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④新橋の親柱を訪ねる。 [散歩日和]

sinbasioyabasira_2.jpg 丸の内線「銀座」下車で、三越から中央通りを新橋へ銀ぶら。高速道路下に新宿御苑隣接地に見たのと同じ親柱が、「銀座柳の碑」(西条八十作詞・中山晋平作曲の歌詞・譜面)と共に設置されていた。案内柱に以下のような説明あり。

 「これは、かつて汐留川に架けられていた親橋の親柱。汐留川は昭和38年(1963)の埋め立て工事でなくなりました。現存する新橋の親柱は、大正14年(1925)に長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です」

 新橋から下流にあった「蓬莱橋」跡辺りに、朝鮮使節団に幕府の威光を誇示すべく造られたという当時の「芝口御門」の様子が銅版で紹介されていた。そこから「旧新橋停車場」へ。

 建物裏側にまわるとプラットホーム、線路、0哩標識が再現されていた。停車場の「鉄道歴史展示室」で購った絵葉書通り。同停車場横が「パナソニック」で同社「汐留美術館」の告知に、4月10日から「クールベと海」展の予告ポスター。

 かつて、ここで「カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち」展を観たことを思い出した。小生、波を描く簡易習作をしたことがあるゆえ、ちょっと興味をそそられた。

 そこから電通ビルを回り込むと眼前に「浜離宮」。築地川の大手門(関東大震災復興で架け替え)があり、その先に汐留川の「中の御門橋」があった。

sibagutigomon_1.jpg 浜離宮からの帰路途中に「銀座に残された唯一の踏切信号機」(浜離宮前踏切)が残されていた。「昭和10年(1935)、築地市場の開場と同時に出来た貨物線の跡。昭和61年(1986)まで国鉄汐留貨物駅があって、築地市場とつながっていていた当時の踏切です」

 さらに新橋駅に向かって歩けば、昭和47年竣工の黒川紀章設計「中銀カプセルタワー」。老朽化、アスベスト、保存か・解体か~諸問題を抱えているらしいが、天辺が何故にトタン造りなのか不思議に思った。

 以上、新宿御苑隣接地で見た〝変な塔〟(結果は新橋、京橋の親柱だった)調べはこれにて終了。なぜこんなことに興味を持ったかと云えば、かつて自転platform_1.jpgsinbasiehagaki_1.jpg車に乗り始めた頃に「日本橋川」を下りつつ各橋を巡った(カテゴリー「日本橋川」全31回)ことがあってのことだろう。次は「パナソニック汐留美術館」で〝クールベと海展〟を観た際に、新橋から溜池までの汐留川を歩いてみようと思っています。

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③新宿御苑隣接の「汐留川・新橋の親柱」 [散歩日和]

jyukusinbasioya_1.jpg 新宿御苑隣接地の昔の「みちの博物館」(詳細不明)に「京橋の親柱」と並んで、もう一つ立派な親柱があった(写真左)。その写真をPC片隅にキープし「東京 親柱」で検索。すると「あった」ではないか。なんと「新橋の親柱」らしい。しかも「京橋・親柱」と同じく、これもモニュメントとして保存設置とか。

 まずは新橋を流れていた「汐留川」の予習から。「新橋」は昭和30年代まであった「汐留川」に架かっていた橋。汐留川は赤坂溜池~江戸城外濠・幸橋~浜離宮を結ぶ水路。江戸期の汐留川は幸橋御門~汐留橋で、架橋は土橋~難波橋(涙橋)~芝口橋~汐留橋(蓬莱橋)。

 当時の新橋は、江戸城見付門のひとつ「芝口御門(芝口橋)」で、朝鮮使節が同橋を渡る際に、幕府の力を誇示したく設けられたもの。当時の姿は〝蓬莱橋〟近くに史跡案内の銅版で紹介されているとか。同橋は享保9年(1724)正月に焼失した。ちょっとややこしい歴史がある。

 今の元「新橋」は、江戸後期の架橋で長さ18m、幅7.8m。「江戸名所図会」(斉藤kyoubasi-sinbasi2.jpg幸雄の編・文/長谷川雪旦の画)の「新橋・汐留橋」の絵で当時の様子がわかる。同図会の文章を読む。「<新橋>大通り筋、出雲町と芝口一丁目との間に係る。正徳元年辛卯朝鮮人来聘の前、宝永七年庚寅此所に新に御門を御造営あろて、芝口御門と唱へ、橋の名も芝口橋と更られしが、享保九年正月廿九日の火災で焼亡するの後は、復舊の町屋となさたれり。此川筋の東木挽町七丁目と芝口新町の間に架せしを汐留ばしといふ」

 その新橋は京橋と同じく格式誇る擬宝珠の装飾付き。だが汐留川は昭和30年代後半に東京オリンピックに備えた道路整備で埋め立てられ、その上に首都高速道路が走った。今、新橋にモニュメントとして遺された親橋は、旧新橋の南東側に移築されていたが、傾いていたことかsinbasisiodome_1.jpgら平成2年に解体補修され、銀座8丁目にあった「銀座の柳」歌碑と共に現在地に整備設置された。

 さて新橋と云えば「新橋ステーション」だろう。新橋ガード下から昭和通りへ曲がると、道路向こうに「汐留シティセンター」「パナソニック」「電通ビル」などの超高層ビル群を背に明治・大正期風の「旧新橋停車場」が、ちょっと異なる感じで眼に飛び込んでくる。 

 本来の新橋停車場は、関東大震災で焼失。平成8年(1996 )に遺構を基に復元。駅舎(鉄道歴史展示場)、プラットホーム、0哩標識(終点軌道)などが再現。最近なにかと話題の電通ビルの裏は「浜離宮」で、汐留川がここで東京湾に繋がっている。さぁ、こんな予備知識を得た新橋に行ってみましょうか。

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②京橋の「アール・デコ風親柱」 [散歩日和]

ginnza1cyoumekouban.jpg 銀座線「京橋」下車で地上へ。銀座中央通りに出て銀座方向を見る。前方に京橋川を埋め立てて出来た首都高速道路が横切っている。その下が「京橋」。銀座に向かって右側の高速道路下にまず「江戸歌舞伎発祥之碑」。~寛永元年に中村勘三郎が猿若中村座を設けたこの地を、歌舞伎発祥の地として記念する~の説明文。その奥に「京橋大根河岸・青物市場」の碑もあった。

 さて高速下を渡った先に「銀座1丁目交番」。その屋根が「アール・デコ風の親柱」を模した建物になっていた。その横に擬宝珠を模した石の親柱、京橋史跡看板。「2基(北側に1基あり)の石の親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時の擬宝珠の形で、佐々木支陰の筆による「きようはし」と、片や「京橋」と彫られた2基が橋両側に設置されている」と説明。

 石およびコンクリート造の親柱は「大正11年(1922)の橋拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時の、照明設備を備えた近代的意匠の親柱をモニュメントとして設置している」の説明。その史跡案内板に載せられた大正期の京橋写真に、そのアール・デコ風の親柱がしかと写っていた。その親柱現物は、橋の反対側に、銀座レンガ街のガス灯碑と並んで立っていて、まさに新宿御苑隣接地kyoubasioyahasira1.jpgkyodenga.jpgと同じ親柱だった。

 京橋と云えば、小生にとっては「山東京伝」。弊ブログでは彼の『江戸生艶気蒲焼』の全文筆写・絵も複写で「くずし字」お勉強をしている。また2011年秋には、下町自転車散歩中、回向院に「山東京伝(岩瀬醒)」墓があるのを知って。やや興奮気味に掃苔レポート。また浅草寺境内の「京伝机塚」も紹介済。

 今回の京橋・親柱調べで、サイトや書籍によっては山東京伝は京橋生まれとの紹介例ありで、それは間違い故に訂正しておきたい。山東京伝は、深川で質屋の息子として生まれた。安永2年(1773)、13歳の時に父が京橋銀座1丁目(新両替町辺り)に転居して家主になった。京伝はその京橋時代に浮世絵を学び、絵師・北尾政寅になった。

 天明2年(1782)、22歳。戯作『御存商売物』で戯作者・山東京伝と著名。「江戸城の紅葉山の東」で山東、「京橋の岩瀬伝蔵」から「京伝」。彼のデビューを後押ししたのが牛込の大田南畝だった。30歳で吉原・扇屋の新造お菊と結taisyokyobasi.jpg婚。31歳、「寛政の改革」で「手鎖50日の刑」。その後に馬琴が弟子入り。33歳、京橋の木戸際(アール・デコ風親柱設置の場所辺り)に借家して紙煙草入れの店「京屋」を開店。絵師・戯作者・デザイナー・宣伝マン・自身ブランド店経営~のマルチクリエーターの活躍。その後にお菊没。

 35歳。父が支配地内の医師の売家(銀座1丁目3番地4.京橋から銀座方向へ7、8軒先の伊勢伊ビル辺り)を買って移転。「京伝店」はさらに大繁盛。40歳、吉原玉屋の23歳「玉の井」を落籍して結婚。文化13年(1816)56歳で没。(参考は小池藤五郎著『山東京伝』)

 また歌川広重の旧居も京橋と日本橋の間~、ブリジストン美術館改め「アーティゾン美術館」の京橋側隣kyobasioyabasira3.jpg接辺りで、目下は建設工事中(新TODAビル計画)辺りに旧居が在ったらしい。近辺には古美術店多数。広重当時からそんな特色を有していたのかしら。また日本橋から呉服橋方面へ行った所に竹久夢二の「店」跡史跡がある。

 以上で新宿御苑隣接地にあった「親柱」調べは終了。だが同隣接地には、もうひとつ立派な親柱があった。さて、どうしましょう。

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①新宿御苑で「京橋の親柱」を見た。京橋川とは? [散歩日和]

kiyosubasi_1_1.jpg 緊急事態宣言下の過日、新宿御苑内を散策と思ったが、宣言下中ずっと閉園。だが閉園ゆえに入口前の駐輪場隣接の柵外際に〝奇妙な石塔〟あるのに気付いた。

 藪から覗けば「きようはし」の文字。最初は「きよすはし=清洲橋」と思ったが、ややして「京橋川の京橋親柱」と気付いた。それが、何故ここに?。その隣接地は昔「みちの博物館」(詳細不明、国土交通省?)跡地で、その展示物だったものが放置されたまま~と推測した。 

 そこで急きょ「京橋川」をお勉強。京橋といえば、江戸時代から日本橋~京橋~銀座~新橋のメインストリート。「江戸切絵図」を見ると、これも埋め立てられている江戸城外濠の鍛冶橋(八重洲2丁目辺り)近くから分流して八丁掘へ抜ける開削運河。京橋川+八丁掘川が計740mで、そのうち京橋川は600mほど。架かるのが比丘尼橋~中之橋~京橋~三年橋~白魚橋(各別称あり)。江戸時代はこの運河沿いに薪炭、竹、青物、白魚などの河岸があって物流拠点になっていたらしい。

 「比丘尼橋」は長さ約12.6m。広重描く「名所江戸百景」に「びくにはし雪中」と「京橋竹かし」がある。「びくにはし雪中」の「山くじら」は猪肉を食べさせる「尾張屋」で、右の「〇やき」は芋の丸焼き屋。橋を渡るのは「おでん」か「煮売り屋」さん。「京橋竹かし」は京橋の擬宝珠が描かれ、下流の竹河岸風景。さらに下流に中之橋、白魚橋を望む。 

kyobasiezu_1.jpg 「比丘尼橋」は北側(東京駅側)に比丘尼(有髪僧形の娼婦)宿があっての名。「中之橋」は明治になって「紺屋橋」。今は「紺屋橋児童公園」で名が残る。その辺りは江戸期は「大根河岸」で野菜の荷揚げ場。後に青物市場が立った。「京橋」を飛ばして次が「三年橋」。その北側が「炭町」で別名「炭屋橋」。薪炭は当時の生活必需燃料。次の「白魚橋」は白魚漁師が幕府献上の納入準備をした屋敷があっての名。

 そして「京橋」。日本橋から東海道で京都へ向かう際に渡る橋で「京橋」。格式ある橋ゆえに橋の欄干に「擬宝珠」付き。日本橋~京橋の間、つまり「擬宝珠の間に生まれた」が江戸っ子のなかの江戸っ子とか。架kyoubasiukiyoe_1.jpg橋は日本橋と同時期で慶長8年(1603)頃。長さ約26m、幅は約7.8m。

 明治8年(1875)に石造りアーチ橋に架け替えで、その際に江戸時代の名残りで擬宝珠の形の石の親柱が、詩人・佐々木支陰の筆による「京橋」「きようはし」が彫られて立った。

 大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた際に、照明設備を備えた「石及びコンクリート造り親柱」を設置。その1基が新宿御苑の隣接地に置かれているとわかった。では新宿から京橋へ、今も遺る擬宝珠型の石の親柱らしい。予習はこの辺で、さてアール・デコ風親柱を観に行きましょうか。この項の参考は杉浦康著『消えた大江戸の革と橋』他。②へ続く。

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散歩の眼の祖は、松尾芭蕉~永井荷風か [散歩日和]

kafu&yumeji.jpg あたしにとって街散歩と云えば永井荷風だった。大正4年(1915)に『日和下駄』(一名東京散策記)を発表。いで立ちは日和下駄と蝙蝠傘。

 彼は子供時分から市中散歩が好きだった。今で云う中学時代は麹町永田町から神田錦町の私立英語学校まで徒歩通学。充分に遠いが荷風少年は、遠廻りして散歩を愉しんだ。家が再び小石川旧宅に戻ると、両国の水練場へ通い出し、下町や大川筋の光景に一方ならぬ興を覚えた。

