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鏡花⑦雑司ヶ谷霊園を掃苔 [牛込シリーズ]

kyoukahaka1_1.jpg 大正14年(1925)、泉鏡花52歳。春に『鏡花全集』15巻の刊行開始。芝の紅葉館(青山光子が16歳まで奉公していた)で知友80余名が集まって祝宴。昭和8年〈1933)60歳。実弟・斜汀が何をやっても上手く行かず、家まで差し押さえられて徳田秋声のアパートへ若い妻と転がり込んで、間もなく負血症で急死。

 昭和14年(1939)66歳。佐藤春夫の甥(姉の子・竹田龍児31歳)と谷崎潤一郎の長男・鮎子(24歳)の結婚に鏡花夫妻が媒酌。同年9月7日、鏡花、胚腫瘍で卒去。枕頭の手帖に鉛筆で「露草や赤まんまもなつかしき」が絶筆。病床の露草から、犬蓼の花(赤まんま)を思い出して詠んだ句らしい。

 弊ブログで取り上げた文人らについては、概ね掃苔している。泉鏡花の墓は「雑司ヶ谷霊園」。墓地区域は「1-1-13-33」。道路側の番号標識の中へ10数m入った処に俳優・大川橋藏墓、その奥に「泉鏡花墓」があった。掃苔したのは11月末。落葉が溜っていたが、今なお美しい〝紅葉〟に抱かれているようだった。

 墓は小村雪岱構成、笹川臨風の書で「鏡花泉鏡太郎墓」。背面に「幽幻院鏡花日彩居士 昭和十四年九月七日没享年六十七 清次長男 俗名泉京太郎」。通夜に集った佐藤春夫はじめ文人らが考えた戒名とか。隣にすゞ夫人の戒名「眞女(如?)院妙楽日鈴大姉 昭和二十五年一月二十日没享年七十 泉太郎妻俗名すゞ」。さらに側面には祖父、祖母、父、母、弟の戒名、亡くなった年月と享年が刻まれていた。

 図書館から借りた関連書は返却済で、手許には中央公論社「日本の文学/尾崎紅葉・泉鏡花」、岩波文庫『婦系図』(前後篇)があるも、小生は熱心な読者ではなく、その文学に言及はできない。日夏耽之介が鏡花世界を評して「拵えごと」と記しているそうだが、関心抱けぬのもその辺にありそう。幾編を読んだ感想は、美人日本画のシュールっぽい多彩仕立て~と解釈した。物語設定、登場人物、ドラマ展開に無理・不自然があるも、そんなことにお構いなしの細密描写でフィクションに真実味を生みつつ押し切って一服の絵を完成させているような~。文学ではなく〝文芸〟が相応しいのか、本人の信条も「〝芸〟と名のつくものは、楽屋をさらけ出したらもう仕舞いです」

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鏡花⑥嵐山光三郎『文人悪食』 [牛込シリーズ]

akujikikyoka.jpg 前回は泉鏡花の麹町旧居について、各氏記述文を紹介したが、同じ方法で嵐山光三郎『文人悪食』(37名の文人の〝食のこだわり〟を各氏記述をまとめた書。(氏は『悪党芭蕉』で第34回泉鏡花文学賞を受賞)で、鏡花の黴菌恐怖症=超潔癖症が異彩を放っていた。

 同書から鏡花の潔癖症(黴菌恐怖症)ライフを簡単に紹介してみる。黴菌恐怖から「腐」を嫌って「豆腐」を「豆府」と書いた。「豆腐・大根おろし」も煮沸滅菌してから食った。寺本定芳が「先生宅の焙じ茶の味は格別で、誰もが二度と忘れない美味」と記しているが、それはほうじ茶も番茶もグラグラと煮立て、塩を少し入れての滅菌お茶だった。

 晩酌は二合ほどで、当然ながら熱燗で消毒。熱くて持てぬ徳利、唇が焼けるほどの熱さ。旅行には煮立てた熱燗を魔法瓶に入れて携帯。画家・岡田三郎夫人が見かねて、固形アルコールランプを進呈したとか。魚は当然ながら刺身ダメ。食すは白身の上物のみ。肉は鳥。春菊は茎の穴に〝はんみょう(毒虫)〟が卵を産み付けているとして絶対に食べなかった。虫が食うソラマメもダメ。

 文人仲間と鍋を囲む際は、しっかり煮込んでから食すために他者と境界線を設定し自分領域を主張とか。木村家のアン抜きアンパンが好きだったが、表裏をあぶり、指でつまんでいた部分を最後に捨てたとか。畳でおじぎをする際は、畳に手が触れぬように手の甲を浮かせた。巷の便所は小便がはねるから使わず。常にアルコール携帯消毒綿を常備して手指の消毒を欠かさず。

 『蠅を憎む記』で黴菌の恐怖を記しているそうな。自宅の土瓶や煙管の吸い口には、夫人手製の千代紙を丸めたキャップ(栓)付き。蠅への脅迫観念から、執筆前に原稿用紙上に蠅が飛べば、清めの水でお祓いをした。訂正した文字は黒々と塗りつぶし、その文字霊を抹殺した。蛇や蛭や化け物を描きつつ、それらと真逆の潔癖生活から耽美文芸を生んだ。

 同じ耽美小説に谷崎潤一郎がいるが、彼はヌラヌラしたものが大好き。ヌメヌメ・ドロドロを舐めて、フニャリとするものが好き。生肉が好き。性愛=舐めるの陶酔境地を記している。

 泉鏡花の潔癖症・黴菌恐怖症は、母28歳の死、同じ紅葉門下・小栗風葉のコレラ罹患、嫁ぎ先で二人の子の赤痢看病によって32歳で亡くなった妹、実弟・斜汀の妻の結核、そして自身の30歳頃に赤痢に罹って胃腸病~などの影響があったらしい。

 昨夜の正月テレビで、世界の知識人らが極度の潔癖症は利他拒否、利己主義になりかねないと語っていた。スペイン風邪の大流行と共に終わった第一次世界大戦。米英仏独の4ヶ国協議の最中に、米国大統領ウィルソンもスペイン風邪で39.4の発熱で入院。その間のヴェルサイユ条約でドイツは巨額賠償を負った。ドイツはそこからアーリア人中心の国家(潔癖主義)を目指し、そこから人種主義(他民族迫害、自民族をも選別)に結びついた狂気のナチズムが台頭した。

 自然や人体は黴菌があってこそ成り立つ仕組み。コロナ感染から過度の潔癖主義、短文で煽る危険な方向に進まぬように警戒しなければいけないと言っていた。最後に泉鏡花の晩年~掃苔。

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鏡花⑤終の棲家=麹町の鏡花宅 [牛込シリーズ]

bunnjinnup_1.jpg 鏡花の終の棲家「麹町区下6番町11番地」宅について。場所は地図(左)を参照。現「日テレ通り」の現日テレ更地の角「番町文人通り」を右折。現「ベルテ六番町」の大きな建物の石垣に「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡」史跡がある。その広大な屋敷(昔の有島邸)を右折して地図(d)及び写真の〇印が「泉鏡花旧居跡」史跡案内板がある。

 ちなみに有島武郎は大蔵官僚・有島武の長男で白樺派同人。代表作は『一房の葡萄』。ハーバード大に籍を置いた秀才の美男貴公子。北海道に農園を有し、欧米歴訪後に大学教授。31歳で結婚し、38歳で三人の子を設けるも妻が病死。世の女性が彼を放っておくワケもなく与謝野晶子、神近市子、望月百合子らが接近とか。だが「婦人公論」の記者・波多野秋子と軽井沢の別荘で情死(大正12年・1923)。

arisimatakeo_1.jpg 鏡花の6番町転居が明治43年(1910)だから、鏡花が夏に縁台を出して涼んでいた頃は、有島家の縁台には武郎、実弟の有島生馬、末弟の里見弴も反対側の縁台で涼んで互いに談笑していたらしい。有島生馬は藤島武二に師事後にイタリアへ。明治43年の帰国後にセザンヌを紹介。後に西村伊作の「文化学院」創立時の講師になっている。里見弴は小説家で明大文芸科教授。菊池寛賞などを受賞。そして武太郎の長男が二枚目スター・森雅之。

 さて泉鏡花宅について、各氏が記した紹介文を拾い集めてみる。勝本清一郎は「道一つへだてた有島宅はまさに邸であったが、鏡花の家は軒がかたむきかかった二階長屋の右半分であった。門はなく、道路からいきなり格子戸で、ただ、すゞ夫人が格子戸をよくみがいていたから、下町風の小ざっぱりした感じはあった。夏になると鏡花はこの格子戸の前に縁台を置き、浴衣がけで団扇を持って涼んでいた」

 里見弴は「昨日まで稽古三味線の音が耐えない長唄の女師匠の住んでいた階上階下六間ほどの粗末な借家に、あの名だたる大家がと驚かれもした。書斎は二階の八畳間。机の左に榎の自然木の火鉢。違い棚には常に紅葉全集と紅葉の写真が飾られて、鏡花は毎朝必ず恭々しく拝礼していた~」

kyoukatuino_1_1.jpg 泉明月は「三米巾の静かな道路沿いのしもた家造りの二階家。門がなく玄関は木の格子戸造り。道路から家の中をのぞくと、人がいるかいないか、家の中の様子がうっすら透けてわかる。周辺では珍しい造りで浅草、神楽坂、また金沢の鏡花の郷里・下新町にみられるような粋な造り。酒屋・伊勢安の借家で、昭和14年当時、45円の家賃。日当たりのよい南側が壁でお隣の家。広さは1階2階含めて大体35坪。1階は2畳の玄関、4畳半の茶の間には長火鉢と煙草盆。鏡花は潔癖家だから長火鉢の鉄びんの口、煙草の口にはすず夫人手製の千代紙を丸めたサックがかかぶさっていた。その天井には大小のトウモロコシがぶら下がっていて、雷さま除けのおまじまい。そして8畳の座敷、6畳の裁縫などする家事室。庭は2坪ほどだが鏡花の好きなうの花、koujimatikyoukatei_1.jpg山吹、あじさい、山茶花が植えられていた。庭の中央に能楽堂のようなおしゃれな雀のお宿があり、朝夕に餌をやると数百羽も集まってきた。夏には数匹のひき蛙も這い出てきた。2階の物干し台にも一杯の草花の鉢が並べられ、読書の合間合間に飽かずに眺めていた~」

 寺本定芳は「夏になると先生は、六番町のお宅の前、有島家の黒板塀との間に、涼み台が出される。煙草盆、蚊とり線香、団扇など涼み台には約束の小道具がずらりと並ぶ。先生の涼み台が往来に出ると里見家もここに一台の涼み台を出しで四方山雑談を交わしていた~。執筆の机は、祖母形見の経机。原稿は二つ折にして、間に手製の罫紙を挟んで毛筆で仮名つき原稿だった~」

 鏡花関連書には、鏡花宅写真が幾点も紹介されている。次は鏡花の潔癖症について~。コロナ感染対策の参考になるかも~。

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泉鏡花④麹町時代(イ) [牛込シリーズ]

 2泊3日の「検査入院」が〝こじれて〟15日間の入院生活になった。(コロナ無関係。入院にはPCR検査の陰性が必須条件) 退院後も即、日常生活には戻れず20日振りのPC起動です。この件については、いずれ記すことになろうが、まずは泉鏡花の続きです。

asahirennsai_1.jpg 泉鏡花、明治38年(1905)32歳。祖母(87歳)が死去。尾崎紅葉旧居近くの「円福寺」を菩提寺として雑司ヶ谷霊園に埋葬。弟の豊春は筆名「泉斜汀」で小説発表。札幌「北海道タイムス社」勤務で自立した。

 明治38年、鏡花は健康を害して約3年半、伊豆田越村(現・逗子市5丁目9番38号)で療養生活・小説『春昼』には、鏡花とすゞが散歩をした当時の逗子の風景が伺えるそうな。

 明治40年(1907)34歳。『婦系図』の新聞連載を開始。明治41年、すゞが大病(良質腫瘍切除?)手術。同年8月、妹の多賀が嫁ぎ先の富山で死去(32歳)、二人の子の赤痢看病で罹患とか。文学は自然主義(理論的指導者は島村抱月「早稲田文学」が牙城)の最盛期になるも鏡花奮闘す。

koujimatibunjin_1.jpg 明治41年35歳。牛込から麹町土手3丁目に移転。家賃30円。崖下の家(市ヶ谷~四谷間の濠寄り。同地域には後に内田多聞らも在住で、昭和13年に五番町に改称。現・番町会館辺りか~。写真下)。

 明治42年、鏡花は朝日新聞入社の夏目漱石を訪ね。60回分の小説連載を依頼。朝日新聞は漱石『それから』~鏡花『白鷺』~永井荷風『冷笑』~漱石『門』と続いた(漱石・鏡花の写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 明治43年37歳。麹町区下6番地(現・千代田区6番地5番)に転居、ここが終の棲家になった。その旧居については次回として、まずはどんな時代だったかを探ってみたい。

 明治43年3月に『遠野物語』発表の柳田国男は鏡花を評価し、鏡花もまた『遠野物語』を「奇譚・妖怪の一つ一つに想像力を刺激される」と評価。鏡花は『夜叉ヶ池』『天守物語』など戯曲形式作を発表。明治44年に小説19編を発表。

utidadote3cyoume_1.jpg 次に永井荷風。『花火』にこう記している。~明治44年慶応義塾に通勤する頃、」わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車(大逆事件の)が五六臺引続いて日比谷の裁裁判所の方へ走って行くのを見た。(略)わたしは世の文学者と共に何も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に耐へられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。

