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ペリー艦隊来訪で飼葉が急騰 [くずし字入門]

komonjyo5_1_1.jpg 左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)>(棒組)

 乍恐以書付奉申上候(おそれながらかきつけをもってもうしあげたてまつりそうろう) 一(ひとつ) 御役所様御馬(おうま)御飼料(ごしりょう)御用之儀、此度(このたび)異国船渡来ニ付、飼葉御手当被遊候ニ付(かいばおてあてあそばされそうろうにつき)、今般御直段書(こんぱんおねだんがき)御調被仰付(おしらべおおせつけられ)有難仕合奉存候(ありがたきしあわせぞんじたまつりそうろう) 然ル処(しかるところ)異国船風聞ニて(ふうぶんにて)飼葉干草(かいばほしくさ)元相場此節 格外不同ニ(かくがいふどうに)御座候間、差掛り(さしかかり)取留候(とりとめそうろう)相場之儀 難申上候間(もうしあげがたくそうろうあいだ)、此段以書付奉申上候 以上  戸塚村 甚右衛門 嘉永七寅年正月十七日 御厩(おんうまや)御役所様

 異国船来航で、馬の飼料・干し草の値が変動ゆえ調べるよう仰せられて有難仕合。異国船風聞で、馬の飼葉・干し草は「格外不同=規格外で定まらず」。相場は申し上げ難いという内容。

 ペリーの黒船が浦賀に来航し、東京湾内を威嚇航海したのが前年六月のこと。八月に防衛強化で多数台場が築造された(荷を曳く牛馬も駆り出されただろう)。尾張藩も防衛任務で馬の出動頻繁だったか。翌嘉永七年一月十六日にはペリー七艦隊が再び来航。江戸はひっくり返るほどの大騒動。その最中の古文書。(新宿歴史博物館の古文書講座。主催者と久保貴子講師の熱意で、毎回素晴らしい資料を教材にして下さっている。感謝)


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差上申一札之事 [くずし字入門]

komonjyo4_1.jpg 左記の古文書筆写の<解読文+(読み下し文)>棒組

差上申一札之事(さしあげもうすいっさつのこと) 一(ひとつ) 御家中様 御馬飼葉相納候儀(おんうまかいばあいおさめそうろうぎ)私共三人江被為仰付(おおせつけなされ)有難仕合奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)、金壱両を以(きんいちりょうをもって)日数六十日之間御請負(おうけおい)飼葉相納(かいばあいおさめ)可申上候(もうしあげべくそうろう)、当時切飼葉相場両ニ正味百貫目替之積を以(かえるのつもりをもって)随分宜敷品(ずいぶんよろしきしな)入念相納(にゅうねんあいおさめ)可申上候(もうしあげるべくそうろう)、尤(もっとも)相場両ニ拾貫目之高下(りょうにじゅっかんめのこうげ)直段(ねだん)違ひ御座候ハゝ(わば)其節々早速(そのせつせつさっそく)奉申上(もうしあげたてまつり)、相場立替(そうばたてかえ)可申候(もうすべくそうろう)、仍(よって)御請証文(おうけしょうもん)、如件(くだんのごとし)

 各漢字のくずし方は、一字につき何通りもの書き方があり、この古文書はどのくずし字を使っているのだろうと辞書で調べるんだが、これが大変なんだ。一方、これを筆写すれば、スラスラと筆が流れて「くずし字」の味が楽しめる。

 内容は三つの村の三人が、飼葉の納品を請け負い、一両で日数六十日の間に納めてきた。当時の切飼葉は、一両百貫目でいい品を納めてきたが、相場が一両で拾貫目の高下があり、その都度申し上げるのでよろしく、というもの。

 ちなみにあたしが小学生時分は、体重は「貫」を使っていた記憶がある。今あたしは十八貫で、あと一貫はダイエットしたい。(一貫=3.75㎏)

 この文書には異体字が多い。旧字は辞書で簡単に探せるが、異体字はわからん字も多い。三人著名の「鹿浜村」の「濵」は旧字で、「鹿」の異体字が六種ほどあって、ここではブログで変換できぬ字が使われている。「時」も異体字で偏が日で、旁が寸。これまたブログで変換できぬ。日本語の伝統を捨てたデジタルのブログで、わざわざ筆写して江戸末期の古文書で遊んでいる。(amazonで調べたら『異体字解読字典』が2160円で売っていた。購いましょう)


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被為遊候、被為仰付、被下置候 [くずし字入門]

komonjyo3_1.jpg 左記の古文書筆写の<解読文+(読み下し文>を以下に棒組で記す。

 乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)

 一(ひとつ) 私議 御屋形様御掃除御用向(おやかたさまおそうじごようむき)、数年相勤(あいつとめ)冥賀至極(みょうがしごく)有難仕合奉存候(ありがたきしあわせぞんいたてまるりそうろう)、然所(しかるところ)此度御代替(このたびごだいかわり)被為遊(あそばせられ)候ニ付(そうろうにつき)何卒乍恐(なにとぞおそれながら)御目見之儀(おめみえのぎ)、父甚右衛門(ちちじんえもん)通り、被為仰付(おおせつけさせられ・オオセツケナサレ)被下置候様(くだされおきそうろうよう)仕度(つかまりたく)奉存候、此段御聞済之程 偏ニ(ひとえに)奉願上候 以上 文政十夷年九月 戸塚村 甚右衛門

 御屋形様の代が替わって、挨拶を願い上げる文なり。「奉願上候=ねがいあげたてまつりそうろう」。「奉存候=ぞんじたてまつりそうろう」。「奉=たてまつる」は、自分をどこまで卑下するんだって感じで、どうも性に合わぬ言葉です。「被(られ)為(せ)遊=あそばせられ)」。「被(られ・レ)為(させ・ナサ)仰付=おおせつけさせられ、オオセツケナサレ。どちらでも可らしい。「被下置候=くだされおきそうろう」。「仕度=つかまつりたく」。封建制ならではの言葉。この辺は丸覚えがいいようで。嫌いな言葉たちです。

 「御屋形様」は時代小説にもよく出てくる。武家主人への称号。ここでは尾張藩主に尊敬をこめて「御屋形様」。当時の藩主は十一代将軍・徳川家斉(いえなり)の弟、徳川治国(はるくに)の長男で徳川斉朝(なりとも)。そして家斉の十九男・斉温(なりはる・九歳)に藩主が替わっての御代替。家温は一度も尾張入りしなかったそうで、無類の鳩好き。数百羽もの鳩を藩邸で飼っていたとか。二十一歳で死去。なお尾張藩をも君臨の徳川家斉は田沼意次を罷免し、松平定信を老中にして例の「寛政の改革」を行った将軍。(間違っていたら後で訂正)。かく復習して次回を受講です。


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乍恐以書付奉願上候 [くずし字入門]

komonjyo2.jpg左記古文書筆写の<解読文&(読み下し文)>

乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたまわりそうろう)

一(ひとつ) 前々ゟ(より)杣御用(そまごよう)被〇(欠字) 仰付(おおせつけられ)有難相勤来リ(ありがたくあいつとめきたり)候処(そうろうところ)

古来之御直段ニテ(こらいのおねだんにて)壱人ニ付(ひとりにつき)代銀三匁宛(だいぎんさんもんめずつ)被下置候得共(くだしおかれそうらえども)

当時者(は)諸色ニ順シ(しょしきにじゅんじ)高直ニ相成(たかねにあいなり)難相勤(あいつとめがたく)候得共(そうらえども)

是迠者請負等(これまではうけおいとう) 又ハ少分之儀故(またハしょうぶんのぎゆえ) 御願不申上(おねがいもうしあげず)候得共(そうらえども)

此度ハ余程之御用ニテ足シ銀(たしぎん)仕候儀(つかまつりそうろうぎ)難儀仕候(なんぎにつかまつりそうろう)

何卒御慈悲を以(もって) 壱人ニ付(ひとりにつき)銀三匁五分ニ 被成(なされ)被下置候(くだしおかれそうろう)

様奉願上候(ようねがいあげたてまつりそうろう) 右願之通リ(みぎねがいのとおり)御聞済(おききずみ)被成下置候ハゝ(なしくだされおきそうらえわば)

有難仕合ニ(ありがたきしあわせに)奉存候(たてまつりぞんじそうろう) 以上

文化八末年十一月     戸塚村 甚右衛門

 

 江戸の戯作者好きから「くずし字」を勉強で版木文字に少し慣れたが、同じ「くずし字」でも古文書は苦手だ。封建制ゆえの仰々しい敬語綴り。直筆だから筆の流れのままのくずし字で癖も多い。字を見ていると、甚右衛門さんの筆持つ姿が浮かんでくる。あたしは寺子屋の小僧よろしく、一字ずつの筆写お勉強です。また漢文風読み下しにも慣れなければいけない。

