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金子光晴⑦帰国後の反戦詩と遍歴 [読書・言葉備忘録]

kanekozetubo_1.jpg 本題、金子光晴に戻る。昭和7年(1932)37歳。光晴は三代子の旅費を稼ぐべく、再びマレー半島へ。ゴム林を背景にした日本人一家を描くなどで画料・餞別を得てシンガポールへ戻る。すぐに帰国船へ乗れば良いものを、また女に引っかかった。英中の混血で義腕の美女に入れ込んで旅費をなくす。

 そんは彼がシンガポールのホテル滞在中に、三代子が来る。4ヶ月振りに抱き締めようとすると拒否された。彼女の新しい男がいた。マルセイユのホテルでパリ帰りの若者・姉川と知り合い、特別3等室に20日間に籠りっきり。三千代子「彼と一緒に神戸に向かいます」。光晴が対峙すると男は「あなたより彼女を幸福にします」

 光晴はまた絵を売る、知人に借金をして、やっと帰国。三代子の養父母に預けた息子を訪ねると、三代子の手紙。「財閥の若者は、神戸に着くと出迎えの者に家の破産を知らされ、二人の関係は船中だけのことにしてくれ~」と。

 三代子は息子を預けたまま新宿のアパートへ(下が中華料理屋の2階の部屋)。光晴も新宿・大宗寺横の連れ込み旅館「竹田屋」に部屋を借りた。部屋の後ろ廊下を朝から夜中まで連れ込みの男女がミシミシと音を立てて通る。彼女を訪ねて半年ぶりに交歓。昭和9年(1934)39歳。新宿北辰館から牛込余丁町109の独立家屋へ(一地震あれば崩れそうな二階家。五坪ばかりに庭に老木のザクロがあった)。親子3人一緒に暮らす。三代子は欧州帰りの女性ということで「女人芸術」の長谷川時雨はじめの口ききで、原稿依頼が舞い込み始めた。光晴が手を入れつつも、次第に女流作家の道を歩み始める。

nisihigasi_1.jpg この頃の光晴は、文字通りの貧乏神だが、昭和10年(1935)に朗報。実妹捨子のモンココ化粧本舗から広告宣伝担当で月50円で雇われた。余丁町124番地へ移る。翌年に二・二六時間。シンガポールから持ち帰ったノートから推敲した詩『鮫』が雑誌「文芸」掲載。これを機に彼にも原稿依頼。反戦・反権力詩人としての名を確立して行く。

 昭和12年(1937)42歳。詩集『鮫』は三代子の新たな恋人・武田麟太郎主宰の「人民社」から刊。当時は詩壇は「四季」と「歴程」中心で、注目度は僅少も、彼の20代から貫かれt離群性、孤独性に評価。同年12月、日華事変勃発。会社の市場調査と云う名目で、戦争の実態を確かめに三代子と共に北支を旅行。前線の残虐侵略から帰還する兵士らの、人間の様相を失った狂った呈(アモック状態)に、己の反戦・反権力の姿勢に確信を深める。(日中戦争:昭和12年~20年)

 昭和13年(1938)43歳。三代子37歳。正月を万里の長城で迎え、1月半ばに帰国。3月に余丁町を出て、終の棲家となる吉祥寺の家を購入。義父の胃癌看病に、義父の姪・山家ひで子が来て、光晴とひで子の関係が復活(彼女は在学中に芸者になり、小唄山家流家元、戦後は連れ込み宿を経営。光晴74歳の脳溢血時も見舞っている)。

 昭和16年(1941)46歳。12月に太平洋戦争勃発。彼の反戦。半権力の詩は発表の場が無くなった。三代子は昭和18年『和泉式部』で新潮社文芸賞を受賞。昭和19年(1944)49歳。息子に召集令状。荒事をさせて気管支嘆息の診断書を得て召集延期。山之口獏が2ヶ月ほど同居。12月、空襲が激しく、山中湖のボロ別荘に疎開。

 昭和20年(1945)50歳。息子に再び召集令状。嘆息発作の息子を水風呂などで再び召集延期で戦死を免れた。氷点下の家で凍ったインクを溶かしつつ作詩に専念。終戦の玉音放送に『セントルイス・ブルース』のレコードで踊り祝った。昭和21年(1946)51歳。吉祥寺に戻り、息子は早稲田大学に入学。「コスモス」創刊に同人として参加。詩集『落下傘』『蛾』『鬼の児の唄』などを次々に発表。

 ★写真「為政者へ信頼失せて午後8時」「街に出でアブストライク朧かな」を「隠居お勉強帖」にアップ。 

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金子光晴⑥武林夢想庵とは(2 ) [読書・言葉備忘録]

fumiko_1.jpg 武林(中平)文子登場です。明治21年、松山生まれ。夢想庵より8歳下。美人で賢く我儘いっぱいに育った。18歳で見合い結婚して3児を年子で産む(当時はコンドームなく性交=妊娠)ことに嫌気がして離婚。時あたかも松井須磨子がトップ女優になって新たな女性像が現れたことも影響したらしい。

 二度目の夫は嫉妬深いく、自分が外出するときは文子を柱に縛り付けておくほどで、文子は大陸へ逃げた。資生堂化粧品を売り歩きながら、何人もの男と〝必要に応じて肉体関係〟を重ねながら2年余の放浪して離婚成立へ。

 そして大正5年28歳「中央新聞」婦人記者になり芸者、派出婦などになるルポ連載「お目見日記」で人気。同社社長の〝思いもの〟になってわがもの顔の振舞いで、結局は同社を追われた。

 大正9年、鵠沼の文士旅館「東屋」で原稿書き。そこにいたのが夢想庵。彼はここが財産家妻女「鎌倉夫人」との逢引場所だが、文子は彼は北海道の土地を売った3万円で、辻潤と洋行する予定を知って「あたしと行きましょうよぅ」。田山花袋の仲人で帝国ホテルで結婚。夢想庵40歳、文子32歳だった。すでに夢想庵ではない誰かの子を宿していたらしい。

 大正9年5月、支那へ新婚旅行。8月に渡欧。12月、パリでイヴォンヌ(五百子)誕生。(夢想庵が異母妹・豊に産ませた子と同年誕生)。大正10年7月に英国で遊び、8月からベルリン、ドイツ、スイス、イタリーを歴遊してパリへ戻る。文子はなで肩で身長5尺ほど。西洋人からみれば17、8歳に見えて「なんと可愛い」と云われて有頂天。

