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京・内裏「おもい立さは先よしといそ五十路~」 [狂歌入東海道]

56dairi_1.jpg 保永堂版最後は「三条大橋之図」だが、「狂歌入東海道」第五十六作目「大尾(たいび=最後)」として「内裏(だいり)」が描かれている。狂歌は「おもい立さは先よしといそ五十路こえてみやこをけふはつの空」。

 ボストン美術館は「おもい立さ〝い〟」だが、「おもい立さ〝ハ(ば)〟」だろう。さらに同美術館は「けふみつの空」。〝ミ〟と〝者のくずし字=は〟が似ていて「ミ・は」を迷ったが、筆運びから推測すれば「は」ではなかろうか。「けふはつの空」。〝ミ〟ならば「けふミつの空」で「今日見た空」。「いそ=数多い」。とりあえずこう解釈しておく。最後まで狂歌解釈に惑わされました。

 さて広重は何故に「内裏」まで描いたのだろう。「内裏」は京都御所。平安京ではなく江戸後期の「内裏」を調べれば、なんと松平定信が復元し、その形が今に至っていると知って、思わず声を上げてしまった。

56dairiuta_1.jpg56dairiup_1.jpg 定信と云えば〝寛政の改革〟。浅間山噴火を端にした天明大飢饉で、江戸は緊縮財政・風紀取締。それが恋川春町を自刃に追い込み、山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦重が財産半分没収の刑など。その最中に定信は京都・天明大火で焼失の内裏を、しかも平安京の形式で復元したと!江戸の庶民文化を締め付けた「寛政の改革」の一方でそんな大事業をしていたとは。改めて松平定信をお勉強してみよう。また広重が「内裏」を描いたのは「八朔御馬献上」帯同で内裏へ入ったゆえ、と推測したがいかがだろうか。

 数年前の「池袋西口古本まつり」で朽ちた五十六枚綴りの「狂歌入東海道」を入手し、その〝狂歌(くずし字)〟解読をと軽い気持ちで始めたら、四カ月余も要してしまった。

 当初は酷暑をさけて冷房部屋でお遊びの積りだったが、早や秋は過ぎて冬を迎えつつある。その間に「古文書講座」受講もあった。ケツから何かを突っ込まれてポリープを二度に渡って取った。〝長かったなぁ〟と思いますが、十返舎一九は『東海道中膝栗毛』は八編十七冊で完も、弥次喜多らの道中記は二十年余(三十八歳の初編から五十八歳の十二編完)も書き続けた。それを思えば四カ月は僅かなもの。

 これにて「狂歌東海道」シリーズ終了です。狂歌の解読・解釈、また机上の東海道五十三次で記述誤りも多かったと思います。なお参考資料は「日本橋」の項に列挙しました。終盤に入手の本も多く、例えば『東海道中膝栗毛』校注の麻生磯次著の『芭蕉物語』(上・中・下巻)を神田の古本市で入手。広重、一九に加えて芭蕉と共に東海道を歩くことも出来たかなとも思います。気が向いた加筆、修正して行きます。


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京・三条大橋「鳴神の音にきこえし大橋は~」 [狂歌入東海道]

55kyouohhasi_1.jpg 第五十五作目は「京・三条大橋ノ図」。狂歌は「鳴神の音にきこえし大橋は雲の上ふむこゝちこそすれ」。柿本人麻呂「鳴神の音のみ~」と同じく〝なるかみ〟と読むのだろう。

 この狂歌入東海道の「三条大橋」は真正面からで、江戸出立「日本橋」は真横から描かれた図。比して保永堂版の「三条大橋」は横から、「日本橋」は真正面からの図。広重さん、細かく気を遣っています。

 三条大橋へ至る前に「粟田口刑場跡」あり。約一万五千人が処刑されたとか。明智光秀の遺体も晒された。大きな町の街道外れには概ね刑場あり。品川の「鈴ヶ森刑場」、日光街道の千住「小塚原刑場」、中山道の大宮「小原刑場」など。治安維持の見せしめとはいえ残酷なり。

55sanjyouuta_1.jpg さて、弥次喜多らも伊勢詣り後に京に入っているはずだが~。彼らは奈良海道を経て伏見まで来たが、京へ入らずに大阪への下り船に乗ってしまう。鉄道開通の明治十年まで三十石客船が稼働。だが伏見~大阪間で大雨に遭って接岸。その待機中に小便で上陸。再び乗船の混雑で、間違えて上り船に乗ってしまう。伏見に戻った彼らは御所仕えらしき女らに三条大橋への道を訊ねるも、馬鹿にされたか〝五条の橋〟を教えられる。

 結局〝五条の遊所〟に上がってしまう。喜多さん、コトが済んだ後で、相方が彼の着物で男装して逃亡。逃がしたと迫られて褌一つで放り出された。その後で〝三条の宿〟で一泊するも、彼らに京は向いていなかったか。〝雲の上ふむこゝちこそすれ〟とまで詠まれた三条大橋の感慨を一言も記さずに大阪へ行ってしまう。

 〝五条の遊所〟とは。ここは五、六年前(2010年に摘発・閉鎖)まで鴨川の「五条大橋~七条橋」右岸は庶民相手の遊所(遊郭~五条新町~赤線~五条楽園)があったそうな。今も遊郭風建物、赤線カフェ風建物が数多く残っているらしい。お上品な京都だが、やはり〝悪所〟は欠かせなかったのだろう。

 かくして『東海道中膝栗毛』の〆はなんとも歯切れが悪い。京からの道中ならば、日本橋に立たずに内藤新宿か品川宿で遊びまわって終わり、みたいな感じ。十返舎一九は二十年も書き続けてキレを失ったか、未練一杯で引き延ばしたか。

 それでも現・三条大橋の橋詰めには〝弥次さん喜多さんの銅像〟が建っている。その点は広重の方が華麗に「三条大橋」で〆ている。おっと、まだ一作「京・内裏」があった。


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大津「君が代のたからを積みて門出の~」 [狂歌入東海道]

54ohtu_1.jpg 第五十四作目は「大津」。狂歌は「君が代のたからを積みて門出(かどいで)の仕合(しあわせ)よしといさむうしかひ」。漢字に〝読み〟を入れたが、これで正しいだろうか。「仕合よし」は古語辞典で〝事の次第よし・なりゆきよし〟。同時に荷馬の腹当てに染め抜いた語(丸に〝仕合〟や〝吉〟など)。掛詞だな。広重の絵をよく探せば、荷馬に腹当てにそれら文字入りの絵もあった。

 草津宿から「瀬田の唐橋」を渡ると、右に琵琶湖の広がりが見える。湖沿いに歩くと膳所城跡の先が「矢橋」からの船着き場。絵はここを描いたのだろう。大津宿は物流要所で本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠七十一軒。

 芭蕉は湖水東岸を見て「辛崎の松は花より朧にて」と詠んだ。松が朧に見える趣を「朧かな」と言い切らず、余韻を残すべく「朧にて」とした。広重は「近江八景」で〝唐崎の松の朧〟を描いている。

54ohtuuta_1.jpg 大津には芭蕉の墓、膳所・義仲寺がある。「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、西(故郷の伊賀、畿内、京)で過ごす事が多くなった。元禄七年に御堂筋「花屋仁左衛門」の離れで永眠。舟で伏見まで下って義仲寺に埋葬された。同寺〝無名庵〟が元禄二年頃からの拠点で、門人によって新築されていた。辞世は「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」。

 本陣は「礼の辻」を左折した辺り。その一画に「大津絵」を売る店あり。「東海道名所図会」に店の様子が描かれている。横井也有『鶉衣』の一文を思い出した。「鳥羽絵(漫画)の男は痩せてさびしく、大津絵の若衆は肥えて哀れなり」。大津絵は旅土産(民画)。今も五代目が三井寺参道で店を出しているらしい。

 芭蕉「大津絵の筆のはじめや何仏」。正月に名句が浮かばず、大津絵では年初めにどんな仏を描いているのだろう」と詠った。当時(元禄)の大津絵は阿弥陀、三尊仏、十三仏など仏画のみ。その粗雑な筆致が俳諧の可笑味と共通なるものありと感じていたそうな。(麻生磯次『芭蕉物語』参考)。

 宿場を出ると「走井茶屋」へ。保永堂版は「大津・走井茶屋」。店前の街道を牛馬の列が描かれてい、冒頭の狂歌「勇む牛飼い」がここで登場する。大津~京都間は、物資運搬の牛馬のために「車石」が敷かれていた。その絵の左に「名水・走井」も描かれている。名物は「名水(走井)餅」。ここで餅を食ったら、京は目前なり。


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草津「たのしみの日数かさねて春雨に~」 [狂歌入東海道]

