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フジテレビ移転後の「河田町ガーデン」 [散歩日和]

kawadacyo1_1.jpg cx_1.jpg新宿で「バスタ新宿」の他に景色一変は「元フジテレビ跡~河田町ガーデン」だろう。変貌する様は遠くから眺めてきたが、改めて周囲を歩いて認識を新たにした。

 フジテレビが有楽町から河田町へ来たのは昭和37年(1962)。河田町時代が35年間で、台場移転が平成9年(1997)。河田町時代が全盛期で、台場へ移転すると『フジテレビはなぜ凋落したのか』『フジテレビ凋落の全内幕』が平成28年(2016)に相次いで出版された。

 小生は目ン玉マークのレコード会社の仕事が長かった。最初は浜松町・貿易センタービルで、市ヶ谷へ移転。同社も市ヶ谷時代が全盛期で、平成6年(1994)に中央区入船へ、4年後に港区虎ノ門へ移転。今は六本木でロゴマークも変更。テレビ局と同じく移転の度に低迷していった。音楽事業はまさに〝生き物〟。時流に乗れば多くのアーティストが寄って来て、勢いを失えば一気に去って行った。

 ちなみにフジテレビの「夜のヒットスタジオ」は昭和43~平成2年(1968~1990)。「オレたちひょうきん族」は昭和56~平成元年(1981~1989)、「おにゃん子クラブ」は昭和60~62年(1985~1987)。現在のフジサンケイグループは「都市開発・観光事業」が利益の半分を占めているらしい。

 フジテレビが河田町にあった頃は、自宅から徒歩圏内。歌手の取材を同局喫茶kawadacyo2_1.jpg店で、音楽番組のスタジオでの取材、またスタッフに「フジテレビ通り」の呑み屋に呼び出され、新宿三丁目の馴染スナックには同局下請け制作陣も多かった。目ン玉マーク・レコード会社の市ヶ谷時代は、小生も市ヶ谷に事務所を構えていた。

 現在のフジテレビ跡はUR賃貸住宅「河田町ガーデン」。41Fが1棟、17Fが1棟、8Fが2棟の計4棟。全816戸。41F棟の31~41Fは「東急ビューレジデンス」。1Kが18万円~2LDKが40~48万円程らしい。

 昔の「フジテレビ下通り」は「あけぼのばし通り」。その奥・女子医大裏辺りにはハングル文字の店が多く、韓国語が飛び交っていた。これは近くの「東京韓国学校」の影響だろうか。

 写真上は高層棟の「河田町ガーデン」。写真下は「あけぼのばし通り」から「河田町ガーデン」への階段風景。「念仏坂」は昔と変わらずあって、その角に「フジテレビ石標」が残っていた。

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