテーニュの人生を『ミシェル城館の人』で書いた。これは頑張って3巻まで読んだが、途中で投げ出した。

 『方丈記』や『定家明月記』は面白かったが、何故にゴヤ、モンテーニュだったのだろう。鴨長明や藤原定家の周辺にも書くべき人物はいただろうにと思った。富山~東京~上海~アジア・欧州暮らし~蓼科と逗子の生活。多国語を理解し世界中で生活。だがサルトル没でフランスへの愛情も薄れたとか。

 晩年随筆(遺書)題名は『天下大風』(良寛の言葉)だが、彼は亡くなる前に庭の草木すべての本数を記録して「天下大風、天下騒然」と記していた。定家の「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」を別の言葉で呟いたような気もする。晩年の定家も、庭の草木と明月を慈しんでいた。晩年に記した「ゴヤ」「モンテーニュ」は傑作の評があるも、小生が読むには〝無理〟があった。

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堀田善衛『定家明月記抄・続編』(小生抄3) [鶉衣・方丈記他]

hota3nin_1.jpg 貞応2年、定家は書写の日々。息子・為家25歳でやっと「千首和歌」を遂げる。高倉院没。12歳の御堀河天皇へ。摂政は近衛家実だが、実権は西園寺公経(定家妻の弟で、関東申次役)。

 元仁元年(1224)、定家63歳。11月より一家総がかりで『源氏物語』54帖の書写開始。京都は相変わらず悪疫流行、盗賊群盗で荒廃極まる。北条政子没。(前年に北条義時も没)

 嘉禄2年、為家28歳で公卿・参議。孫5歳も叙爵。定家65歳にして、またも召使女性に子を生ませた。かく場合の子は、概ね寺へ預けられて女児は尼、男児は僧の道を歩むそうな。定家は後鳥羽院側近らとは逆に九条、西園寺の隆盛にあやかって大順調。京極邸も新築した。

 寛喜2年(1230)67歳。京都は再び飢餓。彗星爆発。群盗跋扈。翌3年、天皇の行幸も飢餓者が道に溢れて通行ままならず。定家はそんな世間に「吾ガ事二非ズ」で、庭木と月を愛でつつ書写の日々。『天台止観』『伊勢物語』『大和物語』等を書写。

 翌・貞永元年(1232)71歳。権中納言。同年の『明月記』記入は2日のみだが、同年に九条道家から『新勅撰和歌集』撰集を下命。集まる歌は後鳥羽院時代に比して精彩なし。天皇に序文・目録を見せるだけの定家独撰だが、その直後に御堀河天皇逝去。

 同年に鎌倉幕府「御成敗式目51ヶ条」制定。著者は以下3点に注目。①承久の乱の罪状は父子各々別。②第34条に「姦通=罪科」。京の〝色文化〟に終止符。③官職は幕府に申請。これで平安文化終焉。公卿らは妻を離別して、関東の女を迎え始めたと指摘。

 天福元年(1233)定家72歳。10月に出家。文暦元年(1234)定家73歳。『新勅撰和歌集』を道家に持参。道家は後鳥羽、順徳、土御門の三院の百首を切り捨て、関東勢の詠歌に差し替えた。著者は「政治が文化をもぎ取った」と記す。翌年、定家74歳。『明月記』は12月で書き止まった。

 4年後の延応元年(1239)2月、後鳥羽院が隠岐で没(60歳)。定家はその2年後、仁治2年(1241)80歳で没。これにて「続編」の小生抄おわり。

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堀田善衛『定家明月記私抄・続編』(小生抄2) [鶉衣・方丈記他]

sadaietuika_2_1.jpg 承久2年(1220)、定家59歳。2月、順徳天皇の内裏歌会で定家が詠んだ歌。「道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆の煙くらべに」(ぬ=打消しではなく完了・並列)。野原の柳は下萌えした。私の胸の嘆きと煙くらべ(想いの強さを競い合っているようだ)。特別な歌でもないが、これに後鳥羽院が激怒した。勅命で勘当(閉門)。歌人として公的会合に一切出席ならぬ処罰。

 著者は、7年前の定家邸の柳2本が、後鳥羽院に持ち去られた事件の定家の怒りを含んだ歌と解釈されての激怒と記している。また同歌の本歌は、菅原道真「道のべの朽ち木の柳春来ればあはれ昔としのばれぞする」と「夕されば野にも山にも立つ煙嘆きよりこそ燃えまさりけれ」。

 菅原道真は醍醐天皇の右大臣ながら、誣告(ブコク、虚偽告訴)によって大宰府に左遷されて同地で没。これは天皇の判断ミスが明白で、この話題は宮廷で「禁忌」のこと。さらに後に後鳥羽院が隠岐で記した『御口伝』にある和歌の考え~宮廷文化の君臣間を和する=和歌という考えと、定家の和歌に対する考えの相違に起因したと指摘する。

 ネット小説?鈴木了馬氏の『たれもや通ふ萩の下道』では、芭蕉解釈として「柳下に鍛す=刀鍛冶=3種の神器の刀剣なしで即位した後鳥羽院の嘆き」。また「刀剣=草薙剣=野火の草を払う草薙剣をもたぬ後鳥羽院の嘆き」と解釈して怒ったと書かれていた。

 また小生ブログ「応仁の乱」では、足利義政の東山山荘の造営にあたって、しばしば寺院、公家の庭から樹木や庭石を掠奪したと記していて、これも興味深いが~。ともあれ定家は冷泉自邸の閑居謹慎。これが幸いしたか、定家は宮廷無関係で「歌論」を家芸・家学の歌道として独立化した。

 そして著者は、こう続ける。承久3年の『顕註蜜勘』『後撰集』『拾遺集』などの注釈を主にした歌論を書いて門外不出の秘伝書とした。さらに一家総出で『源氏物語、伊勢物語、大和物語、土佐日記』などを書写。家芸・家学の教科書化を拡充。和歌を天皇から離れた家学(歌学)として独立させたと解説する。

 ここでは「承久の乱」を省略(いずれお勉強)するが、承久4年(貞応元年)1222年に定家61歳。11歳の御堀川天皇(高倉天皇)へ。定家は隠居し、息子・為家が娶ったのが関東豪族・宇都宮頼綱の娘(北条時政の孫)で、鎌倉(北条)政権との絆を強固にした。

 定家は「紅旗征戒吾ガ事二非ズ」と記すも、生涯フリーの小生からみれば「定家=どっぷり・したたかな官僚的忖度人生」に思えてくる。

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堀田善衛『定家明月記私抄・続編』(小生抄1) [鶉衣・方丈記他]

hotayosie2_1.jpg 『続編』を読む。承元5年・建暦元年(1211)、定家50歳。土御門天皇(16歳)が譲位を強いられ、後鳥羽院寵愛の第3皇子・14歳の順徳天皇が即位。すでに宮中に女院10名ほど。宮廷の実権は藤原兼子(けんし)が握る。

 定家の姉が荘園二つを兼子へ遺譲約束(贈収賄)し、定家は念願の公家へ。同年末の日記に、定家が4年前に女児を生ませた「靑女(従女)病む」の記述あり。家で働く女性に手をつけるのは勝海舟と同じ。同年、鴨長明は鎌倉で源実朝と会い、翌年に『方丈記』完。

 建暦2年。有馬で湯治。脚気・咳病・膀胱結石(堀田善衛が後に記す『ミシェル城館の人』のミシェル・モンテーニュも44歳からの結石痛の記述多し)。建保元年(1213)52歳。鳥羽院勅命で定家邸の柳2本を持ち去られる事件あり。京都はすでに公家勢力失墜で、公家下僕や悪僧らが群盗化して殺伐とした状態。

 定家は「天下の悪事、間断なし」と記す。一方の鎌倉も血腥い権力争いと大地震。定家は実朝に和歌を教えているが、実朝の歌は「うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」(うばたま=黒・闇・夜の枕詞。八重雲=不透明層積雲か)。あっちもこっちも真っ暗闇じゃござんせんか~と詠っている。

 建保2年(1214)、定家は大納言・中納言に次ぐ参議就任。同4年、55歳で治部卿。自選全歌集『拾遺愚草』成る。侍従職を辞した後で「定池仮名遣い」と呼ばれる冊子で「お・を」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けを著わす。同年、鴨長明没。

sadaiezoku_2_1.jpg 実朝に嫡子生まれずで、上皇の子を鎌倉に迎えようとした矢先の建保7年(承久元年)、実朝暗殺される。鎌倉は北条政子(頼朝正室。夫死後は尼将軍)と義時結束で上皇に反発し「承久の乱」へ向かう。(先日にテレビで「承久の乱」新解釈を放映。それも参考にした)

 カットは堀田善衛。富山県高岡の廻船問屋(北前船、蒸気船も所有した老舗)の息子。中学時代に金沢の教会司祭宅で生活。慶応義塾仏文科へ(英語に加え仏語、独語習得か)。昭和17年召集も胸部疾患。27歳で東京大空襲。国際文化振興会の上海資料室に赴任。29歳帰国。34歳芥川賞。「べ平連」活動。38歳頃より作家会議や取材で諸外国へ。海外生活10年余。平成4年『堀田善衛・全16巻』刊。6年後に定家と同じ80歳で逝去。」昨年が生誕100年。

 それを記念した『堀田善衛を読む』(集英社新書を昨年秋に刊)。執筆陣は池澤夏樹、吉岡忍、鹿島繁、大高保二郎、宮崎駿。1918年(大正7年)生まれの堀田の影響を受けた方々は彼の息子世代(1940年代生まれ)とわかる。かく小生もその世代。