53kusatu_1.jpg 第五十三作目は「草津」。狂歌は「たのしみの日数かさねて春雨にめぐむ草津の旅の道芝」。変体仮名は「可=か、年=ね、亭=て、耳=に」。

 草津宿は中山道との分岐・合流の追分あり。本陣二軒、脇本陣二軒、総戸数五百八十六軒の約三割が旅籠だったとか。弘化三年頃に建造の田中七兵衛門本陣が復元されて(国史跡に選定)一般公開。江戸時代末から続く旅籠「野村屋」、大田道灌の祖先「大田酒造」等あり。

 絵に名物「うばもちや」の看板の茶屋が描かれている。同店は現・国道一号線に店があるそうだが、昔は宿場を出た矢橋道への分岐角にあった。保永堂版「草津・名物立場」も同店が正面から描かれている。

53kusatuita_1.jpg 絵の看板は「うばもちや」だが、それを説明する文は「うばがもちや」と〝が〟が入っている。「うばが餅、姥が餅」。あんころ餅の天辺に小さな白餡がちょこんと乗って〝乳房風〟。近江源氏某の幼児を育てた乳母の乳房。家康、芭蕉、近松門左衛門も食べたとか。

 さて矢橋道から約3㌔ほど北上すると矢橋船着場。琵琶湖を渡って大津への早道だが「もののふの矢橋の船は速いけれど急がば回れ瀬田の長橋(勢田橋、唐橋、臥竜橋。長さ260㍍)」。武士なら船ではなく確実な橋を渡って行け。「急がば回れ」の諺が生まれた地。次の「大津」を経れば、いよいよ京です。


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広重をiPhone6sで遊ぶ [狂歌入東海道]

ukiyoezensin_1.jpg 7月1日に軽い気持ちで始めた「狂歌入東海道」の〝狂歌・くずし字〟遊びだが、丸四ヶ月を過ぎたのに、未だ京に辿り着けない。その間に私事はさまざま。その一つは〝ガラゲーをスマホ〟に換えたこと。

 ツイッターとかインスタグラムとか、スマホでゲームや音楽にも興味はなし。だが街に出れば、電車に乗れば、まぁ全員とは言えぬも人々はスマホで〝何か〟をしている異様な光景が展開。未だ満足にしゃべれない孫までもが親のスマホをタップ、スワイプする見事な手つきよ。

 「そろそろ換え時かなぁ」。当ブログへのアクセスもスマホからの閲覧が増えた。パソコン想定の長文ブログは、スマホではどう見えるのだろうか。そんな話を息子に言えば「iPhone6s」&格安セッティングをしてくれた。

 で<ハマっちゃったんです> スマホの電話操作を覚える前に〝スマホで絵を描くこと〟に。専用アプリではなく「メモ」の手描き、「写真」のマークアップ、「メール」のフリーハンドそれぞれに違った機能で〝お絵描き〟が出来る。

 iPhone6sの液晶画面は4.7㌅。横幅が指三、四本分。その小さな画面に太い人差指を擦れば、0.5㍉ほどの線が描ける。指のどの辺から線が出て来るか予測不能。そのままならぬ結果が〝ヘタウマ風な絵〟または〝絵葉書風な絵〟を生む。思惑外れ、ズレ効果の線が面白かった。

kataguruma5_1_1.jpg だが指では余りに塩梅が悪く、ビッグカメラでタッチペン2種を買ったが、使いものにならず。近所のドンキで別の2種を入手。580円の固い6㍉程のラバー製ペンがなんとか使えた。6㍉丸ペン先から0.5㍉ほどの線で、多少は精度向上だが、あのズレ感は失われない。

 調べれば「スマホ」用〝お絵描きアプリ〟もある。さらに「iPad+Applepencil」の組み合わせもあり、本格的には「ペンタブレット+PC」でアニメ作家や漫画家らのようにデジタルお絵描きの世界へと広がるらしい。

 だがそこまで行くと、あの〝ままならぬ・まどろっこさ・ズレ感〟は失われる。また小液晶画面ゆえ細かく描けず、勝負は簡略線という点も面白い。当分はコレで遊んでみようと思った。

 「狂歌入東海道」より〝鉢巻きの馬方〟と〝川渡りの肩車〟(当時のご婦人は下着なしゆえ恥ずかしかっただろう)を描いてみた。顔の鼻や眼はピンチアウト(拡大)して勘で描き足した。


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石部「都女のはらをかゝへてわらふめり~」 [狂歌入東海道]

52isibe_1.jpg 第五十二作目は「石部」。狂歌は「都女のはらをかゝへてわらふめりはらみ村てふここの名どころ」。漢字で書く。「都女の腹を抱へて笑ふめり孕み村てふこの名処」。めり=~のようだ。てふ=~という。

 〝はらみ村〟には驚いた。そこは石部宿を出て草津宿へ向かう途中、現JR西日本草津線「手原」駅辺り。手原村の由来が〝手孕村〟。歌舞伎「源平布引瀧」に〝手を産み落とした〟という伝説があって、そこからの命名とか。手原村の先に「草津の追分」があって、「右・中山道/左・東海道」の道標。

 石部宿に戻ろう。この絵は石部宿の旅籠風景。梅が咲く中庭から旅籠内の様子が描かれている。風呂場で疲れを癒す二人組(この風呂桶がカッコいい)。按摩さんに肩を揉ませて気持ちよさげな男。その前の着飾った女は何者なのだろう。同宿は京から約九里十三町。京立ちの旅人が最初に泊る宿場(本陣二軒、旅籠三十二軒)。宿場には旅籠を含み四百五十八軒の町並が続き、道中薬(胃薬)「和中散本舗」跡(重要文化財)が当時の豪商の忍ばせる。

52isibeuta_1.jpg 同宿には芭蕉「躑躅いけてその陰に干鱈割く女」の句碑あり。芭蕉が昼食をせんと茶店に寄ったら、山からとってきたばかりの躑躅が瓶にあり、その裏で客の顔を見た女房が干鱈を割いている、との情景を詠っている。

 宿を出て、冒頭の〝はらみ村(手原村)〟へ。さらに西へ幾つかの立場を経て「草津宿」手前の立場・目川の里へ。ここの風景が保永堂版に描かれている。名物が菜飯・焼き豆腐の田楽。旅人らはそれで小腹を満たしたに違いない。やがて草津川を渡って「草津宿」へ。


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水口「四つ五つふればあがると子供等が~」 [狂歌入東海道]

51minakuti_1.jpg 第五十一作目は「水口(みなくち)」。狂歌は「四つ五つふればあがると子供等はみな口々にいひてあそべり」。双六のサイコロ次第では一気に〝上がり〟になる。三条大橋まであと僅か。東海道を旅する人、二十年に亘って『東海道中膝栗毛』を書き続けた十返舎一九にとって、多数「東海道五十三次」を描いてきた広重にとっても〝あと僅かでゴール〟です。

 土山宿から野洲川沿いの道を二里二十九町(11.5㎞)で水口宿。この絵は、相も変わらぬ旅籠の客引きの様子。ここは水口城の城下町。本陣と脇本陣が各一軒。旅籠が四十一軒。宿場は三筋で構成されている。

 創業・元禄十三年(1700)の老舗旅籠・桝又旅館が、十数年前まで営業していたらしい。そこから伺えるように、古い建物が遺る雰囲気ある街並み。保永堂版「水口」は〝名物干瓢〟。街道沿いで女らが干瓢を干している図。

51minakutiuta3_1.jpggoyutomeonna.jpg 宿場を出ると「横田の渡し」。この渡し場跡に巨大な(9.7㍍)の大常夜灯(文政五年・1842年建造)が遺っている。この横田で、芭蕉は同郷の服部土芳と二十年振りに会った。十歳の少年が今は二十九歳で、芭蕉は四十二歳。二人は水口宿で呑み交わす。「命二つの中に生きたる桜哉」。互いに命があって、この歳まで生きて再会できた。二人の間には今は盛りとばかり桜のいきいきと咲いている。芭蕉は水口に四、五日滞在して発句、歌仙を催した。

 現在の水口宿は近江鉄道が走ってい、最寄り駅は「水口石橋」駅。宿場を出て、さらに進めが昔は川を渡っていたが、今は明治十七年築造の〝天井川(隧道)〟下の「大沙川トンネル」(数日前のブログでiPhoneで描いた)や「由良谷トンネル」をくぐって石部宿へ。これは川の堆積物が積もって川底が上ってのことらしい。江戸時代の旅人らは、川の下に道が出来るなぁ~んてことは、夢にも思はなかっただろう。

 蛇足:保永堂版「御油(旅人留女」の二組の絡みが、この「水口宿」の絵にも描かれている。引き込まれて草鞋を抜いている男のポーズもまったく同じ。広重はこうした〝流用多々〟で東海道ものを幾作も描いたとわかる。


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土山「急ぐとも心してゆけすべりなば~」 [狂歌入東海道]

50tutiyama_1.jpg 第五十作目は「土山・鈴鹿山之図」。狂歌は「急ぐとも心してゆけすべりなばあと戻りせん雨の土山」。「なば==したならば」。「せん=せ(する)+ん(意思)=しよう」。雨の土山は急いでいても心して行きなさい。滑ったならば後戻りしましょう。

