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「鳥撮り」と「街スナップ撮り」 [スケッチ・美術系]

eigaomori_1.jpg 目下「街スナップ写真」で遊んでいる。なんだか「鳥撮り」と似ている部分がある。「鳥撮り」は概ね2タイプに分類できる。シャッターチャンスを求めて、ひたすら歩き廻るタイプ、撮影ポイントに陣取って仲間と談笑しつつ狙いの鳥が飛来するのを待ち構えるタイプ。

 あたしは前者で、とにかくよく歩き回った。それで得難いシャッターチャンスに巡り合ったこともあれば、チャンスを逸した場合もある。

 ★「街スナップ写真」の雄=森山大道は、ひたすら歩き回ってピッときた〝擦過〟の瞬間にシャッターを切って行く。時にはノーファインダーで「アレ・ブレ・ボケ」構わず「写りゃいいんだ」の主義。(写真左は新宿武蔵野館上映チラシ。緊急事態宣言下の5月29日、3万円のポケデジSX720HS購入後に観た。少しも森山大道の写真に迫っていないつまらん映画だった

 森山大道が好きが写真家ウィリアム・クラインの多くの写真には、写真家を正面から見つめる被写体は多い。対峙して撮っていることがわかる。

 一方の大御所★木村伊兵衛は、その場に馴染み、被写体もカメラマンがいることを忘れたころに、知らぬ間にシャッターを切るタイプ。木村伊兵衛の関連書から、彼のスナップ術をもう少し探ってみる。

 木村伊兵衛は「カメラ隠しの至芸」とか。彼のスナップ写真には「写されている対象と木村さんがいてカメラがない」そうだが、本人は「写す時にはkimuraihei_1.jpg自分もいない」。彼のスナップ写真を観ると、被写体に接近し、或は彼らの輪の中に入っているも、被写体は彼(カメラ)に視線を向けていない。

 彼はそうなるまで現場に融け込んでいる。そうして被写体の自然の姿、素顔が出た瞬間に、手練の早業でシャッターを切る。それには彼がカメラ機能に熟知していて出来ること。彼のカメラはライカで概ね30㍉か50㍉レンズ。シャッタースピード優先。撮った写真はノートリミングいっぱいに被写体が躍動している。また彼は出会い頭でも、カメラマンである存在感を消してサッと撮ってしまうらしい。

 それにはカメラ機能熟知の手馴れに加え、そのざっくばらんな巧みな話術(江東区下谷生まれの江戸っ子)も大きな功を発揮しているらしい。

 そんなことを想いつつ、ウォーキングしつつ「街スナップ」を愉しんでいる。

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「クールベと海」展、観る前に~ [スケッチ・美術系]

courber_1.jpg 数年前に波の絵の簡易練習(写真下)をしたことがある。その時は「ウィンズロー・ホーマー」(米国画家)に注目したが、「新橋・親柱」確認の際に「パナソニック汐留美術館」4/10~「クールベと海」展の告知を見た。よし、その鑑賞後に「汐留川」を溜池まで遡ってみようと思った。

 ~と、愉しみにしていたが、ネットで山梨美術館「クールベと海」展の大学教授・美術ライターのYouTube「ギャラリートーク」2本を観てしまった。これ、巡回展覧会のデメリット。それで何だか食傷気味になってしまった。

 19世紀前半まで絵画は「海・女性裸体」は畏怖・神秘・宗教的な存在だった。それが科学的知識の普及で神話・神秘性から解放されてリアリスムの流れが生まれた。併せて鉄道インフラ拡充でイギリス南部やフランス・ノルマンディー辺りが海のリゾート化で、パリ裕福層の避暑地になった。ノルマンディー・ドーベルは「パリの21区」「海辺のパリ」と称された。

 ギュスターヴ・クールベは1819年(文政2年。この時、葛飾北斎59歳。歌川広重22歳)、フランスはスイス国境近くの山村で生まれ。18歳で工業専門学校の寄宿舎へ。息が詰まって、町の小さな家に下宿(ヴィクトル・ユーゴー生家)。21歳、パリのソルボンヌ大学法学部入学も、親の反対を押し切って画家を目指し画塾に通って、ルーブル美術館で巨匠らの作品を模写。

namisyusaku_1.jpg 画壇は従来からの擬古典主義がほころび出した頃でジェリコー、ドラクロワ、アングル、ルソー、ミレーなど。クールベはお気に入りのパレットナイフを使って憑かれたように描き続けた。「絶望した男」から「石割り人夫」へ。彼のアトリエに屯うボードレールも描いた。22歳で初めて海を見た。

 1854年、35歳。南仏モンペリエ滞在。1855年、36歳。パリ万博に大作「画家のアトリエ」「オルナンの埋葬」が落選で、博覧会場近くに小屋を建て入場料1フランの、美術史上初の個展を開催。この時に「レアリスム宣言」。1866年、47歳で世界で最も猥褻な「世界の起源」(女性陰部)を描く。レアリストの面目躍如。神話的女体ではなく、肉感的に熟れ崩れ気味の女体「水浴びする女たち」など多数の裸体画を制作。彼の女性裸体画のほとんどは野蛮さと魔力の双方が指摘される)。

 そして1865~1869年頃にノルマンディーのトゥルーヴィル、ドーヴィル、エトリタなどに毎年出掛けて、盛んに「海・波」(生涯に100余点の海を)を描いた。1870年、51歳。パリ・コミューンに参加して逮捕。1873年にスイスに亡命。その4年後に58歳で没。

 マリー・ルィーゼ・カシュニッツ著『ギュスターヴ・クールベ ある画家の生涯』(鈴木芳子訳)も読んだ。だが最も猥褻な問題作『世界の起源』には相当にぼかし暗示した数行(トルコの王子のために描かれた秘密裡にしか見せられない女性の下半身に~)があるのみだった。(2018年9月のニュースサイトで、パリ発で同作モデルが判明!で盛り上がっていた)。

 ちなみにクールベが『世界の起源』を描いたのは1866年。北斎はその50年余まえから春画(艶本)を描き、バレ句を添えるなど〝遊び心〟に満ちていたし、また北斎の「波」も素晴らしい。

 世阿弥が能の神髄を「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と『風姿花伝』に記したが、それは形式芸能のことで、リアリスト宣言のクールベから『世界の起源』を隠しては意味ないように思った。~そう云えば、近所の「花園神社」境内「威徳稲荷」に、木製巨大男根像が「秘する」ように祀られているのを1週間程前に初めて知って、ちょっと衝撃を受けた。次にそれを記す。 

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森山大道の言葉を自分流に~ [スケッチ・美術系]

color_1.jpg 本『森山大道の言葉』に、こんな文章が紹介されていた。「僕はもう、外が気になってしょうがない。たったいま地下鉄の運転手さんが見ている視覚だとか、西口ホームレスの人が見ている光だとか、そういうものが無数にあるというのに、なんで自分はこんなところで写真の話をしているのかなって。イライラするんですよね。ああ、あれも撮ってないやって」。

 ソール・ライターは、そんな気持ちをひと言で「まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている」。彼の方が上手だな。森山大道著『写真との対話、そして写真から/写真へ』から〝核の部分〟を自分流アレンジで記してみる。

写真機は対象を等価的に、つまり複写・大量複製を目的に誕生した光学機械だ。その写真機でタブロー(Tableau)を生もうとする行為はまた別の話で、現在の諸相(現実)を原点の複写機的に撮ることも大事なのではないかな。その場所に自分が「居て・見た」という「極私的な記念・記憶」として撮ってもいいと思う。

他人の写真・ポスターなどの画像を、見たまま・感じたままに撮れば、本来の情報とはまた別の新たな現実が重なって二重性を帯びてくる。(写真機が本来的に持つ複写性+アルファーで、単なる複写とは違った写真になる)

世の中は常に、イノセント(できごと)とアクシデント(事故)に満ち、混沌・矛盾・欺瞞・嘘・錯覚にも満ちている。しかも「行河のながれは絶えずして~」で流れていることこそに普遍性がある。そんな流れの一瞬にヌエ(真実のようなもの)を掴むかの瞬間があって、それに惹かれて飽きもせずにスナップ写真を撮り続けることになる。(それは近所の街角にもあるから、わざわざ地球の裏側まで行く必要もない)

today's_1.jpg私は歩行中に「ノーファインダー」で撮っている。眼で撮るというよりも、身体全体で感応しながら撮っている。(氏がデジカメでカラー写真を撮っている姿をYouTubeで見たが、モニター画面で確認しながら撮っていた。あたしのカメラは落下事故で撮影時にモニター表示不可で完全ノーファインダーだ。PC伝送後に画像を見ている)

そうして生理的・感覚的に撮ると、自分がそこに身を置き、その場の空気感を反映した写真になる。(そう難しく考えることもない。ただ瞬間を撮ることが愉しい。そうやって街を歩き回ることが健康にもすこぶる良い~それでいいじゃないか)

人間は一日中、無数の映像を知覚しているが、そのすべての像に対して焦点が合っているわけでもなく、視点が静止しているわけでもない。(私は子供時分から近眼で、老いては老眼。常に矯正視力(眼鏡や白内障手術)で見ているわけで、裸眼で見れば「アレ・ブレ・ボケ」が自然なこと。しかも今のご時世、著作権とかプライバシー侵害も煩く、ボケていればその心配もない)

僕が撮り歩いている時は、シャッターを押すことだけしか考えていないので、全身が敏感なレーダーのようになっている。そのアンテナにピンと反応した時に、素早くシャッターが切れるよう、僕はカメラのストラップを左手首に巻き付けて、左手を絞るように吸い付けて眼=手が直結する体制で素早く撮っている。(あたしはもう2度もカメラを落とし、目下は不具合のまま撮っている。また小生はプロ写真家でも若くもないので、理想はライター爺さんのように気張らずにぶらり・ぶらりとゆっくり歩きながら撮れたらいいなぁと思っている)

スナップ写真の一方の雄・荒木経惟(アラーキー)はスナップ写真風のモデル活用例が多く、喜寿を経た歳になってセクハラ問題大噴出。その評価も凋落中。ここでは言及対象としない。

 写真は森山大道デジカメ写真集『カラー』(高額写真集はとても購えないから図書館本です)。写真下はあたしの好きな新宿南口の撮影スポット。傘や衣服が乱れに乱れる悪天候時に撮ってみたいと思うのだが、そんな日は家を出る気にもなれず、未だ実現していない。