 同年11月、荷風は「三田文学」に無名の谷崎潤一郎作品に対する評論を発表。谷崎は同書を持つ手が可笑しい程にブルブル震えるのを如何ともすることが出来なかった程に感激する。その谷崎は泉鏡花を「独特の世界に遊んだ作家」と記し、「日本には浪漫派の作家が少ないので、鏡花がひとり懸け離れて見える。その異色ある境地=鏡花世界に住するも陰鬱・病的・ひねくれていない。日本的な明るさ、華やかさ、優美さ、天真爛漫さがある。我が国土の生え抜きのもの世界だ」。

 明治44年秋頃から鏡花作の舞台が活発化。『婦系図』『南地心中』『天守物語』『戯曲日本橋』など演劇(新派、歌舞伎、能)とも係わりが深くなる。写真中は明治時代に文人らが多く住んだ「麹町文人旧居図」。次回は鏡花の終の棲家「麹町区下6番地11番地」宅についての詳細を記してみる。

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泉鏡花③『蛇くひ』 [牛込シリーズ]

IMG_5630_1.JPG 泉鏡花25歳(明治31年作)の『蛇くひ』を、大正14年9月発行『鏡花全集巻三』(平成6年復刻版。写真)で読んでみる。行間たっぷりととって総ルビ。旧仮名、旧漢字の教科書でもあります。以下、数行を紹介する。無学小生が読めぬ漢字だけ(ルビ)する。

 ~渠等(かれら)は己を拒みた者の店前に集り、或は戸口に立竝び、御繁盛の旦那吝にして食を與へず、飢ゑて食ふものゝ何なるかを見よ、と叫びて、袂を探ぐればう畝々と這出づる蛇(くちなは)を掴みて、引断(ひきちぎ)りては舌鼓して咀嚼し、畳とも言はず、敷居ともいはず、吐出しては舐(ねぶ)る態は、ちらと見るだに嘔吐を催し、心弱き婦女子は後三日の食を廃して、病を得ざるは寡(すく)なきなり~

 榎の祠から数十の蛇を捉え、釜茹でする描写もある。よくもまぁ、そんな事を好んで書くなぁと驚いた。また『高野聖』でも蛇・蛇~の描写が続いて、次は樹の枝からぽたり・ぽたりと落ちてくる三寸ばかりの山海鼠(9㎝のヤマヒル)に襲われる描写が続く。鳥肌ざわざわさせつつ読み進めば、今度は婦人が衣紋の乱れた乳の端もほの見ゆる膨らかな胸を反らして沐浴する妖艶なシーン、その婦人が背後から抱くように坊さんの法衣をすっぽりと脱がし、張り付いたヒルを捕り、さらさらと水をかけ洗うシーンになったりする。

 いやはや、あたしはこんな小説は初めて読んだ。それで鏡花は「黴菌恐怖症・超潔癖症」というから魂消た。本当は蛇や蛭や黴菌が好きなんじゃないかとさえ思ってしまう。そう云えば~と小生も思い出す。O島へ行くと、会う度に必ず恐々と蛇の話をする人がいた。恐くイヤなら話さなければいいのに~。すまないが、お付き合いを遠慮させてもらったが、今思えば彼は〝0島の泉鏡花〟と云えなくもない。鏡花ファンのご婦人方は、そんな蛇や蛭や化け物噺に「キャー・キャー」と恐がりながら、鏡花文学に魅了されているのかしら。

 蛇の話なら小生体験もある。20代の山男時代のこと。ザイルワークの沢登り最後にブッシュを漕いで稜線に出るのだが、そのブッシュ漕ぎで草の根元を掴んだら、蛇がとぐろを巻いていた。40代のヘラ鮒釣りで、水辺の釣り座用意にゴミの紙を除いたらそこに蛇がいた。

 O島ロッジは自然の中。庭の手入れ最中、木の根が腐った跡の穴からムムゥ~と生臭さが立ち昇って、本能で後ずさりすれば、穴からヌネヌネと大きな蛇が這い出した。O島には〝飛び蛇〟もいる。青大将の黒化した黒蛇で、これが枝から枝へ跳ねる。M原山の土産屋にはマムシ入り焼酎が売っていた。島の友人にはマムシを食う奴もいる。生活道路に蛇の死骸があってイヤだなぁと思っていたら、キジが銜えて飛び去る光景もみた。芭蕉句「蛇くふときけば恐ろし雉の声」

 雉の声より怖い体験もした。風呂場から裸になった女房の悲鳴。すっ飛んで行くと浴室に赤斑模様の小さな蛇がいた。棒で打ち殺し、死骸をシャベルですくって藪へ捨てた。

 新宿にも蛇は出る。近所の団地を通り抜けようとしたら、子供らが小さな蛇で遊んでいた。気味悪く子らを避け通ったら、少年Aが面白がって蛇を持って迫ってきた。イヤがる人にイヤなことを迫れば、逆上して君を叩き潰す暴挙に出兼ねないと怒鳴りつつ説教した。あぁ、そんな泉鏡花の小説よ~と思った。次は鏡花の麹町時代へ。

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泉鏡花②牛込南榎町から神楽坂へ [牛込シリーズ]

kyoukaenoki1_1.jpg 泉鏡花は尾崎紅葉の玄関番の修行を終えると、博文館主人・小石川戸崎町の大橋乙羽(18歳で母を失い、19歳で上京。硯友社同人で博文館主・大橋佐平の長女婿へ。紅葉が媒酌人)へ移った。紅葉は内弟子卒の祝いに西洋料理・明進軒(当時の牛込唯一の洋食店)で馳走。鏡花、初めてナイフ・ホークの持ち方を教わる。

 博文館の百科全集の編纂に携わるなどしつつ、同社発行の「太陽」「文芸倶楽部」「少年世界」など雑誌ジャーナリズムに触れながら、自身も「文芸倶楽部」に『夜行巡査』などを発表。一葉宅から戻った乙羽夫人が「お夏さんが褒めていましたよ」。当時絶頂期のminamienoki2_1.jpg樋口一葉からのお褒めに大喜び。

 『外科室』『活人形』『鐘声夜半録』『貧民倶楽部』『愛と婚姻』『琵琶伝』などを発表後の明治29年(1896)23歳、小石川大塚町57番地の家を借り、祖母と弟豊春を迎えて一家を成す。当地は広大な陸軍省用地(弾薬倉庫)の隣(現・茗渓会館辺り。跡見学園中高隣=昭和5年に跡見学園が同官有地=大塚町56番地を購入。区立窪町小学校の春日通り反対側)。『日本の作家 泉鏡花』には祖母きて77歳、豊春16歳と共に縁側で寛ぐ写真が掲載。当時の鏡花評は「奇異怪僻不自然の観念小説・深刻小説」。

 明治32年(1899)26歳。神楽坂の蔦永楽の抱え芸者・伊藤すゞ(亡き母と同名の17歳・桃太郎)と恋情も、紅葉これを許さず。能登輪島で芸妓の妹・多賀も自宅に引き取る、なお紅葉の愛人は神楽坂芸者・小ゑん。紅葉晩年の交情相手は芸者・小糸だった。

IMG_5633_1.JPG 秋27歳、牛込南榎町23番地(写真上)へ転居。同地は牛込天神から南へ坂を上り切った辺りの左「矢来公園」を経て、そこから2本目の路地を右に曲がった先のアパート一画。新宿区登録史跡「泉鏡花旧居跡」(写真中)が設置されている。新宿歴史博物館サイト「泉鏡花旧居跡」の写真は平成7年で、写っているのは二階建て一軒家。地名通り大榎が鬱蒼、野草蓬々の荒み切った2階家で、上下3,4間の家。2階の6畳が書斎で、下の6畳が舎弟斜汀の居間。現在は新築アパート風建物の角に史跡看板あり。文章・写真も平成7年地とは微妙に変わっている。

 なお「矢来公園」辺りは鏑木清方旧居碑があるも、二人の交流が鏑木が矢来公園に移転(大正15年)以前の明治34年(1901)頃からで、安田銀行頭取などの実業家・安田善次郎(松廼舎)宅で紹介されてから。南榎町在住時の作品は『高野聖』『葛飾砂子』(後に谷崎潤一郎脚色で映画化)など。

 明治35年(1902)29歳、胃病を癒すために逗子田越村桜山の一軒家で約1ヶ月を過ごしている。台所仕事に服部てる子がいたも、すゞが週2で通っていたとか。すゞと人目を忍ぶ「幽居」でもあったらしい。

izumihakusyu_1.jpg 翌30歳、南榎町から牛込神楽坂2丁目22番地(写真下)の新築2階家へ移転。いわゆる「物理学校裏」で、ここには「泉鏡花・北原白秋旧居地」の史跡看板が建っている。同年10月30日に紅葉が36歳で逝去後に、すゞと正式結婚した。鏡花の同借家に在住は明治39年7月までで、その2年後に北原白秋が翌年10月に本郷動坂へ転居するまでの約1年間ここに住んでいた。白秋は千駄ヶ谷に転居したのは、本郷動坂からだろうか。千駄ヶ谷では隣人の人妻と密通で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監へ送られた。その辺の事情とその後の波乱人生については、弊ブログ「千駄ヶ谷物語23~26」で紹介済。

 次は麹町へ移った泉鏡花を紹介してみる。

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泉鏡花①旧居巡りの前に~ [牛込シリーズ]

IMG_5623_1.JPG 泉鏡花の旧居巡り前に、鏡花プロフィールをお勉強。参考は笠原伸夫『評伝泉鏡花』(白地社)、日本の作家『泉鏡花』(小学館)、『作家の自伝 泉鏡花』(日本図書センター)、『日本文学全集:尾崎紅葉・泉鏡花』(中公公論)など。関心抱かぬ作家ゆえ、俄かに『高野聖』と短編の幾編かを読んだのみで、その文学に言及の知識はなく、彼の旧居巡りから彼の世界を探ってみます。

 明治6年(1873)金沢生まれ。本名・鏡太郎。父は彫金師・清次(象嵌師。尾崎紅葉の父は彫金師)。父29歳・母17歳で結婚。母・鈴は加賀藩の葛野流大鼓師で江戸詰め田中豊喜(万三郎、猪之助)の長女。江戸は下谷生まれ。鈴の兄は養子に出された松本金太郎で、宝生流シテ方として知られた能学師。母一家は明治元年の能楽師の国元帰還令で金沢に戻った。

 鏡太郎は、母が江戸から持ち帰った草双紙の絵を見るのが大好き。9歳の時に母28歳が次女の産縟熱(天然痘説もあり)で死去。鏡花は「五つぐらいの時だと思う。母の柔らかな乳房を指で摘みつまみして居たように覚えている~」。若い母の死に無常、異性=母への思慕を抱えて育ったらしい。以後は祖母「きて」が養育。

 父は母より8歳上のサクと再婚も、子らが馴染まず離縁。だが鏡太郎には次々と美しい女性が現れた。近所の湯浅しげ、又従姉の目細てる。11歳で米国人経営の北陸英和学校に入学すればミス・ポートルにも愛された。鏡花にとって異性=亡き母・年上女性の図式が出来た。

kyouka2satu_1.jpg 16歳、紅葉『二人比丘尼色懺悔』に感動し、小説家志望で上京。知人友人の下宿を転々とする放浪生活1年余。下層裏長屋体験を経て、18歳で牛込横寺町の尾崎紅葉(新婚早々24歳)の門下生・玄関番として修業開始。

 「実に此門に参らん事、積年の望みなりければ、其儘心なく容易(たやす)くは入りかねて~。長らく躊躇したのちに衣服の襟を繕ひつゝ、門の内を二三十歩、又格子戸を潜りあり、静に開けて立向ひ、慮外(ぶしつけ)ながら御免下さいましと申し~ 明治二十四年十月九日午前八時三十分」

 「お前も小説に見込まれたな。都合が出来たら世話をしてやってもよい」に翌日再び先生宅へ。「夜具を持ってはいまいな」で同日夕方に小さな机と本箱をもって玄関へ。共に父は居職で、早くに母を亡くした境遇。鏡花は修業中に金沢大火で実家類焼、父死去などで帰郷時期もあるも寄食生活は22歳まで。(写真の評伝本表紙絵は『続風流線』の鰭崎英朋の句絵。

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芸術倶楽部跡から尾崎紅葉旧居へ [牛込シリーズ]

geijyutukurabuato2_1.jpg 夏のウォーキングで、迷い辿り着けなかった神楽坂・横寺町の芸術座倶楽部跡と尾崎紅葉旧居を新自転車で巡った。

 早稲田通りを「神楽坂駅」まで走り、その先の左が「赤城神社」で、その斜め右側の「朝日坂」へ入る。坂を上り切った辺りのアパート風家屋が並ぶ壁の電柱横に「芸術座倶楽部跡地」の史跡看板あり(写真上・中)。

 「島村抱月・松井須磨子物語」は記したゆえ、ここでは場所の確認だけ。ドイツ留学後の抱月は「早稲田文学」復刊で自然主義文学の旗手の一人だったが、同倶楽部内でスペイン風邪で亡くなった。須磨子も後追い自殺した。