 鈴鹿峠(京へ十七里、江戸へ百十一里)を越えても、まだ急坂の上り下りが続く。強飯が名物の「猪鼻の立場」、蟹ガ坂飴が名物の「猪鼻峠」。ここから急坂の蟹ガ坂を下る。

 坂之下から土山への厳しい道を、鈴鹿馬子唄は「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」。鈴鹿峠までの上り坂は天気が良くて、峠は曇っていて、下った土山は雨が降っている。鈴鹿山脈を越えると気候が変わる、と歌っている。

50tutiyamaup_1.jpg 「伊勢参宮名所図会」には「間(あい)」と記されているが、道の駅〝あいの土山〟サイトには「あい」の意は七説ありと説明されていた。

 この絵は、厳しい山道・鈴鹿峠の図。峠の向こうに茶屋の屋根が見え、上り下りの旅人らは合羽や蓑を被っている。保永堂版「土山・春之雨」も大名行列の先頭の武士らが雨仕度で歩いている図。

 当時は鈴鹿峠を越えた(京側からは峠の手前)宿で本陣二軒、旅籠四十四軒で栄えていたが、その後の峠を避けた国道などで次第に忘れられた存在へ。それゆえ当時の建物などが今も遺って、街道情緒が味わえるらしい。峠を越えれば、京はもうすぐです。


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iPhoneで絵を描くテスト [狂歌入東海道]

tonner (320x460).jpg テストです。iPhoneの「メール」アプリの「フリーハンドで描く」で描いた絵。これをパソコンに送ったら「png」ファイルだったので、「jpg」変換する方法を調べてPC上で変換。小サイズにしてブログにアップ。〝あぁ、出来た!〟

 この「メールのフリーハンドで描く」は〝スプレー〟があって面白かった。ちなみに、このトンネルは「水口宿」から「石部宿」の間の「大沙川トンネル」。トンネル上を川(隧道)が流れている。

 これで「iPhone6s」で絵を描くのは<1>「メモ」の手描きで(10月21日「永井荷風の狂歌論」の荷風似顔絵)、<2>「写真」のマークアップで(10月25日「坂之下」の芭蕉似顔絵)。そしてこの<3>「メール」のフリーハンド。以上三つの手描きを試したことになる。使い勝手はそれぞれに違った。

 以上三つの機能を一つにまとめれば、なかなかの「お絵描きアプリ」になるものを~。事情があって三つに分けたのだろうか。 


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坂之下「すゞか山ふる双六はたび人の~」 [狂歌入東海道]

49sakanosite_1.jpg 第四十九作目は「坂之下・筆捨山之図」。狂歌は「すゞか山ふる双六はたび人のさきへさきへといそぐ駅路」。鈴・振る・駅路の繋がり。判読困難なくずし字は、旧字の場合が多い。「駅は驛」のくずし字。内容は、双六ならばひと振りで〝上がり〟になる宿場まで来て足が早くなる、だろう。

 絵は「坂之下」に入る手前の〝筆捨山〟の奇嶺を、旅人らが立ちどまって眺めている図。保永堂版も同じく「阪之下・筆捨嶺」。

 同嶺について、三重観光サイトはこう説明。「奇岩怪石の多い山で松、楓、つつじが繁茂。絵師・狩野法眼元信がこの山を描こうとしたが、山の姿の変化が激しくて描けずに筆を捨てたのでこの名がついたと言われている」。

basyousan.jog_1.jpg49sakanositeuta_1.jpg 奇岩の山を楽しんだら「坂之下宿へ。昔は鈴鹿山の坂下にあったが、水害に遭って現在の地に移ったとか。ここもまた鈴鹿峠を控えて、大名行列の宿泊が多く本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒。相当に賑わっていたらしい。

 しかし「関宿」と同じく、明治になると鈴鹿峠を嫌った「関西本線」が、また昭和の「新名神高速道路」が坂之下宿を避けたゆえに過疎化。今は民家数十軒のひっそりした山村の呈らしい。

 宿場を出れば、曲がりくねった急坂で近江と伊勢の境〝鈴鹿峠〟へ。西行法師「鈴鹿山浮き世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらむ」。親、妻、子を捨てて出家した頃の歌だろう。不安と寂しさが溢れている。そして芭蕉「ほっしんの初(はじめ)に越ゆる鈴鹿山」。

 おや、同じような歌と句だなぁと思った。『芭蕉七部集』をひもとけば「猿蓑」に収録で、西行の行脚に想いを寄せて作った句とあって納得です。なお「坂之下宿」の次「土山宿」は滋賀県甲賀市に入ってゆくが、芭蕉生誕地は山を南西側に越えた三重県伊賀市。

 絵は芭蕉のつもり。〝筆を捨て〟スマホのタッチペンで「写真」アプリの〝マークアップ(落書き)〟で描いてみた。


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関「くゞつめに引とめられて定宿の~」 [狂歌入東海道]

48seki_1_1.jpg 第四十八作目は「関」。狂歌は「くゞつめに引とめられて定宿の言訳くらき関の旅人」。「くゞつめ」を古語辞典でひく。「傀儡(くぐつ)=各地を漂白した旅人。くぐつの女が歌舞に優れ売春もしたことから=浮かれめ、遊女、くぐつめ〈女)。「くらき」には煩悩に悩まされ迷う意もあり。

 そんな女に引き留められて、定宿では言い訳も後ろめたい。同宿はそう詠われるほど〝くゞつめ〟が多かったらしい。女郎屋が五軒、飯盛女のいる旅籠が五十軒とか。

 狂歌は妖しいが、絵は逆に本陣より大名出立の緊張が張りつめている。見送る役人らが仰々しく見送っている。保永堂版「関」も同じく「本陣早立」の図。まだ明けやらぬ朝に身支度の武士や駕籠が待ち構えている。関宿の本陣は川北本陣と伊東本陣(松井家)が道を向かい合っていた。保永堂版は川北本陣らしい。

48sekiutaup_1.jpg ならば、この絵は伊東本陣だろうか。関宿でなぜに本陣に泊る大名一行が描かれたかは伊勢街道との分岐「東の追分」、大和伊賀海道への「西の追分」があり、加えて隣の亀山が城下町で、儀礼の面倒くささが敬遠されてのことらしい。

 それで大いに賑わった関宿だったが、明治20年代に亀山駅が開通し、「JR東海」が名古屋~亀山。「JR西日本」が亀山~大阪になって、亀山発展に比して急凋落。その影響が幸い?してだろう、古い町並みが今も遺されているらしい。東西追分間が約1.8㎞で、伝統的町屋が二百軒余遺されて「重要伝統的建造物保存地区」「日本の道百選」に指定。江戸時代にタイムスリップしたような街並みで、今も人々が生活しているそうな。ここまで机上の東海道旅を続けて来て、初めて訪ねてみたいと思った宿場です。


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永井荷風の狂歌論 [狂歌入東海道]

kafu1_1_1.jpg 荷風全集・第十四巻に『狂歌を論ず』(大正6年、三十七歳)あり。以下、その概要をまとめる。まず冒頭で浮世絵好きになって「狂歌」に興味を覚えたと記す。浮世絵に狂歌挿入例が多かったからだろう。

 狂歌は俳諧、小唄、後の川柳、都都逸を一括して江戸庶民の間で発達した近世俗語体の短詩である。俳諧と狂歌の本質は〝滑稽諧謔〟なり。これは南北朝以来の戦乱による諸行無常、厭世思想と修養を経て洒脱となって滑稽諧謔に至った。これが徳川三百年を経て江戸都人の精神になった。

 さらに続く。「明暦の大火、安政の大地震~。江戸の都人は惨憺たる天変地妖に対しても亦滑稽諧謔の辞を弄せずんば己(や)む能はざりしなり」。滑稽諧謔で乗り切る他になかった。よって和歌の貴族的なるを砕いて平民的に自由ならしめたる他ない。

 俳諧は也有(横井)も「富貴誠に浮雲、滑稽初めて正風」と指摘する通りだが、俗悪野卑に走りがけるも「芭蕉の正風」によって清新幽雅の調を出さんと欲する刷新で世の迎ふるところなりしが~。

 狂歌は白河楽翁公(松平定信)の幕政改革までの約二十年間、天明寛政の頃に最も輝いた。この時期に浮世絵と狂歌は密接な関係を有した。だが寛政の改革で、戯作者らへの賞罰などあり。

 その後も広く世人に喜び迎えられたが、其の調は其の普及と共に卑俗となり、天保以降に及んでは全く軽口地口の類と擇(えら)ぶ所なきに至れり。そして「維新の後世態人情一変して江戸の旧文化随時衰退するや狂歌も亦その例に洩れざりき」。

