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23)垣内景子〝無思想で歩め〟 [朱子学・儒教系]

syusigaku_4_1.jpg 朱子学・儒教シリーズを中断したが、垣内景子著『朱子学入門』(ミネルヴァ書房)を読んでから一区切りにしたくなった。著者が言いたいことは「はしがき」と「おわり」に記されていた。

 (目下、オルテガ『大衆の反逆』読書中だが、結論が各章最後にある。そこを読んでから最初から読み始めるとわかり易い)

 垣内は同著趣旨を「はじめに」でこう記していた。~(朱子学は)心の問題を解決し、より心安らかに生きるための思想。私たちの考え方や感じ方には、知らずうちに規定しているものの一つに朱子学が入っていないか。ならば朱子学から自由になるために、その正体を知らなければならない。

 入門書ゆえ、本文は儒教~朱子学~陽明学などの解説中心で、それはこのシリーズでお勉強してきたので省略し、一気に「おわり」の結論へ飛ぶ。

 ~(本文を終えて、さて)私たちは朱子学から自由になれたか。その正体をつかみ、その外に出ることができたか。朱子学の何がそんなにまずいのか。「あるべき」は本来「あるがまま」と考える朱子学だが〝世界をそのように単純化し、人間をそのように一様なものと見なしてよいのだろうか〟。そうした反省をした時に、私たちは初めて朱子学の外に立てるのではないか。

 かつての日本人は、朱子学を通して得た「思想」という武器で対外的に強くなろうとした。その「思想」の排他性や闘争性は、朱子学の「理」の正体でもあった。いま私たちは、日本の「無思想」をこそ武器にして、国際社会の中で独自の役割を果たすべきではなかろうか。

 日本の「無思想」は、無節操や無責任ではなく、むしろ研ぎ澄まされたバランス感覚で、安住を拒否し続ける覚悟に他ならない。理屈を振りかざす者たちの確信に満ちた姿に胡散臭さを嗅ぎ取る感覚が必要だ。

 そこで朱熹のバランス感覚に注目したいと続ける。朱熹とその後の朱子学の違いは〝偏らない〟点にあった。決して終わらない「工夫」の道程を進むこと。学び続けること。朱熹の生き方は、無限の連続の保証。安定的な足場に安住しない。無限の移動でもあった。

 この書を、こうまとめて「朱子学・儒教シリーズ」に一区切りをつけます。

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22)大塩平八郎、陽明学は両刃の剣 [朱子学・儒教系]

ohsioe_1.jpg 大塩平八郎は、与力の働きと同時に「洗心洞」で陽明学の講義を続けた。熱心な平八郎と塾生ら。その背景には、それだけ乱れた世があった。特権商人と農民の対立。物価高。役人の「忠・孝」は表の顔で、裏では褒美・官職・知高を上げるべくの功利主義蔓延。

 平八郎が扱った代表的事件は、文政10年35歳の時の切支丹事件。これはインチキ加持祈祷集団事件で、切支丹として6名磔他65名処罰。文政12年の奸吏糾弾事件。古参与力の悪事摘発で、贓金3千両を窮民に賑恤。文政13年には破戒僧遠島事件。不埒僧ら50名余を遠島など。

 この時の彼の役職は見付役、地方役、盗賊役、唐物取締役の各筆頭兼任で与力権勢トップ。清潔かつ正義感の名与力。だが彼は破戒僧事件後の上司辞任に併せて辞任した。余りの彼の潔癖さ、厳しさが同僚から敬遠され、軋轢を生んでの隠退らしい。

 致死(隠退)翌年、天保2年〈1831)に各地10万人規模の百姓一揆。翌々年に播州・加古川(神戸と姫路の中間辺り)で富豪を打ち壊し。飢餓が大坂に迫った。

 王陽明は反乱農民を次々に討伐したが、彼の陽明学を学んだ平八郎はどうしたか。反乱庶民を一網打尽にするのが「天地万物一体の仁」か? 民衆は公儀を恐れ法律禁令を守るが「孝」とは云え、それを破らざるを得ぬ民の討伐は「単に民衆支配の思想」ではないか? 民には父子兄弟妻子もいよう。彼ら討伐は「明明徳」を捨てることではないか? 小生は平八郎がそう思った瞬間、彼は陽明学を越えて〝狂〟になったと推測する。

 天保7年(1836)大飢饉。ついに大阪でも日に40人の行き倒れ。だが新任の大阪東奉行の窮民救済策は生ぬる上に、徳川家慶就任式費用の江戸廻米の奔走で、大坂の米を買い占めて江戸に送った。豪商らも飢餓状況を見て見ぬふり。

 平八郎は隠居の身ながら、町奉行に飢餓対策を建言するも却下で〝ついにキレた〟。「知行合一」で挙兵。檄文に「大阪の奉行並諸役人ども天地万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を~」。陽明学は「反逆討伐」と「幕政反逆」の〝両刃の剣〟になった。

 挙兵資金は、彼の蒐集書籍売却の620両他。だが挙兵は密告されて小1日で鎮圧。大阪市街5分の1を焼失しただけで終わった。「大塩平八郎の乱」の後世評価は賛否両論。安政の大獄~桜田門の変迄あと20年ほど~。

 彼の著作『洗心洞剳記』も未読だし、幕末周辺のお勉強もありましょうが、それらを宿題にして、このシリーズ暫らくお休みです。

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21)大塩平八郎は元与力 [朱子学・儒教系]

miyagihon.jpg.jpg 王陽明(陽明学)は政府中枢にいて農民蜂起を討伐し続けた。大坂町奉行所・元与力で陽明学者の大塩平八郎は、天保8年(1837)に幕府反抗の乱をおこした。以下、宮城公子著『大塩平八郎』を参考にする。

 陽明学については<11)陽明学から幕末へ>で島田虔次『朱子学と陽明学』、吉田公平著『王陽明「伝習録」を読む』を参考に記した。宮崎公子は島田と子弟関係らしく、肝心の陽明学に執拗に迫っているので読み通すに難儀も老脳に鞭打って読み通す。

 大塩平八郎は大阪・東町奉行与力の父と、同役の娘との間に寛政5年(1793)に生まれた。7歳で父を、8歳で母を亡くし、祖父に育てられた。文化3年、14歳頃に与力見習い。文化5年(1808)16歳から定町廻役(盗賊、乱暴者を捕える)。

 先祖は戦国武士で、今は町奉行配下で底辺の俗塵にまみれた自分を卑下していたとか。東西奉行所は各々与力50名、同心50名。与力屋敷500坪で200石だが役得多し。江戸から派遣の町奉行は数年で交代も、与力や同心は「地役人」。庶民と密接ゆえ実権は与力が握っていたらしい。

 20代半ばで、与力としての内面=道徳の重要性で儒教に接した。「孝・仁」と「五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)」を見つめ直す。だが身近な儒者らは束脩料(入門料)、祝儀、揮毫等の諸収入をいかに増やすかに夢中で、彼は次第に独学へ進む。そのなかで惹き付けられるように陽明学へ。

 著者は彼の陽明学傾倒は、その要点の一つ「人心の良を拈ず」にあったと記す。つまり「人心の良=人間の心の生まれつき持つ良きもの=良知(ナイーブな道徳心)を拈ずる(工夫して捻り出す)こと」

 平八郎の陽明学を、さらにこう説明する。~心は悪も善もない虚霊。悪や善が心を塞げば「良知」の働きを失う。それは『大学』解釈の「好色を好むが如く、悪臭を悪(にく)むが如し」。つまり心本体の正直な身体的知覚的直観まで深めた道徳心こそが「良知」。

 そんな「良知」に「習気情欲」が蔽う前、心の起念と同時に善悪が生じるゆえ、心が動く瞬間の微細さのなかに独り知る=良知の判断=誠意慎独が肝心で、その「功夫(くふう)の訓練、鍛錬」で咄嗟の瞬間を大事しようというもの。

 平八郎のそんな陽明学に耳を傾ける人が増えて、彼は屋敷地500坪内に私塾「洗心洞」を設ける。文政8年(1825)33歳、その体制が整って塾生(寄宿生)17,8名。門弟は与力・同心衆4、50名。普通の儒学塾は入門期間が短いが、彼の塾は縁戚関係も濃厚で在塾10数年余など結束も固い。文政11年(1828)36歳、洗心洞で王陽明300年祭を開催。「大塩平八郎の乱」まで、あと9年~。(続く)

 ※図書館で借りた朝日新聞社刊はカバーもなく汚れていた。〝書影ご自由にお使い下さい〟の「版元ドットコム」よりぺりかん社刊を拝借した。

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20)由比正雪の乱 [朱子学・儒教系]

cyuyahaka_1.jpg 王陽明は政府中枢にいて、各地続発の農民蜂起を次々に討伐しつつ「陽明学」確立の『伝習録』(47歳)を刊。大衆から〝謀略家・偽学の徒〟と非難中傷されると、自らを〝狂者〟と言ったとか。56歳でまた反乱軍討滅に出て、その帰還途中で病没。

 そんな王陽明(陽明学)の影響を受けた日本人は、民衆蜂起討伐とは逆に幕政に牙を剥いた。「由比正雪の乱」~「大塩平八郎の乱」、そして幕末へ。

 『伝習録』刊が1524年。日本は室町時代後期。その81年後の慶長10年に、朱子学の藤原惺窩が徳川家康から退き、林羅山は徳川に仕え続けた。むろん両人共に『伝習録』を知っていたが~

 それから45年後の慶安3年(1650)。日本の陽明学の祖・中江藤樹没後に和刻『伝習録』も刊。備前の岡山藩主・池田光政は陽明学に傾倒して、中江の弟子・熊沢蕃山を重用。慶安2年、光政に随行して蕃山も江戸に入った。

 進士慶幹著『由比正雪』には、江戸の紀州家(頼宣)で「経書」を講ずる熊沢蕃山が、兵書を講ずる正雪と同室になった。互いに謀反気ある危険人物と見破り合った。別説では見破ったのは家老・安藤帯刀の説もあり。

yuinoran_1.jpg また大橋健二著『神話の崩壊』では、慶安事件(正雪の乱)の陰の首謀者=頼宣説もありと記していた。正雪は紀伊徳川家の眷顧(けんこ)と称して浪人を集め、頼宣の名を利用して謀反を企てたのは事実ゆえと記していた。さらに国会図書館デジタルで石崎東国著『陽明学派の人物』(大正1年刊)の「熊沢蕃山と由比正雪」を読めば、池田光政が正雪を抱えるべく蕃山を差し向けたが、5千石の提示に正雪は難色。蕃山は彼には謀反の気ありと忠告し、抱えるに至らなかったと記されていた。

 慶安4年、由比正雪「慶安の乱」。慶長から慶安同年までの間に生まれた23万5千人の浪人。正雪の元に全国の浪人が結集(数百人~1500人)。丸橋忠弥らが江戸で騒動を起こして将軍・家綱を拉致。大坂では金井半兵衛らが決起で天皇を擁す。両陣営の総指揮を正雪がとる計画。だが7月23日に謀反露見。26日に正雪自害。僅か4日で鎮圧。幕府はこの事件を機に文治政府へ舵を切ったとか。

 進士著には、肝心の蕃山・正雪の〝陽明学〟についての記述僅少。熊沢蕃山は陽明学嫌いの保科正之や林羅山らに、その「王道主義」が批判されていた上での「正雪の乱」。以後は浪々の人世を送って亡くなったと記されていた。次回は陽明学を分析しつつの宮崎公子著『大塩平八郎』を読んでみる。

 写真は金乗院(目白不動)の丸橋忠弥の墓。絵は豊原国周の歌舞伎「樟紀流花見幕張」の簡易模写。絵は俄か道楽ゆえ、久しく描いていないと一気に描けなくなる。絵が拙いので文字(レタリング)で頑張ってみた。

