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応仁の乱(16)夢窓疎石の作庭 [日本史系]

sosekiniwa_1.jpg 前回の桝野著に加え、飛田範夫著『庭園の中世史』も読むことにする。飛田著には現・西芳寺は殆どが明治11年以降のもので、湘南亭さえ慶長年間に千小庵が築造。よって国師(夢窓)作庭は当時の文献から推測する他なしと記されていた。

 桝野著には「上段の洪隠山部の石組は完全に残されていて、国師の作風を知るに貴重。ここから枯山水が始まる」と記されるも、一方の飛田著には、洪隠山石組の記述は室町時代の史料にない。文明元年(1469・応仁3年)に西軍の攻めで西芳寺焼亡。文明17年(1485)に蓮如上人が西芳寺を再興。その10年後に「泉石比類なし」の記述がある。天文3年(1534)に再び兵火焼失。永禄11年(1568)に信長が再興を命じた。ゆえに石組が築かれたのは蓮如によってか、信長命による可能性もある」

 また国師は西芳寺開山の2ヶ月後には天龍寺の開山も請われ、西芳寺と天龍寺の造営が同時進行と思われる。小生は造園史無知、かつ両庭園を実際に見てもなく、以上から解釈不能に陥った。以下、理解出来る点を箇条書きで整理しておく。

<日本庭園の歴史的代表例> ①平等院庭園=平安時代末期の古典的な浄土式庭園。神殿造りの庭に阿弥陀堂を造り、死後の極楽浄土を現世に再現の願いで造営された。②龍安寺石庭=室町期の禅庭典型の枯山水形式。③桂離宮庭園=江戸初期の池泉回遊式。★国師造営の西芳寺や天龍寺は、②の龍安寺石庭への過渡期的造営になるのだろうか。

<曹洞宗と臨済宗> 奈良・平安時代は旧仏教の宗教闘争が絶えず。そんな仏教に代わって中国宋から「無我無念・無心の悟り」を求める禅宗が伝わった。 ●曹洞宗=永平道元によって、ひたすら自己鍛錬の座禅で「悟り」を求めた。農民中心に広がり、山奥に入って中央政権と距離をとった。禅芸術分野では良寛、能の世阿弥、南画の風外本高など。

●臨済宗=明庵栄西による禅問答(公案)を問う形の禅宗。北条氏の帰依を受け、武士階級中心に鎌倉で地盤を固め、京都に活動拠点を広げた。五山なる官寺制度の確立で地位不動へ。臨済宗の僧は夢窓疎石をはじめに庭園分野で多数。一休宗純、雪舟、茶の湯・村田珠光、能の金原禅林など。

<方丈庭園と書院庭園> 臨済宗の最初の本格禅宗形式寺院は建長寺。曹洞宗の最初は興聖寺だが現存せず。●方丈南庭=建物の南側に位置する庭園。禅の世界を表現する場として〝自然風〟に造営した(西芳寺や天龍寺)。⇒寺院が狭くなって破墨山水画の世界に近づいた大仙院 ⇒龍安寺の抽象化された石庭~と時代変化して枯山水庭園が確立。庭の掃除=作務が修業の一部になる。

<その他メモ>★国師は石、樹木、掃除にこだわった。特に桜を愛し植えた。「なおもまたあまた桜を植ばやと花みつたびにせばき庭かな」。★国師=臨済宗は問答(公案)ゆえに「境地」を模して建物・橋・景色部分に名前〝十境〟などを設けた。(その後の庭園に十景など凝った名が付けられているのはその名残か~)。★国師は山頂に塔亭を設けて眺望を楽しんだ。★国師の庭は二段の空間構造が多い。「心字池」と、そこに鶴亀モチーフも定番。

 「応仁の乱」シリーズは、最後に「東山文化シリーズ」になった。いつもながら未消化だが、この辺で終わる。

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応仁の乱(15)名庭を造った夢窓疎石とは [日本史系]

musou2_1.jpg 東山文化を代表するものに夢窓疎石(以下、国師)の庭園が欠かせない。それら名庭や建物を思うと、山ん中のボロ小屋「方丈庵」で暮し、義政と同様な歌を詠み、阿弥陀仏も飾っていた晩年の〝鴨長明〟を思わずにいられない。鴨長明の没から、国師・夢窓疎石の西芳寺(苔寺)開山まで123年。どんな時代変化があったのだろう。

 国師による主な庭は永保寺、瑞泉寺、西芳寺、天龍寺など多数。禅僧とはいえ、時の権力と結びついた名庭園。桝野俊明著『夢窓疎石~日本庭園を極めた禅僧』を参考に、彼は何者だったのかを探ってみた。

 生まれは鎌倉時代の建治元年(1275)らしいが定かではなく、三重県北伊勢の領主・佐々木家の出の説もあり。奈良・平安の仏教に代わり、大陸からの「禅」が脚光を浴びた時代。国師は4歳の時の一族紛争で、父方の源氏の縁で甲斐へ移住。

sosekihon_1_1.jpg 9歳で甲州源氏の菩提寺、当時は密教寺院へ出家。10歳で母の七回忌法要で7日間の法華経読誦とか。18歳で奈良は東大寺での受戒で一人前の僧になる。翌年に甲斐の寺に戻るも、疑問を抱いて禅宗へ。修行後に「夢窓疎石」を名乗る。鎌倉や京都の禅師を巡って悟りを得る。正式な禅師になった10年後に甲斐へ戻って浄居寺を開く。

 39歳、多治見で「虎渓山永保寺」開山。修業者が押しかけて、山へ逃れて閑居・修行。そこにも修行僧が押しかけて別の場所への繰り返し。51歳、正中2年(1325)、遂に御醍醐天皇の声がかかって南禅寺住持に迎えられるが固辞。だが北条高時の力も借りた上洛要請で南禅寺に入る。月3回の法話に修行僧が集結。今度は北条高時が鎌倉・寿福寺へ住持を要請。国師これを固辞し、南禅寺も退院。伊勢に善応寺を開山。

 ここから足跡を辿るのは止めよう。天皇、幕府から住持を要請されると修行僧殺到で寺は隆盛。また別の寺に移るの繰り返し。後醍醐天皇、鎌倉幕府と敵対する双方から支持される禅僧になったらしい。