 同地よりさらに朝日坂を進めば右に「円福寺」。そgeijutukurabuato_1_1.jpgの先の左側に「尾崎紅葉旧居跡」(写真下)。以前に歩き訪ねたことがあるも、夏のウォーキングでは迷い訪ねられず仕舞い。自転車散歩のなんと簡単なこと。

 中央公論社「日本の文学:尾崎紅葉/泉鏡花」年譜より、簡単に尾崎紅葉プロフィールを追ってみる。明治元年(1868)芝中門町生まれ。本名・徳太郎。父は象牙彫りの名職人。母は漢方医の娘・庸(よう)。紅葉4歳の時に母が早逝。母の実家。芝神明町の荒木家で育つ。

 11歳、東京府第二中学へ。小学時代の山田美妙と再会。2年で退学。漢学を学ぶ。14歳、三田英学校入学。15歳、東京大学予備門へ。「文交会」に参加し漢詩文を発表。17歳、山田美妙や石橋思案らと「硯友社」結成。筆写回覧雑誌「我楽多文庫」発行。母の実家・荒木家と共に麹町飯田町へ転居。「硯友社」に川上眉山、巌谷小波らが参加。

ozakikouyoutaku_1.jpg 明治21年、20歳。『我楽多文庫』公売。江見水蔭らも加わって同人80名余。帝国大学法科入学。翌21歳『二人比丘尼懺悔』が出世作になり、読売新聞社に入社。

 明治23年、22歳。牛込北町41番地に移る。実はここ大田南畝の生誕地で、南畝の子孫で画家の大田南洋(南岳)が住んでいた後に紅葉が住み、紅葉が出たあとに江見水蔭が入居(これは小生の説)。

 紅葉は試験で落第したことで大学を退き文筆に専念。掘紫山と本郷森川町に住み、23歳で再び牛込北町へ戻る。そこから牛込横寺町47(写真左)に転じて永住する。以後、作品を次々に発表。明治30年(1897)、読売新聞に『金色夜叉』連載。明治36年(1903)35歳、胃癌で畢命。墓地は青山墓地。戒名は彩文院紅葉日崇居士。

konjikiyasya.jpg 三島由紀夫は~「巧妙練達な文章。奇思湧くが如く。警語頗る多し。客観描写の洗練と日本的なリゴリスム(厳格主義)を伴った人事物象風景の実存感・正確度を要求する態度は、その後の近代文学をがんじがらめにした。紅葉を読む時は、まず一種観念的なたのしみ方から入って行くことが必要~と記していた。文学的には浪漫主義、擬古典主義。島村抱月らの〝自然主義〟ブームと対峙。

 尾崎紅葉旧宅跡を訊ねたら、同宅玄関の間で書生暮し後に活躍した泉鏡花の旧居巡りもしたくなった。(続く) 写真左はかつて歴史的仮名遣い勉強中に古本市で買った「金色夜叉」の挿絵。

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牛込城跡の光照寺で「便々館湖鯉鮒」の墓 [牛込シリーズ]

kousyouji_1.jpg 「新宿発ポタリング」再開は、今夏ウォーキングで「コロナで閉門中」だった〝藁坂〟を上った先の「光鉄寺」へ。本堂前に新宿区登録史跡の牛込城跡の説明看板あり(内容は写真をどうぞ)。

 さて史跡看板はあるも、牛込城遺構があるワケでもなく、せいぜいが想像するに、当時はこの高台から南方向を観れば領有地の赤坂・桜田・日比谷方向が一望できて、牛込氏はさぞ気分爽快だったろうと推測するのみ。墓地を歩いて「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)」の墓に出会ったことが嬉しかった。

 狂歌師・便々館については、今春に新宿西口は青梅街道沿い「常圓寺」門前の狂歌碑「三度たく米さえこはしやはらかし おもふままにはならぬ世の中」(2020年の今も、さらに強く深く広く〝思うままにusigomejyoato_1.jpgならぬ世の中〟になっています)。その碑の揮毫は光照寺崖下近くに50歳位まで在住だった大田南畝(蜀山人)だった。

 便々館の墓にも新宿指定文化財の史跡案内があった。「便々館湖鯉鮒の墓 江戸時代中期の狂歌師 便々館湖鯉鮒は本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。はじめ牛込二十騎町に住む幕臣で狂歌師の朱学管江(あけらかんこう)に狂歌を学び、その後、唐衣橘州(からごろもきしゅう)の門下に転じ、世に知られるようになった。大田南畝(蜀山人)とも親交があり(~と常圓寺の狂歌碑についての説明があって)、文化15年(1818)4月5日、享年70歳で没した」とあり。

benbenkai.jpg_1.jpg benbenkan_1.jpg大田南畝は、同寺の崖下辺り牛込仲御徒町(現・中町)に50歳位まで在住。19歳で『寝惚先生文集』(序文・平賀源内)を刊で、狂歌師としても大人気。その後に散文小説『甲駅新話』(弊ブログで原文筆写済)発表。寛政の改革を皮肉った「世の中は蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も眠られず」作者と思われ、かつ同地で妻妾同居など、お上のお咎め危険に、狂歌人生から一転して「学問吟味」に挑戦し、二度目で合格して支配勘定へ。定信引退後の江戸文化人として再び大人気。便々館没から5年後の文政6年75歳で没。

 墓横の写真は便々館湖鯉鮒監修の『絵本狂歌山満多山(山また山)』。市ヶ谷八幡、王子稲荷、飛鳥山、護国寺など山の手名所の風俗を葛飾北斎絵に狂歌を添えた絵本。

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光子⑭「パン・ヨーロッパの母」になる [牛込シリーズ]

EU_1_1.jpg 「パン・ヨーロッパ」運動の名誉総裁にノーベル平和賞のフランス首相をつとめたアルスチイド・ブリアンが就任し、昭和4年(1929)に国際連盟に提案。ジュネーブ本部に「パン・アメリカン」の旗がはためいた。翌年には英国チャーチルも「ヨーロッパ合衆国」を発表。

 だが良い事は続かない。NY証券取引所に端を発した世界大恐慌。ドイツではヒトラー台頭で第三次ドイツ出現。第二次世界大戦への不穏な動き。イタリアでもムッソリーニが出て来た。日本では昭和6年(1931)に満州事変。順風宇だった「パン・ヨーロッパ」運動は、荒波に消えた。

hitler_1.jpg 昭和14年(1939)、第二次世界大戦が勃発。ヒトラーがオ-ストリア併合、チェコ略取、ポーランドへ侵攻。フランスが対独宣戦布告も即、占領された。光子は元駐独大使・大嶋中将配慮でメードリングの村荘へ。次女オルガに付き添われて隠棲。また大嶋陸軍中将の庇護でリヒャルト夫妻はスイス~アメリカへ亡命。

 光子は昭和16年(1941)8月の日本軍真珠湾奇襲の4ヵ月前に、2度目の卒中発作で亡くなった。ハインリッヒは後に自著『美の国』で、母について「ミツは自分に課された運命を最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである」と記しているそうな。

 こう記す木村毅は、かつてウィーン滞留経験を有す外交官、武官、学者、音楽家などによる「ウィーン会」が、光子の面影を永遠にとどめておこうと執筆者に著者を推された。大戦中なれどイタリア経由でウィーンへと計画中に、真珠湾攻撃で計画断念したと告白している。

 アメリカに渡ったリヒャルトはNY大教授になって、カーネギー平和財団で「戦後ヨーロッパ連合研究ゼミナール」を担当。チャーチル、ルーズベルト、トルーマン各大統領意見の紆余曲折を経て、戦後1948年にベルギー、オランダ、」ルクセンブルグの関税同盟で「EU史」がスタート。1951年、同棲37年の女優イダが死去。1967年にFC(ヨーロッパ共同体)から1990年に仏独がEMU(経済通貨組合)。そして1993年にEUが誕生。EU史は改めて勉強するとして、リヒャルトは71歳の時に来日し「鹿島平和賞」を受賞。

 第二次世界大戦終了(1945)から75年を経た今、2度に及ぶ世界大戦の反省を忘れらしき米国は「自国ファースト」の大統領が出現し、英国でもEU離脱。日本でも大空襲~原爆投下から「こんな恐ろしい兵器が開発された今、二度と戦争などしてはならぬ」の「平和憲法」が生まれたが、今は「自国を守る軍隊なくして何が国家だ」と「軍備拡充・憲法改悪」を叫ぶ輩が蠢き出している。

 戦争の歴史を避けてきた小生だが、かつて事務所があった市ヶ谷・佐内坂近くの納戸町公園で「クーデンホーク光子・居住地」の碑に出会ったことで「日清・日露戦争」を、そして「欧州の第一次・第二次世界大戦」をお勉強することになった。

 コロナ外出自粛&熱中症を避けた冷房装置部屋での読書三昧だったが、これにて一区切り。気候もやっと秋めいてきた。読書で萎えた身体をウォーキングで復活させましょう。写真はEU旗とヒトラー。

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光子⑬ 第一次世界大戦中の子らと~ [牛込シリーズ]

mitsukoura_1.jpg 光子の次男リヒャルトは、徴兵を免れた第一次世界大戦中ずっとイダと深間の暮し。詩人リルケが、イダについて「素質の瑞々しさ、身振り、着想、演技の盛り上がり方は絶えず新しく生まれ出で、澄み切って、泉のように清らかな水を湧き出している」と絶賛しているそうな。リヒャルトは自分への財産分与分で、イダのために劇場を買おうとし、光子怒って母子関係が完全に切れた。

 1917年(大正6年)は、ロシア革命(写真下はレーニン。『レーニンの生涯と事業』昭和2年刊。国会図書館デジタルコレクションより)とアメリカ参戦の年。同年にリヒャルトはウィーン大の博士号授与式。イダ参列も光子は出席せず。リヒャルトは舞台興業がなくなったイダと、父の妹(叔母)提供の田舎の古城で戦禍を逃れた暮し3年余。

 光子も戦禍を逃れ、3人の娘と共にボヘミアの山荘暮し。ここで光子は古城暮しで学んだ農業経験から開墾~馬鈴薯作りで大収穫。男装して前線守備兵へ馬鈴薯を届けに行ったとか(シュミット村木著は、それも作り話だと記している)。ロンスペルク城を相続した長男ヨハネス(ハンス)もまた光子の意にそぐわぬ嫁を迎えて母子断絶。

 1918年11月、ドイツ系オーストリアとチェコスロバキア、ハンガリーが各共和国成立宣言。どん底まで疲弊した欧州に一条の光となったのが、未だ30歳前の若きリヒャルトの『パン・ヨーロッパ(Pan Eureope)=ヨーロッパ合衆国、ヨーロッパ共同体)構想だった。

lenin_1.jpg 欧州は米国の2/3の広さながら28国家あり。各国で言語も通貨も違う。各国が自衛軍備を備え、国境に要塞も設けている。比して米国は48州あるも言語も通貨も同じで、関税や交通障害もない。

 第一次世界大戦で疲弊した欧州復活もそうあるべきではないか~という提案。その大運動のリーダーに若きリヒャルトが躍り出た。月刊『パン・ヨーロッパ』も発行。一方日本でも岡倉天心が「アジアは一つ」と叫んでいた。(パン・ヨーロッパの形が出来るのは第二次世界多選後になる)

 光子は、息子の「パン・ヨーロッパ」運動を知った1925年に軽い卒中に倒れた。以後は次女オルガが母を支える暮し。息子の著書『パン・ヨーロッパ』が永富守之助(鹿島守之助)によって日本語訳本が出版されてことも知った。

 <『パン・ヨーロッパ』著者の母=日本人のミツコ>もクローズアップされ、母と次男の10年余の別離も溶けて母子対面が実現。写真はシュミット村木眞寿美『ミツコと七人の子供達』裏表紙のミツコ。同著には7人の子らの第二次世界大戦も経たそれぞれの人生も紹介されている。7人のうち3人が博士号。2人有名作家になっている。

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光子⑫ 第一次世界大戦(B) [牛込シリーズ]

hikousen1_1.jpg 光子と第一次世界大戦②は1915から終戦までをまとめる。まずは1915年。ドイツ軍が西部戦線で史上初の毒ガス使用。ドイツ潜水艦「Uボート」が英国大型客船を撃沈。イタリアがオーストリア、トルコ、ドイツに宣戦布告。ブルガリアがドイツ、オーストリアと秘密同盟。セルビア軍がギリシャへ退避。

 大戦3年目の1916年。2=12月「フランス・ヴェルダンの戦い」では両軍死傷者70万人。フランス軍前線にドイツの砲弾が雨霰。ユトランド沖(北海)で英独主力艦隊の最初で最後の大海戦。ドイツ27隻(11隻損傷)、英国37先(14隻損傷)。

 東部戦線ではロシアが大攻勢。1週間でオーストリア軍20万人を捕虜。フランス北部では英軍は隊列崩さぬ進軍で、退避壕からのドイツ兵機関銃で1日5万7470人死傷。ルーマニアがオーストリアに宣戦布告も、反撃されて首都ブカレスト陥落。ロシアでは祈祷師ラスプーチンが暗殺される。国内もストライキ頻発。

bakudantouka_1.jpg 1917年、ドイツが無制限潜水艇作戦再開。Uボートがアメリカ商船3隻を撃沈してアメリカも参戦。「マタ・ハリ」がドイツのスパイとしてフランスで処刑。1月、ロシアで飢え・反戦・専制政治妥当の5万人デモ。3月にはデモ・ストライキの「三月革命」。オーストリアでも秘密講和交渉(失敗)。ドイツ軍ゴータ爆撃機でロンドン空爆。開戦当初はツェッペリン〈気球船)で爆撃も、イギリスが高性能の対空砲、戦闘機改良に対して誕生したのがゴーダ爆撃機。