まずは、わからぬ言葉をネットや辞書調べ。「杣」=木を植え育てて木材をとる山。木材を切り出す人。きこり。杣人、杣夫、杣木、杣板、杣入り、杣角、杣方、杣川、杣下し、杣小屋、杣道~。ここでは「杣御用」。知らぬ言葉に出会えば、己の無知を知る。江戸は麹町(現・四谷駅前)の尾張藩中屋敷での仕事だから、木こり仕事ではなく「雑草刈り+掘り起し」の野良仕事を「杣御用」と言っているのだろう。

人偏なしの「御直段」。「諸色・諸式」=よろずの品。品々。転じて物価。「足シ銀」も当時は使われていた言葉なのだろう。

 一人三匁から三匁五分に引き上げの要求文だが、「付札」が付いて「賃金三匁二分五厘」の回答あり。尾張藩渋いぜ。文化八年当時の相場は1匁=100文。三匁五分=三百五十文を要求で、回答が三百二十五文。畳職人の日給が三百文ほどで、それよりちょっと多い金額の攻防。数字音痴ゆえ不確か解釈なり。「付札」=公文書に貼付された付箋の一種で指令、意見、返答などがj記された。付紙、張札とも称する。


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尾張藩中屋敷を中村家が開墾? [くずし字入門]



IMG_5943_1.JPG左記古文書の<解読文&(読み下し文)>


  覚(おぼえ)

御殿跡荒地(あれち)起返(おこしかえし)

一(ひとつ) 金拾両

右被下置候ハゝ(くだしおかれそうろうハバ)當辰ゟ来ル(とうたつよりきたル)

牛年迠(うしどしまで)三ケ年相除キ(あいのぞキ)未年ゟ(ひつじどしより)

金弐両壱分宛(ずつ)御上納(ごじょうのう)可仕候(つかまつるべくそうそう)

辰二月  戸塚村 甚右衛門

御作事方(おさくじかた) 御役所様


 「荒地起返」=荒廃田畑を再開発して生産力を回復すること。「被(され)下(くだ)置(おき)」=くだされおき。「ゟ」=より。「宛」=ずつ。「可(べく)仕(つかまつり)候」=つかまつりべくそうろう。 


 この辺の歴史は自分でも調べてみる。尾張藩の主な江戸屋敷は市ヶ谷の上屋敷、麹町の中屋敷、戸山の下屋敷。現在は上屋敷が防衛省、下屋敷が箱根山中心の戸山公園で、ウチ(7Fの部屋)の西窓眼下に広がっている。そして麹町の中屋敷跡は現・四谷駅前の上智大になっている。


 当古文書「覚え」の歴史背景を、サイト「徳川黎明会」と新宿歴史博物館刊『尾張家への誘い』を参考に簡単にまとめてみる。麹町の中屋敷は総坪数1万7870坪。市ヶ谷屋敷の「西御殿」が中屋敷的に機能し始めて、こちらの御殿は老朽化と同時に取り壊し。文化5年(1808)、その跡地2000坪が尾張家御用の中村家に貸し付けられた。中村家は戸塚村と大久保新田(現・高田馬場34丁目、西早稲田3丁目と百人町4丁目)の名主。同家は金20両を投資して畑地とし、作柄もまあまあ也。同12年(1815)に貸付を中止され尾張藩は家臣の手作り地として「年貢米」を上納されることになった。とあった。


 この古文書「覚」では、中村家が金10両で開拓を請け負い、3年開けた4年目から年2両1分ずつ上納すると記されている。「10両と20両の違い」「貸付中止」から勝手解釈してみる。ここには坪数の記述がない。1000坪の起返を10両で請け負い、さらに1000坪を請け負って計20両かもと推測される。そうなら4年目から1000坪につき年2両1分上納で、2000坪で4両2分上納か。それでも充分に採算(利益)が上がった。それを知った尾張藩は「中村甚右衛門はうまいことをやりぁがって」と、文化12年に貸付を止め、家臣に与えて「年貢米」を上納させることにしたと推測遊び也。★somiさん、ご指摘ありがとうございます。「来年ゟ」を「未年ゟ」に訂正させていただきます。


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師宣『好色いと柳』の「序」 [くずし字入門]

itoyabagi_1.jpgネットで見つけた菱川師宣(もろのぶ)『好色いと柳』。大傳馬町は鶴屋版。かの業平による『表四十八手』(延宝七年・1679刊)に比す師宣『裏四十八手』(宝永九年刊)の改題再販本(元禄期の版)らしい。表が“四十八手の体位”なら、こちらは口説き手管の四十八手。とは云え、春画に変わりなく「序」のみを筆写。

くずし字はいじっていないと忘れる。先日の「へっつい考」で、くずし字混じりの喜多川守貞『守貞漫稿』や、荷風のスケッチ文が読めて、馬琴のカナリア籠スケッチの文が途中までスラスラと読めた。好色本とは云え、くずし字になじむが肝心なり。さて、以下は自分流釈文…。

「花を見て枝をおり、色を見て袖を引(ひく)ハ、誠に憂世の情にこそ」。あたしは慎み深く生きてきた。花の枝は折らず、いい女の袖も引かず。「人是にうとからバ、つらき事をも弁(わきま)へず、絶(たつ)べき業(わざ)をもよそにやせん」。そこに泥沼ありと承知ゆえに、それらに近寄らぬ心得が出来ていた(嘘ばっかり)。

「よそにやせん」は「よそ+にや+せん」だろうか。「よそ=疎い」。「にや=~だろう」。「せん=栓。方法、手段」。「疎いだろう策のまま=知らずにいる、無知でいる」の意らしい。

「天津神のいにしへハさるものにて、かの業平源氏よりぞ、一しほ此みちたくみにして、盛なること賢かりけれ」。致すは原初のころからだが、人は智慧や余裕が生まれるに従って、生殖より戯れの術を磨くってことかな。

「賢(かしこ)かりけれ」とは。「かり」は形容詞ク活用。連用形で「賢かり」。「けれ」は①伝え聞いた過去の感嘆(~だなぁ)②気付き感嘆(~だったのだ)の意の運用形に接続する助動詞の終止形。この場合は②気付き感嘆で「賢かったのだなぁ」か。

「過し年、業平の述作婚合の秘手四十(よそじ)に八の手、予求て世にあまねく流布せり。今亦裏四十八手ハ手くだの品を書す」。昔、業平が四十八手の体位を著して世に流布したが、今また裏四十八手は手管の品を書す。

「大概(たいがい)絵像(ゑざう)にあらはして、また婚姻の容貌を記す」。概ね絵で、夫婦の様子を記す。「たゞ恨らくハ、楮端の短ふして言語を洩す事を。然ハあれど、情ハ道に依てかしこしといへば、間(まま)その要を取て能(よく)あぢはふべし」。「楮端(ちょたん)」の「楮=こうぞ+端」。今は「紙面の都合で」だろう。詳細説明はせぬが情は自然の道理で追及されようから良く味わうべし。かくして、ここから春画展開ゆえここまで。

くずし字や言葉では「こそ」「弁へず」「楮端」「よそにやせん」、また形容詞ク活用などを勉強した。


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江戸の貨幣・物価もお勉強 [くずし字入門]

 昨年受講の「古文書中級コース」で「江戸貨幣」の説明あり。受講時は「くずし字」を覚えるのに精いっぱいで、宿題として聞き流した。『曲亭馬琴日記』を読み、「へっつい」調べをし、長風呂の時代小説などから、改めて「江戸の貨幣・物価」を知りたくなった。知りたい時が、勉強どき。ここにメモする。

≪単位≫

金は1両=4分=16朱/1分=4朱(四進法)

両小判=(2分金×2枚)=(1分金×4枚)=(2朱金×8枚)=(1朱金×16枚)

銀は1貫=1,000匁=10,000分。1匁=10分(十進法)

  一分銀=(1朱銀×4枚)=(250文×4枚)=(1,000文)

銭は1貫=1,000文。(1文銭・4文銭・10文銭・100文銭有り)

kaheikuzusi_1.jpg≪化政期の変動相場≫

「金・銀・銭」は相場変動制。江戸時代当初は「金1両=銀50匁=銭4,000文」だったが、小生は「文化・文政期」が好きゆえに当時の相場を、丸田勲著『江戸の卵は1個400円!』より

化政期の金1両=6400文=銀64匁/銀1匁=銭100文也。

現在価格に換算すると…

1両=128,000円、1分=32,000円、1朱=8.000円、銀1匁=2,000円、1文=20円。

主だった当時の庶民収入は≫

大工=日給は銀5匁4分(10,800円)、年収は銀1貫5876分(3,175,200円)

小商い(棒手振り)=日給は500600文(10,00012,000円)

石工=日給400文(8,000円)