 ここから荷風も好きでよく作った俳句に言及。「俳句は狂歌と同じく天保以後甚だ俗悪となりしが、明治に及び日清戦争前後に至りて角田竹冷正岡子規の二家各自同好の士を集めて大に俳諧を論ぜしより遽(にはか)に勃興の新機運に迎えへり」。

 俳諧狂歌は仏教的哀愁と都人特有の機智諧謔によっているが、西洋諸國近世の新文化及び哲学の普及・侵入によって軽躁、驕倣、無頼になってしまった。『伊そしてこう結んでいた。『伊勢物語』は国文中の真髄。芭蕉、蜀山人に江戸文学の精粋なりと、その含蓄を味わうことが真の文明となすべきなり。

 ※前回「永井荷風の狂歌」にスマホの「メモ・手描き機能」で描いた荷風の若き外遊時の似顔絵をアップしたので、今回も同様手法で晩年の荷風も描いた。スマホで絵が描けるとは思わなかった。


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亀山「さえきりて長閑に見ゆる亀山の~」 [狂歌入東海道]

47kameyama_1.jpg 第四十七作目は「亀山」。狂歌は「さえきりて長閑に見ゆる亀山の松の羽をのす鶴の一こゑ」。今回は手前判読経緯を記す。まず書き出しはミミズ風で、一字一字をどこで区切るかがポイント。そこに留意して「さえきりて」と読む。さて「冴えきりて」か「遮りて」のどちらだろう。「て」は「天」のくずし字(変体仮名)。次は「長」+「門構え+木=閑」で長閑。「耳」の変体仮名の「に」。

 「見・由(ゆ)・る・亀山の」。「松・尓(に)・羽。を・の・春(す)」。「のす」が馴染無いゆえに古語辞典をひく。「のす=乗す、載す」。「鶴」が読めなかったが「鳥」のくずし字を知っていたので「鳥」の項をくずし字辞典でひく。旧字の「靏」とわかった。「鶴」と来れば「ひとこえ」と続く。

47kameyamaup_1.jpg さて「亀山宿」です。あたしンちの液晶テレビはシャープ「AQUOS」。今も「世界の亀山モデル」のシールが貼ってある。かつてのCFで「亀山工場」映像が流れていたが、同社は凋落して台湾の「鴻海(ホンハイ)」に買収された。同工場は「亀山駅」西5㎞に建っているらしい。絵の左に亀山城の惣門を行き来する旅人らが描かれている。(間違った記述があったので、以下を割愛)


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庄野「宿入にそれと知らせて名物の~」 [狂歌入東海道]

 第四十六作目は「庄野」。狂歌は「宿入にそれと知らせて名物のまづかうばしく見ゆる焼米」。名物の〝焼米〟は、籾付きの米を炒り、こぶし大の俵に詰めた焼米。そのまま食べたり、湯を注いで食べたりの非常食、保存食らしい。

46syounouta_1.jpg46syouno_1.jpg 庄野宿は鈴鹿川左岸沿いにあって、今もひっそりした古い町並みが残っているらしい。旧家・小林家を庄野宿資料館とし、江戸時代の様子が紹介されているとか。またここは「吉良の仁吉の〝荒神山の血煙〟の観音寺あり。某演歌歌手の芝居で〝吉良の仁吉〟の芝居を取材したことがあった。

 絵は長閑な田園風景の街道を早駕籠、早飛脚が行き交っている。保永堂版「庄野・白雨」は夕立の坂道をござを被せた駕籠が急ぎ走り、笠と蓑の男らが駈け下っている図。広重は雨の情景がうまい。名作と評される逸品とか。

 東海道を歩く方々のサイトには「何もない庄野宿です。そこが良かった」なる記述あり。そう云えば、観音寺の〝吉良の仁吉碑〟は二代目広沢虎造が建てたとか。あたしの子供時分はテレビもスマホもなく、楽しみはラジオだけ。虎造節の浪曲にシビれたものです。何もない旧東海道を歩けば、昔の気分に浸れそうです。


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石薬師「石薬師瓦と黄金まく人は~」 [狂歌入東海道]

45isiyakusi_1.jpg 第四十五作目は「石薬師」。狂歌は「石薬師瓦と黄金まく人は瑠璃の玉とも光る旅宿」。

 伊勢参りに行く弥次喜多らと別れたせいか、狂歌解読がおぼつかなくなった。石薬師寺の正式名称が「高富山〝瑠璃光院〟石薬師寺」で〝瑠璃の玉〟はわかるも〝瓦と黄金まく人〟の意がまったくわからない。

 同境内に一休禅師の「名も高き誓ひも重き石薬師瑠璃の光はあらたなりけり」があるそうで、その歌碑のくずし字を筆写した。

 石薬師宿は、四日市宿と亀山宿の間が五里半(21.6㎞)と長かったので、天和二年(1616)に設けられたとか。旅籠わずか十五軒ほど。

 絵は貴重な「問屋場(といやば)の図」。問屋場45isiyakusiuta_1.jpgは御用向きの人馬の継立て、継飛脚、助郷(村民らが動員される労働課役)手配の場。馬や人を指示する「人馬指(じんばさし)」がいて、人馬や荷の数や賃銭などの「帳付け」もいる。馬の交換で荷の積み替え作業、馬の世話、裸で汗を拭っている馬方、いざ出発と鉢巻を巻く男たちが描かれている。

 なお現「石薬師宿」は明治の国文学者・歌人の佐々木信綱の生誕地で、宿場は旧東海道の史蹟よりも佐々木信綱を前面に打ち出しているそうな。


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四日市「梅が香に袖ふりあふて泊り村~」 [狂歌入東海道]

44yotukaiti_1.jpg 第四十四先目が「四日市」。狂歌は「梅が香に袖ふりあふて泊り村つえつき坂をのぼる旅人」。

 弥次喜多らの宿はむさくるしく、相部屋だった。先に風呂に入った喜多さんが弥次さんに「婀娜な女が湯加減を訊いてきたから、(夜の)約束をしてきた。おめぇが入っている時に、もう一人の年増が話しかけてくるかも」。

 弥次さん、年増を待つ長風呂で湯あたりで倒れてしまう。深夜に二人は壁伝いに婀娜な女の部屋へ夜這い。部屋を間違えたか、触れば菰に巻かれた石地蔵で〝死人〟かと大騒ぎ。「はひかけし地蔵の顔も三度笠またかぶりたる首尾のわるさと」。「はいかけし=這い掛けし=夜這い」。「仏(地蔵)の顔も三度」にかけて、笠を被りたいほど恥ずかしい。

44yotukaitiuta_1.jpg 早朝に宿を出た二人は「やうやうと東海道もこれからははなのみやこへ四日市なり」。四日市に来て京が近づいたせいか、街道がなんとなく華やいで来た、と詠っている。やがて「日永の追分」。左の鳥居をくぐれば伊勢参道道で、右が京。なんと!弥次喜多らは左へ曲がって伊勢参りへ行ってしまう。「狂歌入東海道」は彼らと別れて京へ向かいます。

 絵のように長閑な四日市だったが、今は石油コンビナートの街。昭和34年頃から〝四日町ぜんそく〟で公害との闘いが繰り広げられた。そんな四日町を過ぎて京へ向かえば、丘陵を登る〝杖衝坂(つえつきさか)〟。冒頭狂歌の「つえつき坂をのぼる旅人」となる。

 ここに芭蕉句碑「徒歩ならば杖つき坂を落馬かな」。伊賀へ四度目の帰郷の際、この坂を嫌って馬に乗って落馬したそうな。この句は〝季語なし〟の有名句とか。


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桑名「乗り合いのちいか雀のはなしには~」 [狂歌入東海道]

43kuwana_1.jpg 第四十三作目は「桑名」(富田立場の図)。狂歌は「乗り合いのちいか雀のはなしにはやき蛤も舌をかくせり」。桑名宿から四日市の間の「富田の焼き蛤」が有名。「名物・焼きはまぐり」の看板と店頭で蛤を焼いている光景が描かれている。

 狂歌の〝ちいか雀〟とは何だろう。「雀(舌切雀)」と「蛤の舌」。乗り合いの子らが話す舌切り雀の話しに、桑名の蛤も舌を引っ込めるという意だろう。〝蛤の舌〟は、殻からベロッと伸び出た足(舌)のこと。

 高浜虚子の句「蛤を逃がせば舌を出しにけり」「舌焼いて焼蛤と申すべき」。弥次喜多らは船で桑名に着くや、早速〝焼き蛤で酒〟を楽しんで、ここで卑猥な歌を紹介している。〓しぐれはまぐり(煮蛤)みやげにさんせ、宮(宿)のお亀(飯盛女)が情所(なさけどこ・女陰)ヤレコリャよヲしよヲし~。