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19)定信の造園:大塚六園と海荘 [朱子学・儒教系]

rikuen_1.jpg 「浴恩園」の次は、大塚の白河藩抱屋敷「六園(りくえん)」について。同園は約2万坪。造園は文化5年(1808)で定信51歳。場所は嘉永期(1848~1855)の「江戸切絵図」(写真下)を見れば、護国寺の先(現・大塚3丁目交差点辺り)に「松平越中守」地あり。2万坪もありそうもない。ネットにアップされた「江戸の定信庭園」チラシらしきの「六園」地図を見ると、その地から現・東邦音楽短期大学から大塚公園(元・松平長門守下屋敷)手前まで広がっている。実際はどうだったのだろうか。

ohtukarikuen_1.jpg ここで気付くのは、「寛政の改革」時の仲間〝寛政の三博士〟らが葬られた「大塚先儒墓地」の眼前ではないか。この時期には、定信は彼らと〝没交渉〟だったのかしらとも思う。

 同園は春園、秋園、集古園・竹園・攢勝園で構成。「集古園」の石蔵には定信蒐集の古画、古書、古物、また『集古十種』版木などを収納。攢勝園には浴恩園から珍しい植物などが移植。また同園は抱屋敷ゆえ明治維新後も接収されず、明治43年に旧桑名蕃主松平子爵邸になったらしい。絵は国立国会図書館デジタルコレクションより「大塚里 六園館御苑真写之図」。

 かくして松平定信の造園道楽は歯止めなし。次に紹介は文化13年の定信59歳、深川入船の抱屋敷に「海荘(はまやしき)」を造園。東京湾に接し、房総半島の山々、羽田や品川沖に富士山を遠望。定信は築地の「浴恩園」から遊び船「問影丸・探香丸」に乗って「海荘」へと遊覧したらしい。現・東富橋の南詰に「海荘跡」の史跡案内板があるらしい。

 「寛政の改革」で倹約質素、贅沢禁止で江戸庶民文化の芽を摘んだ定信の、後の造園論や芸術論、また雅文の『花月日記』など読みたくもない。江戸庶民も定信晩年の姿まで厳しい眼(恨み)を注ぎ〝落首〟で憂さを晴らしていた。

 最後に定信の隠居後の他の主な仕事を簡単に記す。寛政12年の『集古十種』編纂。描いたのは谷文晁、白雲、大野文泉。谷文晁に古画模写をさせた『古画類聚』。弊ブログで司馬江漢シリーズを記したか、そこに登場の亜欧堂田善に銅版画を学ばせて蘭書を模写させている。蒐集した蘭書(天文・世界地図)を通詞・本木良永他に翻訳させている。また自身が名君だったと後世に伝えようと伝記『羽林源公伝』『宇下人言』などもあり。

 文政12年〈1829)72歳。神田出火の大火で松平家の八丁堀上屋敷、築地「浴恩園」、三田の中屋敷など類焼で、病身の定信が寝たまま大駕籠で避難。この時の落首も残されている。仮寓の中屋敷で同年5月、72歳で没。

 松平定信は大日本帝国時代に注目・評価され、戦後の民主主義と学問の自由によって、それまで隠蔽されていた部分などが明るみになって、今では注目もされぬ存在らしい。この辺で松平定信について終わりましょう。

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18)松平定信の造園道楽 [朱子学・儒教系]

yokuonzenzu_1.jpg 松平定信は「家柄+秀才=自己中心=人や世の理解不足=狭量」によって老中解任。その直後から庭園造成に没頭した。江戸では同年着手で築地下屋敷に「浴恩園」を、大塚の抱屋敷で「六園(りくえん」を、深川入船の抱え屋敷で「海別(うみやしき)」を造園。白河に約1万4千坪「三郭四園」と「南湖」の計5つの庭園を造った。

 5つの造園経費はどれほどで、どこにあったお金なのかしら。「寛政の改革」で庶民に執拗なまでの倹約質素、贅沢禁止を強いて「あんた、一体何をやってんの」と呆れてしまう。あなたの「儒教・朱子学」ってぇのは庶民を痛みつけ、自らは贅沢三昧、風流を気取るってことだったのかと思ってしまう。

tukijisijyo_1.jpg ここでは江戸の庭園のみを記す。「浴恩園」の地は現・旧築地市場。元・一橋家下屋敷の1万7千坪を老中首座時の寛政4年に入手。翌5年から造園着工で翌年の37歳に完成。寛政3年に山東京伝が手鎖50日の刑、蔦重が財産半分没。司馬江漢だって寛政6年に『西遊旅譚』絶版令。着物から煙管まで〝贅沢品だ〟で引っ張られた庶民は数え切れなくいたのではなかろうか。

 「浴恩園」の名は、実際に将軍に嫌われての解任なのに、働きが認められてを装った命名か。二つの池を中心に回遊式庭園で、隣の「浜離宮」と同じく水門調整で潮水を導入。池周辺に春風館、花月亭、霞台、秋風舘。そして定信居館は両池を見下ろす数百坪の千秋館。祖父・吉宗が飛鳥山で行った手法で51カ所の景勝ポイントを設け、名士の漢詩・和歌の筆跡を刻んだ碑を建て、詩歌会や琴棋書画四芸会などの風流遊び。

 文化9年(1812)55歳で家督を嫡子定永へ譲ると同園で生活。世俗を離れ忘れて風流を楽しむ「楽翁」と名乗ったらしい。同園で繰り広げられる宴の参加者は、在任中(寛政の改悪)のことには触れないが決まりだったとか。一体どういう神経で風流なのや。

 「浴恩園」は文政12年(1829)72歳時の、神田佐久間町から出火の大火(2800名焼死)で類焼。その跡地は明治維新に海軍兵学校、関東大震災後に日本橋から魚市場が移転してきた。そして今は市場が豊洲に移って、オリンピック時は車両基地。その後は国際会議場他に再開発されるらしい。

 写真は先日に「レガッタ汐留」より撮った現・築地市場跡。市場正面の壁に「浴恩園の史跡案内板」が埋め込まれているらしい。絵は「浴恩園全図」(国会図書館デジタルコレクションより)。次は大塚の「六園」と深川の「海荘」について。 

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17)定信の陰謀と落首 [朱子学・儒教系]

himitusyo1_1.jpg 松平定信は、天明飢饉の最中に養子先・白川藩主松平定邦の隠居、自身の家督相続に相当額を投じたとか。晴れて藩主になると、まぁ、有頂天の感で次々と飢饉対策の諸施策を発令。藩士らの渋い顔が浮かんでくる。

 「身分の高い家柄に生まれ育った方は、自分中心になりがち。自分の考え、理想、実行力に酔って、他への配慮に欠ける。大河の中にいる自分を見極めるのでなく、自ら大きな流れになって周囲を押し流してしまう」(平岩弓枝『魚の棲む城』の一文より)

 定信は松平先祖・定綱の木像を桑名から譲り受け、藩祖を敬えと御霊屋を設けた。それに併せて己も神として祀られるよう~の算段あり。そして田沼意次を恨みつつも、養父宿願の〝溜間詰〟昇格推挙を田沼家に媚びる腹黒さ。溜間詰が決まると「勤め向きの評価だ」と家中に言い広める。定信は常に他人が気になる。〝ええ格好しい〟の性癖あり。そんな人物に朱子学が摺り込まれていたから、その先は言わずもがな。

 溜間詰に決まれば、今度は老中首座を狙い、憎き田沼意次失脚へ一橋治済と組んで動き出す。天明6年8月、将軍家治没。その公表までの間に、田辺意次解任と同時に、30歳の定信が老中首座と奥勤めに決定(小生のくずし字お勉強で筆写したのが、その裏工作成功の秘密文書一部)。定信は老中首座になると田沼派を追い出し、同志を老中に、さらに若年寄、勘定奉行、勘定吟味役なで固める。

 その独裁体制をもっての6年間「寛政の改革」。その矢継ぎ早の諸施策を見れば(内容は何度も紹介済ゆえ省略)、彼の功を図り、焦り、てらい、かつ仲間や庶民への猜疑心までもが透けて見えて来る。独裁が進むと、己が描く将軍像を押し付けて将軍に嫌われる。頑固な倹約質素で大奥に恨まれる。やがては幕臣全般に反定信グループが出来てくる。そんな定信の状況にチャンスを狙っていたのが一橋治済だった。

oumugaesi.jpg_1.jpg ここで松平定信が江戸庶民から如何に人望なしだったかを物語る落首の数々。「ちいさい物ハ西丸下の雪隠と申候」(西丸下屋敷の定信の便所が小さい。ケツの穴が小さい、狭量だ)、「世の中に蚊ほどうるさき物ハなし 文武ブンブと夜も寝られず」、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」。

 寛政5年7月、約6年で老中解任。彼の常套手段で解任も〝依願辞任〟にすり替えた。その後の幕府は権力集中を反省して集団的な政治主導になったとか。かく老中引退後も落首は続く。よほど庶民から恨まれていたらしい。「白河に古ふんどしの役おとし 今度桑名でしめる長尺」(隠居後の松平家が桑名転封を笑って)、「越中が抜身で逃げる其跡へ かはをかぶって(以下略)」(文政12年大火で病床の定信が大駕籠に乗って避難の際に、邪魔な町人を切ったとの噂が流れて)。定信を見た幕臣の足軽が「あいつをみろ、世の中を悪くしたのはあいつで、馬鹿なやつだ」と口走ったとかの記録もあるとか。

 くずし字筆写は:松平越中守儀 弥(いよいよ)老中上座被仰付候御治定二而 来ル十九日比可被仰付御沙汰二付一両日之内 掃部頭方迄被仰付御達之程二候段 委細被仰付越承知致候 誠二御丹誠ヲ以無滞 愚願も相届致満足候 且土佐守事も被仰付候 以後世上共二評判宜趣二及承別而至大慶候~

 写真下は恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』の一部(国会図書館デジタルコレクションより)。恋川春町は定信から出頭を命じられ自刃したらしい。お墓は新宿2丁目の成覚寺に忘れられたようにある。

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16)松平定信の人物史観 [朱子学・儒教系]

sadanobuhon_1.jpg 磯崎康彦『松平定信の生涯と芸術』、高澤憲治の人物叢書『松平定信』を読む。磯崎は福島大名誉教授で地元・福島県在住らしい。平成20年の定信生誕250年に地元紙「民友新聞社」に〝松平定信公伝〟を連載。その後に新たな論文を加えた書。当然、定信賞賛派だな。

 「はじめに」に、定信は政治・経済の分野のみならず思想・文学・芸術などの領域においても多大な業績を残した。今日、研究分野が細分化され、定信は日本史・社会経済史・思想論・交易史・蘭学・文学史・美術史などの分野から追及される。そして「わが国では、定信に悪態をつくような著作はきわめて少ない」と断言。

 本当だろうか。小生は前項で平岩弓枝、村上元三、池波正太郎による定信否定派の小説を紹介したばかり。著者はかく断言したが、やはりそこにこだわったのだろう。第一章が「松平定信の人物史観」になっていた。

 徳川家重、家治に仕えた田沼意次は貨幣経済に力を注いだ重商業政策者で、定信はそれを否定した重農政策者。意次は賄賂の政治家で、悪政家の代表、好ましからざる為政者として悪評が固定化されていると記す。そして明治、大正、戦前までの定信賞賛の著者・著作を次々に紹介。定信は公明忠正な政治家で、定信の教育は守国の理想となり、まさに模範的な人物として担ぎあげられている、と同章を締め括っていた。

 比して高澤著「はしがき」では~ 最近まで定信は清廉潔白、儒教的仁政を行った理想的政治家などというものだが、これは昭和12年に楽翁公徳顕彰会が渋沢栄一著として刊行した『楽翁公伝』によるところが大。同書は自分の伝記を家臣に書かせ、後世に自身が儒教的政治家で、伝統文化保護や継承に務めたことなどを伝えたもの。それゆえ自分や自家に不都合なことは隠蔽。家臣が彼を賞賛するために作成された書物も多い。しかし第二次大戦後、学問の自由が保障された結果、隠されていた部分が明らかにされてきた。本書は彼がまとっていたベールを剥がし、実像に迫ろうとしたものです。