畳職人=日給267文(5,340円)

鳶職人=日給300文(6,000円)

商家奉公=無給の小僧7~8年で手代(年収3~5両=284,000640,000円)から昇給。

下女の年収=2両2分(320,000円:月収26,666円)

≪主だった当時の支出は≫

裏長屋の九尺二間の家賃は400600文(8,000円~12,000円)

高給の大工職人は四畳半の二間で家賃1,000文(銀10匁)

米一升=5570文(1,1001,400円)

3人暮しの年間食費=銀350匁(700,000円)

銭湯=6文(120円)、床屋=28文(560円)、煙草=10文(200円)、木綿の古着=100文(2,000円)、草履=6文(120円)、蕎麦=16文(320円)、握り寿司=一貫8文(160円)。

『三十俵二人扶持』とは まず「三十俵」は“切米”(御目見以下の武士・御家人に俸給。御目見以上は“知行米”で石高)で、米相場現金を年3回にわけて支給。

1俵=4斗=40升=400合。1俵=60㌔。30俵=1,800㌔。現在相場10㌔=5,000円なら90万円、10㌔=6,000円なら108万円。

「二人扶持」は職務手当てで米(玄米)支給。本人と家来1名分。11人5合で、二人で1升。1升=5570文。30升は1俵未満。玄米から白米にすれば約1.5倍。(間違っていたら随時修正す)


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床の間に作蔵がゐる炬燵かな [くずし字入門]

toko3_1.jpg 江戸文化(近世文学)の田中優子教授が法政大新総長に決定とか。それを祝して田中優子本を本棚から引き出し読めば、そこから思いがけぬ「データベース」に辿り着いた。「国際日本文化研究センター」のデータで『床の置物』。読み込みに数分かかるが、モニターに現われたは「日文研叢書24・近世艶本資料集成Ⅰ・菱川師宣2『床の置物』」。

 

天保年間刊で全十三丁。テーマは「張形」。武家屋敷の奥女中や公家屋敷の上臈(じょうろう)の世界、つまり大奥や奥女中たちの張型をお使いになる様や、そのハウツーが克明な絵で描かれた珍本なり。ここは弊ブログなど見ずに、上記データベースの妖し絵を愉しむがお勧め。あたしは真面目ゆえに「くずし字」の勉強で「序文」を写筆せり。同書は釈文付きだが、例のごとく自分流解釈を交えて記す。

 

「凡(およそ)交遊のしなある事ハ、一生うれ(愁)へをさつて(去って)よろこ(歓)びを延(のべ)し、寝筵(ねむしろ=寝ゴザ)のうゑにも、千話(ちわ=痴話=床のなかの戯れ合い話)の真砂の数々つくる(尽きる)事なし。」…下世話に記せば「情交の品があるってぇ事は、あの日あの夜の歓びが甦って尽きる事はない」っつう意だな。

 

「往古(むかし)、作蔵と云(いう)色ごの(好)みあり。妻別れをかな(悲)しみけれバ、をの(己)が一物を木像に作り筐(キョウ、コウ、かご、はこ。かたみ=形見の当て字)にあた(与)へしを、逢ふ心地して寵愛のあまり名付けて作蔵と云しを、末世(すえのよ)の人、木像古風なりとて生(いけ)る一物をなべて(おしなべて)作蔵と云。」

 

 作蔵の別れの事情はなんだったのだろう。作蔵は妻と心・身体を通わせあった己の一物の木像を彫り、別れる妻に与えた。妻はそれを作蔵と思って日々寵愛した。

 

男根=作蔵とは知らなかったが、先日読んだ森田誠吾著『曲亭馬琴遺稿』に、馬琴が平賀源内を評し「戯文とはいえ慢心、人倫を踏み外した」と『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』を例にあげた文が紹介されていた。…稚(いとけな)きを指似(しじ)といひ、又、珍宝と呼ぶ。形そなはりてその名を魔羅と呼び、号を天礼莬久(てれつく)と称し、また『作蔵』と称す。

 

 まぁ、偶然に両著より「作蔵」の意を識った次第。春本とて読めば勉強になる。そうとも知らずに、子の名や店名に「作蔵」とすれば、その意は「珍宝」「魔羅」なり。話を戻し、文章はこう続く。「己が知徳を以て生れながらにして是をしり、習ふて是をする。其是をする事、皆一つ成と孔子もつくされたれバ、稽古のためになれとて、床の置物と名を付るのみ」

 

 まぁ、コトは教えなくとも覚えていたすって意だろう。しかし欲は拡大するのも然り。もっと長いの、もっと太いの、もっと形の違ったものをと、さまざまなのが「床の置物」に並ぶことになる。同書は次にその使い方へ入ってゆく。田中優子教授の本にも詳しく解説されているが、弊ブログはここまで。

 

 追記1:丸田勲著『江戸の卵は1個400円!』を読んだら、普及品の水牛角を加工した物でも二朱(1万6000円)はした、と書かれていた。

 

 追記2:杉本苑子著『滝沢馬琴』読んでいたら、元飯田町の家を継いだ長女・幸(さき)は婿・清右衛門を迎えていたが、老いた清右衛門が幸を抱くもコトに致らず、胸下のしこりが大きくなって具合が悪くなったと告白するシーンあり。ここで二人は若き日を思い出す。清右衛門は幸のそれまでの“ひとり遊びの道具”を見せられ、幸をいじらく感じて“いつくしみぬこう”と思ったと告白する。幸は「あれは立花侯の屋敷にお中﨟奉公した時に朋輩の女中衆と使い合った道具で…」と言う。

 まぁ、「作蔵」記述文との出逢いが変に続いている。


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地震火事すはやの時のご用心 [くずし字入門]

hinoyoujin2_1.jpg 前回「火の用心のうた」の続き。前半は数ヶ所わからなかったが、後半はほぼ解読か…。 

 

火の為に着替えのきものさだめおけすハやといへる時の用心

火の為に夜もながすな居風呂の湯も朝こぼせこれも用心

火のときハ老人子供病人をけがせぬやうににがす用心

火のときハ火のある火ばち火入などあハてて蔵に入れぬ用心

火のときハ宝過去帳諸帳面證文るゐを焼かぬ用心

火のときは極大せつなものならバ蔵へ入れずにいたす用心

火のときハ盗人多くあるもの顔みて荷もつわたす用心

火のときハ金銀などにめをかけて大事の命すてぬ用心

 

 最初項の★「すはや」は「すは=あっ、やっ=突然の出来事に驚き発する感動詞」+「や=強調」。二項目の★「居風呂」は「据風呂」だろうか。★五項目の「過去帳」は故人の戒名、俗名、死亡年月日、享年などを記した仏具の帳簿。その家の系譜記録。★火鉢が出てきたので、ちなみに竃(へっつい)、七輪、焙籠(あぶりこ)などを造るのを石灰職人とか。こうした言葉を知らないと江戸のくずし字も解読ならぬのだろう。『江戸の用語辞典』なる書もあるそうで、見つけたら購っておきましょう。『守貞漫稿』なる江戸後期の江戸の暮しを記した全30巻を3冊に収めた書があるそうな。これは図書館の閉架、しかも館内にみ閲覧の稀少本らしい。また図書館通いが始まりそう。

 

皆様、寒くなってきました。大気乾燥。年の瀬の忙しさもあります。どうぞ「火の用心」を。20日の新聞に首都直下地震の被害想定が載っていた。死者23000人とか。怖いのはやはり火災です。


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かわら版火の用心のうた怪し [くずし字入門]

hinoyoujin1_1.jpgfumei2_1.jpgfumei1_1.jpg 平凡社刊、太陽コレクション「かわら版新聞」に小さく「火の用心のうた」が載っていた。全十七番。頭揃えで「火の」、末尾「用心」がデザイン化された文字で並んでいた。「くずし字」初心者ゆえ、残念ながら解読できぬ箇所あり。まずは八番までを筆写、解読を試みた。

火の元は上にたつ人見まわりて内から火事を出さぬ用心

火のもとハ夏とてゆだんせぬがよしもえたる〇〇わけて用心

火のもとハふしんの場所のかんなくず焚ちらしたるあとの用心

火の元はきせるちやうちん火うち箱しそくにつけ木炬燵用心

火の元は捨るハら灰火けし壺火にゑんのある所の用心

火の為にはしご縄ひも桶つるべ蔵もつ人ハ土の用心

火のためにわらし(じ)手ぬぐいたすき帯薬〇〇〇常に用心

火のくらに入るハ見廻りよりあしきゆゑ鼠穴などべして用心

★「しそく」? 解読失敗や、いや、これは「紙燭・脂燭・ししょく」。照明具。松の木を長さ50センチ、直径1センチほどの棒にし、先端を焦がして油を塗って火をともした。手に持って用い、持つ部分に紙を巻いたもの。絵がみたいと思ったが探せずも「古語辞典」に挿絵があった。この項を漢字で書き直せば「火の元は煙管提灯火打箱紙燭付け木炬燵用心」。一茶句に「蚊を焼くや紙燭にうつる妹(いも)が顔」あり。★「火打箱」は火打石、火打金、火口(ほくち)、付け木を納めた箱。

