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貝原益軒「養生訓」 ブログトップ

細く長く生きる養生の術(14) [貝原益軒「養生訓」]

hitoinoti_1.jpg人の命は我にあり。天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し、養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のまゝなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。是皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付きたる事、顔子などの如くなる人にあらずむ(ん)ば、わが養のちからによりて、長生しる理也。たとへば、火をうずみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず。もしふかくかくし、よく養えへば夏までたもつがごとし。

<私注> 「顔子〈がんし)は顔回、顔淵、子淵のこと。孔門十哲の一人で随一の秀才だが、孔子に先立って没」。「あらずんば=あらずば=~でなければ」。「うずみて=埋む」。「蜜橘(みかん)は中国語=蜜柑。くずし字は蜜、橘、爐(炉)、虚を初めて書いた。「け=遣、希、氣」だが原本は「希」。「遣」のくずし字と微妙に違う。

<爺婆談義> 爺:「火を埋づみて炉中に養えば久しく消えず。gansi.jpg_1.jpg風吹く所に表わし置けば、たちまち消ゆ」。母が江戸千家のお師匠さんで、生家の八畳間に炉が切ってあり、稽古日には炭が入っていた。祖母も煮物は火鉢でしていた。大島ロッジで薪ストーブの熾火を愉しむ生活もあるゆえに、上記〝炉中〟の例えは実感できる。だが、それら体験がない息子らには、理解できぬ〝例え〟になっているような気がする。かく云う小生も、蜜柑の保存体験はない。婆:養生の術って、細く長く生きる術のようですね。

 カットは北斎漫画にあった「顔子」の図。北斎も寺子屋で『論語』素読をしたのだろう。荷風、漱石までは小学生時代に漢文を習っていたが、漢文素読は何時から行われなくなったのだろうか。隠居で閑ゆえ、これから勉強しましょうか。

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養生に無頓着が老後のツケになる(13) [貝原益軒「養生訓」]

oyosonohito_1.jpg凡の人、生れ付たる天年は、おほくは長し。天年をみじかく生れ付たる人はまれなり。生れ付て元気さかんにして、身つよき人も、養生の術をしらず。朝夕元気をそこなひ、日夜精力をへらせば、生れ付たる其年をたもたずして、早世する人世に多し。又、天性は甚虚弱にして、多病なれど、多病なる故に、つゝしみおそれて保養すれば、かへつて長生する人、是又、世にあり。此二ッは、世間眼前に多く見る所なれば、うたがふべからず。慾を恣にして、身をうしなふは、たとへば刀を以て自害するに同じ。早きとおそきとのかはりはあれど、身を害する事は同じ。

<私注>★今回筆写は、読み易いように句読点をつけてみた。貝原夫妻は共に「蒲柳の質」。外で元気に遊ぶ子ではなかった。そんな益軒さんは、幼な妻の健康を気遣ってきた。「多病なる故、慎み恐れて保養すれば」で、晩年は夫妻で福岡~京都(片道1日8時間30㎞として約22日間)への旅も楽しむ健康を得た。

<爺懺悔> 小生は若い時分から無理をしてきた。高2から社会人山岳会でシゴかれた。丹沢の河原で体重半分ほどの石をザックに詰めての「ボッカ訓練」。眠ずに歩き続ける「カモシカ山行」。厳冬期「南アルプス縦走」。草鞋を履きザイルワークの「沢登り」。富士山「滑落停止訓練」等々。背骨にザックダコができ、大人になっても消えなかった。加えて猫背の居職。四十路からギックリ腰。ヘビースモーカー。毎夜呑み歩く生活。老いて、それらのツケだろう高血圧、痛風2度、さらに「脊柱狭窄症」。「慾を恣にするは自刃と同じ」はキツイ言葉です。皆様、ご自愛下さい。

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テレビ棄て心は常に和楽かな(12) [貝原益軒「養生訓」]

yojo7_1.jpgもし久しく安坐し、又、食後に穏坐しひりいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発せずしてよはくなる。常に元気をへらす事をおしみて、言語をすくなくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ、思ひをすくなくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和(やわらか)にし、あらくせず、しづかにして、さはがしからず。心はつねに和楽なるべし。憂ひ苦むべからず。是皆、内慾をこらえて元気を養なふ道也。又、風寒暑湿の外邪をふせぎて、やぶられず。此内外の数(あまた)の慎は、養生の大なる条目なり。是をよく慎しみ守るべし。