 フランスも軍内部の反乱。各国、大戦の疲弊で吹き出した。イギリス軍がフランダース地方のドイツ前線の地下に張り巡らせた坑道に仕込んだ500トン地雷を爆発。1万人余のドイツ兵が亡くなり7千人が捕虜。

 ロシアでは「レーニンとトロッキー」登場で連合国を離脱。ロシア革命時には「サマセット・モーム(小説家)」が英国諜報員として工作活動を行っていたとか。

 同年にリヒャルドはウィーン大卒業で、博士号授与式にイダ出席も、光子は拒否。イダの舞台も無く、二人はアルプス連山の麓メーレン地方の古城で隠棲。光子は長男次男が戦場で、4男は高校寄宿舎。3人の娘と静かなストッカウの村荘へ避難。光子は古城時代bakuha_1.jpgの農業管理の知識を生かして開墾~馬鈴薯作り。大収穫で前線兵士へ男装して届けたとか。

 1918年、大戦は収束へ動き出す。年頭に米国大統領が「平和のための14ヶ条」。中央同盟軍でもドイツ離れで、オーストリア軍では6~9月の脱走兵40万人。ロシアは離脱も、アメリカ軍が西部前線に140万を集結。アメリカ軍の死傷者32万人(戦死者11万6千人)。イタリア戦線でアメリカ赤十字の救急車運転手「アーネスト・ヘミングウェイ(18歳)」が負傷とか。アメリが軍による「スペイン風邪」が世界中に蔓延(全世界の推定死者2700万人)。

Uboat1_1.jpg ロシアでは元皇帝一家(ニコライ夫妻と子ら11名)が処刑さる。ブルガリア、トルコが休戦。オーストリア、ドイツも休戦を模索。4年3ヶ月の大戦の軍関係の死者推定900万人。民間人を含めると1600万人とか。1918年11月、ドイツ休戦協定調印、ドイツ系オーストリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー各共和国成立宣言。

 1919年1月、パリ講和会議開始~ヴェルサイユ講和条約調印。戦後処理の不満がくすぶったか1939年9月にはヒトラーのポーランド侵攻で、再び第二次世界大戦へ。

 写真は『大戦争写真帖』(大正4年刊)国会図書館デジタルコレクションより。

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光子⑪ 第一次世界大戦(A) [牛込シリーズ]

eidokusen1_1.jpg 光子さんにはいろんな事を勉強させられる。日清・日露大戦に続き、今度は無知の第一次世界大戦です。参考は木村靖二著『第一次世界大戦』と飯倉章著『第一次世界大戦史』。

 まず発端はサラエボ事件(ボスニアの首都サラエボ訪問中のオーストリア皇帝の皇太子フェルディナイト大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者に暗殺された)。暗殺者グループがセルビアの情報機関の支援を得ていたことが判明。

 上記大公夫妻と懇意のドイツ皇帝カイザーが、オーストリアは「ドイツの全面支援を当てにしてよい」の〝白紙小切手〟(セルビア背後のロシアが出て来た場合はドイツも動くの意。なんだか日米の関係に似ていなくもない)。セルビアもロシアの「白紙小切手」を得て、バチカン半島で第一次世界大戦が始まった。

 当初は当時国間の戦いで留まる筈だったが、ロシア総動員令でドイツ・フランス共に総動員令で戦線布告。ドイツ軍がルクセンブルグ(ベルギー・フランス・ドイツに囲まれた公国)に侵略。イギリスもフランス支援で参戦決定。

 かくして「ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリア=中央同盟国」VS「ロシア・フランス・ベルギー・モンテネグロ・イタリア・ルーマニア・ポルトガル・ギリシャ・アメリカ・日本も参加の連合国」という全欧州を巻き込んだ大戦に拡大。光子の長男・次男は徴兵され、次男リヒャルトは病患ありで不徴兵でイダの許を離れず二人は結婚へ。光子、次男を勘当する。

tintao2_1.jpg 日本は、日英同盟の関係上で、ドイツ租借地の中国山東半島・靑島のドイツ海軍基地VS香港英国海軍に加担。山東半島のドイツ軍4,600人に日本軍6万人が総攻撃。

 バチカン半島ではオスマン帝国(トルコ)軍がコーカサス地方のロシア領に侵攻。ロシアがイギリスに救援を求めて逆転。英仏艦隊はガリポリ半島(トルコのエーゲ海へ伸びた半島)のトルコ軍を攻撃。

 西部戦線(ベルギーからスイス国境)では、ドイツがベルギーを攻略。フランスはドイツ領にされたロレーヌ地方奪還を試みるも敗北。両軍死者それぞれ20万人。ベルギー南西部ではイギリス大陸派遣軍とドイツ軍が戦闘。ドイツは英仏軍を撃退し、パリ近郊まで迫る。

 一方、東部戦線はロシアがセルビア支援を後回しにして、ドイツ領の東プロイセンのドイツ軍を攻め、オーストリア~リトアニア~ベルリンへ進軍。オーストリア軍はドイツの援軍を得て反撃に転じた。ドイツ・オーストリア軍はロシア領ポーランド~ワルシャワへ進撃。

 1914年6月のサラエボ事件から同年12月までの戦闘で死傷者フランス軍26万5千人、ドイツ軍14万5千人とか。行方不明者も多大で、その大半が捕虜とか。狭い欧州全土に戦火拡大で、さらに激しい展開になる。

 写真上は英軍・独軍の歩兵激戦。写真下は日本軍の青島攻城軍の入城。(大正4年刊『大戦争写真帖』より。国会図書館デジタルコレクション)

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光子⑩ 夫亡き後~ [牛込シリーズ]

IMG_3590_1.JPG ハインリッヒは自著『意思の世界』執筆中の明治37年(1904)に日露戦争勃発を知った。「オーストリア・ハンガリー帝国」はロシアと反目しているが、力不足で威伏状態。同じ小国・日本が超大国ロシアに宣戦布告し、誰もが日本惨敗を思って同情していたらしいが、ハインリッヒだけは日本勝利を予言。光子は壁に貼った地図に、勝利地をピン止めし、その都度、貴族仲間や領民らがお祝いを言いに訪ねてきたとか。

 そして明治38年(1905)の旅順陥落に、ハインリッヒは旧知の柿崎博士に慶祝書簡を送った。「日本がまた功名を遂げた。欧州も米国も驚くのみ、だが安心してはいけない。この無謀な戦争は、やがて廻り廻って自分に襲ってくる~」と警告。(忠告通り後、日本は太平洋戦争で無残な結果になる)

 翌・明治39年5月、ハインリッヒは執筆前の散歩途中で胸の痛みを覚えて47歳で急逝(シュミット村木著は他殺、自殺説に言及)。ややして庭に煙が上がった。「私が死んだら、その日に焼却せよ」の遺言通り従僕が彼の40冊余の日記を焼却していた。

 それまでの母を次男リヒャルトは自伝で「母は日本人形に似ていた。忍従と諦め、強い自己抑制。母は絵を描き、和歌を詠っていた」。南川三治著『クーデンホーク光子』は写真集で、光子が庭でスケッチをしている姿、また10数冊のスケッチブックの絵を多数紹介。なかなか達者な作品です。

 夫の死で、光子は一変した。遺書はロンスペルグ領地を長男ヨハンへ。他の全財産と子供らの後見を光子に託していた。これに家族親戚は異を表して告訴。だが光子は目覚めた雌獅子の如く立ち上がり、鉄の意思・魂で法廷論争で勝つ。そして夫の専制的管理者の姿勢も見習ったそうな。

 光子は子らを南チロルで教育を受けさせるも、子らが田舎じみるを嫌ってウィーンのオーストリア最高の学校テレジャヌス・アカデミーヘ入れ、自身もボヘミアからウィーンへ移住。末娘イーダは吉沢・元大使への書簡に「母は社交界ウィーンで優雅に美しく装い、快活で機智に富み、魅力的な花形としてサロンの中心だった」と認めているとか。松本清張の記述のはかなり違う。「母は乗馬、泳ぎ、テニス~あらゆるスポーツもこなし、劇場やオペラに足しげく通った」。光子36歳~40代前半の時期だろう。

 次男リヒャルトによれば、母の社交界の花形振りは、古城で読み耽っていた英文恋愛小説ゆえだろう」と記し、木村毅は、少女時代に「紅葉館」で働いていた素養があってのことだろうと記している。

 大正2年(1913)、次男リヒャルトはウィーンの大学へ。専攻は哲学と世界史。ウィーンは世紀末の文化爛熟期で、光子は当時人気絶頂の新女優イダ・ロ-ランの芝居に長男次男を連れていった。リヒャルトがイダに夢中になり、イダも彼に熱を上げた。彼は未だ大学1年生、イダは母・光子に近い歳。二人の大恋愛が始まった頃、第一次世界大戦が始まった。

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光子⑨ 松本清張の光子 [牛込シリーズ]

saraebojiken_1.jpg 松本清張『暗い血の旋舞』は、光子のロンスペルク城の暮しを、次男リヒャルト『回想録』『美の国』からこう紹介していた。

 ~兄弟は庭園を囲む壁の中で外界と遮断したように暮した。庭園、屋根裏、中庭、台所、地下室、礼拝堂。二階の城内劇場、食堂、図書館(父の書斎)、有名哲学者らの多くの胸像~。

 小生が古城暮しに触れるのは、堀田善衛『ミシェル城館の人』以来。クーデンホーク家は代々の「伯=小部族長」のドイツ系貴族。食事は燕尾服の貴族趣味。だが彼らがロンスペルク城で暮らし始めた時期は、チェコ人の民族運動が次第に激しくなっていた。

 松本清張は若き日に木村毅『小説研究十六講』によって小説家を志し、大家になって木村毅が著わした『クーデンホーク光子伝』に挑戦し、師とは違う角度で描こうとした。クーデンホーク家と同じボヘミアのホテック家(反カトリック)を描き、さらに光子家に出入りしていた駐墺大使館の武官(山下陸軍少佐)の神出鬼没の眼を通して民族独立運動、ドイツ民族党、反ユダヤ主義のキリスト教社会主義の三つ巴のなかで光子を描こうとしたらしい。

16saiseicyo.jpg ホテック家は第一次世界大戦の引き金=サラエボ事件(オーストラリア皇帝の皇太子フェルディナイト大公と妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者に暗殺された)のゾフィー実家がボヘミアの大地主ホテック家。第一次世界大戦の発端となったゾフィーのホテック家と、光子次男リヒャルトによる「パン・ヨーロッパ」運動をも対比しつつ大スケールで描こうと試みる。

 光子はロンスペルク城暮し12年(夫死後2年を含む)後に、自身もウィーンに移住したが、その裏に城周囲のチェコ民族運動の活発化があっての移住だろうと推測し、通説「光子はウィーン社交界の花」も、日本人で未亡人の光子がウィーン社交界の花になれようはずもないと考える。

 さらには光子は江戸時代がつくった女性像「執念・忍耐」を体現していた。芝・紅葉館で働いたのも行儀見習いではなく、父・喜八がそこに集う名士らとの〝良縁〟を求めてのこと。その証拠に喜八は光子結婚に「商売発展の多大な金銭」を受けている。江戸時代に吉原に身売りされた女は、実家の敷居を跨がない風習も光子に生きていたのではないかと記す。

seicyo2touhei.jpg 帰国したハインリッヒが外交官を辞めて領地管理をするようになったのも、ドイツ人に対するチェコ人農奴への警戒感があってのこと。ゆえに専制的態度で臨むことによって領主維持ができると考えた。光子にもそのように教育した。光子が夫の死後に性質一変して、領民や子らにも専制的に接し出したのもその影響があってのことだろうと記す。

 同書はそんな意欲的視点で臨んだ「取材ノートに過ぎず」とでも言っていいのかも知れない。清張はその後に完全版を書く積りだったろうが、それを果たせず5年後に亡くなった(伊豆大島墜落「もく星号」書は三度も書き直している)

 それでも同書最後は、プラハ道端でビスケット売りのボヘミア女に、己の母の姿をダブらすシーンで終わっている。不甲斐ない父。母は小倉や下関で露天商や餅屋で生活を支えた。読み書きも出来ぬ母だが、粘り強い強靭性と意地があった。清張はボヘミア女の露天商の女と己の母、さらには青山光子をダブらせたところで同書を締め括っていた。

 写真は国会図書館デジタルコレクション『大戦争写真帖』(大正4年刊)より。キャプションは「サラエヴオの凶変に全欧禍乱の導火線となりし墺皇儲殿下とその家庭~」とある。画は作家以前の松本清張。小学校卒後の給仕時代、徴兵時の松本清張。少年要寝ん・青年時の清張は未だ下唇は出ていずハンサムボーイだった。

