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日本語(10)濁点記号〇〇が〃になる。 [くずし字入門]

dakuten_1.jpg 小池著のⅤ章は「近代文体の創造 夏目漱石」(近代小説家らの文体・日本語論)。Ⅵ章は「日本語の文法の創造 時枝誠記」(日本語の現代文法成立の過程を紹介)。ここは濁点疑問から離れるのでスルーする。

 最後に山口著『てんてん』より第六章「訓読と濁点」を読む。菅原家に対する藤原家の「冬嗣」(恒武天皇に信頼厚く左大臣まで出世)が創った大学寮「勧学院」の故事成語に「勧学院の雀は〝蒙求〟を囀る」(蒙求=もうぎゅう、中国語初学者向け教科書)。これは例えば、学生らが「秋収冬蔵」を中国語で「ツユゥツユゥ・チュウジュオウ」と覚え読むので、雀が囀っているようだの意。当時は中国語発音教師〝音博士〟なる渡来人がいたと説明。

 しかし遣唐使廃止後は「日本語で漢文を読む訓読」になって数字や返り点、さらに漢字の四隅に「ヲコト点」付きで読ませるようになる。「日本語英語」ならぬ「日本語〝漢文〟」。日本人が作った最古の漢和辞典は『新撰字鏡』(僧侶・昌住の著。898~901刊)。現代の漢和辞典と同じく部首分類で編集。音読み、万葉仮名で日本語の訓読み。これは経典を日本語で読むための辞書。

 次に作られたの辞書が『和名類聚抄』(源順著、931~938)。万葉仮名の日本語読み。次が「いろは」検索の『色葉(いろは)字類抄』。漢字の音読みをカタカナ表示。例えば「雷」は「ライ」。訓読みで「イカツチ」。別頁の「雷」には音読み「テン」。訓読み「イナツルヒ・イナツマ・イナヒカリ」。

 平安中期1100年に『類聚名義抄』が登場。これはアクセント記号、濁点記号付き。アクセント記号が(→)や濁音〇記号が付けられている。小生が確かめれば(写真)、カタカナの左上や左下に「〇〇」印あり。ヒクラシ、ヒコホシ、ヒクレ、ヒケなどに濁点〇〇印があるのがわかる。

 この濁点記号が、後に濁点(〃)になると説明。例えば「油=阿布良(万葉仮名)」で「布」横の平音位置に「〇〇」で「ブ」と読むという印付き。

 次に言葉が二つ合わさっての「連濁」は『万葉集』当時からあって「竹竿(タケザオ)」、「神棚(カミダナ)」「島々(シマジマ)」など。この連濁は幽霊のように時代や方言によって現れたり現れなかったりで一定ではなかったと説明。また江戸弁になると「でぇこん(大根)・でえく(大工)などやたらに濁点が多発されるようになったと説明。

 未消化・理解不足ながら、この辺で「てんてん」のお勉強を終了します。なおこのシリーズのカットはすべて国会図書館デジタルコレクションより。

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日本語(9)儒教批判と和歌文学の本居宣長 [くずし字入門]

motoori2.jpg_1.jpg 小池著のⅣ章「日本語の音韻の発見 本居宣長」を読む。本居宣長(もとおりのりなが)。江戸中期の国学者。内科・小児科医。35年を費やした『古事記伝』、「源氏物語」の注解『玉の小櫛』、歌論など多数。外来の儒教を批判して和歌文学(もののあわれ、恋愛歌)、古道、神道論、近代考証学を追及。また五十音図など日本語の音韻を明確化した。小林秀雄、丸谷才一らが『本居宣長』論を著わしている。

 著者はまず「母音・子音」の歴史から説明している。小野篁が拒否した最後の遣唐使(承和5年・838)に、最澄に師事の44歳円仁(えんにん)がいた。唐滞在9年。真言(密教の呪術的語句)の正確な発音を求めてインドの発音(サンスクリット語=梵字)の発音一覧表「悉曇章」を請来し、『在唐記』を刊。仏典など計423部・559刊を書写。その波乱万丈の旅日記『入唐求法巡礼記』は日本初の本格旅行記。中公文庫、東洋文庫あり。他に講談社学術文庫は元米国駐日大使ライシャワー氏の著作。(本居宣長、円仁のお勉強が新たな宿題になってきた)

 なお山口著には、空海が請来した悉曇学書は『悉曇章』『大悉曇章』『羅什悉曇草』『瞻波城悉曇章』『七曇字記』『悉曇釈』で、サンスクリット語から日本語になった「ulambane=盂蘭盆」「stupa=卒塔婆」などの例を紹介していた。写真下は『悉曇字記』例。これは梵字を漢字翻訳した音訳書で、喉声(唇音)は5字。この梵字は「波(ハ)」と発音すると記されている。

sittanjiki.jpg_1.jpg 唐末~五代の頃の『韻鏡』に、横軸に声母(日本の子音)、縦軸に韻母(日本語の母音)で構成した図表があり、ここから平安時代に母音5字×子音10字の日本語50音図が考案された。日本に現存する最古の「五十音図」は11世紀初期に経典の読み解き方を伝える附録に「ア行・ナ行なし」の『孔雀経音義』もあったと説明。

 そして慶長9年(1604)にジャアン・ロドリゲス(ポルトガル出身イエズス会宣教師)著の『日本大文典』が、ローマ字50音図で「あいうゑを」を発表。それらを訂正したのが元禄6年(1693)の契沖『和字正濫抄』で「安(あ)・以(い)・宇(う)・江(え)・遠(を)」を発表。この頃に初めて「五十音図」なる言葉が使われたと説明。

 そして安永5年(1776)に本居宣長が『文音仮名字用格(もじごゑのかなつかい)』で「お=ア行」「を=ワ行」とし、「いろは47字」を定めたと説明。宣長は他に『てにをは紐鏡』や特殊仮名遣いの『上代特殊仮名遣』も著わし、現代に通じる音韻を確立したと説明。隠居の頭では理解も大変だが「くずし字」に親しむには、こんな歴史も知っておきたい。このシリーズは次回で終了です。

 カットは「肖像(野村文紹著)」より本居宣長。カット下は『悉曇字記』より波(ハ)の説明頁。

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日本語(8)「仮名遣い」の創始・藤原定家 [くずし字入門]

sadie_1.jpg 小池著のⅢ章<日本語の「仮名遣」の創始・藤原定家(さだいえ)>を読む。定家は平安末期~鎌倉初期の歌人・歌学者。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』などの撰。歌論書、また多数仮名文の筆写を経て「定家仮名遣」を考案。歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与。

 藤原定家は和歌の家、御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』編集を命じられて、息子・定家を参加させた。(小生注:鴨長明は定家より8歳年長。後鳥羽院に認められて「和歌所」寄人になっていたが、撰者6名から外され十首入集のみ。その後に〝隠棲〟した。『方丈記』を読むと、彼らの時代は戦乱・大火・地震・大飢餓・福島遷都・源平合戦~の激動期とわかる。)

 定家はそんな時代に身を潜めるように文献書写に専念していたらしい。生涯を通じた書写は仏典19種、記録類など9種、物語や日記は『源氏物語』他5種、歌関係が30種。そして56年間に及んだ日記『明月記』を遺した。

 定家59歳、後鳥羽院(40歳、翌年から上皇で23年間にわたって院政)の逆鱗に触れて突如の閉門。宮廷保護に頼らぬ研鑽、膨大な書写をもって和歌の二条家、御子左家を興し、校訂力を磨いての『定家仮名遣』(『下官集』など)を考案、定着させた。「を」は高い発音で、「お」は低い発音で~などの使い分け。他に「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 一方、後鳥羽院は鎌倉幕府・北条義政へ兵を挙げた「承久の乱」で隠岐へ配流。また「定家仮名遣」は僧侶の世界にも変化を及ぼした。寛和元年(985)に天台宗の恵心僧都(えしんそうず)源信が漢文『往生要集』を著わすも、庶民へ広めるには漢文では役に立たずで、彼も仮名主体の『横川法話』500字余りを著わした。法然もまた『仮名法語』を著わし、弟子・親鸞も「漢字平仮名混交文」を著わした。

 定家と同時代の天台座主慈円も歴史書『愚管抄(ぐんわんせう)』もまた適度に漢字、意識的に仮名を使い、しかも主格助詞「ガ」用法は近代語と同じレベルだと指摘。また慈円は『平家物語』の成立にも関与して、美しい韻律を有した抒情的和漢混交文の傑作に関与したらしい。

 なお〝仮名遣い〟は、後の元禄期の僧・契沖によって定家とは理論の異なる「歴史的仮名遣」が生まれ、明治以降の学校教育採用に至るが、13世紀の藤原定家はじめの活躍で、日本語のあるべき姿、スタイルの基礎が出来たと言えそうです。カットは藤原定家(権中納言定家)。江戸後期の「肖像集」より)

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日本語(7)和歌に「濁点なし」の理由 [くずし字入門]