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「CANP」の二人の思い出 [スケッチ・美術系]

moriyamahon2.jpg 昭和51年(1976)の大森大道のイメージショップ「CAMP」初期メンバー8人のうちAは、20歳頃の友人だった。44年オリンピックで「東京はうるせぇ~」てんで二人で脱出し、伊豆・河津へ逃げた。

 貧乏青年の長逗留で金が尽きた。Aは親が伊豆諸島の赴任教師時代に「離島体験」あり。磯で食材確保、山で〝百合根〟を掘って食うことなどを教えてくれた。町の小さな温泉銭湯に入ると「混浴」だった。

 数年後にあたしは広告制作会社へ。未だ遊んでいた彼を同社に誘った。彼のデッサンは美術研究所の講師も舌を巻く腕で、同社先輩デザイナーらも感嘆の声で彼を迎えてくれた。2年後にあたしはPR会社へ転職し、彼は写真専門学校に入学した。

 数年後、彼は同校をトップ成績で卒業し「CAMP」に参加。カメラ雑誌に彼の「擬似強姦写真」が載った。よくわからぬがカメラで強姦云々~。その後、彼の噂は消えた。大森大道が『写真よさようなら』(アレ・ブレ・ボケの極致)からスランプで、クスリ漬けで痩せていた頃だろうか~、Aが突然に我家を訪ね来て「結婚するから保証人のサインをくれ」。

 当時のあたしは「ポプコン~世界歌謡祭からデビュー」のタレント群を擁した会社のライターで、「あたしの文章&田村仁(タムジン)写真」によるパンフ制作時期が続いた。因幡晃、佐々木幸男、世良公則&ツイスト、円広志、サンデー、大友裕子など~。当時のタムジンは超望遠レンズで粒子の粗い(アレ)写真が特徴だった。

 同社宣伝部が、新しい写真家を探していて、あたしはAを推薦した。彼はプレゼに妻の全裸を東松照明のように黒っぽく焼き込んだ写真を提出。担当者は新風を期待で「矢神純子」のジャケ写を依頼してくれた。彼が住む福生ハウスでの撮影。だが結果は狙い外れでボツ。彼との付き合いが途切れた。

 あたしは同社タレントが多く所属するレコード会社の仕事も請け負って、次第に忙しくなっていった。そんな折、タクシーに乗り込むと運転手がニヤリと振り向いて「〇〇ちゃんだろ」。Aだった。

 田村仁宅で、互いの自宅近くに出没する蛇、大島の黒ヘビ、大島ロッジの話で盛り上がったことがある。彼の息子も伊豆大島暮しとかだった。島滞在の某年某日~「今、港に着いたがジープを貸してくれ」とタムジン。あたしが島で乗っていたのはジムニーで、ジープ所有の某を紹介。以後、彼は某宅に通って多数アーティスト、歌手の撮影を重ねていると聞く。

 もうひとりの「CAMP」メンバーBとは、彼が恐いおニイさん方を撮った写真で「木村伊兵衛賞」受賞後に逢ったと記憶する。彼は受賞したって食えるワケじゃない。写真誌の掲載料はいくらで~など苦しい生活を語った。そんな折に、某企業から同社PR資料バインダーに収める池袋の各事業素のペラ資料の制作を依頼された。Bにギャラを提示しアルバイト撮影を依頼。最初は気持ちよく撮影していたが、突然「お前は俺の名声を利用している」と言い出し、腰を抜かすほど驚いた。彼ともお付き合いはそこで終わった。

 大森大道は彼について「二人とも救いようもないエゴイストであることも似ているが、もしア・プリオリな写真家はどちらかときかれれば、ぼくはためらわずに彼を指すだろう」と記していた。Bは昨年2月、肺がんで74歳で亡くなったらしい。

 そんなことを思い出せば、PR会社時代に某女子社員が、有名記者らが世界取材で撮った写真を預かって売る仕事が大繁盛で、あたしも写真整理を手伝ったことがある。彼女はその後独立して大きな写真エージェントの女社長になった。小生、長年フリーゆえ、多数カメラマンと組み、また有名写真家の撮影現場も拝見してきたが、それらは省略。そ・そう云えばゴールデン街のおミッチャンも写真家だったし、「汀」の渚ようこ&大森大道の絡みもある~とキリがない。

 追記:ソール・ライターは無名・無口・無欲を貫き通したが、「You Yube」で拝見する大森大道、荒木経惟らは隠棲してもいい歳だろうに「なんとまぁ、おしゃべりなことよ」と思った。

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ソール・ライター写真集のアフォリズム [スケッチ・美術系]

saulleiter2_1.jpg 昔の「新宿中央図書館」の地に、今は「下落合図書館」が建っている。そこは高田馬場駅から「さかえ通り」に入って、神田川沿いの東京富士大学(平成14年までは富士短期大学〉の先にあって。昔よく通った図書館だった。

 その「中央図書館」が3年前に我家近くの閉校校舎(区立戸山中学)へ移転して来た。結果、我家から徒歩圏内に「中央図書館・大久保図書館・戸山図書館」が集中。(余談:「家を売って下さい」なる多数不動産家からの電話が多い。中古マンションだが立地が良く需要が多いのだろう、購入時より値下がりせず。執拗に売却を迫る電話には、こう言ってやる。徒歩圏内に図書館が三つもある地が他にあれば、ここを売ってもいいよ~と)

 さて下落合図書館へ行ったのは写真集『永遠のソール・ライター』が〝貸出可〟ゆえ。昨年春の渋谷Bunkamuraでの写真展の際に2冊の写真集があって、あたしが買ったのは絵の掲載が多かった2017年刊『ソール・ライターのすべて』だった。

 同写真展に併せての発売は『永遠のソール・ライター』で、同書を開いて最初に感じたのは写真ではなく、幾頁毎に掲載されてるアフォリズム。そんな「画+アフォリズム」に初遭遇したのは『辻まことの世界』だった。弊ブログでの「辻まこと」は伊豆大島で墜落「もく星号」から散らばった宝石を拾いに行った男として紹介だが、彼の『虫類図譜』や『ノイローゼよさようなら』は「イラスト+アフォリズム」構成で、例えば~

 熱いうちに叩くのは鉄だけです。熱し易い頭には潤滑油が必要。仕事は人を待つだけで、決して人を追ってはこない。小鳥の歌さえも騒音に聞こえるなら、アナタの神経のこずえは枯れかかっている。事件が興奮を作るのではなく、興奮が事件を作るのです。~など。

 さてソール・ライター両写真集に掲載のアフォリズムの幾つかを挙げてみる。それらは「写真家」と「生きる」に大別されるが、まずは「写真家」として~

 私が写真を撮るのは自宅周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも世界の裏側まで行く必要はない。いくつかの出来のよい作品は、近所で撮ったものだ。ストリートはバエレのようだ。何か起きるか誰もわからない。肝心なのは何を手に入れるかじゃなくて、何を捨てるかなんだ。まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている。時折見逃してしまうんだ。大切なことが今起きているという事実を。私の好きな写真は何も写っていないように見えて、片隅で謎が起きている写真だ。雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。あらかじめ計画して何かを撮ろうとした覚えはない。時折見逃してしまうんだ。大切なことが、今起きているという事実を。私は単純なものの美を信じている。もっともつまらないと思われているものに、興味深いものが潜んでいると信じているのだ。カメラを持って出かけて写真を撮る。瞬間を捉えるのが楽しいから。~など。

 次に「生きる」ことにも通じるアフォリズム。幸せの秘訣は、何も起らないことだ。取るに足らない存在でいることは、はかりしれない利点がある。私が大きな敬意を払うのは、何もしていない人たちだ。私は無視されることに自分の人生を費やした。それで、いつもとても幸福だった。無視されることは偉大な特権である。人生の大半をニューヨークで暮してきたけれど、ニューヨークを知っているとは思えない。ときどき、道を聞かれることもあるが〝よそ者なので〟と答えている。私はときどき無責任な人間になる。税金を払う代わりに本を買ったりする。自分がしていることに対して、深い説明を避けてきた。重要だと思われていることも、たいていはそこまで重要じゃない。大半の心配事は心配に値しないものだ。~など。

 私は常々、自分のブログが長文なのを恥じている。「絵+1行のアフォリズム」に憧れる。

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ナダール②地下~気球~海中写真 [スケッチ・美術系]

nadar2_1.jpg ナダールは「肖像写真」で成功すると、新たな挑戦がしたくなった。彼が最初に気球に乗ったのが37歳(1857)で、翌年に俯瞰撮影に成功。シャッターを切ると同時に急降下し、宿屋へ走って現像したらしい。

 パリっ子が気球撮影に喝采すれば、また新たな撮影がしたくなる。41歳(1861)から、暗闇の世界「パリの地下墓地・下水道」撮影に成功。地下世界を白日の下に晒し、またパリっ子は拍手喝采。ナダールは「地下世界」はほどほどで、気球の魅力にドップリと嵌って行った。

 13名乗員の大型気球で3時間飛行後に不時着。2週間後には9名乗員「巨人号」でパリ~ベルギー~オランダ~海上で方向転換~ドイツへ。計15時間、大損傷ながら無事着陸。47歳(1867)、凱旋門中心の8枚綴りパリ俯瞰写真を完成。

 50歳(1870)、普仏戦争では仲間らと気球上空からパリ城壁外の敵軍を偵察。さらに気球郵便事業へ。これら事業で資金を使い果たしたナダールは再び肖像写真へ戻ったが、今度は多くの著名人の〝死の表情〟も撮り始めた。

 53歳(1873)、パリ郊外の別荘生活が多くなって、一人息子ポールが家業を継いだ。1874年、彼のスタジオで第1回印象派展が開催。この頃になるとコダック社フィルムでスナップ写真が可能になって、息子ポールは新聞の対談記事にスナップ写真を撮った。彼は「写真協会」を設立。コダック社の商品販売、さらに1891年に写真専門誌「パリ・写真家」を創刊。

fashionhot_1.jpg 息子の活躍、事業拡大に嫉妬したか、次第に親子の確執が生まれ、ナダール74歳(1894)、スタジオを息子に譲って、自身は南仏の居を構えた。

 息子ポールは肖像写真からファッション写真家として第一人者へ。(小生が図書館の蔵書検索から求めた「ナダール写真集 ベル・エポック」を借り見れば、写真左のような見開きのファッション写真満載の息子ポールの写真集だった)