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光子⑧ 日露戦争 [牛込シリーズ]

kikutikutie_1.jpg 明治35年(1902)の日英同盟が日露開戦の弾みになった。英国は領土拡張から輸出拡大期になって、東シナ海の自由運航・自由貿易が最重要でロシア南下に懸念。同時に英国は日本が軍需産業の最大顧客。日清戦争(14年前)の6万トンが、英国軍艦購入13.8万トンで計25万トン。戦艦6隻、重巡6隻、軽巡3隻の艦艇全94隻。日清戦争時の海軍力32位から一気に第5位(ロシアはその5倍)。陸軍も7個師団から13個師団(ロシアは75個師団)。

 桁違いの大国ロシアを敵国に定め、国家予算4割強の軍事費。国民は増税に泣き耐えた。海軍司令部が陸軍参謀本部と対等に昇格。連合艦隊司令長官に東郷平八郎。御前会議5回を経て明治37年(1904)に開戦決定。

 このとき「万朝報」の開戦同調に異を唱えて境利彦・幸徳秋水が退社声明。内村鑑三も論壇から退く宣言。それを読んだ荒畑寒村少年が感激していた。堺・幸徳が『平民社(平民新聞)』を創刊。この辺は既に勉強済。https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2012-06-25

 2月8日、旅順港奇襲攻撃。仁川港のオトリ役「千代田」が湾外に誘い出したロシア巡洋艦、砲艦を撃沈で日露戦争の初勝利。次に旅順湾閉塞作戦。三度試みて17隻を沈めるも航路塞げず。

nipponkaisen_1.jpg 陸戦は第1軍が鴨緑江を渡って九連城を攻略。第2軍は南山戦で苦戦。機関銃砲を浴びて4300名が死傷。横から攻め、艦砲援護も得て被害甚大なるもロシア軍退却。与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」。大本営(為政者、軍人)は死者の個々人を無視して数字(グロス)で捉える怖さ恐ろしさよ。

 旅順港では名著『海軍戦術論』のマカロフ指令長官の旗艦が、前夜に仕掛けた機雷をひっかけて爆沈。マカロフ中将の死に、日本では提灯行列で追悼とか。兵士の̪死はグロスで処理し、英雄のみ美化する変な風潮が蔓延っていた。

 陸軍は南満州の要塞・遼陽でロシア22万5千人と対峙(日本軍13万5千人)。日本軍は脚気(森鴎外の怠慢)と弾丸不足。退却するロシア軍も追撃も出来ず。旅順は日清戦争時が1日で陥落も、今回は203高地で死傷者6万人の犠牲を重ね、5カ月を要した。高地頂上から旅順港を見下ろせば、山越え弾が当たった旅順艦隊が全滅。遼陽戦は奉天まで退いて厳冬期休戦を経たロシアが耐寒装備コサック騎兵で攻撃開始。苦戦を重ねて辛勝す。

 一方、バルチック艦隊がバルト海を出航していた。英国が行く先々で石炭の補給妨害などの嫌がらせ。艦隊がウラジオストックへ向かうには宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡か? 日本艦隊(40数隻)は波の荒い朝鮮海峡で砲撃訓練を積み、火薬や信管も改良して準備万端。信濃丸が五島列島付近でバルチック艦隊を発見。対馬ルートと判明し「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」も敵艦隊の先方をUターンし、最初の30分で攻勢。夜襲も成功してロシア艦隊38隻のうち25隻撃沈、7隻捕獲の大勝利。

 明治38年8月10日、ポーツマス講和。小国が清国の次に超大国ロシアをも破って列強国入り。9月5日に日露戦争終結。大将らが伯爵になり、高級軍人計131人が爵位。半藤一利は「日露戦争は勝ち過ぎた。事実を隠蔽して美談や神話ばかりが膨らみ、戦勝気分に浮かれて軍部の慢心が始まった」。「富国強兵」に耐えてきた国民も目標を失った。36年後に太平洋戦争~。

 写真は『日清日露戦争物語~附・アジアの盟主日本』(菊池寛他、昭和12年刊)の口絵(国会図書館デジタルコレクションより)

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光子⑦ 日清戦争 [牛込シリーズ]

nissinsensouryojyun_1.jpg クーデンホーク家のドラマは日清・日露戦争時代になる。小生、学校で習ったかも覚えていないので、一度は復習する必要がありそう。

 幕末は「尊王攘夷」。尊王(天皇)・攘夷(外国勢力の撃退)から明治維新へ。軍人勅語、教育勅語~そして明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」発布。開国して国の形が整うと、世界・諸国が見えて來る。

 朝鮮半島の危ういこと。朝鮮の大銀行が「露清銀行」。それを象徴してロシアが不凍港を求めて南下し、朝鮮を保護指令する宗主国=清国がいる。露清大国に英国も絡み、朝鮮は大国と密約・暴露されつつ揺れ続けている。(その姿は今の韓国も同じ。日本はバンドワゴン=米国頼りだ)

 そのうちに挑戦内乱。政府は清国に援軍を要請。清国軍が半島に入ってくれば、権力均衡維持に日本も軍隊派遣。清国の朝鮮駐在・袁世凱が突如帰国で、実力者を失って狼狽する朝鮮の隙を狙って、日本は王宮内に隠棲の大院君(明治15年に逮捕)を担ぎ出して親日派政府を組織。これが日清開戦の契機になった。

nissinsensounisikie_1.jpg 清国はソウル南の成歓に陣を張った。戦闘1時間半で清軍潰走。その数日前に仁川の西・豊島沖でも、清国増援兵輸送の護衛軍艦を日本艦隊が撃沈・敗走させた。清軍の増援軍1万余が南下して平城を占拠すると日本軍が包囲。それだけで清兵は戦意を失って日本軍は平城入り。日本海軍は黄海で清国・北洋艦隊と4時間ほどの戦いで3艦撃沈ほか大損害を与えて旅順1日で陥落。

 半藤一利は「司馬さんは『坂の上の雲』の日清戦争の章を<勝利の最大因は、その頃の中国人は国家のために死ぬという観念を持っていなかった」と締めくくっている」を紹介。明治27年(1894)の日清講和条約で日本は遼東半島と台湾澎湖島を手に入れ、日本の国家予算4倍もの賠償金を手に入れ、戦費のほとんどを補った。

 再び半藤一利「勝海舟はこの戦いは大間違い。支那5億の民衆は日本にとって最大のお客様なのに~」の言葉を紹介。(これまた現代に通用)

 日清講和から1年後、明治28年の三国干渉(ロシア主導でフランス、ドイツ)で、日本は遼東半島全面放棄。だが3年もせぬ間にドイツが膠州湾(青島)を、フランスが広洲湾を、ロシアが旅順・大連を含む遼東半島を租借。満州も事実上占拠した。

 以後の日本はロシアが仮想敵国になる。超大国相手ゆえ、軍備充実に国家予算4割強を充てた。この項の参考は中公『日本の歴史』22巻、文春新書『徹底検証 日清・日露戦争』(座談会構成)。次に「日露戦争」もお勉強する。写真上は明治27~28年刊『日清戦争写真石版』より、写真下は明治27年刊の『日清軍艦開戦之図』より。共に国会図書館デジタルコレクション。 

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光子⑥夫の帰国、光子の初渡欧 [牛込シリーズ]

IMG_3588_1.JPG ハインリッヒが「オーストリア・ハンガリー代理公使」として駐日中に遺した仕事は外交面でなしも、「日本初オペラ」と「仏教各派融合」が果たしたそうな。オペラは、彼がアマチュア同好者を集め、日清戦争への赤十字寄付を目的に明治27年(1894)11月に東京音楽学校奏楽堂で「ファウスト」の第1幕・書斎の場を上演。上演中に「旅順要塞陥落」報に、舞台中断で観客総立ち『君が代』が唄われたとか。また公使館は仏教各派高僧を招いて懇談の場の提供していたらしい。

 ハインリッヒが明治28年3月に光子との正式結婚と長男・次男の戸籍を正しく改めた翌年春に、一家は神戸出航のオーストリア「ギゼラ号」で旅立った。光子21歳。不安で胸が潰されそう。一方の夫は次男誕生の同時期に、祖国の父逝去の報に接し、家長の責任に奮い立っていたらしい。

 なお光子は、渡欧前に皇后陛下(後の昭憲皇太后)に拝謁。「ヨーロッパに行っても決して祖国の名誉を忘れぬよう~」のお言葉と、彫刻入り象牙の扇を賜った。

 旅は二人の幼児、乳母と保母、侍僕の計7名。香港~シンガポール~セイロン~インド~アラビア~エジプト。ここから子供と乳母らは一路ロンスペルタ城ヘ。夫妻はエジプト~パレスチナ~イタリアを回って明治28年(1896)にオーストリアのチロル州インスブルックで初めて夫の祖国の地を踏み、ここからバエルン~ボヘミア(現チェコ)のロンスペルクへ。村人総出の出迎え。沿道にはオーストリアと日章旗がはためていた。この旅行記はシュミット村木眞寿美『クーデンホーク光子の手記』に詳しい。

 ロンスペルク城の荒廃酷く、当初は迎賓翼(左右の建物)に住み、修理・内装が施された後に本館に移り住む。来客絶えず。ハインリッヒは子を両国文化の子ではなく、ヨーロッパ人として教育。乳母らを日本に帰し、母子らに日本語の会話も禁じた。

 ハインリッヒは領地管理者の不正を見つけたことで、外交官を諦めて領主(地方の王:農業経営)の道を選び、併せて大学で哲学博士の試験に挑戦。学位論文は『ユダヤ人排斥主義の本質』。オーストリアはドイツとロシアの橋渡し役をすべきと主張。家庭では領主仕事と学問は、光子に立ち入り拒否の絶対専制主義。

 光子も育児の他はドイツ語、英語、フランス語。歴史やヨーロッパ風の立ち振舞いを学ぶなど独自の勉強。夫婦それぞれの世界を尊重、かつ立ち入らぬ生活。それでいて晩餐は夫は燕尾服、光子は夜会服。夜は小作りで長男次男に続く男児2人、女子3人を産んだ。

 そんなロンスペルク城の暮しが軌道にのった明治39年(1906)、ハインリッヒ47歳で急死。この時、光子32歳。夫の遺書に妻光子を包括相続人と指定しており、親族反対に光子は自ら法廷に立ちドイツ語で論戦。判事を納得させる熱弁で家長を引き継いだとか。

 夫妻が日本を離れる前年、明治27年に日清戦争。樋口一葉『たけくらべ』発表。明治33年(1900)にパリ万博。ハインリッヒ没の2年後の明治37年(1904)に日露戦争勃発。欧州にも第1次世界大戦のイヤな空気がひたひたと広がりつつあった。

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光子⑤ ハインリッヒ駐在時の日本とウィーン [牛込シリーズ]

mitsouko2_1.jpg 松本清張の「当時の外人のほとんどがそうだったように日本の骨董収集に凝っていて~」からフェノロサを思い出した。彼の来日が明治11年(1878)。その古美術蒐集・研究に尽力したのが岡倉覚三(天心。似顔絵)。

 当時の日本は廃仏稀釈で日本美術は瀕死状態。世は文明開化で西洋かぶれ。お雇い外国人の月給が数百円に比し、狩野芳崖など有名日本画家らは1円にも困る生活。古美術・浮世絵は古道具屋に満ち、外国人らは古美術蒐集に熱中。だがフェノロサの『美術真説』によって逆に洋画排斥、日本美術の保護育成が盛り上がった。それを反映して東京美術学校の初代校長は岡倉天心、副校長がフェノロサ。

 林忠正が二束三文で古道具屋で仕入れた浮世絵を、パリで売りまくって巨万の富を得た。ゴッホが最初に買った浮世絵は3フラン。瞬く間にパリ市民の1ヶ月生活費相当300フランに高騰の「ジャポニスムブーム」加熱。

 一方ウィーンでは明治6年に「第5回万博大博覧会」開催。この時の日本出品作は工芸品中心。高評価で完売するもブームには至らず。特筆すべきは随行員70名のうち20名が残って、欧州の諸技術を学んで帰国。津田仙の花粉交配技術が日本の果実栽培に革命をもたらせたとか。またドイツを追われてウィーン大学教授になったシュタイン̪氏に、伊藤博文はじめ多くの日本人が学んで明治憲法制定の基礎になった。明治天皇お気に入りの侍従も1年間はシュタイン門下生。

 ウィーンのジャポニスムは、上記から工芸品中心だったが、明治30年(1897)頃の世紀末ウィーン(文化爛熟期)を迎えてアカデミックな芸術団体を嫌った人々が「ウィーン分離派」を形成。35歳のグスタフ・クリムトが同派会長に就き、明治33年(1900)に分離派会館で「ジャポニスム展」を開催。クリムトは博物館の日本工芸品などの影響から金箔多用に平面的官能的絵画を発表し出した。

tensinmaru.jpg ハインリッヒの日本滞在(明治25年~29年)は、まさに本国でジャポニスムの時。松本清張『暗い血の旋舞』は、ウィーンのヒーツィング墓地で、光子の墓探しから始まるが、光子の墓を探し出すまえに、分離派のオットー・ワグナー、グスタフ・クリムトの墓を見つけている。

 ちなみにクリムトの弟子、エゴン・シーレはウィーン美術学校入学だが、ヒットラーは同校入試に2度失敗。シーレと妻エディットが「スペイン風邪」で死去の数年後に、ヒットラーは独裁者への道を歩み出していた。