 昔ながら(江戸)の名所古蹟が日々破却される時勢にあって、表通り裏へまわると、昔の面影を残した暮しがあって、自身の感情に調和する感慨、無常悲哀の寂しい詩興感を覚えた。同じく散歩好きの植草甚一に言わせれば、それは「スクエア」に対する「ヒップ」の眼だと解説する。荷風が江戸戯作者の身に落とし、隠居然の身ゆえの眼が今も人を惹きつける。膨大な日記『断腸亭日乗』もまた、荷風散歩日記でもある。

 裏町に入ると、新時代に取り残されて昔ながらの渡世をしている老人がいて、そんな家の娘の行く末へ想いを馳せる。横町から娘らが清元をさらう江戸音曲の哀調が聞こえる。王道人世から外れた人々の暮らしへの共感で、彼はさらに固陋偏狭な気分に浸って行く。玉ノ井の裏路地で一句「蚊ばしらのくづるゝかたや路地の口」「色町や真昼しづかに猫の恋」 荷風の句には擦過する絵が浮かんでくる。

 同書にはそんな荷風の眼で淫祠、樹、江戸切絵図、寺、水、路地、閑地、坂、夕陽の各章にわけて東京散歩が書かれている。昭和11年の『断腸亭日乗』に「写真機を携え亀戸へ」の記述が続き、翌12年には「名塩君来りカメラ撮影の方法を教へられる」があり、以後「帰宅後写真現像」の記述が繰り返される。yosiwara.jpg それは『墨東奇譚』完成の頃で、私家本には自身撮影の玉の井風景写真に俳句を添えたりしている。

 俳句と云えば松尾芭蕉を忘れてはいけないだろう。全身冴えたアンテナ感知で発句の機を狙っていた。出羽の山中の宿で心のシャッター「蚤虱馬の尿する枕もと」「むざんやな甲の下のきりぎりす」。一茶も同じで美女と擦過して「振向ばはや美女過る柳哉」。西行も同じだ。囲炉裏の残り火に心のシャッター「なべてなき黒き焔の苦しみは夜の思ひの報なるべし」。その眼や心は、路上スナップの写真家と変わらない。

 下町と云えば、目下セクハラ問題多発の荒木経惟(アラーキー)の生家は三ノ輪の下駄屋だった。同地には2千名余の吉原遊女が投げ込まれた「総霊塔」(写真下)があり、荷風はそこに文学碑を設けた。荷風散歩にならって、あたしも浅草~山谷堀を遡って~吉原~三ノ輪~浄閑寺を訪ねたことがあった。

 巨編『荷風と東京』を著わした川本三郎には十余の「街歩き」本がある。散歩書は無数~。彼らの眼と心は写真家と変わらず。「路上スナップ」はなにも特別なことでもなんでもない。

 挿絵上は小生調べで、当時の荷風カメラは昭和8年発売開始の二眼レフ「ローラコード」で、竹久夢二が最初の妻たまき~彦乃~そしてお葉さんの多数ヌード写真を撮った写真機は「パール・コダック」かなと推測したもの。

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森山大道の言葉を自分流に~ [スケッチ・美術系]

color_1.jpg 本『森山大道の言葉』に、こんな文章が紹介されていた。「僕はもう、外が気になってしょうがない。たったいま地下鉄の運転手さんが見ている視覚だとか、西口ホームレスの人が見ている光だとか、そういうものが無数にあるというのに、なんで自分はこんなところで写真の話をしているのかなって。イライラするんですよね。ああ、あれも撮ってないやって」。

 ソール・ライターは、そんな気持ちをひと言で「まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている」。彼の方が上手だな。森山大道著『写真との対話、そして写真から/写真へ』から〝核の部分〟を自分流アレンジで記してみる。

写真機は対象を等価的に、つまり複写・大量複製を目的に誕生した光学機械だ。その写真機でタブロー(Tableau)を生もうとする行為はまた別の話で、現在の諸相(現実)を原点の複写機的に撮ることも大事なのではないかな。その場所に自分が「居て・見た」という「極私的な記念・記憶」として撮ってもいいと思う。

他人の写真・ポスターなどの画像を、見たまま・感じたままに撮れば、本来の情報とはまた別の新たな現実が重なって二重性を帯びてくる。(写真機が本来的に持つ複写性+アルファーで、単なる複写とは違った写真になる)

世の中は常に、イノセント(できごと)とアクシデント(事故)に満ち、混沌・矛盾・欺瞞・嘘・錯覚にも満ちている。しかも「行河のながれは絶えずして~」で流れていることこそに普遍性がある。そんな流れの一瞬にヌエ(真実のようなもの)を掴むかの瞬間があって、それに惹かれて飽きもせずにスナップ写真を撮り続けることになる。(それは近所の街角にもあるから、わざわざ地球の裏側まで行く必要もない)

today's_1.jpg私は歩行中に「ノーファインダー」で撮っている。眼で撮るというよりも、身体全体で感応しながら撮っている。(氏がデジカメでカラー写真を撮っている姿をYouTubeで見たが、モニター画面で確認しながら撮っていた。あたしのカメラは落下事故で撮影時にモニター表示不可で完全ノーファインダーだ。PC伝送後に画像を見ている)

そうして生理的・感覚的に撮ると、自分がそこに身を置き、その場の空気感を反映した写真になる。(そう難しく考えることもない。ただ瞬間を撮ることが愉しい。そうやって街を歩き回ることが健康にもすこぶる良い~それでいいじゃないか)

人間は一日中、無数の映像を知覚しているが、そのすべての像に対して焦点が合っているわけでもなく、視点が静止しているわけでもない。(私は子供時分から近眼で、老いては老眼。常に矯正視力(眼鏡や白内障手術)で見ているわけで、裸眼で見れば「アレ・ブレ・ボケ」が自然なこと。しかも今のご時世、著作権とかプライバシー侵害も煩く、ボケていればその心配もない)

僕が撮り歩いている時は、シャッターを押すことだけしか考えていないので、全身が敏感なレーダーのようになっている。そのアンテナにピンと反応した時に、素早くシャッターが切れるよう、僕はカメラのストラップを左手首に巻き付けて、左手を絞るように吸い付けて眼=手が直結する体制で素早く撮っている。(あたしはもう2度もカメラを落とし、目下は不具合のまま撮っている。また小生はプロ写真家でも若くもないので、理想はライター爺さんのように気張らずにぶらり・ぶらりとゆっくり歩きながら撮れたらいいなぁと思っている)

スナップ写真の一方の雄・荒木経惟(アラーキー)はスナップ写真風のモデル活用例が多く、喜寿を経た歳になってセクハラ問題大噴出。その評価も凋落中。ここでは言及対象としない。

 写真は森山大道デジカメ写真集『カラー』(高額写真集はとても購えないから図書館本です)。写真下はあたしの好きな新宿南口の撮影スポット。傘や衣服が乱れに乱れる悪天候時に撮ってみたいと思うのだが、そんな日は家を出る気にもなれず、未だ実現していない。

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「CANP」の二人の思い出 [スケッチ・美術系]

moriyamahon2.jpg 昭和51年(1976)の大森大道のイメージショップ「CAMP」初期メンバー8人のうちAは、20歳頃の友人だった。44年オリンピックで「東京はうるせぇ~」てんで二人で脱出し、伊豆・河津へ逃げた。

 貧乏青年の長逗留で金が尽きた。Aは親が伊豆諸島の赴任教師時代に「離島体験」あり。磯で食材確保、山で〝百合根〟を掘って食うことなどを教えてくれた。町の小さな温泉銭湯に入ると「混浴」だった。

 数年後にあたしは広告制作会社へ。未だ遊んでいた彼を同社に誘った。彼のデッサンは美術研究所の講師も舌を巻く腕で、同社先輩デザイナーらも感嘆の声で彼を迎えてくれた。2年後にあたしはPR会社へ転職し、彼は写真専門学校に入学した。

 数年後、彼は同校をトップ成績で卒業し「CAMP」に参加。カメラ雑誌に彼の「擬似強姦写真」が載った。よくわからぬがカメラで強姦云々~。その後、彼の噂は消えた。大森大道が『写真よさようなら』(アレ・ブレ・ボケの極致)からスランプで、クスリ漬けで痩せていた頃だろうか~、Aが突然に我家を訪ね来て「結婚するから保証人のサインをくれ」。

 当時のあたしは「ポプコン~世界歌謡祭からデビュー」のタレント群を擁した会社のライターで、「あたしの文章&田村仁(タムジン)写真」によるパンフ制作時期が続いた。因幡晃、佐々木幸男、世良公則&ツイスト、円広志、サンデー、大友裕子など~。当時のタムジンは超望遠レンズで粒子の粗い(アレ)写真が特徴だった。

 同社宣伝部が、新しい写真家を探していて、あたしはAを推薦した。彼はプレゼに妻の全裸を東松照明のように黒っぽく焼き込んだ写真を提出。担当者は新風を期待で「矢神純子」のジャケ写を依頼してくれた。彼が住む福生ハウスでの撮影。だが結果は狙い外れでボツ。彼との付き合いが途切れた。

 あたしは同社タレントが多く所属するレコード会社の仕事も請け負って、次第に忙しくなっていった。そんな折、タクシーに乗り込むと運転手がニヤリと振り向いて「〇〇ちゃんだろ」。Aだった。

 田村仁宅で、互いの自宅近くに出没する蛇、大島の黒ヘビ、大島ロッジの話で盛り上がったことがある。彼の息子も伊豆大島暮しとかだった。島滞在の某年某日~「今、港に着いたがジープを貸してくれ」とタムジン。あたしが島で乗っていたのはジムニーで、ジープ所有の某を紹介。以後、彼は某宅に通って多数アーティスト、歌手の撮影を重ねていると聞く。

 もうひとりの「CAMP」メンバーBとは、彼が恐いおニイさん方を撮った写真で「木村伊兵衛賞」受賞後に逢ったと記憶する。彼は受賞したって食えるワケじゃない。写真誌の掲載料はいくらで~など苦しい生活を語った。そんな折に、某企業から同社PR資料バインダーに収める池袋の各事業素のペラ資料の制作を依頼された。Bにギャラを提示しアルバイト撮影を依頼。最初は気持ちよく撮影していたが、突然「お前は俺の名声を利用している」と言い出し、腰を抜かすほど驚いた。彼ともお付き合いはそこで終わった。

 大森大道は彼について「二人とも救いようもないエゴイストであることも似ているが、もしア・プリオリな写真家はどちらかときかれれば、ぼくはためらわずに彼を指すだろう」と記していた。Bは昨年2月、肺がんで74歳で亡くなったらしい。

 そんなことを思い出せば、PR会社時代に某女子社員が、有名記者らが世界取材で撮った写真を預かって売る仕事が大繁盛で、あたしも写真整理を手伝ったことがある。彼女はその後独立して大きな写真エージェントの女社長になった。小生、長年フリーゆえ、多数カメラマンと組み、また有名写真家の撮影現場も拝見してきたが、それらは省略。そ・そう云えばゴールデン街のおミッチャンも写真家だったし、「汀」の渚ようこ&大森大道の絡みもある~とキリがない。

 追記:ソール・ライターは無名・無口・無欲を貫き通したが、「You Yube」で拝見する大森大道、荒木経惟らは隠棲してもいい歳だろうに「なんとまぁ、おしゃべりなことよ」と思った。

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「アレ・ブレ・ボケ」の写真家たち [散歩日和]

nakahirahon_1.jpg 街歩きをしつつカメラで〝ブレ・ボケ〟写真を撮って遊んでいたら、ソール・ライターとは別に、日本でも一時期にそんなムーブメントがあったことを知った。中平卓馬、多木浩二、高梨豊が写真同人誌「プロヴォーク」を創刊(3号で終刊)で、2号から森山大道が参加。その趣旨が「アレ・ブレ・ボケ」だったそうな。

 ★シンパサイザーとして吉岡剛造も参加。あたしはミニコミで吉岡剛造三×諏訪優に、下町散歩をしつつの対談をしていただいたことがある。★森山大道と中平卓馬は寺山修司を介して付き合うようになる。中平は雑誌「現代の眼」連載の寺山修二の初長編小説『あゝ荒野』の担当編集者だった。

 写真は古き良きリアリズム(土門拳など)の客観的に記録する写真の王道があるも、そんな〝確かな世界〟を捨ててみてはどうか~。むしろ「ブレたりボケたり」する方が、通常の人間の眼の生理を反映しているのではないか~と考えたとか。

 撮影者が街を彷徨しつつ擦れ違う世界を被写体として記憶(擦過:さっか)する際の、写真に刻まれるブレ・ボケの痕跡に、撮影者の手や身体の動きの流動的記録、すなわち撮影者の生々しい行為をも記録することになるのでは~。そう彼らは考えたらしい。

 中平卓馬は昭和13年(1938)、東京・原宿生まれ。東京外国語大学スペイン科卒。現代評論社・編集部を経て写真家になり、森山大道と共同事務所を開いた。彼の写真論は昭和46年(1971)「沖縄・松永事件」、昭和48年(1973)の映像論集『なぜ、植物図鑑か』、昭和52年(1977)〝なぜ篠山紀信か〟を論じた『決闘写真論』、そして彼の〝記憶喪失事件〟などが併せて論じられることが多いらしい。

 さて「プロヴォーク」を経た森山大道は、昭和51年(1976)、新宿にイメージショップ「CANP」を開設した。その流れから、新婚旅行の「ハメ撮り?」まで撮った「私写真」で一世を風靡した荒木経惟(目下セクハラ問題沸騰中)らが出て、そこから一連の「少女写真家」たちが「私」の主観的表現で台頭とか。

