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牛込氏4)「赤城の丘」の思い出 [牛込シリーズ]

akagikitagake_1.jpg 「赤城神社」から「光照寺」へ。ちょっと寄り道をする。野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』の「牛込界隈」から面白い箇所を拾い書きする。

 ~嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若い日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。★荷風『夏すがた』(大正3年・35歳)は発売同時に発禁。妾宅を毘沙門天裏に構えて色事の日々。荷風さん、若い頃から〝覗き好き〟だった。

 (野田氏が20年前・昭和26年に書いた「赤城の丘」文章を振り返って)~赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の鬱蒼たる樹立はすっかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。

 (そして昭和46年の再訪で)~大きな標石が新しくなakagikitakaidan_1.jpgっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変わらず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたしの記憶通りと云ってよい。★現代のモダンな神社と対比すると面白い。

 (こんな記述もあった)~招忠碑の前から急な石段(写真中)が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖(写真上)に面した空地は、明治38年に坪内逍遥は易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらき、自作『妹山背山』を試演した「清風亭」という貸席があった。※その貸席が明治末に江戸川際「長生館」になり、逍遥の許を去った島村抱月や松井須磨子が、大正2年に同館で芸術座を起こす打ち合わせを密かに行った。二人が横寺町に設立した芸術倶楽部や人気演目の説明。そして同倶楽部二階で抱月がスペイン風邪で急逝、2ヶ月後に同館物置小屋で松井須磨子が後追い自殺した経緯を紹介。

 この牛込氏テーマが、東京女子医大創始者・吉岡彌生~もう一人の彌生(草間彌生美術館)~その道路反対側の多門院で松井須磨子のお墓を見たことから始まったゆえ、ご両人の足跡も気になる。

 (「白秋と〝物理学校裏〟」からは) ~大通りから南へ分れた登り坂の道は、以前は江戸以来の通称で「藁店」(写真下が現・藁店)と呼ばれていた。その坂に神楽坂キネマというセカンド・ランの洋画専門の映画館があったのも昭和のはじめのなつかしい思い出である。

waradane_1.jpg ここで野口冨士男『私のなかの東京』で補足する。~藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の「和良店亭」という小さな寄席があった。映画館の「牛込館」はその二、三軒さきの坂上にあって徳川夢声など人気弁士を擁して人気があった、と記している。★大正10年頃の「牛込館」は帝国劇場の内装。震災に遭ったかで明治には平屋の「牛込館」へ。★寄席は時代にとって「牛込藁店亭~和良店亭~藁店笑楽亭」などと名を変えている。

 さて、藁店(地蔵坂)をのぼって「牛込城」があったという「光照寺」へ行ってみましょう。

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牛込氏3)赤城神社 [牛込シリーズ]

akagijinjyae_1.jpg 鶴巻町「元赤城神社」から赤城元町「赤城神社」へ。そこは平成22年(2010)に三井不動産系住宅分譲会社+隈研吾設計で、境内に分譲マンション建設。現代風に様変わり。ここは勧請当時の「牛込氏」がテーマゆえ、まずは例によって『江戸名所図会』から。

 赤城明神社 牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野國赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云。往古、大胡氏深く此御神を崇敬し、始は領地に勧請して、近戸明神と称す。其子孫重泰(しげやす)当國に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし、其居住の地は牛込わら店の辺なり。先に弁す。祖先の志を継て此御神をここに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。当社始て勧請の地は目白の下、関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、是を赤城の森とよべり。

akagijinjya_1.jpg ※「江戸名所図会」には大きな別当寺「天台宗東覚寺」が描かれているが、今「東覚寺」はどこにあるや。※近戸明神=赤城山の麓の大胡神社が近戸明神と呼ばれていた。※「わら店」は現・毘沙門天脇から登る「地蔵坂」にあった藁店のこと。その先の「光照寺」辺りに「牛込城」があった。※目白の下、関口領の田の中=元赤城神社・田島森。

 そしてモダンな現・赤城神社の由緒説明は~ 後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十余年を経て寛正元年太田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内少輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。

 ※「正安2年(1300)」がまた出て来た。宿題です。※寛正元年は1460年。太田道灌の江戸城築城が長禄元年(1457)。その後に多数神社を江戸城周辺に勧請し、赤城神社遷座もその頃に行われた。

 芳賀著より補足する。大胡氏が現在地に天城神社を移した弘治元年(1555・天文24年)は、重行の子・勝行が北条氏康の重鎮家臣となり、正月に宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏に改めて牛込から赤坂、桜田、日比谷辺りまでも領していた。また勝行の子・勝重の妻に、江戸城の遠山綱景の娘を迎えていた。

 そして天正18年(1590)、江戸城が徳川家康に明け渡され、関東が家康領となり、牛込氏も徳川の家来になった。家康江戸入城に際しては牛込七ヶ村が川崎までお出迎え。その後で牛込城が廃城へ。牛込氏は一旗本になった。

 芳賀著は最後に~ 牛込氏について不明な点が多いのは、徳川に遠慮して史料を処分したため、かつ為政者も黙殺したせいかも知れないと記していた。次は「牛込城」があった地「光照寺」へ行ってみる。