★「蔵持つ人は土の用心」。これにも首をひねったが「火事になったら土蔵の隙間に土を塗り塞ぐ」ことは知っていた。改めて調べてみる。…火が蔵に入らぬように扉や窓の隙間を土で塗り固める。そのための土が「用心土」。出入り職人が常々「用心土」が固まらぬようにかき回していたとか。

★捨るハ「ら灰」? 捨る「ハら灰」? ★鼠穴など「べして」とは? 誤読だろうか。まったくお手上げ〇〇は写真の通り。何方かご教授下さい。続きはまた明日…。追記)最初の「〇〇=まき」だな。


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南北の奉行所ともに火が迫り [くずし字入門]

kandakajic_1.jpg くずし字は手を抜くと、すぐに忘れてしまうゆえ「かわら版・天保五年の神田火事」の続き。今回は版木を彫り終えた後の欄外記述を読む。「同九日ひもの町辺より出火南風はげしく元大工丁にてやけどまる」。「ひもの町=檜物町=八重洲口辺り」。

 

ちなみに「八重洲橋」は江戸時代にはなく、明治17年に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋。大正3年の東京駅開業で撤去。大正14年に東京駅入口として再び架橋。設計は詩人でもある木下杢太郎。そして昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。数奇な運命の橋なり。<この辺は44日の日本橋川(16)で記している>

 

八重洲の火は元大工町、呉服町を燃やして止まったらしい。だがこれで終わりではなかった。追記がもうひとつ。「同十日ごふくばし内より出火西北風はげしく御屋敷方所々御類火それよりすきやばし御門外通よりいよいよ西風はげしくつきじ御門跡辺不残やけ、塩留ばしへんわきざかサマ御屋敷より仙だいサマ御やしき少々やけ芝口にてやけどまる如此大火ゆへ緒人御たすけのため所々御たすけごや相立難有事共なり」

 

呉服橋内と云えば、門内に北町奉行所あり。まさか奉行所から出火や。門内屋敷が次々に燃えて数寄屋橋御門方面へ至る。ここにあるのが南町奉行所。さらに汐留、芝口まで延焼して止まったとある。そして、火災後に財ある方々により「お助け小屋」が彼方此方にできたと記されていた。

 

嘉永2年の「江戸切絵図」を見つつ読んできたが、改めてここで北町奉行所(東京駅八重洲口北口の大丸辺り)と北南町奉行所(数寄屋橋門内、現:有楽町駅中央口駅前広場辺り)の位置を確認。ならばこの目で両奉行所跡を確認したくなってきた。自転車で行ってみましょうか。


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てえへんだ八丁堀に火が移り [くずし字入門]

kandakaji2_1.jpg「かわら版/甲午の火事」(天保五年)の続き。この筆写は地名列挙で馴染みない漢字の“くずし字”と、江戸府内地理のお勉強。文はこう続く。「松島町御屋敷方又壱口ハ茅場町北八丁堀亀しま町飛火致し本八丁堀南八丁堀霊岸島不残佃島飛火鉄砲洲御屋敷方舟松町弐丁目焼留」。

 

 火は北へ飛び「松島町」ってことは水天宮辺りに広がった。南は日本橋川を越えて「茅場町」へ、さらに南下して「八丁堀」へ拡大。ここで「江戸切絵図」を見れば、亀島町辺りから現・八丁堀辺りまでが与力町と同心町が交互に並ぶ「町御組屋敷」。某時代小説を読んでいたら、八丁堀に盗賊の根城があって捕物シーンあり。そりゃないでしょと、江戸地図を知れば時代小説の誤りにも気づく。さて、この火事で茅場町と組屋敷も焼失したか。

 

火は波状拡大する。亀島川を越えて霊岸島へ、隅田川を超えて佃島、鉄砲洲へと広がる。まさに激しい西北風。ここで焼け止まるワケもない。「又一口日本橋向青物町しんば近辺通壱残る同弐三四かたわら中ばしおが丁むし町焼留る又壱口は横山町両国近辺不残浜町御屋敷方新大橋半分焼落」。

 

火の手は次に日本橋川を越えて青物町が燃え、八重洲方面へ。別の火の手は柳橋の南の横山町から隅田川に沿って浜町まで燃えて「新大橋」に迫る。江戸城の東側一帯が焼けていることがわかる。かわら版が摺り上がった後で、飛び火はまだ続き、欄外に九日、十日の延焼が書かれていた。(続く)


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かわら版古地図広げて火の用心 [くずし字入門]

kandakajia_1.jpg 太陽コレクション「かわら版新聞」(平凡社刊)に、天保五年の「甲午(きのえうま)の火事=神田大火事」が地図付きで載っていた。インターネットには文字だけの摺物も幾つか公開されている。さっそく筆写した。

 

 「頃ハ天保五年二月七日八ツ時頃外神田佐久間町弐丁目より出火して西北風はげしく同三丁目少〃焼お玉が池近辺土手下近辺元せいかん寺御屋敷方あまた弁けい橋通りいよいよ風はげしく」。

 天保五年は1834年。江戸後期は徳川家斉の時代。神田雉子町の名主・斎藤家三代による『江戸名所図会』が刊行され、広重『東海道五十三次』完成の年。この大火による死者は二千八百名とも四千名とも記されている。

 

出火は「八つ時」。草木も眠る丑三つ時、深夜二時頃だろう。外神田佐久間町は現在もあり。秋葉原駅の東側で神田川左岸。当時は材木商が多く、出火の多い地だった。すでに材木置き場は木場に移転していたが、五年前の文政十二年(1829)にも佐久間町出火の大火あり。これも「かわら版」に載っていたが、同大火の五年後といえば、復興も落着き出した頃の再びの大火だった。

 

火はどのように広がったか。佐久間町の火は、激しい西北風によって神田川を越えて「お玉が池」辺りを燃え尽くした。千葉周作のお玉ヶ池「玄武館」も燃えたろうか。この辺は現・岩本町一帯。「弁けい橋」は巾一間程の藍染川に架かっていた橋。火はさらに南の日本橋方面へ向かって行く。

 

「六口程成小伝馬町本銀町より本石町本町辺宝町小田原町いせ町近辺小舟町小網町近辺ふきや町堺町芝居近辺不残」。「六口程成」は火の手は六ヶ所の意か。まさに地獄の火となった。ここは「goo」の古地図<日本橋>をモニターに映し、手許の江戸切絵図を開き、位置を確認しつつ読み進めてみる。「小傳馬町から小舟町、小網町」と云うから日本橋一帯も「不残」焼けたということだろう。(続く)


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消し炭や身あがりさせて女抱き [くずし字入門]

sinjyu3_1.jpg昨日の続…。「あげくにハ、ふちにはなれしはぬけ鳥、手ぶりあミがさ一かいにてすごすご柏木がもとに来り」。「ふち=扶持=俸禄」に離れて「はぬけ鳥=羽抜け鳥」。羽が抜けてみじめで滑稽な姿。野鳥の夏羽から冬羽にの換羽時期で、季は夏。「手ぶりあミがさ=手振り編み笠=編笠以外は何も持っていないこと、無一文」。「一かい=一介=ひとり、何者でもない」。

 

そんな身ですごすごと遊女のもとに通ってはいけません。そこで「さらしな」は…「おなじとちのひき手茶やへけしすミみすみこんでも、とかくにかよふ恋のやミ、爰にも一ト月すむやすまず、よし原の元地へ遊女やの若ひ者に住込しが、爰にも長くしりがすハらず、あけてもくれてもかよひつめ」。

 

「けしすミ=花街の男の奉公人」。吉原なら風呂番、引手茶屋なら雑用兼ポン引きか。斎藤緑雨は樋口一葉が女性ながら「消し炭」なる言葉を知っているとは、なんとも凄いと盛んに感心していたと、どこかに書いていたそうな。扶持なしの羽抜け鳥になった男が日々通ってくれば、遊女も窮する。

 

「たがひにかしわ木も日夜の身あがりにつむりの物まで入あげて今ハ借金に首もまハらず、ないしょの手まへもめんぼくなく、つまらぬどうしのくされゑん」。「身あがり=身上がり、身揚がり=遊女が自分で抱え主に揚げ代を払うこと。金のない情夫の相手をする場合が多い」。「つむりの物=髪の物=簪(かんざし)、櫛、笄(こうがい=結髪用具)など、高価な装飾品もあり」。こうなれば、もう共倒れ。