 あたしは写真家ではなく、単なる隠居街歩きの趣味写真の域。写真家らの世界に突っ込んで行く気もないが、またえらく饒舌・小難しい写真論は敬遠だ。だが実は「CANP」初期メンバー8人のうち、2人との付き合いがあった。

 昔のことはすでに「アレ・ブレ・ボケ」で、思い出すのもままならぬが、メンバーのなかの某1は、10代後半からの友人で、某2は有名写真賞を受賞後にちょっとだけ付き合ったことがあった。話が長くなったので話の続きは次回へ。写真は河出書房新社、平成21年(2009)刊『中平卓馬』。

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時代遅れの「Slow Chutter」 [散歩日和]

sumahobakari_1.jpg 過日、新宿西口を歩いていたら、ヨドバシカメラ一帯のほぼ全員が、立ちスマ中の異様な光景に出逢った。電車の中での多数スマホ光景は珍しくないが、この光景にはちょっと驚いた。

 皆、スマホで何をしているのだろうか? 小生のスマホは、ほぼ「時計・歩数計」化している。時に写真も撮りメールも電話もし地図も見るが、それはちょっと〝事件ですよ〟の時かな。

 SNSにも興味がない。最近は音声中心の「Clubhouse」や「Podcas」が話題らしく、ちょっと無理して「jazz」を選択してみたが、やはり歩きスマホで音楽は聴きたくなかった。

 小生にとってスマホは〝宝の持ち腐れ〟で、完全に「時代遅れ」と言わざるを得ない。♪~マイクが来たら微笑んで 十八番を一つ歌うだけ~ 時代遅れの男になりたい~。あたしはカラオケもしないから歌『時代遅れ』より、さらに時代遅れになっているらしい。

sumaho1_1.jpg 目下、一眼レフにNDフィルター装着レンズで、街のブレ・スナップ写真に嵌っているが、その延長でiPhoneのカメラ機能をもっと使い込んで、時代に追いついてみようと、少し頑張ってみた。

 撮った後で画面を上にスワイプして「長時間露光」するやり方は覚えたので、今度は「Slow  Shutter Cam」アプリを取り込んで、イヤホンまたは本体のボリュームボタンでシャッターを切る。

 未だ設定・操作要領を完全に覚えていないが、試みたらこんな二重露出っぽいブレ写真が撮れて「時代遅れのSlow  Chutter」相成候。

 このアプリを使い込めば、カメラ機能だけは〝時代遅れから脱着〟と思ったが、結論はやはり機能・機敏さ・バッテリー面など「一眼レフには叶わないだろうなぁ」だった。だがこのアプリは、長時間露出を極力抑えた設定で「スマホ操作中」を装って、イヤホンでシャッターを切る~は、なんだか「隠し撮り」向きのような気がしないでもない。

 よし「これで緊急事態宣言下の代議士らの風俗店通い、官僚らの接待現場などの〝隠し撮り〟に挑戦してみよう」と思った。

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離群性~ [読書・言葉備忘録]

rigun_1.jpg 金子光晴や武林夢想庵の本を読んでいたら「離群性」なる言葉に出逢った。机上の旺文社国語辞典・漢字辞典には見当たらず、「広辞苑」に「離群:仲間をはなれること」とあった。

 生涯フリーランサーだった小生も、文字通り「離群性」人生だったらしい。詳しくは書かねど小・中学時代に疎外感を覚える事件あり。渋谷の高校に入学すれば、有名不良中から来たってんで、上級生らに地下部室で袋叩きの歓迎を受けた。高2からは学校より社会人の山岳会活動が主で、修学旅行費が山行費に化けた。

 大学は、親の勧めで理工学部へ。白衣を着て試験管を振りながら「俺は何をやっているんだろう」とキャンパスに通うのを止めた。アルバイトを経て街の美術研究所へ。アル中絵描き先生が、深夜に酒に酔った独白テープを聴く講義の他は、まぁ独学せい~みたいな感じで、勝手に4年間在籍した。

 広告制作会社に応募。「カンディンスキーを読んでいました」が気に入られたかで採用され、グラフィック・デザイナーで社会人になった。ラッシュアワー電車を嫌って、初任給でドロップハンドル購入で自転車通勤。ときに電車に乗れば、乗り換えの新宿西口地下はフォーク集会で、彼らを掻き分けて地上へ出ればフーテンがシンナーを吸っていた。

 2年後にPR会社に転職。2年目に某企業に出向。両社狭間を経て計2年で退社し、以後は生涯フリー。所属会社も所属組織も所属同好会もなしで隠居に相成候。

 「あぁ、離群性か」と呟いてみた。喜寿を迎えた金子光晴は「過ぎし日のこと、すべてはむなしかりき」と記していた。

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街のスナップ写真とウォーキング [散歩日和]

ndseries1_1.jpg 目下、別サイトでウォーキングしつつ撮った長露光スナップ(ブレ)写真を1日おきにアップしている。ウォーキングは、さて「どこへ歩きましょうか」の〝ちょい目標〟が欲しいが、最近はその〝ちょい目標〟もマンネリ、定まらぬ。

 そこで今は目的地定めず「28㎜+ND16(減光フィルター)」と「18~200㎜+ND8」で、長露光=ブレたスナップ写真を愉しみつつ歩き出している。調子がいいと、新宿界隈8千歩ほどで10枚ほどシャッターが切れたりする。

 そもそもブログは「文章+口絵写真」セットと思っているから、今までは「風景・動植物・建物・雲・自分の絵」だったりしたが〝人物が対象〟になることもある。だが人が写り込むと、やれ「肖像権侵害・個人情報」などややこしく、そんな時の常套手段が「モザイク処理」になる。でもモザイクより「ブレ写真」の方が断然面白いと気が付いた。

 最初はポケデジのレンズ前に「レイバンのサングラス」で覆っていたが(iPhonにも「Slow Shutter Com」なるアプリがあり、スマホに装着するNDフィルターもあるらしい)、今は〝ちゃんと〟1眼レフの広角レンズにNDフィルター装着でブレ写真を撮り出している。「1/10秒・ISO100・Fは成行き」から、次第に試行錯誤~。

 被写体はブレても背景はジャスピンがいい、逆に被写体を流し撮りでピンを合せて背景をブラすのもいい、ISO感度上げF(絞り)も上げて被写体深度を深くしてファインダー覗かかずにシャッターを切ってみる。カメラをしっかりホールドする。いや手ブレもワザのうち~と試みている。

 こんな遊びはプロカメラマンはやらんから〝隠居趣味ならではの愉しみ〟なのだろう(プロの世界でも「アレとブレとボケ」を信条とする派もいるそうな。あぁ、そう言えば森山大道のイメージショップ「CAMP」参加のカメラマン二人を知っていた。一人は20歳の頃の友人で、一人は後に大きな賞を受賞した)。だが、歩けば撮れるってぇもんじゃない〝妙〟もある。新宿界隈8千歩ウォークで10枚ほどシャッターを切る日もあれば、1万歩も歩けど1度もシャッターを切れぬ日もある。多分こちらの眼・気持ちの問題。アンテナがシャープじゃないと撮る機会も発見できない。

 先日はボツにした車のブレ写真を観ていて「よし、これを狙ってみよう」。車の形骸が溶けて「色構成の抽象画」のような写真が撮れた。題して「街に出でアブストラクト朧かな」で2点をアップした。

 街歩く女装オジサンの後姿を撮って「温暖化街も泳ぐや熱帯魚♂」。緊急事態宣言ながら夜の歌舞伎町の熱気を撮って「為政者へ信頼失せて午後8時」。商店街の風に揺れる日章旗を撮って「行く春のスカスカと舞ふ軽き国」。流れる車の合間に見た動かぬカップルを撮って「ねぇ、私達いつまでここに居るの?」。ファインダー観ずに擦れ違いに撮った「ねぇ、おんぶ、甘えたくなる春疾風」。ファッションを決めて歩く女子の後姿を撮って「春一番街は颯爽ランウェイ」など。そんなウォーキング+ブレ写真は「こちら」にアップ。

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金子光晴⑧エロじじい晩年と名著 [読書・言葉備忘録]

kanekozensyu_1.jpg 昭和21年(1946)光晴51歳、三代子46歳、息子22歳。山中湖畔から焼失を免れた吉祥寺の我家に戻る。息子、早大に入学。「コスモス」創刊に同人参加。彼の反戦・反権力を貫いた詩、著作に評価高まるも稿料は僅か。モンココ化粧品本舗は営業不振で収入途絶えた。今や小説家・三代子の収入頼り。

 昭和23年(1948)53歳。詩人志望の大川内令子25歳と深間になる。彼女との関係はその後30年余続く。三代子はリューマチで半臥状態で、光晴は旺盛な執筆活動。昭和26年56歳。翻訳『ランボオ詩集』『アラゴン詩集』刊。その翌年に詩集『人間の悲劇』発表。ママゼル本舗(染髪)の宣伝部に籍を置く。令子との結婚承諾を得るべく彼女の実父に会いに佐賀県へ。併せて九州一円で講演。

 昭和28年(1953)58歳。マダム・ジュジュ化粧本舗の顧問になる。息子のパリ留学に両親が揃っていることが条件で令子と無断離婚し、三代子との籍に戻す。詩集『人間の悲劇』が第5回読売文学賞を受賞。翌年、息子、パリ留学。令子の籍を戻す。昭和32年(1957)62歳。自伝『詩人』刊。

 三代子は中国青年将校との交情を描いた『新宿に雨降る』を発表。彼と令子との婚姻届けを知って、昭和34年『去年の雪』で憤懣を吐露。不自由な身体ながら三代子が光晴を殴りかかり、その後に光晴は三代子を抱く、60歳を越えても愛憎と愛欲の旺盛なこと。

 昭和40年(1965)70歳。詩集『IL』と『絶望の精神史』を刊。『IL』は翌年に歴程賞を受賞。翌々年72歳。『定本金子光晴全詩集』はじめ出版多数。新宿紀伊国屋書店で『若葉のうた』サイン会。昭和44年(1969)74歳。軽い脳震塞で入院。テレビ「人に歴史あり」に出演。昭和46年(1971)76歳。三代子とのアジア・欧州放浪記『どくろ杯』から続く三部作を執筆。この頃に美大中退の18歳木村まさ子と交際。80歳直前にも人妻と交際。晩年の「エロじじい」大奮闘。その人気について、本人は「反戦・反権力で過激右翼に狙われていたから〝エロじじい〟浸透で丁度いいんだよ」と言っていたとか。

 昭和47年(1972)77歳。前年刊の『風流尸解記』が芸術選奨文部大臣賞を受賞。昭和49年(1974)79歳。7月から半年間、雑誌『面白半分』編集長。光晴は死の2週間前に令子(愛称うさぎ)とデート。二人の関係は昭和23年から28年間も続いた。光晴はその顛末を『姫鬼』に書き、桜井慈人も『恋兎 令子と金子光晴』に書く。令子の内股に「みつ」と彫り、自身の肩に「れいこ」と彫った。

 昭和50年(1975)80歳。自宅で苦しみなく急性心不全で永眠。その2年後に森三代子も死去。まぁ、夫妻共にあっぱれな性遍歴と、反戦・反権力を貫いた詩人だった。小生に性遍歴は見習うことは出来ぬも、反戦・反権力は見習えそうです。近くの図書館に『金子光晴全集』が開架であり、少しづつ読んで行きたく思っています。(完)

 参考資料:金子光晴『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』『絶望の精神史』『金子光晴全集・第十二巻』。竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、森乾『父・金子光晴 夜の果てへの旅』、『相棒 金子光晴・森三代子自選エッセイ集』、ちくま日本文庫『金子光晴』、山本夏彦『夢想庵物語』、群ようこ『あなたみたいな明治の女』、山崎洋子『熱月』など。

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金子光晴⑦帰国後の反戦詩と遍歴 [読書・言葉備忘録]

kanekozetubo_1.jpg 本題、金子光晴に戻る。昭和7年(1932)37歳。光晴は三代子の旅費を稼ぐべく、再びマレー半島へ。ゴム林を背景にした日本人一家を描くなどで画料・餞別を得てシンガポールへ戻る。すぐに帰国船へ乗れば良いものを、また女に引っかかった。英中の混血で義腕の美女に入れ込んで旅費をなくす。

 そんは彼がシンガポールのホテル滞在中に、三代子が来る。4ヶ月振りに抱き締めようとすると拒否された。彼女の新しい男がいた。マルセイユのホテルでパリ帰りの若者・姉川と知り合い、特別3等室に20日間に籠りっきり。三千代子「彼と一緒に神戸に向かいます」。光晴が対峙すると男は「あなたより彼女を幸福にします」

 光晴はまた絵を売る、知人に借金をして、やっと帰国。三代子の養父母に預けた息子を訪ねると、三代子の手紙。「財閥の若者は、神戸に着くと出迎えの者に家の破産を知らされ、二人の関係は船中だけのことにしてくれ~」と。

 三代子は息子を預けたまま新宿のアパートへ(下が中華料理屋の2階の部屋)。光晴も新宿・大宗寺横の連れ込み旅館「竹田屋」に部屋を借りた。部屋の後ろ廊下を朝から夜中まで連れ込みの男女がミシミシと音を立てて通る。彼女を訪ねて半年ぶりに交歓。昭和9年(1934)39歳。新宿北辰館から牛込余丁町109の独立家屋へ(一地震あれば崩れそうな二階家。五坪ばかりに庭に老木のザクロがあった)。親子3人一緒に暮らす。三代子は欧州帰りの女性ということで「女人芸術」の長谷川時雨はじめの口ききで、原稿依頼が舞い込み始めた。光晴が手を入れつつも、次第に女流作家の道を歩み始める。

nisihigasi_1.jpg この頃の光晴は、文字通りの貧乏神だが、昭和10年(1935)に朗報。実妹捨子のモンココ化粧本舗から広告宣伝担当で月50円で雇われた。余丁町124番地へ移る。翌年に二・二六時間。シンガポールから持ち帰ったノートから推敲した詩『鮫』が雑誌「文芸」掲載。これを機に彼にも原稿依頼。反戦・反権力詩人としての名を確立して行く。