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牛込氏2)元赤城神社と田島森碑 [牛込シリーズ]

motoakagijinjya_1.jpg まずは当時の歴史把握から~。「応仁の乱」を経て「東山文化」を創った足利義政・没が1490年。その後に戦国時代へ突入。

 関東では1457年に太田道灌が江戸城を築城。1486年に道灌が、内山上杉と扇谷上杉の対決で謀殺される。翌年から18年に及ぶ両上杉の戦い「長亨の乱」。上杉衰退で、北条早雲が1493~5年に伊豆や小田原を、1516年には相模を平定。早雲を継いだ北条氏綱が、反北条勢を打破して関東を掌握した。

 牛込氏は扇谷上杉側だったが、氏綱の江戸城攻め(1524)では北条氏に従った。『東京都の歴史』年譜に、1526年(大永4年)、北条氏綱が比々谷村の陣夫等を免除し、牛込助五郎に充(あ)て行う、とあり。つまり比々谷村(日比谷村)は北条氏の臣・江戸衆の牛込助五郎(=大胡・牛込重行)所領を意味している。1573年に室町幕府滅亡。

 では大胡(牛込)氏の牛込移住は何時だったか? 現・鶴巻町に大胡氏が故郷・赤城山中腹の赤城神社を勧請した「元赤城神社と田島森碑」がある。「江戸名所図会」の「赤城明神旧地」にこう記されていた。田畔小川に傍(そふ)てあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は神輿を此地に渡しまいらす。

 同神社「田島森碑」(写真の左石碑)には~ この宮處は古へ「田島の森」と云ひ、又、椚の大樹ありしを以て「椚の森」とも称へ。赤城元町にある「赤城神社」の旧址跡にて、今より六百三十一年前、後伏見天皇の正安二年といふに創めて赤城の大神を濟ひ鎮め奉りし處なれば、元赤城神社と称へ奉りき。そも牛込の地は北條氏菅領地たりし頃、牛込氏の領地なりしか。同氏は上野國赤城山の麓なる大胡の里より移り来しかは素より赤城の大神を尊び奉れり~(以下略)大胡氏が赤城山中腹の天城神社をここに勧請したと記されていた。

 芳賀著には~ 宗参寺の地が大胡氏最初の居住地。その北にある鶴巻町は「ツル=水路のある低地・原野+牧(巻)」で鶴巻町。水路のある低地原野の牧場の意で、大胡氏が管理していて、田島森に牧場守護の郷土・赤城神社をこの地に勧請と記しているが「正安2年(1300年)」(鎌倉時代)にクエッション。これは「赤城神社」現説明文にも「正安2年(1300)に上野國赤城山の麓から牛込に移した大胡彦太郎重治により牛込早稲田の田島村に創建された」と記されているが、これも年代的に合わない。牛込重行の出生は寛正6年(1465)。重行より前の世代と言っても、時代の隔たりが大き過ぎる。※ここは調べ直しが必要かも。

route2_1.jpg では当時の牧場管理とは? 「元赤城神社」には「江戸・東京の農業 神崎の牛牧」なる説明看板もある。~文武天皇(701~704)の時代、現在の東京中心には国営牧場が何か所もありました。大宝元年(701)の大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするため天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。ここ元赤城神社一帯にも官牧が設けられました。このような事から早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので「牛が多く集まる」と言う意味の牛込と呼ばれるようになりました。(中略)明治19年の資料によると牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町にはたくさんの乳牛が飼われていました。(平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業)※神崎とは?

 大胡・牛込氏は戦国武将であると同時に、牛飼いのボスでもあったらしい。芳賀著には、大胡氏は室町時代初期には牛込に移住していたのだろう。大胡での牧場管理経験があって、牛込の牧場管理・経営の任を関東管領足利氏、または執事・上杉氏の命で牛込に来たと思われる。その頃は宗参寺の弁天町、牛込、戸塚辺りまでを支配していたと推測している。

 牛込氏は室町時代(戦国時代前)のカウボーイのボスだったと思うと面白さが増す。宗参寺~元赤城神社~天城神社~牛込城があった現・光照寺を訪ねるルート図を添える。次は「赤城神社」へ向かう。

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牛込氏1)宗参寺の墓を掃苔 [牛込シリーズ]

sousanjisanmon_1.jpg 「祖心尼」から時代を遡って、「牛込氏」のお勉強です。我家から東方面は地名に「牛込」を冠する町名、駅名、学校、警察署、消防署、郵便局など多数。ウィキペディアに「牛込」冠名一覧あり。数えたら69もあった。

 今まではただ、昔々に牧畜が盛んだった地ゆえ~と思っていたが「牛込氏の牛込城があって、日比谷辺りも領していた」と知れば、お勉強しないワケにはいかない。

 東西線「早稲田駅」から早稲田通りを少し東へ行くと右側に「宗参寺」あり。嘉永年間の切絵図を見れば、「済松寺」と同じく、昔はもっと広かったことがわかる。山門に「牛込氏墓」「山鹿素行墓」の石柱。墓所に入ると「牛込家累代之墓」「大胡家之墓」そして慰霊塔と史跡案内板があった。

usigomesihaka2_1.jpg 牛込氏については、新宿図書館に『大胡系牛込氏の研究』(牛込博康著)、『牛込氏と牛込城』(新宿区郷土研究会)があるも、目下はコロナで閉館中。蔵書の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』『東京都の歴史』、そしてpdfからプリントした『牛込流江戸氏と牛込氏』(矢島有希彦・新宿歴史博物館研究員)を参考に牛込氏調べです。まずは「宗参寺」の史跡説明文から。

