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新井白石、千駄ヶ谷で隠棲~3(追加メモ5) [千駄ヶ谷物語]

hakusekihaka_1.jpg 「正徳の治」の内政主施策は朝幕関係の融和増進(朝廷の幕府信頼の向上)、武家諸法度改定(従来の武断主義に〝仁政〟理念を加味)、元禄期の金銀貨改悪を改善、司法関係諸事件の処理(前述の大赦、評定所の改革など)。

 外交面では対朝鮮外交の刷新、対琉球外交の強化、清・阿蘭陀など長崎貿易の改革(貨幣改鋳や密貿易取締りなど)。

 宝永6年(1709)にはイタリア人カトリック宣教師シドッチ(41歳)の小石川・切支丹屋敷で尋問。シドッチは屋久島~長崎奉行~同屋敷へ。白石は彼から欧州各国の地理、政治、日本への潜入事情などを三日をかけて詳細聞き取り。処分は生活費を与えて同屋敷拘留も、後に獄卒夫妻が洗礼を受けたことで地下牢へ。シドッチは正徳4年(1714)獄死。(数年前に出土の人骨3体の一つがシドッチだろうと報道されている)

 白石は併せてオランダ商館長とも会談し、今度はプロテスタント側も調査。ここから後の名著『西洋紀聞』を著わした。さらに琉球使節との対話から、これまた後の沖縄研究の名著『南島志』を刊。オキナワに〝沖縄〟の漢字を宛てた。

m_kirisitanzaka1_1.jpg また白石は正徳元年、55歳で辞職申請するも許されず。逆に加増五百石で計千石、拝領屋敷も一ツ橋外(小川町)へ。正徳2年10月、将軍家宣没。家継が7代将軍に。享保元年(1716)、家継の8歳没まで仕えた。8代将軍に吉宗就任。前将軍の近習者全員罷免。すでに白石は辞職願済で未練なし。旗本の身分、千石そのままで屋敷替え。その地が内藤宿六間町だった。

 「内藤宿 窪田弥惣兵衛五百五拾八坪之上ヶ屋敷」。当地へ行けば「杭は打たれているも周囲には誰も住んでなく麦畑が広がっているばかり」。まずが伝通院裏門辺りに仮寓するも、享保6年(1721)に焼失で、同年七月に千駄ヶ谷に家作。この時、白石65歳。

 手紙に「四谷大木戸より左の方へ十二町計り入り候処~」。現・新宿御苑内一隅で、文字通りの隠棲。「閑静にして言ふこと少なく。営利を慕わず」。庭には美しい草花が満ちての学究・著作生活。同時期の主著作は、わが国の学術上の大遺産『経邦典例』(歴史書21巻)、『史疑』(現存せず)、地理書『蝦夷志』『奥羽五十四郡考』『采覧異言』、古代史解釈の『古史通』など。

 享保10年(1725)5月、60歳で没。浅草報恩寺内(寺中寺)の高徳寺に埋葬(同寺は中野区上高田に移転。写真上の石垣内に夫妻墓石。左「新井源公之墓」)。写真下は切支丹屋敷跡。志賀直哉が自転車で切支丹坂を下ったと自慢する随筆ありで、7年前に同坂を訪ねた折の写真。

 藤沢周平全集・第22巻『市塵』を読んだ。最終28頁ほどが千駄ヶ谷暮し。そこで室鳩巣のこんな言葉があった。「(次代将軍・吉宗は)おそれながら文盲にてあられられる」。読み書きが出来ぬ?まさか、教養がないの意らしいが~。敬遠してきた新井白石だが、江戸の学者ゆえ身近な地に足跡がある。今後は抵抗なく彼の著作が読めそうです。

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新井白石の前半生~2(追加メモ4) [千駄ヶ谷物語]

hakuseki.jpg_1.jpg 宮崎道生著『新井白石』(吉川弘文館)、藤沢周平『市塵』(文芸春秋)を参考に、新井白石の前半生のまとめ。

 父、13歳で江戸へ出奔。31歳で土屋利直(上総久留里藩主で徳川秀忠の近習)に召し抱えられて目付役に。古武士的風姿。母は奥女中(訳あり?)出身で歌道、書道、琴などの教養あり。白石は父57歳、母42歳の明暦3年正月の「明暦大火」直後に長男として誕生。土屋利直は白石を「火の児」と呼び、実子のように寵愛(これも訳ありそう)したとか。

 幼くして聡明。神童。剣術にも熱中。延宝3年(1675)に土屋利直死去。同家内紛から父は謹慎処分~浪人生活へ。父75歳、白石21歳だった。既に3人の姉も亡く、母も死去。白石は浅草在住。この頃、なんと!俳諧に凝って桃靑(芭蕉)と競っていたとかで、ちょっと驚いた。富商の婿養子、医業への勧め、縁談などあるも拒否。

 天和2年(1682)、白石26歳、奉公構えが解けて、5代将軍綱吉の大老・堀田正俊に仕える。その数か月後に父没。朝鮮使節来日で自身の『陶情詩集』の批判を乞い、序文などを贈られる。同年、大老が木下順庵を招聘し、白石(30歳)も順庵に入門。

 この年、白石は堀田家の藩士の娘と結婚。元禄4年(1691)35歳で嫡男誕生も、堀田正俊が城内で暗殺(謎)されて再び浪人生活へ。私塾で生計。元禄6年〈1693)末、順庵の推薦で儒者として甲府藩・綱豊(江戸桜田邸)に仕える。この頃の白石の家は、湯島天神の崖下辺り。元禄16年(1703)11月に大火、4日後に元禄大地震、その7日後も大火で湯島の白石家も焼失。。

 綱豊に『四書』や『五経』を講義。5年後に宝永元年(1704)12月に綱豊が綱吉の世継ぎに決まって、名を家宣と改名。白石48歳、西ノ丸御側衆支配「西ノ丸寄合」の身分へ。家宣に帝王学を進講。白石の教えは孔子の「仁」の政治。すなわち「仁政」+「詩書礼楽」とか。

 宝永4年(1707)5月、白石は雉橋外の飯田町に355坪の屋敷を拝領。11月に富士山大噴火。江戸に鳴動と黒い灰が降った。宝永6年(1709)1月に綱吉逝去で、家宣が6代将軍に。この時、白石は53歳。

 新体制は間部詮房が側用人。老中格・柳沢吉保の隠居願いを許可。大学頭・林信篤の職責大半を白石が担って500石の幕臣へ。「生類憐みの令」廃止と未決囚8831人を釈放。白石が教えた「文を以て治をいたす=仁政」、家宣の〝正徳の治〟が始まった。今回はここまで。専門家が記す人物評伝は、知識豊富ゆえだろう、話があっちこっちに飛んで、こうして時系列に短くまとめるのも(自分流の取捨選択)大変です。写真は国会図書館デジタルコレクションより。

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新井白石終えんの地(追加メモ3) [千駄ヶ谷物語]

araibotu_1.jpg 新宿御苑・千駄ヶ谷門の横、鳩森小学校の御苑側、千駄ヶ谷6丁目1番1号に「新井白石終えんの地」史跡案内板がある。御苑は子供時分から馴染で、同看板の存在は知っているも、新井白石に興味抱かず仕舞いだった。

 目下ブログは「貝原益軒」シリーズ中で、益軒は京都遊学の明暦3年(1657)頃から「木下順庵」と相往来。順庵が江戸幕府に儒官として招聘されると、江戸での門下の一人が新井白石だった。

 かくして初めて新井白石を知りたく相成候。そこで改めて「千駄ヶ谷物語」は『江戸名所図会』や『絵本江戸土産』からスタートしたも、歴史的には新井白石から入るべきだったと反省。

 まずは『森銑三著作全集』から〝新井白石評〟を拾いつなげてみた。「江戸の学者に新井白石あり。儒学から出て、史学に、地理学に、語学に新生面を開いた。その覇気の強いのは、やはり関東の生んだ学者であった。またその詩は近世期の第一人者とせられるし、或はその仮名交じり文もまた近世期の第一人者に推してよいのではないかと思われる偉才であった。それにしても白石は『折たく柴の記』(松岡正剛も新井白石を江戸時代きっての大学者と評し、同著は〝屈指の自伝文学〟と紹介)や、『藩翰譜』(江戸時代の家伝・系譜書。全12巻)の独自の文体を、一体古典の何から得たのであろうか。詩人としても近世文芸史上に決然として群を抜いてゐる」

todaiotitaku.jpg_1.jpg 新井白石は千駄ヶ谷に隠棲してから、友人への書簡にその地をこう説明したそうな。「此たびの新宅は、内藤宿の六間町と申す所に候。其辺に千駄萱の八幡とか申す有之候。かの社より西の方、六~七町の可有之候」

 同地に隠棲した白石は著作活動に没頭だが、その合間に鳩森八幡神社へも散歩をしただろう。いや、そんな事より「新井白石」をスルーしてはいけないような気もした。写真上は「新井白石終えんの地」の史跡看板辺り風景。

 『折たく柴の記』を探したら、森鴎外の直筆入りの東京大学総合図書館所蔵「森鴎外文庫」よりの同書表紙を見つけた。赤字で「明治三十一年三月源高堪」ゆえ鴎外直筆だろう。読み違いもあろうが面白いので記す。「我家に折たく柴記写本三巻あり。本書中巻三十六頁「外使の事しるすにつけて」云々より下を漫(みだ)りに分ちて三巻とせたものなり。中山堂の桜(印)あり。貸本屋などいふものゝ押したるにや直ちに破り棄てんも惜しければ試みに対校して本書の傍に註す」。昔の人はみんな白石を読んでいたんですね。次回は新井白石の経歴概要。

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「洋行組」が多かった邸宅主(追加メモ2) [千駄ヶ谷物語]

 千駄ヶ谷の邸宅調べをすると「洋行組」が多いの気付いた。すでに紹介済人物が多いので、以下に洋行記録だけを一覧してみた。

<榎本武揚> 鳩森八幡神社隣接のジャズ評論家・久保田二郎(父・金四郎)邸の前住者が榎本武揚。文久2年(1862)品川発。翌年オランダで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学び、慶応2年(1866)に竣工の「開陽丸」で帰国。「五稜郭」の戦い後に明治政府の逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任。子爵になった。

<團琢磨> 千駄ヶ谷小学校の南側に團邸があった。明治4年(1871)岩倉使節団に同行して渡米。マサチューセッツ工科大・鉱山学科を卒業して明治11年(1878)に帰国。息子は團伊玖磨。

<津田初子> 津田塾本校は小平だが、千駄ヶ谷駅前に津田塾・千駄ヶ谷キャンパスがあるので一覧に加える。津田梅子は、上記の岩倉使節団に随行した女子留学生(最年少の満6歳)として渡米。私立女学校アーチャー・インスティチュートを卒業した明治15年(在米11年)に帰国。帰国後に幾度も徳川宗家・家達を訪ねている。

<徳川家達> 千駄ヶ谷に広大地を有した徳川宗家・家達は、明治10年(1877)、イギリスのイートンカレッジ留学。明治15年(1896)に帰国。

<幣原喜重郎> 徳川家達邸の前。明治29年(1896)に外務省入省。ロンドン、ベルギー、オランダ、ワシントンの領事館や大使館に勤務。大正4年(1915)に外務次官。同8年に駐アメリカ特命全権大使他。軍部に反する平和外交に務めた。第44代内閣総理大臣。原爆なる恐ろしい爆弾が出来た時代に戦争などしてはいかんと平和憲法(戦争放棄)を誕生させた。

<松岡洋右> 鳩森八幡神社の南側に邸あり。明治26年(1880)に渡米。ポートランド、オークランドで勉学後に、オレゴン大学法学部入学。明治33年(1900)卒業。明治35年(1902)、9年ぶりに帰国。

<獅子文六> 千駄ヶ谷小学校の東側。大正11年~14年(1922~1924)にフランス新劇を鑑賞・研究で滞在。フランス人の妻を娶り、ハーフのお嬢さんと千駄ヶ谷生活。

<鷹司信輔> 現・津田塾千駄ヶ谷キャンパスの地が鷹司地所。元・明治神宮内苑宮司。大正13年(1924)、ベルギーで開催の万国議員商事会議参列で渡欧し、1年半ヨーロッパ各国を視察。