 昭和12年(1937)42歳。詩集『鮫』は三代子の新たな恋人・武田麟太郎主宰の「人民社」から刊。当時は詩壇は「四季」と「歴程」中心で、注目度は僅少も、彼の20代から貫かれt離群性、孤独性に評価。同年12月、日華事変勃発。会社の市場調査と云う名目で、戦争の実態を確かめに三代子と共に北支を旅行。前線の残虐侵略から帰還する兵士らの、人間の様相を失った狂った呈(アモック状態)に、己の反戦・反権力の姿勢に確信を深める。(日中戦争:昭和12年~20年)

 昭和13年(1938)43歳。三代子37歳。正月を万里の長城で迎え、1月半ばに帰国。3月に余丁町を出て、終の棲家となる吉祥寺の家を購入。義父の胃癌看病に、義父の姪・山家ひで子が来て、光晴とひで子の関係が復活(彼女は在学中に芸者になり、小唄山家流家元、戦後は連れ込み宿を経営。光晴74歳の脳溢血時も見舞っている)。

 昭和16年(1941)46歳。12月に太平洋戦争勃発。彼の反戦。半権力の詩は発表の場が無くなった。三代子は昭和18年『和泉式部』で新潮社文芸賞を受賞。昭和19年(1944)49歳。息子に召集令状。荒事をさせて気管支嘆息の診断書を得て召集延期。山之口獏が2ヶ月ほど同居。12月、空襲が激しく、山中湖のボロ別荘に疎開。

 昭和20年(1945)50歳。息子に再び召集令状。嘆息発作の息子を水風呂などで再び召集延期で戦死を免れた。氷点下の家で凍ったインクを溶かしつつ作詩に専念。終戦の玉音放送に『セントルイス・ブルース』のレコードで踊り祝った。昭和21年(1946)51歳。吉祥寺に戻り、息子は早稲田大学に入学。「コスモス」創刊に同人として参加。詩集『落下傘』『蛾』『鬼の児の唄』などを次々に発表。

 ★写真「為政者へ信頼失せて午後8時」「街に出でアブストライク朧かな」を「隠居お勉強帖」にアップ。 

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金子光晴⑥武林夢想庵とは(2 ) [読書・言葉備忘録]

fumiko_1.jpg 武林(中平)文子登場です。明治21年、松山生まれ。夢想庵より8歳下。美人で賢く我儘いっぱいに育った。18歳で見合い結婚して3児を年子で産む(当時はコンドームなく性交=妊娠)ことに嫌気がして離婚。時あたかも松井須磨子がトップ女優になって新たな女性像が現れたことも影響したらしい。

 二度目の夫は嫉妬深いく、自分が外出するときは文子を柱に縛り付けておくほどで、文子は大陸へ逃げた。資生堂化粧品を売り歩きながら、何人もの男と〝必要に応じて肉体関係〟を重ねながら2年余の放浪して離婚成立へ。

 そして大正5年28歳「中央新聞」婦人記者になり芸者、派出婦などになるルポ連載「お目見日記」で人気。同社社長の〝思いもの〟になってわがもの顔の振舞いで、結局は同社を追われた。

 大正9年、鵠沼の文士旅館「東屋」で原稿書き。そこにいたのが夢想庵。彼はここが財産家妻女「鎌倉夫人」との逢引場所だが、文子は彼は北海道の土地を売った3万円で、辻潤と洋行する予定を知って「あたしと行きましょうよぅ」。田山花袋の仲人で帝国ホテルで結婚。夢想庵40歳、文子32歳だった。すでに夢想庵ではない誰かの子を宿していたらしい。

 大正9年5月、支那へ新婚旅行。8月に渡欧。12月、パリでイヴォンヌ(五百子)誕生。(夢想庵が異母妹・豊に産ませた子と同年誕生)。大正10年7月に英国で遊び、8月からベルリン、ドイツ、スイス、イタリーを歴遊してパリへ戻る。文子はなで肩で身長5尺ほど。西洋人からみれば17、8歳に見えて「なんと可愛い」と云われて有頂天。

 大正11年に帰朝。夢想庵は中林家の隠居所に仮寓し『結婚礼賛』『文明病患者』を改造社から刊。同12月に再び渡欧。今度の渡欧費用は僅か4千円で、文子も働いた。ロンドンの日本料理店「湖月」(川上貞奴座の女役者・花子の店で、番頭は彼女のツバメK)に、パリに支店を出すよう持ちかける。文子とKは即〝ねんごろ〟になる。パリ支店は大繁盛で各界名士も集う。文子の男漁り。とりわけ金持ちと見誤ったI青年と〝ねんごろ〟になるなど悶着頻発で、支店は4ヵ月で閉店。Kはロンドンの店も手放してモナコに開店。文子はそこで越後獅子やかっぽれを踊る。夢想庵は文子から小遣いをもらって安宿暮し。

 店の経営が苦しくなって、夢想庵の札幌の土地が狙われた。I青年が実印と白紙委任状を持って、札幌の土地、時価3万円を手にする。モナコでは文子とKの諍いで、文子ピストルで撃たれる。頬を貫き奥歯で止まって一命をとどめる。Kは半年ほどで出所。

tujijyunhon.jpg 夢想庵は文子を寝取られた『Cicuのなげき』を発表。ピストル事件のスキャンダルも相まって大きな話題になった。文子は帰国の際も商売アイデアを発揮。ディーラーPRイベントとして黄色のシボレーで大阪~東京を移動。東京に戻ると女優の仕事が待っていた。ギャラを得てパリに戻る。

 今度はエチオピア皇太子の結婚報に、現地取材で稼ぐべく同国と貿易の宮田社長に接触。文子56歳、社長40歳で3年間の契約結婚。大阪角座に妖婦役で出演後に渡欧。第二次世界大戦後にベルギーから強制送還された二人は、東京で古い電車改造のレストラン開店で成功。宮田の貿易仕事のメドがつくと再びベルギーへ。気がつけば3年の契約結婚が30年余。宮田の包容力、経済力に負うところが大。

 文子77歳。帝国ホテル住まいの彼女に、イヴォンヌ44歳の死が知らされる。イヴオンヌも辻まこと(後、東京で再会した二人は結婚し、子供を三人つくったにもかかわらず、数年後に離婚した。「熱月」より)と別れてからも波乱の人生だが、ここでは省略。文子は夢想庵に対して「私の洋行結婚があなたの一生を不幸に終わらせた」と云ったとか。

 金子光晴と三千代子、武林夢想庵と文子。濃密複数愛(ポリアモリー)で似た者同士。だが文子と宮田には文士にはない実業家の粘り・根性があったようです。ここまで記し、彼女の生涯を小説化した山崎洋子『熱月』(写真上)があるのを知った。写真下はイヴォンヌの最初の夫・辻まこと著『山からの絵本』。同書のなかに三原山で墜落した「もく星号」から散った宝石集め収集の話が書かれている。

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金子光晴⑤武林夢想庵とは(1) [読書・言葉備忘録]

takebayasihon_1.jpg しばし横道~。金子光晴自伝に「武林夢想庵」が登場する。かつて読んだ辻潤関連書にも登場で、その時はスルーした。この機会に山本夏彦著『夢想庵物語』から彼の横顔を探ってみた。

 同書口絵に夢想庵、妻の文子。銀座を颯爽と歩く辻潤息子の辻まこと、竹久夢二の息子竹久不二彦、夫妻の子イヴォンヌの写真など。山本夏彦と辻まことが競って、イヴォンヌは辻の最初の妻になった。その名から洋風美女を想像も、丸顔のフツーの娘さんだった。

 夢想庵は明治13年生まれ。札幌で写真館経営の武林盛一の弟子=三島正治の子・磐雄で、武林家の養子になった。盛一は榎本武楊に従って函館戦争に参加後に、函館でロシア海軍士官に習った写真術で、道庁のお抱え写真家から札幌と東京で写真館を経営。

 盛一は札幌写真館を三島正治に任せ、4歳の磐雄を連れて東京・麹町区1番町の武林写真館へ。磐雄は学業優秀。写真館を〝営業養子〟に継がせ、番町小学校~一中~一高~帝大の出世コースを歩ませた。

 明治30年、磐雄18歳。実母病気で札幌へ。妹みつ13歳が「東京のお兄さん」と抱き付いた。彼は改めて実父母を認識。一高生の時、実父が妹みつを連れて上京。妹の肢が悪く、東京で手術するも不成功。彼女はそのまま東京「女子学院」寮生へ。土日に彼の家に帰ってくる生活で、二人の仲は次第に親密になる。

 明治36年24歳。東京帝大英文科入学。一高からの友と同人誌「七人」結成(後の「新思潮」母胎)。同書には七人に加え小泉八雲、島崎藤村、夏目漱石(3人共に新宿に旧居史跡あり)との交流も記されているが省略する。磐雄は柔道・体操・アコルデオンも得意だが、志はあくまでも文学だった。

tujijyun.jpg 一高入学前の明治32年、短編『夢うつゝ』で「新小説」懸賞に応募。撰者は紅葉露伴鴎外逍遥の4大家で、選外佳作に永井荷風らと共に選ばれた。同人仲間の小山内薫が父逝去で、麹町3丁目の家を売って小石川宮下町へ移転。養父・盛一は小山内好きで、彼の新居近くに230坪を借りて磐雄の家を新築。磐雄が学士になったら嫁(札幌の叔父の縁続き・八重子)を迎え、そこで所帯を持たせる算段~。

 磐雄の『竹村翠』が新派の本郷座大阪公演の演目に決まった頃、麹町の自宅に生田葵山、田山花袋、柳田国男、国木田独歩、小栗風葉らが訪ね来て、彼らの「龍土会」にも誘われる。なお生田葵山は荷風と同じ「木曜会」メンバー。

 その頃の彼は、本郷座の芝居茶屋「まる正」女主人おフク(小山内が若いツバメだった)の妹「おキン」と深間。養父の勧めの八重子を避けたことで東大退学し、京大法学部へ。「おキン」も磐雄との関係が許されず「天津日本租界」へ。二人は京都・満願寺の座敷で気を失う程の交情2日を経て、彼女は大阪港から天津行きの船に乗った。

 磐雄は満願寺に逗留。京大入学が来年ゆえ、大阪毎日新聞に就職。自作小説の掲載決定で、雅号「夢想庵」に決まる。養父の病状芳しくなく1年ほどで東京へ。一方「おキン」は天津着早々に銀行員と結婚約束して東京に戻っていた。逢えば、二人の関係がなかったようにケロリとされて、夢想庵の心から彼女が消えた。

 「おキン」と別れたことで、養父の希望通り八重子と結婚。宮下町で所帯を持つ。八重子、妊娠するも、文士連に馴染めず。二人の仲は冷えて夢想庵は離れ八畳間で生活。妹みつは女子学院卒後は、同校教員になって夢想庵宅で生活。みつは友Fを夢想庵に紹介し、Fは頻繁に「離れ」に訪れる関係になる。また札幌の異母妹・豊が20歳になって、東京の女子大に入れるべく同居。大正7年、夢想庵は宮下町の家を売って、全員で麹町の借家へ。

 大正8年、みつ35歳で渡米(帰国は大正14年)。みつが居なくなって夢想庵の生活は荒れた。大正9年に豊に子を産ませている。同じ頃に意気投合の辻潤が居候。辻が階下、夢想庵が階上で暮し、夜は毎晩のように二人で呑み歩き。大正12年、関東大震災。

 同書口絵に「みつ渡米送別会(谷崎潤一郎、佐藤春夫他11名)」の写真あり。みつの隣に凄い別嬪「鎌倉夫人」がいる。鎌倉夫人も、みつが夢想庵に紹介。鎌倉夫人と夢想庵の密会は鵠沼の旅館。夫人は財産家の妻女で二人の子持ち。同家主人も女中も公認の関係。小生は、みつが夢想庵との相姦を断ち切ろうと学友Fを、鎌倉夫人をと次々に紹介していたように推測するが、いかがだろうか。

 さて、鎌倉夫人との逢瀬が待ちきれない夢想庵が鵠沼の旅館に行くと、そこに輪をかけて奔放な「中平文子」が泊まっていた。ここから二人の「パリ物語」が始まる。(続く)

 写真「行く春のスカスカと舞ふ軽き国」「温暖化街も泳ぐや熱帯魚♂」を「隠居お勉強帖」にアップ。

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金子光晴④『ねむれ巴里』の頃 [読書・言葉備忘録]

nemurepari_1.jpg 大正14年(1925)30歳。長男・乾が誕生。室生犀星が保証人で婚姻届け。大正15年春、佐藤紅緑の代筆100円を得て、二人は上海~蘇州~杭州~南京の新婚旅行。昭和3年、高円寺から夜逃げして中野雑色に移転。

 同年、国木田独歩の息子・虎雄が父の印税を手にし、光晴に上海案内を乞う。約3ヶ月ほど遊んで中野に帰ると三代子の姿なし。彼女は東大生のアナキスト土方定一(草野心平の詩誌「銅鑼」同人。後の神奈川県立近代美術館館長。美術評論家)の許へ。〝子供をダシ〟に連れ戻し、早稲田鶴巻町の貸部屋へ。三代子は2日居ると3日目には土方の許へ。彼女を土方から離すべく「パリ旅行」を提案。子を彼女の実家(長崎)に預け、長崎からアジアへの船に乗った。