 大正11年に帰朝。夢想庵は中林家の隠居所に仮寓し『結婚礼賛』『文明病患者』を改造社から刊。同12月に再び渡欧。今度の渡欧費用は僅か4千円で、文子も働いた。ロンドンの日本料理店「湖月」(川上貞奴座の女役者・花子の店で、番頭は彼女のツバメK)に、パリに支店を出すよう持ちかける。文子とKは即〝ねんごろ〟になる。パリ支店は大繁盛で各界名士も集う。文子の男漁り。とりわけ金持ちと見誤ったI青年と〝ねんごろ〟になるなど悶着頻発で、支店は4ヵ月で閉店。Kはロンドンの店も手放してモナコに開店。文子はそこで越後獅子やかっぽれを踊る。夢想庵は文子から小遣いをもらって安宿暮し。

 店の経営が苦しくなって、夢想庵の札幌の土地が狙われた。I青年が実印と白紙委任状を持って、札幌の土地、時価3万円を手にする。モナコでは文子とKの諍いで、文子ピストルで撃たれる。頬を貫き奥歯で止まって一命をとどめる。Kは半年ほどで出所。

tujijyunhon.jpg 夢想庵は文子を寝取られた『Cicuのなげき』を発表。ピストル事件のスキャンダルも相まって大きな話題になった。文子は帰国の際も商売アイデアを発揮。ディーラーPRイベントとして黄色のシボレーで大阪~東京を移動。東京に戻ると女優の仕事が待っていた。ギャラを得てパリに戻る。

 今度はエチオピア皇太子の結婚報に、現地取材で稼ぐべく同国と貿易の宮田社長に接触。文子56歳、社長40歳で3年間の契約結婚。大阪角座に妖婦役で出演後に渡欧。第二次世界大戦後にベルギーから強制送還された二人は、東京で古い電車改造のレストラン開店で成功。宮田の貿易仕事のメドがつくと再びベルギーへ。気がつけば3年の契約結婚が30年余。宮田の包容力、経済力に負うところが大。

 文子77歳。帝国ホテル住まいの彼女に、イヴォンヌ44歳の死が知らされる。イヴオンヌも辻まこと(後、東京で再会した二人は結婚し、子供を三人つくったにもかかわらず、数年後に離婚した。「熱月」より)と別れてからも波乱の人生だが、ここでは省略。文子は夢想庵に対して「私の洋行結婚があなたの一生を不幸に終わらせた」と云ったとか。

 金子光晴と三千代子、武林夢想庵と文子。濃密複数愛(ポリアモリー)で似た者同士。だが文子と宮田には文士にはない実業家の粘り・根性があったようです。ここまで記し、彼女の生涯を小説化した山崎洋子『熱月』(写真上)があるのを知った。写真下はイヴォンヌの最初の夫・辻まこと著『山からの絵本』。同書のなかに三原山で墜落した「もく星号」から散った宝石集め収集の話が書かれている。

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金子光晴⑤武林夢想庵とは(1) [読書・言葉備忘録]

takebayasihon_1.jpg しばし横道~。金子光晴自伝に「武林夢想庵」が登場する。かつて読んだ辻潤関連書にも登場で、その時はスルーした。この機会に山本夏彦著『夢想庵物語』から彼の横顔を探ってみた。

 同書口絵に夢想庵、妻の文子。銀座を颯爽と歩く辻潤息子の辻まこと、竹久夢二の息子竹久不二彦、夫妻の子イヴォンヌの写真など。山本夏彦と辻まことが競って、イヴォンヌは辻の最初の妻になった。その名から洋風美女を想像も、丸顔のフツーの娘さんだった。

 夢想庵は明治13年生まれ。札幌で写真館経営の武林盛一の弟子=三島正治の子・磐雄で、武林家の養子になった。盛一は榎本武楊に従って函館戦争に参加後に、函館でロシア海軍士官に習った写真術で、道庁のお抱え写真家から札幌と東京で写真館を経営。

 盛一は札幌写真館を三島正治に任せ、4歳の磐雄を連れて東京・麹町区1番町の武林写真館へ。磐雄は学業優秀。写真館を〝営業養子〟に継がせ、番町小学校~一中~一高~帝大の出世コースを歩ませた。

 明治30年、磐雄18歳。実母病気で札幌へ。妹みつ13歳が「東京のお兄さん」と抱き付いた。彼は改めて実父母を認識。一高生の時、実父が妹みつを連れて上京。妹の肢が悪く、東京で手術するも不成功。彼女はそのまま東京「女子学院」寮生へ。土日に彼の家に帰ってくる生活で、二人の仲は次第に親密になる。

 明治36年24歳。東京帝大英文科入学。一高からの友と同人誌「七人」結成(後の「新思潮」母胎)。同書には七人に加え小泉八雲、島崎藤村、夏目漱石(3人共に新宿に旧居史跡あり)との交流も記されているが省略する。磐雄は柔道・体操・アコルデオンも得意だが、志はあくまでも文学だった。

tujijyun.jpg 一高入学前の明治32年、短編『夢うつゝ』で「新小説」懸賞に応募。撰者は紅葉露伴鴎外逍遥の4大家で、選外佳作に永井荷風らと共に選ばれた。同人仲間の小山内薫が父逝去で、麹町3丁目の家を売って小石川宮下町へ移転。養父・盛一は小山内好きで、彼の新居近くに230坪を借りて磐雄の家を新築。磐雄が学士になったら嫁(札幌の叔父の縁続き・八重子)を迎え、そこで所帯を持たせる算段~。

 磐雄の『竹村翠』が新派の本郷座大阪公演の演目に決まった頃、麹町の自宅に生田葵山、田山花袋、柳田国男、国木田独歩、小栗風葉らが訪ね来て、彼らの「龍土会」にも誘われる。なお生田葵山は荷風と同じ「木曜会」メンバー。

 その頃の彼は、本郷座の芝居茶屋「まる正」女主人おフク(小山内が若いツバメだった)の妹「おキン」と深間。養父の勧めの八重子を避けたことで東大退学し、京大法学部へ。「おキン」も磐雄との関係が許されず「天津日本租界」へ。二人は京都・満願寺の座敷で気を失う程の交情2日を経て、彼女は大阪港から天津行きの船に乗った。

