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本地垂迹説VS反本地垂迹説 [読書・言葉備忘録]

anahati.jpg 図書館で『火山島の神話~「三宅記』現代語訳とその意味するもの~』(林田憲明著)を手にした。冒頭にこう書かれていた。~この縁起本『三宅記』は本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」に則り、「薬師如来」が三島神に姿を変え、神々と協働して伊豆の島々を創りあげ(噴火造島の神話)、神の家族らが島を経営して行くという内容が語られている。

 むっ、無学は哀しいね。小生慌てて「本地垂迹説」をお勉強です。「本地=本来の姿・仏=菩薩」「垂迹=迹(あと)を垂れる」。仏教が隆盛した時代に発生した神仏習合思想のひとつ。日本の八百万(やおよろず)の神々は、実は様々な仏・菩薩が化身して日本の地に現われて救済する形態で、この世に現出した権現であるという考えらしい。

 これを伊豆諸島で説明すれば天竺の王子=三島大明神の本当の姿は「薬師如来」。翁が三人の子(若宮=普賢菩薩)、剣(不動明王)、見目(大弁才天)を王子のお供につけて初島、神津島、大島、新島、三宅島、御藏島、八丈島、八丈小島、大根原島、利島~の島造りをする。

okadahatiman.jpg 大島には波布比咩命神社にハブノ太后、そのお腹に2人の「御子」がいて、一人が太郎王子おほひ所を「阿治古」(野増)の大宮神社へ、二郎王子すくなひ所を泉津の波知加麻(はちかま)神社に配置したそうな。伊豆諸島の話しはここまで。

 さて「本地垂迹説」があれば「反本地垂迹説=神本仏垂説」もある。林羅山は廃仏の「理当心地神道」(王道神教・儒主神従)で、羅山に学んだ山鹿素行は後にこれを批判して「日本の神々は仏教、儒教いずれにも従属せず、独自の尊貴性を有す。日本中心主義的な神道」を主張。これが後の吉田松陰、乃木希典らに影響を与えたらしい。

 とは云え、これらは為政者や宗教系の方々のこだわりで、一般庶民の生活・暮しには仏教(神仏習合も含めた)がしっかり根付いて、八百万の神々にも心を委ね癒されてもいる。永井荷風は『日和下駄』に「淫祠」を設け、~歴史的な価値希薄も時代を超えて大事に祀られている祠には、理屈にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しいところに一種物哀れなような妙に心持のする~」と記している。

 街散歩をしていると、長い歴史を経た大小神社に、淫祠にもよく出会う。理屈抜きで手を合せ頭を下げたくなってくる。宗教については未勉強なので、改めて勉強してみます。写真上は我家近所の早稲田「穴八幡宮」の「江戸名所絵図」。当時は別当寺「放生寺」が寄り添っていた。写真下は大島岡田村の「八幡神社」。 

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由比正雪はエビデンス不足。虚構頼り~ [牛込シリーズ]

akibasyousetu_1.jpg 牛込辺りの歴史散歩をしていると、由比正雪がひょこひょこと顔を出す。芳賀善次郎『新宿の散歩道~その歴史を訪ねて~(昭和48年刊)にも「光照寺に由比正雪の抜け穴」。「牛込天神町の由比正雪旧居跡」、「秋葉神社の正雪地蔵尊」(左写真)が紹介されている。

 山鹿素行お勉強でも「正雪」が幾度も顔を出した。「丸橋忠弥」は自宅で捕まったが、そこは素行と同じ本郷中間町(現・本郷3丁目?)。捕えた町奉行は後に素行門弟。正雪追補に向かった駒井親昌も素行に兵学を学んでいた。素行が1千石で約7ヶ月赤穂藩に滞在(主目的は甲州流の赤穂城縄張り改め)も、由比正雪の乱~翌年の別木庄左衛門の乱(承応の変)など浪人らの反乱続出で、幕府の浪人取締りが厳しく、浪人・素行も身辺に重圧を感じたことが理由のひとつだろうと指摘されていた。また二人がどこかで逢っていた~かにも注目。