 まぁ、見事なまでの反対意見。悩ましいことです。ウィキペディアにアップされている松平定信の隠居後の楽翁像をクリックしたら、それは個人ブログで「江戸の〝習近平〟」とあって腰を抜かすほど驚いた。調べれば同絵は狩野養信筆、福島県立博物館蔵らしい。

 松平定信の画像検索を進めると、小生が5年前にブログアップした徳川黎明会による「江戸時代古文書を読む/寛政の改革」より「くずし字筆写」の秘密文書(一橋治済が中奥の小笠原宛に、松平定信が老中上座被仰付候御治定に而~の裏工作成功の報)もアップされていてまた驚いた(拙い書ゆえ次回書き直してアップ予定)。次回は朱子学、陽明学をもって独裁政治を行った場合の弊害・歪み・恐ろしさをもう少し探ってみたい。

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15)松平定信と田沼意次 [朱子学・儒教系]

okituguhon_1.jpg 松平定信および田沼意次の評価は賛否両論。小生、寛政期に江戸文化が芽生え武士、町人らが一緒になって狂歌、黄表紙、浮世絵などで盛り上がったことから同時代を覗いたので、彼らを弾圧した「寛政の改革(松平定信)」に良い印象なし。

 下町散歩で霊巌寺内「松平定信墓」を見た時に、その頑丈な鉄格子は江戸庶民の怒りを防ぐためかとさえ思ったもの。さて松平定信と云えば、まず田沼意次だろう。意次の生涯を描いた小説2編を読んでみた。

 平岩弓枝『魚の棲む城』に描かれた田沼意次は、一世の快男児でいい男。腹黑いのは次期将軍の実父に収まった一橋治済で、幕政参入願望の強い松平定信が巻き込まれて~の構図で描かれていた。悪徳政治家=田沼意次のイメージは、彼を失脚させて、自身が老中首座に収まりたい松平定信が流した根も葉もない噂。意次の嫡子で若年寄に抜擢された意知が凶刀に倒れたのも、暗に定信が裏にいたような思わせぶりの小説だった。

 次に村上元三の長編小説『田沼意次』を読む。まずこう提示している。天明7年に「田沼主殿へ仰せ渡されし書」で悪人にされたが、50年の後にそれが偽書だと証明された。果たして意次は伝えられるほど悪人だったろうか。田沼意次の蟄居後の居城・相良城を、定信が徹底破壊したがあれほど倹約質素主張の定信が、莫大費用をもって破壊した異常さは何だったのろうか。また同地が一橋治済の預かり地になったことからも、治済が定信を動かして田沼意次を窮地に陥れたのではないか。尊号事件にせよ、その背後に治済がいたに違いない~とも記していた。

 また「定信が〝陽明学者〟として一流の人物(ホントかいな)だったが、老中としては政道が窮屈すぎた。たとえば江戸中洲の繁華街を潰して、もとの河川に戻してしまったのも、田沼の行ったことすべてをひっくり返さなければ気が済まない確執があった証だろうと記す。まるで前政権の全施策・スタッフを徹底排除するあの国この国のようです。

 また松平定信が晩年に書いた(書かせた)自伝『宇下人言』も読んだが、朱子学者というより、やっと華咲いた江戸文化を弾圧した言い訳綴りのような内容。例えば~

「寛政四、五年の頃より紅毛の書を集む。南蛮国の書は天理地理、兵器、内外科の治療に益あるも、心なきものの手に渡れば危険があろうから〝我が方へ買い置けば、世にも散らず、御用あるときも忽ち弁ずべし〟と長崎奉行に断じて、舶来の蛮書買い侍ることと成りにけり」

 まぁ、己を神(実際に自身を祀っていた)とも思っての、マイファーストの独裁の弁明綴り。江戸庶民に倹約質素、贅沢禁止、異学の禁、出版統制など次々の禁止令。人を信用できぬ猜疑心から隠密に隠密をつけるなどで厳しい罪を科した6年間。

 だが権力欲から将軍・家斉から嫌われ、猜疑心や独裁から老中仲間に疎まれ、江戸庶民にはなにかと落首で馬鹿にされ続けた6年後に老中罷免。すると今度は造園趣味、蒐集してきた蘭書、書画に熱中で文化人面。どこが朱子学、陽明学かと。「寛政の改革」の6年間は何だったのかと思ってしまう。

 こう記した昨夜、女房が好きで観る再放送時代劇「剣客商売・御老中暗殺」にお付き合い。するってぇと田沼意次暗殺にうごめくのが一橋治斉の設定。池波正太郎もきっと〝田沼意次いい男派〟だったんだなと思った次第。次は小説ではなく定信評価正反対の高澤憲治著『松平定信』と磯崎康彦著『松平定信の生涯と芸術』を読んでみる。

 追記:池波正太郎の剣客商売『春の嵐』にこんな文章あり。田沼「一橋卿は、何としても、この意次を蹴落すおつもりであろうよ。そして、その後には、松平越中守殿に天下の政事を引きわたすのであるまいか。越中守殿なれば、わしを屈服させるよりも、たやすいことじゃ。激しく怒り、あからさまに手強く立ち向かう越中守殿なれば、一橋卿がつけこむ隙は、いくらも見出せよう。何となれば、一橋治済は、我が子の家斉を現将軍・徳川家治の養子にすることに成功してる。家斉が11代将軍となったあかつきには、一橋治済は将軍の実父として将軍同様~」。

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14)改めて、松平定信とは(上) [朱子学・儒教系]

sadanobu1_1.jpg 松平定信(第11代将軍家斉の老中)については<儒者の墓(10)寛政の三博士・柴山栗山>の項で紹介済。また「寛政の改革」については幾度も記してきた。朱子学を幕府公認学問とし、「天皇~将軍~大名・役人~国民」思想。小生はそれが「尊王・大政奉還」へ、さらに「大日本帝国憲法」に至るようですと記した(定信72歳没の38年後に大政奉還)。

 さて松平定信は、果たしてそれほどの人物だったのだろうか。彼の父は8代将軍・徳川吉宗の第2子・宗武。父の兄・家重が健康芳しくなく、次期将軍は自分と思っていたも、兄が将軍就任。宗武は江戸城内の田安邸へ。兄の欠点を羅列して、吉宗から3年間の謹慎命。

 宗武の子は15名。正室から生まれた治察が嫡子で、側室との間に生まれた7男が定信(幼名・賢丸)。7歳から学問開始。書道や儒学を。11歳から和歌、弓・剣・槍・馬術を。12歳で猿楽や絵(狩野派、南蘋派)も学ぶ。この頃の江戸は浮世絵が錦絵になって大流行。

 父の将軍就任が叶わずで、定信は幕政への意欲を胸に秘める。明和8年、14歳の時に父死去。兄・治察が相続。安永3年、17歳の賢丸は白河藩主・松平定邦に婿養子へ。田安邸で暮しつつ「松平定信」に改名。同年に兄・治察が病没。定信は田安家相続を願うも〝執政邪路のはからいで(田沼意次の反対で)〟田安家相続~将軍の道が絶えた(実際は一橋治斉の工作だったらしい)。田沼を憎むこと・恨むこと。

 松平定邦が発病で、定信は定邦の娘・峯子(5歳年上)と結婚。八丁堀の松平藩上屋敷に移居。この頃の定信の述懐~「20歳の頃までは四書五経のみを学んだために頑なで人情にも疎かった」(その狭量は後も変わらず)。政治に権力に意欲、かつ頑な性格の彼にとって、為政者向き朱子学はもろに嵌った。と小生は推測する。

 安永8年、22歳。将軍世子の家基が18歳で急死。一橋治斉の子息・豊千代(家斉)が世子へ。一橋が御三家・三卿と組み、権力願望の強い定信を仲間にした。時、天明3年7月の浅間山噴火。前年も凶作で〝天明飢餓〟。白河藩主・松平越中定信になった彼は、いち早く米穀買入れに奔走して白河入り。倹約質素、農業増産、商業資本の統制、風聞流布の警戒、家中引き締めの武力強化策(これらが後の「寛政の改革」へ)

 天明4年3月、旗本某が若年寄の田沼意次の嫡子・意知を襲う(裏で誰かが動いていたの噂)。そして天明5年に定信が一代限りの「溜間詰」になって、田沼追放に画策開始。

 天明6年、家治没で家斉が将軍へ。御三家や一橋治斉らの推挙で定信が老中首席と奥勤めを拝命。田沼意次失脚と田沼家と田沼派を激しく追放。(以上、高澤憲司著『松平定信』と磯崎康彦著『松平定信と生涯と芸術』を参考にまとめた。両著者の定信評は正反対)。

 絵は30歳の定信自画像模写。撥乱而反正(乱を撥めて正に返す)賞善而罰悪(善を賞して悪を罰す)と書いてあった。

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13)儒者風刺の古川柳 [朱子学・儒教系]

jyusyasenryu_1.jpg ここでまた脱線です。中国では「科拳」合格で即官僚も、江戸・寛政期の「学問吟味」では小普請の徒歩組、大田南畝がトップ合格でも2年後にやっと支配勘定へ昇進で30俵が加増されただけ。儒学(朱子学)を学んでも幕府官僚や各藩儒者になれるのは稀で、多くは貧乏学者のまま。せいぜいが手習所(寺子屋)で食って行く他はなかった。

 渡辺信一郎著『江戸の寺子屋と子供たち』に、そんな儒者らを微笑ましく笑った古川柳が紹介されていた。そこから幾つかを紹介です。

 「頭神(し)ン喉仏(ぶ)ツ胸に儒が住居」 これは(6)冒頭で中国では三教「儒教=先祖祭祀による現世への招魂再生。道教=自己努力による不老長生。仏教=因果や運命に基づく輪廻転生」混在と記したが、江戸庶民は「頭は神、喉に仏教、胸に儒教」混在と、見事に川柳にまとめている。

 儒者の真面目、杓子定規を笑ったのが「墨までも儒者は曲がらぬやうに摺り」。「子供にも草履隠しを儒者させず」。「儒者だけに欠かぬは義理と犢鼻褌」(犢鼻褌=とくびこん=ふんどし。儒者はふんどしも漢文調)。儒者の博識自慢を笑って「虎の鳴き声を聞かれて儒者困り」。

 昌平坂学問所がらみでは「昌平は唐名和名は芋洗い」(昌平橋の昔の名は〝芋=魔羅〟洗橋)。「三度目に昌平坂の下へ越し」(孟子の母の故事にかけて教育ママを笑う)。学問ばかりの貧乏暮しを笑って「借銭の余計にあるのに儒者困り」。「儒者を立てても古郷に借り」。「しこうして儒者店賃の日延べなり」(而して=漢文で)。「財を食む如しと儒者の初鰹」(初鰹の高値に漢文調で驚いている)。「而て後にと儒者の大晦日」(漢文調で年末の借金の言い訳)。「富は家を潤すものと儒者も買ひ」(言い訳しつつ儒者も冨札を買う)。「店賃で言いこめられる論語読み」(論語読みも店賃を溜めれば大家の言い分に負ける)。

 儒者の性を笑ったバレ川柳。「きっとした学者かならず女好き」(むっつり助平が多い)。「一陽が来復したと儒者おやし」(おやし=勃起。それを一陽来復と漢文調で)。「ラリルレロタチツテトには儒者困り」(ラ=マラ。魔羅がちょくちょく勃って困惑の儒者)。「論語読み思案の外の仮名を書き」(日々漢文だが、恋文だけは仮名で書く)等など~