 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開祖である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡(おおご)の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によれば、大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。

 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔(くないしょうゆう)の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷、日比谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。(平成10年建設 東京都教育委員会)

 これに芳賀著で補足すれば~ 同寺は神楽坂の坂上近く「袋町」の牛込城(現・光照寺の地)の城主・牛込勝行が、父・重行(法号・宗参)死去(78歳)の翌年、天文13年(1544)に建てた。牛込氏先祖は、赤城山麓の上野国(群馬県)勢多郡大胡町の大胡城の城主・大胡氏。

 「寛政重修諸家請」には大胡重行の牛込移住は北条氏康の招きで~とあり、また「日本城郭全集」では天文6年(1537)前後に移住と推定されている。しかし勧請した赤城神社は応永9年(1402)にはあったゆえ、同社を勧請した大胡氏は室町時代初期には牛込に移住していたと思われると記していた。当時の歴史からお勉強し直してみましょう。(続く)

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牛込氏0)神楽坂で「リングワンダリンク」 [牛込シリーズ]

kiriezuhoi_1.jpg 調べごとで「神楽坂近辺」を歩いた。その日は気が急いていたか、体調が悪かったか~。何度も同じ所を回り、逆方向に歩いたりのミス繰り返しで、己に憮然とした。

 新型コロナに感染すると「味覚・臭覚障害」が出るらしい。近くに24名クラスター発生の「東京新宿メディカルセンター」(旧厚生年金病院。理事長は感染対策専門家会議副座長の尾身茂氏)がある。あたしに「三半規管障害」が出たのかと思った。

 後日よくよく考えれば出掛ける前に、西が上の嘉永年間「江戸切絵図」(写真上。外濠が左)を、北が上の通常地図(真北=経線が指す上。※磁北は約7°西寄り。写真中。外濠が右)を頭に叩き込んでいた。だがjyukuusigome1_1.jpg南が上の現地街路マップ(自分の立ち位置方位で表示。写真下。外濠が上)があり、さらに同地は「神楽坂商店街」がメインで坂上が上、坂下が下で描かれた垂直ガイド図が至る所に貼られていた。

 方位バラバラの各地図によって、方向感覚が狂ったらしい。地図の魔に幻惑されたらしい~とわかった。「こんなこともあるんだなぁ」と改めて思った。加えて大江戸線「牛込神楽坂駅」初下車も影響していただろうし、他の何よりも身体が覚え込んでいた地図がある。

 さて、この地図の赤線で囲った地域が、昔々あった「牛込城」だろう範囲で、家マークが牛込氏館があっただろう現「光照寺」(天保4年・1645に神田から移転)です。

 徳川家康が江戸に乗り込んで来る(天正18年・1590)まで、牛usigomejyo6_1.jpg込氏がここから眼下の赤坂・桜田・日比谷辺りまでを領していたとか。同地から反対側を見れば、今も「赤城神社」北面は崖上で、眼下に神田川~小日向までが一望で、そこもまた牛込氏が治めていたと推測すると、さぞ痛快だったのではと想像した。

 面白そうなので、牛込氏をちょっとお勉強したくなってきたので、まずは「宗参寺の牛込氏墓」から掃苔することにした。(続く) 

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「済松寺」以前。祖心尼の人脈。 [牛込シリーズ]

yamagahaka_1.jpg 芳賀善次郎著『新宿の散歩道』には「済松寺」の記述僅少。それも「鳳凰の池」中心の説明。同寺記述は~ 三代将軍家光が慶安元年(1648)に建立させた大寺である。「江戸名所図会」によると初期の領地は中里町、天神町、榎町にわたる広大な地域に広がっていて、建物もたくさんあった。建物は戦災にあい、境内の鳳凰の池も戦後は縮小された。

 以上で「祖心尼」の記述もない。だが「済松寺」以前の同地記述は散在していた。それを拾って時系順に組立てると~ この一帯は元・九州豊後のキリシタン大名・大友宗麟の子孫が住んだ大友屋敷跡。宗麟の子・義統(よしむね)は朝鮮征伐で戦線離脱。豊後没収で監禁された。子の義乗(よしのり)は家康に仕え、秀吉死後に恩赦。徳川秀忠の近侍となって筑波郡内3千石と「牛込に屋敷300石」を与えられた。

 義乗はキリシタンで36歳没。子の義親も27歳で死去。子がなく大友家は断絶。その後に大奥側近の御祐筆「大橋隆慶」が同地を含め牛込30町余を拝領。天保2年(1645)没で、翌年に「済松寺・祖心尼」に与えられた。

akibayui.jpg ついでに「祖心尼」経歴も多数サイト参考に簡単まとめ。天正16年(1588)に伊勢国岩手城(三重県)の城主・牧村利貞の娘として誕生。俗名「おなあ」。父が朝鮮出兵で戦死。父が懇意の縁で加賀藩・前田家に引き取られ、後の3代藩主・利常と幼少期を共に過ごす。長じて小松城主・前田家に嫁ぎ二児を授かるも離縁される。