 一方のナダールは未だ老えず。「マルセイユ港」で「海中写真」に挑戦し始めた。小説家~風刺画家~肖像写真家~地下世界の撮影~気球による俯瞰撮影~気球郵便事業~海中写真。飽くなき好奇心と新たな挑戦を続けたナダールは90歳(1910)で亡くなった。

 海の向こう米国では、12歳(1935)のソール・ライターが母からカメラをもらって撮影開始。その4年後(1939)にファッション写真家ポールが亡くなった。以上から「ソール・ライターはナダールの直系子孫」には多少無理があって、むしろライターはナダールの息子ポールの直系と言った方が相応しいか。以上、伝説的初期写真家ナダールの紹介でした。

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ナダール①小説~風刺画~肖像写真家へ [スケッチ・美術系]

nadar1_1.jpg ソール・ライターが尊敬した画家ボナールについて「ライターとボナールも濃密複数愛者」を4月にアップした。ライター写真集の解説には「印象派の第1回展覧会会場は、伝説的写真家ナダールのアトリエ。その意では、ライターは彼の直系子孫である」と記した文章もあり。

 印象派をお勉強すれば、その第1回会場の写真を見ているはず。小生も見ているが、それが迂闊にも写真家ナダールのスタジオで、彼の愉快人生を知らずにいた。以下書(『ナダール 私は写真家である』(筑摩叢書)、小倉孝誠著『写真家ナダール~空から地下まで十九世紀パリを活写した鬼才』。写真左)から、彼の愉快人生を紹介したい。

 ナダール名は通称。1920年生まれ(江戸は文政3年で南畝71歳、北斎60歳、広重23歳、定信62歳)。実家はリヨンで印刷業で成功。父はパリに出て印刷出版を展開も事業失敗でリヨンに戻った。この時ナダール17歳(1847)。彼はパリに戻って新聞・雑誌に記事や小説を発表しつつ「カルチェ・ラタン」で約10年間のボヘミアン生活。当時の仲間ボードレールは、常に彼の成功に嫉妬とか。ボヘミアン生態を描いた風俗小説も発表した。

 雑文・小説家のナダールは、ナポレオン3世による第2帝政が始まると、ポーランド義勇軍に参加(28歳)。だが逮捕されてフランス国境に返還。厳しい現場を見たナダールは新たな表現手段「風刺画家」へ転身した。『滑稽新聞』などに連載。風刺画と鋭い批評文で人気を博すが、成功に安住しない彼は写真技術の発達で「写真家」へ転身した(30代半ば。1850年代)。

 まずは「肖像写真」で成功し、1854年にスタジオ開設。それまでの多彩な交際から著名人が続々とスタジオに集まり、後世の人々が(私たちが)見る多くの肖像写真を残した。ボードレール、『三銃士』のデュマ、空想科学小説のヴェルヌ、小説『居酒屋』『女優ナナ』のエミール・ゾラ。ショパンの恋人ジョルジュ・サンド。画家のドラクロワ、ミレー、クールベ、マネ。作曲家のロッシーニ、ベルリオーズ、ヴェルディ等々を撮影。

 「肖像写真家」で成功(従業員50名余)したナダールは、1860年にカピュシーヌ大通りにスタジオを移転。そこが後の印象派第1回展覧会・会場になる。雑文・小説家~風刺画家~肖像写真家への転身ことごとくに成功した彼は、また新たな挑戦を始めた。(長くなったので区切る。次回へ)

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草間彌生美術館とソール・ライターと~ [スケッチ・美術系]

kusama2_1.jpg 新宿には「東京女子医大」創始者・吉岡彌生さんの他に、もうひとり著名な彌生さんがいた。過日、かかぁが送られた来た『新宿区くらしガイド』を見つつ「あらぁ、あの水玉模様の草間彌生は原町在住ですって~」と言った。

 原町のどの辺でしょうか。大久保通り「若松町」から南側辺りに女子医大病院~河田町ガーデンがあり、「若松町」の北側辺りが原町1~3丁目。さらに地図を見れば「若松町」先の交差点「牛込柳町」左折の外苑東通り沿いの弁天町に「草間彌生美術館」があって驚いた。

 2017年10月開館とか。早稲田通りから「漱石山房記念館」辺りまで歩くことはまゝあるも、その先に同美術館が建てられていたとは知らなかった。前衛美術には興味薄い小生だが、同館サイトの草間彌生プロフィールを読んでいると、微妙に「ソール・ライター」とクロスしていて面白くなってきた。

 ライターは1923年生まれ。草間は彼より6歳下の1929年生まれ。草間のNY個展が1959年で、ライターはNYでファッション写真を撮り始めたのが1957年だった。ライターが五番街にスタジオを構えた頃に、草間はNYで裸体男女に水玉を描くなどの「クサマ・ハプニング」を展開し、1969年にはNY近代美術館でヌード・パフォーマンス。米紙が「これが芸術?」の見出しで報じたとか。草間は1973年にパートナーの前衛芸術家ジョゼフ・コーネルの死を契機に帰国した。

kusama1_1.jpg 一方のライターが、五番街のスタジオを閉鎖して隠棲したのが1981年。だが2006年(83歳)の時の写真集で俄かに再評価。彼は自室で寛ぐ多数女性のヌード写真を撮り、そのモノクロ紙焼きの上から、ガッシュで色彩豊かな作品を描いていた。2013年11月、89歳没の前年に映画『写真家ソール・ライター急がない人生で見つけた13のこと』公開で人気に火がついた。

 草間彌生は1993年(64歳)にヴェネツィア・ビエンナーレ参加で世界的に再評価。彼女の人生を描いた映画『草間彌生∞INFINITY』公開が2019年だった。

 小生、前衛芸術がよくわからない上に、同美術館もコロナ閉館中。草間彌生が理解出来ぬまま同館の道路反対側の「多門院」へ寄った。

 そこに「松井須磨子の墓」があった。松井須磨子は島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、彼女は後追い自殺をした。そこから小生は、スペイン風邪の最中に永井荷風はどう過ごしていたのだろうかと『断腸亭日乗』をひも解き、5月8日のブログに相成った。

 多門院より数軒隣に「精神研究所付属晴名病院」あり。草間氏は同病院で暮しつつ、近くのアトリエで水玉模様を描き続けたいたらしい。現在91歳。美術館も新宿図書館も再開されたら、改めて草間彌生のお勉強をしてみましょと思った。「吉岡彌生~草間彌生~ソール・ライター~松井須磨子(島村抱月)~永井荷風」とつながったお話でした。

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ライターもボナールも濃密複数愛? [スケッチ・美術系]

nabi_1.jpg ソール・ライターはナビ派の画家ピエール・ボナールが好きだった。彼の部屋には恋人ソームズが描いたボナール風の絵が幾作も掛けられていたとか。

 ライターとソームズの関係詳細は不明だが、彼は「ハーパーズ・バザー」誌でファッション写真を始めた35歳の頃に、モデルの卵だったソームズに出会った。そしてライター79歳の時に、彼女はこの世を去った(自死?)。同じ建物内に在住ながら、結婚せず44年間の恋人関係~。

 彼の写真集『ソール・ライターのすべて』には、彼の部屋?で濃密関係風の多数女性ヌード写真あり。バーバラ、キム、イネス、ベッティナ、ジェイ、リン、フェイ、そしてソームズ。女性同士のヌードもあれば、ボナ-ル風の浴槽ヌード写真もある。彼は後に、それら白黒紙焼きの上からガッシュで絵も描いた。

 さて、ライターとソームズが好きだったボナール(1867~1947)の絵を見ると、有名な浴磐・浴槽ヌードがある。ベッドでまどろむヌード絵なんか、それをモロに真似たようなライターの写真もある。

 日常性の裸=浮世絵の春画の影響も指摘されるが、当時の彼らには「濃密さ漂う室内風景」、身近モチーフを描く「親密派」なる流れがあったらしい。ビナールの絵に「リュシレンヌとルネ」二人を描いた絵がある。ボナールは26歳(1893)の時にマルトと出逢い、二人が正式結婚したのはボナール57歳〈1893)で、直後にルネが自死している。(ボナールは正式結婚するまで彼女の正式名も知らなかった)

 ライターもそれを倣ったのか~。彼らは共に恋人たちの〝濃密ヌード写真〟を撮り、絵を描いた。かつ複数愛(今はポリアモリーと云うらしい)者だったと推測してみた。以上『もっと知りたいボナール』と『ソール・ライターのすべて』各1冊のみ入手で、そこからの勝手〝推測遊び〟でした。

 写真はボナール紹介本+ソール・ライターの代表写真のメモ絵。以上、コロナウイルスが人類を襲っている今では考えられない「複数濃厚接触」の良き時代のお話でした。

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旧「日テレゴルフ場」のスナップ [スケッチ・美術系]

nami_1.jpg ソール・ライターが「イースト・ヴィレッジ」ならば、小生は「イーストサイドスクエア」のスナップ。大江戸線「東新宿」直結の「新宿イーストサイドスクエア」(2012年竣工)はオフィス・商業複合ビル。

 昔の「日テレ・ゴルフ打ちっ放し場」です。小生も若い時分は、ゴルフコンペが近づくと、よく通ったもの。今は「イーストサイド~」なんぞ長ったらしい名で、ウチでは今も「日テレ」です。ゴルフ練習場の前は、確か「正力松太郎」が野球場を作ろうとしたと佐野眞一『巨怪伝』に記されていたように記憶する。

 ウチの傍にスーパーが2軒あるも、少し歩きたくて「日テレ」隣の「マルエツ新宿六丁目店」へ行く事も多い。この写真は、その際に撮ったもの。曲線階段が面白く、右側の外国人カップルが「暖色ファッション」ならば~、いや雪の日で赤い傘をさしていたならば~と「ストリートスナップ」には、「タラレバ」がつきまとう。

east1_1.jpg 写真下も同場所。子供の自転車か服が「赤」だったら~とこれまた「タラレバ」。まぁ、そういうワケで、良い写真は〝偶然・タイミング〟次第。

 昔、鳥撮り遊びをしていた時のこと。希少鳥の出没場所に椅子に座り、ひたすら鳥の出現を待っているオジさん達がよくいたものだが、あたしは「せっかち」ゆえ、待つより歩き回ってシャッター・チャンスを求める性質(タチ)だった。ソール・ライターはどっち派だったのだろうか。