 なお同書には「寺子屋以前の子供の実相」「寺子屋風俗」「詠の師匠と弟子」「三味線の師匠と弟子」「琴の師匠と弟子」などの項で多数古川柳が蒐集・解説されている。

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12)朱子学・陽明学は関西中心? [朱子学・儒教系]

masakado.jpg.jpg 森銑三著に「寛政の三博士は全員が関西人」なる記述があった。過日「大塚先儒墓所」を掃苔したが、余り胸に響かなかったのは、そのせいかも知れない。同墓所に眠る室鳩巣と岡田寒泉のみが江戸の人で、他全員が関西出身者。そこを調べ記してみる。

 まず江戸生まれの室鳩巣は現・台東区谷中生まれ。14歳で金沢藩に仕え、京都遊学で木下順庵に学ぶ。岡田寒泉は西丸書院番の子。松平定信が老中退任後は常陸の代官職。そして以下全員が関西出身者。

 木下順庵は京都出身。藤原惺窩の弟子かつ姻戚の京都・松永尺五に師事、一時は江戸にいたが京都に戻って金沢藩に仕え、その後に江戸幕府儒官。「木門十哲」を輩出した。柴野栗山は讃岐(香川県)生まれ。高松藩の儒者に学んだ後に、湯島聖堂で学び徳島藩の侍講に就任。定信に召喚されて昌平坂学問所の最高責任者へ。

 尾藤二洲は、伊予国(愛媛県)生まれ。24歳まで讃岐国の儒者に学び、その後は大阪の片山北海の門下。古賀精里らと共に学んで寛政3年に昌平坂教官へ。古賀精里は佐賀藩士の子。京都で朱子学を学んだ。彼らの先輩の藤原惺窩は、播磨(兵庫)生まれ。歌道の下冷泉家系で、家康に侍講したが危険察知で京都鞍馬の山麓に隠棲。林羅山も京都生まれ。

 次に幕末志士らに影響を与えた陽明学の方々を調べれば、大塩平八郎が大坂町奉行の元与力。中江藤樹は近江国(滋賀県)出身で近江聖人。熊沢蕃山は京都下京区の浪人の子。備前国岡山藩主の小姓から近江に戻って中江藤樹の門下。三輪執斎も京都の医者の子。江戸~京都を住み替えつつ、晩年は京都に退居。吉田松陰は長州藩士。

 儒教が朱子学から陽明学へなるに従って、それが俄然、西の人の学問・思想の感が濃くなってくる。江戸っ子の長屋暮しの熊さんにはとんと縁がない。「幕末は表向き、陽明学歪曲の革命的解釈だが、根は日本古来の神道による王制復活だった」と指摘されれば、江戸っ子庶民にはますます縁遠い。

 天皇が江戸城に入った年が明治元年。それまでの江戸庶民の〝お上〟は徳川だった。江戸っ子の総鎮守が「神田明神」で、そこには坂東武士のヒーローで東国独立で〝朝敵〟となった平将門が祀られている。「山王日枝神社」は江戸氏や大田道灌が建立で、別当寺は鏡智院。御祭神は山や水を司る地主神・大山咋神。さて、江戸っ子・熊さんは朱子学や陽明学をどう解釈したらいいのだろうか。写真は「神田明神」。

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11 ) 陽明学から幕末へ [朱子学・儒教系]

youmeigaku_1.jpg 「陽明学者」が関西人、さらに西の方々ってぇことで、俄かに興味を失ったが〝いとまある身の徒然に~〟「陽明学」のお勉強です。参考は島田虔次著『朱子学と陽明学』、吉田公平著『王陽明「伝習録」を読む』ほか。

 その祖・王陽明は1472年、浙江省生まれ。父が進士試験首席及第で北京で官界入りし、陽明も10歳から北京暮し。勉強嫌いで戦争ごっこ好き。18歳で勉学に目覚め、28歳で進士へ。35歳の時に権勢ふるう宦官への反対運動で投獄。山地に流された。

 そこで日夜静坐。「聖人の道は、吾が性自ら足る。さきの理を外に求め̪るのは誤り」と大悟とか。つまり朱子学の圏外で、自己救済の道を発見。39歳で例の宦官が誅せられて官僚コースへ戻る。陽明学を講義しつつも陸軍大臣控まで昇進し、大規模な農民反乱の続発を平定。中国では人気のない人物だったらしい。また女性運悪く、家庭は常に修羅場だったとか)。

 さて、その陽明学を、長屋の隠居・熊さん(小生)にもわかる言葉、言い回しでまとめてみる。孔子の儒教は先祖からの生命持続論で「礼・孝・仁」が肝心。朱子学はそこに「気と理」概念を持ち込んで形而上学まで発展。その軸は「性即理」。人間の多様性や弱さの「情・人欲」は「気」の歪みゆえ、学問・修養で修正し、天から与えられた純粋な本性(性善説)をもって「即理」とする説。

 一方の陽明学は「心即理」。「心と理」を二分せず。「性・情」合せたものが本来の心ゆえ「心即理」。それを説いた書が『伝習録』。「心即理」に併せて「知行合一・至良知・万物一体の仁」が要とか。

 「到良知」の良知=万人が持つ先天的な道徳知=人間の生命力。これを全面的に発揮すること。人欲も自然なものとして肯定。「知行合一」=美しい色を見る=好きだから見る=「好き=行、見る=知」即ち「知行合一」。「万物一体の仁」は、自分を含む万物は繋がって一体ゆえ、他人の痛みは自分の痛みと説く。ゆえに社会教育や社会改革に至る。

 朱子学は読書や静坐を重視したが、陽明学はコトが起こったら、それでは役に立たない。日常生活の中で「良知」を磨く「事上練磨」が肝心とも説く。ゆえに陽明学に影響をされた者は社会的、政治的行動に走りたくなるらしい。

 日本の陽明学は中江藤樹(没後に『伝習録』が和刻)~三輪執斎~佐藤一斎~彼の門下らは陽明学を己の私欲・執着を「良知」を勘違いし、妄念を心の本性の叫びと間違えて行動に移して革命志向に走ったと指摘されていた。なお吉田著は「伝習録」原文と現代語訳・解説で構成されている。

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10)江戸から明治維新へ [朱子学・儒教系]

IMG_1685_1.JPG 小島毅著『儒教が支えた明治維新』が儒教・朱子学の流れをダイナミックに説明していた。同書参考に小生調べも加え、明治維新までの流れを一気にまとめてみた。

 孔子開祖の儒教思想は、紀元前1世紀~紀元後1世紀に、漢帝国の御用学問となり、7世紀の唐初期に教義統一が図られた。日本は、その政治秩序、社会組織を真似て8世紀初頭に儒教思想を理念の「律令国家」を完成した。

 中国儒教は、その後に朱熹が「理と気」の概念をもって朱子学を確立。より個々人の内面修養が重視された。朱熹没の約100年後、久しく中断の「科拳」が再開で、朱子学による新注「四書五経」が科目となって、朱子学が権威を有した。

 日本では17世紀に藤原惺窩や林羅山らによって朱子学が普及。徳川家康は羅山の〝曲学阿世〟をもって豊臣討伐を正当化して天下統一。老中・松平定信の「寛政の改革」で「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学を幕府公認学問にした。聖学堂に昌平坂学問所を設け、寛政の三博士(全員が関西人)はじめを招聘。江戸庶民の贅沢品禁止、幕府批判禁止、混浴禁止、帰農令、囲米、棄損令、出版統制など。

 その後、藤原惺窩の寛容さもあってか諸説思想家が次々に登場した。経験主義的性格が濃い貝原益軒、新井白石などの派。大学頭の林家系。古学派(反朱子学者の山鹿素行、伊藤仁斎、萩生徂徠など)。懐徳堂派(大阪商人設立の学問所)。崎門学派(山崎闇斎の門下、浅見絧斎、佐藤直方、三宅尚斎など)。折衷派など~。

 そして陽明学派(中江藤樹、熊沢番山、三輪執斎、幕末の大塩平八郎=三島由紀夫は大塩に影響を受けた)は、その革新的な傾向を受けて吉田松陰、西郷隆盛らによって討幕運動の精神的背景になった。

 よって日本はアジアの中で最も早く西洋風近代国家への脱皮を果たしたが、その表向きは陽明学歪曲の革命的解釈で、根は日本古来の神道による王制復活、実質的には西洋列強を模倣した国家構築~が正しい。つまり端から儒教・朱子学は為政者に便利な理念で、民衆が支えていたのは仏教(寺請制度)だった。明治国家は陽明学的な幕末志士らが退場し、朱子学的な能吏が政治中枢を占め、その官僚制度が今も持続されていている、と説明。

 神道や王制復活の文言で、吾が鼻がムムッとうごめいた。もしやと陽明学に影響された方々を調べてみれば、全員が関西人なのに衝撃を受けた。江戸下町の熊さん八っつぁんには無縁の臭いがして、ここは小生ならではの臭覚発揮どころかなと思ってしまった。

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9)宇江佐真理と大田南畝旧居 [朱子学・儒教系]

harukaze_1.jpg 蔵書せぬ主義だが本は増える。先日は高価で捨て難かった洋書ゴルフ大型本を二括り捨てた。女房も膨大な時代小説群を捨てている。終活です。それでも残った宇江佐真理『雪まろげ』から「14歳の蜆売り・新太が手習所で習った『論語』だって澱みなく言えた」に、そりゃないだろうと記したばかり。

 そしてもう一冊、同作家の『春風ぞ吹く~代書屋五郎太参る』について。同文庫がなぜ本棚に残っていたかと云えば、同小説は代書屋で働きながら昌平坂学問所に通い、学問吟味に挑戦する小普請・五郎太の物語で「大田南畝」が登場しているからなんです。

 物語最終章「春風ぞ吹く」。五郎太が代書屋に詰めていると、芝居見物帰りの南畝(七十前後)が妾お香さんと入って来る。風邪気味ゆえ京伝店へは行かず代書(狂歌一首)の配達を頼んできた。

 老人は、五郎太を学問吟味に挑戦中と察し、自ら著わした学問吟味の詳細『科場窓稿』を進呈するゆえ、京伝店の返事を自宅に届けてくれと頼む。南畝が「寛政の改革」によって学問吟味を受ける経緯や当時の状況などを詳しく記して興味深い小説なのだが、どうも大田南畝の家の設定がおかしいのです。

 「老人の家は急な金剛坂を上り、東に折れて三軒目にあった」。坂を上り切れば、そこは現・春日通り。同じく金剛坂生まれの永井荷風は、南畝の家を「是則金剛坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛坂の中程より西に入る低地なりと検証家の言ふところなり」と記している。金剛坂を下れば、そこはさらに低地・鶯谷で、そこを見下ろす見晴らしのよい崖上に南畝の「遷喬楼」と名付けられた家があったが定説。「鶯が喬木に遷るに逢う」の意の命名。この辺は実際に現場を歩いてみないとちょっとわからない。その谷底を今は地下鉄・丸ノ内線が通っている。

nanpokesiki.jpg.jpg さらに決定的な間違いは、南畝は文化9年(1812)の64歳に、金剛坂から駿河台淡路坂の拝領屋敷に移って、最晩年の11年間をそこで過ごしている。二階の十畳が彼の書斎・客間。そこから神田川渓谷向こうに湯島聖堂の甍と森が、その左に昌平坂学問所が見える。南畝はその家を聖堂の「緇林杏壇」から「緇林楼」と名付けていた。ここに五郎太を招いていれば、物語はさらに盛り上がったろうに、作者は迂闊にも「緇林楼」を見逃していたらしい。

 小生、南畝旧居巡りをした際は、「緇林楼」の地はずっと工事中で、2013年に23階ビル「御茶ノ水ソラシティ」完成後に「蜀山人終焉の地」の立派な史跡看板が設置され直されていた。そう云えば永井荷風の麻布「偏奇館」も45階「泉ガーデンタワー」になって、1階の植え込みに「荷風旧居」の史跡看板ありで、江戸文化人の旧居は、かくも高層ビルに呑み込まれている。