<原田熊雄> 久保田二郎邸の横。母がドイツ・日本のハーフ。大正11年(1921)頃に宮内省嘱託としてヨーロッパ見聞。東京裁判の『黒田日記』で有名。

<永井柳太郎> 江利チエミ邸と明治通りの間に邸あり。後の鉄道大臣、逓信大臣、拓務大臣。明治39~42年(1906~1909)にオックスフォード大に留学。

 以上簡単調べですが、元・千駄ヶ谷の邸宅主には、かくも「洋行帰り」が多かったというお話。これほど「洋行組」が固まって住んでいた街は他にないでしょう。(丁寧に調べれば、他にも洋行組がいたかもしれません)

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久保田金四郎と榎本武揚(追加メモ1) [千駄ヶ谷物語]

daobosatu.jpg_1.jpg ジャズ評論家・久保田二郎が住んでいたのは、鳩森八幡神社に隣接の「東京都渋谷区千駄ヶ谷3丁目527番地」。当時の地図で確認すると、そこは「久保田金四郎』宅。彼の父だろう。『千駄ヶ谷昔話』では「代議士で白壁をめぐらせた大きな屋敷」とあった。

 久保田二郎は『極楽島ただいま満員』に、こう記していた。「父は大逆事件の幸徳秋水の弟子だった」。これは〝読み捨て〟ならぬ記述で、ずっと気になっていた。さらに「(この邸は)昭和20年5月の大空襲で焼けたが、五稜郭の戦いで有名な榎本武揚の屋敷だった」。

 彼の父だろう「久保田金四郎」をネット検索すると、意外なサイト『大菩薩峠』の中里介山・詳細年譜に辿り着いた。

 「明治36年(1903)19歳。北豊島郡岩淵小学校の代要教員になる。この頃、王子の扇屋なる料理屋の一室に久保田金四郎(後の司法次官)と自炊生活を始め、のち日暮里諏訪神社通りの森田重太郎(車夫)二階に下宿。幸徳秋水、山口孤剣、堺俊彦等の社会主義者と交渉」。

 そして中里は「平民新聞」に寄稿し、19歳で同新聞の懸賞小説に佳作入選。21歳、母の猛反対画で「平民社」を離脱して「都新聞社」入社。明治44年、27歳1月、幸徳秋水ら12名処刑「大逆事件」。大きな衝撃を受け、その影響が作品にも反映されているとか。ちなみに永井荷風は、同事件で隠棲志向を固めている。中里介山、29歳より『大菩薩峠』連載開始。同小説には、王子・扇屋の場面も出てくる。

 以上から久保田二郎の「父は大逆事件の幸徳秋水の弟子だった」と記す〝裏〟が少しわかった。さらに同年譜に「久保田金四郎(後の司法次官)」も気になった。社会主義傾向にあった青年が、その後に体制側、しかも司法官僚へ生き方を変えたらしい。さらに検索を続けると「愛媛県警察部長、東京地方裁判所検事、福島県警察部長、広島県警察部長」などの経歴もヒット。その後に司法次官になったと推測。残念ながらネット検索ではここまで。

enomoto.jpg_1.jpg 次に久保田金四郎邸が「五稜郭の戦いで有名な榎本武揚の屋敷だった」の記述も気になっていた。榎本武揚は徳川幕臣を率いて「五稜郭」で官軍と闘い、後に明治政権の中枢で活躍。

 阿部公房『榎本武揚』を参考に、明治政府での活躍を記せば「明治5年:北海道開拓使奏任出仕。7年:海軍中将、ロシア派遣特命全権公使。12年:条約改正取調御用掛。13年:海軍卿。15年:皇居造営事務副総裁、清国駐在特命全権公使。18年:逓信大臣。20年:子爵。22年:文部大臣。24年:外務大臣。27年:農商務大臣。

 福沢諭吉は『痩我慢の説』で勝海舟と榎本武揚に対して「痩我慢で隠棲すべきも、体制側で出世している」と非難。小生「青山外人墓地調べ」で、福沢諭吉のシモンズ墓碑銘解読から「勝は粋、福沢諭吉は野暮」と記した。福沢より江戸っ子の勝、榎本好きだが、福沢視点から見れば千駄ヶ谷の広大な敷地を有した徳川家達(慶喜から徳川宗家を引き継いだ)もまた隠棲が筋。勝の庇護下で育ち、表に出ることを抑えられていたが、貴族院議長など明治政府内でしっかり出世。

 福沢視線ならば、千駄ヶ谷は徳川家・幕臣ながら、明治政府で出世の人々の屋敷町だったとも言えそう。こうなってくると腰を据えて阿部公房『榎本武揚』を読みたくなってきますが、いずれまた~。「千駄ヶ谷シリーズ」で書き残したテーマを、気が向き次第〝追加メモ〟として記して行きます。写真上は『大菩薩峠』、写真下は榎本武揚。共に国会図書館デジタルコレクションより。

 うむ、榎本武揚で気が付いた。千駄ヶ谷邸宅組のほとんどが江戸・明治・大正時代に欧米留学・視察・駐在体験者だと。これもいずれ一覧してみたい。

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参考資料一覧(59) [千駄ヶ谷物語]

 以下「千駄ヶ谷物語」(全58回)の参考資料一覧です。

<江戸資料>『江戸名所図会』、『絵本江戸土産』、『江戸切絵図』。

<徳川家達関連> 保科順子『花葵=徳川邸おもいで話』(毎日新聞社)、樋口雄彦『第十六代徳川家達~その後の徳川家と近代日本』(祥伝社新書)、佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)、赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社)と『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)。

<戦前の千駄ヶ谷関係書> 獅子文六全集・第六巻『娘と私』収録(朝日新聞社)、久保田二郎『極楽島ただいま満員』(晶文社)、『千駄ヶ谷昔話』(渋谷区教育委員会)、家城定子『原宿の思い出』(講談社出版サービスセンター)、雨宮央樹『原宿わんぱく物語』(鳥影社)。

<与謝野晶子・寛関係> 与謝野光『晶子と寛の思い出』(思心閣出版)、逸見久美『新版評伝与謝野寛明子 明治編』(八木書店)、青井史『与謝野鉄幹』(深夜叢書社)、渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』(下巻、文芸春秋)。

<北原白秋関係> 川本三郎『白秋望景』(新書館)、『白秋全集36』(岩波書店)、瀬戸内晴美『ここ過ぎて~白秋と三人の妻』(新潮社)、現代日本文学大系『北原白秋 石川啄木集』(筑摩書房)、西本秋夫『白秋論資料考』(新生社)、藪田義雄『評伝 北原白秋』、嵐山光三郎『おとこくらべ』(ちくま文庫)

<国立競技場関係> 後藤健正『国立競技場の100年』(ミネルヴァ書房)、山口輝臣『明治神宮の出現』(吉川弘文館)、蜷川壽恵『学徒出陣』(吉川弘文館)。

<天皇関係> 笠原英彦『明治天皇』(中公新書)、村上重良『国家神道』(岩波新書)、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)

<東京大空襲関係> 『東京大空襲~未公開写真は語る』(新潮社)、竹内正浩『空から見る戦後の東京』(実業之日本社)、石川光陽『東京大空襲の全記録』(岩波書店)。

<ワシントンハイツ関係> 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』(新潮社)、山本一力『ワシントンハイツの旋風』(講談社)、瀬川昌久『ジャズで踊って』(清流出版)、小川孝夫『証言で綴る日本のジャズ』(駒草出版)、車谷譲『進駐軍クラブから歌謡曲へ』(みすず書房)、藤原美智子『こころはいつもギャルソンヌ』(グラフ社)。

<東京裁判関係> 半藤一利『歴史と戦争』(幻冬舎新書)、半藤一利・保坂正康・井上亮『「東京裁判」を読む』(日系ビジネス人文庫)。

<連れ込み旅館関係> 梶山俊之『朝は死んでいた』、『新修渋谷区史』(下巻・昭和41年刊)、朝日新聞縮刷版(昭和32年2月・3月分)、昭和32年3月参議院会議録、川本三郎『いまむかし東京町歩き』(毎日新聞社)、野村敏雄『新宿っ子夜話』『新宿裏町三代記』(靑蛙房)、なべおさみ『やくざと芸能と』(webサイト)。

<その他> 藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯』(五月書房)、田中康夫『なんとなくクリスタル』『33年後のクリスタル』、村上春樹『風の音を聴け』他。

●参考させていただいたwebサイト多数です。ありがとうございました。

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軽い気持ちで始めたが~(58) [千駄ヶ谷物語]

kokuritusaisyo_1.jpg 家から「新宿伊勢丹」往復約4千歩のウォーキング。某日、伊勢丹を越えて北参道を左折。右を見れば「国立能楽堂」で、そこを越えたら「東京体育館」、眼前に建設中「国立競技場」があった。「鳩森八幡神社」やお寺も散在で下町風情もあり。

 初めて迷い込んだ千駄ヶ谷。興味を抱き、図書館で千駄ヶ谷関連書を探すもナシ。地域本の幾冊かに数頁紹介程度。ならば自分で調べてみましょ、と始めた「千駄ヶ谷シリーズ」です。

 まずは「江戸名所図会」「絵本江戸土産」から。徳川は慶喜で終わり思っていたら、徳川宗家を継いだ家達が、千駄ヶ谷の広大な地を所有。家達に勝海舟、天璋院(篤姫)、さらには柳田国男も絡んでいた。与謝野晶子・寛夫妻が渋谷から越してきた。彼らが去ると北原白秋が来て、隣の人妻との姦通罪で囚人馬車へ。

 ジャズ評論家・久保田二郎が「当時の千駄ヶ谷は高級住宅地。自由が丘や田園調布なんぞは二流、三流の住宅地」と記し、子供時分の思い出を書いていた。獅子文六も戦前の千駄ヶ谷暮しを小説にしていた。富国強兵の無理・破綻。外苑競技場で学徒出陣壮行会。大空襲で焼け野原になった。

kokutitux_1.jpg 終戦同時にGHQが外苑接収。家達邸は将校クラブ。すると母親が同邸出入りで東京裁判下訳をしていたという小説『東京プリズン』に出会った。千駄ヶ谷の邸宅調べをすれば、東京裁判関係者多し。「原田日記」の原田熊雄も住んでいて、改めて「東京裁判」関連書を読むに至る。

 与謝野夫妻の千駄ヶ谷時代の思い出を記した長男・光氏が、後に米軍将校用・白人用・黒人用の性処理場選定と性病予防にあたっていたで、腰抜かすほど驚いた。「ワシントンハイツ」の影響を探れば、そこから青山・原宿がファッションの街になる発端も伺え、一方、千駄ヶ谷は〝連れ込み旅館街〟になった。

 ブランド、ファッションの時代になると、千駄ヶ谷は「裏・青山原宿」的地域特性を有し、軽佻浮薄のブランド青年・田中康夫が千駄ヶ谷辺りを舞台にした小説を書いた。

 千駄ヶ谷に立ち、周囲を見渡せば、南にファッションの青山。原宿は今や外国・地方観光客の街になり、北の信濃町は創価学会の街と化し、北参道に神社本庁(日本会議)、そして共産党本部。かくして半年間も千駄ヶ谷で遊んでしまった。

 国立競技場も小生が初めて迷い込んだ時の状態(写真上)から、今は骨格完成(写真下)。今後は木で被う工事になるのでしょう。2020年オリンピックまで同地区への関心は続きましょうし、小生にもまだ興味あるテーマがありそうも、ひとまずお休みです。次回は参考資料一覧です。

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明治の帝と平和憲法と~(57) [千駄ヶ谷物語]

 前回の続き。「竹下事件」の直後、明治15年に「軍人勅語」。続いて「教育勅語」から「大日本帝国憲法」へ。熊さん「まぁ、あっという間に絶対君主制、天皇は現人神。長屋の俺んちにも御真影が飾られた」。ハっつぁん「学校の奉納殿って知ってっか。御真影と教育勅語が奉納だ。〝国家神道〟の凄まじき浸透~」

 明治27年に日清戦争。明治37年に日露戦争。ロシアを破って世界の列強入り。熊・ハっつぁん「みんなで提灯行列に行ったなぁ。日本中が有頂天で、それまで培ってきた〝心〟を失った」。国を挙げて「富国強兵」。お上に逆らえば〝大逆罪〟で即死刑。熊さん「ちょっと難し気な本を読む、仲間と集えば、すぐに引っ張られる怖ぇ~時代になった」