43kuwanauta1_1.jpg 二人は〝富田立場〟の茶屋でも焼蛤を食べた。なにしろ〝桑名の焼蛤〟は東海道を旅する人の大きな楽しみ。大皿に焼蛤をのせて運ぶ女の尻をちょいとあたって(触って)「おまへんの蛤なら、なをうまかろふ」。ふざけているから大皿の焼蛤が、弥次さんの懐に転げ入った。「アツ・アツッ~、金玉が焦げるぅ」。股引の前合わせを広げると、焼蛤がポコッと出て、喜多さん「ご安産でございます」。

「軟膏はまだ入れねどもはまぐりのやけどにつけてよむたはれうた」。軟膏を蛤貝に入れて売られてい、そのことを詠った戯れ。そうこうしているうちに、四日市から宿引が出向いてきて誘われた。

 なお『膝栗毛・第五編序』には一九の狂歌「名物をあがりなされとたび人にくちをあかするはまぐりの茶屋」に豊国の画が収められていた。また挿絵には「はまぐりの茶屋は同者を松かさにいぶせて世話をやく女ども」。「同者=道者=巡礼者」、焼蛤は松かさを燃料にしたり、乾燥した松葉をかぶせて焼いていた。


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永井荷風の狂歌 [狂歌入東海道]

wakakikafu_1.jpg 永井荷風が大田南畝(蜀山人)の経歴調べをしていた。それを読み、小生も大田南畝関連書を読み出した。大田南畝は〝江戸狂歌〟の代表格。しかし荷風が詠んだのは狂歌ではなく俳句だった。今回、改めて荷風全集をひも解けば、なんと全集第十一巻目次に「狂歌」あり。わずか四首掲載。かくして荷風の狂歌を鑑賞です。

◉「てんてんとはぢもばちをと永調子うき世をよそのしのび駒かな」(わか家の稽古三味線の皮にかきける。大正四年画帖)。八重次(藤間静枝)と離婚し『日和下駄』を描いていた頃の作。「はぢ・ばち」の地口洒落に〝しのび駒〟が効いている。しのび駒=練習の時に消音する胴にのせる細長い駒。

◉「こし方の暮のかづかづ冬ざれてかゞむ背中の圓火鉢かな」(大正四年画帖)。この圓(まる)火鉢は、永井家にずっとあって、常に荷風の机邊(きへん)にあった。二首共に〝画帖〟とあるので、絵も見てみたい。

◉「時は今天が下しる雨聲會酒戰のてがら誰がたてけん」(大正五年五月「文明」)。この狂歌を調べて少し驚いた。隠棲好みの荷風だが若い時分には総理大臣主催の文学者との歓談会に招待されて〝誉なり〟と喜んでいた。

 同会は西園寺公望(きんもち)の主催。荷風の「雨声会の記」(全集第十四巻)によれば、それは大正五年で十回目の会。第二次西園寺内閣の総辞職が大正元年で、その後の開催だったのだろう。会場は柳橋「常盤」。荷風はその五年前(明治四十四年初冬)の会にも、川上眉山の自刃で空いた席に選ばれて出席していた。「文人たるもの感佩(かんぱい)せざらんとするも得べけんや。われ席上最も年少の後輩なり」。「筵に倍するも書生に黄吻一語感謝の意を述ぶべき辞柄をしらず」。よってこの手記を記念に残すと記していた。

 大正五年の荷風は三十七歳。三十一歳からの慶應義塾文科教授と「三田文学」編集を辞した頃で、隠棲する直前の〝栄誉〟と言えそう。ちなみに西園寺は正妻を持たぬ家憲で、四人の女性(新橋芸者二人と女中頭二人)と事実婚とか。女中頭に手を出すのは勝海舟も同じ。

◉「めてたさは翁に似たるあこの髯角も羊はまろくをさめて」(昭和六年色紙)。昭和六年は未年ゆえ詠んだ一首だろう。年賀色紙には髭と丸まった角の羊が描かれていたような気がする。

 カットは外遊時代の若き荷風。入手したばかり「iPhone6s」の〝メモ・手描き〟で描いた。


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宮「わたつみを守れる神のみやの船~」 [狂歌入東海道]

42miya_1.jpg 第四十二作目は「宮」。狂歌は「わたつみを守れる神のみやの船なみちゆたかにこぎかへるみゆ」。ボストン美術館では「神のみやの〝松〟」だが、偏は木じゃなく舟だろう。ゆえに「船」。わだつみ(海)を守れる神の宮の船浪路豊かに漕ぎ返る見ゆ」。宮=熱田神宮。熱田神宮なら大楠で、やはり〝松〟ではない。大伴家持の歌に「~漕ぎ隠る見ゆ」あり。結句はそれに似ている。

 弥次喜多らは「宮宿」で泊。ここでも弥次さんは隣の部屋の瞽女(ごぜ)さんに夜這いして大騒ぎ。瞽女さんの枕元から自分の部屋まで長々と褌が続くお粗末。喜多さん、爆笑しつつ一首。

「瞽女どのにおもひこみしは是もまた恋に目のなき人にこそあれ」。翌朝、慌ただしく船着場へ。ここから海上七里の渡しで桑名へ。今ここは「宮の渡し公園」とかで、当時の船着き場が復元とか。江戸時代は常時五十艘もの渡し船が稼働する賑やかさ。

42miyauta2_1.jpg42miyautaup_1.jpg「おのづから祈らずとても神ゐます宮のわたしは浪風もなし」。

 順風に帆を上げて滑るように走る船。小便がしたくなった弥次さんは、宿で貰った火吹竹にソコを宛がって致した。竹筒に溜めてから捨てると勘違いし、筒先の穴から小便がジョロジョロと洩れ広がって船の中は大騒ぎ。それでも船は無事に桑名へ着。

 「膝栗毛四編」これにて完。


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鳴海「たかぬひし梅の笠寺春さめに~」 [狂歌入東海道]

41narumi_1.jpg 第四十一作目は「鳴海」。狂歌は「たかぬひし梅の笠寺春さめに旅うぐいすの着てや行らん」。「たかぬひし=たか(誰が)ぬいし(縫ったのか)」だろう。この解釈には難儀した。笠寺の観音様は笠を被っているそうで、衣も着ていたのだろうか。「行らん=推量の〝らむ〟=行くのであろう」。「旅うぐいす」の意がわからず宿題です。

 膝栗毛の「鳴海宿」は狂歌二首を含めても僅か五行で、次の「宮宿」へ移ってしまう。どんな宿場だったのだろう。改めて地図を見れば、「鳴海宿」は伊勢湾の奥、現・名古屋港近く。港に注ぐ天白川の河口すこし上流沿い。弥次喜多らは鳴海宿に着いて、まず一首~

 「旅人のいそがば汗に鳴海がたこゝもしぼりの名物なれば」。絵を見れば〝有松絞〟と同じように絞りを店頭に飾った店の連なり。ここでは〝有松絞り〟ではなく〝鳴海絞〟になっている。同じような絵が『尾張名所図形・鳴海宿』にもあった。これで「ここもしぼりの名物なれば」の意を了解。〝鳴海がた=鳴海潟〟。〝汗・しぼり〟は縁語だろう。

41narumiuta_1.jpg 宿場を出て天白川に架かる〝田ばた橋〟を渡ると「笠寺観音」へ。笠をいただきもふ木像なるゆへ、この名ありとかや~と記して~

 「執着のなみだ雨に濡れじとやかさをましたるくはんをんの像」。冒頭狂歌の「笠寺」が詠われている。「執着(煩悩)の涙雨に濡れじとや(濡れないように)かさ(笠)をましたる(被っていらっしゃる)くはんをん(観音)の像」。「まし・たる=いらっしゃっている、おなりになっている」尊敬語。「くはんをん=観音の旧仮名くわんお(を)ん」。

 これしきのことで手こずっていると、己の文学知識・素養のなさを痛感する。「あぁ、文学部へ行っていればよかったなぁ」と思う。絵が描けない時は「あぁ、美術学校へ行けばよかったなぁ」とも悔やむ。このブログは誰も見ていないだろうから告白すれば、あたしは「理工学部応用化学科中退」です。あの時代は長髪でドロップアウト、中退がカッコよかったんです、と負け惜しみ。でも、これは心の底から「若い時分にもっと・もっと勉強しておけばよかった」。


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池鯉鮒「春風に池の水のとけそめて~」 [狂歌入東海道]

40tiryu_1.jpg 第四十作目は「池鯉鮒(知立・ちりふ・ちりゅう)」。狂歌は「春風に池の水のとけそめて刎出(はねで)る鯉や鮒の花なる」。まぁ、珍しい地名だこと。古代より知立神社があって「知立」だったが、同神社は低地で池が多くて鯉や鮒の産地。旅人に旨い魚を提供したいと「池鯉鮒」になったとか。

 弥次さんは草鞋で足を痛めたので、この宿で草履を買っただけで同宿を打ち過ぎた。池鯉鮒宿の記述がないので、俳句双頭の句を紹介する。

 知立神社参道に芭蕉句碑あり。「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿糸」。〝不断たつ=絶え間なく続き立つ〟だろうか。池鯉鮒は木綿も名物。一茶は「はつ雪やちりふの市の銭叺(ぜにかます)」。銭叺=蒲で編んだ銭入れ。