 小生、永井荷風好き。荷風が大田南畝好きで「年譜」まで作成していたことで大田南畝を知り、「寛政の改革」や「学問吟味」も知った。而して今、学問吟味の「儒教・朱子学」のお勉強に相成り候。写真は「緇林楼」から湯島聖堂辺りを臨んだ今の写真。

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8)藤原惺窩と林羅山の違い [朱子学・儒教系]

fujiwaraseika.jpg_1.jpg 儒教が朱熹の謹厳さ反映「朱子学」になった。小生はこの辺で御免蒙りたいが「孔子vs朱熹」と同じく「藤原惺窩vs林羅山」も面白いので記してみる。

 惺窩には孔子的な人間味があり、また権力者・家康から離れたのに比し、弟子の林羅山は家康に〝曲学阿世〟で擦り寄った。以下は太田靑丘著『藤原惺窩』参考にまとめる。

 藤原惺窩は川中島合戦最中、永禄4年(1561)の播磨(兵庫)生まれ。父は歌道の下冷泉家系。7、8歳で仏門へ。18歳で父と兄が戦死。京都相国寺で禅学に専念。(若冲が〝山川草木悉皆仏性〟で描いた「動草綵絵」奉納は約185年後のこと)。30歳、朝鮮国使の宿舎・大徳寺に出向いて筆談。朝鮮はすでに朱子学の時代だった。

 文禄2年(1593)、33歳。豊臣秀俊(秀吉養子)に従って朝鮮出兵の後方根拠地・備前の名護屋(佐賀県唐津市)赴任中に明国信使に会い、また徳川家康にも謁見。これを機に、同年12月に家康に招かれて江戸へ。政治家必読『貞観政要』(唐皇帝・太宗の帝王学)を講じた。

 翌年、母の訃報で京都へ戻る。3年の喪があけた慶長元年(1596)、惺窩は明に渡って直接朱子学を学ぶべく薩摩から明へ渡航を企てるも、疾風で「喜界ヶ島」に漂着。

seika_1.jpg 京に戻った惺窩は、慶長3年(1598)38歳で、伏見城で監視下にあった朝鮮役捕虜の朱子学者・姜沆と会う。惺窩は彼から四書五経を写本。慶長5年、惺窩44歳、林羅山22歳が入門。羅山が同写本(新注)を読む。この辺は「林羅山」の項で消化済ゆえ省略。

 ここからが二人の分岐。惺窩は家康から身を退いた。森銑三著作集・第八巻「藤原惺窩遺事」にこんな記述あり。「或時(家康が)湯武の事を聞きたいと再三御望有れば、合点のゆかぬことぢゃ。大坂でも討つ思案かとて、それから御前へ出られなんだ」。(湯武放伐論=「孟子」にある討伐論)。

 惺窩は家康の野望察知で身を退き、慶長10年に京都鞍馬山麓の山荘に隠棲した。清貧に甘んじ、家系の和歌を、連歌を詠み、芸を否定せず、ユーモアも解し、神儒一致志向へ。心の広さから陸象山や王陽明らの長所も認めた。元和5年(1619)秋、59歳で没。

 惺窩の弟子で姻戚の30歳下の京都・松永尺五の講習堂の門人は数千人。ここから木下順庵、貝原益軒らが出て、順庵門から新井白石や室鳩巣らが輩出された。

 一方の林羅山は家康に擦り寄い、引き続き家光~家綱に仕えて、三世・鳳岡が大学頭へ。松平定信「寛政の改革」で朱子学が幕府公認学問へ。聖学堂に昌平坂学問所を設置。そこに招聘されたのが「寛政の三博士」。彼ら朱子学者の主張が「天道~将軍~大名・役人~国民」だった。(写真は藤原惺窩。国会図書館デジタルコレクション「肖像集」江戸後期刊より)。

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7)美女を見る孔子と朱熹の違い [朱子学・儒教系]

nyugokubijyo1_1.jpg 小生『論語』を読み始めているが、早くも「第二・為政篇」。『論語』は端から為政者の思想(儒教=徳治主義)で、被支配層=大衆庶民・小生は俄かに興味を失った。(孔子の当初弟子は約70名。孔子と同じ士階級中心で官僚を目指す者が多かった)。

 また吉川幸次郎、貝塚茂樹の両解釈を読むと、両人ともに〝朱熹(朱子学)嫌い〟らしく感じた。その辺を庶民・熊さん的下世話さで「学而編」の「下夏曰 賢賢易色~」解釈を例に挙げてみる。

 貝塚訳注は「子夏曰く、賢を貴ぶこと色(おんな)の易(ごと)くせよ」。つまり、人は美人を好むと同じように賢人を尊敬しようの意。当時の「賢を尊ぶこと、色(美女)への想いの如く」の格言からで、孔子は美女のみではなく、すべての美を愛する欲望が文化の根源、と考えての言葉だろうと指摘。比して朱熹は「賢者と美女を並べるとは何事だ」と反発。謹厳な朱熹は、孔子の真意を誤解していると記していた。

 吉川幸次郎解釈でも、古注は「賢人を賢人として尊敬すること、美女を尊敬する如くなれ」で、次の六朝時代の解釈は「賢者に遭遇した場合は、賢者を尊重してハッと顔色を易(か)えるほどであれ」と解釈。わが仁斎の「論語古義」、萩生徂徠「論語徴」共にそれを祖述。だが朱熹「新注」では「賢を賢として色を易(かろ)んぜよ。賢人を尊重せよ。美人は軽蔑せよ」になっている。

rongohon1_1.jpg 「私の学力では、どれがよいとも定めかねるが、元来の儒教には欲望を否定する思想は少なく、従って女色は否定されていないから、しばらく〝賢を賢とすること色よき美人のごとかれ〟という古注に従っておくと記し、加えて「子罕篇第九」の以下の言葉もあると指摘。それは~

 「子曰 吾未見好徳如色者也」。子曰く、吾れ未だ徳を好むこと、色を好むが如くする者を見ざる也。つまり美人を愛するほどの強烈さで、道徳を愛する人間に、私はまだ出会ったことがない。相当に思い切った言葉を発している。これは孔子57歳の時に、衛の霊公の淫蕩な美しい夫人・南子に謁見した際の言葉。孔子の人間臭さに思わず微笑みたくなるも、朱熹は「とんでもない」と言っているらしい。

 貝塚もほぼ同解釈で、美人と有徳者を対照とするのは、ふつうの道徳家には考えようもないことだが、孔子は音楽、書、詩、礼~すべての美に対して敏感だった。それが孔子の調和の世界観だったのだろうと記していた。

 その問題の〝色〟=淫蕩な美しい夫人・南子は「第六・雍也篇」にも登場する。さて、人間味豊かな孔子(儒教)と謹厳な朱熹(朱子学)のどっちが好きでしょうか。やはり儒教は孔子で留めておくのがよろしいようにも思うのですが~。

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6)儒教から朱子学へ [朱子学・儒教系]

syuki3_1.jpg 儒教が生まれて中国は三教(道教、仏教、儒教)の時代へ。道教=自己努力による不老長生。仏教=因果や運命に基づく輪廻転生。儒教=先祖祭祀による現世への招魂再生。

 儒教は、やがて新解釈の朱子学を生む。この辺をわかり易く書いた土田健次郎著『江戸の朱子学』を参考に、自分流解釈でまとめてみる。

 孔子没は紀元前479年。未だ書物のない時代で、日本は弥生時代。(井上靖『孔子』は、孔子と弟子らの放浪生活が思い出の形で描かれている)。孔子の弟子らによって『論語』本文がまとめられたのは約700年後の後漢末期(~220)。その約900年後の1130年に朱子(朱熹)が生まれた。『方丈記』の鴨長明が生まれる25年前のこと。

 朱熹は9歳で『孟子』読破。19歳で「科挙」合格(中国の「科挙」制度は隋代〝587年~〟から1905年まで1300年間も続いた)。朱熹は「科挙」合格も、出仕せずに家居で儒学を深めた。

 朱熹の先輩哲学者に程兄弟がいた。兄・明道は自由闊達、春風和気。弟の伊川は謹厳・秋霜烈日。兄の系譜上に「陸象山」が登場して、弟の謹厳さを朱熹が受け継いだ。(ゆえに朱熹の『論語』新注は人間味のないつまらん解釈らしい)。四書(論語・中庸・孟子・大学)、五経(易・書・詩・春秋・礼記)などを新解釈。かつ儒教に欠けていた宇宙観、物質観を組立てた。それによって「原儒=死の不安」~「儒教=生命論、家族論」~「朱子=政治論、宇宙論、形而上学(存在論)」へ発展した。

edosyusi_1.jpg その核が「気と理」の二元論。~この世は「気」で出来ている。「気=けはい」はエネルギーを帯びて、陰(静態的)と陽(能動的)があり、五行(木、火、土、金、水)の側面も有す。五行が混合して万物になる。

 陰陽のモデルを男女とすれば、陰陽の関係で子が生まれる。つまり陰陽は「関係・感応の運動(例えば心の動き)」で、この世は「感応する世界」。その感応には法則・秩序があって、それが「理」だと説明。感応が「理」にのっとった状態で心が動けば「道徳」になる。まともに動けば「善」で、歪めば「悪」になる。「気」の歪みは学問や修養で修正する。(この朱熹論を読んでみたいが、それはどこに書かれているのだろう?)

 朱熹没は1200年。中断されていた「科挙」が再開された時に、朱子注の「四書」「五経」が科目になって、朱子学が権威になった。(だが朱子論では、気が散じて死ぬも、散った気の行方が不明で、儒教で肝心の「祖先の祭祀」の説明が不十分になる。この辺は島田虔次著『朱子学と陽明学』に詳しい)

 朱子学の「気」の説明を読んでいると、若い時分に読んだフッサール『現象学』を思い出した。この辺でそろそろ日本に舞台を移したい。

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5)『論語』のさわり~ [朱子学・儒教系]

rongokaisyo_1.jpgrongokuzusi_1.jpg 小生、子供時分も良い子ではなく、学校で「漢文」を習ったことも覚えていない。青年期からの読書も翻訳本中心。而して隠居後に〝古典〟を読み始める体たらく。国会図書館デジタルコレクションの、天文2年(1533)刊『論語』冒頭「論語学而第一 何晏集約」の最初頁を筆写。不勉強爺さんがスラスラと読めるワケもなく吉川幸次郎と貝塚茂樹の『論語』を参考にしつつ読んでみた。

 子曰 學而時習之 不亦説乎 有朋自遠方来 不亦楽乎 人不知而不愠 不亦君子乎

 子(孔子)曰く、学び而(て)時(時々ではなく、折々に)之(『詩経』や『書経』とか)を習う。亦た説(悦)ばしからず乎(不~乎=なんと~ことではないか=悦ばしいことではないか)、朋有り遠方自(より)来たる、亦た楽しからず乎(や)、人知らず而(して)愠(いか)らず(自分の勉強が人に知られなくても怒らず)、亦た君子ならず乎(それも君子ではないか)。

 吉川解説では「之」は読まずにリズム充足の助字。「亦」も軽い助字。相手に同意を導き出すとあり。貝塚著では〝当時の習う〟は未だ書物はなく、木や竹の札に記した時代ゆえ〝口伝〟の学問。ここでは礼儀作法の自習のこと。「時」は助字で「これ、ここに」の意。また「君子」は学者、人格者、求道者と説明されていた。

 有子曰 其為人也孝弟 而好犯上者鮮矣 不好犯上 而好作乱者 未之有也 君子務本、本立而道生 孝弟也者 其為仁之本與

 有子(孔子より43歳下の弟子)曰く、其の人と為りや孝弟(親に孝行、年長者によく従う)にして、而(しか)も上を犯す(目上に抵抗)を好む者は鮮(すくな)し矣(乎=捨て字で読まず。断定・詠嘆の助字の場合は語勢を強める)、上を犯すことを好まず、而(しか)も乱を作(な)す(争いを起こす)を好む者は、未まだ之を有らざる也。君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちで道(仁)生ず。孝弟なる者は、其れ仁の本(もと)為(な)る與(与=か。断定を躊躇する助字)。