 磐雄は満願寺に逗留。京大入学が来年ゆえ、大阪毎日新聞に就職。自作小説の掲載決定で、雅号「夢想庵」に決まる。養父の病状芳しくなく1年ほどで東京へ。一方「おキン」は天津着早々に銀行員と結婚約束して東京に戻っていた。逢えば、二人の関係がなかったようにケロリとされて、夢想庵の心から彼女が消えた。

 「おキン」と別れたことで、養父の希望通り八重子と結婚。宮下町で所帯を持つ。八重子、妊娠するも、文士連に馴染めず。二人の仲は冷えて夢想庵は離れ八畳間で生活。妹みつは女子学院卒後は、同校教員になって夢想庵宅で生活。みつは友Fを夢想庵に紹介し、Fは頻繁に「離れ」に訪れる関係になる。また札幌の異母妹・豊が20歳になって、東京の女子大に入れるべく同居。大正7年、夢想庵は宮下町の家を売って、全員で麹町の借家へ。

 大正8年、みつ35歳で渡米(帰国は大正14年)。みつが居なくなって夢想庵の生活は荒れた。大正9年に豊に子を産ませている。同じ頃に意気投合の辻潤が居候。辻が階下、夢想庵が階上で暮し、夜は毎晩のように二人で呑み歩き。大正12年、関東大震災。

 同書口絵に「みつ渡米送別会(谷崎潤一郎、佐藤春夫他11名)」の写真あり。みつの隣に凄い別嬪「鎌倉夫人」がいる。鎌倉夫人も、みつが夢想庵に紹介。鎌倉夫人と夢想庵の密会は鵠沼の旅館。夫人は財産家の妻女で二人の子持ち。同家主人も女中も公認の関係。小生は、みつが夢想庵との相姦を断ち切ろうと学友Fを、鎌倉夫人をと次々に紹介していたように推測するが、いかがだろうか。

 さて、鎌倉夫人との逢瀬が待ちきれない夢想庵が鵠沼の旅館に行くと、そこに輪をかけて奔放な「中平文子」が泊まっていた。ここから二人の「パリ物語」が始まる。(続く)

 写真「行く春のスカスカと舞ふ軽き国」「温暖化街も泳ぐや熱帯魚♂」を「隠居お勉強帖」にアップ。

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金子光晴④『ねむれ巴里』の頃 [読書・言葉備忘録]

nemurepari_1.jpg 大正14年(1925)30歳。長男・乾が誕生。室生犀星が保証人で婚姻届け。大正15年春、佐藤紅緑の代筆100円を得て、二人は上海~蘇州~杭州~南京の新婚旅行。昭和3年、高円寺から夜逃げして中野雑色に移転。

 同年、国木田独歩の息子・虎雄が父の印税を手にし、光晴に上海案内を乞う。約3ヶ月ほど遊んで中野に帰ると三代子の姿なし。彼女は東大生のアナキスト土方定一(草野心平の詩誌「銅鑼」同人。後の神奈川県立近代美術館館長。美術評論家)の許へ。〝子供をダシ〟に連れ戻し、早稲田鶴巻町の貸部屋へ。三代子は2日居ると3日目には土方の許へ。彼女を土方から離すべく「パリ旅行」を提案。子を彼女の実家(長崎)に預け、長崎からアジアへの船に乗った。

 さて『どくろ杯』の続き。昭和4年(1929)34歳。三代子をシンガポールからパリへ旅立たせた光晴は、自分の旅費稼ぎにクアランプール~ピナン島~スマトラへ。日本人の肖像描きなどで旅費を稼ぎつつシンガポールに戻って、リバプール行きの船に乗った。

 マルセイユ港着。夜行列車でパリへ。大使館の在留邦人名簿から彼女のモンパルナスの住所を知る。新たな男がいることを警戒しつつ扉をノック。「入って大丈夫かな」。新婚当時のような濃厚な交歓に相成候。

 パリには日本から送金がある裕福青年の他は概ね挫折。滞在期間も過ぎ、金もなく、乞食になる他にない。だがパリは〝色情狂〟の街。男は老婦人の男妾に、女を口説く男は溢れている。「シャンジュ・シュバリエ」(踊り途中で相手を変える時の掛け声)よろしく、次々に異性相手を変えて生きて行く他にない。

parifujita.jpg その例として光晴は武林夢想庵・中平文子と子・イヴォンヌを挙げている。(彼らについては、以前に読んだ辻潤関連書でスルーしたので、この機会に調べたく次回に紹介)。

 上記から〝性がらみ〟他で生きて行くのは至難も、光晴は困窮の日本人救済を駐在武官に訴えて対策費を懐にする、留学生の博士論文の手伝い、在留邦人名簿の整理や未納会費の集金、日本から進出した宗教団体の教祖伝説を錦絵にしたり、額縁に彫り物を施す仕事などで食いつなぐ。三代子の詩をガリ版で刷って売れとアドバイスしたのは藤田嗣治だった。

 某日、光晴は彼女の父から送られた帰国費用300円(4千フラン)をこっそり懐に入れる。高級店で彼女に衣服を、自分に靴を買い、贅沢な食事と観劇。金は瞬時に半分消え、勇気を絞って金の出所を告白すると三代子は「あ、そう」。

 リヨンに移動した彼らは切羽詰まって、絵を描き売るためにデパートで絵具一式を万引きする。だが水彩の積りが油絵具で描くのに四苦八苦。次第に三代子の働きに頼るようになる。1回50フランで1ヶ月のモデル仕事、日本物産展の売り子、ベルギー・アントワープでの船乗り相手の会社事務仕事~。

 パリで一人になった彼は改めて宿探し。そこは連れ込み部屋が覗ける穴があり、その噂が日本人の間に広まって次々に覗きに来る。食い詰めた二人は、光晴が10年前に訪れたブルッセルの根付収集家イヴァンを再度訪問。光晴は水彩画を描き溜め、他の画家らと展覧会。加えて借金もして帰国の途につく。アントワープの彼女には旅費送り次第に帰国せよと伝言するも、彼女の方が稼ぎよく、彼をシンガポールで追い越した。