 60歳で「出世」(禅僧として表舞台へ)の生活へ。権力側も平穏な世を願い、本人もそう願っての出生とか。荒廃していた西芳寺(苔寺)を禅寺として中興開山したのが65歳、1339年(北朝・暦応2年/南朝・延元4年)。その地名が彼の尊敬する唐・亮座主(りょうざす)の隠棲地と同じ名前で、かつ自然環境が良かったことで「作庭心」が湧いたとか。その心を漢詩で記し、その訳文が以下らしい。

 「仁徳を体得した人は、もとより山の静かなところを愛し、優れた智者は、自然の水の清らかな場を楽しむ。私が庭づくりに没頭するのは、おかしなことではない。ただ、この庭づくりによって、みずから仏道を磨こうとしているだけである」 これでは鴨長明、いや「ポツンと一軒家」の住民と変わらない。さて、別の書も読んでみましょうか。(続く)

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応仁の乱(14)能について [日本史系]

kadensyo.jpg_1.jpg 小生、音楽会社の仕事をしていた頃に世阿弥『風姿花伝』を読んだ。プロモート計画書に「ここは〝秘すれば花〟」など記し、スタッフを煙に巻くなどしていた。以下、キーン著と竹本幹夫訳注『世阿弥』より自己流解釈で「能」のお勉強です。

 まずは~。大和(奈良)を本拠の山田猿楽の3男が「観阿弥」。田楽(=豊作祈願系。神様系=神楽)に先駆けた〝劇形式〟で演じた猿楽(江戸時代まで〝能〟は猿楽)が人気に。猿楽の最古記録は貞和5年〈1349)で観阿弥17歳。やがて猿楽4座中で観阿弥人気がトップ。京で勧進猿楽興業(寄附=観覧料=有料チャリティー公演)をしたのが22歳。

 鎌倉時代から田楽(神楽?)愛好の足利将軍家が観阿弥に注目したのが、義満が将軍になって6年後のこと。観阿弥42歳、嫡男「世阿弥」12歳。世阿弥は歌・連歌も堪能な美少年。義満寵愛で将軍の文化サロンに出入り。22歳の時、父52歳で没。後10年ほど彼の記録なしも、32歳頃に一座棟梁で将軍周辺の演能に名を連ね出す。応永6年(1400)、義満の御前で金春太夫(禅竹の父?)と共演。38歳で最初の能楽論『花伝』を執筆。

 ここで世阿弥の世襲問題。まずは金春流の若者・禅竹の才能を認め、流派は異なるも指導。彼(娘婿になる)に能楽論『六義』『捨玉得花』を書いた。世阿弥に子が出来ず、弟の子・元重を養嗣子(後の「音阿弥」)に能の秘伝を教え込む。その後に妻が男子(後の「元雅」)出産(よくあるお家騒動の例)。だが世阿弥は禅竹・音阿弥・元雅に分け隔てなく教えるも、次第に元雅の才に気付き『風姿花伝』を相伝。

noutirasi_1.jpg 応永15年(1408)、世阿弥の庇護者義満が急死。次の将軍義持の鑑賞眼鋭く、近江猿楽の名手犬王もいて、世阿弥は桟敷下で控えることもまま。応永20年(1413)、犬王道阿弥が没。田楽新座より寵児・増阿弥登場で、10年ほど彼の時代。世阿弥も発奮して今も演じられる名作を次々発表。

 応永29年(1422)、60歳の世阿弥は元雅に譲って出家。音阿弥・元雅の活躍で次第に観世座人気が不動に。だが正長4年(1432)に将軍家持没。次の義教の〝恐怖政治〟が始まる。義教は音阿弥びいきで、世阿弥の実の親子共演を嫌う。永享2年末、前途絶望で元能(次男)が出家。永享4年(1432)、元雅が巡業先で30歳没。その2年後に世阿弥74歳が罪状不明で佐渡へ配流。義教が「嘉吉の変」で暗殺される。子の義政は音阿弥の観世座を「将軍の猿学」とし、義政の禅文化趣味(=東山文化)における能の幽玄なる神秘性と奥深さを高評価。

 キーン氏はじめ外国人らが能を論じ解説するも、小生は恥かしながらが「能」を知らず。このお勉強で、少しは関心を持てたか。キーン著は最後に「義政の東山文化は。彼が山荘に移って没までの僅か7年間。だが彼の趣味は現在にも及んでいる。史上最悪の将軍は、すべての日本人へ永遠の遺産を遺した唯一最高の将軍だった」

 小生、よって千駄ヶ谷・国立能楽堂まで歩き訪ねた。写真下は入門編公演のチラシ。定例公演は予約開始同時に売り切れになる人気と窓口で説明された。(余談:国立競技場が完成に向かっていた。昨夜、桜田五輪相がまた失言で辞任。日本の現・為政者、危機状況なり

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応仁の乱(12)雪舟と水墨画 [日本史系]

sessyu1.jpg 東山文化の絵画について。キーン著には「足利将軍らは、文化面では公家階級に劣るも、こと中国の書画骨董は公家階級より精通し、より熱心だった」と記していた。

 義政及び前将軍らが蒐集した中国美術は大規模。義教・義政時代の将軍家所有の美術品管理役を務めたのは能阿弥、芸阿弥、千阿弥、調阿弥。能阿弥が編纂した『御物御画目録』には山水画74幅、花鳥画91幅、道釈人物画114幅で計279幅が記録。宋・元の名手30名らの名作中心で、二流作は売却とか。

 義政の鑑識眼も当代随一。これら絵は主に「応仁の乱」前の宝徳3年(1451)と寛正5年(1464)。「応仁の乱」後の文明8年(1476)と文明15年(1488)の遣明船で入手。寛正5年の船には朱子学者・桂庵玄樹、画僧・雪舟も乗っていた。

 水墨画は老子「五色は人の目をして盲ならしむ」(本来は贅沢に慣れる、様々な誘惑に乱される)、同時に墨一色で描かれた絵にすべての色彩が含まれる、という考えが反映。日本の絵師らも、そんな中国名画の模倣から次第に自分の水墨画を築いていった。

daruma.jpg_1.jpg 日本最初の水墨画は、主に画僧による宗教色濃い作品が主。代表的画僧は如拙(狩野派の源)。如拙弟子で将軍家の御用画家が天章周文。そして東山時代の最も有名な画僧は雪舟。雪舟は相国寺で禅修業と同時に周文に絵を習い、48歳で渡明。2年後に帰国だが戦乱の京都を避けて周防の大内氏、豊後の大友氏の2大名の庇護を受けて独自世界を構築した。