 明治45年、明治天皇崩御で「明治神宮内苑・外苑」誕生。徳富蘇峰が「京都中心の皇室主義が、明治神宮誕生で〝東京遷都〟が完成~と言ったとか。「表参道ヒルズ」隣接「神宮前小学校」(オフィシャルHP)掲載校歌は~ ♪めいじのみかど とこしえに しずまりせまる おおみやの もりのみどりの したたりうけし まなびやよ~

 〝明治の帝〟時代に国家神道浸透。そして〝昭和の帝〟時代に太平洋戦争突入。熊さん・ハっつぁんの父や兄が戦地で滅茶苦茶な命令で次々に命を落としていった。そして大空襲と原爆。終戦と同時にGHQ命令で各学校の「奉安殿」取り壊し。「政教分離」で国立競技場を除いた明治神宮内苑・外苑が「宗教法人・明治神宮」所轄へ。昭和22年5月、日本国憲法(平和憲法)施行。

 明治通り沿い「千駄ヶ谷小学校」は、昭和13年に〝教育勅語〟讃美の校歌制定も、平和憲法で新校歌誕生。今は政治色考慮でか同校オフィシャルHPに校歌掲載はないが、卒業生らがネット公開しているのを参考にすると~

 ♪世界の国に先駆けて、戦争棄てた憲法の こころ忘れずとりもって 平和の日本の民となる 民主日本の民ごころ 平和日本の民ごころ~ らしい。

 もう一度記す。外苑北側は「創価学会」の街と化した信濃町。こぞって与党追従だ。北参道に「神社本庁」(日本会議)、その代々木側に「共産党本部」。それらに囲まれているのが千駄ヶ谷。熊さん「なんだかスッキリしねぇな」。ハっつぁん「それらを呑み込んで生きてきたのが日本かな」。熊さん「そう云えばちょっと哲学的だが、今はそのバランスが崩れ、刺々しくなって呑み込めなくなってきた」。ハっつぁん「世界中で独裁者が増えてきて、なんだが日本もそんな気配じゃねぇか。強行採決でやりたい放題」

 千駄ヶ谷を歩いていると、やっぱり考え込んでしまう。スッキリせぬが「千駄ヶ谷シリーズ」をそろそろ終わりにしたい。

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多価値の狭間で~(56) [千駄ヶ谷物語]

sindo_1.jpg 千駄ヶ谷は明治神宮内苑と外苑の狭間の街。内苑には貴重な自然〝神宮の森〟が育まれ、外苑の公園やスポーツ施設もうれしい。だが国立競技場を除く内苑・外苑は「宗教法人・明治神宮」所轄らしい。

 去る5月19日、「明治神宮・仮殿遷座祭」が報じられた。これは2020年の鎮座100年に向けた改修工事に先立つ遷座儀式。新聞では「ご神体が~」だけの記述、また明確に「明治天皇と昭憲皇太后の御神体が~」と各紙記述が違っていた。

 かつては学校、役所、さらに各家庭に御真影が奉られたゆえ、明治天皇崩御での盛り上がりは理解できるも、昭和~平成生まれの人々にとって「ご神体=御真影」への意識は薄かろう。反・民主主義の「大日本帝国憲法」の暗く重い歴史もある。

 特定の宗教団体や政党に属さぬ小生だが、集合住宅〈マンション〉在住ゆえに在住者は多彩。選挙になれば「創価学会員」から「公明党」投票を請われる。商店街役員からは「自民党」への投票を請われる。近くの団地では、公明党と共産党の熾烈な戦いが展開する。

jinjyahoncyo_1.jpg 外苑の北側、信濃町は「創価学会の街」と化している。北参道際には「神社本庁」(写真左)がある。すなわち「日本会議」で、現内閣との繋がりは濃密。首相と「日本会議」の共通惹句は「美しい日本」。首相夫人も幼稚園児の「教育勅語」暗唱に感動して名誉校長になったとか。国家神道復帰を目指すのか。目下は一強独裁気味で、どんな法律でも強行採決。薄気味悪いことよ。さらに「神社本庁」から徒歩数分の明治通り沿いに「共産党本部」(写真下)。千駄ヶ谷に立って、周囲を見わたせばかくの如し。頭がクラクラしてしまう。

 山口輝臣著『明治神宮の出現』に加え、村上重良著『国家神道』、笠原英彦著『明治天皇』を改めて読み直し、小生流(長屋の熊さん的)解釈で考え直してみたい。

 江戸っ子庶民・熊さんの〝お上〟と云えば、265年の永きに亘て徳川様だった。「京都ってぇ西の方に〝天皇様〟がいらっしゃるなんざぁ知らなかったなぁ」。ハっつぁん「だが、神社にはお詣りするぜ。氏神様だから。森羅万象、八百万神(やおよろずのかみ)、神仏習合もある」。

kyousanto_1.jpg 幕末になると ♪宮さん宮さんお馬の前に~ あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ、知らないか~ の歌が聞こえてきた。熊さん・ハっつぁん「知らねぇなぁ~」。歌はさら続く。♪薩長土肥の連隊が音に聞こし関東武士どっちへ逃げた~

 魚河岸の鯔背な連中は「奴らに日本橋を渡らせちゃならねぇ」てんで身構えた。侠客・新門辰五郎も手下を集結させた。だが〝無血開城〟。天皇が江戸城に入って、東京市中に祝い酒が振るまわれ「五箇条の御誓文」。まぁ、大筋は民主主義だ。熊さん、何だかよく分からないが〝人間誰もが平等〟になったと喜んだ。

 明治元年。神仏分離令と廃仏稀釈。ハっつぁん「お寺さんが威張り過ぎていたから、まぁいいかぁ」。貧しき農村青年らが官軍へ。西南戦争で多数戦死。だが為政者らは私腹を肥やし放蕩三昧。平民出身兵らは〝なんだか変だなぁ〟。待遇改善で立ち上れば53名銃殺「竹下事件」。すかさず「軍人勅語」から「大日本帝国憲法」へ。熊さん・八っつぁん共に「あれっ、人間平等ってぇのはウソ」だと気付き出した。長くなったので、ここで区切る。

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ネイティブ僅少「ネオ東京人」の街(55) [千駄ヶ谷物語]

 「ワシントンハイツ」内で新聞配達をし、後に時代小説家になった山本一力は高知出身。「千駄ヶ谷」でジャズ喫茶「ピーター・キャット」経営で『風の歌を聴け』を書いた村上春樹は京都伏見出身。「ポパイ」青少年の〝性〟を描いた『なんとなくクリスタル』の田中康夫は高校卒業まで長野県育ち。原宿・青山に憧れた。

 「あぁ、東京ネイティブがいない」と再認識した。今はテレビを観ても出演者の多くが、特に芸人(お笑い、歌手、俳優)のほとんどが地方出身のような気がする。かつて池波正太郎がテレビ〝鬼平〟キャスティングに、江戸弁(東京弁)が喋れる俳優で固めたそうだが今では無理なのだろう。(標準語=東京弁と思っている方が多い)

 伊豆大島の老人らが憩う湯に浸かっていたら「テレビはもう観ないよ。東京の人が出ていないもん」と呟くのを聞いたことがある。離島や地方町村は人口流出入が僅少ゆえにネイティブが多い。結果的に高齢少子化で〝限界町村〟へ向いつつある。

 小生の小・中学校は1クラス50名余で1学年10組ほど。溢れるほどいた同級生らは、どこへ消えちまったやら。団塊世代の何割かは近郊住宅地へ引っ越した。小生の姉・弟も浦安在住。逆に昭和30~50年代の経済成長期には集団就職列車あり。豊かになれば若者らはこぞって東京の大学を目指し、そのまま東京で生活のケースも多い。

 さて、Webサイト「東洋経済」にソニー・ミュージックエンタテインメント創立者・丸山茂雄氏のインタビューが目に入った。氏が「東京生まれの人でスタイリストを職業にしている人はいない、が俺の昔からの持論。いささか野暮ったい人たち、かっこうよくなりたい人たちが目指すような職業なんじゃないかな」。

 これはまぁ、ファッション関係全般に言えそうで、ファッション系専門学校入学者の多くが地方出身らしい。試みに某デパートの「日本が誇る十人のスタイリスト~」の企画にアップされた男性スタイリスト10名を調べたら、全員が地方出身だった。女性スタイリストには、出身地を記さぬ方が多い。

 レコード会社のことは少しだけ知っているので記す。テイチク元社長・飯田久彦氏に取材すれば「あたしの父は白木屋の呉服部出身で~」。〝あたし〟と言った。すこしシャイな東京人。目ン玉マーク・レコード会社社長時代の羽佐間重彰氏に同社PRペーパーの毎新年号に中島みゆきと対談していただいたが、氏はベランメェ調の東京っ子。音楽事業者は東京人が多いらしい。

 そこで千駄ヶ谷です。かつて軍人・侯爵・政界人の邸宅が多かった同地は、空襲で彼らが去り、復興期に〝連れ込み旅館〟事業者が流入。そして「ポパイ」「J・J」などによるブランド、ファッションブームで原宿・青山に脚光を浴びれば、千駄ヶ谷はその関係者が住まう「裏・原宿青山」的地域特性を帯びてきたような気がする。そして前述通りファッション系に憧れるのは地方出身の方が多く〝千駄ヶ谷ネィティブ〟は寺院関係者はじめ僅少かなと推測する。

 時代は、さらに進んでいる。わかりやすく地方出身芸人の東京移住者を例にしよう。彼らの子らは当然のこと東京生まれ。〝新・東京人=二世タレント 〟として世に出てきた。東京移住者の子供らを「ネオ東京人」と仮称しよう。東京ネイティブには違和感ある在京TVキー局ワイドショーの「ミヤネ屋」(関西制作)、「ゴゴスマ」(名古屋制作)も「ネオ東京人」には違和感なく成立する状況。新たな時代になっているなぁと思う。そこで懸念するのは「ネオ東京人」の根に〝江戸〟意識が薄かろうということ。(以上、データなし推測で記した)

 ええっ、小生在住の大久保? 「ネオ東京人」どころか「東南アジアの街」に見事に化して過疎、シャッター通りとは無縁。歩けぬほどに混雑繁華な商店街になっている。そこに満ちるは韓国語、中国語。他の東南アジア系言葉も多い。彼らのしゃべる声の大きなことよ。「あぁ、日本語の国へ行きたぁ~い」と思う日々であります。

 いや、今の原宿・竹下通りはもっと凄い。海外と地方観光客ばかりで、東京生まれの人はいそうもない。

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村上春樹と田中康夫(54) [千駄ヶ谷物語]

kazenouta.jpg_1.jpg 小生、村上春樹にも興味なく未読。図書館で彼の著作を立ち読みし、田中康夫『なんとなくクリスタル』と『33年後のクリスタル』を借りた。

 立ち読みで定かではないが、村上春樹の幾編かに〝ターンテーブルの~〟の書き出しがあって、田中康夫を読めば「目覚めたばかりだから〝ターンテーブル〟を載せるのも、なんとなく億劫な気がして~」の書き出し。両者デビュー作は1年違い。当時は〝ターンテーブル〟が流行っていたらしい。

 村上春樹は、昭和24年(1949)京都伏見生まれ。やや遅いジャズ世代で、早大在学中に国分寺でジャズ喫茶「ピーター・キャット」開店。卒業後に同店を千駄ヶ谷へ移転。昭和54年(1979)に明治神宮球場の野球観戦後に小説が書きたくなって『風の歌を聴け』でデビュー。

 田中康夫は、昭和31年(1956)生まれ。8歳から高卒まで長野県暮し。駿台予備校で1浪後に一橋大へ。キャンパスは東京近郊。雑誌「ポパイ」紹介のブランド、ファッション信奉ゆえに憧れは原宿・青山。所属サークル「一橋マーキュリー」資金で神宮前のマンションを借りた事件で留年停学。その時に書いたのが『なんとなくクリスタル』。

 小説主人公・由利は昭和34年(1959)生まれ。帰国子女で中2から高卒まで神戸。大学(青山学院らしい)入学当初は赤堤のコーポラスで、深沢の自宅暮しの淳一と出会って、神宮前4丁目(例の事件の表参道裏側)のマンションで同棲中。

nantonaku.jpg_1.jpg 彼女の愛読書は「J・J」。モデル収入あり。淳一は大学5年生でフュージョン系バンドのキーボード。目下は3rdアルバムの地方キャンぺーン中。由利の所属モデル事務所は「鳩森八幡神社」近くの、デザイン事務所やプロダクションなどが雑居するマンション。(田中は「一橋マーキュリー」表紙デザインを受け取りに同マンションへ行った際に小説モデル・由利に逢ったらしい)