 小生、乗りかかった船ゆえ、次の最終編『西ひがし』から彼の晩年まで読みましょう。★本日「隠居お勉強帖」アップ

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金子光晴③春画と画集 [読書・言葉備忘録]

morikencyo2_1.jpg 金子光晴が極貧旅行中に春画を描き売って糊口を凌いだ~という春画をネットで見た記憶がある。今ふたたびネット検索すれどヒットせず。記憶違いかな、と思った。

 江戸時代の画師は春画で糊口を凌いだ。池田満寿夫だって生活苦に春画4点版画セット4~500円完売で、当時の1か月半の生活費1万円の収入。それで抽象より具象画の方が売れると認識した。昭和35年に限定40部の色彩性交版画『男と女』、昭和43年限定20部『愛の方法』。彼が有名になった時、それら春画は古書市場で120万の値がついたとか。

 金子は小学時代に小林清親から日本画を倣い、上野の美術学校・日本画科に入学。極貧で行き詰まれば春画を描き売っても不思議はない。ネット調べを続けると、最近になって彼の画集2冊が出版されていることを知った。

 昭和50年(1981)の『金子光晴画帖』(三樹書房)、平成9年〈1997)の『金子光晴旅の形象』(平凡社)。ネット巡りを続けると「有名なその春画はインターネットでも見ることができる」の文言はヒット。あぁ、小生は見たのは幻ではなく、恐らくその後に削除されたのだろう。

 次に彼の絵について、子息・森乾著『父・金子光晴伝』の「金子光晴のブルッセルの画」で『金子光晴画帖』以前の作品に出会った思い出を記していた。彼の最初の渡欧は24歳。ベルギーのブリュッセルに1年半滞在。その10年後に、森三代子との旅で食い詰め、再びブリュッセルの〝根付〟収集家ルパージュ氏を訪ねた。そこで描いた絵をもって他の画家らと展覧会を催して金を得てパリへ。その金を使い果たして再度ルパージュの許に戻って帰国の金を工面してもらっている。

aibou1_1.jpg 子息は早大在外研究員として渡欧の際に、父が晩年まで借りたままの旅費を気にし、また大きな好意に感謝していたことを伝えるべく、ルパージュ未亡人(94歳)を訪問。その際、未亡人が木箱に収められた父の画をテーブルに並べ「この画集で、あなたのお父さんの借金は棒引きよ」とほほ笑んだ。

 また当時の展覧会カタログ、展覧会評が載った新聞4紙の切り抜きも差し出した。水彩画30点とデッサン4枚を出品で。(ネットで見ることが出来る『京劇』も含まれているから、それが後に『旅の形象』になったのだろう。

 その新聞評の多くが、藤田嗣治の絵画とも、他の多くに日本人画家のフランス画模倣とも違って、日本版画の繊細タッチと色彩の美しさが評価されていた。なお子息は早大教授を定年退職し、平成12年(2000)に享年75歳で亡くなっている。さて『どくろ杯』続編『ねむれ巴里』を読んでみましょう。

 写真は森乾著『父・金子光晴伝』の金題字と、蝸牛社刊『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』の口絵写真の覗き見。★本日「隠居お勉強帖」アップ

 追記:「金子光晴全集・第12巻」の差込に版画家の永瀬義郎が「光晴夫妻と巴里での出逢い」でこんな事を書いていた。「僕から見れば、金子君は立派なポルノのイラストレーターであった。彼の場合は〝港々に女あり〟ではなく〝港々にヌード絵のファン〟が待っていた。夫妻が無一文で巴里まで辿り着けたのは、このかくし芸のお陰と言っても過言ではなかろう。金子夫妻がクラマールの僕のアトリエに訪ねて来られる前から〝春画の名人が巴里に現われた〟という噂が流れていた。『面白半分』に平野威馬雄さんが、こう書いている。~オレが春画を描くから猥文を書け」という。2、3の本屋に話すとヤンヤの催促。彼は安全カミソリで切った紙を筆がわりにして手より細い線で描く~。フフフッ、見てみたいですねぇ。

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金子光晴②生立ちと性遍歴 [読書・言葉備忘録]

mituharahon_1.jpg 金子光晴、明治28年(1895)末、愛知県海部郡生まれ。出生時の姓は大鹿安和。父は資産家だったが博打や事業失敗で名古屋へ。2歳、清水組名古屋出張店主任・金子家の養子になる。16歳の妻・須美が〝おもちゃ〟のように可愛がり育てる。

 翌年、義父の京都出張店転任で京都へ。京都の小学校入学。小学3年の時に日露戦争。小学4~5年の頃、材木置場で近所の子らと〝桃色遊戯〟。包茎チンコを女の子が銜える~など。母は父の茶屋遊び・妾・仕事で不在多く、時に嫉妬のヒステリー爆発。その度に「お前は百円で買った貰いっ子」と当たる。芸人夫婦の娘・静江に惚れ、その頬を「食べたい」衝動。

 明治38年(1905)10歳。父の東京転勤で銀座に仮寓。泰明小学校へ。銀座・竹川町の教会へ通ってキリスト教の世界を覗く。4、5人の手下を従え「かっぱらい」などが発覚し土蔵軟禁15日間。翌年、牛込新小川町へ移転し、津久戸小学校に転校。絵が好きで小林清親に日本画を習う。10歳の時に縁ある押上・春慶寺の豆まき後に、豆を拾いに寺奥まで行くと男女のまじわりを見て、身体が震えるほど驚いている。台所で働く老婆が「従兄弟同士は鴨の味だっていうが、そんな味がしますか。私とここの旦那もいとこ同士だったんですよ」。老婆が彼らに便宜を図り、見張り役をしていたらしい。また友達と牛込から横浜まで歩き、アメリカ密航を企てて失敗したのもこの頃。当時からバガボント(放浪者、漂泊者)の芽生え。不摂生で病んで不登校も、お情け卒業。

kiyotikaten.jpg 写真は2015年の小林清親展ポスター。小生、自転車を買って中村橋・練馬美術館まで観に行った。光晴は「その頃の小林清親は、あの独特の版画〝東京名所〟でもてはやされた全盛期を過ぎて、生活もドン底だった」(『相棒』の「清親のこと」)

 明治40年(1907)12歳。暁星中学入学。優等生だったが、次第に同校のアリストクラシー(貴族主義)やフランス式に反発して「漢文」に熱中。「史書」に親しむ。さらに馬琴作など稗史小説に深入り。義父の浮世絵コレクション(行李一杯に春画があった)に魅了され、友人らと友人姉をクロロホルムで眠らせ、秘所を入念観察。