 

 mototune.jpg_1.jpg 藤原定家は、かくして「和漢混交文の時代」へ導くが、山口著『てんてん』の主題〝濁点〟について。平仮名の『古今和歌集』は905年。980年の『宇津保物語』には「漢詩は楷書、青い色紙に草書体、赤い色紙に仮名文字」の記述ありと説明。さらに仮名に5種類の書き方ありの記述があって「男手=万葉仮名」「女手=平仮名」「男手・女手でもない=草仮名」「片仮名」「葦手=装飾的文字」ありと記されていて、当時はさまざまな書き方が混在していたと説明。ちなみに『宇津保物語』は作者不詳で〝婚姻がらみ皇位係争〟を語る最古の長編小説。

 万葉仮名は「濁音と清音」を漢字で書き分けていたが、「草仮名~ひらがな」へ移って、濁音は「〃」の補助記号を使って書き表わされた。だが次第に「濁点なし」へなるのは、宇多天皇即位後の「阿衡(あこう)の紛議」が影響していたと指摘。

 藤原公清から代々天皇の実験を握ってきた藤原北家の藤原基経(もとつね)が、嵯峨天皇崩御45年後の宇多天皇の代で、橘広相(ひとみ)と「阿衡の紛議」勃発。原因・経緯は省略も「広相が受罰」。基経が関白太政大臣になって権力集中。「広相を遠島」に反対したのが菅原道真(みちざね)だった。

 当時は娘を天皇に嫁がせ、天皇外戚となって要職独占の「摂関政治」が展開。小生補足すれば、藤原基経の妹は清和天皇の皇太后だが、清和天皇が子を産ませた女性は25名。多数子孫を「清和源氏」として臣籍降下。広相の娘も宇多天皇と結婚。菅原道真の娘も宇多天皇の女御。その前の嵯峨天皇の相手も25名で子が50人。32名の子に「源」の姓を与えて「源氏」誕生とか。為政者の性と権力が絡み乱れ爛れて、その反省・浄化もあったと推測する。

 かくして「摂関政治」で実権を失った以後の天皇は「あぁいやだ・いやだ」と穢れを避け、浄化に道を求めて住居を「清涼殿」と命名。著者はこれによって中国にはない〝穢れを避ける意識〟が日本に生まれ、それが日本語にも影響したのでは~と説明していた。

 後の本居宣長はそれを「濁った世の中に現われる蓮の花=もののあはれ=物事に触れて心にわき上がるしみじみとした感情=王朝文化=『源氏物語』や和歌に秘められた」と語っていると説明。

 和歌にそんな流れが生まれて「ごみ・ぶた・どろ・げろ・がま」など濁音で始まる言葉を「穢い、下品」と避け「優艶さ・浄化美」を求める風潮へ。和歌という場の雰囲気に「濁点」がそぐわない感覚が育まれたのではないかと指摘。

 以後、公的文書記録は誰が読んでも間違えない漢文で書かれ、文学(私的で女性的)は平仮名で書くようになった。だが「仮名」は読む人によって誤解を招きかねない点を残し、その危うさもまた味わいになったと記す。カットは菊池容斉『前賢故事』(明治1年)の挿絵「藤原基経」。

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日本語(6)仮名は読み次第~和漢混交文へ [くずし字入門]

takamura_1.jpg 再び山口著『てんてん』に戻る。第三章「かな前夜」、第四章「聖なる世界が創られる」を自己流まとめ。まず著者は「仮名」の前に「章草体」ありと紹介。唐全盛期の玄宗皇帝の手紙も、空海書も「章草体」。その写真を見ると漢字を崩し書いたような「草仮名」へ至る過程の形と思える。そして小野篁(たかむら)の孫・道風の書は「草仮名」。さらに「平仮名」に近くなっている。

 小野篁が登場すれば、嵯峨天皇(上皇)との逸話も欠かせない。空海没後の承和3年(836)遣唐使副使に任命された篁。2度の難破。3年後3度目に、篁はもう唐の時代ではなく、自国文化を築く時と遣唐使を拒み、遣唐使の無謀を漢詩に書いて嵯峨天皇が激怒。隠岐島へ流刑された。写真は小倉百人一首(菱川師宣・画)の参議篁の歌。「和田(海)の原八十嶋かけて漕出ぬと 人にはつけよ海士のつりふね」。隠岐へ向かう時に詠んだ歌。

 2年後に許されて後は要職を歴任。嵯峨天皇との間では、こんな逸話も有名とか。天皇がこれを読めるかと「子子子子子子子子子子子子」を出題。篁は「子=ね・こ・し」と読めることから「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いた。(「宇治拾遺物語」収録逸話らしい)

 同じような仮名の読み違いの有名逸話。蒔絵師が詠んだ。「たたいまこもちをまきかけてさふらへはまきてさふらひてまゐりさふらふへし」(只今御物を蒔き掛けていますので、蒔き終わってから伺います)を、高倉天皇の皇女坊門院範子の台所女房が「只今女房を抱いていますので、ことを済ませてから伺います」と解釈。(「古今著聞集」収録逸話らしい)。山口著は「こもち=御持=御道具。まく=枕く」。小池著は「こもち=女房、まく=婚く=情交」と読み違えたと説明。

 以上から山口著は「仮名は読みなし。解釈がさまざまにできる。しかも笑い、きわどさ、哀しさとも言えぬ複雑な「もののあわれ」を滲ませて「憂き世=仮の名(仮名)」に通じると説明。

 これに関して小池著<日本語の「仮名遣」いの創始・藤原定家>で、定家はこうした仮名文の支障に悩んで「日本語を書き表わすには、漢字だけでも駄目であり、仮名だけでも駄目である」と結論。かくして定家は心血を注いで「和漢混交文」を考えた。結果は漢字の比率を仮名文より多めにすることによって、漢字が文意の把握を容易にし、文のまとまりを示し、文節の始めを示し、文の構造を把握しやすくなるとした。日本語はかくして「和漢混交文の時代」へ入って行くと説明していた。

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日本語(5)和文の創造・紀貫之 [くずし字入門]

kokinkanajyo_1.jpg 続いて小池著のⅡ章「和文の創造・紀貫之」を読む。奈良時代に大伴家持(やかもち)らによって天皇~乞食までの歌が網羅された『万葉集(一大国民歌集、万葉仮名)』が生まれた。(2)で「吾勢子波借盧作良須草無者小松下乃草苅核」の一例を紹介済。

 そして平安前期、紀貫之(きのつらゆき)らによって、今度は貴族・僧侶中心の平仮名『古今和歌集』(延喜5年・905)が生まれた。紀貫之の一首は紹介済だが『古今和歌集』には有名な「仮名序」、漢文の「真名序」あり。「仮名序」冒頭(写真左)を読んでみる。「やまとうたは人の心をたねとして よろ川のことのはとそなれりける よの中にある人ことわさ志けきものなれば こころにおもふことを~」。

 さらに有名な二首を紹介してみよう。在原業平の〝都鳥の歌〟(写真下左。慶長13年刊の嵯峨本より)は「名にしおハゝいさことゝハん宮古鳥 わか思ふ人はあり屋なしやと」とよめりけ禮ハ~。

 次は国家の基歌。~たいしらす よみ人しらす(題しらず 読人しらず)「わかきみはちよにやちよにさされいしのいわおとなりてこけのむすまで」(濁点なし)

 『古今和歌集』をもって「仮名」が公認、市民権を得た。「仮名」は漢字の意を捨て、音だけを利用した「万葉仮名」を、多くの人々が草書で簡略書き(草仮名)するうちに次第に固まった日本オリジナル文字の誕生。

nanisioha_1.jpgkokenomusumade_1.jpg 「平仮名」に後れをとった「片仮名」は、寺院での講義ノートから生まれた一種の速記文字として発達したらしい。「平仮名」誕生は「和歌」を発達させ、文字社会の成熟も生んだ。作者不詳の歌物語(和歌にまつわる説話を集成した物語文学)の『伊勢物語』も誕生した。

 当初の和文は、和歌と消息(手紙)から発達したが、「消息=話ことば」をそのまま書きことばにして〝だらしない〟印象があった。そこで漢文を基に(後ろ盾にして、養分を摂取しつつ)次第に磨かれていった。

 紀貫之はその後に『土佐日記』も著わす。同作は男である貫之が、女に仮託して述べる虚構で、その方法もまた文芸の香り高さを有する日本文学の礎になった。著者は夏目漱石の「吾輩は猫である。名前はまだない」と書き出して「猫」に仮託してしゃべらせる~に通じていると指摘していた。

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日本語(4)小池清治『日本語はいかにつくられたか?』 [くずし字入門]

kojikijyo_1.jpg 小池著『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫。筑摩書房版は平成元年・1889に刊)を入手。同書を〝プロの読み手〟とでもいうべき「松岡正剛の千夜千冊」が今年2月に取り上げていた。再評価? こう紹介されていた。

 「本書はよくできた一冊だった。6人の〝日本語をつくった男〟を軸に、日本語の表記をめぐる変遷を近代まで読み継がせた。(日本語研究の全8巻、全16巻などを挙げて)それらをひも解くことがあるも、全貌を俯瞰する視野と結び目がもてないままにいた。それがこの本書によって画竜に点睛を得た」

 その6人で各章構成。Ⅰ「日本語表記の創造・太安万呂」、Ⅱ「和文の創造・紀貫之」、Ⅲ「日本語の〝仮名遣〟の創始・藤原定家」、Ⅳ「日本語の音韻の発見・本居宣長」、Ⅴ「近代文体の創造・夏目漱石」、Ⅵ「日本語の文保の創造・時枝誠記」。まずはⅠ章を読んでみる。