 義政は雪舟に東山山荘に絵を描くよう依頼も、彼は自分に代わって狩野正信(既にお抱え絵師になっていたのを知らず)を推薦。また同時代では一休禅師の肖像を描いた弟子の墨斎。義政の肖像を描いた土佐光信。蔭涼軒や高倉御所の絵を描いた御用絵師・小栗宗湛らがいた。

 ここでまた鈴木大拙に登場願おう。大拙は日本人の芸術的才能の著しい特色の一つは、南宋の画家・馬遠に源を発した「一角」様式の採用。これと日本画の「減筆體」と云う少ない描線、筆触で物の形を表わす伝統と結びつけたこと。それが禅の精神にも一致で「わび・さび」に通じた。

 その説明で前回紹介の藤原家隆「花をのみ待つらん人に~」の歌に加えて、藤原定家「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮」も挙げて、華美なものを超越した枯淡・幽寂の美を説明。即ち「一則多、多則一」(華厳経)、「空即是色、色即是空」(般若経)だと説明。

 カットは「新古画粋・第1編(雪舟)」(大正8年刊。国会図書館デジタルコレクションより)で、上は雪舟肖像画、下は77歳筆の「彗可断臂図」(えかだんぴず)。

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応仁の乱(11)茶の湯の「さび・さび」 [日本史系]

rikyu2_1.jpg キーン著の続き。「茶湯」なる語は奈良興福寺の経覚の日乗『経覚私要抄』(文明元年・1469)に初登場。茶道創出の功績は、義政の同朋衆・能阿弥によるところ大。能阿弥は中国絵画鑑定・絵師だが連歌、書、香も名手。

 千利休の高弟による『山上宗二記』に、能阿弥が義政に茶の湯への興味を抱かせとあるとか。~能阿弥は30年余も茶の湯に打込んできた奈良称名寺の村田珠光(じゅこう)について義政に話し、己が珠光から学んだ茶の湯の秘伝、茶道具知識を言上。よって義政は珠光を茶の師匠にした。一説には、この話は山本宗二が珠光流宣伝の創作で、実際は義政の茶の師匠は能阿弥で、彼こそが茶道の創設者に匹敵する~の指摘もあるとか。

 キーン著はまた、珠光が弟子で連歌師の古市澄胤(ちゅいん)に宛てた茶の湯心得の書簡に「和漢の境地を融合させる」「連歌の枯れ衰えて、冷えびえしているのがよい~は、茶の湯の行き着くところもそうあるべき」。茶の湯の日本的はものの説明に「冷えた・枯れた・痩せた」なる連歌評の語彙を使っていること。また「心の師とはなるがよい。しかし、心を師にはするな」(心を導こうと務めるのはよいが、心に従ってのみ進むのはよくない)などとしたためてあったと説明。小生、「心の師とは~」に思わず「反・陽明学じゃないか」と膝を打った。

 キーン著は、ゆえに「連歌と茶の湯は並行して発展してきた」と指摘。その類似性を①共に仲間の参加を必要とする。②殺伐とした世にあって、人間の密接な交わりの温かさ満ちる場。③どちらにも規則が多い。④直接・間接的に他芸術に影響を与えてきた(建築、陶芸など)。⑤後世に末永く続いて日本人のこころになった(連歌は姿を消したが、その第一句が俳句になった)。鈴木大拙は「南方録」に茶の目的は小規模ならが此世に清浄無垢の仏土を実現し。一時的の集り、少数の人ながら。茲に理想社会を作ることだという一説があると紹介している。

 キーン著の最終章は「晩年の義政」。彼は生涯を通じて禅仏教へ深い信仰を持った。少年期からの禅僧との交わり。禅の深淵探求はせずも、禅によって形に現れた建築、庭園、生け花、茶の湯を愛し、禅寺を庇護(禅宗は足利将軍家の宗旨)、そして自らも禅僧として出家した。

 一方、義政は20代前半から最期まで観音信仰を捨てず。阿弥陀仏に特別な敬意を払っていた。この乱世での自力は難しく、阿弥陀仏の慈悲(他力)にすがる他はなかったと指摘。法然、親鸞、一遍から義政の時代は蓮如で「念仏は救いを求めるのではなく、阿弥陀の慈悲への感謝」という教えの「浄土真宗」普及で本山本願寺を再興した。義政の浄土信仰は法然の流れを汲む宮廷階級趣味にも合った宗教儀式を行い、また蓮如の濁世にあって「諸法、諸宗全く誹謗すべからざること」の幅広い心を持ったと解説。

 カットの千利休像(国会図書館デジタルコレクション「肖像」明治24年刊より)には、藤原家隆の「花を見て(花をのみ)待らん人に(待つらむ人に)山里の雪間の草の春を見せばや」が書かれている。鈴木大拙は「見る人ならば、荒涼たる堆雪の下に春の芽ざしをも容易に認めよう」の意で、そこに茶の湯の「さび・さび」があると解説していた。

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応仁の乱(10)立花と茶の湯の誕生 [日本史系]

sendansyo2_1.jpg 義政の建物、庭の次は「立花」について。キーン著を要約。書院造りには、絵を飾る壁の空間基部の役目、かつ美術品設置の〝押板〟が設けられた。横幅が長いのは、三幅対の掛物(本来は仏画ゆえ本尊、左右に來持菩薩の脇絵)を横に並べるため。その前方に花瓶の花、香炉、燭台(カット参照)。この形が、後に美術品を飾る枠組みとして垂直の柱を設けた「床の間」になる。

 花瓶は昔から神仏に花を供えるためにあったが、義政の時代に花瓶の花の供え方が芸術一形式になって行く。当初は絵との調和を考慮しての立花(りっか)。文明8年(1476)に義政が参内の際に、立阿弥に牡丹を〝立てる〟よう命じた。その技術と風情が気に入った義政が、以後も彼に「立花」を命じ、立阿弥が〝華道家〟として名声を得た。

 その立花様式は、それより約10年前の寛正3年(1462)に池坊専慶が創案。専慶は七本の枝を仏教的解釈で説明。遊びの「連歌」が規範を得たと同じように、専慶もまた「立花」に規範を与えて気品と重要性を得た。キーン著の記述は概ねそこまで~。

sendensyo3_1.jpg ここは小生を「応仁の乱」へ誘ってくれた澤田ふじ子『花僧~池坊専応の生涯』(専慶は流祖、専応は理論確立)を読みたい。ちなみに現・池坊専永の妻が、先日の「貴乃花騒動」で話題の池坊保子。イヤだねぇ~。そのイメージ払拭にも是非読んでおきたい。また小生は鈴木大拙著『禅と日本文化』の「わび・さび」の説明が「華道」にも通じると納得させられた。