<私注> 「ひりいね=昼寝ね」。「ふしねぶれば=臥し眠れな・睡れば」。「和楽=互いに打つ解けて楽しむこと」。

<爺婆談義> 爺:隠居後の、我が家の夕食は6時頃。以後は机に向かわず、居間でテレビなど観ながら寛いで10時頃に就寝準備。それはいいが「心は常に和楽なるべし」が難しい。婆:おまいさんはテレビに我が国の総理の顔が映ると、それを蛇蝎の如く嫌って即チャンネル替え。あぁ「心和楽でなくなっているな」とわかります。爺:核兵器禁止条約不参加、原発推進、海洋プラスティック憲章不参加、日米地位協定手付かず。シラッと平気で嘘もつく。何かを悪だくんでいるのか、バカなのか。婆:おや、誰も観ていないブログだと思ってズバズバと言いますねぇ。爺:官僚もクズ化。セクハラに忖度人生。自ら障害者雇用水増し。公明党も理念失った追従政党。婆:政治に無関心、背を向ければ、心は乱れませんよぅ。爺:昔の若者は体制に向かって威勢良かったが、今の若者の軟弱なことよ。婆:爺さんは、ワイドショーを観てもイライラなんだから。爺:目下はスポーツ面で権力握った奴らの姑息続々 婆:加えて芸人(特にお笑い系)嫌いだし。爺:泣いたり怒鳴ったりの役者演技も虫唾が走る。婆:やっぱり、テレビ捨てましょ。益軒さんはテレビなんか観ていなかったんですよぅ。せいぜい「瓦版・落首・書簡」ぐらい。荷風さんだって「新聞・ラジオ」の時代ですが、それでも政治に背を向けたじゃありませんか。爺:そうか、テレビなし=心は常に和楽の道か。

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内慾少なくも外邪が乱れて(11) [貝原益軒「養生訓」]

yojo6_1.jpgyojo5_1.jpg養生の術は、先わが身をそこなふ物を去べし。身をそこなふ物は、内慾と外邪となり。内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡(ねぶり)の慾、言語をほしいまゝにするの慾と、喜怒憂思悲恐驚の七情の欲を云。外邪とは天の四気なり。風寒暑湿を云。内慾をこらゑてすくなくし、外邪をおそれてふせぎ、是を以元気をそこなはず。病なくして天年を永くたもつべし。

凡養生の道は、内慾をこらゆるを以本とす。本をつとむれば、元気つよくして、外邪おかさず。内慾をつつしまずして、元気よはければ、外邪にやぶられやすくして、大病となり。天命をたもたず、内慾をこらゆるに、其大なる条目は、飲食をよきほどにして過さず。脾胃をやぶり病を発する物をくらはず。色欲をつゝしみて、精気をおしみ、時ならずして臥さず。久しく睡る事をいましめ、久しく安坐せず、時々身をうごかして、気をめぐらすべし。ことに食後は、必ず数百歩、歩行すべし。

<私注>「言語をほしいままにする慾」は〝おしゃべり〟と解釈した。「こらゆる=堪ふる」。「脾胃」の〝脾〟は西洋医学の脾臓ではなく、「脾胃=消化吸収機能全般」。

sekiranun826_1.jpg<爺婆談義> 爺:我ら老人になると「内慾」の「飲食の慾・好色の慾」からは解脱だな。婆:「睡の慾」もない。年寄りは早起きです。わたしらは長電話もおしゃべりも端から嫌いゆえ「言語をほしいまゝにするの慾」もなし。爺:だが喜怒憂思悲恐驚はあるな。政治が民意とかけ離れてイラ立つことばかり。婆:この辺の生活環境・治安も芳しくありません。変な人も増えた。外邪はどうだ。爺:台風多発(スーパー台風を含む)、酷暑(命の危険に及ぶ)、豪雨(土石流)、竜巻~。地球が壊れ始めているかの災害多発。子供時分にあった四季の風情を楽しむ余裕もなく、夏冬二季化傾向。婆:8月末になっても35度の猛暑日続き。先日は夕餉に外出すれば不気味な「金床雲」なる積乱雲。その翌日の稲妻・落雷・豪雨の凄かったこと。爺:外邪厳しくサバイバルです。