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『定家明月記私抄』(小生抄5)「新古今集」の切継 [鶉衣・方丈記他]

gotobain_1.jpg 元久2年(1205)、定家44歳。『新古今集』撰4年目。7月から和歌所で撰歌部類始め・切継(取捨)が、院の「毎日参スベシ」で開始。翌3月末、清書未完成ながら焦れた後鳥羽院が倉卒(そうそつ、突然)に『新古今集・竟宴(きょうえん、編纂が終わった祝宴)」を盛大に開催。定家は頑として出席せず。

 案の定、「切継」は11年余も続く。『新古今集』撰進命から15年後の健保4年(1216)に完。(その後も後鳥羽院は隠岐流刑地で『隠岐本古今集』を自撰)。著者は「ここまで突き詰められた抽象美形成の詞華集は、世界文学のなかでも唯一無二」と評す。

 一方、定家の生活面では、5月に南隣の家へ強盗。東隣では犬の喧嘩から刃傷沙汰。京都守護の誅殺事件。物騒な世情。翌・建永元年(1206)、和歌所筆頭の九条良経が38歳で急死。定家は自分が「歌学の家」を確立と決意。だがそれも後鳥羽院次第。

 後鳥羽院は遊戯三昧も、『新古今集』の約2千首を暗記しているほどで、歌会も主催。だが世は歌会に並行して「連歌の会」が活発化。和歌が頂点に達して袋小路に入って、和歌所の伝統主義を笑い飛ばす一種の文学革命の萌芽。歌が庶民へ下降志向したと記す。

 これは後白河天皇が浮浪芸人(傀儡、白拍子、遊女ら)を手許に招き入れて〝今様〟を愉しんだ『梁塵秘抄』撰者になったことから端を発す。本歌取りで想像力が衰えた真空地帯に「小唄・雑歌・俳諧・狂歌など」の生命力が浸食。文学発生源が宮廷から去り始めた。その意では「定家より鴨長命」へ。『新古今和歌集』が文字通り〝夢の浮端〟になって行ったと分析する。

 また著者は『明月記』を読んでいると、登場人物の外側で凄まじい勢いで時代が変わっているのも感じるとも記す。親幕派・九条家vs上皇派・近衛家、貴族vs下層の突き上げ、仏教台頭。厳しい弾圧で法然は土佐、行空は佐渡、幸西は阿波、親鸞は越後へ流刑。

 かく時代は変われど、定家は天皇のご機嫌をとらねば生きてはいけない。その後鳥羽院は『新古今集』切継に埒が明かず。また著者は『明月記』を読んでいると朝廷の礼式・典故、有職故実などの詳細記述に閉口すると記す。だが定家は、それら克明記録を持って次第に権威を発揮。承元2年(1208)47歳で左近衛権中将。だが若い貴族らに交じっての務めで、かれの性格はさらに狷介さを増した。

 後鳥羽院は貴族文化好きの3代将軍・源実朝との友好を深めるが、鎌倉実権は次第に母政子と北条義時に集中。後鳥羽院と鎌倉の摩擦が熱を帯びる。概ねここまでが定家48歳までの日記。以後、定家は後鳥羽院から勅勘を受ける。そして承久の乱、後鳥羽院の隠岐流刑へ。さて「続編」も読みましょうか。ひとまず終わりです。

 カットは後鳥羽院の小倉百人一首(国会図書館デジタル)。「人もを(愛)し人もうらめし あぢきなくよをおもふ故へに物おもふ身は」(人は人を愛し、恨めしく思うもの。思い通りにならぬ故に、つまらん世の中だと思うから、思い悩むのです)

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『定家明月記私抄』(小生抄4)高慢・偏屈な定家 [鶉衣・方丈記他]

tosinari_1.jpg 建仁元年(1201)40歳、秋に熊野御幸に同行。11月『新古今集』撰進の命。定家には〝新古今集風歌体〟を完成させた画期的な年。著者・堀田は当時の作「白砂の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」を挙げて、これぞ感覚浮遊の極点と評す。浮遊ながら金属的冷たさをも併せ持ち、今にも気化蒸発するかの洗練された完成度。フランス象徴派も遥かに及ばないと記す。

 だが著者は、定家に倦怠感ありと指摘。その理由は「古歌の本歌取りが、ある水準に達せば〝自動運動化〟するのも歌の達人の域。やむを得ないだろう」と分析。そうなれば逆に現実も見えてくる。自身の困窮と官位昇進の不満。その不平が通じたか、建仁2年に念願の左近衛中将へ。息子3人も叙爵。冷泉に新邸も建った。

 著者は翌・建仁3年の花見の逸話を紹介する。定家日記に「南殿(紫宸殿)ノ簀子ニ座シテ和歌一首ヲ講ズ。狂女等、謬歌ヲ擲(な)ゲ入ル~」。しかし家長日記を現代文で紹介すれば「気品ありげな女房たちも花見をしていて、われわれが和歌所の連中と認めて、あっちこっちから歌などを持ってきた」。定家は専門歌人ではない女房らを〝狂女〟とし、その歌を謬歌(びゅうか、下手な歌)を擲(な)入る」で、定家の人格が伺えると記していた。

 また上機嫌での車の帰路、仲間(鴨長明を含めて)らが篳篥(ひちりき)や横笛を吹くなど学の音を高らかに興じるも、定家だけが「フン、歌は遊びじゃねぇ」とばかりの堪え難き顔をしていたのではないかと想像し、ゆえに後に後鳥羽院が彼を「左右なき物(頑固者)」と記すことになる。

 同年末、後鳥羽院が父・俊成90歳の賀宴を和歌所で開催。同年は京で二条殿、京極殿などが放火され、貴族らへの殺人強盗も多発。そんな中での筆端に尽くし難き賀宴は「現実放棄の文学の祝祭」で、一つの文化文明がデカダンスに陥った所以だろうと分析。

 元久元年〈1204)43歳。クソ真面目な定家ならぬ日記記述があると著者は笑う。後鳥羽院が得王(院の男色相手)が自分の女房を犯したゆえに追放~の記述。それにしても後鳥羽院には何人の女がいたか。皇后1、后2、夫人3、嬪(天皇の寝所に持する女官)4、女御(中宮の次の位)、更衣(女後の次の位)、遊女、舞女、白拍子~と数え切れぬほどいて、さらに男色もあり。天皇の性行為は皇嗣を得る公事行為も、男色は趣味風俗だろうと面白がって記している。

 また「承久記」には、後鳥羽院の「いやしき身に御肩を並べ、御膝を組ましまして~」の卑猥な様が記されているとか。当時の貴族らの性は「平家没落で、それまでの文化基盤の一つだった女性の〝財産相続権〟が空洞化し、女が男を待つ恋愛や性が崩壊されてきた」ゆえと説明。

 7月、前将軍頼家が23歳で惨殺される。幕府体制も不安定で、政子と北条氏が奮闘中。11月、定家父・俊成91歳で没。定家の日記は漢文だが、父の「雪が食べたい」を叶え、父の悦ぶ言葉が和文(漢字仮名交じり文)になっていて、漢文の限界だろうと注目。

 カットは『小倉百人一首』(国会図書館デジタルより)の俊成の歌「世中よ道こそなけれ思日(ひ)入(る)山乃屋にも鹿そ鳴(く)那(な)る」。俊成が佐藤義清(西行)が出家したと聞いて詠んだ歌。世の中には逃れる道がない。山奥に逃げても鹿が悲し気に鳴いているよ。そう詠んだがドッコイ。堀田は西行は政僧・黒幕的人物と評していた。

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『定家明月記私抄』(小生抄3)後鳥羽院の歌人へ [鶉衣・方丈記他]

sadaie_1.jpg 文治2年、25歳。西行69歳の勧めで『二見浦百首』を詠む。著者・堀田は西行を「遁世後も後鳥羽法皇、崇徳天皇、入道信西、平清盛、源頼朝、藤原秀衡など権力中枢との交渉盛ん。出家というも政僧・黒幕・フィクサー部分濃厚人物」と記す。

 建久元年(1190)、定家29歳。従四位下。西行没。建久3年、31歳。後白河院没。鎌倉幕府開府。安徳天皇が退位せぬ間、三神器の宝剣なしで後鳥羽天皇が即位。

 建久4年、母「親忠女」没。定家は母39歳の子。母は元・藤原為隆の妻。後の画家・隆信を生んだ翌年に夫が出家。定家父の俊成は為隆の姉妹「為忠女」を妻に4人の子がいたも「親忠女」を迎えた。「為忠女」の前にも「顕良女」がいて妻妾同居。子は27名ほど。「群婚的多妻多夫」風習の名残りとか。

 父の和歌の師は、為隆・為忠女の父・為忠。そして定家は22歳で、父の歌の弟子の娘15歳と結婚。子を3人生んだ後に離別。その33歳の時に西園寺実宗女と結婚。西園寺家系になって「先妻哀れ」と著者。定家はその後、父の同じく27人を設ける。彼もまた妻妾多数か。常々病弱と言いつつ「まったく、よくやるよ」と著者は笑う。

 建久7年、35歳。父の家を離れて九条兼実(定家より13歳年長。摂生・関白。実弟は慈円。子女は内大臣良経、のち摂生の良経、のち後鳥羽天皇・中宮の任子)近くに家を構える。前途ありと思えるも、11月に兼実が関白罷免で九条家衰退。定家、生活苦続く。

 建久9年、37歳、仁和寺宮より「定家親子に50首和歌」詠進を求められて奮闘。著者はこの時の歌で『新古今集』に入る「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空」は『古今和歌集』の「風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君か心か」の本歌取りで、〝夢の浮橋〟は『源氏物語』最終帖題名と解説。同年、後鳥羽天皇は4歳の子を土御門天皇として院政へ。著者は「院政=責任回避体制」と解説。