 松本清張は「ゲラン香水〝ミツコ〟は、グーデンホーク光子とは無関係だろう。1909年にパリ刊のクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』のヒロイン名Mitsoukoからで、当時の欧州では日本女性=光子が浸透していた」と説明していた。

 写真上は我家のトイレ窓棚に長年放置の「Mitsouko」。写真下は岡倉天心の似顔絵を、今朝覚えたばかりの「楕円トリミング」でアップ。

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光子④ 光子のとハインリッヒのプロフィール [牛込シリーズ]

kanbansyasin_1.jpg 光子は明治7年(1874)、牛込納戸町生まれ。父は明治20年になっても「ちょん髷頭」の旧弊な男。家業は骨董・油屋。2店舗を二人の妾にやらせていた。光子は当時の女児教育=奉公で躾修業。美人ゆえ芝の和風一流料亭「紅葉屋」(鹿鳴館と双璧の社交場)へ。茶の湯、生け花、和歌、三弦、琴、絵画など各師匠より習いつつの仕事。実家に戻ったのが16歳で、以後は家事手伝い。

 NHK特集「ミツコ 二つの世紀末」5話の「第1回/麻布・青山・ウィーン・ボヘミア」で吉永小百合が、光子の曾孫ソフィアを青山通りで迎え「光子の家系はこの辺一帯を持っていた大地主で~」。ウムム、それは家康の家臣・郡上藩青山家だろう。

 光子の父・青山喜八は町人。リヒャルト自伝によれば喜八は、幕末に九州佐賀から出て来て「たね油」で財を成した父の子。身もち悪く放蕩ゆえに、妹婿に本家を継がせ、彼は分家されたとか。

 時代は「たね油から石油」へ移る時代。油に見切りをつけて骨董屋2店を経営。上記テレビ番組では吉永小百合がソフィを三軒茶屋「正蓮寺」の「青山喜八之墓」へ案内。喜八の妻つねは、支店の妾を統括する御寮さん(次々と女に手をつけた勝海舟の年上女房・お民さんみたい)。子らは「母はそんな祖母の気質を継いでいる~」。

 次は夫ハインリッヒ。ウィーンで安政6年(1859)生まれ。光子より15歳年上。父は外交官伯爵、母も貴族マリー(旧姓カレルギ―)36歳で他界。曾祖父=初代クーデンホーク伯爵夫人は稀代の名媛で、その美しさ知性をゲーテも讃えたとか。

 ハインリッヒは12歳からウィーンのイエズス会神学校寄宿舎へ。卒業後にウィーンで青年少尉として服役。20歳の時に、フランス人音楽留学生マリーと恋愛~妊娠。彼は結婚を望むも父は猛反対。マリーが平民のため、息子が学業半ばのため、妻と同じフランス人で名も同じゆえ~と反対理由は諸説あり。

 父の城に呼び戻されて外出禁止。そんな某日、同城の花壇にマリーと女友達二人のピストル自殺遺体あり。彼はさらに祖父の山中別荘に送られ、ロシアとルーマニアの国境近くの大学で法律の勉強。(彼が亡くなる直前にマリーの子が3歳で夭死を知る)。

tukijikyokai.jpg 大学卒業後は、故郷を逃げるように外交官としてアテネ、リオデジャネイロ、コンスタンチノーブル、ブエノスアイレスへ。トルコ語、アラビア語、ヘブライ語などを習得(計18ヶ国習得の語学天才)。仏教的厭世思想=ショーペンハウエル著作を耽読する彼は、明治25年2月末に来日し、3月16日に光子と結婚。その早業に狩猟的好色と思われがちだが、次男自伝に「父はジェントルマンで、家政婦が入室でも立ち上がって迎える人」とか。光子に夢中の程が想像できる。

 「内縁・私生児」の戸籍を、正く「正式結婚・我が子」に改めると同時に、光子をカトリックに改宗させるべく築地教会内聖ヨセフ学校へ通わせた。英語とドイツ語の勉強から、同教会で洗礼から挙式。木村著には当時を知る老人の言「純白のウェディングドレスの光子さんが、空色の文官正装の六尺豊かな伯爵の腕にぶら下がるようにして聖堂から出て来た光景を覚えている」を紹介。

 写真上は史跡看板の「渡欧前の光子」。光子関連書には挙式写真が不可欠だが小生は転載不可。そこで4年前の「築地居留地・自転車散歩」の際に撮った「築地教会」です。

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光子③ 関連書著者らのドラマ [牛込シリーズ]

mituko2hon_1.jpg ここで「クーデンホーフ光子」関連書の著者についてのメモしておこう。まずは鹿島建設の鹿島守之助。氏は鹿島組の長女と結婚するまでは本名・永富守之助で外交官。ドイツ駐留中に「パン・アメリカン連合」の指導者リヒャルト・クーデンホーク=カレルギー(光子の次男=栄次郎)に会い、彼の「パン・ヨーロッパ」構想に共感し、親交を深めた。

 昭和2年(1927)、リヒャルトの『パン・ヨーロッパ』を翻訳・出版。以後、鹿島研究所出版から『クーデンホーフ=カレルギー伯爵全集(全9巻)を1970年から刊行をはじめ、光子の娘『母の思い出』(光子を看取ったオルガ著)、『結婚と孤独』はじめの(イーダ・ゲレス著作)、リヒャルドの来日後に執筆『美の国』なども出版。

 リヒャルドは鹿島に「汎アジア」も進言。鹿島は外務省を退所して「汎アジア=大東亜共栄圏」を主張で政治家を目指すも落選。「大政翼賛会調査局長」に就任。「汎アジア=大東亜協栄圏」構想は正しも軍部の暴走で道が逸れた~と語っているとか。戦後公職法追放が解除されて参議院に当選。8期務めて1971年に政界引退。鹿島建設は日本第1号原子炉、霞が関ビル、サンシャイン60、青函トンネルなど多数~。木村毅は「クーデンホーフのヨーロッパ共同体思想は、岡倉天心が日露戦争の直前に〝アジアは一つ〟と言った意と相通じると説明している。

seisyomaru5.jpg 次はすでに紹介の木村毅(き)。若き松本清張に小説家への志を与えたのが氏の『小説研究十六講』(大正14年=1925)。その木村毅が昭和45年(1971)に『クーデンホーフ光子伝』を鹿島出版会から刊。これは同年に鹿島映画が劇映画「超高層のあけぼの」全国公開ヒットになり、文部省グランプリも受賞。鹿島氏が次作に常々から構想の鹿島平和賞受賞「クーデンホーフ伯の親子」の映画化を計画。映画化に先立ってNHK放映決定で、NHK会長よりオリジナル作家として木村毅氏を推薦。木村氏はすでに『海外に活躍した明治の女性』の中で「EECの祖母~クーデンホーク・カレルギー伯爵夫人光子」なる1章を発表済での推挙。かくして昭和46年(1971)に『クーデンホーフ光子伝』を刊行。

 (※1973年のNHK「ドキュメンタリードラマ 国境のない伝記~クーデンホーク家の人びと」の原作になった。また昭和62年・1987のNHK特番「ミツコ~二つの世紀末~」(吉永小百合主演の5話放映)は、木村勉原作ではなく、松本清張の欧州取材に同行したNHKプロデューサー吉田直哉の制作で、シナリオ集も刊行されている)

 そして木村毅『小説研究十六講』によって小説家を志した松本清張は、上京すると真っ先に木村氏を訪問して挨拶。後に大家となった清張が死去5年前に執筆したのが『暗い血の旋舞』(昭和62・1987年刊)。木村氏から学んだことの集大成として臨んだ意欲作と思われるが出来栄えは~(小生感想:満点に至らずです)。(「松本清張全集」64に収録されています)

 4人目に挙げたいのがミュンヘン在住で、長年にわたって光子の取材を続けているシュミット木村眞寿美。東京都出身で早大大学院卒後にストックホルム大へ留学。1968年にドイツ・ミュンヘンへ移住、ドイツの医師と結ばれて子供を設けてドイツ国籍を取得。主婦業の傍らレポーター、通訳、翻訳、執筆。光子当時は「オーストリア・ハンガリー」だったが、その後はクーデンホークのロンシペリク城はチョコ共和国へ。著者は廃れたロンシペリク城の復興なども運動中とか。チェコに没収されている光子直筆手記を翻訳。

 光子に取り組んだ著者それぞれにも人生ドラマありで、かつ著者によって光子の捉え方もそれぞれ違って、初めて光子を知ろうとする者はいささか戸惑います。

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光子②)納戸町26番地の洋館 [牛込シリーズ]

kimurakihon.jpg 木村毅『クーデンホーフ光子伝』(写真左)には、都公文書館保存の戸籍簿が紹介されている。光子(みつ)戸籍は「牛込区牛込納戸町廿六番地」。戸主は青山喜八。光子の長男・次男の出生届は「明治廿八年三月十六日願済廃家、平民青山みつ廃家ノ上私生児」として光太郎・明治廿六年九月十五日生まれ、栄次郎・明治廿七年十一月十六日生まれ」。

 ハインリッヒは帰国を控えて「光子=内縁、子供ら=私生児」を改めるべく提出した一連の書類(都公文書館)も紹介。婚姻届け、実子認知請求届、さらに「内外人結婚ノ儀伺案」と同許可証、青山喜八から「みつ」を嫁に出したという確認証など。木村毅の取材力に脱帽です。

 また「みつ」生家と夫妻居住地が同番地なのは、当時の同番地は広く、両家はご近所ゆえに同番地だと知った。また次男リヒャルトが来日後に記した『美の国』には、父=ハインリッヒが青山喜八に多額の金銭的援助をして結婚承諾を得たことも紹介されているとか。

 そして彼ら新婚宅=市ヶ谷加賀町の洋館借家(現・納戸町公園の地)については、著者が昭和30年頃に都立大の諸教授らとの座談会で、クーデンホーク家の話題が出た際に、都立大総長・柴田雄次博士が「彼らが住んでいた洋館の家主は私の父。ですから私も子供心に伯爵の堂々とした姿を今も覚えています」と発言したと紹介。

 柴田博士の父・承桂は、明治3年に海外留学令でドイツ・ベルリン大学で有機化学、衛生学を修めて明治7年に帰朝。その後は司薬局長で功績大。明治19年に二重橋設計の建築家・松ヶ崎万長にドイツ風の家を新築を依頼。だが歳を経るに従って日本趣味へ。邸内に住み易い和風家屋を建て、洋館を借家にしたとか。

mitukoyasiki_1.jpg さらに昭和41年、次男リヒャルトが初来日して鹿島平和賞を受賞した際の祝賀会で、柴田博士(都立大総長)が「この写真があなたの生まれた家です」と古写真をみせていたとも記していた。

 以上から「青山家と二人が暮した洋館が同番地で、洋館についての謎も解けた。現在の納戸町公園は狭いが、明治44年の地図を見ると確かに納戸町26番地はもっと広く、明治25年頃にはさらに広かったのかも知れない。ちなみに大正5年の地形図を見ると(写真下)、納戸町26番地に、なにやら大きな屋敷図が描かれていて、これが洋館かな~と推測した。

 現・第三中学の角に、昔の「都立第四中学校」の記念碑あり。~同校は明治34年に飯田町から移転し「天下の四中」になるも大空襲で焼失。その校風・伝統は現・都立戸山高等学校(都立名門進学校)に受け継がれているとあった。クーデンホーフ邸も大空襲で焼失したと思われる。

ttatemonotanbo_1.jpg ついでに記せば、現第三中前の道は、江戸狂歌「大田南畝」の徒歩組時代の旧居がある牛込中町から続く道で、第三中を経て柳町方面へ歩けば、すぐ右に繭玉風の芸人宅、ドイツ山荘風の家(大正8年建造の元耳鼻咽喉科医宅)、裏千家東京茶道会館の粋な日本邸宅、空を見上げれば大日本印刷のガラス張り超高層ビル、また同道より防衛省寄り1本隣道には柳田国男旧宅地もあり。建物巡りから江戸~明治~大正~現代が覗けるなかなか面白い界隈です(続く)。

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光子① 牛込納戸町 [牛込シリーズ]

nandocyokoen_1.jpg 牛込地区のネット巡りで「クーデンホーフ光子」に出会った。彼女夫妻の居住跡が、小生がかつて事務所を構えていた「佐内坂」近くで驚いた。普段は市ヶ谷~佐内坂を上ったり下ったりも、時に反対側へ歩く時もあり。防衛庁(自衛隊)裏の壁沿いに歩けば「JICAビル」に突き当たり、同ビルに沿って右へ左へ回り込めば、自衛隊と大日本印刷の間の道を真っ直ぐ行って外苑東通りを突っ切れば女子医大へ。そこまで歩けば自宅も遠くない。

 「JICAビル」に突き当たって右折したまま真っ直ぐ「中根坂」を下れば、左に「牛込三中」(当時は第四中学)で反対側が「納戸町公園」(写真)。そこが「クーデンホーフ光子居住の地」。史跡看板に、こう書かれている。

sanaizaka_1.jpg 「この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子(青山みつ1874~1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。光子は明治7年(1874)骨董商・油商を営んでいた青山喜八と妻つねの3女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーク・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。渡欧までの間、光子と共にこの地で暮した次男リヒャルト(栄次郎1894~1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」よ呼ばれている。平成25年3月 新宿区」