 

「いつそしんだら、此くるしミをのがれてめいどで夫婦になる事もあらんといゝ合、人目のせきと年の関をやうやうこして元日のめでたき中に心中の死ぞめするぞはかまけれ」。「人目のせき(関)=関所のように人を容易に通さない意から、人目がはばかられ思うままにできないこと」。江戸時代は月〆、年〆ツケゆえに大晦日は大忙し。静かになっら元旦に心中をしたとか。

 最期に「かきおきのすゑに二首のうたあり」で「門まつのめいどのしるし目あてにて死出のたびぢへいそぐ元旦」と「川たけの苦がいの淵を浮ミ出てならくのそこに身をバうづめん」

 羽抜鳥・消し炭・手振り編み笠 身あがり・つむりの物…こんな言葉を覚えても何にもならねぇんだが…。メモ:下五「女抱く」とすれば終止形で二段切れ。


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元旦にひよくれんりのなれのはて [くずし字入門]

sinjyuu2_1.jpg 前述の『かわら版』に<元旦心中の次第>あり。知らぬ言葉が多いゆえ、これまた筆写・勉強した。まずは他の多くの「かわら版」同様に格言からの書き出し。「およそ世の中に男女のミちほど遠くてちかく、ふミまよふものハなし」。そして本題へ。

 

 「こゝに浅草広小路に大杉屋といへる遊女やのかゝえ柏木といふ女郎あり、ことしあけて三十一さい、さかりハすこしすぎたれど、きれいこつがら、心だてまで仲の丁ばりのおいらんといへどもおよびなきほどなしが」。

 

浅草広小路は江戸岡場所のひとつ。「こつがら=骨柄=人柄」。「仲」は吉原だろう。「丁ばり」とは? 遊女が格子内で並んでお披露目するのを「張り見世」「見世を張る」。「丁=町」か。吉原・五町を代表する「張り」とでもいう意だろうか。まぁ、器量・人柄を併せての最大級の賛辞。

 

 「いかなる前世のあくゑんにや、去年七月ごろより大久保様の御家中にさらしなといふさむらい、ひとなれなじミ、ひよくれんりのはなれぬ中となりゆくまゝに」。…「ひとなれなじミ=人慣れ馴染み」。繰り返しの強調表現。下世話に云えば「肌がぴったり合った」ってこと。それがどれほど良かったか。「ひよくれんり=比翼連理=相思相愛=離れ難いほど仲睦まじい」。んまぁ、そんな巡り合いをしてみたかった。だが、それほどよろしいと、うつつが溶ける、盲目になる。

 

 「かのさらしなも柏木がまことのこゝろに身を打こんで、雪のふる夜も雨の日もかよひつめたる百夜のちぎり、深きちぎりのふか草や、その浅草のわかれぢに、袖ひきとめしゐつゞけが、かうじかうじておやしきも不首尾となりし」。

 深草と浅草の言い回しは歌舞伎、狂言、都都逸にでもあった言い回しか。悦楽の後には苦しみが待っている。長くなったので次回へ続く。


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ケネデイのひいた芭蕉の道祖神 [くずし字入門]

dousosin1_1.jpg 故ケネディ大統領の長女、キャロライン・ケネディ氏が駐日大使として来日した。ワシントンの日本大使館での就任歓迎レセプションで、氏は来日を心待ちにする心境を芭蕉『おくのほそ道』冒頭の「道祖神のまねきにあひて取もの手につかず~」を引用したそうな。

 

 『おくのほそ道』全句を辿ったことがあるも、その箇所は頭に残っていなかった。日本人なのに、これは恥ずかしや、と改めてひもといた。冒頭は有名な「月日は百代(はくたい=ひゃくだい)の過客(くわかく=かきゃく=かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也~」。引用された「道祖神」は、その冒頭より五、六行後に出てくる。

 

アメリカのケネディさんが芭蕉をひくなら、日本人のあたしは、せめて江戸当時の字(くずし字)を書き起こすほどのことはしたい。手許の書は新字の読み下し文(萩原恭男校注の岩波文庫)で、ここから私流くずし字で書き起こす。

 

原文は芭蕉草稿を曾良が筆写し、素龍が浄書とか。原文を読む“くずし字参考本”があって、容易に原文を眼にできようが、ここは自己流がミソ。そう云えば、現代文からくずし字を書き起こすは初体験なり。さて、素龍がどんな字を書いたか想像も出来ぬが、やってみましょう。

 

 読み下しは…やゝ年の暮、春立(たて)る霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もヽ引の破(やぶれ)をつゞり、笠の緒付(つけ)かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まず)心にかゝりて、住(すめ)む方は人に譲り、杉風が別墅(べつしょ)に移るに …そして第一句、草の戸も住替(すみかは)る代(よ)ひなの家

 くずし方は多彩変化。後で原文と私流くずし字を比べて、恥をかいてみましょう。


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源内も震えた奇談かわら版 [くずし字入門]

uma1_1.jpg 池袋西口の古本まつりで、平凡社の太陽コレクション『かわら版』(昭和53年刊)を入手。江戸・明治の多種「かわら版」を「読みくだし付」で紹介。「珍談奇談の流行」の項に「百姓の女房、馬の子を産む」を筆写してみた。

 

 「くずし字」初心者でもスラスラと読めるレベル。筆写も一発書き。まずは「このたび所ハ山城の国嵯峨大徳寺前」。「大徳寺」は金閣寺近くの実在の名刹。実と虚の入り混じり奇談なり。「百姓左次右衛門女房之おいね、としは二十五才なり」。「左=さ」で「右=読まず」で「さじえもん」。「衛」は「エ」で省略。左と右を含む立派なお名前。

 

 「此百姓左次右衛門のうちに、あし毛のむまを常々からかいおき申ところ、うちの女房おいねつねづねから、いたつてきりやううつくしき女なりしが、毎日毎日この馬にかいばをあたゑけるが」。「むま」は馬。

 

 「このむま、のちにハ、此女房おいねのかをかたち、こゝろばゑ、きりようのうつくしき事に見い入れられ、有る日、馬にかいばやるときに、むま、家ゑおいねをひきこみ、むまがすぐにこう加ういたして」。まぁ、むまが女房にぞっこん惚れて、遂に「こう加う=交合」致して…とある。

 

なんと獣姦奇談ではないか。北斎に「蛸と海女」の絵あり。ギリシャ神話では王妃と牛の交合でミノタウロスが誕生した。さて続き…「その月この女についニむまの子をはらミて、今月二日に馬のかをのつきたるあか子をうみし事、ま事(誠)にめづらしき事どもなり」。挿絵は豊満な乳房の女房と、馬の顔で身体は人間の赤子の絵。まさにギリシャ神話のミノタウロス。ご丁寧にも、赤子の陰茎の巨大なことよ。

 このかわら版は江戸後期。かわら版作者は、ギリシャ神話のミノタウロスを知っていたのだろうか。平賀源内も男根のような棒を叩きつつの浅草の人気講釈師・志道軒をモデルに、スィフト『ガリバー旅行記』に匹敵の物語『風流志道軒傳』を書いた。かわら版作者も女房と子の、その後の波乱万丈物語を記せば、後世に名を遺せたかもしれないと思った。いや源内の才気ゆえの無残な死を思えば、無名のままが良かったような。


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菩提の「ぼ」+煩悩の「ぼ」=「ぼヽ」 [くずし字入門]

syun1_1.jpg もう少し、春画のくずし字をアップしてみよう。まずはよく登場の「ぼゝ」。漢字では「開」。このブログでよく登場する大田南畝(蜀山人)は、菩提の「ぼ」と煩悩の「ぼ」で「ぼゝ」だと、どこかに記しているそうな。さすが也。前回は絵に比し、文章は未成熟と記した。こんな文を筆写してみた。

 

 「いいかいいか フヽヽウ フヽヽウ いいかいいか それそれ どうだどうだ フヽウ、フヽ、ウフヽ アヽ、いゝぼゝだナア、 アレアレ こつぼ(子宮)のくちが しつぽしつぽと まらのあたまをかみつけらア あれ アヽ いくいく サアサア きをやるナ、ウヽヽ てまへいがいくいくか カヽヽヽ ぼゝのなかが火のやうになつてきたア ハアハア、ハアフヽヽヽウ おれもいくぞいくぞ、いいいいいいい ぴくうり」

 繰り返し「くの字点」を多用(横組みだと上手く行かぬ)で、やはりてぇしたこたぁ~ない。こんな枕絵だが、他の絵で「さ+ま」で「さま」の合字を教えてくれたので、脇にメモを残した。くずし字の初心者には、春画も貴重な勉強の場なんですねぇ。ええっ、もっと続けろと!