 正治元年(1199)、38歳。源頼朝没。定家は禁色を聴(ゆる)された(位ある色織物が許された)姉妹らに何かと助けられる生活。荘園(播磨の吉富、越部。伊勢の小阿射賀。そして兼実より賜わった銚子の三崎)からの収入も、各地頭が力を持ち始めてままならず。

 正治2年、39歳。7月に妻の弟・西園寺公経からの手紙で、後鳥羽院が百首を募っている計画が伝えられる。父に賄賂の贈り方を教わりつつ大奮闘。この百首によって、定家は九条家歌人から、後鳥羽院直属の歌人・藤原定家となる。

 翌・建仁元年(1201)、40歳。後鳥羽院は相変わらず破廉恥遊戯も、和歌に熱中で「和歌所」設置を命じる。寄人11名。後に鴨長明らも加わって計14名。著者は蹴鞠・管弦・連句・賭弓・双六ら諸芸能の一つとしての和歌。その和歌所は「精神の遊戯空間」と分析。

 写真は国会図書館デジタルC『小倉百人一首』より定家の歌「来怒(ぬ)人をまつ不の浦の遊(ゆ)ふな紀(き)尓(に)屋(や)くもし保(ほ)の身も古(こ)が禮(れ)つゝ」

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『定家明月記私抄』(小生抄2)天災・飢餓の明月 [鶉衣・方丈記他]

meigetuhisseki.jpg_1.jpg 治承4年(1180、福原遷都)定家19歳より『明月記』を書き出す。最初の2年は記事疎ら。70歳前後に書き直した部分あり。著者は、当時の日記は「儀礼事典」記録的要素ありで、手を加えたのだろうと推測。

 「2月14日。天晴ル。明月片雲無シ。庭梅盛ンニ開ク。(夜遅く寝所に入るも眠れず、再び梅を見る間に)忽チ炎上ノ由ヲ聞ク。乾ノ方ト云々。太(はなは)ダ近シ。須臾(一瞬)ノ間、風忽チ起リ、火北ノ少将ノ家ニ付ク」 あっさりした記述だが、同火事で俊成一家も焼け出された。

 そして「9月15日。夜ニ入リ、明月蒼然。故郷寂トシテ馬車ノ声ヲ聞カズ」 故郷(福原遷都後の京都)が寂しいと記している。火災や遷都なる大事件にも無関心を装い、それより〝明月の美〟を記す定家。これすなわち二流貴族の定家を含めた朝廷官僚の態度。彼らの歴史認識欠如の表れ。これに比す鴨長明『方丈記』の正確な観察報告的記述を紹介する。

 定家の同日夜の記述「天中光ル物アリ。其ノ勢、鞠ノ程カ。其ノ色燃火ノ如シ~」(流星群でもあったか)に、著者は「B29焼夷弾爆弾」を想い、若き定家と同じく乱世(時代が一挙に落ちて行く)に生きることの共感を抱くとも記している。

 治承5年(養和元年)1月。20歳の定家は「三条前斎院ニ参ズ」。つまり後白河天皇の三女で、高倉上皇の姉。推定30歳の女流歌人・式子(のりこ)内親王に参じると記している。この二人の関係が、後に能謡曲『定家』(定家の蔦が内親王の墓に絡みつく。身動きとれぬ苦しみと、抱き絡められる官能の悦びを歌う)になる。

 同4月、養和大飢饉。その最中に定家『初学百首』を発表。その中の一首「天の原おもへばかはる色もなし秋こそ月のひかりなりけれ」。京には死臭が満ちていたはずだが、彼が詠うのは相変わらずの月。著者は「これはもう現実放棄でも芸術至上主義でもなく、芸術至上そのもの。その〝冷と静〟は一級品の格を有した高踏歌。悲惨のなかで、彼の歌どもだけが錐のように突き立っているように見える」と書いている。

 文治元年(1185)、定家24歳。壇の浦の合戦、平家滅亡。殿上で何があったか、定家は少将源雅行(6歳下も位は上)を殴打して除籍。翌春に除籍を解かれるも、彼が我慢のできぬ性格を伺わせると記す。また同年春に藤原(九条)兼実が摂政へ。それについては、すでに記した。天皇に娘を嫁がせ、天皇外戚となって要職を独占の政治。

 著者は土御門(つちみかど)天皇11歳に、藤原頼実の娘・21歳麗子を嫁がせ、順徳天皇13歳に良経の娘18歳の立子を、小生調べで後鳥羽天皇の元服10歳に、藤原兼実の子・任子23歳が女御~中宮など、天皇の子を産み競べ合戦の呈を紹介。幼い天皇が、かくも性交に励むことができようかの疑問に「それは概ね乳母が性教育、よって乳母が天皇の子を産む例もままあり」と説明。そして定家の父・俊成の妻子、定家の妻子についても言及する。 写真は国会図書館デジタルコレクション「藤原定家卿書跡集」より。まさに晦渋なる漢文。

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堀田善衛『定家明月記私抄』を読む前に(1) [鶉衣・方丈記他]

meigetuki1_1.jpg 藤原定家については、7月のブログ「日本語」で山口誠司著『てんてん』、小池清治著『日本語はいかにつくられたか?』の第三章<日本語の「仮名遣い」の創始・藤原定家>を参考に紹介したばかり。

 改めて定家経歴概要。和歌の家・御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』撰を命じられ定家も参加。その後『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』なども撰。『方丈記』の鴨長明(7歳年長)とほぼ同世代。つまり戦乱・大火・地震・大飢餓・遷都・源平合戦などの激動期を生きたが「吾関せず」で和歌、文献書写に専念。生涯書写は仏典19種、記録類9種、『源氏物語』など物語や日記5種、歌関係30種。56年に及ぶ日記『明月記』を残し、歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与した。

 59歳で後鳥羽院の逆鱗に触れて閉門。宮廷保護なしも膨大書写資料をもって御子左家を興す。『定家仮名遣』を考案。「を・お」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の遣い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 当時は娘を天皇に嫁がせて天皇外戚で要職独占の「摂関政治」。清和天皇の子を産んだ女性25名。嵯峨天皇の子を産んだ女性25名で子が50名。後白河法皇は有名な春画絵巻『小柴垣草子』を作り、後鳥羽院の女性は数知れず。そんな時代に、定家はどう生きたか。

 上記を踏まえ、堀田善衛『定家明月記私抄』を読む。著者はまず青年期に同窓生らの戦死報が耳に満ちて覚悟が迫られる状況下で、『明月記』の「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」(関東武士による源氏追討の風聞が耳にうるさい程だが吾関せず)に愕然とする。

 召集されて死ぬ前にと古書屋を脅すように同3巻を入手。だが晦渋な漢文に四苦八苦。結局は今川文雄著『訓読明月記』(昭和54年刊、全6巻)はじめの研究書を頼りに、定家19~48歳までの日記を、昭和61年〈1986)53歳で刊。

 著者は定家35歳の <雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる> を微細に異なる白色の組み合わせ。音もなく始めも終わりもない音楽。静的な絵画美。動くともなく動き、宙に静止でもなく浮くでもない有明が全的に表出される希有な美が創造されていると記す。

 これほど高踏な域に達した文化は西洋にない。だが、それがどうだと言えば、そこに意味も思想も皆無で虚無が残る。それが何なのかを探って行きたいと記して、二流貴族の職業歌人の日記を読み始める。さて何回シリーズの小生抄になるか。

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堀田善衛『方丈記私記』(~10章私抄) [鶉衣・方丈記他]

kamosan.jpg 次に著者は「歌人・長明」について記すが、そこは省略して一気に最終章まで私流抄録する。著者は、鴨長明を「世を捨て、かつ60歳になってもトゲの残る人だった」と書き出す。これほどまでに「ウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふてくされ、嫌味」を大ぴらに書いた人は他にはいないのではなかろうか。出家しようが、山中に籠ろうが、おそろしく生臭いのである。それが彼の「私」ならば「無常とはいったい何であろう」と問う。

 世を捨てたからこそ仏道を、朝廷一家の閉鎖文化を、その現実遮断文化を、本歌取りの伝統憧憬を、伝統志向による文化範疇をものともせずに完全に突き抜けた〝私〟が成立したことゆえだろうと答えを見出している。

 「夫三界は只心ひとつなり」。それらへの長大息(長嘆息=私の全人間)で「一身をやどすに不足なしの庵」の形をとっていることも面白い。さらに云えば『方丈記』は「住居を考えることから発した人間論でもあり、堂々たる宣言であった」と記す。

 鴨長明は生涯に二つの世界「貴族・乞食」を知っていた。「深間(境界)の浮雲の人」であると記して、著者は再び彼の人生を振り返る。大火、辻風、遷都、飢餓、大地震、疫病、兵乱。民衆の塗炭を知っている。

 同時に42,300余の飢餓死者の現実を反映しない『千載和歌集』『新古今和歌集』などの高度な美的世界、皇室中心の貴族の閉鎖社会を知った上で、「住まずして誰がさとらむ」の閑居のなかで、彼は初めて「歴史」が見えてきて書いたのが『方丈記』ではないかと記す。

 それに比して、現実の言葉まで拒否し、歌によって歌を作れという二重拒否で成立したのが定家らの伝統憧憬の「本歌取り」。それはまた1945年の終戦当時の空襲と飢餓に満ちた世にも皇室ナントヤラも「本歌取り」の思想と同じではなかったか。それが我々文化の根本に根付いて閉鎖文化集団の土壌にもなっているのではないか。かくして「日本」は深い業の歴史と伝統に根付いている。