 幼児を抱え、父が生前建立の京都・妙心寺の雑華院へ。同寺住職が叔父の一宙禅師。同じ妙心寺内の寿聖院に出家していた石田三成・長男がいて、両者から禅を学ぶ。その後、三成次女の夫・岡重政の縁結びで会津藩蒲生家重臣・町野幸和と再婚(岡も同家家臣)。娘「おたあ」を産むも、蒲生家は跡継ぎなくお家取り潰し。

 浪人となった夫と江戸へ。町野家に仕えていた山鹿家も随行。当時6歳の山鹿素行がいた。素行は林羅山に学び、祖心尼は叔母「春日局」の補佐役へ。祖心尼の娘が岡吉右衛門と結婚して後の「お振の方」を産む。「お振」が春日局養女となって大奥入り。家光側室になって産んだ「千代姫」が、尾張徳川2代目光友に嫁いだ。

 由比正雪は牛込城跡に道場を構えていたが、同地が正保2年(1645)に「光照寺」となり、済松寺境内の地を借りて移った。そこは済松寺から東榎町~天神町の約5千坪に10数棟。江戸川橋通りと早稲田通り交差点近くに「正雪物見の松」が大正時代まであり、大日本印刷榎工場の南東部が正雪学問所庭先の「正雪桜」が昭和5年まであった。慶安2年(1649)の花見宴で「丸橋忠弥」と陰謀を誓い合ったとか。「慶安の変」で「済松寺」のお咎めは寺領400坪没収で済んだとか。

 写真上は「宗参寺(早稲田)の山鹿素行墓」。写真下は「秋葉神社(矢来町)境内右の正雪地蔵尊」。なお丸橋忠弥墓は豊島区高田の「金乗院(目白不動)」にある。

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戸山荘のそもそも「済松寺・祖心尼」 [牛込シリーズ]

saisyouji1_1.jpg 「草間彌生美術館」前の外苑東通りと早稲田通りの「弁天町交差点」近くに、高い塀で囲まれた広い「済松寺(さいしょうじ)」がある。徳川3代将軍家光が祖心尼(そしんに)のために建てた臨済宗の大禅院。

 祖心尼は、弊ブログに登場の「尾張藩下屋敷=戸山荘」のそもそもに関係している。「戸山荘」は祖心尼が家光から拝領した広大地の一部、4万6千坪を尾張藩2代藩主・徳川光友に譲った(寛文9年・1669)ことから造園開始。その2年後に光友は幕府から8万5千坪を拝領するなどで計13万6千坪の大庭園になった。

 祖心尼は、なぜに家光から広大な拝領地を賜り、なぜその1部を尾張・光友に譲ったか。祖心尼は家光の乳母で大奥実力者・春日局の補助役から大奥実力者へ。祖心尼の娘「おたあ」が産んだ「お振の方=自証院」が家光側室になって「千代姫」を産み、千代姫が光友の正室になったことによるのだろう。

saisyojoe_1.jpg さて『江戸名所図会』から「蔭涼山済松寺」を読んでみる。~同所榎町にあり。京師(京都)妙心寺派の禅崫にして、本尊釈迦如来を安す。開山は心印正傳禅師、開基は素心尼(祖心尼の別称)なり。此尼は牧野兵部少輔政玄の女(小生注:牧村兵部利貞の娘)にして春日局と共に大将軍家昵近の侍女なり。当寺に御仏殿あり。芳心院(家光側室。現在は八王子にある)御別当を務む(此寺は芳心尼の開創なり)。御仏殿の前の池を鳳凰池と号く。霊亀水にて芳心院の池にありて、寛永の頃は御茶の水に掬さしめなふとなり。開山塔は養育院、是を預る。すべて僧坊六経堂鐘楼庫裏浴室等巍々然として、軒を連ね輪煥たり~。

saisyoji2_1.jpg 嘉永4年の切絵図を見ると、現在はかなり縮小されている。ちなみに荷風『日和下駄』(大正4年)に~牛込弁天町辺は道路取りひろげのために近ごろ全く面目を異にしたが~と記されている。

 家光公拝領から宝暦の大火、明治維新の廃仏稀釈(それで別当寺移転か)、大正4年頃の道路整備、昭和20年の大空襲~。その都度に再建・改築、敷地売却などで今日へ至るのだろう。今はコロナで閉門中。かつ中庭は非公開とか。だが現・駐車場から奥を伺えば深い森と「鳳凰池」がある雰囲気。谷を掘って山の趣を演出しての池らしい。

 荷風はまた「弁天町の裏の弁財天の裏通りに小流れあり。そこ根来橋という名を見つけ、江戸切絵図(大久保世山高田之図)に根来組同心屋敷のあったことを知る。歴史上の大発見でもしたように、わけもなくむやみと嬉しくなるのである」と記している。それは今も切絵図をひも解く者にも同じ気持ちが味わえる。

 なお祖心尼は山鹿素行、石田三成の遺児ら、由比正雪、加賀の前田家、京都妙心寺などと関係していて、歴史好きには興味尽きぬ存在らしい。目下小生は村松友視の「謎の人物・由井正雪。彼をそそのかす妖艶な女・素心尼~」なる帯コピーが踊る小説『由比正雪』読書中。

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検察庁法改正案反対意見書~の要約 [政経お勉強]