 次は「茶の湯」について。キーン著は、義政の保護育成と知られ、日本的なものとして最も発達普及したのが「茶の湯」と紹介。そこから茶の歴史が説明されるが、ここは鈴木大拙著を参考にする。

 茶の種を中国から持ち帰って、禅院の庭で栽培したのが栄西法師。茶に関する書『喫茶養成記』を、病身中の将軍源実朝に献上。茶の湯の作法を考えたのが半世紀後の大應国師。その後に大徳寺の一休和尚が、弟子の珠光に教え、彼が茶道として確立して創始者になった。珠光が義政に教え、後に紹鷗から千利休へ。利休が今日の茶の湯を確立した。

 キーン著に戻る。義政当初の時代は、派手で珍奇な「婆沙羅」趣味で、贅沢な茶会が行われていたが、次第に飾り気のない小さな部屋で、主人と数人の友人が茶を飲みつつ静かに語り合う形に変化。その場が上記説明の押板のある書院造りの部屋=茶室になった。そこで一種威厳のある振舞で茶を飲み、侘茶の茶礼が始まり、次第に様式化されて行った。技巧を隠した技巧の美。主人と客の対応も、敬意と親密さの両方を伝えるための型が生まれた。

 小生、子供時分に母の「古流」(華道)と「江戸千家」(茶道)の暮しがあった。その関連記述を改めて読むのも妙な感がするも、ここから核心に入るのでいったん区切る。写真のカットは『仙伝沙』(室町時代の立花3伝書をまとめた江戸初期刊の書。国会図書館デジタルコレクション)より。

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応仁の乱(9)銀閣寺と東求堂 [日本史系]

tokyudo_1.jpg 文明13年(1481)末、46歳の義政は近習を連れて御所を出た。天皇が驚き帰京を命じるも無視。剃髪して僧侶・隠棲の準備を開始。彼は31歳の時に東山に隠居所をと定めているも「応仁の乱」で叶わず。15年を経ての実行。

 翌14年、資金に苦労しつつ造営開始。最初に「常御所(つねのごしょ)」(南北7間、東西6間。6畳の寝所、その東側に昼御座所、北東に4畳の書院他)を完成。文明17年(1485)50歳で臨済宗(禅宗)の僧として出家。東山山荘で当時の建物現存は銀閣寺と東求堂のみ。河合著参考に両建物中心に記す。

 常御所に住みつつ、まずは「西指庵(せいしあん、禅室)」と「東求堂(とうぐどう)」を建てた。文明17年4月に月待山中腹に「西指庵」完成で、ここに移り住む。寝所に蚊帳も用意。安静と呼ばれた書院もあり。書棚に中国禅僧の伝記や語録などの書籍があって、臨済宗・禅室的な雰囲気。

 「東求堂」は持仏堂で浄土宗風建物。四つの部屋があり、仏間は板の間で阿弥陀三尊を安置。障子に阿弥陀を囲繞する十僧の図を狩野正信に描かせた。higasiyama_1.jpg北東隅が四畳半の書院、名は「同仁斎」。北側に出文机(付書院)と違棚。出文机に漢詩文中心の書籍、硯、筆架、水入れ。違棚には茶道具類。義政はこの「西指庵」と「東求堂」での生活に重点をおいたらしい。前述の外山英策著『室町時代庭園史』では、~「同仁斎は後世に茶室の濫觴(らんしょう)と称されて甚だ著名だが、書斎であって茶室ではない」と記している。

 文明19年に「会所」竣工。会所は政治事の談合場所だが、義政の会所は同趣味の者と絵画鑑賞、茶の湯、連歌を楽しむ場所になった。長亨2年(1488)から観音堂(銀閣)普請開始も、義政はその2年後の55歳で亡くなって死後に完成。遺命で禅寺「慈照寺」として奉献。同建物は下層が書院造の心空殿。上層が禅宗造りの潮音閣。

 西指庵(臨済宗・禅宗)と東求堂(浄土宗)、慈照寺も下層(書院造)と上層(禅宗)、漢詩(禅宗)と和歌(王朝)を楽しんだ。これら融合一致が「東山文化」と推測できるが、この辺は後述です。

 庭園は臨済宗の禅僧・夢窓疎石による西芳寺庭園(苔寺)が参考にされた。外山著には苔寺の西來堂⇒東求堂、指東庵⇒西指庵、湘南亭⇒釣秋亭、合同船⇒夜泊船などの名称からも西芳寺を模した証拠と指摘していた。

 写真上は外山英策著『室町時代の庭園史』(国会図書館デジタルコレクション)より東求堂写真と河合正治著『足利義政と東山文化』

 追記:飛田範夫『庭園の中世史』冒頭で、義政は東山山荘の庭園を造営した際に、しばしば寺院や公家から樹木と庭石の掠奪を行っている。たとえば~ と具体例を書いている。

 ★ツバメ初認:3月27日。3日前、ベランダから箱根山の3、4分咲きソメイヨシノを眺めていたら、眼前を一羽のツバメがツッ~と横切った。「こんなに早いとは」。間違いと思ったが、もう一度眼前を横切った。

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応仁の乱(8)銀閣寺は苔寺を参考に~ [日本史系]

nihonbi_1.jpg 私事。小生は「古流」と「江戸千家」おっ師匠さんの子。母の茶の稽古は覗かぬも座敷に炉が切ってあり、床の間には季節毎の掛軸と雅でも華麗でもなく渋い花が常に活けられていた。

 さて足利義政の東山文化=日本美(侘び・寂び)と指摘されていれば、その辺のお勉強もしたい。ドナルド・キーン『足利義政~日本美の発見』、河合正治『足利義政と東山文化』を読む。

 まずキーン著。氏は昭和28年頃に京都在住で、観光化される前の廃寺のような等持院(夢窓疎石の開山、造園)に通っていた。彼が日本で書いた最初の原稿が、今も当時の雰囲気を保つ同院の霊光殿のこと。歴代足利将軍の等身大の木造座像が並んで不気味な冷気を発していたと述懐。