 そして鴨長明のもう一つの対極に立つのが、すさまじい思想弾圧に耐えて、人々の心のひだに入って行ったのは親鸞、法然、日蓮ではなかろうか。長明が逝った日野山の麓で生まれたのが親鸞。「長明かくれて親鸞出づ」と結んでいた。

 また一人、関心を寄せたくなる作家と出会いました。氏が次に書くのは「親鸞」と思いきや、氏は『定家明月記私抄』を著わしているらしい。カットは国会図書館デジタル「肖像」より。世を捨ててもトゲの残るしたたかな風貌なり。

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堀田善衛『方丈記私記』(4~5章私抄) [鶉衣・方丈記他]

hojyokinosyo.jpg_1.jpg 著者は20代後半「東京大空襲~終戦」の間に、『方丈記』を読み続けたと述懐する。鴨長明が「福原遷都」を、養和飢餓を体験報告したのは自分と同じ20代後半。時代は大きく隔たるも、青年期に戦争末期を生きた堀田の胸に『方丈記』が、いかに迫ったかは容易に想像できる。

 政治や天災からの絶望、社会転換が強いられた日本人民の、精神的・内面的な処し方、歴史感覚や歴史観には、それらから共通したものが流れているのではないかと推測する。『方丈記』が記す仁和寺(にんなじ)法印が、飢餓死42,300人の額に「阿字」と書いて弔ったこと、大地震の記述~。「悲惨の膨大量」は変じて「末期認識」へ至ると記した後で、著者はとんでもないことに気が付く。

 藤原定家の父・俊成はそんな波乱・悲惨に「我関せず」を貫いて『千載和歌集』の撰を続けた。朝廷一家の〝政治〟とはいったい何だったのか。それは「政治であって政治ではなし」。日本政治家の「責任もへったくれもない精神」は、この頃から形成されていたのではないかと記している。

 かく時代に長明はどう処したか。著者はまず藤原定家「初学百首」より「天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月の光なりけり」を紹介。定家20歳の作ならば1182年。42,300名が餓死した養和大飢饉の最中の作。そんな世間に我関せずで、ただただ秋の月光の美しさにうっとりしている。

 著者の胸は張り避けんばかり。朝廷一家の政治が、いかに「政治責任、結果責任に無縁」だったか。だが、その一方で人間が持ち得る最高の詩歌世界『千載和歌集』、やや時代を下がって『新古今和歌集』誕生は、そうした政治の無責任ゆえか。それが天皇制で、著者青春期の悲惨な戦争遂行者へと延々とつながっているのはないか。天皇と為政者の姿勢は『方丈記』の時代と同じく相変わらずの「吾事二非ズ」。

 政治に関与できぬ身分の長明は、身を動かして京の巷を足を使って観察し続ける他にない。著者が鎌倉の将軍へ会いに行ったのは、よく言われる宮仕えを求めてではなく、福原遷都視察と同じように、身を動かして現場を見るジャーナリスト的な政治関心・好奇心ゆえだろうと推測する。

 その推測根拠に『吾妻鏡』(鎌倉6代の将軍記)に記された鴨長明の、源頼朝・法華堂の柱に残した「草モ木モ靡(なびき)シ秋ノ霜消テ空(むなし)キ苔ヲ払フ山嵐」(草木も靡いた頼朝の権勢は、秋の霜のように融けて、残った苔に風が吹いてゆくよ)を紹介する。長明はこの歌を詠んだ後に、方丈の庵に籠って「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず~」と書き始めて散文の世界に入って行ったと記す。

 ゆえに彼の「無常感の実体」も、彼の異常なまでの政治への、歴史への関心からきたものではなかろうか。なんとも眼からウロコの指摘です。挿絵は明暦4年の山岡元隣『方丈記之抄』(国会図書館デジタルコレクション)より。

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堀田善衛『方丈記私記』(1~3章私抄) [鶉衣・方丈記他]

hottahojuo_1.jpg 第1章。読み始めて、すぐに著者へ好感を持った。節度・優しさ・誠意、そして鋭い指摘。まず27歳「東京大空襲」惨状体験を、他人事のように感じていた自分がいたと述懐する。

 小生1歳の記憶。夏子ちゃんちの縁の下から見上げた空襲の空が「あぁ、きれい」と飛び出した(姉は「あんたは埼玉疎開中で、そんな事はない」と云うが~)。堀田はそんな体験を語って『方丈記』安元3年「京都大火」紹介に入る。

 ~煙にむせびてたふれふし(倒れ伏し)、或は炎にまぐれてたちまちに死ぬ。(略)資財をとり出るに及ばず、七珍万宝さながら灰燼となりにき。(略)此たび、公卿の家十六焼たり。まして、其外はかずしらず。すべて都のうち三分の一に及べりとぞ。男女死ぬるも数千人、馬牛の類ひ辺際をしらづ。(小生筆写の明暦4年の『方丈記之抄』より)

 これら記述には、鴨長明の「なんでも見てやろうという野次馬(弥次馬)根性による精確な観察(ルポルタージュ)と、社会部ジャーナリスト的な眼がある」と指摘。小生は永井荷風の「偏奇館」炎上などを記す姿勢にも共通したものを感じる。著者はその突き放した眼の裏側に〝思想の萌芽〟ありと嗅ぎつける。

 次に引用テキストは日本古典文学大系版(西尾實校注)だと説明し、岩波文庫版(山田孝雄校訂)との違いを指摘。岩波文庫版では火元が「病人をやどせるかりや」で、西尾校注では「舞人を宿せる仮屋」になっていると記す。(巻末対談で五木寛之は~京都には東寺デラックスなる有名ストリップ劇場がある~などと言っている)。ちなみに小生の岩波文庫版は市古貞次校注で「舞人~」。小生筆写の山岡元隣『方丈記之抄』は「病人~」。

 さらに3年後の「京都大旋風」の長明記述は〝諸行無常〟よりワクワクした期待感があると読む。それも「心より先に足が動き、足に聞け」のルポライター的好奇心。さらに岩波文庫版「資財かずをつくしてそらにあがり」だが、西尾校注は「空にあり」。そこにはユーモラスで奇妙な絵が浮かんでくると記す。

 その感覚は、自身の東京大空襲直後の富岡八幡宮の体験に似ていると説明。焼け跡をひっくり返していた人々が、小豆色の自動車から降りてきた天皇に、土下座をして「陛下、私たちの努力が足りずに~」と謝っている。な・なんだ!それは逆ではないか。この逆転現象がまるでデカダンスの怪奇絵のよう。「空にあり」の奇妙さに通じると記す。それでいて人々の言動も真底のものと思う自身の心もあって、とても困惑したとも記す。

 大火、大地震、飢餓、辻風、戦乱、遷都を突き放して観る長明の記述には「政治の責任・人々の優情」ありで「政治であって政治ではない厄介な日本の政治」が描かれている。それが日本人の思想の根源=骨がらみくい込まれている。そこをえぐり出す作業が必要だろうと指摘していた。

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方丈記28:その後の鴨長明 [鶉衣・方丈記他]

edohoujyouki_1.jpg 鴨長明は建暦2年(1212)3月末、60歳で『方丈記』を著わした翌年に、鎌倉へ旅立っています。源頼朝の次男・実朝が12歳で征夷大将軍になり、藤原定家から和歌を学んだ。京の諸知識を教える人として長明に白羽の矢が立ったとか。

 「閑居にこだわるのも、また執着ではないか」。そう自戒しつつも、余命僅かと自覚しての鎌倉行。ゆえに実朝に仕える欲もなく、修行のつもりの旅。途中で大洪水にも遭ったりして、西行を意識しつつの旅だったのでは、と五味文彦は記しています。1200年代の鎌倉の記録を見ると、毎年のように大きな地震に襲われています。長明の人生は最初から最後まで災害と共に生きたようでもあります。帰郷後に『発心集』約百話を編集し、『方丈記』から4年後の健保4年(1216)64歳で死去。

<『方丈記』シリーズを終えて> 原本は「国会図書館デジタルコレクション」公開の明暦4年刊、山岡元隣『鴨長明方丈記』(長谷川市良兵衛開版)。くずし字の練習が主目的でしたので、深く読み切れていません。まして古文、和歌に疎く、解釈も不十分です。勉強不足や間違いは、随時追記訂正したく思っています。現代語訳は控えました。机上には「古語辞典」「俳句で楽しく文語文法」「旧かなと親しむ」がありますが、調べっ放しで完全に覚えるには至っていません。調べ知った言葉は、受験生のように「暗記カード」でも使って覚えきろうかとも思っています。

<筆写とくずし字について> 現在市販中の東京堂出版の児玉幸多編『くずし字解読辞典』ではなく、古本市で入手の近藤出版刊、児玉幸多編『漢字くずし字辞典』(近藤出版の使い易さについてはブログで報告済)が、今回の『方丈記』筆写ですっかり手に馴染みました。索引から数度で該当頁にピタリと辿り着く〝技〟が身につきました。

 老いて、新聞の頁も指先を舐めナメなのに、同辞書の紙質とも相性が良かったようです。検索から筆順調べなどの没投感も実に心地よく、時間を忘れるようでした。筆写は、多分に写経に似ているようにも思いました。

 30代からのワープロ、パソコン人生を経ての〝手書く〟復活。万年筆LAMYサファリ色違い4本。水彩筆も持ち始めました。筆写も筆ペンから習字筆へ。骨董市で入手の古硯も愛用で愉しかったです。