 太安万呂(おおのやすまろ)。日本に漢字がなかった応神天皇15年(4世紀末~5世紀初頭)に、百済国王より馬2頭が贈られ、馬飼職として「阿直岐(あちき)」も来朝。彼が「経典」を読むので皇太子の家庭教師にした。字の重要性に気付いた天皇は、百済に人を派遣して『論語』十巻と『千字文』一巻を携えた「王仁(わに)」先生を招聘(出典は『日本書記』『古事記』でしょう)。かくして飛鳥時代に日本人が日本語を書き表わすようになった。

 奈良時代の和銅4年(711)、太安万呂が稗田阿礼(ひえだのあれ)らの協力を得て4kojikiden_1.jpgヵ月で『古事記』を撰録。その早さは阿礼ら語部の「誦習(よみなら)=暗唱)ゆえ。それを文字化するのに太安万呂は「言=主に音声」と「意=意味」に二分して「漢字仮名交り文(音訓交用)」を創造した。だが未だ「仮名」はなく「訓注・声注・音読注・解説注」多用で対処した。

 ちなみに『古事記』冒頭(写真上。明治3年の柏悦堂刊)は「臣安萬侶言、夫混元既疑、気象未効、無名無為、誰知其形~」。現代訳は「臣の安萬侶が申し上げます。夫(そ)の混元(まざりはじめ)は既に疑れど、気象(かたち)未だはっきりしませんで、名なく為(なすこと)なく、誰も其の形を知らず~」

 安万呂は4ヶ月で『古事記』を書いたが、江戸中期の本居宣長は『古事記』を読み解くのに35年も要して『古事記伝』(写真下)を寛政10年(1798)に脱稿とか。安万呂の表記法が不完全ゆえに苦労したらしい。小池清治著のわかり易いこと。氏は1641年生まれの国語学者。昨年亡くなった。

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日本語(3)和歌は濁点を好まない [くずし字入門]

dakuten2_1.jpg 「おまいさん、そんなに机に向かっていると今月は10万歩達成できないよ。馬場のブックオフへ行っておいでよ。あたしの好きな時代小説を買って、ついでにコージーコーナーでケーキを買ってきておくれ。往復5千歩だよ」

 かくしてブックオフで小池清治『日本語はいかにつくられたか?』と岩波文庫の『古今和歌集』を購った。それらも参考に山口謡司『てんてん』を拾い読みする。「はじめに」にこう書かれていた。

 「いまだに和歌は〝ひらがな〟には濁点をつけずに書くのが正統である。/本居宣長は古代日本語には濁音で始まる言葉はなかったと記している。/江戸時代は濁音なしでもよくて〝蕎麦をするするすする〟は(するする)でも(ずるずる)でも読み手次第。/日本人は自然の音を言葉にする能力に長けて〝てんてん〟をつけて擬音、擬態語(オノマトペ)を創造した。」

 第一章「日本語の増殖」 『古今和歌集』の「梅の花見にこそ来つれ鶯の ひとくひとくといとひしもをる」は、「ひとくひとくと=人が来る人が来ると」だが、この発音は平安時代初期は「フィトク」、奈良時代は「ピチョク、ピティォク」。鶯の鳴き声「ピーチク」(ホーホケキョじゃないのか?)にかけた〝言葉遊び〟だったと解説。平安初期まで「はひふへほ=パピプペポ」、『源氏物語』の頃は「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」に変化。「さしすせそ=ツァ・ツィ・ツゥ・ツェ・ツォ」。「笹のは葉=口を開かずにツァツァノパパ」。

kouin_1.jpg 著者は「唐の漢字の発音を知ることができる『広韻』を調べてみると」として、次々に「発音記号」で説明するが『広韻』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可、写真左)に発音記号があるワケもなく、中国語発音記号「ピンイン」がローマ字式で制定されたのは昭和33年(1958)。これらはネット公開「音韻学入門」(愛知大)はじめ幾つかのサイトに詳しいが、専門過ぎて小生にはとても読めない。

 第二章「万葉仮名で書く日本語」 中国は唐王朝の影響で日本も公用語は漢文。だが日本固有のものは漢字では無理ゆえ、漢字の当て字(万葉仮名)が生まれた。漢字には主に呉音(ごおん)と漢音がある。「女=ニョ(呉音)、ジョ(漢音)/男=ナン(呉音)、ダン(漢音)/老若男女=ロウニャクナンニョ、法会=ホウエは呉音」と説明。

 面白いのでネット調べで追記する。日本へ最初に入ってきた中国語は南北朝時代の南朝・江南からで、同地はかつて呉の地方ゆえに呉音。他に食堂(じきどう)、文書(もんじょ)、金色(こんじき)、今昔(こんじゃく)、経文(みょうもん)なども呉音。

 だが中国が唐中心になると「科拳」(官僚試験)のために唐音に統一が必要で『切韻』で体系化。年々改訂された最終版は1008年『広韻』となって2万6千字ほどを収録。~どうやら「てんてん」を知ること=日本語誕生の歴史を知ることらしい。そこで体系的に説明された小池著『日本語はいかにつくられたか?』を読んでみることにする。

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日本語(2)「てんてん」の本 [くずし字入門]

manyousyu_1.jpg 新宿中央図書館へ行った。沼田克明著『濁点の源流を探る』はなく、山口謡司『てんてん~日本語究極の謎に迫る』があった。

 裏表紙のコピー。~「かな」を濁った音にする「てんてん」は、近代に発明された記号である。『古事記』『万葉集』など万葉仮名で書かれた日本語には、濁音で始まる言葉はほとんどなく、江戸の人々は、「てんてん」がつかない文章でも、状況に応じで濁る・濁らないを判断していた。自然の音を言葉にする能力に長けた日本人の精神性に根ざした「てんてん」の由来と発明の真相に迫る!

 テーマが明確に記された文章。だが同書をひもとけば、話がやたらに彼方此方へ飛ぶ。体系的・理論的に理解するには程遠い。どんな方が書いているのだろう。顔写真はア―写(タレント宣伝写真)、選挙写真のよう。誰に微笑んでいるのだろうか。言語学者イメージはない。「読むのを止めようかしら」と思ったが、ちょっと立ち止まって著者周辺を探ってみる。絵も書も達人とか。絵は湯村輝彦や先日亡くなった河村要助らのヘタウマ系イラスト風。夫人はフランスの方らしい。本を閉じようとしたら板橋は大山在住らしい。それで拒否感が少しだけ薄れた。

 あたしは中学の時に、別中学の女番長っぽい方から呼び出しを受けて、ビビり向かったのが大山辺り。そんなことを思い出す頃に、同書にまとまりがないのは、あちこちに書いたものを強引に一冊にまとめたらしいと推測した。

 中学時代を思い出したついでに、同書を読む前に中学程度のお勉強をし直す必要があろうと、以下をお勉強した。「平仮名」は奈良時代に使われた借字(万葉仮名)を起源にする。そうか。では『万葉集』(延暦2年・783)から一首をあげてみよう。原文(写真上)「吾勢子波 借盧作良須 草無者 小松下乃 草苅turayuki_1.jpg核」。解読すれば「吾(わが)勢子(せこ)波(は)借盧(かりほ)作良須(つくらす)草無者(かやなくは)小松下乃(こまつがしたの)草苅核(かやをからさね)」

 「万葉集=万葉仮名=当て字」だな。これら当て字から「波・者を草書体にした〝は〟の形」のようにして平仮名が生まれて『古今和歌集』が誕生。その巻1の2、紀貫之の歌(原文・写真下)を見る。「そてひちてむすひし水のこほれるを春たつけふのかせやとくらむ」。そ(曾)、む(武)、す(春)、つ(川)。江戸時代の「くずし字」と同じ。濁点なし。紀貫之は後に平仮名で『土佐日記』を書いた。

 一気に明治33年〈1900)へ飛ぶ。「小学校令施行規則」第一号表「あいうえお」の48字(ゐ、ゑを含む)が示された。ここまでを予習して「濁点(てんてん)」について~(続く)

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日本語(1)濁点なし文章 [くずし字入門]

edoezu_1.jpg 過日の「戸山荘シリーズ」の解読で、手こずったのが「濁点なし」文章だった。無教養の小生は、この歳で初めて「濁点」に向き合ってみることにした。

 例えば折々にひも解く『江戸名所図会』(絵:長谷川雪旦/文:斉藤月岑)は写真上の通り、漢字にルビ付きで「濁点なし」。一方のほぼ同時期『絵本江戸土産』(西村重長版も広重版も)、写真中の通りルビ付きで「濁点あり」。

 もう少し調べてみましょう。芭蕉『おくのほそ道』の場合はehon_1.jpgどうか。岩波文庫の校注本は「読解上の便を考えて、内容に従った区切りを設け、適宜句読点、濁点、カギ等を施した」で、ここは原本(素竜清書本)を読んでみます。写真下の4行目中ほどから読みます。

 「又いつかハと心ほそしむつましきかきりハ宵より津とひて舟にのりて送る千住といふ所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻の巷に離別の泪をそゝく」。