 それにしても、街に「暖色系」が少ないことに改めて気が付いた。暖色に限らず「彩度の高い色」も少ない。また撮るべくベストチャンスが巡ってきても、カメラ無携帯ではどうしようもない。

 過日、カメラをビルの合間に何気に向けたら、偶然にもギターを抱えた少女が大股開きで、向こう歩道を青年か歩いているちょっといい写真が撮れた。それは写真容量が大きいhttps://squatnote.exblog.jp/」にアップした。

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映画「ソール・ライター」を観て③ [スケッチ・美術系]

sibuya2_1.jpg 映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』観賞後は、ちょっとソール・ライター気分で渋谷駅へ向かった。

 まずは「109の道路向こうの吉野家」(2月17日のブログ写真)を撮った。彼の写真のように雨・傘・赤い傘・雪もないので、1/10秒でボケ味を狙った。吉野家の隣のパチンコ屋の派手ネオンが、手前の車に反射してブレ、ちょっと面白い写真になった。

 さらに渋谷駅に向かって歩く。電灯円柱で縦1/3の構図。その円柱には「永遠のソール・ライター」広告。光る歩道、中央に傘を持った女性、遠景は明かりが点いた渋谷スクランブルスクエア。今まで意識なしで撮っていた「スナップ写真」に、ちょっと興味が湧いて来た。

 彼の代表作の幾作かに、画面片隅にお洒落ファッションの女性が写っている。小生憶測では、これは恋人でモデルの卵ソームズを立たせた〝やらせ〟じゃないかと思う。そんなにうまい具合のシャッターチャンスは滅多にない。

 渋谷で撮ったカメラは「ポンコツ・コンデジ」(愛称ガラケーならぬガメラ)で、9年も前にポタリング携帯用に買ったもの。もう不具合続出だが、このカメラを両手で包み込むように持つと掌に収まり〝隠し撮り〟に最適。特にシャッタ―音が蚊の鳴くような音(消音設定)で、周囲の人にも撮ったことが気付かれぬ。それでいてスマホと違って絞り、シャッター、ISO設定も可。散歩中にポケットの中に収まる260g。jidori.jpg このカメラで、もう少し「ソール・ライター風ストリート・スナップ」遊びをしてみようかなと思った。

 なおストリート・スナップは「肖像権・著作権」に要注意。撮影禁止場所ではないこと。人物が風景一部のレベルであることが肝心。あたしのブログでは、人物は風景一部でも、ちょっと顔のボカシを入れてアップすることが多い。むろん他家を覗き撮れば「プライバシー侵害」。性的覗き撮りは「盗撮」で罪になる。

 ソール・ライターの「セルフ・ポートレート」も注目とか。あたしも昔にセルフ・ポートレートを撮ったことあり。銀杏は葉が黄色くなった後の、ある時期になると一気にバラバラと落葉する。その美しい様を撮っている自分~。

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映画「ソール・ライター」を観て② [スケッチ・美術系]

saulleiter_1.jpg ソール・ライターの写真代表作は、隠棲するずっと前の20~30歳(1940~50年代)作とわかった。例えば『足跡』(雪と赤い傘)は27歳頃(1950)、『Dont' Walk』(赤信号)や雪の『郵便配達夫』は29歳頃(1952)で、『看板描き』は31歳頃(1954)の作。

 その頃のソール・ライターと時代背景を知る必要があろう。あたしにとっての「イースト・ヴィレッジ」はヘンリー・ミラーだった(20歳の頃に彼の著作を読み漁った)。性と文学の彷徨・模索をしつつ、36歳で水彩画展を開催。

 ソール・ライターがファッション誌で活躍し始めた35歳(1958)頃のミラーは、すでに欧州で文学・水彩画の評価を得ていた。ライター38歳(1961)の時に、それまで輸入禁止(猥褻小説)だった『南回帰線』『北回帰線』の米国版が初めて発売。『南回帰線』はマンハッタンとブルックリンで暮した自伝的長編。(改めて読んでみたいが先へ進む)

 そして1950年代の「イースト・ヴィレッジ」はビートニックの時代。ジャック・ケルアックはライターの1歳上。『路上』刊がライター34歳の時。アレン・ギンズワークは3歳下。『吠える』刊がライター33歳の時。ウイリアム・バロウズは9歳年長で『裸のランチ』刊がライター36歳の時。ギンズバーグが「イースト・ヴィレッジ」で亡くなったのが、バロウズの死と同じ1997年。ライター74歳の時だった。

 ユダヤ教聖職者家の出のソール・ライターには、ヘンリー・ミラーの奔放な性の世界、ビートニックのドロップアウトとドラッグの世界に飛び込むには相当に無理があったが、彼らの詩や小説を貪り読んだに違いない。さらに「イースト・ヴィレッジ」は60年代にヒッピーの街になった。

 ソール・ライターは彼らの世界を横目にファッション誌の写真を撮り、あの「ストリートスナップ」を撮った。彼は何故アンダーグラウンドの彼らを被写体にしなかったのか。小生の若い頃の知人写真家は、怖い方の刺青や怪しい場所を撮っていたし(有名写真賞を受賞)、擬似強姦写真でカメラ雑誌掲載は1964年の五輪に東京脱出して伊豆で遊んだ友人だった。

s-nudes_1.jpg ソール・ライターには聖職者育ちの影響が相当に強かった、と容易に想像できる。激しく変化する新カルチャーの大洪水のなかで、彼に出来たことが、あのストリートスナップだった。

 そこには絵画面のジャポニズム、ビートニックらに影響を与えた鈴木大拙の「禅」、さらにはドイツを脱出した「バウハウス」系のデザイナーや写真家の影響も推測される。2歳年上の石元泰博はシカゴのニューバウハウス系で写真を学び、1960~63年のシカゴを撮った写真集『シカゴ、シカゴ』を1969年に刊。ソール・ライターはそうした構図理論に雪・雨粒・傘・滴・一瞬の美・脆さ~など現実(リアル)を超えた独自世界を写真にしたと考えていいだろう。

 老人になってからの写真代表作がないのは何故か。そのパターン完成から、さらに弾ける挑戦をしなかった、出来なかった。老いてからは写真より絵に情熱を傾けたように推測する。

 映画は89歳没の1年前製作だが、ガッシュで紙焼きに上塗りする際の紙焼きを現像所から受け取るシーンが映されていた。「上質紙の方が絵具のノリがいいでしょ」なる言葉入り。その紙焼き写真の上にペインティングされた絵が、実に素晴らしい。

 それらは2015年刊の画集『painted nudes』に収録も、あたしには手が出ぬ6千円。そのヌード写真の多くが恋人ソームズの若き日の姿だろう。艶めかしい裸体に、かつて生命力が弾けただろう頃を蘇らせるような明るい色彩が躍動している。

 映画『ソール・ライター』から、まぁそんなことを思った次第です。もうひとつは小生は老人らしく「もっとゆっくり歩き、ゆっくり考えること」が必要だなと反省したこと。

 挿絵上は彼の代表写真の~らしき図。挿絵下は小生にヌード写真の持ち合わせ?なしで、数年前に描いたマティスの簡易模写絵の上からソール・ライター風色彩で即興ペインティング。あぁ「せっかち」はいけませんね。彼のように今日は一筆、明日に一筆のペース。描き直しましょうか(似顔絵共々描き直しました)。

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映画「ソール・ライター」を観て① [スケッチ・美術系]

s-leiter_1.jpg 2月9日のテレビ「日曜美術館」が「ソール・ライター」だった。後半から観て「おや、NYの隠棲者」と思った。日本で隠棲者と云えば鴨長明、吉田兼好、横井也有~、新しいところでは永井荷風も挙げようか。

 同展開催「渋谷bunkamura」のル・シネマで映画「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」上映中。アカデミー賞「パラサイト」を止めて「ソール・ライター」を観ることにした。

 映画はライター89歳逝去の前年2012年製作。冒頭~ 彼の乱雑な仕事部屋(60年間住んだイースト・ヴィレッジの部屋)でのモノローグから始まった。「私は大した人間じゃない。映画にする価値などあるもんか。でもまぁ、仕方がないか。ふふふっ~」

 乱雑部屋での写真探し(整理)。昔の紙焼き、リバーサルフィルム(スライド)、亡き恋人ソームズ(モデルの卵時代から彼と深間で同建物に住む。ライター79歳の時に逝去)の部屋での探し物。時にカメラ片手に近所を散歩。彼の名言(箴言)13に分けた構成。

 凝った演出・衒いなしで〝老人ペース〟でゆっくりと進行する。小生、途中でちょっと眠くなった。そう云えば先週のこと、中野のカフェで隣席に、彼と同年配風の老人が座った。バッグから大判のクロスワード表を広げた。老人はそうして過ごすのが日課らしい。

 その爺さんに、カメラを持たせれば〝ソール・ライター爺さん〟になるような~。独居部屋でスケッチ帳に少しだけ絵筆を動かし、部屋の整理をし、カメラ片手に近所をゆっくりと散歩する。映画ではベンチのOL風のミニスカートから伸びた脚を撮って「いい写真だろ」(盗撮っぽい)とニヤリと笑った。

 1923年(大正12年)生まれ。父はユダヤ教聖教者。自身も神学を学んだが嫌気を覚え、画家志望でNYへ。あぁ、そんな画家がいたなぁ。ゴッホだ。ゴッホも牧師一家の子で、伝道師見習いから画家転向。ライターは画の勉強中に当時開発されたばかりのカラー写真に目覚めた。

 35歳頃からファッション雑誌で活躍。やがてNY5番街にスタジオを構えるほどの花形写真家へ。58歳(1981)でスタジオを閉めた。彼の晩年のアシスタントはこう語る。「モデル撮影に大勢のビジネスマンがついて来て〝あ~だ・こ~だ〟。ライター、耐え切れずにスタジオを出て行った」。それが〝隠棲〟の始まり。やがて電気代も払えず、友人たちの援助で暮すことになる。

 彼の代表作は隠棲後の作と思っていたが、改めて代表作を確認すれば、ほとんどが隠棲のずっと前の30歳代(50年代)作だとわかった。昔のイースト・ヴィレッジや橋を渡ったブルックリンはヘンリー・ミラーが育った街で、50年代はビートニックの街、60年代はヒッピーの街だった。次回はその辺を探ってみたい(ここまではネットに満ちるソール・ライター関係記述を参考にした)。彼の写真は素敵だが、それに負けず劣らぬ絵がすごくいい。挿絵は「ふふふっ」と笑う彼の似顔絵(描き直した)。50年ほど連れ添ったというソームズは、果たして幸せだったのだろうか。(続く)