<参考書> 岩波文庫『方丈記』(市古貞次校注)、新潮社日本古典集成『方丈記・発心集』(三木紀人校注)、五味文彦著『鴨長明伝』(山川出版社)、笠間文庫『方丈記』(浅見和彦訳・注)、吉川幸太郎『論語』(朝日選書)、北村優季著『平安京の災害史』(吉川弘文館)、日本古典文学大系『方丈記 徒然草』(西尾實校注)、同『平安物語』(上下巻)、玄侑宗久著『無常という力』、久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫)、杉本秀太郎著『平家物語』(講談社学術文庫)他。

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方丈記27:閑居への愛も執心か~ [鶉衣・方丈記他]

somosomoitigo_1.jpg 抑(そもそも)一期の月影かたふきて、余算山の端(は)にちかし(余命の端も近い)。忽に三途のやみにむかはん時、何のわざをか、かこ(託つ=歎く)たんとする。仏の人を教給ふおこりは(おこりは=始まりは。岩波文庫は〝趣は〟)、事にふれて執心なかれとや。今、草の庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に着するも障(さわり)なるべし。いかが用なき楽しみをのべて、むなしくあたら時を過さん。しずかなるあかつき、此のことはり(理)をおもひつづけて、みづからこころにとひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心をおさめて道をとなはん(仏道修行をする)為也。しかるを、汝が姿は聖(ひじり)に似て、心はにごりにしめり。

 『方丈記』が評価される一つが、この「抑一期の~」の文にあると指摘する方が多い。つまり、隠棲の境地に達したかの後で「草庵を愛するのも、静かな生き方に心を休めるのも、執心ではないか。語っている姿は聖に似ているも、それゆえに心が濁っていると云えなくもない。その自戒は、こう続く。

 住家は則(すなはち)浄名居士(浄名=じょうみょう。インドで釈迦の教化を助けた長者。居士=寺に入らず家に居て仏門に入る男子)の跡をけがせりといへども、たもつところは(修行の結果は)、わづかに周sumikaha2_1.jpg梨槃特(しゅうりはんとく=釈迦の弟子で最も愚鈍だった人)が行にだにも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか(前世の報いによる貧しさか)。将又(はたまた)、妄心のいたりてくるはせるか(心が汚れての狂いか)。其時、心、更に答ふることなし。ただ、傍に舌根をやとひて、不請の念仏、両三返を申してやみぬ(二三度唱えるにとどまった)時に、建暦の二とせ弥生の晦日(つごもり)頃、桑門(出家者)蓮胤(れんいん=長明の法名)、外山の庵にして、これをしるす。

 月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな

 最後の文章も難解。「不請の念仏=心に請い望まない念仏」。岩波文庫版では「不請阿弥陀仏」。五味文彦は「不請阿弥陀仏=不請の阿弥陀仏=阿弥陀仏に請わない。安易に頼らない」と言明していると記す。

 現職住職で作家の玄侑宗久は「一生懸命に唱えれば〝自力〟になってしまう。阿弥陀様に挨拶するように自然な調子で二三回唱えるだけでいいという親鸞の教えに近づいている」と解釈していた。

 最後の歌「月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな」は岩波文庫版にはない。「月の光陰が山の端に入る(消える)のは(寿命が絶るようで)辛いこと。絶えぬ光を見るすべがあればいいのになぁ」の意か。辞世歌。これにて『方丈記』おわり。最後に、その後の鴨長明さんについて。

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方丈記26:住まずして誰が悟らん [鶉衣・方丈記他]

ohkatawonozu_1.jpg 大かた世をのがれ身を捨てしより、うらみもなく、おそれもなし、命は天運にかませておしまづ、いとはづ(厭はず)身をば浮雲になずらへて(準ふ、疑ふ=準じる、片を並べて)、頼まずまだし(未だし=時期尚早)とせず。一期のたのしみはうたたねの枕の上にきはまり、生涯の望は折り折りの美景に残れり。(ここまでは岩波文庫版にない文章です) それ三界はただ心一つなり。心若安からずは、牛馬・七珍(乗り物の家畜・宝物)も由なく、宮殿望なし。今さびしき住ゐ、一間の庵、みづからこれを愛す。

 をのづから(たまたま)みやこに出ては、乞食となれることをはづといへども、かへりて爰に居る時は、他の俗塵に着することをあはれふ。もし人此いへることをうたがはば(云える事を疑えば)、魚鳥の分野(ありさま)を見よ。魚は水にあかず、うほ(魚)にあらざれば其心をしらず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば其心をしらず。閑居の気味も又かくのごとし。住ずして誰かさとさん。

 ●三界(欲界=淫欲・食欲・色界)。●後半の文は、住まずして誰がわかろうか、と居直っている。『方丈記』次で終わりです。

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方丈記25:独り気儘の自由 [鶉衣・方丈記他]

imaisyoku_1.jpg 今、一身を分ちて、二の用をなす。手のやつこ、足の乗物(手は召使、足は乗物)よくわが心にかなへり(適へり)。こころ又身のくるしみを知れらば、くるしむ時はやすめつ(つ=完了の助動詞)、まめなる(やる気のある)時はつかふ。つかふとても、たびたび過さず(無理せず)。ものうしとても、心をうごかつ事なし。いかに況や、つねにありき(歩き)、常に動くはこれ養生成べし。何ぞいたづらにやすみをらん(休んでいられようか)。人を苦しめ、人を悩ますは又罪業也。いかが(反語。どうして~あろうか)他の力をかるべき。

 鴨長明、いよいよ解脱の領域です。前項までが〝住宅論〟ならば、今度は〝身体論〟から〝物質・食糧論〟へ。

 衣食のたぐひ、又おなじ。藤の衣(藤や蔦などの皮で作った衣服)、麻のふすま(夜具)、うるに(得るに)したかひて、はだ(肌)人をかくし、野辺のつばな(茅花、ちばな、ちがや)、峯のこのみ(木の実)、命をつぐばかり也。人にまじはらざれば、姿を恥る悔もなし。かてともし(糧乏し)ければ、をろそかなれとも程味をあまくす(自分のおろそかの結果と思えば程甘んじる)。すべてかやうの事たのしく、富る人に対していふにはあらず。ただ我身一にとりて、昔と今とをたくらぶる(た=接頭語+較ぶる)也。

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方丈記24:自分の為の家とは [鶉衣・方丈記他]

subeteyono_1.jpg すべて世の人の住家を作るならひ、かならずしも身のためにはせず。或は妻子・眷属(けんぞく=一族郎党)の為につくり、或は親昵(しんぢつ=親しい人、昵懇の人)、朋友のために作る。或は主君、師匠及び財宝、馬牛のためにさへこれを作る。我今、身の為にむすべり。人の為につくらず、故いかんとなれば、今の世のならひ。此身の有様。ともなふべき人もなく、たのむべき屋つこ(奴=使用人)もなし。たとひ、ひろくつくれり共、誰をやどし、誰をかすへん(据へん)

 今の言葉で云えば、究極のシンプルライフ、断捨離、ミニマリストの暮し。妙に現代の時流に合っているから面白い。

 それ(夫、そもそも)、人の友たる者は、とめるをたうとみ(富めるを尊み)、ねんごろ(外見上の親切)なるを先とす。かならずしも、情あると直成(すなおなる)とをば愛せず(人情ある者、素直な者を愛せず)。たゞ糸竹(弦管楽器)、花月を友とせんにはしかず。人の奴たるものは、賞罰のはなはだしきをかへりみ、恩のあつきをおもくす。更に、はごくみあはれふといへども、やすく静なるをばながはず(穏やかで静かであることなど願っていない)。

 ただ我身をやつことするにはしかず。もしすべきことあれば、則をのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど(弛からず=だるいわけではないが)、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。若ありくべきことあれば、みづかsorehitonotomo_1.jpgらあゆむ。苦しといへ共、馬・鞍・牛・車と心をなやますには似ず。

 今、都心在住者に、自家用車所有欲がない。車を持つ煩わしさ、経費を嫌っている。『方丈記』が著されたのが1212年。それから806年です。

 五味文彦は、これら長明の〝住宅論〟は、吉田兼好『徒然草』に受け継がれてゆくと記している。「家の作りやうは夏をむねとすべし~」。小生はまた、横井也有『鶉衣』にも引き継がれていると追記したい。也有翁は頭を剃っても「夏をむねとこそと思ひ定めて~」と『徒然草』を引用するほど。次回は長明の〝身体論〟へ。

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方丈記23:草庵、早や五年~ [鶉衣・方丈記他]

hodosemasi_1.jpgokatakototokoro_1.jpg 大かた此所に住初(すみそめ)し時は、白地(あからさま)とおもひしかと、今迄に五とせを経たり。仮の庵もやゝふる屋(岩波文庫は〝ふるさと〟)となりて、軒にはくち葉ふかく、土居苔むせり。

 をのずから事の便に都を聞ば、此山に籠ゐて後、やんごとなき人のかくれ給へるもあまた聞ゆ。まして其数ならぬたぐひ、尽くしてこれをしるべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、又いくそばくそ。たゞかりの庵のみ、のど(長閑)けしくて恐れなし。

 ●白地=あからさま、にわかに、突然、ちょっとの間である、しばらく。●むせり=咽ぶ、噎ぶ。詰まらせる。●おのづから=たまたま、偶然。●やんごとな=やむごとなし=捨てて羽おけない、重大である、はなはだ尊い、別格である。●尽くしてこれしるべからず=知り尽くすことはできない。