 さて『どくろ杯』の続き。昭和4年(1929)34歳。三代子をシンガポールからパリへ旅立たせた光晴は、自分の旅費稼ぎにクアランプール~ピナン島~スマトラへ。日本人の肖像描きなどで旅費を稼ぎつつシンガポールに戻って、リバプール行きの船に乗った。

 マルセイユ港着。夜行列車でパリへ。大使館の在留邦人名簿から彼女のモンパルナスの住所を知る。新たな男がいることを警戒しつつ扉をノック。「入って大丈夫かな」。新婚当時のような濃厚な交歓に相成候。

 パリには日本から送金がある裕福青年の他は概ね挫折。滞在期間も過ぎ、金もなく、乞食になる他にない。だがパリは〝色情狂〟の街。男は老婦人の男妾に、女を口説く男は溢れている。「シャンジュ・シュバリエ」(踊り途中で相手を変える時の掛け声)よろしく、次々に異性相手を変えて生きて行く他にない。

parifujita.jpg その例として光晴は武林夢想庵・中平文子と子・イヴォンヌを挙げている。(彼らについては、以前に読んだ辻潤関連書でスルーしたので、この機会に調べたく次回に紹介)。

 上記から〝性がらみ〟他で生きて行くのは至難も、光晴は困窮の日本人救済を駐在武官に訴えて対策費を懐にする、留学生の博士論文の手伝い、在留邦人名簿の整理や未納会費の集金、日本から進出した宗教団体の教祖伝説を錦絵にしたり、額縁に彫り物を施す仕事などで食いつなぐ。三代子の詩をガリ版で刷って売れとアドバイスしたのは藤田嗣治だった。

 某日、光晴は彼女の父から送られた帰国費用300円(4千フラン)をこっそり懐に入れる。高級店で彼女に衣服を、自分に靴を買い、贅沢な食事と観劇。金は瞬時に半分消え、勇気を絞って金の出所を告白すると三代子は「あ、そう」。

 リヨンに移動した彼らは切羽詰まって、絵を描き売るためにデパートで絵具一式を万引きする。だが水彩の積りが油絵具で描くのに四苦八苦。次第に三代子の働きに頼るようになる。1回50フランで1ヶ月のモデル仕事、日本物産展の売り子、ベルギー・アントワープでの船乗り相手の会社事務仕事~。

 パリで一人になった彼は改めて宿探し。そこは連れ込み部屋が覗ける穴があり、その噂が日本人の間に広まって次々に覗きに来る。食い詰めた二人は、光晴が10年前に訪れたブルッセルの根付収集家イヴァンを再度訪問。光晴は水彩画を描き溜め、他の画家らと展覧会。加えて借金もして帰国の途につく。アントワープの彼女には旅費送り次第に帰国せよと伝言するも、彼女の方が稼ぎよく、彼をシンガポールで追い越した。

 小生、乗りかかった船ゆえ、次の最終編『西ひがし』から彼の晩年まで読みましょう。★本日「隠居お勉強帖」アップ

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金子光晴③春画と画集 [読書・言葉備忘録]

morikencyo2_1.jpg 金子光晴が極貧旅行中に春画を描き売って糊口を凌いだ~という春画をネットで見た記憶がある。今ふたたびネット検索すれどヒットせず。記憶違いかな、と思った。

 江戸時代の画師は春画で糊口を凌いだ。池田満寿夫だって生活苦に春画4点版画セット4~500円完売で、当時の1か月半の生活費1万円の収入。それで抽象より具象画の方が売れると認識した。昭和35年に限定40部の色彩性交版画『男と女』、昭和43年限定20部『愛の方法』。彼が有名になった時、それら春画は古書市場で120万の値がついたとか。

 金子は小学時代に小林清親から日本画を倣い、上野の美術学校・日本画科に入学。極貧で行き詰まれば春画を描き売っても不思議はない。ネット調べを続けると、最近になって彼の画集2冊が出版されていることを知った。

 昭和50年(1981)の『金子光晴画帖』(三樹書房)、平成9年〈1997)の『金子光晴旅の形象』(平凡社)。ネット巡りを続けると「有名なその春画はインターネットでも見ることができる」の文言はヒット。あぁ、小生は見たのは幻ではなく、恐らくその後に削除されたのだろう。

 次に彼の絵について、子息・森乾著『父・金子光晴伝』の「金子光晴のブルッセルの画」で『金子光晴画帖』以前の作品に出会った思い出を記していた。彼の最初の渡欧は24歳。ベルギーのブリュッセルに1年半滞在。その10年後に、森三代子との旅で食い詰め、再びブリュッセルの〝根付〟収集家ルパージュ氏を訪ねた。そこで描いた絵をもって他の画家らと展覧会を催して金を得てパリへ。その金を使い果たして再度ルパージュの許に戻って帰国の金を工面してもらっている。

aibou1_1.jpg 子息は早大在外研究員として渡欧の際に、父が晩年まで借りたままの旅費を気にし、また大きな好意に感謝していたことを伝えるべく、ルパージュ未亡人(94歳)を訪問。その際、未亡人が木箱に収められた父の画をテーブルに並べ「この画集で、あなたのお父さんの借金は棒引きよ」とほほ笑んだ。

 また当時の展覧会カタログ、展覧会評が載った新聞4紙の切り抜きも差し出した。水彩画30点とデッサン4枚を出品で。(ネットで見ることが出来る『京劇』も含まれているから、それが後に『旅の形象』になったのだろう。

 その新聞評の多くが、藤田嗣治の絵画とも、他の多くに日本人画家のフランス画模倣とも違って、日本版画の繊細タッチと色彩の美しさが評価されていた。なお子息は早大教授を定年退職し、平成12年(2000)に享年75歳で亡くなっている。さて『どくろ杯』続編『ねむれ巴里』を読んでみましょう。

 写真は森乾著『父・金子光晴伝』の金題字と、蝸牛社刊『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』の口絵写真の覗き見。★本日「隠居お勉強帖」アップ

 追記:「金子光晴全集・第12巻」の差込に版画家の永瀬義郎が「光晴夫妻と巴里での出逢い」でこんな事を書いていた。「僕から見れば、金子君は立派なポルノのイラストレーターであった。彼の場合は〝港々に女あり〟ではなく〝港々にヌード絵のファン〟が待っていた。夫妻が無一文で巴里まで辿り着けたのは、このかくし芸のお陰と言っても過言ではなかろう。金子夫妻がクラマールの僕のアトリエに訪ねて来られる前から〝春画の名人が巴里に現われた〟という噂が流れていた。『面白半分』に平野威馬雄さんが、こう書いている。~オレが春画を描くから猥文を書け」という。2、3の本屋に話すとヤンヤの催促。彼は安全カミソリで切った紙を筆がわりにして手より細い線で描く~。フフフッ、見てみたいですねぇ。

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金子光晴②生立ちと性遍歴 [読書・言葉備忘録]

mituharahon_1.jpg 金子光晴、明治28年(1895)末、愛知県海部郡生まれ。出生時の姓は大鹿安和。父は資産家だったが博打や事業失敗で名古屋へ。2歳、清水組名古屋出張店主任・金子家の養子になる。16歳の妻・須美が〝おもちゃ〟のように可愛がり育てる。

 翌年、義父の京都出張店転任で京都へ。京都の小学校入学。小学3年の時に日露戦争。小学4~5年の頃、材木置場で近所の子らと〝桃色遊戯〟。包茎チンコを女の子が銜える~など。母は父の茶屋遊び・妾・仕事で不在多く、時に嫉妬のヒステリー爆発。その度に「お前は百円で買った貰いっ子」と当たる。芸人夫婦の娘・静江に惚れ、その頬を「食べたい」衝動。

 明治38年(1905)10歳。父の東京転勤で銀座に仮寓。泰明小学校へ。銀座・竹川町の教会へ通ってキリスト教の世界を覗く。4、5人の手下を従え「かっぱらい」などが発覚し土蔵軟禁15日間。翌年、牛込新小川町へ移転し、津久戸小学校に転校。絵が好きで小林清親に日本画を習う。10歳の時に縁ある押上・春慶寺の豆まき後に、豆を拾いに寺奥まで行くと男女のまじわりを見て、身体が震えるほど驚いている。台所で働く老婆が「従兄弟同士は鴨の味だっていうが、そんな味がしますか。私とここの旦那もいとこ同士だったんですよ」。老婆が彼らに便宜を図り、見張り役をしていたらしい。また友達と牛込から横浜まで歩き、アメリカ密航を企てて失敗したのもこの頃。当時からバガボント(放浪者、漂泊者)の芽生え。不摂生で病んで不登校も、お情け卒業。

kiyotikaten.jpg 写真は2015年の小林清親展ポスター。小生、自転車を買って中村橋・練馬美術館まで観に行った。光晴は「その頃の小林清親は、あの独特の版画〝東京名所〟でもてはやされた全盛期を過ぎて、生活もドン底だった」(『相棒』の「清親のこと」)

 明治40年(1907)12歳。暁星中学入学。優等生だったが、次第に同校のアリストクラシー(貴族主義)やフランス式に反発して「漢文」に熱中。「史書」に親しむ。さらに馬琴作など稗史小説に深入り。義父の浮世絵コレクション(行李一杯に春画があった)に魅了され、友人らと友人姉をクロロホルムで眠らせ、秘所を入念観察。

 中3。親戚から手伝いに来ていた女性に、春画より本物をと本格初体験。この頃から14歳違いの義母と相姦関係が始まったらしい。その罪悪感を薄めるために悪所通い開始。一方、若宮八幡境内の弓道場に通い、道場主から5番目の腕前に。道場の留守番をしていた娘の名「おさい」と二の腕に彫る関係も、彼女は心臓麻痺で急死。

 大正2年(1913)18歳。早大英文科予科に入学。田舎の学生ばかり、かつ自然主義文学の牙城が気に入らず1年半で退学。(下宿の炬燵で友人同士手淫しあって学校へも行かずオブローモフな日を送っている者もあったとかで~)。上野の美術学校・日本画科入学。モデルの身体を撫でまわす。選別試験失敗で退学。慶大英文科に中学。学業に身が入らず、今で云うナンパに明け暮れ。徴兵検査は11貫で丙種。ひ弱ながら荒んだ生活で21歳で病床生活。荷風『珊瑚集』、鴎外『沙羅の木』、与謝野寛『リラの花』など翻訳詩からボードレールに熱中し、試作を開始。父は胃癌で、義母は隣家の相場師くずれの西村某でデキていて、光晴は家の前の娘・君子に惚れ、従妹・秀子と、さらには看護婦とも肉体交渉。そして~

 大正6年(1917)22歳。義父死去。義母と遺産を折半。20万円(現在の2千万年)を手にする。新小川町の家を売り、小日向水道町~赤城元町の崖下の借家へ引っ越し。満州から引き揚げて来た実父が金を引き出し、自身も目的のない旅を続けて見る間に資産僅少。友人と伊豆大島・元村の漁師宅で自炊一ヶ月ほどもあり。道の木陰に蛇が5、6匹ずつ。集まっていた。登山道では蛇が木の枝からぶら下がっていた。坂本繁次郎が牛の絵を描いていて、差木地村には春陽会の画家たちがいた。

 大正8年(1919)24歳。デモクラシーに影響された詩集『赤土の家』自費出版も評価は仲間内だけ。少なくなった家産を盛り返すべく、鉱山(マンガン)に手を出して失敗。義父の許に出入りしていた骨董商・鈴木の誘いで初渡欧。リバプール~ロンドン~ベルギー。鈴木はブリュッセルの〝根付収集家・イヴァンに光晴を託して帰国。そこでの滞在1年半は珍しく向学心に燃え、詩に没頭した。帰国の際に創作ノート20冊のうち10冊をペルシャ湾に捨て、後にそこから『こがね蟲』が誕生。

 大正10年(1921)26歳。『こがね蟲』編纂・推敲で京都に滞在。茨木のりこ著『女へのまなざし』にこんな記述があった。京都下宿先の娘と交渉。京都を去る駅で、娘の母親が駈けつけて「あんさん、うちの娘をよくぞ女にしてくれはりました。一生、男を知らずに終わるところでした」と礼を言われたと記していた。(このエピソードは本人の自伝『詩人』にも、『狂骨の詩人』にも記述なし。『残酷と非常』には京都の下宿先に、妹が仲居で、腰の立たず這うように暮していた姉がいて、姉と懇意にしていたことが書かれている。)

 『こがね蟲』で詩人・金子光晴の名が確立するも2ヶ月後に関東大震災。詩人としての華やかな旅立ちが無に帰す。翌大正13年、光晴の許に森三代子が現れた。翌年、長男・乾が誕生。やがて二人の極貧放浪の旅が始まる。

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金子光晴①『どくろ杯』に妙な親しみ~ [読書・言葉備忘録]

tujioyako.jpg 金子光晴『どくろ杯』冒頭部分に~「天災地異のどさくさにまぎれて、一人の青年将校とその部下の上等兵とが、著名な社会主義者夫妻を拘禁し、甥に当たる六歳の子供といっしょに扼殺した」と書かれていた。

 かつて小生はブログ「辻まこと(1)」で、こう書き出した。「荒畑寒山は管野スガを幸徳秋水に寝取られ、幸徳とスガは大逆事件で処刑された。辻潤は妻・伊藤野枝を大杉栄に取られ、大杉と野枝は甘粕大尉に虐殺された」(★大杉栄は大正12年に、有島武雄に無心した渡欧資金で上海からパリへ旅立った。★荒畑寒村は大正11年に北京ソビエトへ潜入。パリではメーデーに飛び入り演説をした)