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草木丹精より重いわが身の養生(10) [貝原益軒「養生訓」]

yojo4_1.jpg園に草木をうへて愛する人ハ、朝夕心にかけて水をそそぎ、土をかひ、肥をし、虫を去て、よく養なひ、其さかえを悦び、衰へをうれふ。草木は至りてかろし、わが身は至りて重し。豈わが身を愛する事、草木にもしかざるべきや。思ハざる事甚し。夫(それ)養生の術をしりて行なふ事、天地父母につかへて孝をなし。次にわが身、長生安楽のためなれば、不意なるつとめは先さし置いて、わかき事より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふハ、是人間第一のおもくすべき事の至也。

<爺婆談義> 爺:「わかき事より、はやく此術をまなぶべし。身を慎み生を養ふハ~」は後の祭りで、若い時分は「止めてくれるな、おっかさん」。カウンターカルチャーの青春で、親の反対が何でも良かった時代。随分と無茶をしてきた。婆:そんな若かったあたしたちを、両親はどう見ていていたのだろうか。爺:それでも親は親。行き詰まったり、辛くなったりすれば、黙って応援してくれていた。婆:比して益軒さんも奥さんも、子供時分からひ弱で養生が第一。無茶はしなかった。爺:同じ儒学者でも「新井白石」は剛毅だった。眉間に「火の字」。烈火のごとく激しい性格で武術も夢中。白石だったなら、これほどまでに「養生大事」とは言わなかった。

<私注> 「土をかひ=土を交う・換ふ=土を入れ違いにする」。「しかざる=如かざる=如の否定。及ばない」。

★新井白石が出てきた。貝原益軒と新井白石の師は「木下順庵」で、新井白石の終焉の地が「千駄ヶ谷」ゆえに、次回は「千駄ヶ谷シリーズ」(追加メモ)です。

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身命を養うには久しく行うこと(9) [貝原益軒「養生訓」]

yojo3_1.jpg万の事つとめてやまざれハ、必しるしあり。たとへば、春たねをまきて、夏よく養へば、必秋ありて、なりはひ多きが如し。もし養生の術をつとめまなむて、久しく行はゞ、身つよく病なくして、天年をたもち、長生を得て、久しく楽まん事、必然のしるしあるべし。此理うたがふべからず。

<私注> 「やまざれば=止め・ざれば=止めなければ」。「なりわひ=ここでは作物」だろう。「理=ことわり(道理)」

<爺婆談義> おまいさんは「久しく行はゞ~」が出来ない。テレビで「酢納豆」が良いと言えば、走って酢と納豆を買いに行く。「もち麦」が良い、「砂肝」が良いと聞けばスーパーで探し購う。なんでも最初の数日だけで「久しく行はゞ~」と参らない。飽きっぽいんだ。爺:面目ねぇ。長続き、持続力なし。信念に基づかぬゆえダメなんだろうな。婆:それでもヘビースモーカーのおまいさんが、一度の禁煙でピタッと止めたのは見事だった。今度はそのお腹を平らにすることだな。

<筆写について> 最初は手本を見つつ、たどたどしく書く。そのブログアップした「くずし字」を音読すれば、次第に文の意・韻が浮かび上がってきて、文字が生きていないなぁと思う。かくして少し気持ちを込めて~と書き直すことになる。