40tiryuuta_1.jpg この絵は、池鯉鮒宿の入口の茶屋前で人々が大名行列に平伏していると思ったが、よく見れば「八朔御馬献上」を迎えている様子が描かれている。保永堂版「藤川」で描かれた〝八朔御馬献上〟図は、司馬江漢「藤川」と内容・構図そっくりの図だったが、この絵はリアリティがあって、広重はやはり〝八朔御馬献上〟に幕府から派遣されたのではないかと思った。

 一方、保永堂版「池鯉鮒」は「首夏馬市」。知立松並木沿いで毎年四月二十五日~五月五日に開催される馬市(五百頭規模)が描かれていた。現在は「馬市の跡」の石碑が建っているそうな。

 同宿を出て「今岡村」立場へ。ここは芋川饂飩(うどん)が名物。「名物のしるしなりけり往来の客をもつなぐいも川の蕎麦」。

 さらに阿野、坂部、落合村を経て有松村へ。ここは絞りが名物。各染屋ごとに〝絞り〟を飾り立てての商い。「名物・有松絞り、さぁさぁお入りなさい」とうるさいほどの客引きに辟易して一首。

 「ほしいもの有まつ染よ人の身のあぶらしぼりし金にかへても」。弥次さんは浴衣を買おうと思ったが、店主とのやりとりで気分を害し手拭だけを買った。次の「鳴海宿」はもうすぐです。


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岡崎「宿毎に夕化粧して客をまつ~」 [狂歌入東海道]

39okazaki_1.jpg 第三十九作目は「岡崎」(矢はぎのはし)。狂歌は「宿毎に夕化粧して客をまつこころもせはしぢょぢょのぢょん女郎」。「岡崎女郎衆」の〝ぢょぢょ〟リフレイン。今の漫画世代には「ジョジョ立ち」が浸透しているが~。

 当時は山東京伝『敵討岡崎女郎衆』(文化三年刊)有り。♪岡崎女郎衆は好い女郎衆~ なる歌もあったほど〝岡崎女郎衆〟は有名だったらしい。とは云え遊郭があったわけでもないから〝岡崎女郎衆=飯盛女〟のことだろう。

 岡崎宿は〝家康と三河武士〟の町。岡崎城(家康生誕の城)の城下町。防衛のためだろう〝岡崎二十七曲〟なる曲がり続く町並みに旅籠が約百五十軒。この宿毎に夕化粧して客を待つ飯盛女らがいた。

 弥次喜多らは「ここは東海に名だたる一勝地にて、殊に賑しく、両側の茶屋、いぢれも奇麗に見へたり」。そんな茶屋で昼飯に「鮎の煮びたし」を〝うめぇ・うめぇ〟と食った。その奥座敷から居続けの近在客三人が、それぞれの相方の遊女に送りだされて〝空尻馬=駄賃馬〟に乗って帰って行く。その光景が面白かったのだろう~

39okazakiuta2_1.jpg 「三味せんの駒にうち乗帰るなり岡崎ぢょろしゆ買に来ぬれば」。岡崎女郎衆と遊んで、三味線の駒ならぬ駄賃馬(駒)に乗って帰るよ、詠っている。そして宿場外れの松葉川に架かる矢矧(やはぎ)橋へ。

 この絵は、橋の向こうに岡崎城が描かれている。保永堂版も同じ構図だが俯瞰で描かれ、橋を渡っているのが大名行列。この橋は長さ二百八間(約370㍍)で当時の日本一。余りの立派さにシーボルトが精密スケッチを遺しているそうな。

 「欄干は弓のごとくに反橋やこれも矢はぎの川にわたせば」。「矧(はぎ)」は弓偏に引でアーチ橋。今、この橋はなく、岡崎城は明治維新に取り壊され、戦後に三層五重の天守閣が復元とか。

 田辺聖子は岡崎宿の記述で面白いことを記している。「大阪は太閤はん贔屓で、徳川嫌いである」。そして小生は思う。江戸っ子は「徳川好きで、朝廷や天皇に馴染なく、薩長嫌いだ」と。江戸っ子は突然の官軍の御旗と〝宮さん・宮さん~〟に眼を剥いたに違いない。

 ★sabotenさん、コメントありがとうございます。このシリーズは数年前のもので、小生は目下別テーマで遊んでいますので、当時記したことへの質問をされても少々面倒です。また専門家でもなく「隠居遊び」ですから、間違いも多々をご了承の上、ご自由に参考にして下さい。このシリーズ冒頭に記した通り、この「狂歌入り」は古本市で3千円で入手のボロボロ、明治頃の刷りだろうと思います。価値はありませんが56枚揃いですから、勉強なさる方がいらっしゃるのあれば、手元にあったら便利でしょう。差し上げますよ。★sabotenさん、メールアドレスをコメント欄にご記入下さい。確認次第消去しますからどうぞ~。


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藤川「行過る旅人とめて宿引の~」 [狂歌入東海道]

38fujikawa_1.jpg 第三十八作目は「藤川」。狂歌は「行過る旅人とめて宿引の袖にまつはるふち川の駅」。まつわる=つきまとう。絵は坂上から眼下の藤川宿の雪景色。

 保永堂版から約二十年後(「狂歌入東海道」から約十年後)の広重刊『東海道風景図会』(嘉永四年・1852年刊)の「藤川」を見ると、この絵の横後方俯瞰から藤川宿を描いた図になっている。この絵から想像して描いたのだろう。画力恐るべし。

 一方、保永堂版「藤川」は「棒鼻ノ図」。幕府から朝廷への「八朔御馬献上」を〝棒鼻〟で宿役人らが平伏して迎えている様子、と解説されている。「八朔御馬献上」と「棒鼻」を知らずゆえ勉強した。八朔=旧暦八月一日(新暦九月上旬)に豊作祈願や贈答の風習あり。これは徳川家から朝廷への恒例の馬献上らしい。

 広重はこの「八朔御馬献上」に帯同(派遣団員の一人)したことで『東海道五十三次』を描いたと言われているが、その絵は司馬江漢図「藤川」とまったく同じ内容・構図。広重は本当に東海道を歩いたのだろうかか? さらにはこの地に雪は積もらない等々、何かと詮索喧しい藤川宿の絵です。だがこの狂歌入東海道の「池鯉鮒宿」では〝八朔御馬献上〟の様子が詳細に描かれていて、やはり〝同行説〟を採ってみたい。

38fujikawauta1_1.jpg 次は「棒鼻」です。すでに「沼津宿」で「傍示杭=境界標柱」の説明をしたが、傍示杭=棒鼻でもあるらしい。江戸から上方に向かって〝棒鼻=傍示杭〟があり、見附があって宿場内に入るという順なのでしょう。

 さて弥次喜多らは、赤坂宿を出て藤川宿に向かって歩き出せば「昨夜は新婚部屋を覗いて襖ごと倒れ込んだ馬鹿な男らがいた」と笑いつつ歩く勇み肌の三人連れがいた。弥次さん、思わず彼らに立ち向かって袋叩きになるところを、からくも逃れている。

 やがて宝(法)蔵寺(家康が幼児時期を過ごした寺)辺りへ至ると、ここはあみ袋・早縄などの産地。「みほとけの誓ひと見へて宝蔵寺なむあみぶくろはこゝのめいぶつ」。

 藤川宿の〝棒鼻の茶屋〟では、軒ごとに生肴を吊るしたり大皿に並べて売っていた。「ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりとさがる藤川の宿」。ゆで蛸の紫・藤の紫にかけている。また彼らは若い女性に手をだそうとして失態をさらすが、それは省略して「岡崎宿」へ。


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十返舎一九とは(3) [狂歌入東海道]

jyodan1_1.jpg (2)の続き。一九は享和元年(1801)頃に再び離婚。〝しりつき(入婿)〟ではなくなったら、自ら食って行かなければならない。南総へ、箱根への旅記を含めた大乱作。享和二年に、なんと二十九冊も刊。その中に『浮世道中膝栗毛』初編あり。数打ちゃ当たるで、同作をもって一躍流行作家に躍り出た。

 また一九が副業抜きで食って行けたのは、誰もが指摘している通り自画、自版下、画工なども兼ね備えてのこと。(余談:小生は才能なしをカバーすべく一件の仕事で原稿、撮影、デザイン、印刷、さらには企画書とマルチ受注でフリーランスを生き抜いてきた)

 一九は他戯作者に比して学問肌ではなく、時同じく急増の(文字が読める人の急増、貸本ブーム)大衆読者層へマッチした通俗性(下品さ、読者サービス)で人気爆発。享和四年(文化元年)には筆が走り過ぎた『化物太平記』で手鎖五十日の刑。