 程せばしといへども、夜ふす床あり。昼居る座あり。一身をやどすに不足なし。がうな(やどかりの古名。岩波文庫は〝かむな〟)は、ちいさきかひをこのむ。これよく身をしるによりてなり。みさごは荒磯にゐる。すなはち人をおそるゝによりて也。我又かくのごとし。身をしり世をしれらば、願はず、ましらはず。たゞしづかなるを望とし、愁いなきを楽とす。

 ●ましらはず=ためらわず、不安の念なく。岩波版は〝わしらず〟で校注に「あくせくと奔走しないこと」とある。


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方丈記22:草庵の夜しづかなれば [鶉衣・方丈記他]

mosiyoru_1.jpghojyozu.jpg_1.jpg 日野山の草庵の様子、暮しぶりの記述が続くので、江戸本『方丈記之抄』に挿入された絵を紹介です。

 もし、夜しづかなれば、窓の月に古(故)人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、とをく真木の嶋のかがり火にまがひ、暁の雨は、をのづから木の葉吹嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴を聞て、父か母かとうたがひ、峯のかぜぎの近くなれたるにつけても、世にとをさかる程をしる。或は埋火(うづみび)をかきをこして、老のね覚(寝覚)の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろうの声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけても尽ることなし。いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧(らん)人の為には、これにしてもかぎるべからず。

 「窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす」は『和漢朗詠集』から。窓からの光に旧友や故人をしのば、猿の声が彼らの泣き声にも思えて涙があふれる~そんな意だろう。

 ●真木の嶋=槙島(宇治川と巨椋池の間にあった洲。かがり火をたいて氷魚をとる)。●かせぎ=鹿の古名。●かきおこして=掻き熾す? ●景気=気配、景色(けいしょく、けしき、風景)。

 最後の「いはんや、ふかくおもひ、深くしれ覧人の為には、これにしてもかぎるばからず」の現代文訳は「いうまでもなく、深く考え、知識深き人には、これだけに限らないはずである」

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方丈記21:方丈暮らしの充実 [鶉衣・方丈記他]

matafumoto2_1.jpg 日野山、方丈庵生活の充実記が続きます。

 又麓に一の柴の庵あり。則(すなわち)此山守が居るところ也。かしこに小童有。時々来て相訪ふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく(遊び歩く)。かれは十六歳、われは六十。其齢事の外なれど、心をなぐさむる事は、これ同じ。或はつ花を抜き、岩なしを取る。又ぬかごをもり、芹をつむ。或はすそはの田井に至りて、落穂をひろひて、ほぐみ(穂組)をつくる。若日うららかなれば、嶺によぢ上りて遥に故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師(これも地名)を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむる障なし。あゆみ煩なく、志とをくいたる時は、これより峯つゞき、すみ山を越、笠取を過て、石間にまうで、石山をおがむ。若は又栗津の原を分て、蝉丸翁が跡をとふらひ、田上川をわたりて、猿丸太夫が墓をたづぬ、帰るさには、折につけつゝ、桜をかり、紅葉をもとめ、蕨を折、木のみをひろひて、且は仏に奉り、且は家づと(みやげ)にす。

 岩波文庫版では「かれは十歳、これは六十」。江戸本は「かれは十六歳、われは六十」。どちらが正しいのでしょうか。長明のアウトドア暮しが、実に楽しそうです。ここからは植物のお勉強。

 ●つ花=茅花、イネ科の多年草。細い鞘に花穂を包む。この花穂が茅花。初夏にこの鞘をほどき銀色の穂がなびく。茅花の中の穂は僅かな甘みがあって、子らが食べる。●岩梨=ツツジ科。果実は緑色=赤褐色の果皮に包まれて、梨のような甘さがある。●ぬかご=むかご、自然薯の茎にできる実。

 草摘みを愉しめば、嶺に登って故郷を望み、かつ先輩歌人らの足跡に思いを馳せる。●すそはの田井=山裾をめぐる田。●勝地=景勝地。●すみ山=宇治市炭山。他に地名いろいろ。●石山=岩間寺。●蝉丸翁=琴をよくした翁。●猿丸太夫田風=三十六歌仙の一人。

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方丈記20:自然と独居の愉しさ [鶉衣・方丈記他]

sonotokoro_1.jpg 方丈の説明、その暮しが記されます。

 其所のさまをいはば(云はば=云ってみれば)みなみにかけひ(南に掛樋)あり。岩をたゝみて(畳む、いじめて? 岩波版は〝岩を立てて〟)水をためたり、林軒(はやしのき。岩波版は〝林の木〟)近ければ、爪木(つまぎ=薪にする小枝)を拾ふにともし(乏し)からず。名を外山(岩波版は〝音羽山〟)といふ。正木のかづら(ツタマサキ)、跡をうづめり。谷しげけれど西は晴たり。観念のたより(山の人的形象?)なきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西の方に匂ふ。夏は時鳥(岩波版は〝郭公〟)をきく。かたらふごとに(鳴くたびに)しで(死出)の山路をちぎる(冥土の山路の道案内を約束する)。秋は日くらしの声みみにみちて、空蝉(うつせみ=現世)の世をかなしむと聞ゆ。冬は雪を憐む。つもりきゆるさま、罰障にたとへつべし。もし念仏ものうく、読経まめならざる時は、みぢからやすみ、みぢからおこたる。さまたくる人もなく、又恥べき人もなし。

 「罪障にたとへつげく=罪障の山に=罪の山に〝例へつげく=たとえることができよう〟。江戸版は古本(岩波版)に逆らうように、様々に言葉を変えています。

 殊更に無言をせざれども、ひとりをれば、口業をおさめつべし。かkotosarani_1.jpgならず禁戒を守としもなけれ共、境界なければ、何に付てかやぶらん。若跡の白波に身をよする(我が身を較べる)朝には、岡の屋に行かふ舟をながめて、満沙弥が風情をぬすみ、もし桂の風ばちをならす夕には、潯陽(じんやう)の江を思ひおもひやりて、源都督のながれをならふ。もしあまり興あれば、しばしば松のひびき秋風の楽をたくへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなければ、人の耳を悦ばしめんとにもあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心をやしなう斗也。

 「口業をおさめつべし=三業のひとつ、妄語、悪口を納むることになろう」。「境界=けいかい(地所の境)」だが「きょうがい=境遇」。ここでは俗悪にまみれた境遇。●岡の屋=宇治の岡屋。●満沙弥=飛鳥~奈良の歌人。出家して、その歌に無常観あり。●桂や潯陽は中国。この文章は漢詩的散文です。「秋風の楽をたくへ」の〝たくへ=たぐふ=添わせる〟。●源都督=源経信。大納言、平安中期の歌人。

 

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方丈記19:日野山に方丈の庵 [鶉衣・方丈記他]

kokoni60no_1.jpg 爰に六十(むそぢ)の露きえがた(消え方=消えかけるころ)にをよびて、更に末葉のやどり(晩年の住居)をむすべること有。いはば狩人(岩波文庫版は〝旅人〟)の一夜の宿を作り、老たるかいこの眉(蚕の繭)をいとなむがごとし。これを中頃のすみかになずらふ(準ふ・疑ふ=較べる)れば、又、百分の一にも及ばず。とかくいふ程に齢はとしとしにかたぶき(衰え)、すみかは折々にせばし(狭し)。其家の有様よのつねならず。ひろさはわづかに方丈。たかさは七尺がうち也。所をおもひさだめざるがゆへに、地をしめて作らず。土居をくみ、打おほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし心にかなはぬことあらば、やすく外へ移さんが為也。其改め造る時いくばくの煩か有。つむ所わづかに二両也。車の力をむくふる外は更に用途いらず。

 いよいよ方丈の庵の説明です。「爰」に馴染なく毎回戸惑う。=ここに、エン、オン、ひく、かえる。(爰許=ここもと)。高さ七尺=2mほど。広さは五畳ほど。しかも組み立て式で、二両あれば移動運搬可能。

 いま、日野山の奥に跡をかくして、南に仮の日がくしをさimahinoyamano_1.jpgし出して、竹のすのこをしき、其西に閼伽棚(あかだな=仏に供える物を置く棚)を作り、中には西の垣に添て阿弥陀の畫像を安置し奉りて、落日を請(うけ)て眉間の光とす。彼帳のとびらに普賢ならびに不動の像をかけたり。北の障子の上にちいさきたなをかまへて、くろき皮籠三四合を置。すなはち和歌、管弦、往生要集ごときの抄物(抜き書きしたもの)をいれたり。傍に箏、琵琶をのをの一張をたつ。いはゆるおりごと(折琴)、つぎ琵琶これ也。

 ●眉間の光=仏の眉間の白毫から放つ光。 

 東にそへえてわらびのほとろ(蕨の穂の伸び過ぎてほうけたもの)をしき、つかなみ(束並み=藁を畳の広さに編んだ敷物)を敷て、夜の床とす。東の垣に窓をあけて、爰にふつくゑ(文机)をつくり出せり。枕のかたに、すびつ(炭櫃)あり。これを柴折くぶるよすが(手段)とす。庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。則(すなはち)諸(もろもろ)の薬草を載(うへ)たり。仮の庵の有様かくのごとし。

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方丈記18:大原移住の理由 [鶉衣・方丈記他]

cyoumeizou.jpg_1.jpg 『方丈記』が大原隠棲に入ったので、前回に続き長明の人生を探る。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 長明は河原近くに家を建てると同時に、俊恵に師事して歌の道に精進。師の後継者に認められつつあった。長明没時期に成立と思われる歌論集『無名抄』には、全編に俊恵の教えが記されているとか。