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慾より身命。養生術を学べ(8) [貝原益軒「養生訓」]

newyojo2_1.jpg如此ならむ事をねがハゞ、先(まず)古の道をかう(ん)がへ、養生の術をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり。人身ハ至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたき物にあらずや。然るにこれを養なふ術をしらず、慾を恣にして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚なる至り也、身命と私慾との軽重をよくおもんばかりて、日々に一日を慎しみ、私慾の危をおそるゝ事、深き渕にのそむが如く。薄き氷をふむが如くならバ、命ながくして、つひに殃なかるべし。豈楽まざるべけんや。命みじかければ、天下四海の富を得ても益なし。財の山を前につんでも用なし。然れば道にしたがひ身をたもちて、長命なるほど大なる福なし。故に寿(いのちなが)きハ、尚書に五福の第一とす。是万福の根本なり。

<爺婆談義> 婆:「五福」とは何ぞや。爺:長命、財力、無病息災、徳を好む、天命を全う。婆:ははっ、おまいさんは「財力なし・徳なし」だ。庶民ゆえ、せいぜいが寺小屋で、儒学を学ぶ教育環境もなかった。爺:てやんでぇ、夏目漱石だって14歳で漢学塾・二松学舎で『孟子』『論語』をさらって漢詩が得意も、やれ「文明開化」ってんで、漢詩より英語習得にロンドンへ旅立ってノイローゼになっちまった。荷風さんだって、小石川竹早町の師範附属小高等科に進学した10歳から、学校帰りに儒学者某の許に立ち寄って『大学』『中庸』をあげて漢詩も書いたが~。婆:結局はフランスに憧れちゃった。「古き道」を歩むのも簡単なこと事ではなかった。

<私注> 「尚書=書経の古名」。「長命なるほど大なる福なし=長命にならねば大なる福はない」「な〝らむ〟=~なのだろう、~であるのだろう」。「ざるべけんや=~しないでいられようか」。「殃(わざわい)」。「豈=あに」(打消し表現を伴って)決して。(下に反語表現を導いて)どうして。くずし字では「哉・楽・處・貴・軽・薄」を暗記カードに記した。

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人の身は天地父母のみまたもの(7) [貝原益軒「養生訓」]

newyojo1_1.jpg養生訓 巻第一 総論上

人の身ハ父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐミをうけて生ま、又養はれたるわが身なれバ、わが私の物にあらず。天地のみまたもの、父母の残せる身なれば、つゝしんで、よく養ひて、そこなひやぶらず。天年を長くたもつべし。是天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひてハ、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不幸なり。況大なる身命を、わが私の物として慎まず、飲食色慾を恣にし、元気をそこなひ病を求め、生付たる天年を短くして、早く身命を失ふ事、天地父母へ不幸のいたり、愚かなる哉。人となりて此世に生きてハ、ひとへに父母天地に孝をつくし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべく程ハ寿福をうけ、久しく世にながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の各願ふ処ならずや。

 ★筆写参考は、益軒が同著刊の正徳3年(1713)から121年後の、天保5年(1834)の浪花・岩井寿楽蔵版。江戸後期「くずし字」木版は読み易い。ここでは現代語訳は省略。

<爺婆談義>で勝手解釈です。爺:おや、端から儒教根本の「孝」です。婆:儒教の芯ですよ。「儒教=子の親への孝」と思われがちも、孔子は祖先への祭祀(過去)~父母への敬愛(現在)~子孫を生む(未来)の生命論として「孝」を捉えたんですね。爺:キリスト教では、子は神の賜物で、仏教は妻帯せずゆえ子を設けない。ホントかいなぁ~。婆:でも「孝行のしたい時分に親はなし」。爺さんのように老いれば~。爺:「飲食色欲を恣にして」も元気なうち。老いれば食いたい物も、色慾もなし。

<私注>「人倫=人として守り行うべき道」。「義理=道理、道筋」。いやだねぇ、こんな言葉にも縁遠くなってしまった。「況=いわんや」。「恣=ほしいまま」。「寿福=長命で幸福なこと」。「なら〝ずや〟=文末に用いて~ではないだろうか」。

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日本のアリストテレス(6) [貝原益軒「養生訓」]

torirui.jpg_1.jpg 元禄8年66歳、辞職を請うも叶わず。翌年、百石加増で計300石。元禄12年に古希。黒田家の忠之、光之、綱政3代に仕えて翌年に隠居。この頃に親族・学友・知人の死去相次ぐ。好古37歳で没、楽軒78歳で没。

