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本居宣長②京都遊学時代 [読書・言葉備忘録]

sadaie_1.jpg 小生、勉強嫌いで無教養。「勉強好き」宣長の経歴を辿るだけで辛いが、ボケ防止で引き続き「京都遊学時代」へ読み進む。宣長は宝暦2年(1752)、23歳で京都遊学。まず母方の親戚宅に落ち着いて「景山門」に入った。

 堀景山は藤原惺窩(儒教シリーズで紹介済)の高弟・堀杏庵の子孫。宣長は景山門の塾に2年7ヶ月間寄宿。宝暦3年からは医学を学ぶために掘元厚に入門。病理・生理の基礎医学知識を学ぶも、師は翌4年に死去。続いて法橋武川幸順(30歳)に入門。武川家は代々小児科で、同家に寄宿。ちなみに当時の医学レベルは安永3年(1774)刊の『解体新書』以前で押して知るべし。

 宣長は景山塾で、まずは医学を学ぶために漢学から勉強。景山は朱子学者ながら徂徠学にも関心深く、その影響を宣長も受けた。彼は漢詩と和歌を同列視で捉え、勧善懲悪の文芸観は避けた。さらに師・景山は国文学に造詣が深く「契沖」を尊敬。宣長はその影響も受けて『伊勢物語』『万葉集』などから〝物のあわれ〟を学ぶ。

 ※契沖:真言宗の僧で古典学者=国学者。定家の仮名遣いを「万葉集」「日本書紀」「古事記」「源氏物語」解釈を正した『和字正濫抄(契沖仮名遣)」を著わした。keicyusorai_1.jpg ※荻生徂徠:朱子学、仁斎学を批判し、古代言語を重視する「古文辞学」を標榜。柳沢(綱吉側近)に抜擢されるも、綱吉死去と吉保失脚で茅場町に住み(宝井其角宅近く)、私塾を開く。吉宗の信任を得て助言者になる。有名なのは赤穂浪士「切腹論」。彼の考えから「経世論」が誕生。

 次に宣長の歌について。京都で宝暦2年(1752)に冷泉為付門下の森河の門人になるも、4年後には二条流・有賀長川に師事。松坂に戻った後も指導を受け続けた。京都遊学の初・中期は漢詩文尊重で、末期は和歌尊重へ。「漢詩も和歌も等しく性情の道だが、物に感じる深さは、漢詩より和歌が勝る」と記した。遊学中に詠んだ歌は約1500首とか。定家『古今和歌集』を絶対視した。

 また景山は雅人で、門人を花見、月見、詩会によく誘ったそうで「味噌の味噌臭きは上味噌に非ず、学者の学者臭きは真の学者に非ず」とする通人心得をもって酒、煙草、能、芝居、花見、当然ながら茶屋遊びなども愉しんだらしい。宣長の京都遊学は5年8ヶ月。宝暦7年(1757)に松坂に帰郷。母は宣長の飲酒を大変心配したそうな。

 写真はまずは『古今和歌集』藤原定家(堀田善衛『定家明月記私抄』で紹介済)。次の二人画像は左が契沖、右が荻生徂徠(共に国家図書館データコレクションより)

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