 芭蕉も「濁点なし」です。「津とひて=集いて」は「万葉仮名(津=つ)+濁点なし(と=ど)+旧仮名(ひ=い)の構成。古典は概ね〝施さokunohosomiti_1.jpgれた〟文章で接することが多いも、やはり原本には特別の味わい深さがあります。

 十辺舎一九『東海道中膝栗毛』はどうでしょうか。校注者は「清濁は、同じ語でも表記が違い、濁点を欠くもの甚だ多い。(中略)当時の発音にできるだけ従って補い正した」。濁音付き校注だと説明。

 時代を遡って明治22年(1889)公布の「大日本帝国憲法」を見ます。第1章天皇第3条「天皇ハ神ニシテ侵スヘカラス」。漢字+カタカナ+ルビなし+濁点なしです。表記・黙読は〝ヘカラス〟で、音読ならば〝べからず〟と読むのだろう。

 下世話な小生は、ここで遊んでみたくなった。「本々尓多ん古ん不知古ん天」。北斎ならば即答してくれる。「開(ぼぼ)に男根ぶち込んで」。かく下世話で無教養でお馬鹿な小生にも、そんな濁点についてを、わかり易く教えてくれる本があるだろうか。ネット調べをすれば「そんなこたぁ作者が好んで濁点有無を選んで書いていることゆえ、読む側は文脈の流れから勝手に読めばいいんだよ」とあった。やはり図書館へ行って調べてみよう。(続く)★カットは全て国会図書館デジタルコレクションより。

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老いてなほ筆おろしする庵の春 [くずし字入門]

fudeorosi2_1.jpg ブログに文鎮を並べ撮ったら、やはり「筆ペン」ではなく、書道筆も使ってみたくなった。世界堂の書道コーナーで細字用●呉竹の細字「はやせ」7号・中峰(1500円。中国産の山羊に、穂先はイタチ)●墨運堂の「雅」(1100円、全茶色)を購った。

 書道筆を手にするのは、小学生以来か。小生らの世代は、子供時分に多くの子が書道塾か珠算塾に行ったもので、あたしは書道塾に通った。とは云え〝筆おろし〟などという記憶はない。水彩筆は何本かを使ってきて、今はどういう筆が良いかがわかりつつある段階。

 書道筆を求めたには、他にもワケがある。実は目下、鴨長明『方丈記』を読み始めている。平安末期~鎌倉初期頃の著作で、最古本は「カタカナ+漢字」表記だが、小生は「くずし字」勉強中ゆえ、江戸時代の写本を手本に筆写してみようと思った次第。

 同著はたった9000字程だが、平安末期頃の歴史や古語のお勉強で遅々として読書進まず。従って未だ固い筆を眺めつつ、さて「筆おろし」ってどうやってするのだろう。

 まず口に含み、唾で濡らしつつ舐めほぐすのだろうか。ここは経験豊かな方に手ほどきを受けたほうがよろしいか。そこでネットでお勉強です。

 細字筆は穂先の三分の一だけおろす。やり方はぬるま湯に三分の一ほどをつける。穂先から指で少しづつほぐす。充分にその部分の糊を落としたら、紙や布で水分を拭き取る。この際に抜け落ちる細かい毛は除く。キャップは捨てる、とあった。

 未だ固いままの筆をみつつ駄句。「老いてなほ筆おろしする庵(いお)の春」。

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盗賊油断之躰ヲ見済し [くずし字入門]

komon3-4_1.jpg 古文書講座復習8 前回復習の続き。隠居とは云え、お勉強は淡々と続けましょ。

見勢(みせ)之銭箱(ぜにばこ)二有之候売溜銭(うりだめぜに)二而も可差遣旨(さしつかわすべくむね)申偽置(もうしいつわりおき)、盗賊油断之躰ヲ見済(みすま)し、表口ゟ(より)街道江欠出(かけだし)、押込ミ這入(はいいる)候旨、高声二罵り候へハ、跡ゟ右盗賊抜身ヲ持、追欠(おいかけ)参り候間、逃ケ出(いで)候へ者(ば)、右追欠参り候儘二而、両人共逃退(にげさ)り立戻り不申(もうさず)~

 ここで区切る。自分で筆写するも、出だしが読めず。箱の「竹冠」を書き忘れ「相」になっていた。お粗末でした。「欠出=かけだし」「追欠=おいかけ」には、ちょっと笑った。それにしても盗賊対応のしっかりしたことよ。この時代はそれくらいの気構えがないと生きてゆけなかったのかもしれない。

 こんな勉強だが、例えば漱石の候文手紙なんか、ルビなしでも音読できるようになるんですね。スマホを持って良かったことの一つは、出先の待ち時間などで、このブログを開いて「音読・くずし字」を覚えたりすることができること。

「ゟ」は「より」で変換できる。今回は「而(て)」は「しかして」で変換できることに気付いた。わざわざワード「IMEパット」を開いて旧字を得なくとも、かくなる要領で他の字も出せるかもしれない。

tozokulast_1.jpg今朝之義者(は)何二而(て)も紛失物無之(これなく)、且盗賊義紙合羽壱ツ捨置候、則(すなわち)持参仕候、逃退り候跡相尋候へ共、行形(ゆくかた)相知不申(あいしりもうさず)、依而(よって)此段御訴奉申上候、此後(こののち)手掛り等も有之候ハゞ、猶亦早速御訴可申上(もうしあげるべく)候、已上(以上)

 以上、文化八年の角筈村源介店へ入った盗賊の被害届。いつの時代も悪い奴がいて、それは今も変わりません。


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盗賊弐人立脇差之抜身を~ [くずし字入門]

komon3-2_1.jpg 「デジタルお絵描き」遊びもほどほどに、お勉強もしなければいけません。古文書講座復習7は(6)の続きで〝書き初め〟です。書き初め=吉書、試書、初硯、筆始め。小生の場合は「筆ペン+墨汁+コピー紙」の好い加減なもの。筆写するのも昨年の続きで、新年早々〝盗賊関連の古文書〟。

 前書の品々、家内之もの共一同臥居候所(ふせおり候ところ)、盗賊忍入(しのびいり)、右品盗取逃退(ぬすみとりにげさり)、翌朝二相成見付候間(あひなりみつけ候あいだ)、所々相尋(あひたずね)候へ共(そうらへども)、行形相知レ不申(ゆくかたあひしれもうさず)、其砌り(みぎり)御訴可申上処(おうったえもうしあげるべくところ)、手掛り等の可有之哉(これあうべきや)二存、是迄穏便二致置(いたしおき)、御訴も不申上段(もうしあげぬだん)奉恐入、然る処(しかるところ)、又候(またぞろ)今朝~

 長いのでここで区切る。「砌り=その折」は今は使われなくなった言葉だろう。「行形」は苗字(ゆきかた、いきなり、ゆきなり)があるも、ここでは〝ゆきかた=行方〟の意か。「相成・相尋・相知レ」など、やたら「相」が出てくる。古語辞典に「あい」はなく、あくまでも「あひ」。相には様々の意あるも、たびたび出て来る「相」は語調を整え、重みを加える意。「又候(またぞろ)=またしても、またもや」。そして今朝また盗賊に襲われる~

komon3-3_1.jpg今朝六ツ時頃、盗賊弐人立脇差之抜身(わきざしのぬきみ)を持、〆り有之(しまりこれある)候裏口之戸を押破(おしやぶり)、右様抜身持候儘二而、盗賊共申聞候者(もうしきかせそうらえば)、金子有之義(こんすこれあるぎ)を存知罷越候間、早々可差出(さしだすべく)、若不承知(もしふしょうち)二候ハ、切捨二可致旨(きりすてにいたすべくむね)、理不尽申之(りふじんこれをもうし)、返答当惑仕候故(つかまつり候ゆえ)~(続く)

 「右様(みぎよう)=右の様子、右の文章、右の通り、前述の如く」。この辺は古語辞典より「広辞苑」領域。ちなみに「左様(さよう)=その通り、そのよう」。「さようなら=左様なら=さようならば、しからば、そんなら」で別れの挨拶になる。脇差は武士が持つ「大小」の小。百姓町民も持つのが許されてい、弥次さん喜多さんも東海道中に腰へ差していた。


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甲州街道端の店に盗賊忍入 [くずし字入門]

komon3-1_1.jpg 古文書講座復習6 ブログ絵に〝盗賊〟を描いた次は、古文書も盗賊文書です。襲われたのは甲州街道端の荒物屋。

 乍恐以書付御訴奉申上候 角筈村源助店(だな)六左衛門奉申上候、私義、甲州道中往還端(おうかんばた)二而(にて)木綿荒物類商売仕罷在(つかまつりまかりあり=つかまかりあり?)候処、先月廿八日夜、表口戸押明ケ(おしあけ)盗賊忍入(しのびいり)、見勢(みせ)へ差置(さしおき)候売物・銭ともに被盗取(ぬすみとられ)候品。左之通り 一 桟留縞反物 四反 一 木綿切 弐十程 一 さし足袋 四足程 一 雪駄 四足 一 銭六貫九百文 箱二入 〆五品

 文は続くが、ここで区切る。「往還端」はちょいといい響きだ。「大川端」は隅田川の右岸。浅草・吾妻橋~浜町辺り。「井戸端」も懐かしい。「池の端の師匠」と云えば故・柳屋三亀松師匠。上野・不忍池に面した地。「往還」は往来する道。往還端=街道端。五街道以外は「腋往還」。