 元禄16年(74歳)。養子の重春が、東軒の姪を娶る。益軒はこの頃は年に数冊ペースの著作。同年刊は『和歌紀聞』『黒田忠公譜』『五倫訓』『君子訓』。

 宝永4年(1707)78歳。蓄髪して「損軒」と号していたが「益軒」と改号。「損」は下に損(へら)して、上に益す。つまり国家安泰・発展が民のための意。「益」は上を損して下に益す。まぁ、同じ意だが、藩主・光之没で人生区切りの改号らしい。

 宝永6年(1709)80歳。本草学者として『大和本草』(草木、禽獣、魚介、鉱石など1360余種についての名称、来歴、形状、性質、効用などを解説。16巻+附録2巻+諸品図2巻)を刊。本邦初の本格・体系的な博物学書。これは後の平賀源内『物類品隲』(宝暦13年・1763)へつながるのだろう。

 正徳3年(1713)84歳。40年余連れ添った妻・東軒が12月に62歳で没。この年に『養生訓』を刊。正徳4年85歳。春に『慎思録』(6巻。哲学・道徳・倫理・教育・修養・交遊・礼儀など古今の典籍から得た持論を漢文でまとめた処世訓)を刊。夏に『大疑録』を成す。

 これは漢文2巻。明和4年・1767年春に江戸の書肆・須原屋市兵衛から刊。「学を為むるには、疑ひなきを患ふ。疑へば則ち進むあり。故に学ぶ」の朱子学信条にのっとって朱子学への疑問を表明。益軒は自ら歩き、観察するが信条。朱子学を知り尽くした上で「知行併進=考えつつ飛べ」的な自然科学的実証主義からの疑問提起。

 同年8月27日、85歳で没。71歳の隠居から85歳までの著作30冊余。生涯の著作98部247巻。山崎光夫著では日本の最大ベストセラーは紫式部『源氏物語』、松尾芭蕉『奥の細道』、貝原益軒『養生訓』と記される。その分野は歴史、政治、農業、地理、医学、本草学(博物学)を網羅で、シーボルトは益軒を「日本のアリストテレス」と感嘆したとか。

 また勉強ばかりではなく、晩年は大いに旅を、読書を、音楽を、家庭生活を、交遊を、著作執筆を、飲食を、自然を、善行を、養生を愉しみ暮したらしい。辞世は漢詩2首と和歌「越し方は一夜ばかりの心地して 八十路あまりの夢をみしかな」。

 菩提寺は福岡市・金龍寺。夫妻同じ大きさの墓。益軒は仏教を捨てたが、実際は多数僧侶とも交流。ここでも寺僧と互いを認め合い、益軒の墓は仏教のしきたりの華燭、花を手向けることなしとか。現在は墓とは別にほぼ等身大の銅像座像が設置。明治32年には森鴎外の「小倉日記」に掃苔記ありとか。次回から筆写に入ります。

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壮年期に健脚を発揮(5) [貝原益軒「養生訓」]

furokukan1.jpg_1.jpg 寛文11年(1671)42歳。藩庁で渾天儀(中国製天文観測機)を説明。『黒田家譜』編纂に着手(6年を経て12巻完成。50両を賜る)。延宝4年(1676)47歳。珍書購入命で長崎へ。この頃から中国・朝鮮の漂流船に筆談調査して、長崎に送り届ける仕事を60歳まで続けたとか。

 延宝7年(1679)50歳、肥後杖立温泉に逗留で『杖植紀行』刊。延宝8年(1680)51歳で大阪、奈良、吉野山に遊ぶ。大和の郡山から有馬温泉へ。武庫山に登って大阪へ。『畿内吟行』『京畿紀行』『大和河内路記』を刊。旅から帰ると福岡藩は疫病・飢饉。知行所で「一人の餓死せしむる事なかれ」で困窮農民に寄金。天和2年(1682)53歳。藩命で藍島に朝鮮通信使を迎えて筆談の大役を果たす。