 伊藤野枝と辻潤の子「辻まこと」は、「もく星号」墜落現場へ散乱した宝石収拾に三原山に行った。辻潤は昭和3年に「まこと」を連れて渡欧した。帰国3年後に「自分は天狗だ」と友人宅二階から飛んだ。

 『どくろ杯』にも、それが書かれていた。「辻潤が、京都の等持院の撮影所につとめていた岡本潤のところに泊まって、じぶんは天狗とおもいこみ、飛べるつもりで二階から飛び下りて足をくじき、びっこをひきながら正岡のところを訪ねて、一晩泊まっていった~」

amakasunanten.jpg 「正岡容」と云えば、永井荷風66歳の時に市川散策ついでに41歳の正岡夫妻宅を訪ねるなど一時期親交を重ねていた。荷風は彼の妻で舞踊家・花園歌子が目当て~の噂もあった。また『どくろ杯』には白山・南天堂の記述もあった。

 「白山にあった南天堂という本屋の二階にあつまった若い詩人たちは乱酔、激論、最後は椅子をふりあげ、灰皿を投げ、乱闘になるのが恒例であった~」。 あたしは小島キヨ(3)で寺山珠雄『南天堂』を紹介した。今もある「南天堂書店」を撮っている。関東大震災のどさくさに大杉・野枝が、さらに亀戸で多数〝主義者〟が官憲に殺されるなどで行き場の無くなったアナキスト、ダダイスト、詩人らが「南天堂」に集って憂さを晴らしていた。平林たい子や林芙美子らも常連で、芙実子は辻潤に同人誌を激励されている。大酒呑みの彼女は「五十銭くれればキス一回~」など酒乱の日々。のちの「野鳥の会・中西胡堂」も処女詩集の出版祝いを同店で行っていた。

 『どくろ杯』には、その正岡容も中西胡堂もよく登場する。さらに森三代子と情交を重ねた三畳間は、牛込赤城元町の崖下で、小生ブログ「牛込シリーズ」に欠かせない人物でもあり。

 かくして『どくろ杯』は、小生に詩の観賞力はないも、光晴・三代子のアジア極貧旅行記は妙に親しみを覚えつつ読了。順序としては続編『ねむれ巴里』『西ひがし』へと読む進むべきだろうが、小生「せっかち」ゆえ金子光晴のプロフィールを早く知りたく竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、子息・森乾『父・金子光晴伝~夜の果てへの旅』、ちくま日本文学『金子光晴』、『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』を読みつつ、彼の経歴を掴んでみることにした。

 ついでながら『夜の果てへの旅』と云えば、小生には(フェルディナン)セリーヌの同題長編小説を二十歳の頃に読んだ衝撃が忘れられない。それで〝まともな日本文学〟など読めなくなって、次にヘンリー。ミラー全集を読み始めた。

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老いのはる身体と機器に困惑し [暮らしの手帖]

 昨年12月、夫婦共々、コロナPCR検査「陰性」を確認して入院のハプニング。病気は違えど、共に一瞬「ここは何処?」の意識混濁状態あり。女房は息子出産以来で、小生は白内障手術の1泊2日以来の15日間に及ぶ入院。共に老いてフィジカルが覚束なくなってきた。

nd16set_1.jpg 同時にデジタル機器にも新たな事態に襲われた。過日、ブログ用にデジカメを構えたがシャッター切れず。そんな時は、近くの新宿西口・三井ビル「キヤノンサービスセンター」に持ち込んだが、同店舗はいつの間に閉鎖で、仕方なく東銀座の同サービスセンターへ行った。

 使い勝手の良さで愛用の「EFS17~85mmレンズ」のシャッター部が壊れているの診断。修理費2万円余。さらにボディ「EOS40D」も修理対応期間終了ゆえ「修理するより新システムで揃え直したら~」に、いやぁ参った・参ったです。

 幸いボディは未だ健在ゆえ、机を漁って古レンズ「EF28mm・MACRO60mm・100~400mm白レンズ」などの装着は、問題なくシャッターが切れた。思案の結果、当面はスナップ写真は28mm(52mm径)にND16(減光フィルター)付き(写真上。古いボディ・レンズも真っ黒フィルターで精悍な顔になった)とし、机上での複写・ブツ撮りは「SIGMA18~200mm」の新体制に決めた。

 iPoneにも戸惑った。「ios14にヴァージョンアップをどうぞ」のメッセージに対応したら、機能が随分変わったらしい。「白梅にメジロ」を撮ったらシャッター音が消えていて、撮った写真を観たらメジロが飛んでいて、階段の人を撮ったら、人が階段を昇る動画になってい、腰を抜かすほど驚いた。

 なんでも「LIVE」で撮った写真を「上へスワイプ」すると「バウンス」「ループ」「長時間露光」が選べるとか。「バウンス」が行ったり来たり、「ループ」ガ繰り返し動画(GIF形式)になるらしい。「入ったり出たり」の繰り返しエロ動画を見たことがあるが、それらしい。

 興味を覚えたのは「長時間露光」。かつてブログに「長時間露光のボケ効果(他人様の肖像権侵害防止)」に、ポケデジのレンズ前にサングラスをフィルター代わりに覆って「ISO80・F8・1/10秒」で、程よくボケさせるワザを記した(2020-05-06)が、この「長時間露光」は前後1.5秒ずつ3秒の「長時間露光」。

ihoneboke_1.jpg ちなみに新宿7丁目交差点を走行の「ホストクラブ宣伝カー」を撮って「長時間露光」したら、流れ過ぎ写真になった(写真下)。緩やかな人の動きならば「いい感じのブレ写真」になるかも。いろいろ試みてみたくなった。

 フィジカルの衰え・故障は、迫りくる死への覚悟が求められるが、デジタリ機器の新ヴァージョンは歳取りには酷だが、前向きに対処すれば「ボケ防止」になりそう。不用不急の外出自粛だが、ND16フィルター付き28mm広角で、はたまたスマホ・カメラの新機能を試しに、いざ街に繰り出してみましょうか。

 28㎜+ND16フィルターの長時間露光写真は別サイト「隠居お勉強帖」に「文1行+写真1点」でアップして行きます。 

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『文人悪食』『文人暴食』から『どくろ杯』へ [読書・言葉備忘録]

arasibunjin1_1.jpg 12月の2泊3日「前立腺癌の生体検査」(結果は癌細胞なし)で、血液に大腸菌が入る感染症で15日の入院を余儀なくされた。入院中に嵐山光三郎『文人悪食』も読んだ。これはブログ『泉鏡花』⑥で、同書を本箱から取出したままだったのが眼に入って持参したもの。

 著者の俎上に載るは37名で、既読は3分の1ほど。「黴菌恐怖症・泉鏡花」が麹町移転先ご近所に有島武郎(美形貴公子で波多野秋子と軽井沢別荘で心中)、内田多聞の項から読み始めた。腕に点滴、ペニスにカテーテルながら、著者の各文人の食へのこだわりから、その生と死を展開してみせる文章の冴えに感心しつつ読了。

 で、昨日のこと。ふと本棚を見ると同じ本が2冊~。先日も『資本主義の終焉と歴史の危機』を迂闊にも2冊購ったことに気付いてばかりで「またやったかぁ」と思ったが、よくよく見れば『文人〝暴食〟』だった。

 同書をひも解いた痕跡少なく、途中で投げ出したらしい。改めて幾編かを読んでみたが、やはり面白くない。同書執筆の著者に、他に心惑わせる何かがあったか、はたまた名だたる文人を下世話にぶった斬った不遜に気付いて、前作のように書けなくなったか~。

 そう思って似顔絵(各項冒頭に著者による文人の似顔絵掲載)を見ても、どこかなおざりの感がする。小生、ブログ「泉鏡花シリーズ」で著者と同じ資料から似顔絵を下描き(途中で興味失せアップに至らず)をしたので「フム、ここをこう描いたか」とまで愉しませていただいたが、同書の絵も心あらずと感じた。

 さて『文人暴食』の金子光晴の項を読むと「黴菌恐怖症・泉鏡花」に比して「黴菌大好き・金子光晴」とあった。晩年は「愉快なエロじいさん」で人気者。76歳刊の自伝『どくろ杯』が圧巻と紹介されていた。最近は政経系書を読んでいたので、その『どくろ杯』が読みたくなった。

 同書は金子光晴76歳で40年前の懺悔。氏は同書後に『ねむれ巴里』『西ひがし』と続く大三部作自伝を成したとか。まずは「牛込のボードレール・光晴」が、お茶の水の女子高等師範在学中の「森三千代」と牛込赤城元町の崖下三畳間で、二匹の蛇さながら執拗に絡み合う日々を経て子が生まれ、三千代に年下の男ができ、二人を引き離すようにアジアへ極貧放浪旅へ旅立つ~。

 読めば、安易に「エロじいさん」とは言えぬ巨人。『金子光晴全集』全15巻には凄い世界が展開されていそう。そう云えば彼を「エロじいさん」と記した嵐山光三郎も、一時期、タモリ「笑っていいとも!増刊号」にレギュラー出演で〝昭和軽薄〟と揶揄されていたことを思い出した。金子光晴の世界にちょっとだけ迷い込んでみたくなった。

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ソール・ライター写真集のアフォリズム [スケッチ・美術系]

saulleiter2_1.jpg 昔の「新宿中央図書館」の地に、今は「下落合図書館」が建っている。そこは高田馬場駅から「さかえ通り」に入って、神田川沿いの東京富士大学(平成14年までは富士短期大学〉の先にあって。昔よく通った図書館だった。

 その「中央図書館」が3年前に我家近くの閉校校舎(区立戸山中学)へ移転して来た。結果、我家から徒歩圏内に「中央図書館・大久保図書館・戸山図書館」が集中。(余談:「家を売って下さい」なる多数不動産家からの電話が多い。中古マンションだが立地が良く需要が多いのだろう、購入時より値下がりせず。執拗に売却を迫る電話には、こう言ってやる。徒歩圏内に図書館が三つもある地が他にあれば、ここを売ってもいいよ~と)

 さて下落合図書館へ行ったのは写真集『永遠のソール・ライター』が〝貸出可〟ゆえ。昨年春の渋谷Bunkamuraでの写真展の際に2冊の写真集があって、あたしが買ったのは絵の掲載が多かった2017年刊『ソール・ライターのすべて』だった。

 同写真展に併せての発売は『永遠のソール・ライター』で、同書を開いて最初に感じたのは写真ではなく、幾頁毎に掲載されてるアフォリズム。そんな「画+アフォリズム」に初遭遇したのは『辻まことの世界』だった。弊ブログでの「辻まこと」は伊豆大島で墜落「もく星号」から散らばった宝石を拾いに行った男として紹介だが、彼の『虫類図譜』や『ノイローゼよさようなら』は「イラスト+アフォリズム」構成で、例えば~

 熱いうちに叩くのは鉄だけです。熱し易い頭には潤滑油が必要。仕事は人を待つだけで、決して人を追ってはこない。小鳥の歌さえも騒音に聞こえるなら、アナタの神経のこずえは枯れかかっている。事件が興奮を作るのではなく、興奮が事件を作るのです。~など。

 さてソール・ライター両写真集に掲載のアフォリズムの幾つかを挙げてみる。それらは「写真家」と「生きる」に大別されるが、まずは「写真家」として~

 私が写真を撮るのは自宅周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも世界の裏側まで行く必要はない。いくつかの出来のよい作品は、近所で撮ったものだ。ストリートはバエレのようだ。何か起きるか誰もわからない。肝心なのは何を手に入れるかじゃなくて、何を捨てるかなんだ。まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている。時折見逃してしまうんだ。大切なことが今起きているという事実を。私の好きな写真は何も写っていないように見えて、片隅で謎が起きている写真だ。雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。あらかじめ計画して何かを撮ろうとした覚えはない。時折見逃してしまうんだ。大切なことが、今起きているという事実を。私は単純なものの美を信じている。もっともつまらないと思われているものに、興味深いものが潜んでいると信じているのだ。カメラを持って出かけて写真を撮る。瞬間を捉えるのが楽しいから。~など。

 次に「生きる」ことにも通じるアフォリズム。幸せの秘訣は、何も起らないことだ。取るに足らない存在でいることは、はかりしれない利点がある。私が大きな敬意を払うのは、何もしていない人たちだ。私は無視されることに自分の人生を費やした。それで、いつもとても幸福だった。無視されることは偉大な特権である。人生の大半をニューヨークで暮してきたけれど、ニューヨークを知っているとは思えない。ときどき、道を聞かれることもあるが〝よそ者なので〟と答えている。私はときどき無責任な人間になる。税金を払う代わりに本を買ったりする。自分がしていることに対して、深い説明を避けてきた。重要だと思われていることも、たいていはそこまで重要じゃない。大半の心配事は心配に値しないものだ。~など。

 私は常々、自分のブログが長文なのを恥じている。「絵+1行のアフォリズム」に憧れる。

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平成を振り返る(6) [政経お勉強]

sihonsyugi1_1.jpg さて、お勉強は行きつ戻りつ。再び水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』を読み返してみる。「資本主義=経済成長=利潤追求」で、資本主義の〝欲望〟は止まることを知らず。結果、富裕層が資産独占。そのしわ寄せが「格差・貧困」の形で弱者へ集中。かつての圧倒的多数=中間層をも蝕んだ。

 利子率は13世紀にローマ教会公認で生まれたそうだが、日本がそれに餞別をつけるようにゼロ金利へ。令和3年の今「10年国債利回り=0.06前後」。つまり資本主義の機能を失ったまま状態。投資は世界中に行き渡り、儲かる投資先もない。