 文久3年(1863)、神道の平田篤胤を信奉の志士らが「日本国王」(天皇ではなく)の肩書を受け入れた足利尊氏、義詮、義満の木造の首を斬りおとし、賀茂の河原に晒した。氏が通っていた頃には、斬られた首は胴体に戻ってい、義満の首は尊大暴君の感がしたと記す。

 義教が恐怖政治によって暗殺され、武将らのタガが外れた。独裁者の子の義政の命を武将らはきかず。父への反発を一身に受け、彼は将軍の意欲を失って趣味の世界に入った。「応仁の乱」の時に詠んだ彼の歌「ハカナクモ ナオ収マレト 思フカナ カク乱レタル 世ヲバイトハデ」。勝手に書き直せば「儚くもなお収まれと思ふかな 斯く乱れたる世をば厭はで(厭とは思わず)」。キーン氏は、傍観者に成り切った心境の歌と解釈する。

kokedera_1.jpg 京に飢餓死の遺体が満ちても、百㍍先で戦闘中でも、義政は御所内で茶の湯を楽しみ、庭園を愛で、蒐集した中国・明の山水画を眺めて楽しんでいた。美的優雅の追求に身を捧げた中国の徽宗帝と同じで、彼は捕虜になって死んだが、義政はどちら側にも立たぬことで「応仁の乱」10年余を生き抜いたと記す。

 キーン氏は次に義政の〝造営〟について。彼が7歳から16歳まで住んだのが烏丸御殿(母方一族・公家で義政育ての親・烏丸資任の屋敷)。金に糸目をつけぬ増築・別棟建造も、自分の趣味が明確化した22歳、大飢饉最中の長禄2年に「花の御所」(室町御殿)へ移すことを決めた。翌年に新しい御所へ移った後も会所、泉殿、庭園を整備。その新御殿と庭園の見事なこと。

 寛正3年の27歳。母のために豪勢な高倉御殿を建造。庭園は善阿弥の妙発揮。その為に義政は夢窓疎石による西芳寺(苔寺)に再三出向いて参考にした。「花の御所」は応仁の乱では無傷も、天明8年の一揆暴徒の放火で全焼。将軍家財宝も灰と化した。富子と義尚は小河御殿に避難。文明12年、義尚は新婚早々に、義政寵愛の女とも情交で、親子対立がさらに激化。翌年に妻・富子とも再衝突。義政は妻、子とも関係を断ち、世事を離れて東山山荘の造営に没頭したと筆を進めていた。写真下は碓井小三郎編『花洛林泉帖』(明治43年刊。国会図書館デジタルデータ)より義政が造営参考にした西芳寺の湘南亭)。

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応仁の乱(7)東山文化の誕生 [日本史系]

ginkaku_1.jpg 「応仁の乱」はどう終わったか。石田晴男『応仁・文明の乱』を読む。文明4年(1472)正月に細川勝元と山名宗全が和睦交渉。畠山義就と大内政弘も参会したが、勝元の嫡子問題で決着せず。

 その間にも各武将らは守護地で合戦続行(朝倉孝景の越前制圧。美濃守護代・斉藤妙椿の越前・飛騨・近江・伊勢・尾張・三河への勢力拡大。江戸では文明8年に長尾景春が内乱など(早くも戦国時代の様相)。文明5年(1473)に西軍総大将・山名宗全が70歳で、東軍総大将・細川勝元が44歳で没。

 翌文明6年、代が代わった山名政豊と細川政元の単独講和が成立。室町時代の〝守護在京〟も無視され、武将らは次々に帰国し、文明9年(1477)に「応仁・文明の乱」が終わった。最初から最後まで暴れた畠山義就も赦免決定の戦後処理が文明18年(1486)。

ginkakuhasi_1.jpg 足利義政は、乱が落ち着いた文明14年2月から念願の東山荘の造園に専念。翌年に同地へ移住。錦鏡池中心の「池泉回遊式庭園」と建物群に己の美意識すべてを注いで、東山文化の神髄=簡素枯淡美の一大山荘を造った。

 国会図書館デジタルデータより外山英策著『室町時代庭園史』(昭和9年刊。写真も同書より上が銀閣寺、下が池南側の龍背橋)を読む。~東山殿(慈照寺)は、従来から義満の北山殿(金閣寺)に模し、相阿弥の作と伝承されているが、それは間違いだろう。築庭当初には天下第一の称ありし善阿弥がいて、相阿弥の出る幕は無かっただろう(★ドナルド・キーン:義政は河原者の庭師の中でも文明14年に97歳の高齢で亡くなった善阿弥を最も信頼していた)。実際の築庭は彼の子の二郎、三郎、孫の又四郎の3代が携わったのだろう。

 義政の東山荘の趣旨は、自らの禅僧の生活を喜び、山居を楽しむ心で、世事を厭ひて風流三昧に太平を楽しもうとした趣旨で作られたもの。義政が東山を詠った歌が「我いほは月待山のふもとにてかたむくそらの影をしぞ思ふ」。隠棲の心境だな。彼は延徳2年(1490)55歳で没。同日、遺命で相国寺の大智院を慈照院とし、東山殿を慈照寺とした。

 なお善阿弥は、他に将軍の縷々出入りせし相国寺諸頭や蔭涼軒、睡蓮の庭、奈良大乗院の築庭も造った。泉石の妙手で「山を築き、水を引く妙手比喩なし」と記され、彼らの築庭には禁忌や風水が多く反映されている。東山荘は其の後の火災で、観音堂と東求堂の他は焼亡。今日の大部分は慶長の再興後のもので庭園も甚だしく変化した、と記されていた。

 「応仁の乱」で京は荒廃したが、それ以上に重要なのが義政によって育まれた東山文化=日本美。それは現在の日本人のこころ、生活にもしっかり根付き、生き続けていると紹介されていた。ならば次に、東山文化に焦点を当てたドナルド・キーン著『足利義政~日本美の発見』、河合正治著『足利義政と東山文化』を読んでみる。まずは共に足利義政の人物像にスポットを当てているので、今までの<~(6)>の文に補足してみる。

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応仁の乱(6)宇野玄周の扇屋 [日本史系]

ougie_1.jpg 小説『深重の橋』の続き。武具屋(皮革商)宇野屋仁阿弥は妻子なく、「牛」に宇野屋を継ぐように依頼。「牛」は人を殺める武具甲冑商はイヤで〝扇屋〟への職替え了承で家督を継ぐ。従来の檜扇から、扇骨を紙で被った蝙蝠扇(かわほりおうぎ)を製作(そこに詩歌や絵を描く扇の祖)。宇野屋はその扇商でさらに財を成したとか。