 今日のブログは「済松寺・祖心尼」予定も、東京新聞に昨日の検察庁幹部OBらによる「検察庁法改正案反対意見書の全文」が掲載されていた。その長文を、小生ブログ1回分に以下要約してみた。

 東京高検の黒川検事長は定年直前に、定年半年間延長の「閣議決定」で、今なお現職にある。安倍内閣は、検察庁法改正の手続きを経ずに、黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現・検事総長の稲田氏の後任に黒川氏を充てる措置~がもっぱらの観測である。この定年延長に法的根拠はなく、今なお黒川氏が現職という異常状態が続いている。検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されず、これに反する運用は過去に一度もない。

 検察官には起訴不起訴の決定権(公訴権)と、併せて捜査権がある。政財界の不正事犯も当然ながら捜査対象になる。時の政権の圧力が及べば、日本の刑事司法は適正公平の基本理念を失い崩壊しかねない。安倍首相は内閣だけで、法律解釈運用を変更した。

 これはルイ14世の「朕は国家である」をほうふつさせる姿勢で、三権分立主義の否定につながる。17世紀のジョン・ロックは著書に「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告した。

 現在、黒川氏を定年延長してまで対応する事案もない。今回の改正案は黒川氏定年延長の違法決議を後追い容認しようとするもの。検察人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を削ぐことが意図されていると考えられる。

 (ロッキード事件に触れて~)検察が委縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで政権の干渉を受けるようになったら、検察は国民の信託に応えられなくなる。正しいことが正しく行われる国家社会ではなくてはならない。

 今回の検察庁法改正案提出と続いた一連の動きは、検察の組織を弱体化して、時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きである。与党野党の境界を越えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

 以上、この全文要約アップが、著作権違反になる場合は削除します。検察庁の偉いOB、爺さんらが記した文章なんぞ読むに耐えねぇ~だろうと思っていたら、まぁ、遠山の金さんみてぇに胸ふるわせる肉声に近い文章で感動した。一方、安倍首相の語りはダメだ。長年の嘘答弁が沁み込んで、何を語ってもウソに聞こえる。「嘘と無知と無恥がこびりついている」と誰かが言っていた。

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草間彌生美術館とソール・ライターと~ [スケッチ・美術系]

kusama2_1.jpg 新宿には「東京女子医大」創始者・吉岡彌生さんの他に、もうひとり著名な彌生さんがいた。過日、かかぁが送られた来た『新宿区くらしガイド』を見つつ「あらぁ、あの水玉模様の草間彌生は原町在住ですって~」と言った。

 原町のどの辺でしょうか。大久保通り「若松町」から南側辺りに女子医大病院~河田町ガーデンがあり、「若松町」の北側辺りが原町1~3丁目。さらに地図を見れば「若松町」先の交差点「牛込柳町」左折の外苑東通り沿いの弁天町に「草間彌生美術館」があって驚いた。

 2017年10月開館とか。早稲田通りから「漱石山房記念館」辺りまで歩くことはまゝあるも、その先に同美術館が建てられていたとは知らなかった。前衛美術には興味薄い小生だが、同館サイトの草間彌生プロフィールを読んでいると、微妙に「ソール・ライター」とクロスしていて面白くなってきた。

 ライターは1923年生まれ。草間は彼より6歳下の1929年生まれ。草間のNY個展が1959年で、ライターはNYでファッション写真を撮り始めたのが1957年だった。ライターが五番街にスタジオを構えた頃に、草間はNYで裸体男女に水玉を描くなどの「クサマ・ハプニング」を展開し、1969年にはNY近代美術館でヌード・パフォーマンス。米紙が「これが芸術?」の見出しで報じたとか。草間は1973年にパートナーの前衛芸術家ジョゼフ・コーネルの死を契機に帰国した。

kusama1_1.jpg 一方のライターが、五番街のスタジオを閉鎖して隠棲したのが1981年。だが2006年(83歳)の時の写真集で俄かに再評価。彼は自室で寛ぐ多数女性のヌード写真を撮り、そのモノクロ紙焼きの上から、ガッシュで色彩豊かな作品を描いていた。2013年11月、89歳没の前年に映画『写真家ソール・ライター急がない人生で見つけた13のこと』公開で人気に火がついた。

 草間彌生は1993年(64歳)にヴェネツィア・ビエンナーレ参加で世界的に再評価。彼女の人生を描いた映画『草間彌生∞INFINITY』公開が2019年だった。

 小生、前衛芸術がよくわからない上に、同美術館もコロナ閉館中。草間彌生が理解出来ぬまま同館の道路反対側の「多門院」へ寄った。

 そこに「松井須磨子の墓」があった。松井須磨子は島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、彼女は後追い自殺をした。そこから小生は、スペイン風邪の最中に永井荷風はどう過ごしていたのだろうかと『断腸亭日乗』をひも解き、5月8日のブログに相成った。

 多門院より数軒隣に「精神研究所付属晴名病院」あり。草間氏は同病院で暮しつつ、近くのアトリエで水玉模様を描き続けたいたらしい。現在91歳。美術館も新宿図書館も再開されたら、改めて草間彌生のお勉強をしてみましょと思った。「吉岡彌生~草間彌生~ソール・ライター~松井須磨子(島村抱月)~永井荷風」とつながったお話でした。

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「狛蛇」の金運と健康 [散歩日和]

benzaiten_1.jpg komahebi_1.jpg「河田町ガーデン」と「東京女子医大」の裏の境界辺りの階段下に、小さな鳥居「金弁財天」があった。

 ムムッ、金網の中に「狛犬ならぬ狛ウンコ」。よく見るととぐろを巻いた蛇で驚いた。これは一体何だ!