 由利は昨晩、江美子と「ポパイ少年、J・Jガール」が集う六本木のディスコで遊んだ。江美子は「東郷女子学生会館」(明治通り沿いの現・セコム本社)暮し。共立女子大らしき2年生で、昨夜はディスコで逢った大学生とラブ・アフェアー(肉体関係)。由利は翌日になってから、昨夜の立教大2年生と六本木デート。結局、六本木7丁目のマンション風ラブホテルでセックス。下手ではないが、幾度も高圧電流が流れる淳一のセックスの方がいいと再認識。

 淳一、帰京。やはり淳一とのセックスがいい。淳一が浮気を語る弁で「一口坂にあるスタジオで、あるポップス歌手のレコーディングに参加して~」。で、思わず笑った。あたしは、その目ン玉マークのスタジオの音楽会社の仕事をずっとしてきた。田中康夫は目ン玉マークのテレビ局と石油会社の内定をもらったとか。

 同小説を読むと「ポパイ少年とJ・Jガール」のお気に入りが原宿・青山で、千駄ヶ谷は〝裏・原宿青山〟的な位置づけ。表に関連する事務所や関係者が多く住む地域となっている。同小説巻末の〝注〟に「千駄ヶ谷:渋谷区北東部にある地名。囲われた女性の住み率が高いことは、意外な事実」と記していた。

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若者文化・新宿~オイルショック(53) [千駄ヶ谷物語]

sinjyku2.jpg アメリカが「ワシントンハイツ」返還の旨を表明した昭和36年(1961)、同国は「軍事顧問団」の名でベトナム参戦。年々兵力増加。昭和40年には18万4300人を投入。

 昭和43年(1968)、虐殺事件から米国内で反戦運動。同年の日本は「新宿騒乱」。翌年、アメリカ「ウッドストック・フェス」。日本では「安田講堂事件」「新宿西口広場・反戦フォークゲリラ」。東大駒場祭ポスターに「止めてくれるな、おっかさん」。若者はカウンターカルチャー。お父さんは頑張ってGNP世界2位。

 1960年代末は「新宿の時代」。小生、社会人1年目はデザイナー。新宿西口広場の若者を、東口でシンナー吸う若者らを縫っての出勤。途中で「新宿プレイマップ」を買っていたかもしれない。後年、演歌の山本譲二に上京時を訊けば、彼でさえ「まずは新宿東口。そこで二日間を過ごした」

 「新宿風月堂」で首振りつつジャズを聴き、諏訪優のギンズバーク翻訳本などを読む。やがてヒッピーのジミーが我が部屋に転がり込んで来た。ある日、帰宅すると文学全集とジミーの姿が消えていた。近所の古本屋に小生の本がズラッと並んでいた。幾らで売れたやら、彼は元気にやっているだろうか。

 新宿で飲んでいると、ベトナムからの帰還兵だろう疲れた青年兵士らと幾度も逢った。杉本真人唄う『センチメンタル・ゲイ・ブルース』の世界。新宿2丁目のゲイの物語。♪女を知った三日後にGIジョーに抱かれた~

popeye.jpg_1.jpg 社会人3年目にPR会社へ転職。社長プロデュースのパピリオン見学に大阪万博へ。山本一力は、旅行会社転職で万博客の宿不足にラブホテル活用案で大活躍とか。そして数年後にオイルショック。

 若者文化も元気を失った。すでに「イージー・ライダー」のバイクの若者も南部で銃弾に倒れている。小生のフリー人生は滑り出し好調も、オイルショックで仕事を失った。数年を経た昭和50年(1975)、ベトナム戦争終結の年、中島みゆき『アザミ嬢のララバイ』『時代』のレコード会社向け分厚いプロモート計画書を書いていた。♪まわるまわるよ時代はまわる~。

 すでにカウンターカルチャーの拠点・新宿の時代は終わって、女性誌「an・an」「JJ」に次ぎ、昭和51年(1976)「ポパイ」「Hot-Dog PRESS」創刊。ブランド、ファッションの時代へ。そのマニュアル通りに生きた代表が田中康夫だろう。長野県松本から東大受験失敗で駿台へ。「ポパイ」創刊年に一橋大入学。キャンパスが中央線郊外だったことに我慢ができなかったか、所属サークル「一橋マーキュリー」資金で神宮前にマンションを借りた事件で停学留年。その時に書いたのが「ポパイ少年・JJガール」主人公の『なんとなくクリスタル』(昭和55年)とか。

 以上、昭和36年~55年の約20年の時代表層を一気にまとめた。田中康夫への興味なく未読ゆえ、38年後に読んでみることにした。千駄ヶ谷が「裏・青山原宿」的に出てくるらしい。写真は〝新宿〟の冠がとれた「プレイマップ」(復刻電子書籍が出ている)と、今も発行の「ポパイ」最新号。

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米軍去り、オリンピック(52) [千駄ヶ谷物語]

tokyo1964.jpg_1.jpg 昭和32年(1957)4月に千駄ヶ谷、代々木、原宿が〝文教地区〟指定。これは翌年のアジア競技大会・東京開催と、昭和39年(1964)東京オリンピック決定も影響したらしい。

 昭和35年は60年安保。小生、附属高校入学。不良中学からゆえか、先輩らに地下室に連れ込まれて殴られた。キャンパスでは大学生らが物騒な(釘出し)プラカードを作っていた。高校生も大学生も荒れていた。

 高2で大人の山岳会に入った。アメ横の放出服が右翼っぽかったかで「オトヤ」と呼ばれた。同年の17歳〝山口二矢〟の浅沼稲次郎刺殺が由来らしい。

 6月15日、安保デモで東大生・樺美智子さん死亡。60年安保は全国的に盛り上がった。アメリカ文化への憧れ一辺倒からの大ギアチェンジ。そんな日本人の怒りを見てか、はたまた同国が「軍事顧問団」の名でベトナム参戦したかで、昭和36年に「ワシントンハイツ」代替地用意と移転費用80億円で全返還を表明。

 同ハイツはオリンピック選手村へ。現・調布飛行場や味の素スタジアム辺りの元米軍水耕農園(人糞を使わぬ野菜作り)跡に新「カントウ村」を建設で、昭和37年11月からワシントンハイツ部分返還開始で、翌年12月に全返還。

 ハイツ敷地は二分され、南側に国立代々木競技場、国際放送センター(NHK)、渋谷公会堂(CCレモンホール)を建設。北側が選手村。木造舎250棟、独身宿舎14棟を修繕して選手村・役員宿舎へ。新たに食堂3、共同浴場4、練習場を新設。米軍家族用の劇場は「オリンピック劇場」、PXは「ショッピングセンター」。

 昭和39年10月9日までに93ヶ国が順次入村。男子5900人、女子1000名。会期は9日から15日間。現在は代々木公園にオランダ選手仕様の1棟が記念に残され、独身兵舎跡はオリンピック記念青少年総合センター。

 写真はオリンピック開催3年前の第1号ポスター。亀倉雄策デザイン。なんと自信に満ちた堂々たるデザインよ。原爆とB29で焦土と化した日本。進駐軍、復興、そして朝鮮戦争特需を機に、力強く高度経済成長へ邁進の日本が象徴されているようです。比して2020年のポスターの精彩なきこと。

 あたしは、オリンピックがうるせぇ~てんで東京脱出して伊豆へ逃げた。貧乏学生で金乏しく、海岸沿いの百合の根を掘り起こして食い、混浴の村の銭湯へ入った。共に東京脱出した友は、後にカメラマンになって福生ハウスで暮した。

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江利チエミの千駄ヶ谷(51) [千駄ヶ谷物語]

tiemi_1.jpg 千駄ヶ谷3丁目に〝チエミ御殿〟があった。藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯』(五月書房)を読んでみた。

 江利チエミ、本名・久保智恵美。父・益雄は福岡生まれ。18歳で上京し、柳家三亀松の都々逸の相三味線やピアノ伴奏(小生、三亀松が好きで、カセットで都々逸集を拵えたことあり)。母は入谷生まれの浅草軽演劇の女優・谷崎歳子。夫妻に3人の兄が生まれ、昭和12年(1937)1月、智恵美誕生。

 戦後、父は三亀松と喧嘩別れで極貧生活。細々と進駐軍クラブでピアノ伴奏。某日、GIらが集う料亭でチエミが歌って大喝采。それを機に、小5から父と全国キャンプ巡り。昭和26年(1951)14歳、有楽座で初舞台。歌い方が同じだと笠置シズ子がクレーム。同年6月、母病没。その9日後にキングで『テネシー・ワルツ』レコーディング。一躍大スター。昭和28年に渡米、ロスの日本劇場で4日間、ハワイ国際劇場で公演。

 昭和31年(1956)に千駄ヶ谷へ。会報誌に記された〝ちえみ御殿〟説明文。「25年前に某伯爵(徳大寺侯爵?)が建て、その後に外人が長い間住んで荒れていたのを3ヶ月半の改修で新洋館へ。室内は天然色映画セットのようにカラフル。シャンデリア、応接間2、食堂、台所、風呂場、トイレ。2階は日本間と私の部屋2つと寝室他。3階は兄の部屋、客間など。外に蔵、物置と犬小屋、ベランダと広い庭、鉄扉とガレージ。家の真後ろが山手線で、向こうが明治神宮」。

 その頃に6歳上の新人俳優・高倉健と共演。恋に発展。健さん、チエミ御殿でプロポーズ。昭和34年に帝国ホテルで挙式。瀬田の新居完成までチエミ御殿2階暮し。瀬田の新婚生活は、両者共に芸能活動が忙しい。健さんはヤクザ路線、チエミはトップ人気独走。千駄ヶ谷で暮す父が、多紀子さんと再婚。

 昭和37年、亡き母・歳子の異父子A子が現る。結婚10年目に瀬田の健・チエミ邸が火災。健さん、役作りに家を長期留守にするなど、少しづつ二人の間に溝。そんな某日、チエミの貯金通帳残高ゼロ。A子が全財産を遣い込み、千駄ヶ谷邸も抵当。数億円の借財。(林真理子『テネシーワルツ』はA子の歪んだ羨望憎悪を書いているとか)。A子、横領罪で3年の刑。

 チエミは健さんに迷惑が及ばぬよう離婚。がむしゃらに働いて、千駄ヶ谷邸抵当はじめ借財全返済。昭和53年頃、父と多紀子の子・益己が高校生時代にエレキ熱中。近所に住む加藤登紀子が「(音は)遠慮しなくていいわよ」と言ったとか。

 そして昭和57年(1982)2月、チエミは高輪ヒルズの自宅で脳出血~吐出物で窒息死。45歳だった。今〝チエミ御殿〟跡はマンションが建っているらしい。彼女の『さのさ』『木遣くずし』『奴さん』を聞くと、柳家三亀松の粋、浅草、江戸の風情が浮かんでくる。チエミさんには、瀬田や高輪ヒルズや千駄ヶ谷よりも。下町がお似合いだったような気もする。

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『ワシントンハイツの旋風』(50) [千駄ヶ谷物語]

itirikihon.jpg 山本一力さんのテレビ出演を拝見すると、無理して〝江戸っ子ぶって〟いるような物言いが気になって、彼の時代小説を読む気にならないのですが、自伝的現代小説『ワシントンハイツの旋風』(2003年刊)を読んでみた。

 氏は昭和23年(1948)高知市生まれ。昭和37年に、ひと足早く上京した母と妹の落ち着き先へ。そこが代々木八幡駅近く「読売新聞」富ヶ谷専売所。配達員15名が2段ベッド暮し。先輩らは〝集団就職世代〟だろうか。「賄いのおばさんの息子」と紹介され、翌日から新聞配達をしつつ区立上原中学へ通った。

 妹がワシントンハイツを案内する。「真っ白に塗られたフェンスの先には、小高い丘が連なっており、その丘も緑の芝生におおわれていた。平屋の家が、その丘のなかに点在している。日曜日の午前中の陽を浴びて、芝生はこどもたちがキャッチボールを楽しんでいた。走っている車は、大型のアメリカ車。幌を外したオープンカーも何台か見えた」

 同僚の紹介で米国在住少女と文通。英語習得目的でハイツ内の英字新聞70部配達を希望。学校では目立たぬ少年も「赤い缶コーラ」を見せると注目を浴びた。都立世田谷工業高校(小田急・成城学園駅下車)へ。高1の7月、ハイツの東京オリンピック選手村建設工事開始で、ハイツ内の新聞配達は終わった。