 ン十年も馴染の印刷屋は山手線「田端」駅近く。駅改札口は道灌山台地端で、エスカレーターで下ったホームが崖下になる。一方、荒川・隅田川沿いの低地から見れば低地際。両側から見ても〝田端〟か。江戸名所図会通りの地形がそのまま今も遺っている。

 ここはそんな呑気な話ではなく、恐ろしい強盗の奉申上書。「私義=〝しぎ〟ではなく〝わたくしぎ〟=私の個人的な事で恐縮ですがの謙遜的な意」。単に「義=ぎ」は「こと、=について」。「金子有之義(きんすこれあるぎ)」や窃盗犯の名の後に付く「義」は「~について」の意。「差置(さしおき)」はいろいろ解釈されているが、差=接頭語ゆえ〝置いた〟の意でいいだろう。他に難しい言葉もないから、ここは「くずし字」の練習のみ。(続く)


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鬼平と流刑と大島と [くずし字入門]

komon2-2_1.jpghatakekazai1_1_1.jpg 古文書講座復習5 遂に鬼平が遠島を仰せ付ける文書が教材になった。江戸の流人は当然のこと伊豆諸島へ。伊豆大島が流人御免になったのは寛政8年。それ以降の遠島は概ね三宅島、新島、八丈島になった。

 この文書は寛政5年ゆえ、遠島先は大島だったかも知れない。だが大島は幾度も大火に遭って、古文書類焼失で「流人」記録は残っていない。さて、以下文書の「留五郎」はどの島に流されたのだろうか。

乍恐以書付奉申上候 豊島郡角筈村名主・組頭・百姓代奉申上候、當村百姓留五郎義、先達而(せんだって)長谷川平蔵様於御役所(お役所において)遠島被仰付(おおせつけられ)候二付、家財闕所(かざいけっしょ=付加刑で家財没収)二被仰付候二付、此度畑屋敷家財望人有之(望む人これ有る)候ハゝ入札可仕旨(つかまつるべくむね)、御触御座候、右畑屋敷土地悪敷(あしき)、村方望人無(のぞむ人なく)御座候、依之(これにより)別紙直段附二而(ねだんつけにて)村引請二被仰付(むらひきうけにおおせつけられ)被告下置く(くだしおかれ)候ハゝ、御請可(おうけるべく)奉申上候、何分右之段御聞済(おききずみ)被成下(なしくだされ)候様奉願上候、以上。

 上記筆写の「畑屋敷家財」の所、「家」の字が抜けた。「敷」と「家」のくずし字がちょっと似ていたためのミス。その原文部分を写真で紹介。ここから解読するのだから、いかに大変かが分かっていただけよう。〝別帋〟は紙の異体字〝帋〟です。なお講師説明では、留五郎の畑屋敷を望む者はなく、角筈村が合計一両二分で買い取ることになり、留五郎が属していた組合の者三名が同額を上納したそうな。


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長谷川平蔵様江御引渡二相成候 [くずし字入門]

komon2-1_1.jpg 古文書講座復習4 講師は今の日本人が最も日本語を知らないと言った。受講者全員が首をすくめた。そう江戸・明治の子らは漢籍の素読をしていた。

 ちなみに荷風の場合を調べれば、明治22年に小日向の黒田小学校尋常科4年を卒業後、同じく小石川・竹早町の東京府立師範付属小に入学し、その帰途に儒学者某の許に立ち寄って「大学」「中庸」をあげていた。

 過日の神田古本まつりで購入した北小路健『古文書の面白さ』(新潮選書)を読んだが、著者は大正2年生れで、満5歳の誕生日から小学校卒業まで父より「四書」(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)の素読を受けたと記していた。もうボケ始めた小生だが、昔の日本人に少しでも近づこうと古文書講座復習を続ける。

 乍恐(恐れながら)以書付(かきつけをもって)御訴(おうったえ)奉申上(もうしあげたてまつり)候 一(ひとつ) 豊嶋郡角筈村名主・年寄申上候(まず最初に誰が申しているかを記す)、私共并外六名、今廿九日太田運八郎様御役所江、被召出候処(めしいだされ候ところ)、其村二而(て)當正月中被召捕(めしとられ)候入牢人共、此度、長谷川平蔵様江御引渡二相成候間、右御役所江可相廻旨(あいまわすべくむね)被仰渡(おおせわたらせ)候二付、罷出(まかりいで)候所、右壱件當御役所御懸(おかか)り二相成候旨被仰渡(おおせわたらせ)候、依之(これによって)右之段御届ケ奉申上候、以上。(以下略)

 召し捕られて入牢していたのは、角筈村の留五郎ら。同家で二度も賽博打をしてい、角筈村は留五郎外四名、中野村の者三人が捕まっていた。この文書は寛政5年のもの。〝寛政の改革〟でとりわけ取り締まりが厳しかったのだろう。

 長谷川平蔵が出てきた。この講座会場・新宿歴史博物館から新宿通りを横断して向こう側の谷を下った辺り、須賀町・戒行寺が長谷川家の菩提寺。「長谷川平蔵供養碑」がある。長谷川家三代の墓があったそうだが今は行方不明。杉並・堀之内の妙法寺の北側隣接に戒行寺墓地を移転した際に、親族連絡なしで無縁仏にばって埋もれているという説もある。


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為相知候得者(あいしらせそうらえば) [くずし字入門]

komonjyu1-2-3_1.jpg 古文書講習復習3:少しだけ読めるようになった気がするも、新たな教材になれば、また唸り出す。〝覚えては忘れるの繰り返し〟。今回は以前も勉強したはずの「為」のお勉強。

 口上書 昨廿七日、四谷角筈村抱屋敷内(かかえやしきない)、暮時頃見廻二罷出候処、居宅長屋ゟ(より)北之方百間程先、林之中立木二中間体之男、首縊(くびくくり)相果居(あいはており)候二付、相士(あいし=同僚)松下清七付置(つけおき)、屋敷役人大村金右衛門方江、為相知候得者(あいしら〝せ〟そうらえば)、早速罷越、様子見候而念入番人附置申候(ばんにんつけおきもうし候)、尤其節怪敷者(もっともそのせつあやしきもの)も見懸不申(みかけもうさず)、何時何方ゟ参り、首縊相果居候哉、曾而(かつて)不奉存候、此外可申上義無御座候(このほかもうしあげるべき義なくござ候)、以上。

 曾而(かつて=嘗て、嘗て)は、下に打消しの語を伴って「全然、決して。かねて、今まで一度も、ついぞ」。肯定文では「以前、昔」。

 「為」については、吉川弘文館『古文書の読み解き方』を参考に左図を書きまとめた。「為=ため」「為=使役の助動詞、せ・せ・す・する・すれ・せよ」「為=として、為御祝儀(ごしゅうぎとして)」「為=なす、被為仰付(おおせつけなされ)「為=たり、可為曲事(くせごとたるばし)可為遠慮(えんりょたるべし)」など。

tame2_1.jpg このブログは自分の勉強ノートでもあり。ガラゲーからスマホに換えて〝良かったなぁ〟と思う一つは、机のパソコンから離れて、例えば電車の中でもスマホで自分のブログを開き、古文書の復習が出来ること。図だけをアップし、何度も繰り返しスラスラと読めるようにお勉強です。


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角筈村で首縊相果罷在候 [くずし字入門]

komon11_1.jpg 古文書講座の復習2:教材は享和二年(1802)の新宿・角筈村で自殺者発見の報告書。講座より気の向いた教材のみの復習です。古文書は直筆ゆえ人によって丁寧な字、癖字、下手な字、乱暴な字、メモ書きなど多彩。実に読み難い。

 小生はまず、それらを〝漢字くずし方辞典〟に載っているような正しい?字〟のように書き直し(左写真)てから解読、音読する勉強法を採っている。

 乍恐(おそれながら)以書付(かきつけをもって)御届奉申上候。一(ひとつ)角筈村名主傳右衛門(右は読まず〝でんえもん〟)奉申上候、當村秋元但馬守様御抱屋鋪(おかかえやしき)御囲内(おかこいない)二、年齢五十才余二相見江(あいみえ)候男、楢之木枝江細引二而(て)、首縊(くびくくり)相果罷在(あいはてまかりあり)候、尤着服之義者(もっともちゃくふくのぎは)、木綿藍じま綿入レを着シ、下ニ縞木綿単物(ひとえ)を着シ、太織帯を〆、脇指(差)を帯(たい)シ、相果居(あいはており)申候、依て此段、以書付御訴奉申上候、以上。

 おぉ、享和二年と云えば、十返舎一九が『東海道中膝栗毛』初編を出した年ではないか。四編までの版元は日本橋・通油町の村田屋治郎兵衛。長谷川時雨の生まれ育った地。現・日本橋大伝馬町。

 新宿・角筈村は現・新宿西口高層ビル群と熊野十二杜辺り。今〝角筈〟の地名はないが「角筈公園」「角筈図書館」などに名を残している。首縊男は〝中間体〟とか。内藤新宿で遊び過ぎて破滅の道を歩んだ男だろうか。


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遠山金さん&江戸の時間 [くずし字入門]