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六ケ敷魅死魔幽鬼夫と認めて [くずし字入門]

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古文書で「むずかしく」は「六ケ敷」。この「しく」は「し」で終わる形容詞の連用形「シク活用」だろう。以下参考書『古文書の読み解き方』より…「厳敷=きびしく」「如何敷=いかがわしく」「怪敷=あやしく」「委敷=くわしく」「嘆敷=なげかわしく」「宜敷=よろしく」「久敷=ひさしく」「甚敷=はなはなしく」「紛敷=まぎらわしく」「睦敷=むつまじく」と多用される。「申間敷=もうすまじく」「致間敷=いたすまじく」。「敷」に替わって「鋪・舖」も遣われる。

 

この「六ケ敷」から暴走族らの当て字を思う。それを遊んで三島由紀夫は市ヶ谷自衛隊駐屯地(現・防衛庁)で自決の頃、ドナルド・キーンへの手紙に「怒鳴門鬼韻様」としたため、ドナルド・キーンは「魅死魔幽鬼夫様」と返信し、三島は文字通り「魅死魔幽鬼夫」になったそうな。(ドナルド・キーンの「東京新聞」掲載随筆」より)。

 

前回「令(せしめ)」をメモしたが、「為」も多用される。「為読聞」の「為=ため、としての他に…せ、かせ、させ、わせ、し」。「以御慈悲」の「以=もつて」。「可仕段=つかまつるべきだん」。今は「仕=つかまつる」は死語だろう。

 また古文書では「隙=ひま」で、「暇=いとま」、「閑=しずか」らしい。(参考:増田孝著『古文書・手紙の読み方』)。一方「聞く」と「聴く」は同じように遣われている。しかし今の辞書では「聴く=心を落ち着けて注意して耳に入れる。傾聴する」。音楽は創り手・受け手ともに演奏(歌手の喉を含め)の一音づつのこだわり、音創り、表現があり、それを受け手も愉しむゆえに「聴く」がふさわしい。音楽関係者が安易に「聞く」と記す場合はこだわり、矜持、誇りのない方と思われてもしかたがないかも。


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枕絵の怪し文読み江戸っ子でえ [くずし字入門]

mibobo1_1.jpg十月末、池袋西口「古本まつり」に行った。『くずし字解読辞典』、『東京名所圖會/四谷區・牛込圖之部』、太陽コレクション『かわら版新聞』を購った。他に「くずし字」はないかと探せば浮世絵の枕絵(春画)あり。葛飾北斎の『東にしき』『縁結出雲杉』、重信『柳の嵐』も買った。

 

男なら春画に添えられた「くずし字」をスラスラ読んでみたいと思ったことがあろう。で、まぁ、読めるようになっているんですねぇ。絵は超誇張のスーパーリアルでお見せできぬが、「くずし字」筆写で、自己流釈文でやってみよう。

 

まずは「見ぼゝは毛ぼゝ、しぼゝは小ぼゝ、さぐりぼゝは大ぼゝと誰やらが言った事だが」 …見るぼゝ(開=ぼゝ)は、ふんわり繁った毛開(ぼゝ)に趣があり、致すならば締りの良い小さな開(ぼゝ)がいい。手で探るなら大きい開(ぼゝ)が良いと誰から言ったそうだ。(北斎らしい)。

 

「かう見た所は違へねへ、コレサぢつとしていやな、これも新手で珍しい」。藤兄さんは、いじりながらしげしげと開(ぼゝ)を見つつ、こうつぶやいている。するってぇと姐さんは、たまらず「藤さん何だね、そんな真似をせずと中へ入いんなよ、おらア、もう嫌だのう。気恥しい、そんな所を見せると三年の恋もさめると云うはな、はやく入って抱付いてくんなといふにさ」。

 

姐さん、恥ずかしくもあり興奮もしているようす。見ていないで早く入れてよぅとおねだり。藤兄さん、まだ余裕がある。姐さんの開(ぼゝ)を愉しみつつ、こんなことを言い出した。

 

「コレ此頃聞けば、辰野郎にさせたじやねへか、裾つぱり(裾っ張り、裾張=淫乱女)めへ、させるもいいが覚悟をしてさせや、あとで業恥をはたかねへ用心しろ」。なんと、いたしつつ痴話喧嘩が始まった。「業恥」は知らねど「業腹」はある。「業」は仏教用語で煩悩による「悪業」と解釈すれば、「業恥」は煩悩による恥、大恥。さて、恥は「さらす」で、陰口を「たたく」だが、江戸っ子は恥を「はたく」か。姐さんも藤兄イに反撥する。

 

「ナニ辰べいにさせたと、ヘン、よしてもおくれ、あんなきざな野郎にナニさせるものか、人のことを云わずと、おめへ、お民さんにのろけたじゃねへか」。姐さん、そうやり返したが、今はそんなことより兄さんに真面目に取り組んでいただきたい。

 

「アレサ、そりやア、まア、いゝから、中へばい(「い」の前に「は」欠けだろう)んなといふによ、じれつてゑのう」。「エヽ、もつと足をすぼめやな、口綺麗なことを云わずと白状したうえで、よかるがいねゝ」。

 枕絵の絵は凄いが、文は今のエロ小説に比すれば大したこたぁねぇ。絵は成熟していたが、文章はまだ熟れていなかったのかもしれない。熊さんハっつあんも寺小屋に通っていただろうから、このぐれぇは読めて「ウヒッヒッ」と笑い愉しんでいたかもしれない。


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忝奉存候=かたじけなくぞんじたてまつりそうろう [くずし字入門]

kanyoku1_1.jpg 古文書を好かんワケは、封建時代ゆえ極度の尊敬語・丁寧語満載ゆえだろう。遺された古文書は、概ね上下関係のなかの書付、記録。しかも漢文調だ。あたしは熊さん八ッつあん同士の手紙が読みたいが、そんなものは遺っていない。

 

「忝奉存候」なる漢字四字をなんと読む。「かたじけなくぞんじたてまつりそうそう」と十八文字の平仮名になる。下から上へ読む「返読文字」もややこし。以下、読み難い慣用句を列挙メモ。これを覚えれば、かなりの部分がスラスラと読めることになる。

 

「仰付被下置候様偏奉願上候」は、~仰せ付け下し置かれ候(そうろう)様(よう)偏(ひとえ)に願い上げたてまつり候。どこで区切り、返読するかは暗記するがいいだろう。

 

「被為 仰付被下置候ハヽ」。~仰せ付け為(な)され下し置かれ候らわハ」。「為=ため、として」の他に「為=せ、かせ、させ、わせ、らせ、し」と読む。「被=(受身で)され、さる」。「被成=なされ」「被下=くだされ」「被成下=なしくだされ」「被下置=くだし置かれ」「被仰付=おおせつけられ」「被為仰付=おおせつけなされ」「被仰聞候=おおせきかされ候」「被仰出者也=おおせいださるものなり」。

 

上記に「可」が付くと「可被下=くださるべし」「可被成=なさるべし」。「可被下候=くださるべくそうろう」となる。この場合の「可」は可能ではなく、申すの丁寧語。

 

「仍而如件=よってくだんのごとし」。「如此=かくのごとし」。「不及申=もうすにおよばず」。「令」も古文書特有で「令吟味=ぎんみ(せしめ)」「令請印=うけいん(せしめ)」「令覚悟=かくご(せしめ)」「令沙汰=さた(せしめ)」など。この辺は慣用句ゆえ丸覚えがいいようです。


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男は「穴賢」。女は「穴~」。合字メモ [くずし字入門]

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片山正和著『60歳からの古文書独学』(新人物往来社刊)を読んでいたら、ネット販売の古本市で入手の吉原は三浦屋・高尾大夫の恋文の写しが載っていた。女性書簡にひんぱんに登場する「仮名のくずし字の合字=まいらせ候、さま、かしく」の解読に、一時はあきらめたほど難渋した。「どうしてこんな字形になるのかわからない」とまで記していた。「さま」は「さ+満」の合字。「まいらせ候」は「詣の旁」のくずしで省略したと推測するが…。

 

 合字(ごうじ)。講座の先生は“合わせ字”と言っていた。あたしは古文書の勉強前に荷風句で「かしく」は知っていた。男が手紙文末に記す「かしこ」の女性版。荷風は若き日に「こう命」「壮吉命」と彫り合った芸者・富松が、後に亡くなったと知って墓地に香花と共に「晝顔の蔓もかしくとよまれけり」の句を手向けた。その「かしく」が朝顔の蔦のようで、荷風の遊び心…、いや、富松から文末に「かしく」の恋文をもらったことがあってのことと推測する。

 

 その「かしく」は「可之久」だろう。ならば男性の「かしこ」は「可之己」か。「穴賢=あなかしこ」。「穴が賢い」とはなんぞや。「あな」は感嘆詞「ああ。あら」。「かしこ=賢し。畏し。恐れ多い。畏れ多い。尊い」。「謹んで申し上げます」の意。