 中3。親戚から手伝いに来ていた女性に、春画より本物をと本格初体験。この頃から14歳違いの義母と相姦関係が始まったらしい。その罪悪感を薄めるために悪所通い開始。一方、若宮八幡境内の弓道場に通い、道場主から5番目の腕前に。道場の留守番をしていた娘の名「おさい」と二の腕に彫る関係も、彼女は心臓麻痺で急死。

 大正2年(1913)18歳。早大英文科予科に入学。田舎の学生ばかり、かつ自然主義文学の牙城が気に入らず1年半で退学。(下宿の炬燵で友人同士手淫しあって学校へも行かずオブローモフな日を送っている者もあったとかで~)。上野の美術学校・日本画科入学。モデルの身体を撫でまわす。選別試験失敗で退学。慶大英文科に中学。学業に身が入らず、今で云うナンパに明け暮れ。徴兵検査は11貫で丙種。ひ弱ながら荒んだ生活で21歳で病床生活。荷風『珊瑚集』、鴎外『沙羅の木』、与謝野寛『リラの花』など翻訳詩からボードレールに熱中し、試作を開始。父は胃癌で、義母は隣家の相場師くずれの西村某でデキていて、光晴は家の前の娘・君子に惚れ、従妹・秀子と、さらには看護婦とも肉体交渉。そして~

 大正6年(1917)22歳。義父死去。義母と遺産を折半。20万円(現在の2千万年)を手にする。新小川町の家を売り、小日向水道町~赤城元町の崖下の借家へ引っ越し。満州から引き揚げて来た実父が金を引き出し、自身も目的のない旅を続けて見る間に資産僅少。友人と伊豆大島・元村の漁師宅で自炊一ヶ月ほどもあり。道の木陰に蛇が5、6匹ずつ。集まっていた。登山道では蛇が木の枝からぶら下がっていた。坂本繁次郎が牛の絵を描いていて、差木地村には春陽会の画家たちがいた。

 大正8年(1919)24歳。デモクラシーに影響された詩集『赤土の家』自費出版も評価は仲間内だけ。少なくなった家産を盛り返すべく、鉱山(マンガン)に手を出して失敗。義父の許に出入りしていた骨董商・鈴木の誘いで初渡欧。リバプール~ロンドン~ベルギー。鈴木はブリュッセルの〝根付収集家・イヴァンに光晴を託して帰国。そこでの滞在1年半は珍しく向学心に燃え、詩に没頭した。帰国の際に創作ノート20冊のうち10冊をペルシャ湾に捨て、後にそこから『こがね蟲』が誕生。

 大正10年(1921)26歳。『こがね蟲』編纂・推敲で京都に滞在。茨木のりこ著『女へのまなざし』にこんな記述があった。京都下宿先の娘と交渉。京都を去る駅で、娘の母親が駈けつけて「あんさん、うちの娘をよくぞ女にしてくれはりました。一生、男を知らずに終わるところでした」と礼を言われたと記していた。(このエピソードは本人の自伝『詩人』にも、『狂骨の詩人』にも記述なし。『残酷と非常』には京都の下宿先に、妹が仲居で、腰の立たず這うように暮していた姉がいて、姉と懇意にしていたことが書かれている。)

 『こがね蟲』で詩人・金子光晴の名が確立するも2ヶ月後に関東大震災。詩人としての華やかな旅立ちが無に帰す。翌大正13年、光晴の許に森三代子が現れた。翌年、長男・乾が誕生。やがて二人の極貧放浪の旅が始まる。

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金子光晴①『どくろ杯』に妙な親しみ~ [読書・言葉備忘録]

tujioyako.jpg 金子光晴『どくろ杯』冒頭部分に~「天災地異のどさくさにまぎれて、一人の青年将校とその部下の上等兵とが、著名な社会主義者夫妻を拘禁し、甥に当たる六歳の子供といっしょに扼殺した」と書かれていた。

 かつて小生はブログ「辻まこと(1)」で、こう書き出した。「荒畑寒山は管野スガを幸徳秋水に寝取られ、幸徳とスガは大逆事件で処刑された。辻潤は妻・伊藤野枝を大杉栄に取られ、大杉と野枝は甘粕大尉に虐殺された」(★大杉栄は大正12年に、有島武雄に無心した渡欧資金で上海からパリへ旅立った。★荒畑寒村は大正11年に北京ソビエトへ潜入。パリではメーデーに飛び入り演説をした)

 伊藤野枝と辻潤の子「辻まこと」は、「もく星号」墜落現場へ散乱した宝石収拾に三原山に行った。辻潤は昭和3年に「まこと」を連れて渡欧した。帰国3年後に「自分は天狗だ」と友人宅二階から飛んだ。

 『どくろ杯』にも、それが書かれていた。「辻潤が、京都の等持院の撮影所につとめていた岡本潤のところに泊まって、じぶんは天狗とおもいこみ、飛べるつもりで二階から飛び下りて足をくじき、びっこをひきながら正岡のところを訪ねて、一晩泊まっていった~」

amakasunanten.jpg 「正岡容」と云えば、永井荷風66歳の時に市川散策ついでに41歳の正岡夫妻宅を訪ねるなど一時期親交を重ねていた。荷風は彼の妻で舞踊家・花園歌子が目当て~の噂もあった。また『どくろ杯』には白山・南天堂の記述もあった。

 「白山にあった南天堂という本屋の二階にあつまった若い詩人たちは乱酔、激論、最後は椅子をふりあげ、灰皿を投げ、乱闘になるのが恒例であった~」。 あたしは小島キヨ(3)で寺山珠雄『南天堂』を紹介した。今もある「南天堂書店」を撮っている。関東大震災のどさくさに大杉・野枝が、さらに亀戸で多数〝主義者〟が官憲に殺されるなどで行き場の無くなったアナキスト、ダダイスト、詩人らが「南天堂」に集って憂さを晴らしていた。平林たい子や林芙美子らも常連で、芙実子は辻潤に同人誌を激励されている。大酒呑みの彼女は「五十銭くれればキス一回~」など酒乱の日々。のちの「野鳥の会・中西胡堂」も処女詩集の出版祝いを同店で行っていた。