 「牛」は相国寺に参禅し「宇野玄周」と改名。「頼助の弟・平助」は後に僧形になって文成梵鷟(ぼんさく)と改名して相国寺の一院を委されたそうな。同小説は最後に将軍義政を評して「愚かな将軍と烙印を捺されているが、銀閣寺や庭園など日本文化を成立させた稀有な人物だった」。「あとがき」で『深重の橋』はミネルヴァ書房『中世を生きた人びと』のなか「宇野玄周」を読んで創作意欲が湧いて書いたと記している。

 一方、呉座著『応仁の乱』では、こう要約されていた。~応仁の乱は、新興勢力たる山名氏が、覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に挑戦した戦争という性格を持つ。さらのこう分析する。~この大乱の本質は二つの大名連合の衝突で、そうなった要因には室町幕府の体制にあった。幕府は地方で戦っていた諸将に上洛を命じて(在京義務)、彼らの動きを監視・統制しようとした。複数国の守護を兼ねる有力武将を「大名」として、幕府へ意思決定参加を認めて「守護在京制」を執った。従って京都には内裏、将軍御所の他に大名らが屋敷を構えた。自ずと大名らの交流が派閥形成され、細川派と畠山派の抗争が深刻化。また諸大名の意見を吸い上げる機能が失われたことにもよる。一方、守護在京制は結果として京都文化が地方伝播した面も見逃せない。さらに乱を終え、京都からそれぞれ国元へ戻った武将たちによって「戦国時代」が始まるとまとめていた。

 小説『深重の橋』はここで終わりだが、「応仁の乱」終結の経緯をおさえておかなければいけません。写真は「応仁の乱」の207年後の天和4年(1684)の菱川師宣筆『圑扇絵づくし』(国会図書館デジタルより)。宇野玄周による「蝙蝠扇」が江戸時代、そして今の日本に当たり前のように定着です。また義政が育てた茶道、華道、能、水墨画、書院造りなど「侘び・寂び」の日本美も今の私たちの暮しにしっかりと定着で、その辺にも注目すべきでしょう。

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応仁の乱(5)「牛」息子の死と足軽 [日本史系]

asigaru5_1.jpg 小説『深重の橋』に戻る。一色義直が宇野屋仁阿弥に傭兵を乞う。主人は38歳・牛に「宇野屋牛坊丸」の名を与え、その35人の大将にして東軍・一色の館へ向かわせる。高島屋へも東軍・細川一族と昵懇の京極持清より傭兵依頼。そこに「もも」が産んだ牛の子、17歳「頼助」がいた。

 まず合戦の前哨戦は「御霊合戦(上御霊神社の戦い」。西軍・畠山義就(よしひろ)の軍勢3千騎が、東軍に攻め込んだ。「頼助」は京極軍の背後にいて、朝方に西軍の勝鬨を聞く。東軍・畠山政長軍の50名が討死。政長は細川勝元の館に逃げ込んだ。

jinjyuno2_1.jpg 朝廷は、この戦いを終えさせるべく「応仁」(1466)に改元。「牛」は東軍・一色義直軍で参戦も、一色(伊勢・志摩・丹後の守護大名)は、地元で細川系の若狭守護・武田信賢と戦争中で、「応仁の乱」では西軍に移った。かくして「頼助」は東軍、「牛」は西軍で対峙することになる。

 「応仁の乱」勃発。「牛」参加の一色軍に、東軍の細川・武田勢4千人が攻め込んだ。「牛」は一色大将を馬に乗せて脱出し、山名宗全の館に逃げ込む。小康状態を経て、西国の雄・大内政弘が西軍加入で上洛。火に油を注ぐ激戦で、京都は半月で名刹全焼失。西軍は勢いに乗って東軍支配の相国寺、花の御所を猛攻。これが「相国寺合戦」。同寺は七重塔一基を残して焼失。

 翌日、窮地の東軍は畠山政長率いる3千名を中心にした1万余の軍勢で、西軍を押し返す。この戦いで際立ったのが「応仁の乱」初登場の「足軽集団」だった。彼らは出自無関係の土一揆勢の同じ階層。戦術も甲冑もなしで疾風のように神出鬼没。権威も命令も無視で掠奪・放火・寝返り~何でもありの無頼集団。

 文明3年(1471)、「牛」は戦場転々とする間に早や41歳。「船岡山の戦」で「牛」の戦術に、京極持清の傭兵らの退路が断たれ、その中で「頼助」が果敢に戦っていたが矢が胸を射った。「牛」と瓜二つの「頼助」。親子の名乗りを交わすも「頼助」の意識は薄い。

 ここで「牛」は大義名分のない戦いの虚しさに、一色の軍勢から離れて宇野屋に戻る決心をする。我が子を戸板に乗せ、武具を脱ぎ、口に矢を銜える古式にのっとった戦場退却の形で帰還。介抱虚しく「頼助」死去。やがて「もも」夫妻も無頼の足軽らに家を焼かれ殺されたと知る。(作家は「応仁の乱」史実にフィクションを上手にのせて描いている)

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応仁の乱(4)東軍・西軍の陣容 [日本史系]

ikyutohon_1.jpg さて、追手から逃れた「妊婦もも」は奥路地へ逃げ込んだ。元武士で盗賊に右足を斬られ、今は笠張職の夫妻に助けられた。彼らの保護で「牛の子・頼助」出産。その1年後に彼らの妻が病没で「もも」が後添えに。4年後に九郎三郎の子「平助」誕生。

 康正元年(1455)、20歳になった将軍義政に日野富子が嫁す。その4年後の長禄3年〈1459)、人買いに売られて15年後の「牛」も30歳。宇野屋手代の相談相手にまで成長。

 長禄の4年間は凶作続きで土(土倉=金貸し)一揆が頻発。四条橋から見る賀茂川は飢餓による死体の山。某僧が数えた推定で8万2千余とか(関東大震災の死者行方不明者は10万5千名と推定)。「そうだ京都、行こう」と思えぬ地獄絵。★ドナルド・キーン著:飢饉最中の長禄2年、義政は贅沢な将軍御殿(烏丸殿)の修復工事完成直前に、その御殿を義満が建てた室町第のあった場所に移すと金に糸目をつけず遂行。