 高校2年、失恋。彼女の母が自宅でピアノ教室。悔しさに奮起して代々木上原のピアノ教室へ通う。先生は16歳上の人妻。やがて二人は〝連れ込み宿〟で性を貪る。同書には新宿南口の旅館とあるも、その辺は林夫美子が大正11年頃に1日30銭で泊まった昔の旭町の木賃宿街。人妻利用の〝連れ込み宿〟なら、南口から新宿御苑・千駄ヶ谷門寄り、鳩森小学校辺りの旅館が相応しい。

 昭和41年(1966)、高校卒業後に「〇無線」に就職。人妻が手続き・支払いを済ませたT大近くのアパートが愛欲部屋になる。その後「銀座ヤマハ」(山野楽器かも)陳列ピアノを弾き、その演奏に併せ弾いた2歳上の銀行員とも〝連れ込み宿〟へ。人妻から仕込まれた性で、処女の銀行員はメロメロ。彼女の勧めで旅行会社へ就職。高度成長期の象徴・大阪万博の宿泊所不足に、ラブホテル利用を提案などで活躍。そして次の女性へ。

 代々木八幡やワシントンハイツで中・高時代を過ごした少年の性遍歴、四国の少年の一旗揚げるまでの成り上がり物語のようでした。次は千駄ヶ谷3丁目の豪邸に住んだ「江利チエミ評伝」を読んでみます。街々の歴史は共通でも、そこを通過する人も人生も、実にさまざまです。

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連れ込み旅館が消えた日は?(49) [千駄ヶ谷物語]

imamukasi_1.jpg 次に「代々木山谷」生まれの川本三郎『いまむかし東京町歩き』を読む。「千駄ヶ谷」項のリードに、鮎川哲也『憎悪の化石』を引用。「戦前は上品な邸宅街として知られたこのあたりは、いわゆる温泉旅館というものがたくさん建って、いまでは千駄ヶ谷と聞くと連れ込み宿を連想するほどになったことだった」

 そして本文。「中央線の千駄ヶ谷~代々木駅と、山手線の原宿~代々木駅間、この二つの線路を二辺とする三角形は、昭和30年代には連れ込み旅館(いまふうにいえばラブホテル)が多いところだった」。そしてこう続く。

 「当時、新宿の映画館のプログラムのうしろにはよくこの旅館街の広告が載っていた。いま手元にあるものを見ると〝千駄ヶ谷、原宿の森に、静もる閑雅清楚な優良旅館〟〝新宿からハイヤーで五、六分で参ります〟の惹句があって地図が添えられて、十軒ほどの旅館が紹介されている」

 「戦前は〝上品な邸宅街〟だったところが、戦後は〝連れ込み宿〟の町に変わってしまう。戦争が町を変えた。世代交代もあったろう」。そして最後に~「現在はもう旅館はない。直木賞作家、木内昇の『茗荷谷の猫』(平成20年)の終章は、東京オリンピック直前の千駄ヶ谷が舞台だが、主人公の青年の目にはおしゃれな古いスペインタイルの家は入っても、連れ込み旅館にはもう気付かない」

 さて、千駄ヶ谷の〝連れ込み旅館〟は昭和39年のオリンピック前の環境浄化運動~文教地区指定ですっかり姿を消したと思っていたが、映画評論家で横浜国立大大学院教授の梅本洋一氏(2013年、60歳没)のサイト「nobody mag」に、こんな記述が残されていた。

 氏がオリンピック翌年の昭和40年(1965)に東郷神社裏の公務員宿舎「東郷台住宅」に引っ越してきて、外苑中学編入の頃の思い出。「鳩森神社の側に住んでいたTくんの家は〝温泉マーク〟で、朝はベッドメイクをしてから学校に来るのでいつも遅刻だ。Tくんの家の近くには、Tくんの家と同じ〝連れ込み宿〟がたくさんあった」。そんな光景は、いつ頃まで続いていたのだろうか。

 山本一力の自伝的現代小説『ワシントンハイツの旋風』を読むと、高校2年(昭和40年頃)にして16歳年上の人妻と〝連れ込み旅館〟で愛欲を貪ったらしい。やはり千駄ヶ谷の〝連れ込み旅館〟は生き残っていたのだろう。

 小生には自慢する〝性体験〟もなく、千駄ヶ谷にも無縁・無関心だったが、山本一力氏は小田急線・代々木八幡で暮し、ワシントンハイツ内新聞配達をしていたとか。小生の高校時代は、放課後に代々木八幡駅前の級友某の屋根裏に屯ったり、部活ランニングコースがハイツ沿いだったこともあって、同小説を読んでみたくなった。

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連れ込み旅館街の記憶(48) [千駄ヶ谷物語]

hoterukanban_1.jpg 鳩森八幡神社隣の「将棋会館」ブログに、こんな思い出話が載っていた。同会館が東中野から千駄ヶ谷に移転してきた昭和36年(1961)頃は「(この辺は)都内でも有数の連れ込み旅館街で、その頃の古い建物を旅館と思って、二人連れが入ってきたことがあった」と。

 東京オリンピックの2年前、昭和37年当時の千駄ヶ谷〝連れ込み旅館街〟について、梶山季之が『朝は死んでいた』(文芸春秋新社刊)で、概ね次のように書いていた。

 「代々木・千駄ヶ谷といえば、体育館や野球場のある神宮外苑所在地としてよりも、むしろ〝温泉マーク〟の代名詞として、東京のサラリーマン達には親しまれている。現在では、この界隈に数百軒の旅館がひしめき、お客の争奪戦をくりひろげている。各室バス、トイレ付きは常識で、なかにはホテルに較べて遜色のない豪華な施設をもった旅館もある。冷暖房はもちろん、室内にはテレビから電気冷蔵庫まであり、百円硬貨を入れるとチリ紙、衛生サック、強精剤がワンセットになって転がり出す器械まで置いているところも決して珍しくない。いわばデラックスな情事が、その密室の中で楽しめるようになっているのだ。しかも客は夜ばかりではなく、朝のうちから訪れてくる傾向にあるそうだから〝温泉マーク〟は大繁盛である。午前中にやってくるのは人妻と学生(後で記すが、山本一力の自伝的小説に、高校生の時に16歳年上の人妻と連れ込み宿を利用していたことが書かれている)、歌手とか映画俳優といったカップルだそうだ。〝昼下がりの情事〟を楽しむのは重役と秘書。若い高校生たち。夕方から午後十時頃まではBGとサラリーマン、商店主と女事務員~~」

 なべおさみ著『やくざと芸能と』にも、こんな記述があった。「家を出た19歳(昭和33年頃か)の私が部屋を借りた場所は千駄ヶ谷でした。ここは隣接する代々木、原宿と肩を並べた日本最高級連れ込み宿ホテル地帯でした。公務員の初任給が9200円の時代に、1泊1万円の部屋が幾らでもあるのです。その一画の四畳半でラジオの構成台本なんかを書いていると、旅館の玄関がチリリンと鳴って~」

 昭和30年代の日本人の欲望は、どうかしていたような気がする。小生は東京オリンピック期間は東京脱出して伊豆で遊んだ。3年後に社会人。デザイナーとして制作会社に2年間勤務後、昭和44年にPR会社へ転職した。入社直前に梶山季之が『チャスラフスカを盗め』を発表。キレ者社長率いるPRマンらが、大手広告代理店らを相手に、東京オリンピックの名花=ベラ・チャフラフスカ再来日時にCM代理権をトリッキーな展開で獲得した物語。小生は同社を2年後に退社で、以後はフリー人生。梶山季之に憧れたわけじゃないが、某週刊誌の某アンカーマンのデータマンを短期間だけ勤めたこともあった。

 写真は昔の〝連れ込み旅館街〟だった頃の名残だろう、鳩森八幡神社近くに営業を辞めたホテル看板が一つだけ〝何かを主張するように〟遺されている。

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鳩森小学校周辺の実態(47) [千駄ヶ谷物語]

IMG_1076_1.JPG 次に朝日新聞縮刷版で、昭和32年(1957)2月22日の「温泉マークから子供を守ろう/浄化に父兄ら立上る/千駄ヶ谷鳩森小/衆院委でも実態調査」見出しの記事を見つけた。

 「鳩森小」は度々記すが、鳩森八幡神社そばではなく、新宿御苑の千駄ヶ谷門の前辺り。記事のリード文の概ねの内容~

 3月20日の衆院文教委で取り上げられた同小学校の環境調査のため21日午後、文部省2名、都教育庁の3氏が同校を訪ね、関係者から実情を聞いた。温泉マークの旅館32軒(別に建築中2軒)に取り囲まれ、昨年11月には正門も閉鎖。いまPTA代表が環境浄化に立ち上っている。この日も婦人たちはエプロンにタスキ姿で、立ち並ぶ旅館地域に浄化運動のビラを貼り、代表は原宿署を訪れて実情をうったえた。

 写真は同小学校付近でビラを貼るPTAの母親たち。本文で校長による説明が紹介されていた。「放課後の児童の教育が危なくなっている。この一帯は昼間の〝休憩〟が多く、ゲイシャ、女給などをつれてかくれ遊びをする中年が多く、あけすけな態度を平気で見せる。夜になるとマンボ族が交代して現われ、外苑通りに抜ける国鉄ガード下がとくにひどい」

 校長は説明後に二階角の3年1組の教室に案内する。窓のすぐ前に旅館の部屋が接している。4月の売春法実施を前に、新宿の靑線地帯がこの辺に流れこんでくる恐れがあると危惧する。

 次に国会資料。昭和32年3月5日参議院会議録がネットでヒットした。「第026回国会、文教委員会第8号」に「日本こどもを守る会」副会長で社会評論家・神崎清、鳩森小学校PTA会長が参考人で出席し、概ねこう述べていた。神崎清氏は小生も読んだ『実録 幸徳秋水』の著者だろう。

 「千駄ヶ谷は第二の玉ノ井である。千駄ヶ谷というとニヤリと変な顔をされる。千駄ヶ谷、原宿、代々木で114軒のこの種の旅館〝さかさくらげ〟がある。この温泉マークは組合の申し合わせで鳩森小周辺は撤去されているが、ほとんどがアベック旅館。千駄ヶ谷のアベック旅館は二千円から高級なのが三千円。女性を連れたアメリカ兵利用は鳩森、千駄ヶ谷のアベック旅館利用だったが、現在は減ってアメリカ兵利用は5、6件で~」

 「鳩森小学校」の通学区域は、新宿御苑・千駄ヶ谷門まえの千駄ヶ谷5丁目、東京体育館や鳩森八幡神社辺りの千駄ヶ谷1丁目、北参道までの千駄ヶ谷4丁目。

 さて〝連れ込み旅館街〟の当時の地図や写真は~。戦前の店舗名入り詳細地図はあっても、当時の記録は一切なし。嫌な過去は隠蔽したいのが人情。いま話題の「将棋会館」サイトの将棋ペンクラブの思い出記に、こんな文があった。

 「昭和36年(1961)に東中野から千駄ヶ谷に移って来た当時は、都内でも有数の連れ込み旅館街で、当時の古い建物を旅館だと思って二人連れが間違えて入ってきたことがあった」。当時は鳩森八幡神社周辺も〝連れ込み旅館街〟だったと推測される。また近くに当時を偲ばす「ホテル看板」がひとつ~。次に〝読み物〟から当時の様子を探ってみる。

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ハイツの独身兵舎問題(46) [千駄ヶ谷物語]

heisei1nen.jpg_1.jpg 駐留米兵の性の、巷への拡散例として昭和28年の代々木山谷の米兵相手のホテル検挙を挙げた。そんな折にワシントンハイツ内に「独身兵士宿舎建設」計画が物議をかもした。

 これは、かねてより渋谷区に小中学校が少なく、同ハイツ参宮橋寄りの地を払い下げてもらっての学校建設計画が期待されていた矢先のこと。同宿舎によって更なる風紀の乱れを危惧した父兄(山谷小、代々木小)や神宮崇敬婦人会らが立ち上った。それが「代々木基地反対運動」。

 神宮崇敬婦人会・会長は鷹司綏子さん(徳川家達次女)。夫の明治神宮・宮司の鷹司信輔氏は以前から「明治神宮内苑・外苑に米兵使用済避妊具が捨てられている」と苦言。しかし周辺住民の反対運動空しく、昭和30年(1955)に14棟の米兵独身宿舎が竣工・入居。