 多数サイトで紹介されていた。「金弁財天(こんべんざいてん)」で「狛蛇」。この洞は元・松平白耆守(ほうきのかみ)の屋敷内にあったもので、東京女子医大の創始者・吉岡彌生さん他が尽力し、現在の地に再建とか。右の蛇は時計回り、左の蛇は左まわりのとぐろ。蛇は穀物を食う鼠を退治することから豊穣、金運をもたらすとか。

yayoisan_1.jpg この「狛蛇」は「宇賀神=人頭蛇身」に通じるのだろう。蛇の頭部が女性だったり、翁だったりする宇賀神が全国で祀られているらしい。

 一方「蛇」はギリシャ神話の医神「アスクレピオス」が持つ「蛇杖」から健康、長寿、不老の象徴。今注目のWHO(世界保健機構)のマークも中央に蛇が絡む杖がデザインされている。

 そんなことから女医の創始・吉岡彌生が、同神社再建に尽力したと推測される。東京女子医大の前身「東京女医学校・東京女子医学専門学校」が麹町飯田町から現在地に移転して来たのが明治36年(1903)。昭和5年〈1930)に1号館を建築。

 小生の息子が子供時代に盲腸で入院したのが、その古色蒼然な1号館だったが、今はモダンな新建築「彌生記念教育棟」となり、その角の案内板に「吉岡彌生」先生が写真入りで紹介されていた。今、全世界が「健康と金の危機」にある。「狛蛇」に守っていただきましょう。


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フジテレビ移転後の「河田町ガーデン」 [散歩日和]

kawadacyo1_1.jpg cx_1.jpg新宿で「バスタ新宿」の他に景色一変は「元フジテレビ跡~河田町ガーデン」だろう。変貌する様は遠くから眺めてきたが、改めて周囲を歩いて認識を新たにした。

 フジテレビが有楽町から河田町へ来たのは昭和37年(1962)。河田町時代が35年間で、台場移転が平成9年(1997)。河田町時代が全盛期で、台場へ移転すると『フジテレビはなぜ凋落したのか』『フジテレビ凋落の全内幕』が平成28年(2016)に相次いで出版された。

 小生は目ン玉マークのレコード会社の仕事が長かった。最初は浜松町・貿易センタービルで、市ヶ谷へ移転。同社も市ヶ谷時代が全盛期で、平成6年(1994)に中央区入船へ、4年後に港区虎ノ門へ移転。今は六本木でロゴマークも変更。テレビ局と同じく移転の度に低迷していった。音楽事業はまさに〝生き物〟。時流に乗れば多くのアーティストが寄って来て、勢いを失えば一気に去って行った。

 ちなみにフジテレビの「夜のヒットスタジオ」は昭和43~平成2年(1968~1990)。「オレたちひょうきん族」は昭和56~平成元年(1981~1989)、「おにゃん子クラブ」は昭和60~62年(1985~1987)。現在のフジサンケイグループは「都市開発・観光事業」が利益の半分を占めているらしい。

 フジテレビが河田町にあった頃は、自宅から徒歩圏内。歌手の取材を同局喫茶kawadacyo2_1.jpg店で、音楽番組のスタジオでの取材、またスタッフに「フジテレビ通り」の呑み屋に呼び出され、新宿三丁目の馴染スナックには同局下請け制作陣も多かった。目ン玉マーク・レコード会社の市ヶ谷時代は、小生も市ヶ谷に事務所を構えていた。

 現在のフジテレビ跡はUR賃貸住宅「河田町ガーデン」。41Fが1棟、17Fが1棟、8Fが2棟の計4棟。全816戸。41F棟の31~41Fは「東急ビューレジデンス」。1Kが18万円~2LDKが40~48万円程らしい。

 昔の「フジテレビ下通り」は「あけぼのばし通り」。その奥・女子医大裏辺りにはハングル文字の店が多く、韓国語が飛び交っていた。これは近くの「東京韓国学校」の影響だろうか。

 写真上は高層棟の「河田町ガーデン」。写真下は「あけぼのばし通り」から「河田町ガーデン」への階段風景。「念仏坂」は昔と変わらずあって、その角に「フジテレビ石標」が残っていた。

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荷風のスペイン風邪 [永井荷風関連]

matuisumako_1.jpg 大正7~9年、インフルエンザウイルス(スペイン風邪)のパンデミックがあった。世界で5億人が感染。死者推定1700万人~1億人とか。米国では50万人が死亡。日本では当時の人口5500万人で約2380万人が感染し、約39万人が死亡。

 著名人では東京駅・日本銀行本店設計の建築家・辰野金吾(64歳没)、画家・村山槐多(22歳没)、軍人・西郷寅太郎(53歳没、隆盛の嫡男)、島村抱月(47歳)ほか多数死亡。(ウイキペディア参考)