 将軍義政に子が出来ぬ。弟・義視を後継者にしたが、その後(寛正6年)に日野富子が男児(後の義尚)出産。富子は我が子を将軍にしたく山名宗全の力を借りた。義視と昵懇の細川勝元・山名の対決構造がはっきりした。かくして応仁元年(1467)から文明9年(1477)の11年に及ぶ「応仁・文明の乱」。京都は徹底的荒廃へ向った。

 内乱の陣容を記す。将軍義政も合力の東軍大名=細川勝元・成之・成春、常有・持久。畠山政長、京極持清、武田信賢、斯波義敏、赤松政則、山名是豊。(主力は細川一門と畠山、京極で兵力は最大16万騎)

 西軍大名=山名宗全・教之・政清、豊。斯波義廉、畠山義就、一色義直(将軍側近だったが国で若狭守護武田と戦っていたために西軍参加)、土岐成瀬、六角行高、富樫政親、後に大内政弘。(主力は山名一族と斯波義廉、畠山義就。兵力は最大11万騎)。これは国元の合計兵力で、現地開戦に召集は両軍合わせて5万人ほど)

 なお、この時期の一休宗純は最晩年。禅宗の腐敗に抗して(世も終わりの荒廃。既存価値崩壊、混沌にあって人の原点復帰への喚起ではと考えるのが正しいだろう。ならば意地の張り合い終始の武将らに比しまともなのは一休さんと言えなくもなかろう)の奇行。77~87歳で4、50歳も若い盲森女と暮し、赤裸々な性愛も詠った漢詩集『狂雲集』を刊。「美人陰有水仙花香」楚台応望更応攀、半夜玉床愁夢顔。花綻一茎海樹下、凌波仙子繞腰間。どなたか現代文に訳していただけますか。

 カットはいとま持て余して「一休宗純」似顔絵に、石田晴男著『応仁・文明の乱』をWindows「ペイント」で合成してみた。ドナルド・キーン著:墨斎描く一休像は、顔から複雑な性格が読み取れる一人の人物を描き出した日本最初の肖像画である、と記している。一方、伝・土佐光信が描く足利義政の肖像画は人物についてほとんど何も語っていないと記す。

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応仁の乱(3)嘉吉の変 [日本史系]

IMG_1973_1.JPG 小説の「牛」は「奈え」(湯屋に買われた仲間)が病気で臥せったままで「捨てて来い」と命じられる。「牛」は彼女を賀茂川と荒野川の合流、荒蕪地に住む頭に世話を頼むべく賀茂川へ。

 そこで作庭作業員を求めに来た「新蔵」(人買いで買われた仲間)と再会。彼は山水河原者(作庭を業とした人の呼称)として名高い「善阿弥」に買われて修業中だった。時は文安6年(宝徳元年1449)。元服した足利義政が8代将軍になった頃。

 ここで改めて「応仁の乱」までの政情を、呉座著と石田著を参考にまとめてみる。まずは6代将軍・足利義教(よしのり)の時代。永享元年(1429)に大和国(奈良)の守護職・興福寺が弱体化し、大乗院と一乗院衆徒が覇権争い。義教は当初「大和放任論」も、ここで武力介入。以来、義教は討伐命、赦免、家督替えの峻烈果断な政治を行った。

 永享10年(1438)、大規模動員で足利持氏(関東公方)を討つ=「永享の乱」。嘉吉元年(1441)前年には、下総結城城(茨城県)に結集の反乱軍を攻略。戦況芳しくなく畠山持国へ出陣命も動かずで、異母弟・持永へ家督替え。嘉吉元年4月の総攻撃でやっと結城城陥落。

 この戦勝祝宴として将軍を自邸に招いた赤松家が義教を暗殺=嘉吉の変。★ドナルド・キーン著:義教が際立っていたのは残忍な気性。公家はじめ高貴な身分の者80名を処罰。少しでも気に食わぬと都追放、投獄、暗殺、斬首の〝恐怖政治〟。満祐は狂人を装って義教の猜疑心をそらせていたが、一説では義教が赤松一族の美男・貞村を寵愛し、彼に満祐所領の播磨・備前・美作を与える噂であったこと、従来からの足利家への忠誠も認められずに義教の首を取った、と説明されていた。義教亡き後は7代将軍に嫡男・千夜茶丸(8歳。後の義勝)が継承で、管領の細川持之が政務代行。 

 義教のタガが外れて、失脚中の畠山持国が武力で家督復帰。同じく楢原氏に家督を替えられた越智の子・春竜丸も家督を奪取。興福寺追放の経覚も力づくで禅定院(大乗院)門主に復帰。畠山氏も持国の実子・義就と、弟の遺児・弥三郎が対決。弥三郎が細川勝元に助けを求めたことで細川・山名宗全VS畠山義就の構図が出来た。

 その最中、嘉吉3年(1443)に7代将軍義勝が10歳で没。彼の弟・三春(8歳、義政)が継ぎ、14歳で元服して文安6年(宝徳元年・1449)に8代将軍義政(よしまさ)誕生。★ドナルド・キーン著:義政の母は日野重子。乳母は10余歳年長の今参。今参は乳母かつ愛人(妾)でもあり。富子との結婚前に数多くの色事経験で三人の女児を産ませているのも今参の影響。結婚後の今参は側室に佐子を入れて娘を生ませている。政治に口も出す。富子に念願の男子誕生を果たすも間もなく没。母・重子が今参の呪いと説き、今参は流罪・自害した。

 義政は持国・義就側に立って弥三郎を討伐命も、弥三郎勝利で彼の畠山家の家督を認めた。細川が不満で趣旨撤回。また弥三郎討伐へ。義政の迷い、討伐、赦免、家督替えで大混乱。

 ●河合正治著:義教の恐怖政治のタガが外れて、義政の時代になると、彼がいくら命令を下しても守護や地方武士らは言う事を聞かず。義政は本来が武人に向かない性格で優柔不断、かつ側近たち動かされて朝令暮改に終わることが多かく、いきおい文化面に専念する。

 ややこしいので小説「牛」に戻る。「もも」が彼の子を身籠り、二人は湯屋を脱出。薪拾いの荷台に「もも」を隠して逃亡も追手に囲まれる。「もも」を逃がした「牛」のピンチを、将軍に仕える一色義直(応仁の乱では西軍)に助けられる。一色の脇に控えた武具家(皮革商)宇野屋仁阿弥が「牛」を預かることになる。