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応仁の乱(13)遊びにて波を描く [スケッチ・美術系]

ohnami2_1.jpg 前回、鈴木大拙の「日本人の芸術的才能の著しい特色の一つは、南宋の画家・馬遠に源を発した〝一角〟様式を採用して、日本画の〝減筆體〟伝統と結び付けた点である」を紹介した。そこで馬遠の絵「黄河逆流」を見たら、ちょっと固まってしまった。

 小生は、今まで北斎「神奈川沖浪裏」などに見る〝波の描き方〟は、いわゆる〝雪村浪〟(雪村周継)からと思っていたが、馬遠「黄河逆流」の波の描き方がモロそれで、その描き方は〝雪村浪〟以前からあったんだと認識させられた。

 馬遠の生没年は不詳も、南宋の宮廷画家らしく、それならば日本の鎌倉時代辺りの活躍だろう。足利義政時代の遣明船は「応仁の乱」前後に各2回ずつで、相当に大掛かりに中国書画の蒐集をしたらしい。また遣明船には雪舟も乗っていた。ゆえに当時の日本の画僧らが、馬遠の波の表現を知っていてもおかしくない。雪舟は中国で馬遠の絵を見たかもしれない。

 そう思って雪舟の絵を見れば、やはり「鎮田爆図」に同じような波あり。狩野正信の子・元信「四季花鳥図」の滝の波もそうだった。ならば室町時代後期~戦国時代の主に東国で活躍の画僧・雪村周継「波濤図」などの波の描き方はオリジナルではなく、馬遠から影響されたと容易に推測される。

 それが江戸初期の俵屋宗達「雲竜図屏風」、江戸中期の尾形光琳「波濤図屏風」、江戸後期の酒井抱一「波図屏風」、そして北斎の波へ引き継がれ~、と各人の〝波の表現〟例を挙げて系譜的に説明しても面白そうだが、素人が出しゃばることではなかろう。

 そこで昨年秋に、水彩で伊豆大島の大岩に打ち砕け散る大波を描いたが、その絵の上からボールペンで彼らが描いた波表現をややオーバーに描き足して遊んでみた。さて、これに「北斎ブルー」で着色してみましょうか~。

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安価トレス台入手 [スケッチ・美術系]

trace_1.jpg 昔々、デザイナーだった頃に「ライトボックス」を持っていた。当時の写真原稿は35ミリか6×6フィルムで、ライトボックス上でルーペ覗きつつの写真選びだった。

 写真のトリミング、切り抜き指定もライトボックス上の作業。対角線による拡大類似形の輪郭線アタリで、ほぼ正確な拡大図も描けた。

 そのカラーボックスを永い間持っていたが、コード劣化の危険に及んで捨てた。併せてデジタル時代。写真原稿もデザインワークもパソコン作業で、カラーボックスの必要もなくなった。

 隠居後に〝お絵描き遊び〟を始めたら、漫画家のようにトレース台(ライトボックス)が欲しくなった。彼らの作業を見ていると、ラフスケッチから下描き完成へは、トレース台を使って本番紙に決定線で写し描いている。またデジタルお絵描きならば、写真資料やラフスケッチから透ける仕掛けで仕上げている。

 かくして「トレース台が欲しいなぁ」です。しかし価格は数万円ほど。漫画家・カメラマン・絵描きでもなく「ブログ挿絵」程度ゆえに、より安価なものをとネット検索で2,399円製品(写真)を入手。A4サイズ、超薄型、電源はUSBケーブル。届いた箱にA4ペラの英文説明書。多分、東南アジア製だろうが充分に使えそうです。

 だが〝お絵描き〟は現地スケッチ、写真を見ながらでも、鉛筆ラフから次第に正しい(デッサンの)線を決めて行く過程に〝お絵描きの愉しさ〟の一つがあるんですね。なのに、この便利道具で安易に輪郭アタリを写すと、その歓びがなくなってしまう気がしないでもない。だがまぁ、楽をした分、その先でアイデア発揮という手もあろう。上手に使えば〝隠居お絵描き遊び〟のミニ革命になるかもです。

 昨日のテレビで「カラー筆ペン、消せるカラー蛍光ペン」が紹介されていた。トレース台でこれら新文房具で一気に描くってぇ~手もありそうです。(メモ:今日は新宿歴史博物館、毎日曜3回「戸山荘(尾張藩下屋敷)」講座第1回目受講日)

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波の法則? [スケッチ・美術系]

ohnami1_1.jpg 波の習作4作目は、不透明水彩風になって失敗。今回は絵よりも「波のお勉強」。気象庁HPに~「風浪」「うねり」は混在しており、それらをまとめて「波浪」と呼ぶ~とあり、それも踏まえての俄か勉強。

 波の発生は、海流や月の引力(高潮)の影響もあるが主に風に起因。風で海面に〝さざ波〟が発生する。風が強いと尖った部分が風で白く跳ぶ。小生はそれを「兎が跳ぶ」と言う。ヨットに乗っていた若い時に知った言葉だろう。

 兎がたくさん跳ぶと、天気予報は概ね波高3m以上。竹芝~大島航路欠航も危ぶまれる。それが激しくなると「波浪注意報」へ。そんな海には「うねり」も発生する。大きな「うねり」に船はピッチング(縦揺れ)、ローリング(横揺れ)で船客は船酔いする。この「うねり」発生は、さざ波~白波~風浪。そして風が止むと波長の短い波は減衰し、波長の長い波が残って「うねり」になるらしい。

 よって「うねり」の主な基も風(台風)になる。「土用波」も南方で発生の台風波が、うねりになって海岸に到達する波のこと。波は沖から岸に迫るに従ってグンと高くなる。サーフイン写真を見ると、チューブのすぐ横の「静かな?うねり」に、関係者や写真家らが乗ったボートが群がっている。チューブが海底形状によって起る現象とわかる。

 磯に砕ける大波があるも、沖はベタ凪のように見える時もある。これは波長が数百mと長いためだろう。先月の大島で大波を撮っていた時に、さらなる大波が襲ってくるのは幾波目かを数えてみた。一定のリズムがありそうだが、どうやら決まっていないようだった。これを波長で分類すると「風浪=波長数m」「うねり=数百m=土用波、台風」「津浪=数㎞~数百㎞」らしいが、俄か勉強ではよくわからない。

 若い時分に葉山の堤防で釣りをしていた時のこと。穏やかな海で長閑な釣りだったが、突然に大波が襲ってきて堤防に置いていた釣り道具一式が波に浚われたことがあった。これは怖い。〝一発大波〟というらしい。

 隠居になるってぇと〝初お勉強〟が増える。それまでは仕事がらみで、初めて自分の関心・疑問・趣味になるからだろう。「貝」も「波」も今回が初勉強で、隠居も結構忙しい。昨日は神田古本市で遊んだが、自然科学系の本は僅少。また余計な本を買い込んでしまった。

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波習作3:大波の三様相 [スケッチ・美術系]

areruumi_1.jpg 波の習作3作目は、ちょっと面白い写真を選んだ。ワンショットに、波の表情が3等分されていた。右側は波がムクッと盛り上がった感じ。真ん中は波の表面がザワザワと泡立って、左側は波頭が砕けて真っ白になっていた。

 これは波の主な3大表情かも知れない。白く泡立った模様の感じがなかなか描けない。この泡模様が出来るには、何らかの法則も働いているのだろうが、そんな事を説明する本などはないだろう。

 婆さんが、この絵を見て笑った。「まだ初心者の域を出ないね。波ってぇのは海がグワッと盛り上がるのよ。その躍動感、神秘感、ダイナミズムがまったく描けていない」

 「ダイナミズム=内に秘めたエネルギー、力強さ、迫力」。そこまで言われて、自分でも一体なにを描いていたんだろうと猛反省しきり。やはり、ここは先生が必要か。ネットで海を描く達人を探してみた。

 ウィンズロー・ホーマー。アメリカを代表する画家。英国の北海に面する漁村カラーコーツに滞在して海を描いた。後にフロリダ、キューバ旅行。明るい海の絵を描くようになった。油絵も描いたが、アメリカ水彩画の伝統を確立したそうな。「おぉ、その絵を見てみたい」。だが新宿や渋谷の図書館になし。「Winslow  Homere」で検索すると洋書で5千円程。都中央図書館(閲覧のみ)にあった。さて~。

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海習作2:岩に打ち砕け高く舞ふ波 [スケッチ・美術系]

ohnami5_1.jpg 大島編で「2連の大波」を描いたので、海の習作2回目です。今回は、岩磯に激しく打ち砕け、高く舞い上る大波に挑戦。

 前作は修正を重ねて厚塗りになったが、今回は楽しく筆致も少なく描けた。だが今回も不透明水彩〝白〟で波の描写を助けてもらった。

 透明水彩画は、白地(塗り残し)で波を表現するのが基本だろうが、それが出来るようになるには、まだまだ修業が足りない。

 飛び散る波は、雲と同じく〝陰影〟をつけるとボリューム感、立体感が出るのを知った。最後に筆に白をたっぷりと含ませて、筆先を指先でピンピンと弾いて飛沫を散らす小細工もした。

 反省は、海も空も陸も曇天でもっと暗く濃い色だったが、そう彩色する勇気、大胆さがなかったことで、波の白さが際立たなかったこと。描かなければ反省もなし。次の反省をすべく、海を描く練習3回目へ。いつかは海、波を描くことが楽しくなりますように~。(追記:この絵の場合は、先に白クレオンで飛び散る波を描いておけば、その後の彩色で波部分が弾かれる。)

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カンディンスキー(8)バウハウス以後~ [スケッチ・美術系]

yuukitai1_1.jpg カンディンスキー夫妻は1928年にドイツ国籍を取得も、落ち着いた生活は短かった。翌年、世界恐慌。1933年1月、ヒットラー政権誕生で「バウハウス」閉鎖。身の危険に、12月にスイス経由でフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 妻ニーナによると、彼がパリに落ち着くことに、対極の存在のピカソは嫌ったとか。カンディンスキーは穏やかな生活のなかで晩年作を制作。この時期は、生命の発生や進化に関心を持って有機体が空を浮遊しているような「空色(空の靑)」「穏やかな飛翔」など。どこか〝陽気ではないミロ〟風作品です。挿絵はその一部をアレンジ模写。