 その刑が堪えたのだろう、文化二年(1805)には入婿ではなく妻(民)を娶った。同年刊の『滑稽(じょうだん)しつこなし』には、艶っぽいお民さん(袖に一九の熊手マークあり)が登場。一九が仲間内で酒宴中に初鰹が届けられ、お民さんが「なんぞ吸物を四五人前持ってきてくんな」と言っている。(画は喜多川月麿。国立国会図書館デジタルコレクション同著より転載)

 この書の内容は、生魚が食えぬ一九が辛子味噌に〝下し薬〟を仕込み、仲間らが雪隠通いをする顛末。また同著には仲間との江の島参詣シーンに「旅は弥次郎兵衛・喜多八でなければ面白くねぇ」という台詞を盛り込んでいる。一九は東海道の他にも伊勢、幡州(兵庫)、信州、上州へと旅を続けて書きまくった。『膝栗毛』をはじめの続編続きで〝合巻形式〟の長編スタイルも確立。

 お民さんは男女の児を産んだ(男児は早逝)後で亡くなり、一九は四十九歳の時に四度目の妻(おゑい)と結婚。おゑいさんは女児「舞」を我が子のように育て、「舞」は長じて藤間流のお師匠さんをしつつ父の面倒をみた。一九は旅と酒と乱作ゆえか、五十歳頃から眼が悪くなり、中風症状も出始めていた。

 文政五年(1822)、五十八歳で『膝栗毛』十二編刊。実に二十年余で完結なり。 天保二年(1831)、享年六十七歳で没。辞世は狂歌で「此の世をばどりやお暇(いとま)と線香の煙と共にはい左様なら」。

 川柳は北斎のバレ句(エロ川柳)などで幕末・明治を笑い倒して生き延びた。俳句は正岡子規らの刷新運動で生き残った。だが大田南畝を筆頭として一九も凝った「狂歌」は通俗化によって廃れていった。一九没の僅か三十七年後、北斎没の十九年が明治元年だ。江戸は徳川から天皇の時代へ。日本人は「大日本帝国憲法」一色に染められて行った。


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赤坂「双六とともにふり出す髭奴~」 [狂歌入東海道]

37akasaka_1.jpg 第三十七作目は「赤坂」。狂歌は「双六とともにふり出す髭奴名を赤坂の宿にとどめて」。疎い分野だが「髭奴=牛若丸に赤坂宿で成敗された〝熊坂〟」のことらしい。描かれた絵は、宿場見附から出た所の満月。

 弥次さんは、喜多さんを後手に縛ったまま(狐だと思って)、夕闇濃くなった赤坂宿に入った。もう留女も出て来ず、犬が寄ってきた。犬が騒がぬことから、喜多さんが狐ではないとわかって、やっと縄を解く。

 泊った宿では、主人の甥が嫁をもらう祝言騒ぎ。その夜は弥次喜多らの隣の部屋で新婚初夜。いちゃつく声が聞こえ、二人の心が騒ぎ出す。襖をそっと開けて初夜の二人が睦合う様子を覗き見る。勢い余って隣の部屋に襖ごと雪崩れ込んで大騒ぎ勃発。喜多さんの言い訳が「手水へ行く戸を間違えて襖を倒した」で、弥次さん思わず噴き出した。

37akasakauta3_1.jpg 「婿嫁のねやをむせうにかきさがしわれは面目うしなひしとて」。「嫁」の字は女偏に取。異体字辞典には載っていなかったが「くずし字辞典」に載っていた。「むせう=無性(むしやう)」の旧仮名違いだろう。弥(や)、起(き)盤(は)は変体仮名。

 保永堂版「赤坂・旅舎招婦ノ図」は、旅籠内部を中庭から描いた絵。これを見ると、弥次喜多らの旅籠での騒動もリアルに浮かんで来る。絵には風呂から出て手拭を肩に部屋に戻る男、飯盛女らが化粧に余念のない控え部屋、配膳準備中の女中たち、ご用命に返事をしている按摩さん、横になって寛いでいる旅人~などが描かれている。

 旅籠料金は一泊二食付きで百~三百文(二千~六千円)ほど。お金に余裕がない旅人は木賃宿。相部屋・雑魚寝で自炊。これは三十二文~百文(六百四十~二千円)ほどか。なお芭蕉も泊ったという旅籠・大橋屋が、当時の建物で営業していたらしいが、最近になって三百六十六年続いた営業を止めたらしい。

 そこに芭蕉句碑あり。「夏の月御油より出でて赤坂や」。御油から赤坂まで僅か二キロ。月の出ている間に赤坂に着くの意。これ句碑通りのくずし字で書いておく。「農=の」「与季=より」。このくずし字も変体仮名(変体仮名=明治33年以降、学校教育で用いられなくなった平仮名。異体仮名)。以上で膝栗毛四編(上)終わり。

 ※くずし字、古文書の勉強はまず変体仮名から覚える。通常は「いろは」順に変体仮名を覚えるが、小生は現代っ子ゆえ「あいうえお」の変体仮名表を作って覚えた。


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御油「此ゆふべ櫛やけづらむ妹が髪~」 [狂歌入東海道]

36goyu_1.jpg 第三十六作目は「御油(ごゆ)」。狂歌は「此ゆふべ櫛やけづらむ妹が髪あけ油てふ宿につく夜は」。「けづらむ=梳らむ=くしけづ〝らむ〟」、「らむ=~ているであろう」、「てふ=といふ」、そして「あけ油=天皇献上油=御油」だろうか。

 絵に描かれた傍示杭は宿場入口を示すものなら、この橋は音羽川に架かる「御油橋」だろう。一人で歩き出した弥次さんは、顔を塗りたくった留女らが、強引に袖を引くのがうるさくて一首~

 「その顔でとめだてなさば宿の名の御油(ごゆ)るされいと迯(にげ)で行ばや」。「迯」は滅多にお目にかかれぬ異体字。「御油るされい=御許されい」の駄洒落。

 保永堂版「御油・旅人留女」では、旅人を襲い拉致するかの凄まじい留女が描かれている。なお「御油」の由来は〝日本書記の持統天皇〟が近くに来た際に油を献上したという伝説からとか。

36goyuuta1_1.jpg 御油を出ると現在は天然記念物となった〝御油の松並木〟が赤坂宿まで続いているそうな。当初は徳川家康の命で植えられたそうで、今も松が三百五十九本とか。田辺聖子は「何という美しい道路だろうか」と記していた。

 さて、弥次さんは宿外れの茶屋の婆々に「この先の松原にわるい狐が出おるゆえ、この宿でお泊りなさい」と勧められるも、喜多さんが先行して「赤坂」で宿を確保しているはずなので、歩き出すほかにない。やがて狐の鳴き声が聞こえ、土手に座った喜多さんを見つける。

 弥次さんは「狐が喜多さんに化けた」と思い込み、喜多さんを後ろ手に縛り上げて赤坂宿に入って行く。御油から赤坂までわずか2㎞なり。


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吉田「もてなしはいかによし田のめし盛や~」 [狂歌入東海道]

35yosida_1.jpg 第三十五作目は「吉田」。狂歌は「もてなしはいかによし田のめし盛やしやくしつらでもうまくのむ酒」。

 吉田宿は遊女や飯盛女が有名だった。吉田遊女は「伊勢音頭」の十六番に歌われている。♪吉田ナ~エ 通れば 二階から招くアラヨ~イヨイ しかも鹿の子の ヤンレ 振袖で~。狂歌も吉田宿の艶っぽさを詠っている。「しゃくしつら=杓子面=額と顎が阿賀が張って中くぼみの顔(どういう顔のことだろうか?)」

 絵の城は築城当初が「今橋城」で、江戸時代は「吉田城」、明治からは「豊橋城」。城手前を流れるのが豊川で橋は「今橋」「吉田大橋」「豊川橋」。当初は東海道三大橋のひとつ。だが今は「豊橋」。この地は江戸時代の名をことごとく変えている。過去を否定せずにはいられない何かがあったのだろうか。

35yosidauta1_1.jpg35yosidaup_1.jpg 保永堂版「吉田・豊川橋」。吉田城の普請中の職人らが、眼下の豊川、豊川橋を見下ろすユニークな図になっている。

 吉田宿は、昔より「菜飯田楽」が名物で、今も老舗「きく宗」が腰板連子格子、白壁の建物で営業中とか。弥次喜多らが吉田宿へ入って直ぐに詠んだ一首が~

 「旅人をまねく薄のほくちかと爰もよし田の宿のよねたち」。「吉田遊女の二階から招く」から「旅人を招く」。「招く」となれば「招く薄」で秋の季語。「ほくち=薄のほくち(火口)=吉田名産で江戸時代には専門店が多かったそうな=火打石が発する火を移す燃えやすい材」。

 膝栗毛には吉田宿に入る前に「火うち坂をうちすぎて~」の記述あり。火打石も採れたのか。マッチ普及まで「火打石・ほくち(火口)」セットは生活必需品。「よねたち=よね(女郎、妓、娼)たち」(古語辞典)。