 益軒、気付けば福岡から京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回。日光東照宮や足利学校も訪ねている。ひ弱だった少年が、中年になって驚くほどの健脚を発揮。その際に自身と同行者(使用人)の「歩幅×歩数=行程距離」も算出。後、60歳になって「算を知らざるは万の事、疎かにて拙し」で『和漢名数』(元禄2年)、『続和漢名数』(元禄8年)も刊。

 まさに福岡の伊能忠敬。いや、歩く儒学者・益軒。去来の父・向井元升とも親交ありゆえ、松尾芭蕉にも会っていたかもです。旅仕度を記した『旅装記』も刊。夫人同伴旅行も元禄4年(1691)に大阪・京都へ。元禄11年(1698)には有馬へ熟年温泉旅行。84歳の『諸州巡覧記』まで計13の旅行記を刊。

 これら多数の和文紀行記は、当時の活発な出版事情も反映。ちなみに井原西鶴『好色一代男』は天和2年(1682)で、上方文化成熟で木版製版が普及。加えて伊勢参りなどの旅行熱も反映していたらしい。

 ここで貝原家について。11歳上の長男・家持は、壮年になって浪人。遠賀郡で商人になって高利貸しもして裕福になるも、役人の悪口に反論。傲慢無礼で古希の身で禁固刑中に没(71歳没)。次男・元端(存斎)は京都・江戸に留学後に出仕も、後に身体の不自由から致仕。遠賀郡吉田村で農業と寺小屋で生計も、晩年になって身体を壊した。親子共々益軒が自宅に迎え養った。元端は74歳で没。5歳年長の三男・義質(楽軒)は浦奉行を務めた後に致仕。その後は学問に精進。78歳で没。

 兄弟全員が長寿だった(徳川の15代将軍平均寿命は51歳とか)。子のない益軒は、元禄8年、66歳で楽軒の次男・好古(恥軒)を養嗣子に迎えるも、益軒69歳で東軒と京・大和旅行中に出奔。次に存斎の次男・重春を迎えるが身持ち悪く、それでも益軒81歳で孫が誕生。そういえば司馬江漢も娘婿がままならず苦労していた。カットは79歳で完成『大和本草』16巻(国会図書館デジタルコレクションより)。

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22歳下の嫁と琴瑟相和なれど(4) [貝原益軒「養生訓」]

toukenfujin.jpg_1.jpg 明暦3年(1657)、28歳。京都留学の命(以後、7年間にわたって藩費で留学)。まず京で儒教・朱子学の著名先輩ら、特に「木下順庵」と相往来。次第に『小学』『大学』などを講じるようになる。学業精進で20石へ。

 31歳、藩命で江戸へ。4ヶ月間、藩邸で儒学を講じる。帰藩命令で5年振りの福岡。33歳、30石6人扶持。9月に藩主・光之の参府に従う。京都で『論語』『中庸』『孟子』などを講じて聴講者多数。儒者の地位を確立。寛文4年(1664)、35歳で帰郷し、藩主から邸宅を与えられ、加えて知行地、150石を賜る。

 寛文5年、36歳、再び京へ。さらに学者らと交流を広げ、この頃から朱子学一途。また島原の遊郭・小紫と遊ぶなど京の風流も楽しむ。同年、父・寛斎死去(69歳)。

 寛文7年、38歳。体調を崩す。疝気、疝淋(淋病?ではなく尿路胆石?)、排瀉、秘結(便秘)など。寛文8年、39歳。福岡藩の支藩、秋月藩士の娘・初子(17歳。親子ほどの年の差。後の東軒夫人)と結婚。益軒の指導よろしく和歌、箏、古琴、楷書も巧み。

 益軒は再び蓄髪して加増50石で計200石。荒津東浜に邸宅を賜った。翌年、藩主が綱政の代になって俸禄300石。中級武士の生活になる。益軒と若妻は共に箏、琵琶などの古楽合奏など琴瑟相和なれど、子供が出来ぬ。子が出来なければ離縁もあろうが、益軒さんはなんと、1年に1人ずつ、3年で計3人の側室(妾)とセッセと交接に励むも、遂に子は出来なかった。この頃に『近思録備考』『小学句読備考』『朱子文範』などを刊。