5-1komonjyu2_1.jpg 九月中旬から毎日曜に二時間五回の「古文書中級講座」(新宿歴史博物館主催、久保貴子講師)を受講した。講師は何度も「復習が肝心」と繰り返した。「狂歌入東海道」シリーズが終了し、お勉強ノートでもある弊ブログで順不同で少しづつ復習です。

 右ハ、昨廿日昼九時頃、高田四家町家持(いえもち)留五郎家前二而(て)不知子細(しさいしれず)、前書両人二而及口論(口論に及び)万之助義、半右衛門頭江疵付(きずつけ)、同所へ打倒れ罷在(まかりあり)候二付き、今日遠山左衛門尉様番所へ御訴奉申上、御検使奉願(ごけんしねがいたてまつり)候二付、同町御検使場江、着所様并(ならびに)村役人中御召連(おめしつれ)、只今御立合可被成(なされべく)候、右得御意度(ぎょいをえたく)如此(かくのごとく)御座候 已上(いじょう)。

 冒頭に「昼九時(ひるここのつどき=昼12時)とあったので、江戸時代の時刻のお勉強。一日二十四時間を十二等分。一刻が約二時間、半刻が一時間、四半刻が三十分。

edonojikan1_1.jpg 数字は易学で尊ばれた「九つ」を頭(暁九つ=深夜0時、昼九つ=正午)に八つ・七つ・六つ・五つ・四つで六等分。「四つ」の次がまた「九つ」から繰り返す。明六つ=午前6時、暮六つ=午後6時と数字が揃う。さらに午前・午後の区別をつけるべく「十二支」を当てる。

 午前は「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)」の六刻(12時間)。午後は「午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)」の六刻(12時間)

 詳しく記せば 子の刻=暁九つ(深夜0時)中心の一刻(2時間)/丑の刻=暁八つ(午前二時)中心の一刻/寅の刻=暁七つ(午前四時)中心の一刻/卯の刻=明六つ(朝六時)中心の一刻/辰の刻=朝五つ(朝八時)中心の一刻/巳の刻=朝四つ=午前十時中心の一刻(2時間)。あとは図を参照。


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古文書中級講座を受講中 [くずし字入門]

komonjyo2_1.jpg 目下、全五回の「古文書中級講座」受講中。大島暮しが長引き、一回目を受け損なって二回目からの受講。講座が始まるまでスケッチの手が動いた。

 〝中級講座〟ゆえ、受講者それぞれが日頃から何んらかの形で古文書に取り組んでいるようで、教室は解読スキルアップを目指す真剣かつ熱心な雰囲気に満ちる。教材は虫食いで解読不能部分もある古色蒼然の江戸文書だが、教室スケッチに着色すれば、なにやら愉しく華やいだ雰囲気になった。かく記す小生も〝学生〟に戻った気分なり。

 この日に読んだ古文書は宝暦四年の、浅草御蔵に御用人足を仰せつかった村々相談の記録。御蔵は浅草橋近く、現・蔵前あたりに幕府が設けた年貢米・買上米を出納・保管の蔵で、最大67棟もあったそうな。高田村、戸塚村、市ヶ谷村、原宿戸村、石神井村、飯倉村、麻布村など江戸中の村々名主が著名している。

 ちなみに冒頭は~ 一(ひとつ)此度(このたび)浅草御蔵(おくら)御用人足(ごようにんそく)被仰候ニ付(おおせられそうろうにつき)村々相談之上、各(おのおの)才料二、相頼申候間(あいたのみもうしそうろうあいだ)人足差出候内ハ(にんそくさしだしそうろううちは)日々無間違(まちがいなく)御勤可被下候(おつとめくださるべくそうろう)然上ハ(しかるうえは)~

 もう一つの教材文書は鉄砲方の町見術(ちょうけんじゅつ、測量)に対する角筈村、下落合村、品川の名主連名による「差上申御請書」。解読と共に幕府と庶民の関係も垣間見える内容。絵は万年筆(黒インク)でイラスト風に描いてみた。


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「くずし字辞典」新伴侶をむかえ [くずし字入門]

kuzusijijiten_1.jpg 江戸文学、古文書を読むようになって、辞書が五冊に増えた。貧乏隠居ゆえン万円の辞書は不要で、数千円の使い勝手の良い机上版・普及版になる。最初に購ったのは柏書房『かな用例字典』(4,700円)だが、これはすぐ挫折して本棚奥で埃をかぶっていた。

 新宿歴史博物館の「古文書」講座に出席。古文書入門書を数冊購入し、併せて東京堂出版『くずし字解読辞典』(普及版)を買った。同辞典はすっかり手に馴染んだ感がある。要領も覚え、当初より相当早く該当文字に辿りつけるようになっている。

 そのうちに異体字の難儀さに柏書房『異体字解読辞典』を求めた。また古本市で東陽出版『くずし字解読字典』を見つけた。大判なので滅多にひも解かぬが、これは書道系で「草書体の書き順」付きで、筆を持ちつつ調べたりする。

 先日、古本屋で近藤出版社『漢字くずし字辞典』を購った。これは東京堂出版と同じく「児玉幸多編」だが、編集・構成がまったく違っていた。例えば「心」をひけば東京堂出版はさまざまなくずし字が七頁あちこちに散載だが、近藤出版社版は同じ頁にまとまって掲載されている。七頁を見なければならぬところ、片や一頁を見ればいい。これは便利だ。

 また東京堂出版の辞書は、実に不備が多い。例えば今は『鶉衣』を筆写・解読していて「柱」をひもとけば、こんな単語が東京堂出版は「はしら・チュウ」の音訓索引にない。ならば「木へん」で探してもない。「柱」が欠落している。辞典にあるまじき杜撰さ。一方、近藤出版社版は「はしら」でくずし方さまざま四文字が載っていた。

 次に「口紅兀(はが)さじと吸ひたる」の色っぽい文章の「兀」を調べる。「はがす・はげる」で両辞書をひくもない。「漢字辞典」で「兀=コツ、ゴツ、ゴチ」。「兀兀=ゴツゴツ」と知って、「コツ」で東京堂出版版を引くがなし。だが近藤出版社版にはちゃんと載っていた。くずし字は四パターン掲載。訓で「あしきる、あやうい」とある。「綟子張の煙草盆」の「綟=ライ・レイ・もじ」だが、これも東京堂には載っていなくて、近藤さんには載っている。あぁ、こりゃダメだ。そんな不備、杜撰、使い勝手の悪い辞典を手垢がつくほど使ってきた。

 両署共に児玉幸多編。なぜだろう。調べてみると近藤出版社の同辞典は昭和45年(1970)初版で、普及版や増補がなされるも平成3年(1991)に倒産。版元が東京堂出版に移ったらしい。「くずし字辞典」にも思わぬドラマが秘められていた。かくして今は、残念ながら書店で入手できるのは東京堂出版のみで、平成25年・新装17版が発売中。

 辞書は、確かさと使い勝手が第一。偶然ながら非常に貴重な近藤出版社版を入手したことになる。するってぇと、すっかり手に馴染んだ辞典から新辞書へ移ることになる。不備、杜撰も使い込んだ東京堂出版の辞書と去るのは、なんだか古女房と別れるような寂しさがある。一方、新たに出逢った辞書をひも解けば、その度に新鮮さ、トキメキが湧く。「新しい伴侶っていいなぁ~」と思わずつぶやいてしまう。この台詞がかかぁの耳に入ったらひと悶着必至ゆえ要注意。

 追記:しかし「くずし字」の形は無限。辞書によって蒐集に多少の違いがある。近藤さんで不満足を覚えたら、元の東京堂出版辞典をひもとくことになる。「くずし字辞典」は何冊もあった方が万全ってことだろうか。


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田沼意次VS松平定信 [くずし字入門]

sadaroucyu.jpg松平越中守(定信)儀、弥(いよいよ)老中上座被仰付(仰せ付けられ)候、御治定(ごちじょう=落着すること)ニ而、来ル十九日比可被仰付(仰せ付けられる)御沙汰ニ付、一両日之内掃部頭(かもんのかみ=大老・井伊掃部菜雄幸)方迄、被仰出(仰せ出され)御達之筈ニ候段、委細被仰越(仰せ越され)承知致候、誠ニ御丹誠ヲ以無滞(とどこおりなく)愚願も相届致満足候、且(かつ)土佐守事も被仰付候、以後世上共ニ評判宜(よろしき)趣ニ及承(承り及び)、別而(別して)至大慶候

 これは十代将軍・家治没後の将軍・家斉(いえなり)の実父「一橋治斉(はるさだ)」が、中奥の小笠原信喜に宛てた秘密書簡の一部。治斉は〝江戸打ちこわし〟の情報を小笠原から将軍に報告させ、同情報を将軍に隠蔽していた田沼派の横田準松(のりとし)を罷免させ、定信の入閣を図ってい、その工作の成功報だろう。文中「土佐守」とあるのは、北町奉行所・曲淵甲斐守が田沼派ということで石河土佐守正民に代わるという事。

 唐突になんでこんな古文書をアップかと云えば、江戸戯作・浮世絵などの盛り上がりを弾圧した「寛政の改革」(恋川春町を死に追い込み、朋誠堂喜三の筆を折り、山東京伝は手鎖五十日の刑、蔦重の財産半分没収、大田南畝の学問吟味への転向など)の時代を理解すべく田沼意次~松平定信の時代をお勉強中ゆえ。