 弥次喜多らは当宿から御油宿へ向かう途中で「大雲寺(大恩寺)」へ、「いや高き御寺のまへの名物はこれも佛になれしあまざけ」。寺~尼さん~甘酒。そういえば神社仏閣の門前にはなぜか〝甘酒屋〟が多い。この狂歌は、寺前の名物・甘酒は佛に慣れた尼さんみたに甘みがでていると詠っている。

 ここからくたびれた弥次さんを置いて、喜多さんは「赤坂宿でいい宿を確保すべく」ひとり先に歩き出した。


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二川「女夫石見るにつけてもふるさとは~」 [狂歌入東海道]

34futagawa_1.jpg 第三十四作目は「二川(ふたかわ)」。狂歌は「女夫石見るにつけてもふるさとはこひしかりけりふた川のやど」。ボストン美術館訳は「〝こし〟ひかりけり」だが「こひしかりけり」が正しい。「女夫岩(夫婦岩)見るにつけても故郷は恋しかりけり二川の宿」。

 二川は豊橋駅近くで、ここから伊勢市二見町の夫婦岩が見えたのかしら。〝机上旅〟ゆえ現地知らずが歯がゆい。時には地図で確認してみよう。江戸より浜名湖を越えて「荒井宿」へ。ここから海岸沿いに歩き、ややして内陸側へ「汐見坂」を上る。その先が「白須賀宿」。ここから「豊橋」方面に向かった途中にあるのが「二川宿」。

 上方からは新幹線「豊橋駅」の先、東海道本線「二川駅」先の線路沿い左側に「二川宿本陣」。ここには改修・復元された本陣、旅籠屋、商屋、資料館があって観光史跡になっている。専用サイトも開設されているから、机上のままで諸施設内容もわかる。

34futagawauta1_1.jpg 弥次喜多らは、二川の手前・境川が遠江(とおとうみ=遠州)と三河の境ゆえ一首。「遠刕へつぎ合せたる橋なれどにかはの國というべかりける」。遠州と三河は二川(にかわ=膠)で繋がっていると詠んでいる。「刕」は州の異体字。

 地口洒落はワード変換機能が便利。「にかわ」と打ち込めば「二川、膠」が出てくる。二川宿の名物は強飯(こわめし)で 「名物はいはねどしるきこはめしや重筥のふた川の宿」。「筥」も箱の異体字。重箱の蓋川~。

 弥次喜多らは問屋辺りで駕籠を降り、大名行列の一行に出くわす。弥次さん、勇ましく中間と口喧嘩。大立ち回り寸前に行列出発合図の拍子木がなって事なきを得る。

 「わきざしの抜身は竹と見ゆれども喧嘩にふしはなくてめでたし」。喧嘩の「嘩」は口偏に旁が花。原文には知らなかった異体字、旧字に出会えて愉しくなってくる。竹と節は縁語。「ふし=節」だが古語辞典には〝なんぐせ、いいがかり〟の意もあり。そして宿場を出た所に岩屋観音あり。

 「行きがけの駄賃におがむ観音も尻くらひとは岩穴のうち」。〝尻くらひ〟とは? 辞書に「尻くらい観音」あり。困ったときに観音を念じ、楽になると「尻くらひ」とののしることから、受けた恩を忘れてののしること、恩をわすれて知らん顔をしていること。道中ついでに拝む観音様でも〝尻くらひ〟と思わずに、岩穴の観音様と同じく有難く思いなさい、という一首らしい。

 彼らは途中で比丘尼一行と会い「煙草を一服」と求められ、下心で「煙草入れ」ごとあげるも、彼女らは脇道に逸れて去ってしまう。やがて吉田宿へ。


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白須賀「人真似に我も喰わなん白須賀の~」 [狂歌入東海道]

33sirasuka_1.jpg 四編の最初は、第三十三作目「白須賀」。絵は「汐見阪ノ図」で汐見阪より遠州灘を望む。狂歌は「人真似に我も喰わなん白須賀のさるが馬場のこのかしわ餅」。

 立場(茶屋)の地名が「猿が馬場」。ここの名物が柏餅で、それ詠っている。弥次喜多らは「荒井宿」の外れから駕籠に乗った。すぐ右に高師山が見え、左に昔の橋本の宿跡。ここで弥次さんの一首。「鳶がうむ高師(たかし)の山の冬はさぞ真白に見違やせん」。〝鳶が鷹を産む〟から「鳶がうむ高師山」。

 そのうちに二川(宿)の駕籠とすれ違って、駕籠を乗り換える(駕籠同士が料金交渉して客の駕籠乗り換えをしたらしい)。やがて駕籠は「白須賀宿」へ。駕籠の中から茶屋の客寄女を見て~

33sirasukauta2_1.jpg「出女の顔のくろきも名にめでゝ七なんかくす白すかの宿」。出女(客寄せの女)の黒い顔も、白須賀の白で七難隠してよい女に見える、と詠っている。白須賀宿をでれば、この絵の「汐見阪」。

「風景に愛嬌ありてしをらしや女が目もとの汐見阪には」。「しをらしい=優美だ、上品だ」。「しを=しほ=しぼ=皺=笑顔皺=目もと」だろう。

 喜多さんは前述の乗り換え駕籠ん中で銭を拾った。気前よく駕籠屋に酒をおごったが、その銭は駕籠屋が置いた銭だとわかって、おごり賃を自らの財布から払うハメにあって一首~

「ひろふたとおもひし銭が猿が餅右からひだりの酒にとられた」。絵と同じく〝猿が馬場〟の狂歌。漢字で書けば「拾ふたと思ひし銭は猿が餅(猿が馬場の名物・柏餅を縮めて)右(甘党)から左の酒に取られた」。駕籠のなかで長閑に狂歌に興じているうちに「二川宿」手前の境川に至る。


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十返舎一九とは(2) [狂歌入東海道]

19e4_1.jpg (1)の続き。一九は大阪で小田切土佐守に仕えた後に浪人。25歳の時に材木商某の入婿になった。娘の父親や手代らが仕事を仕切るゆえ、一九は香道、料理、浄瑠璃の世界に足を踏み込んだ。松井今朝子『そろそろ旅に』では、入婿先の女が実にいい女に描かれて、離縁に至る経緯に小説の真骨頂発揮。だがそれはフィクションで、実際はかなりの年増女だったかも知れない。

 この時期に、浄瑠璃「木下陰狭間合戦」他に〝近松余七〟の名で連作合作。その後に離婚した。寛永五・六年頃に江戸へ。蔦屋重三郎の食客になり、山東京伝の滑稽本『初役金鳫帽子魚』に「一九画」の挿絵。唐来三和などに勧められて黄表紙作家へ。

 寛永七年、31歳。京伝のヒット作『心学早染草』(例の善玉・悪玉の物語)にあやかった『心学時計草』など3作を自画で刊。号は「十編舎一九」。この3冊が好評で蔦屋他の諸版元から一気に20作ほどを刊。号も「十返舎一九」に定まった。

 翌年、蔦屋を出て長谷川町へ。同時期に再び町人某に入婿。一九はモテたから入婿需要多し。寛永九年の著書に「はせ川てふ(町)の一九」と記されているとか。寛永九年、蔦重が48歳で病没。この時、一九は34歳。この頃に「不埒の血」も騒いで、吉原通いが盛んだったらしい。

 中村幸彦解説には、同時期に江戸の友人も増えて「千穐庵三陀羅法師」主宰の「神田側」なる狂歌連に属し、かなり狂歌に熱中したと記されていた。そこで「千穐庵」を調べてみた。

 「千穐庵三陀羅法師」の本名は赤松、後に清野。唐衣橘州の門下(狂歌の本格系)で一派を率いた狂歌師。彼の編による寛政11年刊『狂歌東西集』の「江戸狂歌・五巻」には一九の狂歌が十数首も掲載されていた。また千穐庵撰『江戸狂歌本選集』には葛飾辰政(北斎)画で一九像も描かれ、その画に「はつかしや君にふらるゝ錫杖のかたちよりして生れたる身は」の狂歌が挿入。また一九自ら狂歌絵本『十廻松』(自画・編)も刊。

 松井今朝子の小説では、長谷川町の入婿先は山東京伝の死んだ妹(狂歌名・黒鳶式部)の友達で、質屋の娘・八重さん。彼女は一九の妻になっても京伝ファンで、それが原因で次第に夫婦の仲が冷え込んで行く。吉原通いも盛んになる~という小説的アイデアが面白い。

 二度目の入婿離縁は、寛政13年で一九が37歳の頃らしい。婿先から飛び出せば、再び奮起して自分の力で食って行くより他にない。時あたかも洒落本の取締りが厳しくなっていて、新たなジャンルを開拓しなければならない。一九は南総、箱根入湯へ旅立って滑稽旅行記を手掛け出す。

 長くなったので、今回はここまで。絵は前回の模写に淡彩。旅を始めた一九は肌黒くなっていたかもしれない。(その3へ続く)


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