 小説『深重の橋』も「応仁の乱」関連書もここまで大半を要すも一挙にまとめてみた。似顔絵は著作権問題が面倒臭いから自己流で描いている。似るも似ないも筆まかせ。

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応仁の乱(2)鴨川の薪拾い [日本史系]

gennji.jpg_1.jpg 湯屋の続き。京には亀屋のような立派な湯屋の他に〝町風呂〟が市中に数10軒。さて「牛」は荷車を曳いて鴨川べりや町辻で薪拾いと釜焚き手伝いで働き出した。鴨川は大雨の氾濫で流木が多い。だが河原の叢には死期を迎えた病人、飢餓死の遺体が棄てられ、その衣服を剥ぐ男もいた。遺体多く死臭満ち、それを狙う犬も鴉もいた。

 鴨川近くの荒無地には、領主に仕えぬ河原者と呼ばれた社会底辺で置かれた人々も住み着いていた。澤田小説では「貴族や富裕層は、自分たちが行えぬ物事に携わる人々を差別の対象にした。死牛馬の始末、皮剥ぎ、捕鳥、弓弦や矢の製作、壁塗り、井戸掘り、清掃、道路普請、造園、また染色は化学知識なき時代ゆえ、呪術的行為に携わる異能者と見なされた」と記す。そうした人々のなかの芸能者から、やがて歌舞伎や猿楽(能)も誕生した。

ohninmoran.jpg_1.jpg 著者はさらに『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』「和歌」などは、そうした庶民の辛苦の上に成り立った王朝文化・文学で、庶民には無縁だった。だが彼らに卑賎視された庶民の間から「わび・さび」が誕生したと記す。

 以上を小生調べで補足してみる。足利将軍の室町時代は2代足利義満が「北山文化」。金閣寺が建ち、将軍保護下で観阿弥・世阿弥(嘉吉3年没)が鎌倉時代からの猿楽・田楽を「能楽」に大成。世阿弥は『風姿花伝』に芸道論を著わした。出雲阿国が鴨川・五条河原で歌舞伎踊を演じたのはずっと後の慶長3年(1603)。『源氏物語』『伊勢物語』『枕草子』成立は平安時代。

 8代足利義政の時代が「東山文化」。銀閣寺が建ち、禅宗の影響で「わび・さび」の「侘び茶」が開始(次の戦国時代に千利休が完成)。また同時代は鎌倉時代から続く連歌も盛ん。絵画面では足利将軍家の部下(同朋衆)の能阿弥、真阿弥が山水画を。東山時代に画僧の技法を経て雪舟が水墨画を完成(明での水墨画修業から帰国が応仁3年)。狩野正信~元信によって、水墨画と大和絵の技法融合で狩野派へ。

 さて小説の「牛」も下人のひとり。河原や町辻で薪を拾いつつ「いろは」「九九」を、また市中に貼られた為政者を笑う落首の漢字を読みたく「論語」で漢字も勉強。湯屋に売られて5年を経て20歳に。共に湯屋に売られて垢かき女にされた姐御肌「もも」といつしか深間の関係へ。

 カット上は庶民に無関係世界が描かれた「源氏物語絵巻」。カット下は大正2年刊「少年日本歴史読本」より応仁の乱の1頁。共に国会図書館デジタルコレクションより。

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応仁の乱(1)『深重の橋』の人買い市 [日本史系]

jinjyunohasi2_1.jpg 澤田ふじ子『花篝』最終編『あしたの雪』は、「応仁の乱」で朝廷財政窮乏、権威も失せた第104代・後柏原天皇に仕える勾当内侍(こうとうのないし)妙子の物語だった。京は焼け野原、禁裏御料も入らず。亡き帝の葬送費用、即位の費用もない。破れ築地から内裏に忍び込んで届けられる〝供御〟が頼り。妙子が土佐絵を描くことで供御の礼をする。そんな時代があったとは(ちなみに即位式は21年後の1521年。鈴木良一著『応仁の乱』)。~で「応仁の乱」のお勉強です。

 「応仁の乱」とは? 再び古本屋で澤田ふじ子の「応仁の乱」がらみ小説『深重の橋』上巻、呉座勇一著『応仁の乱』(中公新書)を入手。図書館で『深重の橋』下巻・初版本、石田晴男著『応仁・文明の乱』を借り、これらを参考にする。

 『深重の橋』第一章「無頼の市」は、86頁に亘って〝人買い市〟が描かれていた。今から575年前、嘉吉4年(1444)の摂津国広瀬(山崎宿の南)の人買い市。百数十人が手・足を縛られ、「場立ち」で次々に売られて行く。女は小袖の上半分を剥がされ、裾をめくられる。主人公「牛」15歳は10貫(江戸時代の10両相当)で湯屋・亀屋に買われた。※以下、史実を虚構で、虚構を史実で補いつつ記す。

ouninnoran2_1.jpg 第二次世界大戦も酷かったが、応仁の乱も酷かった。同乱は応仁元年(1467)から11年間もダラダラと続き、京都・奈良は地獄ほどに荒廃。小説「牛」が売られたのは嘉吉4年(1444)。その3年前、嘉吉元年に赤松満佑・教康が、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した(嘉吉の変)。将軍を千也茶丸(後の義勝)が継ぎ、幕府軍が赤松氏を討伐。嘉吉2年、義勝将軍誕生も翌年に没。三春(義政)が継ぎ、文安6年(宝徳元年1449)に元服し、8代将軍・足利義政が誕生。

 澤田ふじ子『深重の橋』第二章は「火の枕」。「牛」が湯屋で働き出して2年後ゆえ文安3年(1446)か。亀屋は洛中一の湯屋。場所は内裏(一町四方)とその倍の広さを誇る足利将軍邸(花の御所)近くの一条室町。

 亀屋は檜造り。にじり口に似た引違戸を開けると、15畳ほどの簀子の板敷に筵。客は並べられた木枕に横になって蒸気浴。簀子下に湯釜、その下は燃える竈。湯場奥は水浴び部屋。その先に手桶で運ばれた湯船の部屋。さらに「ふたの物(腰巻)一枚で、ててれ(褌)姿の男の垢落としをする〝垢かき女〟(江戸時代の湯女)が快楽へ誘う別室があった」。

 今の時代で室町時代を想像するのは難しいも、現・特殊浴場(旧トルコ風呂)のような湯屋ありとは驚いた。時代激変だが、そっち方面は何も変わっちゃいない。長くなったので次回へ。

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