 

 これら手紙文末に用いられる言葉は「書き止め」と言うそうな。「書き止め」には「恐惶謹言」「恐々謹言」「頓首」「敬白」など。

 

合字の「より」はよく眼にするが、「こと」は未だ見たことがない。探していたら兼好『徒然草』の書き出し二行目「うつりゆくよしなし<こと>を」があった。三行目の<こそ>も合字っぽい。

「可被下候=くださるべくそうろう」の「可+被」も、「可=(の)のようなくずし」と「被=(ヒ)のようなくずし」が合字になっていて、筆順は最後に「ヒ」の右点を打つらしい。合字は他にも多かろうが、これまでに知った合字をメモしておく。


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古文書・原稿用紙・デジタル体裁 [くずし字入門]

kirisitan1_1.jpg ワープロ前は原稿用紙に原稿を書いてきた。原稿書きのルール通り「改行(行替え)」して、次の行頭を「一字アキ」で書き出す。これはワープロからパソコンの横書きになっても変わらず。しかしブログになると、改行が「一行アキ」になる。「ウィキペディア」などは「一字アキ」もない。これがデジタル文の形らしい。

 

 当初は面食らったが、ブログの文字組は行間が狭いゆえ「行替え」で「一行アキ」になった方が読み易い。ここは郷に従えだが、あたしは「一行アキ」になった次の文の頭は、原稿書きのルール通り「一字アキ」で書き出している。

 

 一方、古文書<筆写は参考書「古文書の読み解き方」(吉川弘文館)よりキリシタン法令文一部>の場合は、五行目の「不残曲事ニ可被」の次が「一字アケ」で、「仰付」に続いている。この「一字アケ」(ニ字アケの場合もあり)は、「仰」の主に敬意を表しての「闕字・欠字」。

 

五行目の最期「常々被」は改行されて、「仰付」が行頭から始まっている。これを「平出・平闕(へいしゅつ)=平頭抄出」。お上ゆえの行頭。さらに貴人名や称号を書く際は行頭より「一字上げ」、天子の場合は「二字上げ」の場合もあって、これを「擡頭・台頭・上げ書き」。これらは電子辞書にも説明されている。

 

 上記のような古文書の書き方があり、原稿用紙では「改行・一字アケ」になり、デジタル世界では「改行が一行アキ・一字アキなし」になった。

 

 古文書の参考書は掲載原文は古文書通りで、読み下し文・現代語訳は改行・欠字・平出すべてなしで、本文は原稿書きルール。三通り混合の構成で、なんともややこしい。

 

ついでに言えば、印刷業界も活字組版から電算写植、そしてデジタル(DTP)になった。文章も写真もメール送信。DTPは送信された原稿を棒打ちでレイアウト・スペースに流し込み、後から原稿書きルールに直す作業をしている。よってデジタル世代のDTP担当者が原稿書きルールを間違えぬよう、あたしは原稿ルールで書いた文をプリントアウトして、これに文字指定(書体、字間、行間指定)をして手渡している。DTPはこれを見つつ行替え・一字アキに改めてくれる。

 

写真も容量が大きいとウィルスと判断して送れない、受取れない。結局はCDRを手渡す。便利になったようだが、ちっとも便利になっていない。

 

 筆写の読み下し文は… 一(ひとつ)、切支丹宗門御制禁の儀、御高札(ごこうさつ)の面(おもて)急度(きっと)相守り申すべく候、自然(万一の意)不審なる勧めいたし候僧俗(そうぞく=僧と俗人)これ有り候はば、郷中の儀は申すに及ばず、他所より参り候共とらへ置き申し上ぐべく候、もし隠し置き申し候わば、一郷のもの残らず曲事(くせごと=正しくないこと、処罰)に仰せ付けらるべく候間、常々仰せ付けられ候御法度の趣、油断無く吟味仕(つかまつ)るべく候

 怖いねぇ、間違いは村全体罰。今も体育系教師が、一人の失敗で全員を殴ったりしている。あたしも中学の時に、佐藤先生に数メートル飛ぶほどの勢いで殴られたことある。今でもなぜ殴られたのか理由がわからん。


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右衛門に読まぬ右あるややこしさ [くずし字入門]

otokona1_1.jpg かかぁの時代小説を読んでいたら、こんな文章があった。…剛左衛門(ごうざえもん)が死体を見て絶句した。「ま・ま・松前屋の信右衛門(しんえもん)さんに間違いありません」。

 

お気づきだろうか。剛左衛門は「左=ざ」と読んで、信右衛門は「右」を読まぬ。古文書の勉強を始めると甚右衛門、伊右衛門、忠右衛門 与右衛門など〇右衛門さんがやたらと出てくる。古文書の講師が「名前も読めるようになりましょう」と言ったが、なぜに「右」を読まぬかは教えてくれなかった。「う・え」の発音が似ていての省略か…。

 

「衛」のくずしも実に多彩。『くずし字解読辞典・普及版』でも、これだけの文字例が載っている。古文書の参考書を見れば、さらにあって、とても覚えられぬ。あげくはカタカナの小さな「エ」で済ます例も多い。

 そして「エ」の次の「門」が、「つ」のようなくずし字で、名前は署名での登場例が多いから、この「つ」が二倍三倍の大きさで書かれていたりする。まっ、大きな「つ」があれば〇〇衛門だなと思って間違いない。加えて村名主に〇右衛門が多いのは何故だろうか。この〇を「名頭(ながしら)」と言うそうな。寺子屋の子供達は「名頭字盡」なる一覧表教材で学んでいたとか。


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筆写はコピー紙とゼブラ毛筆なり [くずし字入門]

fudepen_1.jpg 何度か記したが、ワープロ出始めの時期(80年代中ごろ)に万年筆からワープロに切り替えた。以来(約30年間)手書きから離れていた。それもあろう、古文書の写筆がえらく愉しい。

 

 と云っても書道とやらには無縁。遣うはコピー紙と筆ペンの自己流。幾つかの筆ペンを試して「ゼブラ毛筆+硬筆」の「毛筆」側が気に入っている。反対側の硬筆は毛のない樹脂のスポンジ状で、これはまったく遣えない。「毛筆」側の毛先(ルーペで覗くと毛状だが、獣毛風の合成樹脂製筆毛だろう)も、しばらく遣っていると毛先に乱れが出るので消耗品と思っている。

 

 ペン軸の中に墨(水性染料インク)が入っているが、これに頼らずに小皿に液墨と水を垂らして、筆滑りがいい感じになる水気含みで書いている。時に「クレタケ製」カラー筆ペンで遊ぶ。あたしの場合の古文書の愉しみは「解読・江戸を知る・言葉を知る・筆書き」かな。


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檀那ゆえ旅の手形を寺が出し [くずし字入門]

danna1_1.jpg 江戸時代の「往来手形」の古文書を筆写していたら「旦那」が出てきた。…右の者宗旨代々浄土宗にて、即(すなわ)ち拙寺旦那に紛れ御座無く候、然る処、此度心願の儀これ有り候に付き、四国巡拝致したく候間、国々御関所相相違無く御通し下さるべく候

 

この古文書から「あぁ“旦那”は檀那、檀家なんだ」と遅まきながら知った。サンスクリット語「ダーナ」からの仏教語。「与える」「贈る」の意。お寺にお布施をするのが「檀那・檀家」。「菩提寺=檀那寺」。

 

亡き父が、年金暮しに係らず菩提寺からなにかとお布施を請われてホトホト弱っていた。父が亡くなり、お寺さんと縁を切って公園墓地にお墓を移した。これで気軽に墓参りができるようになった。一人っ子のかかぁの両親の墓も都営霊園で、坊さんとは余り縁がない。

 

江戸時代は「寺請制度(檀家制度)」で誰もが檀那寺をもたねばならなくなって、「往来手形」は古文書例の通り、お寺がこの人物は拙寺の旦那だと証明して交付したそうな。江戸市中なら家主が身分を証明。女性だと檀那寺や町村役人も「往来手形」を交付できず、「町奉行」だったとか。この「寺請制度」による宗門人別改帳が、住民票になった。つまり寺が幕府の役所になって、そこからお寺は宗教活動をおろそかにして汚職の温床にもなったそうな。明治維新の「廃仏希釈」のエキセントリックな状況の裏には、そんな寺への怒りもあったらしい。ちなみに関所が廃止されたのは明治2年1月。というワケで、古文書から歴史のお勉強に広がった。

 

今なら「往来手形」に替わるのが「パスポート」。戸籍謄本(抄本)と住民票、自己確認の運転免許証を揃えれば国が交付してくれる。机の奥深くに確か10年有効のパスポートがあったはずだが、もう、この歳では海外に行くのも億劫ゆえに探し出すこともなかろう。