 一方、ドイツでは1937年にナチス「退廃芸術展」。膨大な押収作品のなかにカンディンスキー作57作。そこから油彩1点、水彩6点が展示されたとか。1937年、スイスでクレーの臨床を見舞ったのが最後の旅。1940年、ナチスのパリ侵攻。ナチスのパリ占領下の1944年、78歳の誕生日パーティー後に永眠。

 カンディンスキーと別れたミュンターは、ドイツ表現主義の女流作家として活躍し、第二次大戦の戦禍からカンディンスキー作品を守り抜き、85歳で逝去。遺言でミュンヘン市立ギャラリー「レンバッハハウス」に作品寄付。同美術館は一夜にして有名美術館になったとか。(ウィキペディア参照)

 最後に松下透著「あとがき」文を紹介。~彼が抽象絵画に向かった動機の一つは、物質主義のなかで「芸術における精神的なもの」が危機に瀕しているという時代認識。一つは人並み外れた感受性によって、自然から受け取る感動で「自然と宇宙との交換によって生み出されたように思われる」と結んでいた。

 「バウハウス」の理念、カンディンスキーの教えは、米国へ亡命した多数教師陣らによるシカゴ「ニューバウハウス」によって、また教え子らの活躍によって世界中に普及。今も人気のフォント「フーツラ」「ユニバース」もバウハウス系。これにてカンディンスキー理解の〝玄関口〟に辿り着いたようなので、ここで終わる。

 参考資料:二十歳の頃の教科書『点・線・面~抽象芸術の基礎』『抽象芸術論』。展覧会ショップで購入の松本透『もっと知りたいカンディンスキー』、図書館本でアナベル・ハワード『僕はカンディンスキー』、フランソワ・ル・タルガ『WASSILY KANDINSKY』、ハーヨ・デュヒティング『ワリシー・カンディンスキー』。

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カンディンスキー(7 )バウハウス [スケッチ・美術系]

tensenmen2_1.jpg カンディンスキーの時代を俯瞰後は、再び彼の「バウハウス」招聘前後に焦点を当て直す。

 1917~1922年はロシア内戦の荒廃・破壊・残虐・干ばつ・大飢饉。1919年に3歳の長男が胃腸炎(栄養失調)で死去。社会主義革命に奉仕の芸術中心になって、1921年に夫妻は12枚の絵と僅かな身の回り品だけを持ってドイツへ逃亡。

 極貧生活を救ったのがパウル・クレー。彼の尽力で「バウハウス」(すべての造形活動の究極の目的は構成である)校長から招聘される。

 かくして「バウハウス」カンディンスキー先生が誕生。教えることは、自らも色彩・フォルム(点・線・面)の分析考察の日々。教室講義から『点・線から面~抽象芸術の基礎~』を1926年に刊。

 同書が小生二十歳の時の画塾の教科書だった。教科書ゆえ作者への関心なし。今思えば大変な時代を背に構築された諸理論に、もっと有難く拝読すべきと反省する。だが小難しい記述で再読する気にならず、よって関連書の〝孫引き〟です。

 <線>幾何学上、線は眼にみえぬ存在である。線は動く点の軌跡、したがって点の所産である。線は運動から生まれる。~しかも、点そのものが内蔵している完全な静止を破壊することによって、そこには、静的なものから動的なものへの飛躍がある。だから線は、絵画における最初の要素~点~に対しては、最大の対立関係にある。ごく厳密に考えれば、線は二次的要素と名づけられるべきものである。

 あぁ、若き日の記憶が僅かに甦ってくる。カンディンスキーは「バウハウス」がデッサウ市に移転前後に、今度は「円」に熱中する。<円>もっとも控えめな形態だが、容赦なく自己主張をし、簡潔ではあるが、無尽蔵に変化が可能。安定していると同時に不安定。無数の緊張を秘めている。

 かくしてカンディンスキーの抽象画は、次第に筆致が消えて幾何学的になって行く。挿絵は同時期に描かれた「尖りに拠って」。線画模写し、透明水彩+ガッシュで簡単彩色模写。逆三角形がそれぞれの重量と動きを与えられ揺れ揺られるドラマを演じている。

 この歳でコンパスを使うとは思ってもいなかった。机をひっくり返して見つけた小さなコンパスの鉛筆アタッチメントを外し、「PILOT HI-TECボールペン」をセロテープで仮固定して円を描いた。

 二十歳の頃に通っていた画塾は「カンディンスキーの2冊を読め」と「石膏デッサン」の外は大したカリキュラムもなかった。週一か、月一に師のアトリエに入り、師が前夜酔っぱらって茶碗を叩きつつ呟くテープを聞かされるだけだった。某広告代理店デザイナー募集で「カンディンスキーを読んでいました」が採用の決め手だったらしい。

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カンディンスキー(6)絵画状況と欧州史 [スケッチ・美術系]

kandinskyhon3_1.jpg インプレッション、インプロヴィゼーション、コンポジション制作期は1910~13年頃。今回は同時期のパリの絵画状況、欧州史を俯瞰してみたい。

 カンディンスキーはパリの「サロン・ドートンヌ」に1904年から出品。1906年に大賞。1905年の同展でマティス「フォーヴィスム」が注目。1907年にはピカソが「アヴイニョンの娘たち」制作。だがマティスは抽象へ走らず(75歳からの切り絵コラージュは抽象っぽい)。ピカソもブラックも抽象へは向かわず。

 カンディンスキーがいたドイツでは表現主義(絵画、文学、映像、建築に主観的表現に主眼をおく運動)中心だったが、1914年(48歳)第一次世界大戦勃発。ドイツの対ロシア宣戦で中立国スイスへ。諸都市を転々後にミュンターと別れてモスクワへ帰郷。

 1917年、51歳で10代の二―ナと結婚。同年11月、ロシア革命でソヴィエト政権樹立。政治に距離を置くも「教育人民委員会」の造形芸術・工芸芸術部に参加。モスクワ国立自由芸術工房の長、絵画文化美術館・館長、芸術科学アカデミー設立の副総裁。彼の許に若いロシア・アヴァンギャルドの芸術家らが集った。

 だがカンディンスキーの「コンポジション」に比し、若い世代は次第に感覚性・芸術性を排した「コンストラクション」(工業製品に限定)志向。社会主義革命に奉仕する芸術優先となり、彼は1921年12月に再びベルリンへ戻った。

 そのドイツでは1918年「ドイツ革命」翌年にワイマール共和国(ドイツ共和国、1919~33年)誕生。その最中1922年にワイマール州立美術学校「バウハウス」開校で、招聘される。この時、56歳。

 同校は「すべての造形活動の最終目標は建築(Bau、バウハウスは造語)である」が設立宣言だが版画、彫刻、陶器、ステンドグラス、壁画、織物の工房も設けられ、カンディンスキーは壁画工房のマイスター就任。ステンドグラス工房にパール・クレー就任。

 同校は1924年にドイツ人民党の圧力で自主解散。翌年にデッサウ市立バウハウス開校。製品生産会社も設立で家具を生産。カンディンスキーやクレーは応用美術、課外授業で絵画も教えた。

 ここでのマイスターハウスは2連住宅で隣がクレー家。互いに影響し合わぬわけがない。だが1933年1月のヒットラー政権で「バウハウス」閉鎖。身の危険にカンディンスキーはフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 写真はフランソワ・タルガ著『WASSILY  KANDINSKY』(美術出版社)。バウハウス時代の「黒い随伴」(1924年作)が表紙になっている。

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カンディンスキー:コンポジション(5) [スケッチ・美術系]

composition2_1.jpg その3:コンポジション(composition)について。カンディンスキーは「インプロヴィゼーションと同じだが、今度は時間をかけ練り上げての表現。私はこの種の絵を〝コンポジション(作曲)〟と呼んでいる」とか。

 作例に1911年の「コンポジションⅣ」をあげる。画面中央に城砦を頂く青い山。中央の人物が持つ黑い長槍が画面を左右にわける。左側が戦闘場面で、右側が平和場面で右下に男女が横たわる。

 この作品には、抽象過程をうかがわせる「コンポジションⅡ」がある。同作より「Ⅳ」へ至る過程例として「Ⅱ」の部分模写を添えてみた。肩肘で寛ぎ横たわる男女、馬を駆る二人の騎士、荒波に呑まれる人々が描かれ、それが「Ⅳ」の表現に至っている。(あぁ、小中学だったか、具象をこんな風に崩して抽象画に仕上げる図画の授業があったと思い出した)

 カンディンスキーは、夜明けの薄明りのアトリエで目にした絵が余りに美しいのに涙し、後でそれが自分の描いたこの絵だと気付く。この時期の彼は恋人ミュンターと妻アーニャとの三角関係の窮地にあって、相当に深刻だったらしい。極めて鋭敏・繊細な精神状態だったのではと推測するが、いかがだろうか。

 ちなみに二人は1916年頃に別離。こじれにこじれた。1921年に弁護士が彼女へ連絡をとって彼の持ち物や絵を返却するよう要求するも、大半は「精神的ダメージへの補償」として拒否。(ミュンターその後は後述)。

 異性との激しく諍いの後は、可愛い女性がいい。同年51歳のカンディンスキーはモスクワへ戻ると、なんと10代のニーナと結婚。彼はとんでもない〝ロリコン親父〟になった。彼女は奔放で妖艶で軽薄(『僕はカンディンスキー』著者記述)だが、彼女は27年後の彼の死まで添い遂げたそうな。

 理論家、哲学者、偏屈、完全主義者、厳格教育者のカンディンスキーに秘められた裏の顔がチラッと伺えるも、私生活を秘すも彼の流儀。※参考資料は最後に記す。


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カンディンスキー:インプロヴィゼーション(4) [スケッチ・美術系]

improvisation2_1.jpg カンディンスキーの抽象画への道、その2:インプロヴィゼーション。彼はこう記しているそうな。「無意識な大部分は突然に成立した内面的性格をもつ精神過程の表現、つまり〝内面的な自然〟の印象。この種のものを、私は〝インプロヴィゼーション(即興、improvisation)〟と呼ぶ。