 かかぁが大好きな「鬼平」こと長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になったのは定信の老中就任の年で、一方「剣客商売」の秋山小兵衛は田沼意次と親しい間柄。やはりこの辺の時代はしっかり押さえておきたい。

tanuma_1.jpg ってことで目下、村上元三『田沼意次』(昭和63年刊)の読書中だが、だらだらと続く超長編で手こずっている。倦んできたので長風呂やトイレ読書を経て、やっと意次が御三家・御三卿の台頭で「家治」没を機に幕政を追われる終盤に辿り着いたところ。

 そんな折、図書館で財団法人徳川黎明会による『江戸時代古文書を読む/寛政の改革』なる書に出逢って、そこで紹介の古文書一部を筆写してみた。ふ~ん、この長編の裏にこんなリアルな書付があったんだと感心した次第。古文書の勉強としては「弥=いよいよ」の読みを知った。 さて村上元三『田沼意次』を年内に読了できますか。お正月は松平定信関連書に入ります。


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年の瀬に墨跡ならんペンで書き [くずし字入門]

peniroiro_1.jpg 年末になると新春を祝う墨跡鮮やかな書に出逢う。それらを見つつ、逆に万年筆が欲しくなった。パーカーかモンブランか。昔はどちらかの万年筆で、インクボトル持参で喫茶店ハシゴをしつつ原稿を書いていた。数行が液晶画面に表示されるワープロが出回った頃に、ワープロに切り替えた。以来、机のワープロ相手。富士通・親指シフトのワープロ最上機(レイアウトまで出来た)まで使って、それからパソコンになった。

 今では万年筆でどんな字を書いていたかも思い出せぬが、中指のペンダコが残っている。当時はペンダコに万年筆のインクが染み込んでいた。また万年筆を使ってみようかしらと「パーカー」のサイトを見たら、万年筆でもボールペンでもない「アーバンプレミアム」が人気とあった。

hufr2_1.jpg 高級万年筆を求める前に、それを使ってみようか。東急ハンズ(新宿)で試し書きをすれば、店員の熱心な説明につい買ってしまった。(替え芯付きで¥11,880)。スラスラ書けるんだが、やはりボールペン感覚で数度手にしただけで放置したまま。

 次にネット検索でパイロット「カスタム823WA」なる大田区久が原「アサヒヤ紙文具店」限定(¥32,400)が、筆跡動画付説明で「おぉ、求めるはコレだ」と思った。五反田駅から東急池上線に乗り換えて~まで調べた。そうこうしている間も横井也有『鶉衣』の筆写・解読遊びをしてい、この筆ペンで万年筆インクのブルーで書いてみたら面白いかもと思い付いた。

 筆写はゼブラ毛筆(¥500)で穂先乱れで使い捨て。筆の走り按配を小皿の墨汁と水で調整しつつ使っているが、これを万年筆インクのブルーでやってみる。着想なかなか良しと新宿・世界堂へ走った。パイロットインク・ブルーの会計を待つ間、カウンターに「ラミーのサファリ」なる万年筆があって、気軽に試し書きが出来る感だったので手に取った。まぁ、よく書けること。しかも安い。

 FE(極細)、F(細字)、M(中字)の中からMに決め、インク吸入コンバーターを付けてもらって¥4,147。自宅に戻ってネット調べをすればドイツ製で「カジュアル万年筆、万年筆初心者向け、サファリでも使える頑丈さ」の惹句。ペン先は鉄だが、高級万年筆よりこれを数本持って、さまざまなインクを使い分けるのも面白いかなと思い始めている。

 写真は駄句を右より「ゼブラ筆ペン、ラミー・サファリ、パーカーのアーバンプレミアム」で書いてみた。


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古文書も自転車遊びも台場がらみ~ [くずし字入門]

komonjyo11_1.jpg 十月八日の続きで、左記筆写の解読文+読み下し文。

 御用向之儀ニ付(ご用向の儀につき)昼夜不限(かぎらず)何時被 仰付(おおせつけられ)次第、刻限等聊遅滞不仕(こくげんなどいささかも遅滞つかまらず)、無御差支(おさしつかえなく)右馬不残(のこらず)引連罷出可申候(引き連れ罷り出で申すべく候)、万一差懸り川支(川づかえ=川止めに差しかかり)、其外(そのほか)差支筋(さしつかえすじ)有之歟(これあるか)、又ハ病馬有之候ハゝ、是又(これまた)刻限遅滞不仕(つかまらず)、無御差支(おさしつかえなく)代り馬差し出し候様、当人方并(ならびに)私共取計置可申候(取り計らい置き申すべく候)、尤(もっとも)右足留金受取候ニ付、御用相済候迄ハ、何様の義(なにようのぎ)御座候共、代り馬差替無之内ハ(代わり馬差し替えこれ無きうちは)為引取(ひきとらせ)申間敷候(申すまじく候)、後日毛頭御差支無之様(これなきよう)、当人共銘々証人有之候、別紙帳面此度差上(このたび差し上げ)、私共連印一札(れんいんいっさつ)差出申候処、仍て如件(よってくだんのごとし)

 一字ずつ「くずし字」を字典で確認して筆写する。それを改めて解読し、読み下す。繰り返しやってはいるが、十をやって覚えられるのは一つだろうか。だが十回やれば十を覚えられる。そうやって一歩一歩古文書に慣れ覚えて行く。古文書が読めてから、何かの役に立つかと言えば立たず。

 江戸時代の農家名主が遺した文書を、現代人のあたしが一字一字読めつつあって「あぁ、やっと江戸人に追いつけたかなぁ」とただ謙虚になって行く。謙虚になってそっと静かに死んで行く準備かも。あたしにとって筆写=写経みたいなものです。

 最近、自転車で東京湾埋立地に走るのに凝っている。同地成り立ちの書を読めば、この古文書が書かれた嘉永七年のペルー艦隊再来に備えた台場(砲台)築造の記述が欠かせぬ。妙に江戸趣味と自転車趣味がクロスしている。


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異国船来航時の荷馬・口取りのギャラ [くずし字入門]

komonjyo10_1.jpg 以下、左筆写の解読文(読み下し文) 

 差入申一札之事 尾州様御用御小荷駄馬之儀(おこにだうまのぎ)、今般異国船渡来ニ付、急御用向之節、老馬并(ならびに)聊(いささか)たり共御用相立兼(あいたちかね)候馬ハ相除(あいのぞ)キ、全(すべて)御用相成候(ご用あいなり候)馬壱疋ニ付口取共、御用之節一日銀拾四匁ツゝ、御渡可被下(おわたし下さるべく)候、夜中御用之節ハ右同断(どうだん)、可被下筈取極(下さるべきはず取りきめ)、尤(もっとも)御用被 仰候迄(ご用おおせられ候まで)、足留金(あしどめきん)之内三十日金壱分ツゝ之割合を以(もって)、此度(このたび)私共御受負仕度(下おんうけ負いつかまつりたく)、右ニ付馬弐拾五疋分足留金六両壱分御渡し被下(くだされ)、慥(たしかに)受取申処実正(じっしょう)御座候、然上者(しかるうえは)兼て急御~(つづく)

 当時の相場を現代換算すると銀壱匁=ニ千円。馬と口取りで銀拾四匁=二万八千円になる。当時の大工日給は銀五匁四分ゆえ、大工日給より少し安い。馬二十五疋で六両壱分(壱両=十二万八千円×六=七十六万八千円と壱分=三万二千円で計八十万円)ということか。

 この古文書は嘉永七年二月六日のこと。一月十六日にペリーが軍艦七隻で再来日して江戸湾に停泊。三月三日に軍事的威圧に屈して「日米和親条約」を締結。その最中に取り交わされた尾張藩江戸屋敷と農家名主の覚書。同年十一月に東海・南海地震。翌安政二年に直下型の安政江戸大地震。この古文書はよくもまぁ、焼けずに残っていたなぁとも感心する。


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異体字の字典ひもとく夜長かな [くずし字入門]

itaiji_1.jpg 「異体字解読字典」(柏書房、二千円)を購った。巻頭に「異体字とは」が記されていた、~現在正しい楷書とされているのは「康熙字典」(中国の漢字字典で日本でいう旧字体が載っている)や「常用漢字」に載っている字体で、それ以外の古字、本字、俗字、略字、通用字、さらには草体のくずし字もすべて異体字といえる。

 ということで、私たちのまわりには「異体字」が溢れているのだが、隠居してから「異体字字典」を初めて手にするは、遅きに失する感が否めない。先日受講した古文書講座に「鹿浜町」(筆写参照)が出てきた。「鹿」はパソコンでは出てこない略字で、「浜」は新字体ゆえに当然ながら「濱・濵」のくずし字。こうなると「異体字」の字典なしでは、くずし字の元の字もわからん。

 秋の火を嫌って穐と本字記し

sikahama_1.jpg 写真の開いた頁に「秋」がある。旧字・本字は「穐」。この字は二十年も前から知っていた。某歌手の名古屋の劇場公演をレポートした際に「千秋楽」は「千穐楽」と記しなさい。「秋」には「火」があって劇場は嫌いますゆえ~と指摘された。芸処・尾張のこだわりだ。