 『どくろ杯』には、その正岡容も中西胡堂もよく登場する。さらに森三代子と情交を重ねた三畳間は、牛込赤城元町の崖下で、小生ブログ「牛込シリーズ」に欠かせない人物でもあり。

 かくして『どくろ杯』は、小生に詩の観賞力はないも、光晴・三代子のアジア極貧旅行記は妙に親しみを覚えつつ読了。順序としては続編『ねむれ巴里』『西ひがし』へと読む進むべきだろうが、小生「せっかち」ゆえ金子光晴のプロフィールを早く知りたく竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、子息・森乾『父・金子光晴伝~夜の果てへの旅』、ちくま日本文学『金子光晴』、『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』を読みつつ、彼の経歴を掴んでみることにした。

 ついでながら『夜の果てへの旅』と云えば、小生には(フェルディナン)セリーヌの同題長編小説を二十歳の頃に読んだ衝撃が忘れられない。それで〝まともな日本文学〟など読めなくなって、次にヘンリー。ミラー全集を読み始めた。

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老いのはる身体と機器に困惑し [暮らしの手帖]

 昨年12月、夫婦共々、コロナPCR検査「陰性」を確認して入院のハプニング。病気は違えど、共に一瞬「ここは何処?」の意識混濁状態あり。女房は息子出産以来で、小生は白内障手術の1泊2日以来の15日間に及ぶ入院。共に老いてフィジカルが覚束なくなってきた。

nd16set_1.jpg 同時にデジタル機器にも新たな事態に襲われた。過日、ブログ用にデジカメを構えたがシャッター切れず。そんな時は、近くの新宿西口・三井ビル「キヤノンサービスセンター」に持ち込んだが、同店舗はいつの間に閉鎖で、仕方なく東銀座の同サービスセンターへ行った。

 使い勝手の良さで愛用の「EFS17~85mmレンズ」のシャッター部が壊れているの診断。修理費2万円余。さらにボディ「EOS40D」も修理対応期間終了ゆえ「修理するより新システムで揃え直したら~」に、いやぁ参った・参ったです。

 幸いボディは未だ健在ゆえ、机を漁って古レンズ「EF28mm・MACRO60mm・100~400mm白レンズ」などの装着は、問題なくシャッターが切れた。思案の結果、当面はスナップ写真は28mm(52mm径)にND16(減光フィルター)付き(写真上。古いボディ・レンズも真っ黒フィルターで精悍な顔になった)とし、机上での複写・ブツ撮りは「SIGMA18~200mm」の新体制に決めた。

 iPoneにも戸惑った。「ios14にヴァージョンアップをどうぞ」のメッセージに対応したら、機能が随分変わったらしい。「白梅にメジロ」を撮ったらシャッター音が消えていて、撮った写真を観たらメジロが飛んでいて、階段の人を撮ったら、人が階段を昇る動画になってい、腰を抜かすほど驚いた。

 なんでも「LIVE」で撮った写真を「上へスワイプ」すると「バウンス」「ループ」「長時間露光」が選べるとか。「バウンス」が行ったり来たり、「ループ」ガ繰り返し動画(GIF形式)になるらしい。「入ったり出たり」の繰り返しエロ動画を見たことがあるが、それらしい。

 興味を覚えたのは「長時間露光」。かつてブログに「長時間露光のボケ効果(他人様の肖像権侵害防止)」に、ポケデジのレンズ前にサングラスをフィルター代わりに覆って「ISO80・F8・1/10秒」で、程よくボケさせるワザを記した(2020-05-06)が、この「長時間露光」は前後1.5秒ずつ3秒の「長時間露光」。

ihoneboke_1.jpg ちなみに新宿7丁目交差点を走行の「ホストクラブ宣伝カー」を撮って「長時間露光」したら、流れ過ぎ写真になった(写真下)。緩やかな人の動きならば「いい感じのブレ写真」になるかも。いろいろ試みてみたくなった。

 フィジカルの衰え・故障は、迫りくる死への覚悟が求められるが、デジタリ機器の新ヴァージョンは歳取りには酷だが、前向きに対処すれば「ボケ防止」になりそう。不用不急の外出自粛だが、ND16フィルター付き28mm広角で、はたまたスマホ・カメラの新機能を試しに、いざ街に繰り出してみましょうか。

 28㎜+ND16フィルターの長時間露光写真は別サイト「隠居お勉強帖」に「文1行+写真1点」でアップして行きます。 

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『文人悪食』『文人暴食』から『どくろ杯』へ [読書・言葉備忘録]

arasibunjin1_1.jpg 12月の2泊3日「前立腺癌の生体検査」(結果は癌細胞なし)で、血液に大腸菌が入る感染症で15日の入院を余儀なくされた。入院中に嵐山光三郎『文人悪食』も読んだ。これはブログ『泉鏡花』⑥で、同書を本箱から取出したままだったのが眼に入って持参したもの。

 著者の俎上に載るは37名で、既読は3分の1ほど。「黴菌恐怖症・泉鏡花」が麹町移転先ご近所に有島武郎(美形貴公子で波多野秋子と軽井沢別荘で心中)、内田多聞の項から読み始めた。腕に点滴、ペニスにカテーテルながら、著者の各文人の食へのこだわりから、その生と死を展開してみせる文章の冴えに感心しつつ読了。

 で、昨日のこと。ふと本棚を見ると同じ本が2冊~。先日も『資本主義の終焉と歴史の危機』を迂闊にも2冊購ったことに気付いてばかりで「またやったかぁ」と思ったが、よくよく見れば『文人〝暴食〟』だった。

 同書をひも解いた痕跡少なく、途中で投げ出したらしい。改めて幾編かを読んでみたが、やはり面白くない。同書執筆の著者に、他に心惑わせる何かがあったか、はたまた名だたる文人を下世話にぶった斬った不遜に気付いて、前作のように書けなくなったか~。

 そう思って似顔絵(各項冒頭に著者による文人の似顔絵掲載)を見ても、どこかなおざりの感がする。小生、ブログ「泉鏡花シリーズ」で著者と同じ資料から似顔絵を下描き(途中で興味失せアップに至らず)をしたので「フム、ここをこう描いたか」とまで愉しませていただいたが、同書の絵も心あらずと感じた。