 そんな時期に永井荷風はどう過ごしていたかを『断腸亭日乗』から探ってみた。

 大正7年:39歳。『おかめ笹』執筆開始。3月、何となく風邪。8月、盟友・啞々や八重次も病む。11月、荷風再び風邪。筋骨軽痛を覚ゆ。平熱なれど目下流行感冒猖獗の折り、用心して夜具̪敷延べて臥す。16日、なお病床。その後に余丁町邸を売り渡す交渉。家具始末など多忙。28日、突然の悪寒で臥す。12月、築地に仮居。同夜、妓・八重福「無毛美開、閨中欷歔すること頗妙」。その後も八重福お泊まり続きで荷風さんのお盛んなこと。

 大正8年:40歳。正月、風邪未痊えずも、八重福との情交ますます濃なり。俄かに春の來れる心地す。八重福を養女にせんと身元を探れば食わせ者とわかる。5月3日、召使ひたる老婆「しん」病死。荷風家に20年余も仕えて60歳を越えての死(スペイン風邪だろう)。それでも有楽座、帝国劇場、新富座、歌舞伎座など観劇。8月19日、風邪。9月10日になっても癒えず。11月、麻布市兵衛町の新居を見る。12月14日、微熱あり。

 大正9年:41歳。正月12日、夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。13日、体温40度。四谷の妓が泊りがけで看護。15日、大石医師が朝夕診察。翌日も熱去らず。昏々として眠を貪る。17日、大石君来診。19日、万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。21日、大石君来診。気遣ふに及ばずといふ。22日、悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。その後、3月20に発熱38度したりするが無事に回復。5月23日に普請+白ペンキの麻布「偏奇館」へ移居、荷風さん新生活をスタート。

 スペイン風邪のパンデミックは、3年も続いていたことがわかる。第2波、第3波とぶり返したのだろう。また当時の日本は、今のスウェーデンと同じく「集団免疫」でやり過ごす他になかったのだろう。そして今の日本の政府・厚労省もPCR検査を増やそうとせず。世界中で稼働の「PCR自動検査機」が日本製だというのに「アベノマスク」に続く愚かさをいつまでも続けるのだろうか。今年5月7日現在のコロナ世界感染者数3,588,773人、死者247,503人。日本の5日現在の感染者数15,192人は全く信用できずで、死者は543人。

 写真は大正7年にスペイン風邪に亡くなった島村抱月へ後追い自殺した松井須磨子(翌年1月5日、34歳)の墓(新宿区・多門院)。遺書に抱月と一緒に埋葬をと記すも叶わず。同情した方々が「比翼塚」(写真右の自然石)を建てた。何故にここで松井須磨子お墓写真をアップかはいずれまた~。

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スローシャッターの裏技 [ブログ&アクセス関連]

sunglasses_1.jpg 人物をスローシャッターで流し撮れば、ブログアップの際にモザイクを施す必要がない。小生は目下、破棄寸前の古いコンデジを持ち出して「街スナップ」を始めているが、このカメラでは目一杯の「ISO80、F8.0」で1/10秒シャッターとなれば、日中撮影は完全に色飛び、いや露出オーバーで真っ白になる。

 「一眼レフ+NDフィルター」が良かろうも、一眼レフでは重い。お散歩カメラはポケットに収まるのが理想。ならば最新コンデジの「NDフィルター内臓」に買い換えか。いや買えばいいってぇのは安易過ぎる。

 そこで貧乏隠居の小生は頭を絞った。「うむ、サングラスでコンデジ・レンズを覆ってみたら~」。手許に「Colemanサングラス」ありで、それで実験してみた。そしたらどうでぃ~。「1/10秒」で自転車はブレ融け出して、歩く人はいい感じでボケてくれた。

 今度は「1/10秒」で手持ち・ピントのチェック。水玉模様の建物前で、胸ポケットからサングラスを出し、カメラkusaslow_1.jpgレンズを覆ってみた。手前の走行車は完全に流れ、歩く人はいい感じでボケて、「水玉」はしっかりと撮れていた。

 老いても未だ手の震えなし。いや、カメラの「手ブレ補正」が優秀か。小生は写真家でもなく、容量を小さくしてのブロクアップ写真ゆえ、これで充分。

 以上、小生が編み出したスローシャッター裏技でした。なお「水玉模様の建物=草間彌生美術館」については、またの機会に~。

 追記:とうとう一眼レフにND16フィルター装着で撮り出したが、重い・シャッター音がイヤで、ㇷと思い付いたんです。現像後のカラーネガフィルム未撮影分をポケデジ・レンズの上に張り付けた。「アレ・ボケ・ズレ」にはこりゃ、いいやぁ~です。タダだし、各種ネガがあるし~。付けるのはセロテープでOKで撮ったり外したりできるしね。

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バスタ4:その全貌把握 [散歩日和]

bustmeisyo.jpg バスタ1~3は、新宿南口から入っての見学記。それでは建物構造が把握し難く、南側の架橋「イーストデッキ」から「バスタ新宿~NEWoMan~JR新宿ミライナタワー」全貌を撮って、そこに矢印・文字挿入で説明してみた。(クリック拡大で文字がハッキリします)

 なお、5月に入ってからコロナ感染を知りながら「バスタ新宿」を往復利用した大馬鹿者がいたことが判明した。「Stay Home」しましょ。(バスタ、これにて完)