 目下、尾張藩がらみ古文書の復習中。一方読書中は尾張藩御用人から隠棲した横井也有の『鶉衣』。也有隠棲の裏には、徳川吉宗に反抗した当時の藩主・吉春によって翻弄された御用人の日々があったに違いないと睨んだので、徳川吉春関連本も読んでいる。妙に尾張づいてしまった。その辺を勉強しつつ字典をひもといていると秋の夜長も短いこと。


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小荷駄馬三十七疋の代金は? [くずし字入門]

komonjyo9_1.jpg 左記古文書筆写の解読文と読み下し文。題字は「奉差上御受書之事」(以下棒組)

一 小荷駄馬 三拾七疋 前日朝被 仰付候ハゝ、壱疋ニ付 但 代銀拾三匁五分 夜中右同断  一 右当日出被 仰付候ハゝ、壱疋ニ付、此分ハ前々ゟ家業差留置候ニ付、今般被 仰付候日ゟ御用被 仰付候前日迄、足留銀日々銀四匁ツツ、御渡し被下置候様奉願上候 但 御用被 仰付日よりハ壱疋ニ付、代銀拾三匁五分 夜中右同断  右者今般前書奉申上候通り、御用向被 仰付被下置候ハゝ、聊無御差支大切ニ相勤可仕候、依之御受書奉差上候処、如件

 古文書は漢字羅列で漢文風だが、漢文とは似て非なのだろう。だが古文書を読んでいると、漢文もちょっと身近に感じられてくる。さて、この文の読み下しは~

 「差し上げたてまつり御受書(おうけしょ)の事」 ひとつ 小荷駄馬(こにだうま)三十七疋、前日朝おおせつけられ候わば、一疋につき ただし 代金十三匁五分、夜中右同断。 ひとつ 右当日出をおおせつけそうらえばは、一疋につき、この分ハ前々より家業さしとどめ置き候につき、こんぱん、おおせつけられ候日より、御用おおせつけられ候前日迄、足どめ銀日々銀四匁づつ、御渡しくだしおかれ候よう願い上げたてまつり候。但し、御用おおせつけられる日よりハ一疋につき、代銀十匁五分 夜中右同断。右はこんぱん、前書申し上げたてまつり候通り、御用向きおおせつけくだしおかれ候はば、いささかおさしつかえなく、大切ニあい勤めべくたてまつり候。これにより御受書差し上げたてまつり候ところ、くだんのごとし。

 お経のように何度も声に出して繰り返し読めば「候文」が頭に入って来るかも。「同断=同じことわり、同様」。※初心者の読み下しゆえ、参考にしないように。


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御入国お小荷駄曳いて伊勢参り [くずし字入門]

komonjyo8_1.jpg 左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)>棒組

乍恐奉願上候事(おそれながらねがいあげたてまつり候こと) 今度 御入国之節御供相勤候御小荷駄(おこにだ)右口附之者(くちつきのもの)四人、御着城之上、中三日休息仕(つかまつり)罷帰り候筈(まかりかえり候はず)被 仰渡(おおせわたされ)、有難仕合ニ奉存候、付而者(ついては)来ル八日爰元発足罷帰り可申筈(ここもとはつそくまかりかえりもうすべくはず)御座候処、御用済之儀ニ付、右口附之者共 勢州参宮仕(せいしゅうさんぐうつかまつり)、帰着之上人馬共罷帰り候様 仕度奉願候(つかまつりたくねがいたてまつり候)、就夫(それにつき)恐多キ願 品ニ御座候得共(しなにござそうらえども)、馬之儀者(は)口附之者共勢州ゟ(より)帰着迄、此表ニ(このおもてに)差置申度候間(さしおきもうすべく候あいだ)、休息中之御振合ヲ以(おふりあいヲもって)馬宿・飼料代等 被下置候仕度奉願上候(おきくだされ候つかまつりたくねがいあげたてまつり候)、以上

 ここは下世話は現代文訳で。~今度のお国入りで、御小荷駄(荷を運ぶ馬)の口取り(馬子)の者四名、お城に着いて、中三日のお休みをいただき帰るよう仰せつけられ有難き仕合せです。つきましては、来る八日にここを立つ筈でしたが、御用が終わったゆえ、せっかくですから伊勢神社を参拝したく、戻った上で人馬共に帰りたくお願い申し上げます。つきましては恐れ多き願いながら、伊勢神社から戻るまでの間、馬は休息の状態のお振り合い(その場の状況)をもって、馬宿・飼料代などはよろしくお願い申し上げます。まぁ、こんな意だろう。


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御払不足御渡下置(お金かえしてぇ) [くずし字入門]

komonjyo7_1.jpg左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)棒組 前回の続き

 奉願上(ねがいあげたてまつり)候得共(そうらえども)御下ケ金(おさげきん)無之(これなく)、御役所様ゟ(より)御談(ごだん)ニハ私ゟ(より)芝山様江可掛合旨(かけあうべくむね)被 仰聞候間(おおせきかされ候あいだ)、無余義(よぎなく)奉承伏(しょうふくたてまつり)、御同人様江 罷越候処(まかりこし候ところ)、御同人様仰聞ニハ(おおせきくには)御払金之事故(ことゆえ)、兎も角も伊藤様江 可願旨(ねがうべくむね)被 仰聞(おおせきかされ)、彼是(かれこれ)御双方様突掛物ニ相成(つっかけものにあいなり)、事柄(ことがら)聊不相分(いささかもあいわからず)、連々(れんれん)御引延ニ相成(おひきのばしにあいなり)、只々私方計り(ばかり)無謂事(いわれなきこと)ニて極実難渋仕候(ごくじつなんじゅうつかまつり候)、乍恐(おそれながら)元々ハ御同役様方御咄し合(おはなしあい)に而(て)御取引被成候義ニ(なされ候ぎに)御座候間(ござそうろうあいだ)、何様二も早々御調之上、早速私江御払不足御渡被下置様願上候(おわたしくだしおかれるようねがいあげ候)、以上、嘉永五子年二月 御厩御役所様 戸塚村 甚右衛門

 まぁ、お役人が名主農家に五両詐欺? 時代小説でも読んでいるような古文書です。遣われなくなった多くの言葉があって楽しい。「御下ケ金(おさげきん)」「承伏(しょうふく)」「罷越(まかりこし)」「彼是(かれこれ)」「突掛物(つっかけもの)」「聊不相分(いささかもあいかわらず)」「連々(れんれん)」「計り(ばかり)」「無謂事(いわれなきこと)」「極実難渋(ごくじつなんじゅう)」。

 「突掛物」は広辞苑だと「突っ掛けること、突掛草履」だが、ネットの日中辞典で「他人を頼みにして物事をほおっておくこと」。名詞では「ほっておかれて顧みられない物」とあった。古文書解読には「日中辞典」も必要かしら。

 「罷る・罷り」は古文書に頻繁に出てくるのでメモ。「罷る」は去る、退出する、来る、行くの謙譲語。死ぬ。みまかう。「罷越」は参上する、まいる。「連々」はひき続くさま。「極実難渋=ごくじつなんじゅう」はたまた「難渋のきわみ」かしら。「承伏=承服」。


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芝山様 五両返して下さい  [くずし字入門]

komonjyo6_1.jpg 左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)棒組

 乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう) 一(ひとつ)御役所様御馬御飼料御用数年来被 仰付(おおせつけられ)冥賀至極(みょうがしごく)有難仕合奉存候、然(しか)る所、御調役(おしらべやく)芝山様御勤役中(ごきんやくちゅう)、去夷(さるい)五月廿日、御同人様御取扱ヲ以(もって)私江金五両借渡(かしわたし)有之趣にて(これあるおもむきにて)、同年十二月御払代金之内、元利金共五両弐分御引去ニ相成(おひきさりにあいなり)、此段私方ニてハ(このだんわたくしかたにては)其せつ何方様ゟ(いずれかたさまより)も一言之御断(いちごんのおことわり)も無之(これなく)毛頭存不申候義(もうとうぞんじもうさずそうろうぎ)ニ付、何(いず)れニも御払頂戴仕度(つかまりたく)、是迄種々相嘆(これまでしゅしゅあいなげき) ~長いので後半は後日~

 「借渡」は「かりわたし」ではなく「かしわたし」。ここがミソですね。広辞苑や古語辞典にも載っていなかったが、「日中辞典」に~中国語の「借」は「借りる」と「貸す」の両方に使われる~とあった。ここでの「借渡=貸し渡し」。要するに貸したんである。貸した金と利子をオンして払ってもらうはずが、払ってもらえなかったと言っている。「仕度」は「したく」ではなく「仕=つかまつる」+「度=だし・たく・たき等の活用」=「つかまつりたく」。

 余談だが目下、横井也有翁『鶉衣』の原文を読んでいる。大田南畝(四方山人)が「序」を記している。也有翁の「借物の弁」を読んだら面白く、調べれば翁はすでに亡くなってい、『鶉衣』を遺していた。これを世上にしたく出版したと書いていた。「借物の弁」を読めば、物や金の貸し借りについて記した後で、かり親・かり養子も勝手次第なのに、なぜに女房ばかりはかりひきのならぬ世のおきてよ~と〆ていた。そんな貸し借りもしてみたいもんです。


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