 作例に1910年「インプロヴィゼーションⅣ」を挙げよう。彼は子供時分に伯母から繰り返し聞いた中世物語を心の中に膨らませていたのだろう。絵は帆船が襲われるシーン。右下に死んだ馬か。大砲の砲筒があり、その上に射撃手が並ぶ。銃口先に連なる白煙。傾く帆船、必死にオールを漕ぐ人、左舷着弾の水柱。画面上は絞首刑の人々、血に濡れた赤い月、雷鳴が響いている。(写真は〝即席〟模写)

 「即興(インプロヴィゼーション)」とは云え、前作「インプレッション」に比して、この絵は作者内面で充分に発酵形成された映像だろう。心の奥の熟成画像の〝即興表現〟と捉えたらいいだろうか。

 彼は42歳の頃に「シュタイナーの神智学」(人間界は物質界、魂界、霊界の三つで~云々の神秘主義)に夢中だったそうな。その内容は知らぬが、心の中で映像を形作る訓練にはなったと思われる。小生だって、子供時分は心のなかで映像を浮かべる経験もしたかと思うが、今は耄碌して、そんな感性は失った。

 ドイツ中世物語にも興味なしだが、孫が遊びに来る度にせがむ絵本「おむすびころりん」物語を、こんな調子で描くことは出来るかも知れない。画面中央下にネズミの饗宴。上部に抜ける穴。穴の上は斜面で「おむすび」が転がって、爺さんと狸が走っている。右下に爺さんを待つ婆さん。左上に小槌と溢れ出た小判。左下に強欲な爺さん婆さん。そんな絵を描き上げれば、孫の心の奥と響き合えるかも知れない。だが、孫はカンディンスキーより断然ショアン・ミロの絵の方が好きだと言いそうだな。次は「コンポジション」ヘ。

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カンディンスキー:インプレッション(3) [スケッチ・美術系]

impressin3-2_1.jpg カンディンスキーの風景画は、次第に目に見える自然を解体し、色彩の響き合いに重点が移って行く。そうした過程で思索されたのが『芸術における精神的なもの』(1911年刊)。

 二十歳の頃に読んで難儀したので、再読したいとは思わぬが、彼はこう記しているそうな。

 ~実景から解放されたコンポジション(構図、構造、構想画)を描くことが目標になった。それは印象派によって壊された欧州の偉大な構想画(コンポジション)の伝統を、今度は〝神話・聖書世界〟から脱却して再興することだ。

 それは、次のように展開される。「内的ヴィジョンの直接的な表現(即興、インプロヴィゼーション)や、目に見える自然の解体(印象、インプレッション)が必要かつ大切。それには精神性かつ色彩と形体をめぐる綿密で持続性の省察も不可欠~」

 二十歳の頃に、こんな小難しい書と格闘していたとは。カンディンスキーは、かくして次第に抽象絵画へ向かって行く。1912年、46歳で初の個展をベルリンで開催。インプレッション・シリーズ、インプロヴィゼーションン・シリーズ、そしてコンポジション・シリーズ。

 まずはインプレッション(impression):外面的な自然から受けた直接的印象。これが素描的・色彩的な形態をとって現れるもの。この種の絵を私は「印象、インプレッション」と名づける。

 作例に1911年の「インプレッションⅢ(コンサート)」を挙げてみよう。彼は友人と共に室内楽コンサート(アルノルト・シェーンベルクの弦楽四重奏第二番。別の惑星の空気を感じるような風変わりな作品)を聴いた。聴衆は驚き笑いヤジを飛ばしたが、彼には天啓のように響いたそうな。

 その感動を二日後に一気に描いた。黒く大きなグランドピアノ、ピアニスト、聴衆、右斜めに傾いた構図、白い縦線は不協和音か。

 カンディンスキーはチェロとピアノが得意。音楽を聴くと、視覚的な感性が震えるそうで、音楽は画家として欠かせぬ要素。同作を描いた後で、彼は興奮して作・演奏者に手紙を書いた。面白そうだから〝即興〟模写をしてみよう。

 おっと、数ヶ月使っていなかった「ホルベインガッシュ」半分が凝固していた。比して10年も前の「ニッカーガッシュ」が使えたり。顔料次第で凝固按配が違うのか。あたしは〝インプレッション・インプロヴィゼーション、コンポジション~〟と呟きつつ、新宿・世界堂まで「ターナーアクリルガッシュ」(安価)を求めに往復ウォーキングに相成候。

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カンディンスキー(2)まずは具象画 [スケッチ・美術系]

kandinskykao9_1.jpg 二十歳で読んだカンディンスキー著作は、理解に難儀して〝人となり〟まで気は回らなかった。今回のチラシ『商人たちの到着』を観て、「抽象画の前に、こんな絵を描いていたんだ」と驚いた。幾点ものスナップ写真から容姿も知った。ショップで購入の松本透著『もっと知りたいカンディンスキー』や図書館本より、まずは彼の経歴調べ~

 1866年(慶応2年、2年後に明治)、モスクワ生まれ。黒田清輝と同い年だな。幼児期に両親離婚。ドイツ系伯母に育てられる。叔母は彼にドイツの伝統的童話をよく話した。1892年(明治25)、モスクワ大卒。経済学と法律を学び、同大法学部助手の時期(1896年、30歳)にモネ「積みわら」を観て、画家を志し、ミュンヘンへ移住。

 ちなみに黒田清輝は18歳で法律を学ぶべく渡仏も、20歳で画家志望に転向。1896年に東京美術学校に西洋画科発足で教師に。さて30歳のカンディンスキーは、画学生に混じって画塾でデッサン開始(ピカソのデッサンは秀逸も、彼のデッサン力は?)。ミュンヘン美術アカデミー2度目?の入試で合格。33歳。インテリゆえ考察・分析力は鋭く、旧来授業に疑問。芸術集団「ファーランクス」を結成。展覧会自主運営や画学校も開設。当時はどんな絵を描いていたのだろうか。

 「木版画」と「彩色ドローイング」とか。「木版画」はドイツ中世騎士物語(幼児期に叔母から聞いた童話の数々。また改革へ向かう画家をも託して)。「彩色ドローイング」は平たく言えばチラシ系題材で短い筆致の具象画。1904年からパリの「サロン・ドートンヌ」に出品。1906年に大賞。大学卒業頃に従姉妹の妻・アーニャ(1911年に離婚)と結婚していたが、当時は画学生の生徒ガブリエール・ミュンターが恋人(1914年に別れ)。

 ドイツは当時「ユーゲント・シュティル」(アール・ヌーヴォー要素を色濃くした絵画からデザインまでを含めた考え方)や、「ミュンヘン分派派」(絵画を建築の一部と捉えた考え)の動きがあって、それらに影響を受けたらしい。

 題材=ドイツ中世舞台、技法=テンペラ画(生卵使用)、短い筆致~これらを選んだのは、実景から離れて自身の色彩感を自由に描きたくての意もあったか。次第に眼に見える〝風景解体〟で、色彩を自由に構成する抽象絵画傾向へ。1910年、水彩による最初の抽象画を描く。〝具象から抽象〟へ変わって行く過程が、どことなく微笑ましい。

 この時期に各国各都市を旅行。生活は?と心配すれば、なんと彼はモスクワに7階建てアパート所有。裕福な茶商人だった父の遺産かしら。〝生活なら召使がやってくれる〟とまで言わぬが、彼に生活の苦労は無縁で芸術的思索に耽溺か。

 1911年、45歳で『芸術における精神的なもの』刊。似顔絵は47歳の写真から。鼻眼鏡。「彼の写真から画家をイメージするのは難しい。行政長官か哲学教授か、あるいは医者を想像させる」(フランソワ・タッルガ著)

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汐留でカンディンスキーと逢う(1) [スケッチ・美術系]

kandinskytirasi1_1.jpg 「今日は何をしようかしら」。隠居ってぇのは、そんな日々です。「そうだ、パナソニック汐留ミュージアム『カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち』を観に行こう」。

 二十歳の頃に、某大・応用化学科の実験白衣を脱ぎ捨て、美術塾へ通った時期がある。そこはイラストなど描けば罵倒される雰囲気で、教科書代わりが59年刊カンディンスキー『点・線・面~抽象芸術の基礎』(下写真の左)、58年刊『抽象芸術論』(下写真の右)だった。

 難解なり。当時は「バウハウス」と「イラスト」両派があって、師は「バウハウス派」だったか。かくしてイラストを一度も描かずに、グラフィックデザイナーとして社会人になった。

 久し振りに眼にした「カンディンスキー」の名に、懐かしさを覚えて同展へ。ポスターもチラシ(写真)も『商人たちの到着』。カンディンスキーが具象画を描いていたとは知らなかった。胸踊らせて会場に入ったが108点中、カンディンスキー作は僅か18点だった。

 ゆえに図版は買わず、ショップで「カンディンスキーのガイド本」を買った。二十歳の時に読んだのは、函入りハードカバーで活字中心。このミニ画集が、当時のカンディンスキー概念を変えてくれそうな気がした。

 同書を数頁めくると、昨年に小生が新宿御苑でスケッチした絵と、まったく同じ構図の絵『サン=クルー公園~陰暗い並木道』があって愉快なり。お閑な方は同題画像探索と、弊ブログの新宿御苑スケッチ「プラタナス並木を描く」を見比べて下さい。

kandinsky2mai.jpg さて「汐留」は電通、日テレ、汐留シティセンターなど街は様変わり。だが「新橋駅」よりはサラリーマンの街。定食屋で「サンマ定食」を食いつつ、電通のガラス高層ビルを眺めながら「過労死するほど働いている青年はいないだろうな」と心配した。

 小生、カンディンスキー没年の生れ。大学の実験白衣を脱ぎ、彼の著作を読んだ。カンディンスキーはモスクワ大卒で同大法学部助手になるも、モネ『積みわら』を観て画家を志した。30歳だった。

 生きる道は幾つもある。「決して死ぬほどの無理をしてはいけません」。小生、好き嫌い激しく生きて来た結果が貧乏隠居だが、昔も今もそれなりに愉しく暮らしている。

 若い時分を思い出したので、いい機会ゆえ、二十歳の頃に読んだカンディンスキーを、少しだけ再勉強してみようと思った。(続く)

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グラフィックデザイナー・藤島武二 [スケッチ・美術系]

mucha2_1.jpg 「生誕150年記念 藤島武二展」は、多彩な描き方のサンプル集みたいで、小生の胸打つ作品はなかった。図録年譜をみると四十三歳、明治四十三年(1910)から四年間の欧州留学(官費)。帰国後に東京美術学校の助教授から教授になって高等官七等とあり、その後の昇進も記されていた。