 益軒、東軒夫人共に「蒲柳の質」。益軒は病弱な伴侶の健康維持にも取り組んだ。ちなみに益軒54歳の時に52.5kgで、32歳の東軒は35.2kg。(82歳の益軒は47.1kgで、60歳の東軒は32.8kg)。益軒は「痩せ気味」で、夫人は「激痩せ」体型。(二人は生涯で5回ほどの体重測定記録を残しているとか)

 カットは明治35年刊『近代立志伝・貝原益軒』で紹介の東軒夫人。説明文「東軒夫人は益軒の事業を助け、和歌を作り隷書を書くのも上手で、当時の文学界に名高いものであった」。

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19歳で出仕。そして6年間浪人(3) [貝原益軒「養生訓」]

kaiharamokuzo_1.jpg 11歳の冬、父は役務で福岡・新大工町へ、糸島郡へと移住。この時期に益軒は漢文『太平記』読破。13歳、継母没。彼は下女の〝おばさんっ子〟。14歳、父は再び浪人。医者と子供らに読み書きを教える生活に戻る。父は益軒に薬や食物の効用、医学基礎を教えた。

 その頃に、藩命で医学修行(京都遊学)から福岡に戻った次兄・元端から「四書(儒教の論語・大学・中庸・孟子)」を学び〝仏教信仰〟を捨てる。次兄に従って福岡・荒戸新町へ行き、引き続き「儒書」を学ぶ。同年冬、父は再出仕で江戸詰め4年間。18歳の長兄は浪人、次兄は豊後日田で開墾。貝原家は藩主・忠之と相性が悪かった。

 慶安元年(1648)、益軒19歳。藩主の御納戸御召科方(衣服調度の出納係)として仕え4石扶持(1年で玄米20俵)。20歳、藩主の参勤交代で父と共に江戸へ。慶安2年春に帰郷し、夏に藩邸で元服。藩主に従って長崎警護(外国船監視)へ。この時、益軒は唐書を目にし、唐通事や蘭通事らと会ったらしい。同年の出島を調べると、蘭館医カシパル・シャムベルゲルが渡来し「紅毛流外科」を長崎・江戸の医師らに指導。

 長崎で役務の域を脱する行動があったのだろうか、長崎から帰郷後の21歳、藩主・忠之の怒りにふれ閑居15日から謁見不許可4ヶ月。そして遠賀郡の藩主別荘を守る任を経て、藩主の宿直(とのい)で仕えるも、今度は俸禄も失って浪人生活へ。

kaibarajinbutu_1.jpg 22歳。ストレスから眼病、胃潰瘍。まさに艱難辛苦の青春。生活手段として医学修得。長崎へ2度。同地で医師・向井元升に教えを受ける。奈良・京都、さらに江戸へ。この間に本草学、地理、農学、歴史など幅広く学ぶ。26歳、食うために医者になるべく剃髪。柔斎と号す。江戸では父と藩邸暮し。林羅山の子・林鷲峰より朱子学も学ぶ。次第に「黒田藩に貝原益軒あり」の評価を得て行く。

 浪人生活6年後の27歳、藩主が忠之の嗣子・光之の代になって出仕。父が致仕(辞職)し、父の家禄を継いで6人扶持。次兄は藩医となって150石。3代光之は、先代藩主とは正反対の文治主義体制。益軒は水を得た魚で、一気に才能開花。俄かに前途が明るくなった。以後、光之から4代藩主綱政へ44年間仕えることになる。

 写真上は横山俊夫編『貝原益軒~天地和楽の文明学』(平凡社)、下は吉川弘文館の人物叢書、井上忠著『貝原益軒』。

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不運続きの幼少期(2) [貝原益軒「養生訓」]

kaibara4.jpg_1.jpg 前述紹介本より、貝原益軒の経歴をお勉強する。益軒の祖父は甲斐・武田家に仕えたが、信玄没後に黒田如水・長政(博多城)に仕えた。祖父の長男・貝原利貞(号は寛斎)が益軒の父で、長政没に福岡藩を継いだ黒田忠之に18歳で仕えた。祐筆役150石。益軒は寛永7年(1630)11月に福岡城内・海沿いの屋敷で生まれた。