 イタリア・ジェノバでは山頂までワイン畑が広がり、日本では最北地から山頂にまでウォシュレット普及のエピソードは既に紹介した通り。我家近所では海外観光客皆無もホテル建設が続いていて、リモート勤務推奨で電通本社ビル売却も、超高層オフィスビル建設は止まらない。

 後進国への投資で高利潤を得られなくなった投資家は「電子金融空間=IT(情報技術)+金融自由化(グローバル化)で資本を瞬時に各国へ飛ばしてキャピタル・ゲイン(売買差益)を貪り出した。さらに貪欲にレバレッジ(担保証拠金の何十倍相当の取引可能の仕組み)で稼ぐ浅ましさ。「アベノミクス」も実態経済にも関係なしのキャピタル・ゲインで株価が動いている。

 歯車が狂えば再びリーマン・ショックも起きかねず「バブルと崩壊」の繰り返し。崩壊すれば公的資金投入で大金融機関や大企業は救済も、中間層・非正規はリストラされて貧困層となり、生き残っても実質賃金は下がるばかり。

 著者は先進国の中で最も早く「資本主義の限界」に直面したのが日本と指摘する。1997年からずっと低金利。バブル崩壊も会見した。そこから生まれた新自由主義の「トリクルダウン」で真下の杯におこぼれは届かない。結局は富裕層の欲望主義に過ぎなかった。

 著者は、これら矛盾は資本主義黎明期から内包されていたもので「ゼロ金利は資本主義卒業の証し」と記していた。ではこの先どうしたら良いのか? 目下は解答なしだと記す。出来ることは、せいぜい「強欲・過剰」を控えつつ、新しいシステムの構築模索を続けるのみ、と突き放し。

 次に世界の資本主義分析。米国が「電子金融勇敢」で金融(資本)帝国で君臨した一方、陸の国=ドイツ・フランスはEUで「領土で帝国化」で単一通貨ユーロ導入。だがギリシャなどの財政危機、英国の離脱などで深刻さを増している。生き残るのはどっちか~

 小生は経済学者・哲学者・為政者でもなく、ただの長屋隠居(しかもボケ気味)みたいなものだから、そこからの難しい問題はわからない。ただ現代の私達が直面する「気候変動」や「コロナ禍」対応から、なんとなく新しい方向が見えてくるような気がする。「地球環境」では米国より先んじる欧州に注目。コロナ感染では各国の無理・矛盾が顕在化している。収束に成功した台湾から学ぶことも多そう。

 いずれにせよ「富の不均衡是正」と「教育の普及拡充」が大きなポイントにもなる気がしないでもない。我らの世代は高度成長やバブルで浮かれた時期もあったが、子供や孫らが希望を持てる世界になりますように願うばかり。小生に何が出来るだろうかと~。(このシリーズ完)

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平成を振り返る(5) [政経お勉強]

taisyu1_1.jpg イギリスのEU離脱(国民投票)、トランプ大統領誕生(大統領選)、日本では平気で嘘をつく安倍総理の長期一強を支えて支持率~。これら民主主義の結果をみていると、大衆は愚かだで、それも現実だと認識せざるを得ない。

 そう教えてくれるのは、なんと明治16年(1883=スペイン王制復古の最中)のマドリード生まれのオルテガ・イ・ガセットの、昭和5年(1930)発表の『大衆の逆襲』だった。時はウォール街からの世界恐慌(1929)翌年で、「スペイン内戦」(1936~39)直前。ヘミングウェイ『誰が為に鐘は鳴る』、ピカソ「ゲルニカ」の前。ドイツでは世界恐慌の不安に乗じたナチ党が国会選挙で第2党の議席を獲得した年だった。

 スペインは第一次大戦を中立で過ごすも、インフレで労働運動が活発化。それを鎮圧したリベラ将軍の独裁が続いて、共和制を求める民衆デモが各地に起ろ始めた最中の出版。マドリード大学教授になっていた彼が、当時の時代観察から「以前にはなかった〝群衆(蝟集)の出現〟が普通になったと注目して大衆を分析した。

 彼は大衆を、労働大衆ではなく「19世紀のデモクラシーと科学技術の落とし子」と捉え、特別な資質を有さぬ平均人の総体と捉えた。彼らは自分を特殊な価値と認めず、自分は「すべての人」と同じであると感じていて、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々を同一であると感ずることに喜びを見出している。自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々と捉えた。

 かつての(本来の)デモクラシーは、自由主義と法に対する情熱(自己に厳しい規律を義務付けた)で保たれていたが、今出現した大衆は「喫茶店での話題から得た結論を、実生活に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じている。そんな彼らが社会を支配するようになったと分析した。

 19世紀が大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるための手段を与えた結果、大衆人は過保護の「お坊ちゃま」と化し、自分をとり巻く高度で豊かな生の環境=文明をあたかもそれが空気のように自然物であるかのように錯覚し、かつ自分があたかも自足自律的人間であるかのように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない不従順で自己閉鎖的な人間と化した分析した(なにやら今のトランプ熱狂派の人々を説明しているようですし、日本の世襲議員もその典型のように思われます)。

 その結果、すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者を締め出す危険を帯びて来た、今はそんな残酷な実相を帯びてきたと記す(今のSNSに現われている現象のようでもあり)。今はそんな大きな存在になった大衆に求められるのは、政治の真の国民になるには、より積極的で深い「社会教育・国民教育」ではないか。大衆が深い知性を有して、初めて「真の政治は社会大衆のための、社会大衆とともに、社会大衆のゆえに存在するもの」になるのでは~と教えている。

 当時は財産均等化、文化程度の平均化、男女両性も接近しつつある中間層拡大・平均化にあっての大衆出現だっただろうが、オルテガ『大衆の逆襲』から91年後の現在は「欲望暴走の資本主義」によって「一部富裕層VS大衆(減少する中間層を含む非富裕層)=財産の不均衡化」構図になって、大衆は大きな矛盾と不満を抱いて悶々と生きて。それが民主主義の結果とも思えぬ国民選挙、大統領選挙、嘘で固めた保守党支持の結果を生んでいるように思えるのだが、いかがだろうか。今こそ「さぁ、もっと教育を、もっと勉強を~」というオルテガの声が聞こえてくるようです。

hottanigaoe.jpg なおオルテガはフッサール「現象学」をドイツ外に初めて紹介した一人とか。また弊ブログでお世話になった『方丈記私記』『定家明月記私抄』の堀田善衛はスペイン史の大家。彼のスペイン関連書『スペイン断章(上・下)』や『スペインの沈黙』などが読みたくなってきました。

 左絵は『定家明月記私抄』関連ブログ記事中で描いた堀田善衛の似顔絵。文字は同書冒頭に記された堀田の「世上逆追討耳に満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戒吾ガ事ニ非ズ」を省略したもの。

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平成を振り返る(4) [政経お勉強]

anposaiketu3_1.jpg 平成24(2012)、12月に第二次安倍内閣、民主党の体たらく。首相は幼児性っぽく「アベノミクス」(金融・財政・構造の各改革)や右翼団体から借用の「美しい国」と嘘っぽいパフォーマンスばかりが見え透いた。「日本を取り戻す」も、トランプ「自国ファースト」に通じる。黒田日銀総裁の「異次元の金融緩和」も怪しく、株価は上がるほどに実態経済とかけ離れて、利ザヤを稼ぐ海外からの「電子金融空間」の仕業と読み取れた。

 小生:平成27年(2015)頃にリタイア(隠居)した。ブログは「鳥撮り」から「鶉衣・方丈記」くずし字筆写、スケッチ開始、青山霊園外人墓地(明治のお雇い外国人)24名の経歴調べ、広重「狂歌入東海道」(全56枚)の狂歌判読・解釈、千駄ヶ谷物語(59回)、朱子学儒学のお勉強(35回)、寛政5年「和田戸山御成記と現戸山公園比較」(24回)、ジャポニスム(22回)、司馬江漢(23回)、牛込シリーズ(43回)などの隠居遊びの場に化した。

 この機会に、平成27年ブログを見直して驚いた。横井也有『鶉衣』のくすし字筆写の合間に、なんと『資本主義の終焉と歴史の危機』の読書メモをアップ。迂闊にも6年を経て再度購読だった。

 平成27年(2015)、9月「戦争が出来る国へ=安全保障関連法」可決。参議院本会議の強行採決風景をテレビで観て、藤田嗣治の戦争画がダブって、こんな絵をブログアップしていた。アーミテージがほくそ笑み、ヒゲの隊長こと佐藤議員が詰め寄る野党議員を蹴散らしていた。(絵は当時ブログ挿絵)

 平成28年(2016)、嘘つき首相の支持率は相変わらず高く、英国は国民投票でEU離脱で後悔し、11月のトランプ大統領が誕生、小池都知事の裏の顔~。ポピュリズム、保守主義、格差拡大が世界を席巻・浸透。どれもが民主主義(国民投票)の結果とは容認し難いも、それが現実とも認識を強いられた。

 平成29年(2017)、明恵夫人が名誉校長だった森友学園への公有地払い下げ、公文書偽造を強いられた役人の自殺。首相お友達・加計理事長への獣医学部新設の便宜~モリカケ問題。平気でシラ~ッと嘘をつく我が国の総理は、その後に「アベノマスク」や『うちで踊ろう』コラボに動画アップなどの失笑失策に加え、「桜を見る会」がダメ押しでやっと支持率低下、塩梅が悪くなれば得意の病気辞任。

 平成31年(2019・令和元年)。令和2年(2020)に「令和おじさん」こと菅内閣発へ。コロナ対策の後手後手、モグモグ会見などで就任当時の高支持率も一気低下で不支持率が上まった。新自由主義のワイングラス重ねての「トリクルダウン」は起らず、富は一部集中で格差は拡大するばかり。格差拡大が民主儀をも破壊する姿をトランプ再選挙で露呈されていた。加えて米中対立、プーチン独裁、民主化弾圧の中国、収束せぬコロナ感染~。相変わらずスッキリせぬ日々が続いている。

 『資本主義と民主主義の終焉』の最後は「資本主義は終焉しても、民主主義は終わらせてはいけない」と結ばれているが、民主主義の怖さ=大衆の愚かさを警告したのはスペイン内戦(1936~1939)前のオルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930年刊)だった。ヒトラーでさえ選挙で多数議席を獲得しての独裁だった。同書では大衆=慢心しきったお坊ちゃまと分析されていた。次にそこを読んでみる。

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平成を振り返る(3) [政経お勉強]

 平成18年(2006)。2月京都議定書発効(平成9年・1997年12月に京都で開催のCOP3での締結が発効。だが紆余曲折が続き、平成27年(2015年COP21)「パリ協定で脱炭素化」が約束された。日本は2020年COP25で再度「化石賞」を受賞。今年になって小泉進次郎奮闘の結果、2050年排出ゼロを実現すると表明)。8月、郵政解散。小泉内閣は自民党総裁任期3年・連続2期迄で、安倍第一次政権へ。平成19年〈2007)。7月に米国の超低金利を前提の住宅ローン「サブプライローン」破綻で「リーマン・ショック」。

 これは2003年からの金融緩和による低金利住宅ブームに、2004年6月の金利引き上げが影響し、ローン利用者が利息も払えぬ状況に陥った結果。住宅ローンが証券化されていて、この証券を扱っていた全米5位の投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻。他の金融会社も資金調達で株式を一斉に売却しての株価暴落。手放された大きな家を買い漁ったのが富裕層で、彼らは地価が上がってところで売却して懐を膨らませた。

 日本はリーマン・ショックの影響に加え、議員らの「政治とカネ」不祥事、年金記録の行方不明問題。小生:当時の社会保険庁に恨みあり。支払いが遅れると、まぁヤクザのような恫喝。ついにはてめぇの社会年金で穴埋めしろと強要。後に怪しく複雑な年金記録多発が問題になって訪問調査に来たが、後の祭り~。平成22年(2010)、問題だらけの社会保険庁が「日本年金機構」に組織替え。

 同年9月、安倍首相は臨時国会で所信表明した2日後に辞任表明。お坊ちゃま総理は、この時から都合が悪くなると病気理由に政治を投げ出すのが得意。その後に福田内閣、麻生内閣ともに賞味期限1年の自公短命政権を経て、民主党のお坊ちゃま・鳩山内閣へ政権が移った。

 リーマン・ショックの影響は日本企業も及び、とりわけ大打撃を受けたトヨタ自動車は内部保留潤沢のまま「大量派遣社員切り」。他企業も「内部保留と派遣リストラ」が常套手段へ。2008年末、日比谷公園に「年越し派遣村」が出来た。年金問題、派遣社員リストラ~と弱者がいじめられた時期だった。

 東南アジア各国も急激な通貨下落。その中、大規模の公共投資に踏み切った中国だけが安定し、その結果、各国メーカーが中国で部品工場化(サプライチェーン)。資本が流れた中国は世界第2位の経済大国に躍り出た。

hatoyamatei.jpg 平成21年(2009)。1月オバマ大統領就任。黒人差別の映画などを観てきた小生は、初のアフリカ系大統領就任式のテレビ中継を観て鳥肌が立つほどに感銘。そして日本でも政権交代で民主党・社民党・国民新党の連立で、民主党の〝お坊ちゃま・鳩山内閣〟が誕生。日米共に「新時代到来」と期待するも、両者共の腰定まらず、鳩山内閣は1年も経ずに菅内閣へ。

 そして平成23年(2011)3月11日、東日本大震災と福島第一原発1号機の爆発。当日は小生、女房と新宿御苑散歩から帰宅して寛いでいるところに激震。アンティック食器ケースを押さえつつ、自室本棚上に積んでいた「永井荷風全集」がドスン・ドス~ンと落下するのを見ていた。