 さて『文人暴食』の金子光晴の項を読むと「黴菌恐怖症・泉鏡花」に比して「黴菌大好き・金子光晴」とあった。晩年は「愉快なエロじいさん」で人気者。76歳刊の自伝『どくろ杯』が圧巻と紹介されていた。最近は政経系書を読んでいたので、その『どくろ杯』が読みたくなった。

 同書は金子光晴76歳で40年前の懺悔。氏は同書後に『ねむれ巴里』『西ひがし』と続く大三部作自伝を成したとか。まずは「牛込のボードレール・光晴」が、お茶の水の女子高等師範在学中の「森三千代」と牛込赤城元町の崖下三畳間で、二匹の蛇さながら執拗に絡み合う日々を経て子が生まれ、三千代に年下の男ができ、二人を引き離すようにアジアへ極貧放浪旅へ旅立つ~。

 読めば、安易に「エロじいさん」とは言えぬ巨人。『金子光晴全集』全15巻には凄い世界が展開されていそう。そう云えば彼を「エロじいさん」と記した嵐山光三郎も、一時期、タモリ「笑っていいとも!増刊号」にレギュラー出演で〝昭和軽薄〟と揶揄されていたことを思い出した。金子光晴の世界にちょっとだけ迷い込んでみたくなった。

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ソール・ライター写真集のアフォリズム [スケッチ・美術系]

saulleiter2_1.jpg 昔の「新宿中央図書館」の地に、今は「下落合図書館」が建っている。そこは高田馬場駅から「さかえ通り」に入って、神田川沿いの東京富士大学(平成14年までは富士短期大学〉の先にあって。昔よく通った図書館だった。

 その「中央図書館」が3年前に我家近くの閉校校舎(区立戸山中学)へ移転して来た。結果、我家から徒歩圏内に「中央図書館・大久保図書館・戸山図書館」が集中。(余談:「家を売って下さい」なる多数不動産家からの電話が多い。中古マンションだが立地が良く需要が多いのだろう、購入時より値下がりせず。執拗に売却を迫る電話には、こう言ってやる。徒歩圏内に図書館が三つもある地が他にあれば、ここを売ってもいいよ~と)

 さて下落合図書館へ行ったのは写真集『永遠のソール・ライター』が〝貸出可〟ゆえ。昨年春の渋谷Bunkamuraでの写真展の際に2冊の写真集があって、あたしが買ったのは絵の掲載が多かった2017年刊『ソール・ライターのすべて』だった。

 同写真展に併せての発売は『永遠のソール・ライター』で、同書を開いて最初に感じたのは写真ではなく、幾頁毎に掲載されてるアフォリズム。そんな「画+アフォリズム」に初遭遇したのは『辻まことの世界』だった。弊ブログでの「辻まこと」は伊豆大島で墜落「もく星号」から散らばった宝石を拾いに行った男として紹介だが、彼の『虫類図譜』や『ノイローゼよさようなら』は「イラスト+アフォリズム」構成で、例えば~

 熱いうちに叩くのは鉄だけです。熱し易い頭には潤滑油が必要。仕事は人を待つだけで、決して人を追ってはこない。小鳥の歌さえも騒音に聞こえるなら、アナタの神経のこずえは枯れかかっている。事件が興奮を作るのではなく、興奮が事件を作るのです。~など。

 さてソール・ライター両写真集に掲載のアフォリズムの幾つかを挙げてみる。それらは「写真家」と「生きる」に大別されるが、まずは「写真家」として~

 私が写真を撮るのは自宅周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも世界の裏側まで行く必要はない。いくつかの出来のよい作品は、近所で撮ったものだ。ストリートはバエレのようだ。何か起きるか誰もわからない。肝心なのは何を手に入れるかじゃなくて、何を捨てるかなんだ。まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている。時折見逃してしまうんだ。大切なことが今起きているという事実を。私の好きな写真は何も写っていないように見えて、片隅で謎が起きている写真だ。雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。あらかじめ計画して何かを撮ろうとした覚えはない。時折見逃してしまうんだ。大切なことが、今起きているという事実を。私は単純なものの美を信じている。もっともつまらないと思われているものに、興味深いものが潜んでいると信じているのだ。カメラを持って出かけて写真を撮る。瞬間を捉えるのが楽しいから。~など。

 次に「生きる」ことにも通じるアフォリズム。幸せの秘訣は、何も起らないことだ。取るに足らない存在でいることは、はかりしれない利点がある。私が大きな敬意を払うのは、何もしていない人たちだ。私は無視されることに自分の人生を費やした。それで、いつもとても幸福だった。無視されることは偉大な特権である。人生の大半をニューヨークで暮してきたけれど、ニューヨークを知っているとは思えない。ときどき、道を聞かれることもあるが〝よそ者なので〟と答えている。私はときどき無責任な人間になる。税金を払う代わりに本を買ったりする。自分がしていることに対して、深い説明を避けてきた。重要だと思われていることも、たいていはそこまで重要じゃない。大半の心配事は心配に値しないものだ。~など。

 私は常々、自分のブログが長文なのを恥じている。「絵+1行のアフォリズム」に憧れる。

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平成を振り返る(6) [政経お勉強]

sihonsyugi1_1.jpg さて、お勉強は行きつ戻りつ。再び水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』を読み返してみる。「資本主義=経済成長=利潤追求」で、資本主義の〝欲望〟は止まることを知らず。結果、富裕層が資産独占。そのしわ寄せが「格差・貧困」の形で弱者へ集中。かつての圧倒的多数=中間層をも蝕んだ。

 利子率は13世紀にローマ教会公認で生まれたそうだが、日本がそれに餞別をつけるようにゼロ金利へ。令和3年の今「10年国債利回り=0.06前後」。つまり資本主義の機能を失ったまま状態。投資は世界中に行き渡り、儲かる投資先もない。

 イタリア・ジェノバでは山頂までワイン畑が広がり、日本では最北地から山頂にまでウォシュレット普及のエピソードは既に紹介した通り。我家近所では海外観光客皆無もホテル建設が続いていて、リモート勤務推奨で電通本社ビル売却も、超高層オフィスビル建設は止まらない。