 益軒は5男子(長男は早逝)の末男。父34歳の子。初めは助三郎、後に九兵衛、諱(いみな、本名)は篤信。号は損軒(益軒は晩年の号)。父は益軒誕生の翌年に博多片町へ、さらに6年後に博多築港地へ移住。理由不明だが、禄を失ったらしい。医薬を売り、子供らに読み書きを教えての生計。

 益軒は誰も教えぬ間に平仮名・片仮名を覚えたらしい。虚弱体質で近所の子らと遊ぶより、部屋に籠っての読書好き。兄の算法啓蒙書を読み、独学で算盤も修得とか。

 藩主・忠之が、幕府から謹慎を命じられたのは益軒3歳の時。藩主、甚だ精神的粗野ゆえに、父は禄を失ったと推測される。益軒6歳、母没。継母を迎えた。8歳、父は再び藩の禄を得て、福岡から約30キロ先の峠を越えた八木山高原の警備所(知行地)へ赴任。一家は山間の侘住居40坪で3年間暮らした(現在はその屋敷跡に石碑あり)。

 9歳の秋、島原の乱(天草四郎の原城籠城)。父と長兄が出兵。藩主・忠之は功を焦って1万5千の兵を出し、戦死者326名、手負い2293名。一揆勢は1万数千人が打首。

 同年。益軒は9歳年長の次兄・元端(存斎)から漢字を習った。元端は3歳で重い天然痘を患って両手が不自由ゆえ、家に籠って書に親しむ生活を送っていて、益軒の読書素養を育んだらしい。近所の家から『平家物語』『保元物語』『平治物語』などを借りて読んだとか。肖像は元禄7年、65歳の益軒。狩野昌運筆の一部らしい。

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養生訓~まずはじめに(1) [貝原益軒「養生訓」]

kaibara2.jpg_1.jpg 「おまいさん、最近はお習字をしないのかえ」とかかぁは言う。『方丈記』最後の〝筆写〟から数ヶ月が経つ。さて、次の題材は~。『徒然草』がいいかなぁと思うも、己の寿命も残り僅かゆえに、貝原益軒『養生訓』で遊んでみましょうか。

 早大図書館の古典籍データベースに「天保5年(1834)、浪花・岩井壽楽蔵版」あり。おや、書き出しがスラスラと読めるではないか。うむ、ちょっと儒教臭くてイヤだなぁ。そう思いつつ数頁を読み進む。くずし字の書き順調べで『漢字くずし字辞典』を手にすれば、次第に〝くずし字〟の魅力に引き込まれ、『方丈記』筆写時の愉しさが甦ってきた。

 伊藤友信・全現代訳『養生訓』(講談社学術文庫)、加地信行『儒教とは何か』(中公新書)、島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)を紀伊国屋で、早稲田の古本街で日本思想体系『貝原益軒・室鳩巣』(岩波書店)を購った。さらに図書館で井上忠『貝原益軒』(人物叢書、吉川弘文館)、土田健次郎『儒教入門』(東京大学出版会)、山崎光夫『老いてますます楽し~貝原益軒の極意』(新潮社)、横山俊夫編『貝原益軒~天地和楽の文明学』(平凡社)を借りた。★この文を参考書一覧を兼ねる。

 うむ、39歳で17歳の娘を娶った。二人の仲は琴瑟相和も子が出来ず。益軒さん、なんと一年に一人ずつ三年で計三人の妾と交接に励んだとか。だが「四十者は十六日に一泄す」なんて記しているらしい。文と実際とは違うを承知で読んでみましょうか。

 目下、小生は歯医者通い。益軒翁は一本の虫歯もなかったらしい。遅きに逸したが、小生も彼の〝養生訓〟を心がければ、彼と同じく84歳まで生きられるかもしれない。こんな記述もあるとか。

 「老後は、若き時より月日の早き事、十倍なれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、むだな日を暮すべからず~」。うむ、原文で読んでみたくなりました。その前にどんな人物かを知らねばいけません。こんな顔の御仁らしいです。「貝原益軒先生 正聖五年八月廿七日八十五」。(画像は国会図書館デジタルコレクションより)

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