 文治3年(1187)、院宣による藤原俊成選集『千載和歌集』に長明の一首が入った。健久2年(1191)の「六条若宮歌会」に出詠。この時、すでに俊恵は亡く、翌年に後白河法皇も没。

 政治が鎌倉の将軍頼朝と京・九条兼実の両輪で展開し、九条家が文化拠点になる。建久9年(1197)、後鳥羽院政の開始。翌年に頼朝没。この間に九条家の浮沈あるも、正治2年(1200)になると九条家復活。『石清水若宮歌会』へ長明も復帰。建仁元年(1201)に「和歌所」設置で、毎月の歌会開催。長明は「和歌所の寄人」に選出されてトップランナーへ。

 彼は寂蓮や定家にも学び、さらに腕と地位を固めるが、建仁3年(1203)頃から朝廷の歌会活動が消えた。五味著には、この頃に大原隠棲して、建永元年(1206)春頃に出家、ではないかと推測されていた。

 大原隠棲は、こんな理由もあってだろうと記す。上皇が長明の「昼夜奉公怠らず」に報い、下鴨社の摂社・河合社で空席になった禰宜(かつて父親がそうだったように)に就かせようとしたが、下鴨の祐兼が猛反対。上皇は、ならば他社を官社に格上げし、その禰宜に就かせようとした。これを長明が辞したことによるだろうと推測。

 『方丈記』の ~すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をやなませることは三十余年なり。其間、折々のたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかえて、家を出て世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし、身に官禄あらず、何に付てか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。

 禰宜になれると喜んだ自分が恥ずかしい、それが叶わず、今度は別社の禰宜の座を~という上皇の心遣いにいたたまれない、という思いがあったのだろうと推測。長明の隠棲については、家長日記の「けちえんなる心」を〝未練で頑なになった心〟と解釈する向きが多いので、小生もこれを辞書で引けば「=掲焉、結縁」両意あり。結縁なる心=仏道に入る縁を結ぶ、の意が正しいのではないかと思った。

 隠棲した長明だが『新古今和歌集』に10首が入った。その一首が「秋かぜのいたりいたらぬ袖はあらじ ただわれからの露のゆふくれ」。挿絵は同歌挿入の「新古今集入り肖像画」(国会図書館デジタルコレクションより)。次回から『方丈記』筆写に戻ります。

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方丈記17:歌人・長明の人生 [鶉衣・方丈記他]

kamo.jpg_1.jpg 『方丈記』は第一段が序、第二段が体験した災害の数々、そして第三段が日野山に〝方丈の庵〟を結ぶまで。ここで養和の大飢餓・大地震当時の「歌人・鴨長明」の状況を把握しておきたい。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 養和2年、30歳。大飢餓~大地震の頃に、どんな理由でか祖母の家に住めなくなった。河原近くに十分の一程ほどの家を建てた。同時期の下賀茂社記録には、長明はすでに禰宜継承の流れから外れた下位役職。歌人として生きる他にない。上賀茂神社の歌人・賀茂重保の企画による『月詣和歌集』が養和飢餓の年に成立で、長明の4首が入った。

 その一首が「住み詫びぬいざさはこえむ死出の山 さてだに親のあとをふむやと」。無教養の小生は、分解しないと解釈できない。●住み侘びぬ=生きて行くのが辛い、嫌になった。●いざさは=いざ(さぁ)+さは(然は、そうならば)。●死出の山=死者が越える冥土の山。●さてだに=さて(そのまま、その状況で)+だに(せめて~だけでも)。●やむやと=や(詠嘆)+と(変化の結果)。(父のように、禰宜になる道はすでになく、生きて行くのが嫌になってしまった。そうならば(父のように)死出の山を越えて行こうか~。

 小生、俳句は少し勉強も、和歌への興味希薄。理由は(1)貴族中心。(2)恋歌が多い。(3)歴史的に遡るのはせいぜい江戸まで~等々。自分のことより本題へ戻ろう。

 長明は自分の家を構えると同時に、俊恵(しゅんえ、法師)に師事して本格的な歌の修行に入った。文治3年(1187)院宣(後白河院の命)による藤原俊成の選集『千載和歌集』に一首が入る。「思ひあまりうちぬる宵の幻も 浪路を分けてゆき通ひけり」。恋歌だな。

 琵琶の師・有安は長明に常々こう忠告していたそうな。「所々にへつらひありき、人にならされ」るゆえ〝歌詠み〟になるなと。今流に言えば、狭い貴族の歌人サークルに入れば〝忖度〟する生き方が身についてしまうよ、という忠告だろう。だが長明は『千載和歌集』に載ったことで、琵琶の継承者にならず、歌人の道を選んだ。挿絵は国会図書館デジタルコレクション「肖像」(明治13年刊)より鴨長明の肖像。

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方丈記16:30で家を建て、50で隠棲 [鶉衣・方丈記他]

wagamititikata_1.jpg ここから自身の〝家遍歴〟が記される。

 わが身、父方の祖母の家を伝へて久しく彼所(かのところ)にすむ。その後縁かれ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかは、つゐに跡とむること得ずして三十餘にして、更に我心と一の庵を結ぶ。是を有し住居になすらふるに十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を作るに及ばず。わづかについひぢをつくりけりといへ共、門たつるにたつき(費用)なし。竹を柱として車やどりとせり。雪ふり風吹ごとに、あやうからずもあらず。所は河原ちかければ、水の難ふかく、白波の恐もさはがし。すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませることは三十餘年なり。

 〝父方の祖母の家〟が、いまひとつ理解できなかったが、玄侑宗久『無常という力』に、こう説明されていた。~当時は妻間婚(つままこん)で旦那が通ってくる形で、女性が家を持っていた。これで納得です。しかし30年余を経て、なにがあったか、祖母の家を出ることになって、その十分の一の家を建てた。建てた場所は鴨川の河原近く。内乱や飢餓が襲えば、死体が捨てられたりの地だ。

 「しのびかたがたしけかりしかど」がややこしい。●偲び(懐かしむ)方々(あれやこれや)しけかり(茂し=多い、いっぱいの連用形sonoaidaoriori_1.jpg=しげかり)しか(過去〝ぎ〟の已然形+と)。「~かりしかど」はよく出てくる。丸暗記がよろしいようです。この意は「思い出があれこれ多かった」。続く文●つねに跡とむること=常に跡泊むる事。岩波文庫版は「つひに屋とどむる事」になっている。●なすらふる=準ふる、疑ふる=比較するには。

 其間、折り折りのたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家を出世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすが(縁、ゆかり)もなし。身に官禄あらず、何に付けか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。

 ●たがひめに=不本意なこと、意に反すること。●いくそばく=数多く。河原の側に建てた家に50歳の春を迎えるまでくらして、大原に隠棲したと記している。次回は『方丈記』から離れて、長明の歌人としての歩みを探ってみたい。

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方丈記15:我身と栖の徒なる様 [鶉衣・方丈記他]

subeteyono1_1.jpg 長明は、五大災害を記した後で、こうまとめている。

 すべて世の有にくき(在り難き=生きて行くのが辛い)事、我身と栖(すみか)とのはかなくあだなる(儚く徒なる)様、かくのごとし。いはんや所により、身の程にしたがひて、心をなやますこと、あげてかぞふべからず。もしをのづから身かなはずして権門のかたはらに居る者は、ふかくよろこふ事はあれども、大にたのしふにあたはず(能はず=できない)。歎ある時も声をあげて泣事なし。進退やすからず。立居につけて、恐れをののく。たとへば雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もしまづくして、富め家の隣にをるものは、朝夕しぼき姿を恥てへつらひつゝ、出入妻子僮僕のうらやめるさまを見るにも、富め家の人のなひがしろなるけしきを聞にも心念々にうごきて、ときとしてやすからず。

 五災害のまとめゆえ、ここは気持ちを引き締めて一語一語音読し、意を頭に叩き込みながら筆写です。依ってメモも多くなった。●世の有にくき=世の在り難き=生きて行くのが辛い。●徒なる=はかない、むだ。●いはんや=況んや=いはむや=言うまでもなく、まして。●身かなはずして=身叶はずして=望まずに、適合せず。(岩波文庫版は「身数ならずして」で意が違う)。●進退やすからず=行動がしにくい。●すぼき=岝き=みすぼらしき、肩身がせまい、ほっそりして。●僮僕=しもべ、召使の少年。●けしき=ようす、そぶり、顔色、態度。●念々=仏教語。一刹那一刹那、いろいろの思い。

mosisebakiti_1.jpg もしせばき地に居れば、近く炎上する時其害をのがるゝことなし。もし辺地にあれば往反わづらひおほく、盗賊の難はなれがたし。いきほひ有者は貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかるしめらる。宝あればおそれおほく、貧しければ歎切也。人をたのめば、身他のやつことなり。人をはごくめば、恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。又したがはねば狂へるに似たり。いづれのところをしめ、いかなるわざをしてか、しばしも此身をやどし、玉ゆらも心をなぐさむべき。

 ●往反=わうばん、往復すること。●切=せち、せつ。しきりに、ひたすら、はなはだしいさま。●身他のやつごと=注釈によって「身、他」と読点、「身他」がある。やつ=奴もある。「身、他の奴事」と解釈した。●はごくめば=はぐくねば。●玉ゆら=しばし、少しの間。古文に日頃から親しんでいれば、辞書をひかずもよいのだが。