 上記を紹介する秋尾沙戸子著には、こんなデータも記されていた。代々木、千駄ヶ谷、原宿辺りの連れ込み旅館は昭和22年に数軒、26年に60軒、28年に75軒、昭和32年には102軒。米兵相手の売春婦検挙も比例増加。だが、この急増は当然の推測として、日本人同士の〝連れ込み宿〟急増が含まれよう。

 ここで昭和41年刊「新修渋谷区史(下巻)」をひもといた。昭和32年2月の「文教地区指定の要望書」が掲載されていた。概要は次の通り。「最近区内に温泉マークの旅館、ホテルが急増し、その数は246軒に及び、そのうちの約半数の100軒が千駄ヶ谷、代々木、原宿近くに集結。該当地区には鳩森小学校、山谷小学校、代々木小学校、神宮前小学校、千駄ヶ谷小学校、外苑中学校があり、これら学校は旅館、ホテルに取り囲まれる状態であり、鳩森小学校の如きは真ん前に旅館建設で正門を閉じざるを得ぬ状況」と現状を訴えて「学校周辺を第1種文教地区、その他を第2種文教地区に指定すべく特段の処置を講ぜられる様お願い申し上げます」

 その結果。昭和32年4月に文教地区指定が決定。これには昭和33年(1958)年のアジア競技大会、翌年に5年後の東京オリンピック開催決定も反映したと考えられる。写真は国土交通省公開のワシントンハイツ写真。参宮橋寄りに独身宿舎兵14棟がはっきりと写っている。次は千駄ヶ谷4丁目「鳩森小学校」の環境浄化運動について。

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米兵の性が巷に拡散(45) [千駄ヶ谷物語]

IMG_1074_1.JPG 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』に、昭和28年(1953)の「時事新報」記事が紹介されていた。

 「代々木署では20日午前6時、警視庁保安課の協力で渋谷区代々木山谷125ホテル・パリーこと〇〇(31)宅を急襲、住所不定無職〇〇(20)ら16名を売春現行で、〇〇を場所提供の疑いで検挙した。調べによれば同ホテルは1ヶ月ほど前から新築開業し、19の豪華な部屋をもち駐留軍相手の連れ込み専門で外部から室内のみだらな行為が丸見えなので、地元PTAなどから非難があがっていた」(同書は実名)

 同番地は新宿南口「文化服装学院」の裏側。「代々木小学校」(平成27年閉校)から西南側裏を流れる「原宿村分水」越しに見えたホテル窓の痴態と想像した。同地区には「山谷小学校」もある。年代から朝鮮戦争(昭和25年~28年・1953)帰りの帰還兵の〝性〟と推測した。

 小生は昨年、岸田劉生「切通之写生」現場と旧居巡りで、同地域をポタリングした。劉生は新婚所帯の妻実家・西大久保(新宿・鬼王神社辺り)から、代々木山谷117番(検挙ホテルは125番地)へ移転。大正4年頃に有名な「切通之写生」など一連の〝赤土風景〟を描いた。つまり郊外から振興住宅地化へ関東ローム層掘り起こしの工事現場風景。急速に都市化される様相が描かれたことになる。

 大正前、明治時代の同地区は畑の中にぽつんぽつんと一軒家。明治39年に田山花袋が移転してきて、終焉の地とした。当時は「文章世界」編集主任。激務後に閑静な自宅に戻って『蒲団』や東京変遷の様子を記録した『東京三十年』などを執筆。昭和5年没だが、その後の代々木山谷に米兵相手の連れ込みホテルが建ち始めるとは想像も出来なっただろう。

 また「山谷小学校」近くには日本画の菱田春草、「春の小川」作詞の高野辰之も在住。西参道の向こう側(現・代々木4丁目)には散歩の達人・川本三郎が生まれている。1歳の時に内務官僚の父が広島赴任中に原爆で死亡。川本は杉並育ちになった。

 米兵らの〝性〟はさらに拡大浸食。秋尾著には「代々木基地反対住民運動」詳細も記されていた。反対運動参加者の声として「山谷はかつて陸軍将校の屋敷町でした(ワシントンハイツ前の代々木練兵場関係だろう)。文士も画家も住んでいた(前述通り)。山谷小学校は〝山の手の学習院〟とまで言われ、PTAや卒業生には社会意識の高い方が多かった。代々木基地反対運動を始めたのも、そうした山谷の婦人会の皆さんです」。

 上記説明の手描き地図を描いたが、文字が小さ過ぎた。クリックして下さい。次は「代々木基地反対運動」とは~。

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GHQの〝性とツツガムシ〟(44) [千駄ヶ谷物語]

hikari_1.jpg GHQによる影響は、ファッションや音楽よりまず先に日本に大影響を及ぼしたのが〝米兵らの性〟だった。秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』のこんな記述に驚いた。

 「都民生局保険予防課長」の与謝野光が「GHQから東京の将校用、白人用、黒人用の性処理場3カ所の選定及び性病予防を仰せつかった」。あぁ!与謝野光と云えば、同氏の思い出本(左)から与謝野晶子・寛夫妻の「新詩社・明星」千駄ヶ谷時代を紹介したばかり。

 婦人解放を詠った母の長男ゆえ、その任に当たった気持ちはいかばかりや。当時の米兵らの性処理施策は二つ。一つは国務大臣・近衛文麿中心の日本政府施策として大森海岸の料亭「小町園」はじめの慰安所(ゲイシャハウス)設置。同ハウスに群がる米兵無数。仕事内容を知らずの応募女性もいて、眼を耳を被いたい悲惨・修羅場の展開。大金を稼いだ女性もいたとか。余りの凄さに7ヶ月ほどで閉鎖らしい。

 もう一つの施策がGHQプロジェクト。GHQに呼び出されたのが与謝野光課長。将校用に向島、芳町、白山の3地区。白人用に吉原、新宿、千住。黒人用に亀戸、新小岩、玉ノ井を選定。だがこれも米国本土の婦人団体などの抗議で1年半ほどで幕を閉じた。光氏「ペニシリンが実によく効いた」と言ったとか。

 行政主導の性処理慰安施策が閉鎖されれば、彼らの性は巷に及ぶ。米兵らに抱かれ、腕を組む女性たちが街を闊歩する。HGQは占領軍兵士の半減を打ち出すも朝令暮改。昭和25年に朝鮮戦争勃発で再び多数兵士が日本へ押し寄せた。

 かつて久保田二郎(ジャズ評論家)が「自由が丘、田園調布、成城なんぞ二流、三流のたかだか文化住宅地に過ぎず」とまで言った千駄ヶ谷邸宅街は、空襲後の復興時期にGHQの性に一気に呑み込まれて「千駄ヶ谷=連れ込み旅館街」となる。

 その性の浸透過程を探りたいが、その前に与謝野光のフォローもしておきたい。GHQ要請に命を張って拒否も出来たかも知れぬが、氏の経歴を見ると「〝七島熱〟研究で表彰」ともあった。〝七島〟と云えば伊豆七島。大島に多少の縁あるゆえ調べると「伊豆七島のツツガムシ病の研究」らしい。七島のツツガムシ(ダニ)特性の研究で、他と比較して症状は軽く、伊豆大島では「大人のハシカ」と呼ばれていたとか。その研究が島民の健康に寄与したことに間違いはなかろう。

 小生は昨年、1年間放置のロッジ庭に繁茂した大雑草と格闘して、脛が酷くかぶれた。新宿に戻って皮膚科へ行けば「草かぶれ」でペニシリン系だろう薬をいただきひと塗りで治った。「草かぶれとツツガムシ」の関係やいかに。次から米兵らの性が巷に拡散する様子を探ってみたい。

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こころはいつもギャルソンヌ(43) [千駄ヶ谷物語]

mikabon_1.jpg ここはやはり藤原美智子『こころはいつもギャルソンヌ』を読んでみたい。同書は渋谷中央図書館にあり。第1章「焼け跡に立ち上がる」に、青山「ミカ・シスターズ」のことが記されていた。まずは著者が「ワシントンハイツ」に出入りするまでの経緯概要~

 藤原美智子は大正4年1月19日広島生まれ。「子供の頃、大八車に野菜を積んで売りに来ていた農家に誘われて遊びに行ったら、ピアノがあり、タイプライターを叩いたので驚いたことがある」。海外移住・留学が盛んだった広島。それは「ミカ・シスターズ」店舗設計・西村久二の父らの紀州と同じ。大逆事件で処刑された大石誠之助が西村伊作と作った「太平洋食堂」も、今のカフェのようだった。

 美智子は県立高等女学校卒後、昭和7年(1932)上京。教師養成の東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)へ。入学年が上海事変、翌年が国連脱退。皇室史観の授業に失望して、学校をさぼって文学書に親しんだ。「日本工房」(名取洋之助代表)の写真、デザインワークに惹かれた。

 昭和10年(1935)、クラスの卒業アルバム制作委員になると、お金もないのに同社へ長談判。ボランティアで事務所の掃除。カメラマン応募に火の玉小僧みたいな土門拳が面接を受けに来た。卒業アルバムのクレジットは撮影:名取洋之助、土門拳。装丁:山名文夫。編集:熊田五郎。

 小生の社会人最初がグラフィック・デザイナーゆえ、「日本工房」への憧れがあった。美智子は女高師卒後の義務で、広島から鈍行3時間の城下町の県立女学校教師へ。「坊ちゃん」的日々を耐えて帰京。今度は社団法人「外政協会」勤務。元・国連協会だが脱退後に名を変えた協会で、軍国主義の世にあってリベラリストが集う隠れ家のようだったとか。

 昭和20年(1945)、広島に原爆投下。父が石灯籠の下敷きで死亡。母は行方不明。妹・和子を連れて東京へ。再び学校へ。アメリカ佐官級カップルを招いた懇親パーティーの日本側女性として同校が美智子を推薦。パーティーが重なるうちにアメリカ人家庭に招かれたり、相談相手になったり。そこで彼女らがドレス仕立ての人を求めているのを知って、縫製得意の和子と組んでワシントンハイツ内を走り回ることになる。

 余りの忙しさに「そうだ、店を構えればいいんだ」。昭和25年(1950)、焼け野原の青山1丁目交差点近くに7坪の物件を35万円で契約。店舗設計・西村久二、ロゴデザイン・大智浩。ここから推測するに、彼女は再び「日本工房」関係ルートの友人に応援を頼んだような気がする。実はその辺の若者らの交流詳細が読みたかったのだが、同書には〝友人〟とだけしか記されていなかった。

 ともあれ、同店は「スタイル誌」の〝ミカ特集〟などで大人気。彼女は既製服事業へ乗り出して大成功と経営挫折から、大手のアドバイザーなどで活躍。青山・原宿のファンション街化のそもそもに広島原爆、「日本工房」スタッフ、西村伊作(文化学院)系の交流などがあったことを知っただけで了とする他はない。写真は『こころはいつもギャルソンヌ』の口絵。次回からはGHQから広がった性風俗について~。

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ファッションの街誕生秘話(42) [千駄ヶ谷物語]

matuyapx_1.jpg 千駄ヶ谷にはアパレル個人企業が密集している。アパレル大手が集う青山・原宿に近く、ミニ物件が多く家賃も手ごろゆえだろうか。ネットに平成16年(2004)頃の「高橋靖子の千駄ヶ谷スタイリスト日記」があった。拝見すると「川村かおり、西田ひかる」の名が度々登場していた。

 余談だが、小生は両者のデビューに少し関わった。西田ひかるのレコード会社デビュー会議にJASキャンペーンガールの胸豊かな水着姿の新聞広告が示され、小生「お色気を抑えて」と発言し、デビュープロモート計画書を書いたと記憶している。川村かおりデビュー・パンフも作ったと思う。

 2004年ならば、川村かおりは他社移籍後で、その後に癌で亡くなった(享年38)と知って愕然とした。また同ブログには原宿の喫茶店「レオン」や「セントラルアパート」が登場。まだ店も少ない竹下通り奥に友人イラストレーターの事務所があって、打合せは「レオン」だった。セントラルアパート通勤の友人もいた。その後に同潤会アパートの某バンド事務所を訪ねたことある。

 だが原宿・青山辺りにファッション系企業が根付いたのは、そんな時代よりずっと前~のような気がする。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』に、概ねこんな記述があった。