 それにしても『論語』の代表的読み手の貝塚、吉川両氏の解釈違いの多いこと。それが『論語』でもあるのだろう。永井荷風も夏目漱石も儒教とは関係なく、子供時分にこうして勉強して漢文、漢詩に親しんで行ったか。

 小生の息子は日本語がどの程度かは知らんが、英会話は出来る。あたしは日本語も満足ではなく、外国語はまったく出来ない。子供時分は「ひ=し」の〝江戸弁〟はまぁ普通で、目下は「くずし字」を勉強中。『論語』は楷書よりくずし字の方が書き易く、書いていて楽しかった。

 お正月は『論語』読みで過ごしましょうか、と思ったが、読めば読むほど小生には無縁と思ってしまった。孔子の言と反対が小生で、そこを記せば「父母の意見・希望に逆らい自分勝手の人生を歩み出し、社会に入れば群れから離れたがり、上司うざったくフリーランサーになり、スタッフ抱えれば、その無能さに怒り、馴れ寄る若者もうざったくワンマンのワーカホリックで、為政者や役人への怒りも胸に~」。〝あぁ、論語は読めねぇ〟と思ってしまった。

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4)孔子経歴と『論語』経緯 [朱子学・儒教系]

kousitogyo_1.jpg 前回は最後文のブログアップ出来ぬ障害に遭ったが、次へ進む。湯島聖堂で孔子銅像を撮ったら、孔子経歴も知りたくなった。清水書院の3人共著『人と思想・孔子』、影山輝國著『「論語」と孔子の生涯』を参考にまとめてみた。 

 孔子は春秋末期に中国東部(現・山東省西部)の小国「魯」は昌平郷で生まれた(〝昌平坂学問所〟の由来)。当時の魯は周囲に従属する小国。

 孔子は70歳余の父、孫のような巫女を母に生まれた。高齢者と少女の婚で〝野合〟とか。孔子3歳で父没。父は下級なれど勇敢な武士だった。孔子は父の血をひく立派な体躯で、母を助けつつの貧窮生活。13歳から学校へ。15歳で学問を志す。19歳、魯の下級官僚になって妻を迎えた。子供は男女の2人。仕事は倉庫管理や牧場の繁殖係りなど。

 20歳、教師になる。音楽と学問好き。多数弟子を抱える。24歳で母没(父の墓に合葬すべくも所在地わからず。母も早く亡くなって孤児の説もあり)。36歳、君主が斉に亡命で、孔子も斉へ向かった。斉の貴族の家臣になる。斉の君主が抱えようとするも、孔子の儒の儀礼作法は費用がかさむと実務型政治家が拒否。

 37歳で魯に戻る。以後10数年間は私塾で子弟を教育。誰もに貴族独占的教育だった『詩』『書』などを教えた。52歳、魯中部の宰(町長)に就任。政治的手腕が認められて魯の司空職(土木を司る)から司寇職(裁判を司る)へ。

kousubyo_1.jpg 53歳、隣国・斉が魯を属国扱いにすべく会談に全権大使役で臨み、相手の策を一喝。斉は侵略耕作地を返すなどで謝罪。孔子は大司寇(法務大臣)に昇格。孔子の国政参画で魯は人心安定。次に三家に私物化されていた軍を魯国軍に統一すべく画策するもこれに失敗。孔子56歳より14年間の放浪生活へ。69歳で、魯に残した弟子らに呼び戻されて政治顧問になる。

 閑職ゆえ、弟子らの教育と古典整理に傾注。散逸していた『礼』『楽』『詩』『書』を整理し、魯国史『春秋』執筆。71歳、長男と一番弟子・顔淵が没。73歳、愛弟子・子路も没。孔子も74歳で没。

 孔子死後、門人らが師との対話集として編纂し、漢代に入って何晏らにがまとめた『論語集解』注釈(古注)が定着。その背景には、漢の前「秦」始皇帝が儒教弾圧で、漢王朝になって儒教が重んじられたことの影響もあるらしい。そして朱熹(朱子)による新注『論語集注』へ至る。

 日本では平安~室町時代が「古注」で、江戸時代に「新注」が読まれた。面白いのは萩生徂徠の弟子が足利学校書庫で写した古注本『論語義疏』が寛延3年(1750)刊で、それが中国に伝わって古注復刻版が相次いだこと。

 写真上は湯島聖堂の孔子銅像と後ろの孔子廟。写真下は入徳門から孔子廟を臨む。江戸時代には孔子廟左側に「昌平坂学問所」が広がっていた。今は東京医科歯科大学キャンパスになっている。

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3)蜆売り新太の「論語」読み? [朱子学・儒教系]

IMG_1682_1.JPG ちょっと小難しい書を読んだので、女房の時代小説を持って風呂に入った。宇江佐真理『雪まろげ』。冒頭編「落ち葉踏み締める」で、蜆売りの14歳・新太の説明で、こう記されていた。

 ~新太は勉強が好きな子供だった。「論語」だって澱みなく言えたし、暗算も得意だったが、病に倒れた父親が死ぬと、新太は手習所へ通うことができなくなった~

 おや、手習所(上方では寺子屋)で『論語』素読までやっていたのかしら?と首をひねった。新太の父は押上村の農家生まれ。魚屋奉公から〝剥き身売り〟になった。その子が通う手習所が『論語』素読までさせていたのだろうか。

 「江戸時代は武士に限らず誰もが『論語』を学んでいた」なる記述は多いが、何も考えずに鵜呑みすると〝チコちゃんに叱られる〟。前田勉著『江戸の読書会』を読むと、朱子学で習う順は『大学』(1851字)から『論語』(総字数13700字で字種は約1529字)~『孟子』(34685字)~『中庸』(3568字)へ。素読が済んだら「講釈」。そして「会読」(討議)へ進むとあった。

 だが、この学習法は武士の子らが通う私塾や藩校で、庶民教育の手習所では、儒教のテキスト素読を行うことがあったとしても、主なテキストは『商売往来』『百姓往来』などの〝往来物〟であった、と記されていた。(早大古典籍総合データベースの「往来物」で多数冊が閲覧できる)

 また加地伸行著にも「朱子が編んだ『小学』は子供のための簡約版だが、庶民には程度が高く、村塾へ通う庶民の子供は、定型的な教訓を三字一句に盛り込んだ『三字経』など通俗教科書を読んだであろう、と記していた。やはり<蜆売りの新太が『論語』を澱みなく言えた>には無理がある。なお物語の新太は母から末弟・捨

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2)白川静『孔子伝』の〝仁〟 [朱子学・儒教系]

kousizo1_1.jpg 加地伸行著『儒教とは何か』に記された「儒教以前の〝原儒〟」については、白川静著『孔子伝』の〝儒の源流〟が別視点(こっちが定評)で説明されている。簡単にまとめてみる。

 孔子の母はおそらく巫女。野合で孔子が産まれたとか。巫女の庶生子。巫祝社会に成長し、聖職者らが伝える古伝承の実修を通じ、伝承の世界を追体験。その意味を再解釈し、それを意義づけようとした。(詳しい経歴は後述する)

 孔子の儒の源流は「神と人との関係」から生まれた巫史(ふし)の学。儒教は、それら伝承のもつ多様な意識の諸形態を吸収しつつ、民族の精神的な営みの古代的集成として成立された。よって儒家の経典には喪礼や祀礼に関する記載が多い。

 「儒」は雨請いをする男巫で、儒家はもと「仁」と自称していた。『論語』のなか58章に及んで「仁」が論じられ、「仁は人なり」で「仁=最高の徳」。(それ程の〝仁〟だが、小生20代の頃の東映任(仁)侠映画で〝仁〟は大流行り。松竹映画でも寅さんが仁義をきっていた)

 また儒が喪礼の関係者から出ていることで「礼記」49編のうち、その半分余は喪葬に関する古文献の解釈。他の諸編も喪葬ら祀礼に関する記述が多い。つまり〝あらゆる祀礼〟の礼を守ることで社会を安定化し、「礼」の本質「仁」をもって、徳性を高めると説明されていた。

IMG_1748_1.JPG また加地著でも白川著を引用。「~孔子の生きた時代には、古くから巫祝(ふしゅく=シャマン)がいた。もともと〝儒=巫祝〟の意で、呪的儀礼や喪葬などに従う下層の人たち。大儒と小儒の階層があって、孔子の言う〝君子の儒〟は古典学を修めた知識層。その層にも内祭(宗教儀礼)担当と外祭(政治的儀礼)担当の二系統があり、やがて宗教と政治の分離が起る。一方の小儒は祈祷や喪葬を担当。孔子は白川説のように礼制に詳しい有数の知識人だった」

 かくして孔子による「儒教」は、中国における古代的な意識形態のすべてを含む「仁」を核に成立され、中国2千数百年にわたる伝統として確立された普遍的思想になった、と説明されていた。(写真上は昭和50年に湯島聖堂に建立された世界最大の孔子銅像)

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1)〝原儒と孝〟から始まった。 [朱子学・儒教系]

kajijyukyo_1.jpg 「儒者の墓シリーズ」を終えたが、実は儒教・朱子学を知らず。遅ればせながらのお勉強です。しかし惚け始めた頭では手強く、今後の勉強のガイドメモ風に記してみます。

 まずは「儒教=倫理道徳=封建的思想」なる観点ではなく「その本質は死と深く結びついた宗教性」を指摘すべく書かれた加地伸行著『儒教とは何か』を読んでみる。

 著者は、孔子による儒教以前を「原儒」と名付けて説明。原儒は太古から続くシャマニズム(神や霊と人との交流儀礼を行う呪術、宗教形態=招魂再生)を基礎に、そこに「孝」の概念を嵌め込んで「家族論」、その上に「政治論」までを体系的に構築したと記す。(白川静著『孔子伝』では「仁」を持って統一したと記されている)

 加地著では、儒教の核は「孝」。子の親に対する愛情=孝は<祖先~祖父母~父母~自己~子~孫>の繰り返しで「孝=生命論」になる。自分の身体は先祖~明日へ続く生命。最も親しいのが親ゆえ、キリスト教の「博愛」とも違う。

 (面白いのは〝孝=続く生命〟ゆえ、男子を産むためには妻以外の女性=側室OK。徳川家康の側室20人余とか。貝原益軒も1年に1人、3年で3人の側室とセッセと励んだが子は出来ず。このシリーズはかく脱線するいい加減なお勉強です。悪しからず。)

 そして親の葬礼(礼)に心をこめる。その「礼」が社会規範になって政治理論に至る。また孔子は文献学者でもあって、整理した「詩」「書」「礼」「楽」などが儒教教科書になる。「詩」「書」は心を読む解釈学へ。「礼」は敬・慎み・和・譲・倹の在り方を説く。

 孔子による儒教は、紀元前2世紀(前200~前100)に国家公認学問になり、隋代(587年~)から続く「科挙制度」の教科書になる。「科拳」はなんと!1905年(明治38年)に至るまで1300年間も続き、儒教的教養を身に付けた文官(科拳出身者=官僚)が国の指導層になる。(日本の鎌倉時代では武官が儒教的教養を身に付けることで「孝」より「忠」が重視傾向になる)

 原儒が、かく儒教になり、そして新しい儒教・朱子学へなるも、この先は後述。なお著者は冒頭で「日本の葬式は儒教が混在」と指摘。仏教に於いて死者の肉体は単なる物体。僧侶は故人が成仏すべく本尊に読経をするのが本道。だが日本の葬式は本尊には知らん顔で遺影を仰ぎ、柩に礼拝し、焼香し、家族が出棺し、遺体を地中に葬り墓を作る。仏壇も位牌さえ儒教式。さらに「清め塩」は日本古来の死生観、神道だと指摘していた。