 ここで気付いた。「あぁ、彼のスタンスは文展・帝展、日本の西洋画アカデミスの教師・官費・官吏ゆえの破綻のなさ、安定感なんだ」と。図版の偉そうな官僚・軍人風の写真と相まって、ゆえに絵に面白さがなかったんだと納得した。

 そのなかでグラフィック・アーティスト=藤島武二のコーナーは「おぉ、いい仕事じゃないか」とちょっと胸が騒いだ。それら仕事は明治三十四年(1901)の東京新詩社(与謝野鉄幹主宰)の『明星』表紙や挿絵、また与謝野晶子『みだれ髪』表紙に端を発したグラフィックデザイナー的な仕事群。

 白馬会や東京美術学校など黒田清輝の世界から離れた土壌で、個性・才能発揮かしらと思った。藤島武二の名や絵を知らぬ方も、与謝野鉄幹・晶子歌集の表紙の絵、といえば多くの方が頷くかもしれない。

 そのなかに明治三十五年『文芸界』表紙もあった。確か永井荷風が同誌懸賞小説に応募し、入選を逸するも単行本化『地獄の花』(荷風処女本)されたはず。森鴎外から〝読みましたよ〟と言われて大感激した青年・荷風がいた。また荷風が慶応義塾文学部教授と『三田文学』を辞めた二年後、与謝野鉄幹が同教授になっての『三田文学』(大正八年)の表紙や『スバル』表紙もあった。

 これら仕事の図録解説を読むと、留学前に欧州に憧れて蒐集していたアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォーの中心人物)、オットー・エックマン(ドイツ・ジャポニスムの先駆者、日本の書からアレンジヒントを得た書体)、スタンラン、ハンス・クリスチャンセン、ヤン・トーロップ、フェリックス・ヴァロットンら「ジャパニスム~アール・ヌーボー」の人々の資料を参考に描かれたもの、と説明されていた。

 ここで、失礼ながら藤島武二の絵への興味は急速に薄れ、彼が模倣(参考にした)した「ジャポニスム~アール・ヌーヴォー」への関心が盛り上がった。

 先日のフェノロサの記事で、彼が〝お雇い外国人〟になったのはホィッスラーのジャポニスム作品から日本への興味を抱いて~と記したばかりゆえ、まずは印象派、後期印象派の画家らの「ジャポニスム」についてお勉強したくなってきた。俄か絵画好き隠居に美術史は無知領域で、お勉強にキリがありません。

 挿絵は若い藤島武二が熱心に模写しただろうアンフォンス・ミュシャ作品から、小生は「自転車パーフェクタ」ポスターの簡易模写(途中まで)。次は「ジャパニスム」のお勉強へ。(藤島武二3おわり)

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『芳蕙』は不明、『鉸剪眉』は油彩 [スケッチ・美術系]

kousenbi2_1.jpgkousenbi5_1.jpg 「行列してまで〇〇したくない」小生に、練馬区立美術館は程好い〝空き〟具合。会場で〝お葉さん〟を探したが、代表作の『芳蕙(ほうけい)』、そして『女官と宝船』もなかった。

 図録に<『芳蕙』は『蝶』と共に行方不明。『芳蕙』は五十年前の展示から足跡が途絶えている>とあった。所有者某が没落後に行方不明。あの中村彝『エロシェンコ氏の像』は、その某氏から東京国立近代美術館へ寄贈されたのだが~とあった。

 その代わり、同時期の鉛筆画『婦人像』があった。作品説明に「モデルは〝芳蕙〟と同じ、佐々木カネヨであろう。彼女は藤島モデルとしても知られるが〝お葉〟の名で竹久夢二の恋人、モデルとしてつとに有名である」。だが竹久夢二の前は〝責め絵・伊藤晴雨〟のモデル・愛人だったとは記されていなかった。

 そして『鉸剪眉(こうせんび)』。事前に観ていた現代日本美術全集『青木繁/藤島武二』収録作とは違っていた。全集同作は「紙・パステル・水彩」で、横顔の輪郭線があり、背景との間に白地が残されていた。同画集には「油絵よりも、このパステルと水彩の作品がすぐれている。まさに絶品と言えよう」とあった。展示の油彩は横顔や背景が無筆触単色塗りで、あの味わいが塗り潰されてしまった感じだった。

 同テーマの『東洋振り』や藤島模写のルネッサンス期の横向き婦人像も展示で、作者の模索過程がわかって面白く、それだけに『芳蕙』が観たかった。小生はこの連作を観つつ、狩野芳崖が『悲母観音』で見せた基督教美術と仏教美術の融合、そして藤島武二の「油彩で描いた日本画風仕上げ」を較べていた。

 会場には実に多彩な描き方、筆触の作品が並んでいた。それらはどれも何処かで観たような気がして、作品に魅了されるのではなく「私はこんな風にも描けますよ」というサンプル展示を観ているよう。これが文展・帝展アカデミズムの中心に居続けた画家・教師・官吏のスタンスで、つまらん安定感と思った。俄か絵画好きの素人感想で失礼は承知だが、胸打つ画家なんて、そんなに多くはいない、と改めて認識した。

 写真は『鉸剪眉』の部分。左がパステル・水彩作。右が油彩。次はちょっと胸躍った藤島武二のグラフィックデザイナーとしての仕事について。(藤島武二2)

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〝お葉〟に会いに藤島武二展へ [スケッチ・美術系]

oyoufutatabi.jpg 秋の気配に、閉じ籠もっていた冷房装置の部屋を出て美術鑑賞へ。興味を惹いたのは〝大行列の大美術館〟ではなく、練馬区立美術館「生誕150年記念 藤島武二展」。

 フェノロサ、狩野芳崖、岡倉天心らによる洋画排斥の東京美術学校創立までを勉強したので、その六年後の西洋画科設置からのお勉強。藤島武二は慶応三年、薩摩藩士の子として誕生。十六歳より四条派の画家に学び、十八歳で上京して深川の四条派・川端玉章門下。「玉堂」の名で美人画などを描くも、二十二歳で西洋画に転向。二十九歳で西洋画代表・黒田清輝によって助教授任命。

 三十八歳、明治三十八年に四年間の欧州〝官費留学〟。五十九歳、大正十五年に「油彩で東洋的典型的美」到達の代表作『芳蕙(よしえい)』、翌年に『鉸剪眉(こうせんび)』発表。その代表作も観てみたかった。

 さらにそれら代表作のモデルが、なんと〝責め絵〟伊藤晴雨から竹久夢二へモデル・愛人遍歴を経たお葉さん(本名・佐々木カ子〝ネ〟ヨ、通称嘘つきお兼、〝お葉〟は夢二が名付けた)らしいのだ。この時、お葉さんは二十二歳。どこでこんな知識を得たかと云えば、本棚の金森敦子著『お葉というモデルがいた』。

 以前の弊ブログで「夢二の〝お葉〟は責め絵モデルだった」「夢二・晴雨・お葉」(共に閲覧多い記事)の〝お葉さん調べ〟は図書館資料によったが、その中の一冊の同書を神田古本市で三百三十円で入手。本棚にあったのを引っ張り出して読み直したってワケ。

 藤島武二とお葉さんの関係を同著より要約する。~お葉さんは十三歳から東京美術学校のモデルとして活動。当時の藤島は日本的画題を描く時に彼女をモデルにしていたとか。長女より一つ下のお葉に父親のように接していたそうな。

 やがてお葉さんは責め絵・伊藤晴雨のモデル・愛人。そして竹久夢二のモデル・愛人へ。運命の男たちと愛と性の遍歴を経て、再び藤島武二の前に立ったのが大正十五年。藤島は横浜で中国服をオーダーして、代表作『芳蕙』と『鉸剪眉』を描き、お葉さんにとってもそれが最後のモデル仕事。

 昭和五十二年の「藤島武二回顧展」を訪ねたお葉さんが、こう言ったそうな。~「女官と宝船」もそうですし、先生の代表作「芳蕙」のモデルも私でした。半年間も先生のアトリエに通い詰めましてね」(同著の孫引きで平岡博「藤島武二展での邂逅」より)。お葉さんは、そう述懐した三年後の昭和五十五年に七十六歳で没。

 さぁ、藤島武二展へ〝お葉さん〟に会いに行こう。挿絵は二年目のブログで描いたのを再利用。(藤島武二1)

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所ジョージの〝喉仏ファン〟 [スケッチ・美術系]

tokoronodo1_1.jpg 新しいマルマン「sketch帖」で何を描きましょうか。先日、幾人かの若い女性の〝首〟を描くも、男性の首は未だ描いていない。その時に「所ジョージの喉仏、胸鎖乳突筋、頸切痕などがクッリキ出ていて面白い」と記したので、改めて彼の番組を観て描くことにした。

 喉仏が実に良く動き、首皮膚の下に〝元気な独楽ネズミ〟がいるかのようで見飽きない。願わくは頸切痕、鎖骨切痕までがよくわかるシャツで、カメラは頸全貌がわかるローアングルで撮っていただきたかった。

 喉仏左右は「胸鎖乳突筋」。血管は「頸静脈」。その後ろは「中斜角筋」で、縦筋の多くは「広頸筋」だろうか。ネットに満ちる「首の図解」だが、いまいちハッキリしない部分も多く、画学生たちはどんな教材で勉強しているのだろうか。

 新しい挿絵帖「マルマンsketch 100sheets B5 soho501」の描き心地やいかに。う~ん、小生には慣れ親しんだ「クロッキー帖+淡彩」の方が描き易かったなぁ。「クロッキー帖」は水を含むと紙が細かく波打ったが、この「sketch帖」は僅かな水気で大きく強靭に波打った。

 紙が波打つのを嫌うなら、水彩紙を水張りしてから描けばいいのだろうが、そこまでやれば〝挿絵領域〟を越える。「いいなぁ~」と思ったのは「白地がきれい」。これは「クロッキー帖」と比べれば当然のこと。クロッキー帖は次頁の絵が透けるワケで、透けないゆえの〝白さ〟が新鮮だった。

 この「sketch帖」も100枚綴りを描き切った頃には慣れて来るだろうが、目下は連日猛暑で頭の回転停止状態に陥った。次に記すブログ内容も絵もまったく浮かんでこない。

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