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かわら版古地図広げて火の用心 [くずし字入門]

kandakajia_1.jpg 太陽コレクション「かわら版新聞」(平凡社刊)に、天保五年の「甲午(きのえうま)の火事=神田大火事」が地図付きで載っていた。インターネットには文字だけの摺物も幾つか公開されている。さっそく筆写した。

 

 「頃ハ天保五年二月七日八ツ時頃外神田佐久間町弐丁目より出火して西北風はげしく同三丁目少〃焼お玉が池近辺土手下近辺元せいかん寺御屋敷方あまた弁けい橋通りいよいよ風はげしく」。

 天保五年は1834年。江戸後期は徳川家斉の時代。神田雉子町の名主・斎藤家三代による『江戸名所図会』が刊行され、広重『東海道五十三次』完成の年。この大火による死者は二千八百名とも四千名とも記されている。

 

出火は「八つ時」。草木も眠る丑三つ時、深夜二時頃だろう。外神田佐久間町は現在もあり。秋葉原駅の東側で神田川左岸。当時は材木商が多く、出火の多い地だった。すでに材木置き場は木場に移転していたが、五年前の文政十二年(1829)にも佐久間町出火の大火あり。これも「かわら版」に載っていたが、同大火の五年後といえば、復興も落着き出した頃の再びの大火だった。

 

火はどのように広がったか。佐久間町の火は、激しい西北風によって神田川を越えて「お玉が池」辺りを燃え尽くした。千葉周作のお玉ヶ池「玄武館」も燃えたろうか。この辺は現・岩本町一帯。「弁けい橋」は巾一間程の藍染川に架かっていた橋。火はさらに南の日本橋方面へ向かって行く。

 

「六口程成小伝馬町本銀町より本石町本町辺宝町小田原町いせ町近辺小舟町小網町近辺ふきや町堺町芝居近辺不残」。「六口程成」は火の手は六ヶ所の意か。まさに地獄の火となった。ここは「goo」の古地図<日本橋>をモニターに映し、手許の江戸切絵図を開き、位置を確認しつつ読み進めてみる。「小傳馬町から小舟町、小網町」と云うから日本橋一帯も「不残」焼けたということだろう。(続く)


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