 二人の出会いは諸説。1973年のNHK番組「国境のない伝記~クーデンホーク家の人びと」では、光子を吉永小百合が演じていた。「骨董」看板の店の帳簿に座った光子の前で、小僧が歩道に張った氷を砕いていた。そこに馬から下りた青年伯爵が、店前で氷の破片を踏んで転倒。光子がかいがいしく介抱して、二人の物語が始まっていた。

 シュミット村木眞寿美著『クーデンホーフ光子の手記』には、~凍った道で落馬した青年貴族に駈け寄り介抱した美しい少女」の逸話が本当ならば、光子は得々と自分の手記にも書いたろうが、その記述はない。それは後で作られた逸話なのでは~と記していた。

 松本清張『暗い血の旋舞』には、光子の出自、伯爵との出会いが概ねこう記されていた。~光子の生家は牛込納戸町。実家は青山で骨董を商い油屋も兼業。伯爵は当時の外人のほとんどがそうだったように日本の骨董収集に凝っていて、光子の家にもしばし出入り。ある冬の日、光子の家の前で伯爵の馬が氷の破片に脚を取られて落馬。それを光子がかいがいしく介抱した。

 時代は明治なのに住所も出会いも曖昧です。その辺から探ってみることにした。(続く)

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由比正雪はエビデンス不足。虚構頼り~ [牛込シリーズ]

akibasyousetu_1.jpg 牛込辺りの歴史散歩をしていると、由比正雪がひょこひょこと顔を出す。芳賀善次郎『新宿の散歩道~その歴史を訪ねて~(昭和48年刊)にも「光照寺に由比正雪の抜け穴」。「牛込天神町の由比正雪旧居跡」、「秋葉神社の正雪地蔵尊」(左写真)が紹介されている。

 山鹿素行お勉強でも「正雪」が幾度も顔を出した。「丸橋忠弥」は自宅で捕まったが、そこは素行と同じ本郷中間町(現・本郷3丁目?)。捕えた町奉行は後に素行門弟。正雪追補に向かった駒井親昌も素行に兵学を学んでいた。素行が1千石で約7ヶ月赤穂藩に滞在(主目的は甲州流の赤穂城縄張り改め)も、由比正雪の乱~翌年の別木庄左衛門の乱(承応の変)など浪人らの反乱続出で、幕府の浪人取締りが厳しく、浪人・素行も身辺に重圧を感じたことが理由のひとつだろうと指摘されていた。また二人がどこかで逢っていた~かにも注目。

 かくして由比正雪がどこに住んでいたかが知りたく、再び進士慶幹著『由比正雪』の年譜を確認をした。だが正雪が事件を起こす47歳までのエビデンス一切なし。生誕から事件まで僅か数行。面白く脚色された芝居「慶安太平記」(=歌舞伎演目『樟紀流花見幕張』作者は狂言作家・河竹黙阿弥)などを参考にする他にないらしい。下のカットは歌舞伎の小生絵。

 前述「光照寺の由比正雪の抜け穴」にはこう説明されていた。~由比正雪は光照寺(元・牛込城)付近に住んでいた「楠不伝」の道場をまかされて光照寺境内に移ってきた。正雪は後に牛込榎町に移った~。進士著には~ 正雪は養子3回。最初は高松半兵衛の養子。2番目は春日局に出入りの菓子屋・鶴屋弥次右衛門の養子。3番目が軍学者・楠不伝の養子。

m_yuinoran_1.jpg 両著に「楠不伝」が絡む。さて「楠不伝とは」。楠木正成の4男・正平の末裔・正虎の子・甚四郎が後の「楠不伝」。その軍法は『太平記』から、楠木正成の戦い方をまとめたもの。それが幾つかの流派に分かれて、楠不伝が教えていたのが「楠正振伝楠流」。

 「慶安太平記」では楠不伝が牛込榎町で表間口45間、奥行き35間の大道場で教えていて、御大名・御旗本衆など門弟3千人余。正雪は不伝の軍学の教えを受けて養子になった~の設定。そこでは不伝は金満家と描かれているも、実際は貧しき老人で、正雪が何くれと面倒をみてやっていたので秘蔵の正成の短刀、楠木氏系図などを譲られた~の説もあり。

 ここでまた思わぬ人物・林羅山が登場する。彼が書いた『草賊前記』(1651)は、島原の乱や由比正雪の乱は熊沢蕃山の学問をキリスト教に変形したものゆえ排撃する趣旨で書かれたものらしい。さらには「正雪は不伝を暗殺して軍法書などを自分の物にし道場も継いだ」とも書いているとか。原作は知らんが、羅山は熊沢蕃山、藤原惺窩、祖心尼、キリシタン、蘭学などを排斥し(異学の禁)、己の朱子学=幕府の正学をアピールしたくての記述だろうか。

razanhon.jpg 以前に林羅山をお勉強したが、そんな書を書いていたとは気付かなかった。さらに次は新井白石も登場する。吉宗の将軍就任で千駄ヶ谷に隠棲した白石は、各地の方と手紙のやり取りを活発化するが、正雪とは?の質問を受け「知人が若い時分に正雪から軍法を学んだそうで、彼によれば神田連雀町の裏店の5間ほどの家での浪人暮し。そこで旗本や御家中のお歴々に軍法を伝授。話に聞く~牛込榎町で大々的に教授をしていたわけでもないから、真面目に論じるほどの価値もなかろう~と返信していたそうな。

 また進士著では当時の浪人数は約23万余。同じ浪人の子ながら、山鹿素行は神童の誉れ高く、人との巡り合せが良かった。由比正雪も志を抱く優秀な少年だったが、素行よりお行儀が良くなかっただけである、と記していた。

 小生の結論。正雪はやはり小説、歌舞伎、講談で愉しむのがいいようで御座います。既に松村友視『由比正雪』~謎の人物・由比正雪。彼をそそのかす妖艶な女・素心尼~を愉しつつ読んだが、大仏次郎『由比正雪』、山本周五郎『正雪記』、早乙女貢『由比正雪』なども楽しんでみましょ~です。史実が少ないだけに作家の想像力の見せどころ。梅雨明けと同時に猛暑で熱中症の危険。外へ出れば歌舞伎町近くコロナ感染も怖い。クーラーの効いた自室での読書が一番です。

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③山鹿素行と赤穂藩と墓所 [牛込シリーズ]

yamagahaka_1.jpg 素行35歳からの10年間が成熟期。寛文2年(1662)41歳頃に「朱子学から古学へ転向。(古学=『論語・孟子』など朱子学や陽明学の解釈を介さす、直接原文を読んで真意を求めた学。これを素行は「聖学」、伊藤仁斎は「古義学」、萩生徂徠は「古文辞学」) 寛文5年(1665)44歳で古学の主張を発表。

 同年に父81歳没。宗参寺に葬る(宗参寺は鳳林寺と同じ駒込吉祥寺末寺。父埋葬をもって宗参寺が山鹿家の菩提寺になったと思っていいのだろう)。翌年、妾「駒木根不知」が万助を産むも難産で死去。宗参寺に葬る。

 寛文6年、古学の主張を公にした『聖教要録』が幕府の思想統制に反する(朱子学尊奉者・保科正之の告訴)として、赤穂浅野家へお預け(配流)。『配所残筆』には、家に遺書を残し、死罪の場合を覚悟して懐に一通を忍ばせて参上したと述懐している。

 10月9日未明に江戸を立ち、24日に赤穂着。11月には妻子も合流。「讁居(たっきょ)」とは云え、不自由ない暮しで素行は学問専念。「日本中朝主義」(儒教の中国崇拝思想を自己批判し、日本は中国と違って尊王思想が貫かれ、より優れている)思想を固める。

 寛文9年に保科正之、翌年に北条氏長が亡くなり、延宝3年に江戸より赦免の報。満8年3ヶ月で江戸に戻った。なお著者は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに、素行の教育・思想の影響があったか、また討ち入りの際の山鹿流陣太鼓について、それはなしだろうと記している。

 江戸に戻った54歳~64歳が素行晩年期。浅草田原町(4百坪)に暮して10年。晩年も「学問老いて益々盛ん」。借家にあった「積徳堂」をそのまま堂号にして、諸侯との交際再び活発化。素行の『年譜』は日記体裁で、死去4ヶ月前まで綴られており、再晩年は夢を多く記していた。64歳の3月には「葵の紋の小袖を着る」。最後まで幕府中枢に上がる夢を抱いていたらしい。

 貞享2月(1685)64歳、黄疸重態で没。写真は牛込・宗参寺の「山鹿素行先生墓所」。中央の「月海院殿瑚光浄珊居士墓」が素行墓。左は母・妙智、その左が父・貞以の墓。この3基の向い側に妻・浄智、次女・鶴、嫡子・高基ほかの2墓。山鹿家の他の墓は近年に小平霊園に移されたとか。

 山鹿素行学の信奉者としては吉田松陰、乃木大将が有名。乃木希典は赤坂の自宅から学習院への通学途中に宗参寺墓所をお詣りしていたとか。乃木死後に遺族が乃木「最愛の梅」を墓所に移植。その碑もあり。なお「素行学」お勉強は『山鹿素行全集』(全15巻)、尊王思想歴史書『中朝事実』などをどうぞ。

 また山鹿家子孫は平戸松浦家と弘前津軽家に仕えた二派に分かれた。「積徳堂・山鹿文庫」は平戸(平戸大橋近く)に移築され、平戸藩の学問兵学の道場になった。山鹿文庫はまた立川市役所隣接「国文学研究資料館」(ロバート・キャンベル館長)に寄贈されている。余談だがキャンベル氏は『コロナ後の世界を生きる』で式亭三馬の享和3年(1803)の麻疹を描いた『麻疹戯言』はじめ江戸を襲った感染症の記録を紹介している。

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②山鹿素行と七軒寺町・宗参寺 [牛込シリーズ]

sokouikou_1.jpg 21歳で修学終了。その後の山鹿素行は~。広域な学問を学んだ結果、それらを如何にまとめるかが大テーマになった。林羅山の儒教は廃仏論の中国思想、景憲や氏長から学んだ甲州流兵学は仏教の日本思想、光宥・坦斎から学んだのは神仏習合思想。公家と武家思想も縺れ絡まっている。

 著者は「最初は恩師らに習った神・儒・仏・老の4教が一致できる思想を作りあげ、次いで朱子学中心、さらに古学(聖学)へと転向し、最後に日本中朝主義(万世一系の尊王思想)を唱え、兵学の下に統合・従属せしめるにいたる~」と説明。

 そこへ至る道は遠い。まずは兵学。8歳までに「兵法七書」を読み覚え、寛永19年(1642)21歳には尾畑(小畑)甚兵衛景憲、北条安房守氏長より「甲州流・北条流兵学」の修業印可(免許、証明)を賜って『兵法神武雄備集』(城制・武備・争律の3部構成全51巻)を著わして兵学者として名声を得る。各藩主から召抱え希望殺到も、父は「千石下では~」と応じず。同年、素行は町医者の17歳の娘「浄智」と結婚。

 26歳、家光命で北条氏長と共に『城取の作法木図』陰陽両図目録を書いて兵学者の箔をつけ、素行に学ぶ有力諸侯20数名余~。(『配所残筆』には~大猷院様(家光)が北条安房守殿に城を攻略する仕方を示した模型を作るように仰せつけた時、私はおこり(マラリア)に罹っており、安房守殿が私の所にやって来て、同模型についての御相談があり、表裏二つのそれを作り上げました。この模型の書付や目録について私に御相談があって、私が書き上げたのでした~の記述あり)

 27歳、両親や長兄が住む神田佐久間町を出て、本郷中間町(現・本郷3丁目辺り?)に新宅を構える。30歳、長兄が48歳で病没。墓所は牛込七軒寺町の鳳林寺(七軒寺町は現・牛込柳町~弁天町の外苑東通り東側。江戸城の外堀工事で牛込御門付近にあった7寺院が移転して〝七軒寺町〟を形成。絵図を見ると後に菩提寺となる「宗参寺」、祖心尼の「濟松寺」、林大学頭邸、家光老中の酒井忠勝邸などが、この地域に集中している)

yamagasyuhenzu_1.jpg この頃「祖心尼」による素行の「将軍家の御家人登用」工作活動活発。(『配所雑筆』には当時の様子が詳しく記されている。祖心尼から「すでに話は通ており、いずれ上意があろうゆえ、それまで何事も慎重に。また大名の家中などへ奉公することは決してないように」と言われていたが、将軍様が薨去され、話を進めて下さっていた松平越中守殿も逝去されて頓挫。翌年に浅野内匠頭(浅野長直)から千石をいただく事になりました~」とあっさりと書いている。

 進士慶幹著には、この年に由比正雪はじめ浪人らの乱が多発で、幕府の浪人取締り厳しく、その影響もあって素行は後援者で弟子の浅野家へ仕官したと説明されていた。 

 この時の浅野家仕官の主目的は、赤穂城縄張改め(城全体の設計)で、甲州流築城法に基づいて素行が監督。赤穂滞在は約7ヶ月で、あとは江戸赤穂藩邸で兵学を教授。

 この時期、35歳までに約10作ほどの著作を成し、己の思想を進化。「兵道・兵学は単なる戦闘術ではなく、四民の首たる武士の為の修身、治国の天下の道でなければならない」。「兵法=道徳」一致を解く山鹿流兵学が完成する。