 後進国への投資で高利潤を得られなくなった投資家は「電子金融空間=IT(情報技術)+金融自由化(グローバル化)で資本を瞬時に各国へ飛ばしてキャピタル・ゲイン(売買差益)を貪り出した。さらに貪欲にレバレッジ(担保証拠金の何十倍相当の取引可能の仕組み)で稼ぐ浅ましさ。「アベノミクス」も実態経済にも関係なしのキャピタル・ゲインで株価が動いている。

 歯車が狂えば再びリーマン・ショックも起きかねず「バブルと崩壊」の繰り返し。崩壊すれば公的資金投入で大金融機関や大企業は救済も、中間層・非正規はリストラされて貧困層となり、生き残っても実質賃金は下がるばかり。

 著者は先進国の中で最も早く「資本主義の限界」に直面したのが日本と指摘する。1997年からずっと低金利。バブル崩壊も会見した。そこから生まれた新自由主義の「トリクルダウン」で真下の杯におこぼれは届かない。結局は富裕層の欲望主義に過ぎなかった。

 著者は、これら矛盾は資本主義黎明期から内包されていたもので「ゼロ金利は資本主義卒業の証し」と記していた。ではこの先どうしたら良いのか? 目下は解答なしだと記す。出来ることは、せいぜい「強欲・過剰」を控えつつ、新しいシステムの構築模索を続けるのみ、と突き放し。

 次に世界の資本主義分析。米国が「電子金融勇敢」で金融(資本)帝国で君臨した一方、陸の国=ドイツ・フランスはEUで「領土で帝国化」で単一通貨ユーロ導入。だがギリシャなどの財政危機、英国の離脱などで深刻さを増している。生き残るのはどっちか~

 小生は経済学者・哲学者・為政者でもなく、ただの長屋隠居(しかもボケ気味)みたいなものだから、そこからの難しい問題はわからない。ただ現代の私達が直面する「気候変動」や「コロナ禍」対応から、なんとなく新しい方向が見えてくるような気がする。「地球環境」では米国より先んじる欧州に注目。コロナ感染では各国の無理・矛盾が顕在化している。収束に成功した台湾から学ぶことも多そう。

 いずれにせよ「富の不均衡是正」と「教育の普及拡充」が大きなポイントにもなる気がしないでもない。我らの世代は高度成長やバブルで浮かれた時期もあったが、子供や孫らが希望を持てる世界になりますように願うばかり。小生に何が出来るだろうかと~。(このシリーズ完)

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平成を振り返る(5) [政経お勉強]

taisyu1_1.jpg イギリスのEU離脱(国民投票)、トランプ大統領誕生(大統領選)、日本では平気で嘘をつく安倍総理の長期一強を支えて支持率~。これら民主主義の結果をみていると、大衆は愚かだで、それも現実だと認識せざるを得ない。

 そう教えてくれるのは、なんと明治16年(1883=スペイン王制復古の最中)のマドリード生まれのオルテガ・イ・ガセットの、昭和5年(1930)発表の『大衆の逆襲』だった。時はウォール街からの世界恐慌(1929)翌年で、「スペイン内戦」(1936~39)直前。ヘミングウェイ『誰が為に鐘は鳴る』、ピカソ「ゲルニカ」の前。ドイツでは世界恐慌の不安に乗じたナチ党が国会選挙で第2党の議席を獲得した年だった。

 スペインは第一次大戦を中立で過ごすも、インフレで労働運動が活発化。それを鎮圧したリベラ将軍の独裁が続いて、共和制を求める民衆デモが各地に起ろ始めた最中の出版。マドリード大学教授になっていた彼が、当時の時代観察から「以前にはなかった〝群衆(蝟集)の出現〟が普通になったと注目して大衆を分析した。

 彼は大衆を、労働大衆ではなく「19世紀のデモクラシーと科学技術の落とし子」と捉え、特別な資質を有さぬ平均人の総体と捉えた。彼らは自分を特殊な価値と認めず、自分は「すべての人」と同じであると感じていて、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々を同一であると感ずることに喜びを見出している。自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々と捉えた。

 かつての(本来の)デモクラシーは、自由主義と法に対する情熱(自己に厳しい規律を義務付けた)で保たれていたが、今出現した大衆は「喫茶店での話題から得た結論を、実生活に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じている。そんな彼らが社会を支配するようになったと分析した。

 19世紀が大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるための手段を与えた結果、大衆人は過保護の「お坊ちゃま」と化し、自分をとり巻く高度で豊かな生の環境=文明をあたかもそれが空気のように自然物であるかのように錯覚し、かつ自分があたかも自足自律的人間であるかのように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない不従順で自己閉鎖的な人間と化した分析した(なにやら今のトランプ熱狂派の人々を説明しているようですし、日本の世襲議員もその典型のように思われます)。

 その結果、すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者を締め出す危険を帯びて来た、今はそんな残酷な実相を帯びてきたと記す(今のSNSに現われている現象のようでもあり)。今はそんな大きな存在になった大衆に求められるのは、政治の真の国民になるには、より積極的で深い「社会教育・国民教育」ではないか。大衆が深い知性を有して、初めて「真の政治は社会大衆のための、社会大衆とともに、社会大衆のゆえに存在するもの」になるのでは~と教えている。

 当時は財産均等化、文化程度の平均化、男女両性も接近しつつある中間層拡大・平均化にあっての大衆出現だっただろうが、オルテガ『大衆の逆襲』から91年後の現在は「欲望暴走の資本主義」によって「一部富裕層VS大衆(減少する中間層を含む非富裕層)=財産の不均衡化」構図になって、大衆は大きな矛盾と不満を抱いて悶々と生きて。それが民主主義の結果とも思えぬ国民選挙、大統領選挙、嘘で固めた保守党支持の結果を生んでいるように思えるのだが、いかがだろうか。今こそ「さぁ、もっと教育を、もっと勉強を~」というオルテガの声が聞こえてくるようです。

hottanigaoe.jpg なおオルテガはフッサール「現象学」をドイツ外に初めて紹介した一人とか。また弊ブログでお世話になった『方丈記私記』『定家明月記私抄』の堀田善衛はスペイン史の大家。彼のスペイン関連書『スペイン断章(上・下)』や『スペインの沈黙』などが読みたくなってきました。

 左絵は『定家明月記私抄』関連ブログ記事中で描いた堀田善衛の似顔絵。文字は同書冒頭に記された堀田の「世上逆追討耳に満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戒吾ガ事ニ非ズ」を省略したもの。

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