 同ハイツの将校夫人らがPXで購った洋服生地でドレスをオーダーする。藤原美智子・和子の妹・和子がデザイン担当で、外務省外郭団体で働いていた姉・美智子が営業。二人は広いハイツ内を注文、採寸、仮縫いで日々歩き廻っていた。そのうちに店を構えた方がいいと、焼け野原の青山1丁目交差点際に「ミカ・シスターズ」を開店。ガラス張りショールームの店設計が西村久二、店名ロゴが大智浩。店の前にアメ車がズラッと並んだ。

nisimuraisaku.jpg PXで購入の生地を持ち込む、米国カタログ販売「シアーズ」で得たドレスのサイズ直し、そのうちに米軍関係者と仕事をする日本女性らも同店でドレスを注文。かくして周囲にファンション系店舗が増えて行った。後に藤原美智子は日本女性向けの既製服事業に乗り出す。

 ここで注目は、店設計が西村久二ということ。彼の父は西村伊作。伊作の父は大石余平。余平夫妻は濃尾地震で自身の教会崩壊で亡くなった。余平弟で医師・大石誠之助が余平夫妻の長男・伊作を育てた。大石誠之助家の近所に5歳年長の医師・佐藤春夫の父がいて、大石&伊作の「太平洋食堂」に佐藤春夫も集っていた。

 洋行帰りの誠之助が、社会主義啓蒙「家庭雑誌」に〝洋食紹介〟を執筆。そんなつながりで明治43年「大逆事件(幸徳事件、12名処刑)」の紀州グループ長として誠之助も逮捕され東京へ連行(のち処刑)。伊作は弟・真子がロス留学から持ち帰ったオートバイで誠之助の後を追って上京した。

 大正10年、西村伊作は神田に文化学院を創設。文化部長に佐藤春夫が就任。千駄ヶ谷で『明星』最盛期を築いた与謝野晶子・寛夫妻も参加。伊作没後の理事長に、仏国で建築を学んだ西村久二が就任。その彼(留学前)が「ミカ・シスターズ」店舗を設計。青山・原宿のファンション街化のそもそもに、大逆事件の系譜を覗き見て興味深かった。確か幸徳秋水の最後の家も、昔の千駄ヶ谷5丁目だったはず。西村伊作に関しては、左枠マイカテゴリー「佐藤春夫関連」に詳しい。写真上は銀座松屋「TOKYO PX」(国会図書館デジタルのモージャー氏撮影より)。写真下は西村久二の父・西村伊作伝『きれいな風貌』(黒川創著)。

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焼け跡に日野皓正のトランペット(41) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0998_1.JPG 日野皓正、昭和17年、高円寺生まれ。昭和20年(1945)に疎開先の盛岡から焼け跡・千駄ヶ谷5丁目の親戚所有地に建てたバラックで戦後生活開始。(山手線と中央線に挟まれた一画か?)

 「焼け跡・千駄ヶ谷には未だ誰も住んでいなくて、富士山がよく見えた」。ワシントンハイツ竣工後で、バラック前に米軍接収の1軒家があった。皓正少年は同家のブッチ少年と交流。日野の父は戦前の日劇タップダンサーでトランぺッター。ブッチ少年は日野の父からタップダンスを習い、皓正も5歳からタップシューズを履き、父から厳しく仕込まれた。

 鳩森小学校に入学、(その名から「鳩森八幡神社」傍と思われるが、中央線の向こう側、新宿御苑の千駄ヶ谷門前。同小学校の通学圏は東京体育館、鳩森神社周辺の千駄ヶ谷1丁目、北参道駅周辺の千駄ヶ谷4丁目を含む)。トランペットの練習は小学3年、9歳頃から。父の古いトランペットで、学校へ行く前の30分、放課後に2時間、そして、父がキャンプやキャバレーの仕事から帰宅後の夜12時頃にまた練習。

 後のNYで活躍のベーシスト・中村照夫少年が、日野少年の〝河原〟での練習音を耳にしていたとか。最初は渋谷川と思っていたは、当時を思えば玉川上水が現・新宿南口の文化学園辺りから千駄ヶ谷へ「原宿村分水」が2本も流れ込んでいたゆえ、その河原と推測した。(あぁ、中村照夫ライジング・サン・バンドのレコードを持っていたような~)

 皓正少年は、練習より遊びたい。東郷神社の池で泳いだり、明治神宮の池で鯉を釣ったりの悪戯盛り。中学生になると代々木寄りへ移住だが、弟・元彦と共に馴染の地、外苑中学校(現・明治通り内側に千駄ヶ谷小学校で、山手線側に原宿外苑中学校)へ入学。

 父がタップで、弟がドラムスの「日野ブラザース」でワシントンハイツに出演。皓正少年は〝見世物はイヤだ〟と荷物運び。この頃に「原信夫とシャープス&フラッツ」のトランぺッターがカッコよく、それを見たことで練習に熱が入る。日系2世のディ―プ釜萢の新宿(大久保)の「日本ジャズ学校」(昭和25年設立)や、千駄ヶ谷に出来たジャズ学校へ通い出す。

 昭和28年(1953)、父に連れられて「浅草国際劇場」公演のルイ・アームストロングを観た。前座はフランキー堺のバンドだった。次第に腕を上げてワシントンハイツから成増、立川、朝霞などのキャンプに出演。中学生で早くも新宿のキャバレー「リド」にも出演。佐藤勉に師事・修行。

 日野皓正の少年時代を例に挙げたが、戦前からのジャズマン、戦中生まれの多くのミュージシャンたちが、かく米軍キャンプや米国文化に触れつつ、戦後日本のジャズや、ポピュラー音楽のブームを興して行ったことは衆知のこと。またワシントンハイツ在住の日系アメリカ人、ジャニー・ヒロム・キタガワが、同ハイツ内の「ジャニーズ少年野球団」に代々木中学校野球部の飯野修實、真家弘敏、青井輝彦、中谷良三が通って来たことから最初のユニット「ジャニーズ」誕生。アイドルもまた同ハイツから生まれたと言ってもいいでしょう。

 以上、日野皓正については、小川孝夫著『証言で綴る日本のジャズ』、秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』、ネットに多数アップのインタビュー記事からの再構成です。

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ワシントンハイツの影響(40) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0981_1.JPG 「ワシントンハイツ」のアメリカ文化が日本へ与えた影響は大きかった。小生の高校時代の部活ランニングコースに「ワシントンハイツ」フェンス沿いがあったことを思い出す。同ハイツ接収は東京オリンピック前年まで続いた。

 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ~GHQが東京に刻んだ戦後』序章は、著者が西麻布1丁目の木造アパートに住み始めて、突然の爆音に驚いたことから書き出されていた。今も接収が続く米軍ヘリポート(六本木トンネル辺り)の離着爆音だった。

 同書から「 ワシントンハイツ」の概要をまとめる。敷地面積27万7千坪。工事費8億円は全額日本の賠償金。工事従者延べ216万7千人。工事を請け負ったのは鹿島建設、清水建設、戸田建設。

 安普請の低価格住宅は家具付きで827戸。平屋一戸建て、平屋及び二階建ての二戸建て、二階四戸建て。間取りは9種。ガスレンジ、ガス瞬間湯沸かし器、電気冷蔵庫、バス、シャワー、水洗便所、電気暖房装置など。加えて学校、教会、ガスタンク、消防署、クラブ、三つの野球場、テニスコート2面、ヘリポートなど。芝生5万8千坪、立木1万3千本などで整えて昭和22年(1947)9月に竣工。

 「白洋舎」がドライクリーニング、ランドリー工場設立命を受けて大躍進。東京では他に成増飛行場跡に「グランドハイツ(1267戸)」、永田町の閑院宮邸跡に「ジェファーソンハイツ(70戸)」、霞が関に「リンカーンセンター(50戸)」が竣工。娯楽面では日比谷・宝塚劇場が「アーニ―パイル」劇場へ。同劇場についてはカテゴリー「ミカドの肖像」で詳細報告済。

 これら米軍接収施設の米国文化が日本に及ぼした影響は多大。米軍キャンプ巡りのミュージシャンらが日本にジャズ旋風を、また歌謡曲、ポップスを盛り上げた。ハイツからアイドル・ジャニーズも生まれた。ハイツ将校夫人らのアメリカン・ファンションが、焼け跡の青山・原宿をファッション拠点化した。「青山・紀ノ国屋」が米国式スーパー・マーケット第1号。米兵らによる性風俗も様々に影響した。

 一方、日本の極貧環境による疫病防止にGHQによるDDT散布。大量飢餓防止に諸国から集められた対日援助物資(ララ物資)が支給され、日系人からの救済400億円援助。欧州の困窮者支援団体から180億円などが続々寄せられた。昭和21年、都内89校を手始めに脱脂粉乳はじめの学校給食が開始。小生も脱脂粉乳の味を覚えている。

 次に米軍接収施設が日本に及ぼした音楽、ファッション、性のそれぞれについて調べ記してみたい。

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天皇の戦争責任(39) [千駄ヶ谷物語]

syowatenno_1.jpg 『東京プリズン』の米国ハイスクール留学のマリちゃんのために、小生も「天皇陛下の戦争責任」について少しお勉強。まず『「東京裁判」を読む』から~

 半藤「ポツダム宣言は軍隊の無条件降伏で〝国体護持の保証を条件に日本国は降伏する〟と言っている」。保坂「つまり〝天皇を裁かない〟が条件」。半藤「だが国民は余りに愚か・残酷な戦争ゆえ〝何もかも糞くらえ〟の気分」。保坂「国体護持には三つの考えがあった。(1)旧憲法のままの形で継承。(2)旧憲法から離れるも天皇が主権者・元首は変わらない。(3)天皇の名前と存在が認められればそれでいい。

 半藤「天皇はマッカーサーと10回も会談。まさに〝たった一人の反乱〟で(3)まで頑張った」。保坂「裁判所条例を出したのが昭和21年1月19日。天皇を訴追しないと決めていた」。半藤「ゆえに御前会議にはふれていない。共同諜儀になりますから」。保坂「天皇を訴追したら米国は百万の軍隊が必要になるという認識もあった」。同書余白に小生のメモ。~米国は防共の為に天皇制を利用し存続させた。また同書には真珠湾攻撃は奇襲ではなく、半藤「ルーズベルトもハルもマーシャルも事前に知っていたから、奇襲と云えば米国が墓穴を掘るゆえ有罪認定から外れていた」

 次に古川隆久著『昭和天皇』(写真)を読む。第五章「戦後」。「木戸日記」に概ねこんな記述があると紹介。。天皇「戦争責任者を連合国に引き渡すのは忍び難い。自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」。天皇は責任を感じていたが、木戸が「退位が皇室廃止に結びつく可能性」を指摘し、退位に至らなかったと。

 9月25日のNYタイムズの天皇インタビューで「裕仁、記者会見で東条に奇襲の責任を転嫁」の見出しで掲載。だが天皇発言とされる東条批判部分は、勅書の利用のされ方についてで、開戦判断の責任についての言及ではなかったと説明。

 天皇・マッカーサー会見10回の内容は、一部公開のみだが、その内容は「宣戦布告前に攻撃する意図はなかったが、そうなったことを含め、日本の行動に対し自分に最終的な責任があると明言していた」らしい。マッカーサーは「陛下が平和の方向に持って行くため御軫念(しんねん=天子が心を痛めること)あらせられた御胸中は、自分の充分諒察申上ぐる所」と同情。元帥側近のフェラーズ准将は「天皇の君主としての責任は明らかだが、天皇の〝聖断〟で米国被害を減らすことができた」。そして「天皇を訴追したら、さらに百万の軍隊が必要になる」。

 以後は、各自のお勉強にお任せ。なお同著には、昭和天皇批判論は井上清著『天皇の戦争責任』、擁護論は栗原健著『天皇』が定評高いと紹介。マリちゃんに教えてあげよう。それにしても千駄ヶ谷は、かくも様々な問題を考えさせます。次回から「ワシントンハイツ」の影響について。

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東京裁判と「原田日記」(38) [千駄ヶ谷物語]

saiban2.jpg_1.jpg 徳川宗家が慶喜から家達に代わって、家達邸がGHQ接収で将校クラブ「マッジ・ホール」へ。小説『東京プリズン』では主人公・母が同所出入りで「東京裁判」資料下訳をし、娘は米国高校で「天皇の戦争犯罪」肯定のディベートに臨む。そして戦前の千駄ヶ谷のお屋敷住人らに「東京裁判」関係者が多いと知って千駄ヶ谷物語〟は「東京裁判」お勉強が強いられている。

