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江戸・化政期のハンドル集 [大田南畝(蜀山人)関連]

 So-netのブログには、他のブログとネットワークする「nice」という機能がある。昨日はどういうワケが、その「nice」が二つ付いていた。皆さん、それぞれ趣向を凝らしたハンドル(ハンドルネーム)をお持ち。あたしの母はキイと美代子という名に加え、花と茶の師匠名で計四つの名を持っていた。子供心に「いいなぁ」と思ったものである。江戸時代後期の化政期(文化、文政)には狂歌や戯作界でハンドルが盛んだった。いつかそれらを列挙したく思っていた。いい機会なので以下に…

 当時の出版界の代表・蔦屋重三郎が「蔦唐丸(つたからまる)」。 

 あたしの好きな大田南畝は本名・直次郎で「蜀山人」、「四方赤良(よものあから)」、「四方山人(よものさんじん)」、「杏花園」、「山手馬鹿人(やまてのばかひと)」。戯作のデビュー作では「陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)」。 

 15歳の南畝を優しく見守ったのが23歳年上で内藤新宿の煙草屋で本名・稲毛屋金右衛門が「平秩東作(へずうとうさく)」。そのデビュー作に序文を書いた「風来山人」ことは平賀源内。

 蜀山人の狂歌仲間には京橋の湯屋経営・大野屋喜三郎が「元木網(もとのもくあみ)」がいて、その女房は「智恵内子(ちえのないし)。日本橋の裏長屋の大屋は「大屋裏住(おおやのうらずみ)。同じく日本橋・小伝馬町の旅館オーナーは「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」。同じく日本橋の大工棟梁は「野見釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)」。数寄屋橋の汁粉屋は「鹿都阿真顔(しかつべのまがお)」。芝の本屋・三河屋半兵衛は「浜辺黒人(はまべのくろひと)}。吉原の妓楼・大文字屋の亭主は「加保茶元就(かぼちゃのもとなり)」。その女房は「秋風女房」。浅草田原町の質屋・伊勢屋久右衛門は「浅草市人(あさくさのいちんど)」。

 次は役人たちで牛込・二十騎町の御先手与力は「朱楽管江(あけらかんこう)」。その妻は「節松嫁嫁(ふしまつのかか)」で不始末かかぁの意。新宿2丁目の成覚寺に墓があるのは小石川春日町に住んでいた「恋川春町」。彼は「寛政の改革」の取り締まりで駿河小島藩に累が及ぶのを避けて自殺した。本名は倉橋寿平。狂歌名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。この改革で50日の手鎖の刑を受けたのが山東京伝。その画名は「北尾政演(きたおまさのぶ)」。田安家の家臣・小島謙之は「唐衣橘洲(からごろもきしゅ)」。秋田佐竹藩の江戸留守居役・平沼常富は「手柄岡持(てがらおかもち)」。姫路藩主酒井雅楽頭の実弟・酒井抱一の狂歌名は「尻焼猿人(しりやけのさるんじ)」。

 五代目市川団十郎は「花道つらね」。運送・飛脚問屋の島屋治兵衛は「荷造早文(にづくりはやふみ)」。蘭学者・桂川甫斎は「竹杖為軽(たけつえのすがる)」。他に「大屁股臭(おおへのまたくさ)」。「芝うんこ」。「腹唐秋人(はらかけのあきんど)」。「加阿仲塗(かべのなかぬり)」。きっとハゲだったのだろう「頭光(つむりのひかり)」は町代(町役人)。

 この項、気が向いたら追記していきます。参考書は田中優子著作いろいろ、芳賀徹「平賀源内」、森岡久元「南畝の恋」、童門冬二「沼と河の間で」、なだいなだ「江戸狂歌」など。


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