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方丈記14:水火風そして地震 [鶉衣・方丈記他]

mononofu1_1.jpg 前回の京の大地震の続きで、岩波文庫版にない部分です。

 其中に或武士のひとり子の六七ばかりに侍へりしが、ついひぢのおほひの下に小家を作りて、はかなげなる跡なしこと(あとなし事=たわいもない事)をしてあそび侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二の目など一寸ばかりうち出されたるを父母かゝへて、声をおしまず、かなしみあひて侍りしこそ、あはれにかなしく見侍りしか。子のかなしみには、たけきものも恥をわすれけりと覚えて、いとおしく理(ことはり)かなとぞ見侍りし。(岩波文庫版は、次につながる)かく、おびたゝしくふることは、しばしにてやみにしが、其名残しばしは絶ず。

 長明は、子を抱き泣く武士の姿を実際に見たのだろう。「跡なしことは」は「跡無し」ではなく「あとなしごと」で〝跡〟は当て字か。「見侍りしか=見るの丁寧語+しか(過去の助動詞)=見ました」だろう。

 よのつねに、驚くほどの地震二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過にしかば、やふやふ間どを(間遠、まどほ)になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かた其名残三月ばかりや侍けん。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる変をなさず。むかし斉衡の比とよに、大地震ふりて、東大寺の仏のみくし(御首)落などして、いみしき事とも侍りけれど、猶此たびにはしかずとぞ。則(その時)人みなあぢきなきこと(どうにもならない事)を述て、聊(いささかの)こころのにごりもうすらぐかとみし程に、月日かさまり年越しらば、後は言の葉にかけてくいひ出る人だになし。

yonotuneni2_1.jpg 7月9日京都直下型地震の余震の恐さが三ヶ月ほど続き、やがて忘れてゆく様が綴られている。「しかず=及かず=及ばす」、「とぞ=文末に用いて~ということだ」。

 北村優季著『平安京の災害史』に京の地震が列挙。平安京遷都間もない延暦16年(797)8月に地震と暴風。斉衡2年(855)に地震頻発。大仏の首が落ちた。元慶4年(880)の大地震で大極殿に亀裂。宮城の大垣や京内の家屋損壊。仁和3年(887)の京大地震。津波で溺死者多数。承平8年(938)4・5月に地震。天延4年(976)の地震では多数寺院損壊。清水寺も崩壊で50人圧死。嘉保3年(1096)平安京に再び大臣。堀河天皇は寝殿造り池に船を浮かべて避難。文治元年(1185)長明33歳。壇ノ浦合戦の4ヶ月後にこの地震に遭遇。

 ※昨日の新宿「花園神社骨董市」で〝古硯〟を入手。伊勢丹前の歩行者天国で「安倍政権批判の抗議集会」が行われていた。

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方丈記13:飢餓、そして大地震 [鶉衣・方丈記他]

genryaku2_1.jpg 元暦2年(1185、文治元年)3月に壇ノ浦の決戦。そして7月9日、大地震が京を襲います。

 又元暦二年の比、大なるふる(大なる震る=大地震)こと侍りき。其様つねならず。山くづれて川をうづみ(埋み)、海かたぶきて陸(くが)をひたせり。土さけて水わきあがり、いわほわれて谷にまろび(まろぶ=転ぶ)入、渚こぐ船は波にただよひ、道行駒は足の立ど(立ち所=足場)をまどはせり。況や都のほとりには存々所々(至る所)、堂舎(大きい家と小さい家)塔廟(仏舎利を納めたり死者供養の建物)一(ひとつ)として全(また)からず(完全でない)。或はくづれ、或はたふれたる間、塵灰立上りて盛成、煙のごとし。地の震ひ、家の破ふるる音いかづち(雷)にことならず。家の中にをれば、忽に打ひしげなんとす。はしり出れば、又地われさく。羽なければ、空へもあがるべからず。龍ならねば、雲にのぼらんこと難し。をそれの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚侍りし。

 「海は傾きて陸をひたせり=津波」(震源地は琵琶湖。同湖の水で京都水没)、「土さけて水わきあがり=液状化」だろう。「羽なければ空をも飛ぶばからず」に、3.11の恐ろしい津波に、カモメらが飛んでいる映像を思い出します。

 「陸」のルビは「くが」。くずし字辞典に「陸(リク、ロク、おか、くが)」。古語辞典にも広辞苑にも「陸(くが)」がちゃんと載っている。この歳まで日本語で生きてきたのに、未だ知らぬ〝読み〟に出会って少々慌てます。同じように「うづみ=うづむ=埋む」。「まろび=まろぶ=転ぶ」。「立ど=立ち所、足場」。「いかづち=雷」。古語辞典が手放せない。旧仮名、歴史的仮名遣も手ごわいです。例えば「堂舎塔廟(だうしゃたふめう)」。

 この地震記述は『平家物語』巻十二に、そっくり引用されています。またここで筆写の江戸本には、岩波文庫版にはない文章が続きますが、それは次回~。

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方丈記12:飢餓死4万人余 [鶉衣・方丈記他]

jyokuaku1_1.jpg 「養和2年の大飢餓」の最後文章です。「写経」未経験ですが、くずし字筆写も同じようなものでしょう。昨今の濁悪まみれの内閣、官僚の姿を知るにつけ、心穏やかではありません。筆写で心を落ち着かせています。

 濁悪の世にしも(しも=強意)生れあひて、かかる心うき(心憂し=情けない、好ましくない)わざ(行い、仕業)をなん(強調)見侍き。又あはれなること侍き。さりがたき女男など持たぬ者は、其心ざしまさりて、ふかきはかならず死す(気持ちが優り深き方が必ず先に死す)、そのゆへは、我身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしきおもうかたに、たまたま乞得たる物(食料)を先ゆづるによりてなり。されば父子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立て死にける。父母の命つきてふせるを知らずして、いとけなき子の、その乳房にすひつきつつ、ふせるなども有けり。

 ここでひと息。今の世は政治家、役人、親子、夫婦も〝自分ファースト〟の世でございます。溜息ついて、次を続けます。

 仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数しらず、しぬることをかなしみて、聖をあまたかたらひつつ、其死首のみゆるごとに、阿字を書きて縁をむすばしむるわざをなんせられける。

sonokazu2_1.jpg 岩波文庫版には「聖をあまたかたらひつつ」の文がないが、4万余の死者に一人で対処など不可能ゆえ、聖(ひじり=僧)を動員しての回向と記す江戸本の方がわかり易い。

 其数をしらんとて、四五両月がほど、かぞへたりせれば、京の中、一条より南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東、道の辺にある頭すべて四万二千三百余なん有りける。いはんや、其前後に死ぬるものもおほく、河原・白川・西の京もろもろの辺地などをくはへて、いはば際限も有へからず。いかにいはんや(満む、満ちる)。諸国七道をや、近くは崇徳院の御位のとき、長承の頃かとよ、かかるためしは有けるときけど、其世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかにかなしかりし事也。

 北村優季著では「養和の飢饉」は、内乱激しかった時期で、交通遮断によって京への物流が途絶えたこともあろうと記していた。飢餓、そして疫病の惨状があれば、治安云々もない。京には死体が満ち、強盗、放火、殺人は茶飯事。まさに芥川龍之介『羅生門』の世界。そんな京に今度は大地震が襲います。

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方丈記11:臭気満ちる飢餓惨状 [鶉衣・方丈記他]

kiga2a_1.jpg 〝京の大飢餓〟後半も、古語辞典と広辞苑が手放せません。飢餓はさらに想像を絶する惨状になります。

 まさる様に跡かたなし(〝惨状が〟勝って通常ではなくなっている)。世の人みな餓死ければ、日をへ(経)つつきは(極)まり行くさま、少水の魚(せいすいのいを=死の危険が迫っている)のたとへに叶へり(ぴったり)。

 はてには、笠うちき、足ひきつつみ(笠着、足包み+協調の接頭語の打ち・ひきがついた)よろしき姿したる者(まともな格好の者)、ひたすら家ごとに乞あるく。かくわびしれたる者共、ありく(歩きまわる。歩む=一歩づつ移動する)かと見れば、則たふれ(倒れ)死ぬ。ついひちのつら(築地のからわら)露頭に飢死ぬる類ひはかずしらず。とり捨るわざもなければ(遺体を処置することもできず)、くさき香世界にみちみちて、かはり行かたち有さま、目もあてられぬ事おほかり。いはんや、川原などには馬車の行ちがふみちだ事なし。

 あやしき賤(しづ=身分の低い者)、山がつ(木こり)もちからつきて、薪にさへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて(毀ちて)、市に出てうるに、一人が持出ぬるあたひ、猶一日の命をさくふる(つなぐ?)にだに及ずとぞ。あやしきことはかかる薪の中に、赤き丹(赤い顔料)つき、白かねこがねの箔所々につきて見ゆる。木のわれのあひまじれり。これを尋れば、すべき方なきもの古寺に至りて仏をぬすみ、堂の物の具をやふり取て、わりくだけるなりけり。

 長くなったので、ここで区切る。食糧がなければ、薪を作る人もなく、古寺を壊して売り始める。飢餓が襲えば、仏もなしの地獄が展開する様を記している。北村優季著には「国々の民、或は地を棄てて境を出で~」とあるのは、農民らは収穫できぬ耕地を捨て、多少でも蓄えのある都のおこぼれを求めて京へ向かったのではないか。かくして「餓死者4万2千3百余人」に至ったと推測していた。

 飢餓の最中、養和2年、長明は30歳。当時の彼は歌に邁進で、この飢餓を乗り切る恵まれた環境にいたらしい。同年、彼は父方の祖母の家との縁が切れて、賀茂川の河原近くに祖母の家に比して十分の一の家を建てて住み始めている。河原では人肉を食っているという噂も乱れ飛んでいたらしいのに~。当時の歌人らは、どんな歌を詠んでいたのだろうか。

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