 著者は最後に「儒教の宗教性、家族の礼教性は、現代人の心の深層の中に生きている」と記していた。

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儒者の墓(12)林羅山の後半生 [朱子学・儒教系]

ieyasu1_1.jpg 慶長11年、羅山24歳。京都で宣教師ハビアン(日本人の元禅僧)と会談。地球図を見た羅山は、〝物皆上下有り〟の封建的身分制度が絶対ゆえ、地に上下なしの球体説を一蹴。(山鹿素行は儒教の〝天円地方説〟否定で、地球天体説を支持。朱子学を批判して赤穂藩に配流された。地動説は司馬江漢によって普及)。そしてキリシタン教理論破も試みる。これら逸話も羅山のイヤな性格の一端だろう。

 翌年春、羅山は排仏論者ながら剃髪して僧号・道春となる。家康が彼を儒者ではなく学僧として任用したためで、これまた立身出世願望ゆえと揶揄されている。羅山はこの頃に宅地と土木料を賜わる。慶長14年、27歳で12歳の亀さんと結婚。

 慶長15年末、明国の船が五島へ。駿府で家康に拝謁の際の幕府外交文書を羅山が記す。慶長16年、家康上洛時の「在京の諸大名に誓書を奉らしむ」法令三ヶ条を起草。

razanhaka_1.jpg かくして羅山は家康の側近として仕え出すも、家康は儒教奨励に至らず。慶応19年、家康71歳。生存中に豊臣氏を撲滅したく、その口実を求めているのを知り「孟子」解釈で〝討ってよし〟。家康の世になれば朱子学で人の上下は先天的に決定で〝革命思想否定〟。また羅山の〝阿諛迎合・曲学阿世〟の象徴として「方広寺の鐘銘事件」がある。家康が豊臣家財力消耗したく、方広寺大仏殿再建を秀頼母子に勧め、羅山は学識悪用で鐘銘に謀反ありと読み「大阪の役」へ。

 鈴木著は羅山を責め過ぎたと思ってか、次に彼の業績も紹介。家康命で羅山は「駿河版」なる出版事業に携わる。仏典の抄文集などの刊行で、これがなんと国内初の銅活字版。返り点や送り仮名が難しく、すぐ衰退したそうな。

 元和2年、家康歿で2代将軍秀忠へ。家康葬は天海・崇伝の神道二派が激論しつつで、羅山は蚊帳の外で駿河文庫詰め。堀著では羅山不遇期とされるも、鈴木著では弟・永喜が秀忠の側近で、兄弟で徳川家に仕える達成感のなかで学業充実期と説明されていた。

 元和4年、羅山36歳。江戸は神田鷹師町に宅地を賜るも京都生活が主。元和19年、家光が次期将軍と決まり、羅山は家光の御咄衆の一人として寛永元年に家光に拝謁。寛永3年、羅山44歳。家光の狩りに従行から次第に側近として幕政参与。

 寛永7年末、48歳。別邸として上野忍岡に5353坪、学校を建てろと費用200両を賜る。私塾・書庫を建て、2年後に孔子廟建立。建永9年、秀忠没で将軍は家光に。崇伝が病没で、幕府の政治・外交文書起草が羅山担当になる。寛永20年、天海没で羅山の地位・権勢強化。

 慶安4年、家光病没。4代将軍は家綱(11歳)。年号は承安へ。明暦2年、74歳。羅山の妻没で別邸で儒葬。同年9月、別邸類焼で同地が寛永寺附属となり、林家(三世・鳳岡)に牛込(現・山伏町)の2千坪を下賜。別邸の墓を牛込に改葬。

 平成30年、縮小された「林氏墓所」公開を小生も見学。このシリーズ、最初に戻って一区切りです。シリーズを通し、朱子学を幕府学問と定めた「寛政の改革」松平定信の時代が大きなポイントかなと判断した次第。写真は羅山の墓「文敏先生羅山林君之墓」。

 今、机上には小島毅『儒教が支えた明治維新』、土田健次郎『江戸の朱子学』、岡田武彦『江戸期の儒学』、白川静『孔子伝』、加地伸行『儒教とは何か』、島田虔次『朱子学と陽明学』、垣内景子『朱子学入門』がある。この辺のお勉強は始まったばかりです。

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儒者の墓(11)林羅山の前半生 [朱子学・儒教系]

razanbon_1.jpg 儒者の墓シリーズ最後は「林羅山」。時代を遡るので整理する。11代家斉(老中松平定信、寛政の三博士)、10代家治9代家重(老中田沼意次)、8代吉宗(室鳩巣)、7代家継6代家但(新井白石・間部詮房)。そして徳川家康・秀忠・家光・家継がらみが林羅山になる。なお家光・家綱は保科正之が補佐。保科は朱子学の徒で神儒一致を唱え、他の学問を弾圧した。

 堀勇雄著『林羅山』の「はしがし」の概要。~羅山の単行本は一冊もない(初版は昭和39年)。その理由は戦前・戦中において皇室中心主義・国粋主義・皇国史観が横行も、羅山はその物差に当てはめると失格者。戦後において儒学は時代遅れの旧思想。羅山の学説は取るに足らずと考えられ、さらに羅山の人格・品格が立派ではなく魅力に乏しいゆえ~

 これでは読む気も失せる。そこで平成24年(2012)刊の鈴木健一著『林羅山』を併せ読むことにした。同著「序章」では小林秀雄の文、~羅山の功績は、徳川幕府の意向に従って四民を統制するための道具として朱子学を加工したことで、それは単なる御用学問で、真の学問ではない~を紹介。さらに司馬遼太郎の小説『城塞』より、~林道春(羅山)は、家康にとって都合がよかった。出世欲がつよく、権門のためなら物事をどう歪曲してもいいと~(略)彼は幕府意向で人間の諸活動を制限したり、その身分を固定する悪魔的な仕事に従事し、後世の日本人にはかり知れぬ影響をあたえてしまった~を紹介。それでも両氏は羅山の学識を認めての執筆。両著から林羅山の人生まとめです。

 羅山は天正11年(1583)、京都生まれ。父の兄の養子へ。養父は米穀商。幼少期は病弱で学問好き。13歳から健仁寺で学ぶ。15歳、優秀ゆえ禅僧になるべく剃髪を勧められるも、学問好きだが信仰心なしで、家に戻って勉学に励む。

 18歳、学問は五経研究の「経学」(朱熹)にありと朱子学を選ぶ。当時は朝廷許可なしに自由読法や自由開講禁止。羅山より22歳年長の藤原惺窩が法衣なし(儒者として)で家康に進講。独自和訓で四書、五経もテキスト化。

 羅山は公然と禁を破って自分流講義を市中で展開。同時期に幾人もの学者が、公家独占の『百人一首』『徒然草』『太平記』講釈で学問開放が同時進行。その権威の明経博士(清原家)が告訴するも家康は無視。学問が朝廷・寺院から解放、儒教も民間学問になった。

 羅山22歳。藤原惺窩に会う。惺窩一門の深布道服姿で講じ、惺窩を師として学識を深める。両者に思想的差異多く、かつ惺窩は羅山の出世欲に「名利を求めて学問をするのならしない方がまし」と叱るも、学問の自由をもって懐広く関係を続けたとか。

 慶長10年、羅山23歳。惺窩紹介で初めて徳川家康に謁見。家康は羅山の思想はどうでもよく、該博な知識から〝百科辞典代わり〟に側に置いた~が定説らしい。(続く)

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儒者の墓(10)寛政の三博士・柴野栗山 [朱子学・儒教系]

sibasada_1.jpg 「寛政の改革」の凄まじさに大田南畝も狂歌を断って「学問吟味」に挑戦した。行き詰まった時の政府の常套手段が庶民苛めだ。今回は「武」奨励と「文」の締め付け。そのヒステリックなまでの厳しさに「世の中に蚊ほどうるさきものはない ぶんぶというて寝てもいられず」。

 「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学を幕府公認学問として、聖学堂が昌平坂学問所に。そこに招聘されたのが「大塚先儒墓所」に眠る〝寛政の三博士〟こと柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉(後に古賀精里)。藤田覚著『松平定信』(中公新書)に、柴野栗山についての記述があった。

 ~栗山は天明8年〈1788)に定信に登用されて幕府の儒者となり、寛政の文教政策に重要な役割を果たした。〝栗山上書〟は執筆年不詳だが、定信へ差し出した意見書は~

yusimaseido.jpg.jpg ~畢竟 日本国中の万民、天道より将軍家に御預け成され指し置かれ候ようなる物にて御座候~で始まって、武家が政権を掌握したのは、朝廷が道理・徳を失い権力を失ったため。つまり天帝・上帝である天道が、日本国民を将軍に預けたようなもの。「天道~将軍~大名・役人~国民」ゆえに、江戸幕府が道理をたてなくてはいけない、と記してあると紹介。

 一方、国学者・本居宣長は「わが国の国土と国民の支配は天照大神~天皇~東照大権~将軍~大名という委任論」。後期水戸学の祖・藤田幽谷は定信の求めに『正名論』で〝尊王〟を説いた。幕府が朝廷を尊べば、諸大名が幕府を尊び、家臣が大臣を尊ぶ。これで上下の秩序が保たれ平和が維持されるの論。いずれにせよ国民は被支配層。

 以上から定信は、幕府の政権は天皇・朝廷から委任されているという大政委任論を表明(これが最後の将軍慶喜の〝大政奉還〟まで続く)。よって定信は京都御所焼失(天明大火)に莫大予算を投じて、荘重で復古的な御所を再建して朝廷崇敬。

 小生は以前のブログに「財政逼迫で江戸庶民を苛め抜いている最中に、彼は何を考えているのか」と疑問を呈したことがあるも、その意が今になってわかった。藤田著には「定信は天皇は天地のあらゆる神々に護られて万民を子とする人民の親であり、国家と国民の興廃に密接に関わる存在である」と結論したと紹介。なにやら大日本帝国憲法がすでに始まっているようです。

 田沼憎しと上記の論で、庶民から盛り上がった文化を徹底的に弾圧する強引さと権力集中に、庶民は「白河の清き流れに魚住まず、濁れる田沼いまは恋しき」で愛想が尽きた。将軍家斉からの信頼も失って6年で失脚。窮屈な世から解放された江戸庶民は再び「文化文政文化」の大きな花を咲かせることになる。写真下は現在の湯島聖堂・大成殿。

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儒者の墓(9)寛政の改革と三博士 [朱子学・儒教系]

sibano_1.jpg 「大塚先儒墓所」には〝寛政の三博士〟こと柴野栗山(左の絵)、尾藤二洲、岡田寒泉(寒泉に代わって古賀精里)が眠っている。弊ブログでは「寛政の改革」に苛められた文人らについて幾度も記して来た。それら既読の多数関連書を思い出しつつ、新たに読んだ藤田覚『松平定信』(中公新書)を参考に記してみたい。

 徳川吉宗が紀州から江戸入りしたお伴の一人に田沼専左衛門がいた。彼の子が意次で、次の将軍・家重の小姓になった。16歳で父の600石を継ぎ、9代将軍・家重に本丸で仕えた。家重没後に10代将軍・家治へ(村上元三『田沼意次』より)。新将軍は父の遺言通り側用人に意次を登用。意次は安永元年(1772)に大名昇格と同時に老中に。幕政はすでに老中制確立で、将軍は学芸趣味に没頭。ちなみに将棋7段。

 老中・田沼意次は一貫して「商業重視」。それによって元禄の上方文化に比す、江戸文化が一気に花開いた。天明3年の浅間山大噴火による飢餓もあったが、浮世絵は錦絵になり、狂歌、黄表紙、洒落本もブーム。武士と町民が一緒に盛り上がった。「江戸っ子」なる言葉もこの頃に生まれたらしい。蘭学も盛んで『解体新書』刊。洋画(油絵・版画、遠近法)も導入。