 36歳、明暦3年(1657)の大火で、素行の借家焼失。両親を「鳳林寺」に移し、自分は現・市谷富久町の「自証院」内の円乗院に借家。(自証院は祖心尼の孫娘「お振」の寺院。家光側室で「千代姫」を産むも産後3年後に没)。ここでも祖心尼の世話になったと推測。一方『日本の名著 山鹿素行』年譜では〝高田に新造の家(どこだろう?)に移るまで転々とするとある。祖心尼の寺領地は下戸塚村、高田村までに及んでいたから、いずれにしても祖心尼の世話になったのだろう。素行調べが「七軒寺町の由来」や「濟松寺・寺領図」などに及び、牛込氏と山鹿氏のお勉強が、牛込辺りの歴史や町の形成が浮かび上がってきます(続く)。

 写真は文中登場地域の江戸切絵図と国会図書館デジタルコレクション『配所残筆』(育成会、大正2年刊)の素行肖像。


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①山鹿素行と祖心尼の関係 [牛込シリーズ]

yamagasokouzou_1.jpg 東西線「早稲田」駅近く「宗参寺」に「牛込氏」の墓あり。そこから「牛込氏」をお勉強したが、同寺に「山鹿素行」の墓もあって驚いた。その驚きは、昨年の金乗院(目白不動)墓地で「丸橋忠弥」の墓を見たのに似ていた

 かかぁが「おまいさんは〝丸橋忠也〟も知らないのかえ」と呆れつつ、由比正雪の噺をしてくれた。今回も「山鹿素行」の話を持ち出せば、かかぁは三波春夫『元禄名槍譜俵星玄蕃』の長科白を唸り出しかねない。~時は元禄15年12月14日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流の陣太鼓。しかも一打ち二打ち三流れ。おもわずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え「おぉ、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ~」

 小生、かかぁが唄い出す前に慌てて「山鹿素行」のお勉強に相成候。参考書は人物叢書の掘勇雄著『山鹿素行』。『日本の名著 山鹿素行』(中央公論)。忠臣蔵の山鹿素行の墓が、なぜ早稲田に~と思いつつ読み出した。

 時は元和8年(1622)8月、素行は会津若松で生誕。父・貞以(さだもち)の主君は関一政(秀吉配下の蒲生氏郷与力大名。戦功で白河城5万石)。父は関家の亀山~白河~川中島~多良(岐阜)への転封に従いつつ、その途中で祖父を失い父が報録200石を継ぐ。さらに亀山~黒坂(鳥取)へ。ここで事情不明も「同輩を撲殺して」会津へ奔り、会津時代の馴染・町野幸乃を頼った。

yamagasokou_1.jpg 町野幸乃は貞以を自分と同じく蒲生秀行に仕えしめんとするも、幸乃も秀行もその途中で死去し、蒲生家仕官ならず。加えて蒲生家は嫡子なく領地没収。町野幸乃の嫡男・幸和と貞以は江戸(神田)で浪人生活に入った。素行が生まれたのは、会津の町野家に奇遇の時で、彼は6歳まで町野家屋敷内で育ったが、ここで驚いたのは町野幸和の妻が後の「祖心尼」だったこと。

 最近の弊ブログお馴染みの「祖心尼」。牛込天神町「斎松寺」の祖心尼~。春日局亡き後の大奥の長・祖心尼~。彼女の娘が産んだ「お振」が家光側室になり「千代姫」を産み、千代姫が尾張藩2代徳川光友に嫁いだ。祖心尼は家光からの拝領の寺領地一部4万6千坪を光友に譲って尾張藩下屋敷=戸山荘が誕生。さらには斎松寺一画に由比正雪が住んでいたの説もあり~の祖心尼です。

 祖心尼35歳の時に生まれた素行は、6歳まで同屋敷で育ち、両家の江戸浪人時代も一緒に暮らしたか。祖心尼が素行坊やに勉強を熱心に教えて才能を開花させたと思われる。6歳~8歳で「四書・五経・七書・詩文」を読み覚え、9歳で林羅山に入門。この入門も、祖心尼が遠縁の春日局の子・秋葉丹後守勝正から手をまわして実現させたとか。

 町田幸和は浪人5年後の寛永9年(1632)に5千石で家光に仕え、左近殿新組与力廿騎で仕官。貞以は剃髪して町医者へ。貞以の長男(正妻の子で素行より18歳上)が与力になった。素行は神童の誉れ日々高く、11歳で2百石で抱えたい藩主も現れるも、父はより有利な条件を求めて応じず。素行、15歳で「四書」を講釈。儒学者として歩み出した。21歳で修学終了し、一人立ちの学者として社会に乗り出した。(続く)写真は国会図書館デジタルコレクション『配所残筆』(大正2年刊)の口絵より。

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矢来町⑤酒井忠勝とは~ [牛込シリーズ]

rekisisakaihon_1.jpg 新宿歴史博物館発行『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』、『矢来町遺跡Ⅲ』の「小浜藩酒井家について」、そして赤木駿介の小説『春潮記』を参考にする。

 酒井家は徳川宗家の始祖から出た松平氏の別流で一、二を争う家柄。徳川将軍家に仕えた譜代の家系。左衛門尉酒井と雅楽頭(うたのかみ)酒井の二流に別れ、雅楽頭酒井はさらに忠勝の父・忠利のときに分家したので三家になった。左衛門尉酒井から家康四天王の筆頭、酒井左衛門尉忠次(家康の主な戦いに全参戦。徳川家・家老)が出ている。雅楽頭酒井からは重忠・忠利が出て、重忠の子・忠世(家康に仕えた後に秀忠の筆頭年寄。嫡孫の忠清が家督を継いだ)が活躍。一方の備後守忠利の子が酒井忠勝(幼名・与七郎)。忠勝の本家筋が15歳上の従兄弟・雅楽頭忠世。(小説家の説明はわかり易い)

 酒井忠勝は23歳で讃岐守になり、28歳で下総国3千石へ。妻は見弥。三河国長沢城主松平親能の娘。五人の女児を産んだ後に六人目に待望の男児・隼人を産んだ。元和6年、将軍秀忠の推挙で世子17歳の竹千代の補佐役見習いで西の丸に勤仕。元和9年、将軍秀忠が竹千代(20歳)に将軍職を竹千代=家光に譲り、忠勝は正式に家光補佐役になった。当時の老中は酒井忠世、酒井忠勝、内藤忠重、稲葉正勝。秀忠付きから土井利勝、永井尚政、青山幸成が年寄衆に加わった。

 寛永11年、家光が30万7千人の大行列で上洛中に、忠勝に若狭・小浜藩転封の命。越前敦賀と関東一部と入洛の便に近江高島郡も合せて11万3,500石へ。

 慶安4年、家光が48歳の生涯を終え、世子・竹千代(11歳)が4代将軍家綱へ。その宣下直前に嫌な事件が幾つか続いた。その一つが「由比正雪の乱」。江戸で丸岡忠弥が捕まり、駿府で正雪らが捕まって正雪は自刃。もう一つが刈谷城主・松平能登守定政の老中批判。さらに浪人首謀の「承応事件」。江戸中に増えた困窮浪人問題が一気に噴出した。

 忠勝はこれら事件に対処し、さらに家光没3日後に大奥の女房3,700余人に暇を出す大奥人員整理を断行後に、甥の忠清29歳はじめ青年老中らに座を譲って大老職を返上。小浜藩主も忠直に譲って万治3年(1660)に剃髪して「空印」と号し、寛文2年(1662・76歳)で矢来屋敷で没した。

 なお酒井家は14代忠禄が、明治の廃藩置県で小浜藩知事。16代当主・酒井忠道が明治17年に伯爵(大正9年に没)。酒井伯爵邸の名園とは酒井忠道時代の庭なのだろう。以上で矢来町お勉強を終わる。梅雨が明けて~、今後の矢来町散歩が楽しみです。

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矢来町④幻の酒井伯爵邸の庭園 [牛込シリーズ]

sakaiteinoniwa_1.jpg 牛込矢来屋敷の新しい庭と亭が、小堀遠州によって3年余を要して完成したのは寛永21年(1644・忠勝57歳)の時らしい。

 ~と云うことは、明治43年発行『名園五十種』(近藤正一編。博文館)で紹介の酒井伯爵邸の庭園は、明治維新で矢来屋敷が接収された後の、2万坪の酒井伯爵邸の庭(現・みずほ銀行社宅=矢来ハイツ)と推定される。よって「ひたるが池」の言及もない。明治末期から戦前までの短い間に存在した幻の名園レポート。それを以下、抜粋紹介です。

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で、梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。彌生の朝に風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。

 唯見る門内は一面の花で、僅にその破風作りの母屋の屋妻が雲と曖靆(たなび)く桜の梢に見ゆる所は~(中略)美いと云ふよりも、上品といふべき構(しつら)ひである。(中略)~応接所を出て壮麗な入側に誘かれて書院に出づると、茲に面せるが即ち庭園である。遉(さすが)に旧高十幾万石を領せられた大諸侯の園地だ。地域の廣澗(ひろ)いことは云ふまでもなく(中略)~如何にも心地の好い庭である。陽気な・・・晴々とした庭である。庭といふものが樹木鬱蒼、深山幽谷の様を写すものとのみ考へて居る人には是非この庭を見せて遣りたく思うた。

 庭は天鷲絨毯(びろうどせん)を̪敷いた如うな奇麗な芝生の廣庭で、所所に小高い丘があつて、丘の上には松や紅葉やその他の常盤木が位置よく配置され~(中略)この美い植込の彼方は一面の梅林で、見渡す限り幾百株とも知らぬ古梅が植わつて居る。(中略)~芝生の間につけられた小径を右手に進めば、刈り込んだ檜を「く」の目形に二列に植ゑて奥殿の庭との境を画せられて居るに、それを斯く構(しつら)はれたのは非常に面白い趣向で~(中略)~若し眼を上げて西南の空を見遣れば、参天の老杉と榎の大樹が霞の彼方に立ちて、一入(ひとしほ)庭の深からしむるに、此れに続く当家の菩提寺なる長安寺の木立が小山の如く聳え、後庭の桜が雲のやうにむらむらとその裾を立籠めて居る所は、この庭園の為には絶好の背景を作つて居る~。

 同誌には庭園写真1点が掲載で、粗いままアップします。きっとこの名園は戦災で跡形もなくなって日本興業銀行社宅になったのだろう。明治末期から戦前までの幻の名園の記録でした。『名園五十種』は123頁~に紹介。全文お読みになりたい方は国会図書館デジタルコレクションをどうぞ。次は酒井忠勝についてを記して矢来町シリーズを終わります。

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矢来町③小浜藩江戸屋敷の変遷 [牛込シリーズ]

sakaisimoyasiki.jpg 史跡碑には「寛永5年(1628)、徳川家光からこの地を拝領して下屋敷とした~と記されているが、嘉永4年(1851)の切絵図(上)の南東部は「柳沢摂津守」で、安政4年〈1857)の幕末絵図では同地が「御上屋敷」になっていて、ちょっと混乱する。

 新宿歴史博物館刊の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』でお勉強。酒井忠勝が同地拝領したのは川越藩主時代。その後で小浜藩主になった。酒井家上屋敷は寛永12年(1635)の父・酒井忠利と子・忠勝時代は二の丸内。忠勝の子・忠朝は和田倉門内。安政4年に下屋敷隣接の「柳沢民部少輔光昭の上屋敷(5,427坪)」(靑枠)を拝領し、矢来屋敷は小浜藩の下屋敷であり上屋敷になったらしい。

yaraicyokuiki.jpg また中屋敷は、元和8年(1622)に父・忠利が浜町に約1万坪を拝領して、通称「海手屋敷」。安政5年には下屋敷近くの牛込揚場裏へ。小浜藩の上・中・下屋敷が一カ所にまとまったらしい。長い歴史の中で変化し続けた酒井家屋敷だが、変わらずは藩主一族の住居「中ノ丸・奥方」(家光の御成りは140回余もあったらしい)、北側中央の「ひたるが池」、代々小浜藩主の菩提寺「長安寺」。そして数や位置は変われど家臣らの家中屋敷、長屋、矢場、馬場など。

 4万3,500坪は、現「矢来町」のほぼ全域。小生が住む集合住宅地7Fから眼下に望む「尾張藩下屋敷(戸山荘)」の1/4ほどか。同下屋敷も矢来屋敷の左斜め上「済松寺」も家光がらみ。近くに松井須磨子墓の「多門院」があり、左角横には「儒学者・林大学頭屋敷(今は墓地のみ)」(共に緑枠)、右角上に「赤城神社」。右下一帯は家康以前は「牛込城」一帯だった。

 矢来屋敷は明治維新時にほとんどが明治政府に接収され、酒井伯爵家は矢来町1~11番地の約5万坪を有し、2万坪に本邸を建てて住んでいたが、戦後は本邸跡に日本興業銀行(今は総合されて)~みずほ銀行社宅「矢来ハイツ」になっている。庭園の茶室は、現在は杉並区柏の宮公園に「林立亭」として移築されているらしい。

 残りの3万坪(約850戸)は賃貸していたが、これも大正時代に売却。この際に住民と価格面で相当にもめたそうな(ネット検索すると、そんなことまでヒットする)写真下は明治40年の矢来町地図。

 次に名園の誉れある酒井家庭園を紹介した明治43年の『名園五十種』を読んでみる。

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