 政経も自然も「有為転変」。以後、日本はかつてない天災に例年のように襲われ、悪い方へ悪い方へ転がって行く。放出された放射能も消えることがない。写真は〝鳩山お坊ちゃま〟が育ったらしい乙羽通り「鳩山会館」。

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平成を振り返る(2) [政経お勉強]

 平成13年〈2001)、橋本内閣の「金融ビッグバン」と、中曽根内閣の「JT民営化、NTT民営化、 JR民営化」を引き継いだ小泉政権は、さらに進んで「聖域なき構造改革」へ。「郵政民営化。道路関係4公団」民営化をはじめ「官・中央から民へ」と規制緩和、新自由主義(政府より市場の動きの方が正しい=市場原理主義)に併せ、議員らの地元誘致公共事業の無駄も排除。「自民党をぶっ壊す」と拳振り上げるポピュリズム戦略。「内閣の基本方針(骨太の方針)」から各省庁が実施プロセスまで立案させる内閣主導型(これを無思慮・安倍が真似て、なんでも内閣決議のやりたい放題~)

 「聖域なき構造改革」は、アメリカ型経営の導入になって、年功序列型賃金制度から成果主義へ。そのなか通称「竹中プラン」は約90兆円の不良債権処理。弱体企業を次々に切り捨て、生き残った企業で日本経済を復活させる方針。労働構造も経営者と少数鋭意社員、単純作業員(非正社員)に分け、多数の派遣労働者を生んだ。これは北欧などの福祉国家とは逆の自己責任型。(竹中平蔵はその後、大手人材派遣会社の会長職にちゃっかりと収まった)。小泉首相。竹仲平蔵による新自由主義が「富める者vs持たざる弱者」の構図を造ったと評される。

 同年、小泉のお友達ブッシュは、NY同時多発テロでアフガニスタン空爆。平成15年(2003)にイラク戦争へ発展。日本は「イラク特措法」で米国を全面支持で「日米同盟」をアピール。この年の株価は最安値7607円を記録。

 平成15年(2003)竣工の六本木ヒルズには、何かを生産・販売もせずの「投機ビジネス」(ポスト産業資本主義)の新富裕層が住んで「ヒルズ族」と呼ばれた。ライブドアの堀江はニッポン放送を、村上世彰は自身のファンドで阪神電鉄の買収を仕掛けた。さらに小泉内閣は「医療制度改革」も実施(現コロナ過で、その脆弱さが露呈と指摘されている。

SIMABENCH.JPG 小生:スタッフ7名を抱えた〝社長ごっこ〟から、再び原点の一人フリーランサーへ。年齢相当にカラオケ誌と演歌界の男女を代表する歌手の仕事をするようになった。その取材・打ち合わせ・印刷手配でバイク疾駆の日々へ(中古SEROWを乗り潰しD-TRACKERへ)。彼らの密着取材でハワイ、ソウル、北海道、京都、金沢、大阪、熊本、福井、名古屋と全国を飛び回った。

 同年秋からカラオケ誌に男性演歌歌手の「俺の山河は~」と題した2年間24回連載を開始。次に同誌で女性演歌歌手の2年刊24回連載も開始。並行して平成17年(2005)春からスポーツ紙で前記男性歌手のエッセー連載を年末まで43回連載を担当。

 ちなみにその連載2回目は3月8日。エッセー裏面に「ライブドアのニッポン放送買収に際しフジテレビが同株公開買い付けに成功」の記事があった。同スポーツ紙では続いて女性演歌歌手のエッセー連載も担当。両演歌歌手のファンクラブ誌も編集していたからて眼の回る忙しさ。その間隙をぬって大島暮しで息抜き。演歌歌手の大島キャンパーン(山本譲二、都はるみ、服部浩子など)があれば、取材陣の宿から抜け出して自分のロッジに寄ったりしていた。あたしには〝社長業〟は無理で、はやり一人フリーランサーがお似合いと再認識した。島ロッジでは薪ストーブの炎と、写真のベランダ自作長ベンチで寛ぐのが癒しだった。鳥のさえずり、風と波の音を聴きながら読書やお昼寝~。

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平成を振り返る(1) [政経お勉強]

sihonminsyu1_1.jpg 先日、ウォシュレットがらみで水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』をちょっと紹介したが、同書と共に、同氏+山口二郎共著『資本主義と民主主義の終焉』も入手。同書を参考に平成を復習し、己も振り返ってみたくなった。(ウフッ、閑なんですよぅ)

 まずは平成元年(1989)。消費税3%。中国「天安門事件」。海部内閣時に「ベルリンの影」崩壊。日経株価3万8915円。世界のトップ企業10に日本の7社がランクイン。バブル絶頂です。(1990年に三菱地所がロックフェラー・ビル群を買収。横井英樹が1991年にエンパイア・ステート・ビルを買収)

 日本に脅威を感じた米国が焦った。日本に巨額の公共投資を強い、日米構造協議で日本の流通システム、大店法などの市場開放を要求。結果、大型スーパーの出店規制が緩くなって、やがて町の商店街がさびれて行った。さらに日本の黒字分を武器購入で埋め合わせする〝オフセット戦略〟(戦力相殺戦略の一環として日本に精密誘導兵器などの導入を強要。これは後の安倍・トランプによる高額兵器購入の〝第3次オフセット〟へ至る。不動産面では現在、東急不動産・三井不動産・三菱地所などがニューヨークに進出している)

 小生:新宿御苑前の倉庫上の事務所から「市ヶ谷・佐内坂マンション4階」へ移転。幌型ランクル40からランクル60系へ乗り換え。スタッフも7名に増えてバブルに乗っていた。

 平成2年(1990)、日経株価2万円割れでバブル崩壊(金融緩和+公共投資拡大によるカネ余りが原因)。東西ドイツ統一。小生:主仕事が音楽業界でバブル被害は少なく、個人オフィスを外堀沿いにも設ける。ゴルフ会員権購入(会員権売買会社のPR誌編集もしていて~)、伊豆大島ロッジ用地購入。共に購入後にバブル価だったと知るも後の祭り。ゴルフ会員権はラウンドする度にドドォ~ンと下落。

 平成3年(1991)、宮沢内閣。イラク湾岸戦争勃発。小生:大島ロッジが出来、スタッフ7名を連れて大島で忘年会を恒例化。仕事が終われば日夜新宿で飲み歩く日々。平成4年(1992)、PKO協力法成立。小生:事務所にレイアウトが出来る高級ワープロに加え「Mac」2機導入。

 平成5年(1993)、土井たか子率いる日本社会党マドンナ旋風。細川内閣誕生。EU発足。1ドル100円割れ。新日鉄がホワイトカラーを含む7千人を人員削除。リストラなる言葉が定着。小生:バブル崩壊に関係なく、主クライアントのレコード会社が時流に乗り遅れて一気凋落。佐内坂と曙橋の事務所を整理して幡ヶ谷で移転。

 平成6年(1994)、羽田内閣から村山内閣へ。平成7年(1995)、阪神淡路大震災。地下鉄サリン事件。1ドル=79.75円(超円高)。日経連が「新時代の『日本的経営』」で労働者を幹部候補と専門職と派遣社員に分類。非正規雇用が増加。小生:事務所経営厳しく1/6は大島暮らしで、薪ストーブの炎に癒された。

 平成8年(1996)、橋本内閣が日本版金融ビッグバンを提唱。個人でも為替取引可能、取引上限を撤廃、電子取引可能(結果、外国投資家が電子取引で参入)。住宅金融専門会社8社の不良債権処理に6850億円の公金資金投入。平成9年(1997)、消費税5%。銀行や証券会社が相次いで破綻。平成10年(1998)、小渕内閣。金融再生法執行。日本長期信用銀行破綻。

 小生:事務所を幡ヶ谷から大久保へ移転。社員を整理し、その事務所(中古マンション)を購入して自宅にする。再び一人フリーから再出発。年齢相当で音楽仕事も演歌中心へ。パソコンで経理すべく「Windouws」に切り替え。

 平成11年(1999)、EU統一通貨ユーロ導入。森喜朗を経て、平成13年(2001)に小泉純一郎内閣へ。小生:振り返れば、フリーランサーから〝会社ごっこ〟をしたが、日本経済の激動に揺り揺られ。再び一人フリーに戻って再出発。あたしは〝社長業〟より、職人っぽい仕事のやり方が似合っている。

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『スモール イズ ビューティフル』第三部 [政経お勉強]

sayugyakuhan.jpg 「開発」について。途上国は概ね「二重経済」になっていると指摘。開発されるのは約15%の都市部近代化(工場)。残り85%は開発とは無縁の農村・小都市。その結果、都市への「大量移住と大量失業」が生まれる(ウム、中国ニュースでよく見る現象だな)。

 この「開発の弊害」を生まぬためには「開発=モノ」と考えず「人間の教育、組織、規律」から考えるべきだろう~と指摘する。「貧困主因=教育・組織・規律の欠如」だからで、それら三つを段階的に進化させて行くのが真の開発政策ではないか~と説く。粗野な唯物主義者による開発は「大量移住・大量失業」を生み、開発の妨げにもなる「二重経済」を止めて、都市と農村を含む国民全体を巻き込んだ真の開発政策が必要ではないかと説く。

 第二章は「中間技術の開発を必要とする社会・経済問題」。第三章は「200万の農村」。ここでは貧しい人はさらに貧しくなり、豊かな人はさらに豊かになる問題が分析されている。だがそこで問題とされているのは1970年代のこと。同章を読んでいると、小生はアフガニスタンで銃殺された中村哲医師による砂漠を緑地・農地化した灌漑・農業支援を活動を想起した。

 だが現代の格差問題は当時と大きく違っている。電子金融空間=キャピタルゲイン+金融のグロバリゼーションによる資本主義構造変化によって、さらに激しい格差拡大が起っている。著者の時代と、現代社会が抱える問題との時代的ズレを感じざるを得ない。

 またインドの諸問題も指摘だが、現在のインドは「IT企業」が発展し、多数のデジタル系優秀人材も輩出。「高学歴技術=知的経済」が力強く推進されている。さらにはこの書の著者「シューマッハー」とガンジー思想を受け継いで「スモール・スクール」(1982年設立)や「シューマッハー・カレッジ」(1991年設立)を創設し、エコロジー&スピリチュアル雑誌「リサージェンス(再生)」編集長のサティシュ・クマールも世界各国で核兵器放棄などを説くなど活躍中。また中国への言及も、現在は大きく様変わりして新たな問題が出ていて、同書のお勉強は最終部「組織と所有権」を含めて、この辺で区切りとしたい。

 次はウォシュレット普及で言及した水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』で現在経済のお勉強に移りたく思います。写真は意図的に同書表紙の「色変換+左右逆版」~。

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『スモール イズ ビューティフル』第二部 [政経お勉強]

gtakuhann_1.jpg 第二部「資源」の第一章は「教育」。社会が複雑、発展するに従って原子力の危険性、環境破壊、気候変動、遺伝子。デジタル工学、商業主義の弊害~等「教育の重要性」が増す。文化的知識と科学的知識の両方を深め、かつ両者の溝を埋める英知、それら価値を伝え合う能力も求められて来る。

 それは言うまでもなく「言葉=観念=思想」。観念で考え、観念を使って、倫理を磨く。人類の最大の資源は教育です。その地位が崩れると、人類は衰退する。(小生は、爺さんになってから初めてスェーデンの少女グレタさんに刺激されて「異常気象・地球温暖化」を少し勉強した。この歳になっても知らないことばかり。チコちゃんの〝ボーっと生きてんじゃねぇよ~〟の叱咤が聞こえた来る。認知症と闘いつつ、死ぬまでお勉強です。

 次は「正しい土地利用」について。物質資源のなかで最も重要なのが「土地」。人は昔から繁栄=領土拡大で、常に恵まれた土地を求め、天然資源を収奪し、枯渇させ、破壊してきた。この繰り返しでは人類の未来は余りに暗い。「正しい土地利用」を学ばなければいけない。土地は人間の次に大切な資源ゆえ、「土地の利用」は技術的、経済的唯物主義で捉えてはいけない。「形而上学的」に考えるべきです。そこを熟考すると「人間の生き方のすべて」も見えてくるでしょう~と指摘する。

 「工業資源について」。例えば米国工業は、国内資源だけではやって行けず、原料と燃料を求めて世界中に触手を伸ばしている。工業国にとって重要な再生不能な天然資源は19種類ある。それらは年々枯渇し、コスト高になり、産出国と消費国との間に政治的問題(紛争)が生まれる。

 この問題が真剣に考察されないのは「石炭が終われば石油がある。それが終われば原子力がある」なる安易な考えがあるからだろう。(イギリスが北海油田を開発したのが1960年頃。米国がシェールガスを開発したのが1990年代)。資源の枯渇は、自然破壊につながる。原子力を使えば何百年も消えぬ放射能廃棄物を抱え込むことになる。以上、従来からの考え方を変えなければ、人類は衰退の一途~と著者は警告している。

 経済が繁栄しても、そこの「安全性の確保」がなければ、全生物に計り知れない危険が襲う。それは「生命」への冒涜になり、人間がそれまで犯してきたどんな罪よりも重いと言えよう。また文明がそんな罪の上に成り立っているとは考えたくもない。

 自然本来は、自ら成長・発展をどこで止めるか(枯れたり、死んだりを~)を心得ている。だが技術に支配された人間には、その止める力がない。均衡・調整・浄化の力がない。そんな心で技術開発された繁栄の裏には、必ずその反映としての貧困がある。さて、正しい人間の顔をもった技術開発は可能だろうか~と問う。次は第三部「第三世界」。写真は意図的に反転(ペイント利用)です。

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