 だが天明6年、家治歿。家治の子が急逝ゆえ、徳川治斉の子・家斉を養子にして次期将軍に決めていた。自分が将軍になると思っていた松平定信の歯ぎしり。家治薨去が公布されるまでの1ヵ月間に、反田沼派の暗躍で田沼意次が老中解任。

sibanonohaka_1.jpg 翌年「天明の打ち壊し」。吉宗の孫・定信が老中首席になって、将軍への道を阻止した田沼への恨みが爆発する。熾烈な田沼施策弾圧「寛政の改革」が始まった。勘定奉行逼塞。天明期文人らのパトロン・土屋宗次郎は死罪。平秩東作が「急度叱」。恋川春町は自刃か。宿屋飯盛が江戸払い。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦屋重三郎が身代半分没収。派手な衣装・かんざいを見付けると即奉行所へ引っ張った。「隠密の後ろに隠密をつける」執拗な取締り。

 「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学が幕府公認学問へ。聖学堂が官立の昌平坂学問所(寛政の三博士は同所教官)になった。贅沢品禁止。倹約の徹底。幕府批判の禁止。混浴禁止。帰農令。囲米。棄損令(旗本らの借金チャラ)。出版統制も厳しく司馬江漢『西遊旅譚』も出版不可だし、艶っぽい浮世絵も姿を消した~と枚挙にキリなし。

 世の中が俄かに堅苦しくなった。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜も寝られず」「白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋ひしき」の落首に庶民喝采。晩年の定信は芸術を愛したそうだが、老中6年間は実に嫌なヤツだったに違いない(お上嫌いの小生に偏見あり)。次回はそれを支えた〝寛政の三博士(全員が関西人)〟が何を考えていたか。さて、そこが探れましょうか?(カットはその一人・柴野栗山とお墓写真)。

 追記:森銑三著作集・第八巻「儒学者研究」に約80頁の長編「柴野栗山」がある。天明2年頃までの年譜中心の評伝で「寛政の三博士」「封建制度」「大塚先儒墓所」については一切書かれていなかった。発表は柴野の地元・香川の琴平宮(金刀比羅宮)機関誌「ことひら」掲載で発表は昭和10年。天皇についての記述は憚れたとも推測される。

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儒者の墓(8)室鳩巣(Ⅱ)享保の改革 [朱子学・儒教系]

murosan1.jpg_1.JPG 8代将軍に吉宗就任で、間部詮房・新井白山が罷免。室鳩巣は、当初の吉宗政治を「粗鄙浅露(低俗で深みがない)」の域と判断。確か藤沢周平『市塵』にも室鳩巣が「吉宗は文盲にてあらせられる」と言ったの記述あり。

 吉宗は、まず老中全員に直接会い、例えば「年間収納高は?」などを質問。全員不勉強が露呈。吉宗は白石の下で働いていた者でも仕事が出来れば再任。室鳩巣の吉宗評も次第に変化。

 「トップがバカなら官僚は忖度するも、吉宗は聡明ゆえ、それもかなわない」と記す。今の我が国のトップは愚かゆえに忖度が罷り通るのだろうか。室は一方「余りに厳しいと、家臣らの心も離れる。部下が上へ上げるべき書類を握り潰すこともある」とお手並み拝見の姿勢。

 吉宗の有力側近は有馬氏倫、加納久通。吉宗は彼らを大名にせず金子で加増。旗本に留めたことで、彼らには下からの情報も集まった。老中らは彼らに媚を売る。室はそうした姿を冷静に観察。吉宗政治は、かくして徐々に「険素」実践の人物が増えて姑息・へつらい・おもねる者が少なくなっていった。そう分析する室鳩巣が表舞台に出たのは享保6年正月の初御前講義から。ここで思想大系より『室鳩巣の思想』(荒木見悟)の記述より~

 「元禄年間に湯島の聖廟が落成し、林鳳岡(三世)が大学頭になるも一向に儒学興隆せずで朱子学の萎靡沈滞。吉宗は大学頭の怠慢とみて、享保4年(1719)に高倉屋敷(学館)を別立し、室ら木門(木下順庵門下)の儒者らをその講授に当たらせた」

 そうした実績を踏まえて室の初御前講義に至ったのだろう。これを機に室鳩巣も、吉宗の政務に参画。だが室は「身構えず、自らの考えを誤魔化さず、忖度せずに述べ、それの良し悪しは、お上の判断」というスタンス。吉宗はそんな姿勢が気に入ったらしい。

 享保7年、倹約令(幕臣の俸禄カット)。参勤交代制度の緩和(江戸滞在期間を半分+米の上納)等々~。室は質問に調べ報告するも〝断を下すは吉宗〟の姿勢を貫いて、享保19年に没。

 なお福留真紀著には、室鳩巣の思想に言及なし。新書の帯の「権力は誰のものか」を見た隣家の小学生が質問をしてきた。「おじさん、国民主権は何時からだったの」。「日本は〝天皇~将軍~大名~役人〟の封建国家がずっと続き、幕末に将軍が抜けて〝天皇~大名〟になり、明治には廃仏廃仏毀も~。戦前・戦中は〝天皇~軍部〟で、国民主権になったのは終戦後、おじさんが生まれた頃からだよ」と説明したが、それでいいのだろうか。次回は大塚先儒墓所に眠る寛政期の儒者らの、その辺を考えてみたい。(続く)

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儒者の墓(7)室鳩巣と新井白石 [朱子学・儒教系]

muronohaka_1.jpg 「大塚先儒墓所」に〝寛政の三博士〟が眠っている。弊ブログでは「寛政の改革」で痛みつけられた戯作者、狂歌、版元らについて記してきた。その辺は見逃せないが、まずは彼らの先輩・室鳩巣について。

 参考書は『将軍と側近~室鳩巣の手紙を読む』(福留真紀著、新潮新書)。著者は息子世代で、そんなに若い方の歴史書を読むのは初めて。初々しい語り口です。

 同書はウォーキング途中に新宿紀伊国屋で購い、翌日読了。少し前に新井白石をお勉強して、中野・高徳寺で墓も掃苔。「林氏墓地」から「大塚先儒墓所」も掃苔。同書は新井白石、林氏、室鳩巣がらみの内容で、まさにジャストの読書。

 著者のテキストは室鳩巣が、門人・青地兄弟に宛てた書簡集『兼山秘策』。著者はお茶の水女子大学大学院のゼミ4年間で輪読とか。同書は早大古典籍データベースで公開。小生もくずし字勉強中だがスラスラと読むに至らず。そうでなくとも目下は貝原益軒『養生訓』筆写中断。ここは著者記述と、日本思想大系『貝原益軒・室鳩巣』解説文、白石のお勉強済の知識も交えて自己流でまとめてみる。

 同書簡の期間は正徳元年~享保16年。木下順庵の推薦で新井白石が甲府藩・綱豊に仕え、綱吉没で綱豊が6代将軍・徳川家宣になったのが宝永6年。その2年後が正徳元年(1711)。同年に新井白石の推挙で室鳩巣が幕府儒学者になった。室先生、すでに53歳。

murohon_1.jpg 同書簡は、激務翻弄の白石の体調を気遣う手紙から始まっている。徳川家宣体制は<老中土屋はじめの幕府官僚vs甲府時代からの側近・間部詮房+新井白石>。白石は大学頭・林信篤(三世・鳳岡)の職責半分を担って(対立して)500石幕臣へ。将軍質問に白石が先例調べ⇒間部を交えた家宣詮議で結論を出し、それを書付にして幕府官僚に渡す体制。

 そこから「生類憐みの令」廃止。未決囚8831人保釈。老中の反対を押し切って朝鮮通信使への日本側要請を通したり~。諸施策については新井白石の項で紹介済ゆえ省略。家宣政治は「文を以て治をいたす仁政」。旗本らの困窮に一度に700人を召し出したり、庶民の声にも耳を傾けた。室の手紙には、そんな家宣政治に感激する報告が多かったそうな。

 だが家宣は、翌正徳2年秋に没。5歳の家継が7代将軍に就任。間部・白石は休む間もない。家宣の増上寺埋葬で増長した同寺大僧正の態度に、ならば踏み潰すぞに、寺は慌てて侘びを入れたとか。大学頭・林信篤も幕府官僚とつるんで反撃に出て来た。年号「正徳」は不吉。家継の服喪がおかしい、家継の「継」がよろしくない等々~。それらに間部・白石はことごとく論破。林家と他儒者の仲が芳しくなく、墓所が異なる意もこれで納得。

 そして正徳6年(享保元年)に家継8歳で没。質実剛健の徳川吉宗が9代将軍に。室鳩巣はその7年後、享保7年の殿中侍講をもって、吉宗ブレーンの一人になった。(続く)

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儒者の墓(6)大塚先儒墓所を訪ねる [朱子学・儒教系]

senjyumon_1.jpg いざ「大塚先儒墓所」へ。婆さん「そんな風体では墓所の鍵も貸してもらえないし、職質のお巡りさんが来ますよぅ」ってんで〝フツ―〟の格好で出かけた。有楽町線「護国寺」駅。不忍通り(富士見坂)を護国寺~豊島岡墓地先際の小道を左折。同墓地沿いに進むと「吹上稲荷神社」へ至る。お賽銭、二拍二礼して社務所へ。

 あんれぇ~、閉まっている。神社参拝趣味風の年配者に「先儒墓所」を訊ねれば「はぁ~」。それほど知られていない。

 出直そうと未練っぽく振り向けばドアホン(我家も最新ドアホン設置したばかり)が眼に入った。「先儒墓所を訪ねて来ましたが~」に、若い女性の声「ハァ~イ」。社務所の窓が開いて氏名、住所、電話番号を記し、鍵をお預かりした。なんと、小生の前の記入者住所は愛知県だった。

 同神社から北へ50m先、住宅に挟まれて「大正三年九月建」と刻まれた「大塚先儒墓所」石柱。その鉄柵は開いてい、その奥の扉が施錠されていた。その先に「大塚先儒墓所」690坪が住宅、豊島岡御陵に挟まれて広がっていた。

 『大塚先儒墓所保存会報告書』の略図片手に各儒者の墓を掃苔。各墓石に一輪の花が手向けられていた。貝原益軒調べでは「儒者の墓には仏教のように花を手向けることはない」と記された文言があったと記憶するが、実際はどうなのだろう。

senjyutizu_1.jpg 墓所に入ってすぐ正面に「故博士寒泉岡田先生之墓」(岡田寒泉)の墓。岡田氏墓地は泉寒先生を除いて墓碑なし。土饅頭跡の丸く置かれた石のみが遺っていた。右最奥が室氏墓地で4基。最左が「室鳩巣先生之墓」。保存会報告書の口絵写真には墓碑後に芝に覆われた墳墓があったが、今は丸く置かれた石が埋もれかけていた。

 その左に池上村から大正3年に移葬された「木下順庵先生之墓」。墓碑には「木恭靖先生之墓」。さらに左側に柴野氏墓地。その最左に「征夷府故伴讀栗山芝先生之墓」が柴野栗山先生之墓。墓所奥の豊島岡御陵寄り左の区域が尾藤氏墓地。「江戸故掌教官二洲藤先生墓」が「尾藤二洲先生之墓」。これまた同報告書口絵写真には、芝に覆われた墳墓が写っていたが、今は丸く置かれた石だけ。左最奥が古賀氏墓所。古賀精里はじめ同家の基が多数並んでいた。墳墓はなし。

 墓所には永井荷風が記した桜が、今は古木となって幾本かが聳えて、春には人知れぬまま美しい墓所風景になるのだろうと思った。さて、儒者の墓を掃苔後は、改めて彼らのことを少しお勉強しなければいけません。(続く)

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