 前回の続きです。第3章:弁護側立証を読む ~の鼎談で井上亮「弁護側が出した文章は公文館所蔵約2130件、頁数約15000。だが焼却を免れた資料ゆえ証拠能力に乏しかった」。清瀬副団長の冒頭陳述について保坂「彼の能力では無理だった。〝共同諜議〟の概念が分かっていなかったのではないか」。半藤「御前会議が共同諜儀にあたると思い当たっていたのではないか。それより欧米列強に圧迫、屈辱を受けてきたアジア諸国の歴史を代表して語れば良かったんだ」。さらに「そもそも国民や民間は、軍部が何を考えていたかなんて知らなかったし、軍事的知識もなかった」と弁護力不足を指摘していた。

 そして三人の同意見「ポツダム宣言受諾時の首相・鈴木貫太郎が『終戦の表情』で、天皇の意思に反して陸軍が誤った侵略戦争をしたと記しているのだから、彼に発言させたかった」。また三者は繰り返して「勝者の無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下などを列挙すれば〝日本人は残虐〟だなんてレッテル付けも出来なかったはず」と悔しがる。

 以降は、第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄~と続くが、〝千駄ヶ谷〟からどんどん離れるので、この辺で止める。最後に鳩森八幡神社の隣で在住だったジャズ評論家・久保田二郎著が「僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊雄男爵家」とあったので「原田日記」について記す。

 「東京裁判」の個人弁護段階で、検察側の反証材料で突然に「原田日記」が登場する。185件提出で140件も採用。同日記は最後の元老・西園寺公望のために私設秘書・原田熊雄が動き回って情報収集した「西園寺公と政局」と題された記録。原田が近衛秀麿夫人(泰子)を筆記役に口述。原田没後に里見弴(原田の親戚)が原稿整理。加筆もあろうし不正確情報もあったらしいが、400字×7千枚の膨大日記。

 原田は皇室や宮廷官僚とはいい関係も、政治家や軍人関係の話は〝また聞き〟が多かった。軍部は同日記を危険視。東条英機も原田を毛嫌いしていたとか。裁判では『原田日記』と『木戸日記』では違った記述があって、両日記比較による反証が多かったらしい。

 なお『西園寺公と政局』は全8巻・別巻1セットで岩波書店刊。『木戸幸一日記』は上下巻で東京大学出版会刊。両日記を較べ読むのがいいそうだが、小生にはそこまで読む気力がない。最後に米国高校で「天皇の戦争犯罪」ディベートに立つマリちゃんのために、その辺も少し勉強してみたい。写真は東京裁判被告写真(国会図書館デジタルより)

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『「東京裁判」を読む』(37) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0991_1.JPG 『「東京裁判」を読む』は第1章:基本文書を読む 第2章:検察側立証を読む 第3章:弁護側立証を読む 第4章:個人弁護と最終論告・弁護を読む 第5章:判決を読む 第6章:裁判文書余禄。そして各章毎に半藤一利・保坂正康・井上亮の鼎談で構成。

 三者は冒頭で「裁判記録が60年余(2008年)後に公開されて、今は従来の〝東京裁判史観〟軸の政治的解釈ではなく、歴史的に捉えるべき(史実検証)時と確認し合う。かつ東京裁判は〝勝者の裁き〟で、勝者も無制限潜水艦戦、無差別大空襲、原爆投下、さらにはベトナム戦争など〝戦争犯罪〟を裁ける立場ではなく、東京裁判を受けた日本人こそが裁判批判可能と語る。

 それにしても「裁判記録を読むほどに、日本人は無知過ぎた」と三者は嘆く。無理もない。国民も一般兵も耳にするのは〝大本営発表〟のみ。さらに終戦同時に軍部(マスコミも)は戦争資料を徹底的に焼却し尽くした。ドイツ文書は保存されているも、日本人は歴史に対する責任皆無。これでは弁護ができるはずもない。法務省地下倉庫に30年余も眠ったままで、国立公文書館へ移って公開された資料は、焼却を免れたものばかり。いきおい『高松宮日記』『原田日記』『木戸日記』などがクローズアップ。公文書破毀、隠蔽、改ざん~ 現在の日本行政も余り変わっていない。

 第1章:基本文書を読む ~の鼎談では「東京裁判」はポツダム宣言(軍隊降伏で、国家は無条件降伏ではない)を根拠で行われたマッカーサー裁判。同元帥は天皇を訴追しない、東條と数人を裁いて終わりの予定だったが、ニュルンバルク(ドイツ)裁判の「平和に対する罪」「人道に対する罪」を採用したことで訴追対象が拡大したと指摘。

 第2章:検察側立証を読む ~の鼎談ではA級(級=カテゴリー)で百人余も逮捕するも、冷戦開始で裁判どころではなくなってA類戦犯28名に止まった。メインの南京事件も資料なしで証言だけ。20~30万人説もあるが半藤は3万人で、秦郁彦調べでは4万人とか。先日(5月13日)、BS日テレNNNドキュメント’18で「南京事件Ⅱ」の再放送を見たが、兵士インタビューや焼け残った資料からの再現映像があって、観ていて鳥肌が立った。

 半藤「日本は中国と何のために戦争をしているのか分からなくなって政府発表した。それが<日中戦争の理想は我国肇国に精神たる八紘一宇の皇道を四海に宣布する一過程として、まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり>。何年か前に、若い女性タレント議員が国会で「八紘一宇は大切な価値観」と言ったニュース映像が流れ、腰を抜かしたことがあった。

 またこんな記述もあった。保坂「東条は国際法を知らない。無茶苦茶です」。半藤「当時の日本の指導者には国際法の知識がなかったんですよ。みんな〝夜党自大〟であった」。保坂「東京裁判の怖いところは、被告たちの証言で彼らの無知、愚かさが浮かび上がってくるところです」。おぉ、怖い怖い。今も為政者のレベルは同じような気がしてなりません。(続く)

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千駄ヶ谷と東京裁判(36) [千駄ヶ谷物語]

saiban1.jpg_1.jpg 赤坂真理『東京プリズン』は、母が「マッジ・ホール」出入りで「東京裁判」資料下訳をし、米国ハイスクール留学のマリは「東京裁判」見立てのディベートに立つ。

 実は小生の息子も米国ハイスクール卒。真珠湾攻撃の日にいじめられるのではないかと心配したもの。

 千駄ヶ谷の戦前のお屋敷住人を調べれば、「東京裁判」関係者が多いのに気付く。徳川邸前に住む幣原喜重郎は「原爆なる武器出現の世に戦争など真っ平御免」と「平和憲法」へ。鳩森八幡神社の南側在住だった松岡洋右は国際連合脱退、日独伊三国同盟締結時の大臣で「東京裁判」出廷後に病死。その南側に住んだ林銑十郎は、陸軍大臣・内閣総理大臣で昭和18年2月死去。もう少し長く生きていたら「東京裁判」主役の一人だったかも。

 同神社隣の久保田二郎が「僕の家の横手が〝原田日記〟の原田熊雄男爵家」と記す、その「原田日記」(「西園寺公と政局」)は、検察側の反証材料に140件も採用。獅子文六の三番目の妻は、原田熊雄の妻と姉妹。文六家の南は「東京裁判」日本側弁護団長の鵜沢聡明。團琢磨邸跡の一画に住んだのは重光葵(「巣鴨日記」)。原宿竹下口の奥には東條英機に次ぐ主役・広田弘毅(主に盧溝橋事件と南京事件で訴追)も住んでいた。

 どうやら千駄ヶ谷は「東京裁判」抜きでは語れそうもない。小説『東京プリズン』にはA級B級C級の記述が幾度も登場するが曖昧のまま。まずはそこからお勉強です。教科書は思想的偏りのない著作が肝心。半藤一利・保坂正康・井上亮の『「東京裁判」を読む』(平成21年、日経ビジネス人文庫)を選んだ。

 A級「平和に対する罪」、B級は「通常の戦争犯罪」、C級は「人道に対する罪」。BとCの区別が曖昧ゆえ「BC級戦犯」と一括で呼ばれもした。「BC級戦犯」は世界49ヶ国で起訴件数2244件、被告者約5700人。各国の軍事法廷で約1千人が死刑判決。赤坂真理の母は「BC級裁判」資料の下訳だったのかしら。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)は昭和21年(1946)5月3日~昭和23年11月(2年半)に市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で行われた。日中・太平洋戦争時の政府・軍指導者を新たな概念のA級「平和に対する罪」で裁き、7名が絞首刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑。

 これら裁判資料は朝日新聞の裁判取材で収集したものの他に、昭和31年(1959)の「戦争裁判関係資料収集計画大網」省議決定で本格収集。国内外で行われたA級・BC級約2千数百件、5千数百人に関する膨大文書を収集。後者資料は平成11年(1999)まで法務局倉庫に30年余も眠ってい、法務局から国立公文館に移管されてマイクロフィルム化、平成19年(2007)4月に初公開。「A級裁判記録」約6千件、文書枚数は約5万8千枚。300頁書籍換算で200冊相当。翌年に〝コマ番号化〟されて検索し易くなった。

 膨大さゆえ読み込むのは至難。前述の3名が1年間読み込んだ分をまとまたのが『「東京裁判」を読む』。前段が長くなったので本題は次回へ。(写真は国会図書館デジタルコレクションより)。

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マッジ・ホールと津田塾(35) [千駄ヶ谷物語]

tudajyuku_1.jpg 赤坂真理は千駄ヶ谷をこう記していた。「千駄ヶ谷は昔を歩いているような気分になる町だ。都心に近い山の手なのに、エアポケットのように昔の風情が残っている」。獅子文六も同じような文章を残している。

 『東京プリズン』の主人公マリは、母が千駄ヶ谷へ通ったワケを電話で問う。以下、会話文を要約する。母「津田で速記を習っていて、近くにマッジ・ホールというのがあったのよ。たぶん進駐軍の施設で」「どういうスペル?」「MUDGE」「ワシントンハイツみたいなところ?」「あぁいうのじゃないの。住居ではなく将校が集まるようなところ。たぶん、もとは個人の邸宅」「どんなどころ?」「洋館なの。入ると絨毯が敷いてあって~。そこは今、東京体育館があって、昔はその通り沿いに、出入りの商屋みたいのが並んでいた。あと鳶とかの職人、井戸掘り屋とかがあって。そこは高台だから、自然に坂になってるでしょ。下がると川があって観音橋があった。川のそばには貧しい集落もあった」

 マリの母は日本女子大英文科で、千駄ヶ谷の津田で速記を習った。その縁から「マッジ・ホール」に出入りして「東京裁判」の下訳をするように至る。千駄ヶ谷駅前の津田塾概要も知っておこう。

 Webサイト「津田塾大学」を見る。明治33年(1900)、津田梅子が私塾「女子英学塾」を生徒10名で麹町1番地に開校。明治36年、元園町を経て5番町へ移転。昭和6年(1931)に小平市に新校舎。昭和23年(1948)、津田塾大設立。千駄ヶ谷が出て来ないので、次に「津田塾大学同窓会」のサイトを見る。

 昭和21年(1946)「津田英語会」規模拡大のため、千駄ヶ谷の鷹司侯爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成。昭和23年「津田スクール・オヴ・ビジネス」各種学校認可。昭和24年、津田英語会拡大のために千駄ヶ谷の土地1613坪を購入。昭和26年、津田英語会鉄筋コンクリート校舎落成。昭和63年(1988)(財)津田塾会「津田ホール」建設。

 鷹司公爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成の〝裏〟を読む。確か徳川家達の実母は津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子は従兄妹。そして鷹司信輔の妻・綏子は、徳川家達の次女ではなかったか。この地は元・徳川家達敷地ゆえ、綏子から鷹司家へ渡ったものと推測してみたが、いかがだろうか。

 さて、クラシックの殿堂と称された「津田ホール」(写真)は今はない。小生の千駄ヶ谷散歩が最後の姿で、現在は工事癖に囲まれて解体~津田塾大の千駄ヶ谷キャンパスの教学施設になるらしい。ちなみに同ホールは槙文彦設計で、槙は数年後に現・東京体育館を設計。

 千駄ヶ谷は江戸の寺院を残しつつ明治維新、明治神宮出現、戦前から戦後へと様々に変貌を遂げ、今また国立競技場、津田ホールが姿を変えつつある。渋谷川は暗渠になったが、町の様相は〝ゆく河の流れは絶えずして~〟です。(※後に大庭みな子著『津田梅子』を読んだので、機会があれば興味深い幾つかの同大エピソードを記したい)。

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