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バスタ3:電車見学の親子がいて~ [散歩日和]

basuta2_1.jpg 未知の建物探検は、ちょっと胸ときめく。「バスターミナル」階の南側通路から階下を見ると、その細長い広場に電車見学の親子がいた。その微笑ましい光景を俯瞰で撮らせていただいた。

 母子の階下は、ちょっと広いウッドデッキ風広場が造成?中(今頃は完成しているかも知れない)。

 そしてバスタ再訪。最初は南側通路を西(サザンクロス)へ向かったが、その時に東側通路でカメラマンがモデル撮影中だったことを思い出して、東へ進んでみた。

 おや、何ということでしょう、植栽の小広場から6階屋上の「芝生広場」へ、7階の「屋上庭園」への階段が続いていた。

 「芝生広場」(写真下の右)は庭作業中で入れなかったが、この芝生で寝転んだら気持ちが良さそう。さらに7階への階段途中から眼下を見ればバスターミナル場、視線を上げれば新宿西口の高層ビル群。左に眼を転じれば「タカシマヤタイムズスクエア」裏側(写真下左)は、ちょっと外国の街っぽくて、ここでのモデル撮影も納得です。

 また各階テラス片隅には、知っている方だけがこっそり楽しんでいる「秘密の静寂テラス」風でランチの方、スマホに見入る方、昼寝のbustur3_1.jpg方~それぞれが寛いでいた。

 東京生まれ・育ちの小生には、帰省で長距離バスに乗る機会もなく「バスタ新宿」にお世話になることもないが、新宿高島屋の「東急ハンズやニトリ」での買物疲れの小休憩に丁度いいようでございます。(バスタ4へ続く)




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バスタ2:旅立つ女 [散歩日和]

 エスカレーターで4F「バスターミナル」へ。その南側に通路あり。西奥のベンチで、バス出発前に弁当を掻き込んでいる女性がいた。そこから階下の小広場へ。両脚の間に大きな旅行鞄、スマホに見入る思案顔の女性がいた。故郷へ帰るのだろうか。ちょっといい写真だが、ここはモザイクです。

追記:5月4日、コロナ感染がわかっていながら「バスタ新宿」を利用した大馬鹿女が現れた。写真はずっと以前に撮ったもので無関係ですが、同世代風の女性だったので、誤解されたくのないので削除しました。コロナ終息後に再アップしましょうか~)

 その南側通路からの展望が写真下。眼下にJR新宿駅全線。先方に線路を跨ぐ「イーストデッキ」。正面に代々木ドコモタワー、左がタカシマヤタイムズスクエア。右に小田急ホテルセンチュリータワー、JR東日本本社など。

 後日、再び同ビルを訪ねると〝旅立つ女〟がいた小広場は、右へ行くと「サザンテラス」につながっていて、左へ行けば階段下が高島屋JR側広場・NEWoMan出入り口につながっていることがわかった。

bust3_1.jpg その小広場より1段下の架橋部が大きなテラスデッキ風広場に作業中。ちょっといい感じの広場になりそう。そこから振り向き見上げれば「バスタ新宿」は隣の7階建て「NEWoMan」、さらに直結「JR新宿ミライナタワー」(地下2階、地上32F)につながっているとわかった。次回訪問で探検してみましょう。

 同夜、かかぁが「おまいさん、昔の〝演歌の花道〟だよぅ」。観れば若い森進一が<スーツケースに腰をおろして(略)小雨色したバスターミナル(略)夢さ~幻さ~摩天楼に灯がともる~>と唄っていた。松本隆作詞/細野晴臣作曲/細野・坂本龍一編曲『紐育物語』。(バスタ3へ続く) 

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バスタ1:走る女 [散歩日和]

hasirumosaic.jpg 「Stay home」。PC保存写真からブログアップです。小生は新宿暮しも、新宿を熟知とは参らぬ。西口高層ビル群のオフィスで働いたこともなく、新宿駅南口に4年前(2016)開業の「バスタ新宿」へも行ったことがない。

 過日、南口正面の横断歩道を渡り、思い切って正面の「バスタ新宿」エスカレーターを昇ってみた。そこは3F「タクシー乗り場」。窓ガラス越しに「新宿ルミネ2」側を見ると、手描き文字「TODAY'S SPECIAL」の前を、水色の傘の女性が走っていた。(写真上)

 (モザイクを施したが、後でスローシャッターならば画像が流れてモザイクの必要もなし~と気付き、スローシャッターの裏技を発見したが、その紹介はいずれまた~)

todays9_1.jpg さて「ルミネ2」壁面の手描き文字は「インテリア・生活雑貨」店のロゴマークで〝本日のおすすめ〟の意だろうか。

 屋内窓ガラス越しだから、雨や強風時にソコを通る人々を撮ったら、相当に面白い写真が撮れそうだが、そんな日に外出する気にもなれず。後日、天気の良い日に甲州街道を渡った側から「TODAY'S SPECIAL」ロゴを全部入れて、その前を歩く人を撮ってみた。(写真下)

 次に上階「バスターミナル」へ。今はコロナ緊急事態宣言で閑散としているだろうが、あたしが行った時は、まだ「旅立ち」のシーンがあって~(バスタ2へ続く)

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