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山の字に二の字てん付け出るとなり [くずし字入門]

yamayama_1.jpg 古文書の参考書を写筆していたら…「理不尽出入りの旨申し立て出訴奉(しゅっそたてまつ)り」なる例が出ていて、四文字目の「山」に「二の字点」が付き「出」と読ませて、「出入(でいり=もめごと)」。

 

今まで何気なく書いていた「踊り字」だが、筆運びはどうなのだろうと「二の字点」を調べた。何のこたぁ~ない、「二」を斜めに書けばよかった。「山」にくり返し「二の字点」で「山と山」で「出」。遊び心を感じます。「二の字点=揺すり点」。縦書き、かつ訓を重ねて読むときに使われる。

 

 ちなみに他の「踊り字」は「一の字点」が仮名の場合は「ゝ」「ゞ」、カタカナの場合は「ヽ」、漢字の場合は「々」。二字以上の繰り返しは「くの字点」で、これはパソコンでは出ない。「く」と打ってフォントを大きくするが、横書きでは成り立たない。「より」などの「合字」も古文書系専門ソフトではないと出てこない。

 

 くずし字の勉強は筆字ゆえ、パソコンとは対極領域。それをブログテーマにするってぇのが無理なことで、ゆえに面白いところもある。


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後の世に煩悩満ちて浅茅かな [くずし字入門]

asajigaharabun_1.jpgasajinoe_1.jpg 西村重長版『絵本江戸土産』下巻は再び浅草裏に戻って終る。文は現在の隅田川七福神巡り(三囲神社・弘福寺・長命寺・白鬚神社・向島百花園・多門寺)コースに重なる。

 

 いとゞ秋は物わびしく。いづくも同じ。秋の景色正燈寺の紅葉を見物して。夫よりたどりて。二本堤を三谷にかゝり。今戸橋を渡りて。浅茅が原に至て見れば。そのかミ梅若の母。妙亀と云尼の結びし庵の跡。妙亀堂とて今にあり。即鏡が池の側なり。昔の有さま哀を催し。秋の日の短を悲しミて。夕暮にやどりかえりぬ。是ぞ実に四時の興ある。江戸紫の所縁の方へのよき土産にもなれかしと。つたなき筆をたつるめでたさ

 

「いとゞ=いっそう、ますます、いよいよ」。「いづくも=どこも」。正燈寺は竜泉一丁目のもみじ寺。梅若と云えば白鬚神社、木母寺辺り。「なれかしと=~そうなってほしいと」。「浅茅が原」は浅草から橋場・総泉寺(現在は板橋小豆沢に移転)辺り。「たつる=絶つる」で「つる」は完了。「めでたさ=よろこばしい位の心境」か。

 

浅茅が原と云えば、浅草寺から隅田川寄り「花川戸公園」に、浅茅が原「姥が池」の怖い鬼婆伝説が眠っている。私流メモなら、「江戸千家」師匠だった亡き母が、浅草芸者衆の芸の発表会「浅茅会」の茶席に係っていて、子供時分に「浅茅会」の名をよく耳にしていた。売れっ子芸者・三浦布美子がいた頃と記憶する。浅草は浅茅でもあろう。

 

「江戸千家」は、江戸東京博物館の江戸関連催事を見学した際に、江戸の女性の習い事順位表で「江戸千家」が一位とのパネルがあった。江戸には「江戸千家」の時代があったのだろう。

 

 これにて西村重長版『絵本江戸土産』上・中・下巻の全文筆写終了。少しは「くずし字」が身に付きましたでしょうか。なお重長の次は鈴木春信版『絵本江戸土産』になる。春信版は「序」以外は上・中・下巻を通じて全頁が絵に文章を添えた形になっているが、とりあえず『絵本江戸土産』シリーズをここで終える。このシリーズの釈文は有光書房刊『絵本江戸土産 茂長 春信画』解説・佐藤要人を参考にさせていただきました。


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水無しの音無橋に狐啼き [くずし字入門]

oujie1_1.jpgotonasibasi1_1.jpg 次は飛鳥山の麓の王子。絵は「おせうぞくゑの木」(装束榎)と「おうぢのいわや」が描かれて、文は「王子初午」と題されている。以下、釈文に私流メモを交える。

 

 「衣更着初午。王子稲荷参詣とて。あすか山のほとりより。老若男女群集して。百度参りの員取のさし社辺に充り。山に至りて狐穴を拝し赤飯をさゝげ奉り。」

「衣更着」は、寒くて衣服を更に着ること。如月、二月。「初午=はつうま・はつむま」はお稲荷さんの誕生日。「百度参りの員取(かずとり)」は数取。数を数え覚える串や木の枝など。「さし」は穴あき銭にとおす麻縄。

 

 「かえりまふしに王子社へ遥拝しぬ。伝え云此の稲荷ハ関八州のとうりやう也とて。毎年極月晦日の夜。狐あつまりて。鳥居に至りて。官位の差別あるよし。其ときの衣装榎とて。田の中に有り。此所に先あつまりて。社の方へ行くよし。近年殊に霊験あらたにて。毎月牛の日の参詣。引きもきらず。のぼりてうちん道路にミてり」

 

「かえりまふし」は「帰りついで」だろう。「遥拝」は遠くから拝むこと。「極月」は十二月。「衣装榎」に集う狐らの絵は広重が描いている。「のぼりてうちん=幟提灯」だろう。「ミてり」は完了で、見えるだろう。どうも素人ゆえ「だろう」連発になる。

 

今は「音無橋」下が「音無親水公園」になってい、昔の面影を再現するかの造園になっているが、子供時分は不気味な谷だったように記憶している。これは昭和30年頃からの約20年に渡っての神田川(音無川)改修工事で、まず水路が変わって不気味な“水無谷”だった頃の風景を子供時分に見たのだろう。谷底にうごめいていたのは狐だろうか…。

 

oujibun3_1.jpg音無橋は昭和五年十一月竣工。震災復興橋のひとつだろう。三連アーチ橋で、御茶ノ水の「聖橋」に似ている。設計は全国各地の有名橋設計の増田淳とか。両側共に二か所の小半円バルコニーが張り出て、子供時分に不気味な“水無谷”を覗き込んだのはここからだったように思われる。

 「おまいさん、今日はどこに行ってきたんだぇ。おや、王子かい、だったら扇屋の卵焼きを買ってきたかえ。なに、忘れた。そりゃないよ」とかかぁが言われた。西村重長版『絵本江戸土産』上・中・下巻、次回で全終了。


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酒なくて何が花見の飛鳥山 [くずし字入門]

asukayama2_1.jpgasukayama3_1.jpg

 

  

 

 

 

 

 

 

 重長版「絵本江戸土産」下巻は「神田明神」から「飛鳥山花見」へ飛ぶ。釈文に私流メモを交え記す。書き出しは<春のいとゆふ長閑なりし折しも上野ゝ花もふるめかし。> 「いとゆふ」は「糸遊」で陽炎(かげろう)、はかないもの。春の季語。芭蕉句に「入かゝる日も糸ゆふの名残かな」。

 

asukahanamie_1.jpg著者・佐藤要人は、同心監視下の上野の花見は飲酒も出来ぬ。比して飛鳥山の花見は酒も扮装もOKで江戸庶民に人気があったと解説している。ゆえに<いざや飛鳥の花見にまからんとて。毛氈弁当さゝゑなど取もたせて。>と続く。「さゝゑ」は栄螺(さざえ)ではなく、小竹筒で水や酒を入れて携帯するもの。

 

ここから飛鳥山の位置がわかる文になる。<駒込よりあすか山にいたり。四方(よも)を詠(ながめ)やれバ。北の方荒川の流白布を敷たるがごとく。足立の広地。目をかぎりにして。尾久村の農業。民の竈も賑ハしく> 今も山から望む地は変わらねど、風景は激変した。遠くに望む川面が白く輝くのを「白布を敷く」なる表現に感心した。

 

次は飛鳥山の桜の説明。<ことさら此花は尊き仰を下し給ひて。芳野の花をうつし植させ給ひしよし。寔(まこと)に花形尋常に灵(こと)なり。色か香(かん)バしくして。吉野ゝ山の。春の景色も。これには過じと。> 

 

asukahanami1_1.jpgこの桜は八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進。荒地を整備し梅や松、楓、桜などを植えて桜の名所として有名になった。昔は東の崖からカワラ投げが行われとか。西側は今よりなだらかな斜面だったが、道路拡張で削られた…と歴史碑にあり。

 次の文の「尋常に灵なり」は普通じゃない。「寔」「灵」は旧字で異体字。最期は<春の永き日をおしミて。ゆふくれに宿にいそぎぬ>で締められている。写真は現・飛鳥山と眼下の景色。


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