 かくして由比正雪がどこに住んでいたかが知りたく、再び進士慶幹著『由比正雪』の年譜を確認をした。だが正雪が事件を起こす47歳までのエビデンス一切なし。生誕から事件まで僅か数行。面白く脚色された芝居「慶安太平記」(=歌舞伎演目『樟紀流花見幕張』作者は狂言作家・河竹黙阿弥)などを参考にする他にないらしい。下のカットは歌舞伎の小生絵。

 前述「光照寺の由比正雪の抜け穴」にはこう説明されていた。~由比正雪は光照寺(元・牛込城)付近に住んでいた「楠不伝」の道場をまかされて光照寺境内に移ってきた。正雪は後に牛込榎町に移った~。進士著には~ 正雪は養子3回。最初は高松半兵衛の養子。2番目は春日局に出入りの菓子屋・鶴屋弥次右衛門の養子。3番目が軍学者・楠不伝の養子。

m_yuinoran_1.jpg 両著に「楠不伝」が絡む。さて「楠不伝とは」。楠木正成の4男・正平の末裔・正虎の子・甚四郎が後の「楠不伝」。その軍法は『太平記』から、楠木正成の戦い方をまとめたもの。それが幾つかの流派に分かれて、楠不伝が教えていたのが「楠正振伝楠流」。

 「慶安太平記」では楠不伝が牛込榎町で表間口45間、奥行き35間の大道場で教えていて、御大名・御旗本衆など門弟3千人余。正雪は不伝の軍学の教えを受けて養子になった~の設定。そこでは不伝は金満家と描かれているも、実際は貧しき老人で、正雪が何くれと面倒をみてやっていたので秘蔵の正成の短刀、楠木氏系図などを譲られた~の説もあり。

 ここでまた思わぬ人物・林羅山が登場する。彼が書いた『草賊前記』(1651)は、島原の乱や由比正雪の乱は熊沢蕃山の学問をキリスト教に変形したものゆえ排撃する趣旨で書かれたものらしい。さらには「正雪は不伝を暗殺して軍法書などを自分の物にし道場も継いだ」とも書いているとか。原作は知らんが、羅山は熊沢蕃山、藤原惺窩、祖心尼、キリシタン、蘭学などを排斥し(異学の禁)、己の朱子学=幕府の正学をアピールしたくての記述だろうか。

razanhon.jpg 以前に林羅山をお勉強したが、そんな書を書いていたとは気付かなかった。さらに次は新井白石も登場する。吉宗の将軍就任で千駄ヶ谷に隠棲した白石は、各地の方と手紙のやり取りを活発化するが、正雪とは?の質問を受け「知人が若い時分に正雪から軍法を学んだそうで、彼によれば神田連雀町の裏店の5間ほどの家での浪人暮し。そこで旗本や御家中のお歴々に軍法を伝授。話に聞く~牛込榎町で大々的に教授をしていたわけでもないから、真面目に論じるほどの価値もなかろう~と返信していたそうな。

 また進士著では当時の浪人数は約23万余。同じ浪人の子ながら、山鹿素行は神童の誉れ高く、人との巡り合せが良かった。由比正雪も志を抱く優秀な少年だったが、素行よりお行儀が良くなかっただけである、と記していた。

 小生の結論。正雪はやはり小説、歌舞伎、講談で愉しむのがいいようで御座います。既に松村友視『由比正雪』~謎の人物・由比正雪。彼をそそのかす妖艶な女・素心尼~を愉しつつ読んだが、大仏次郎『由比正雪』、山本周五郎『正雪記』、早乙女貢『由比正雪』なども楽しんでみましょ~です。史実が少ないだけに作家の想像力の見せどころ。梅雨明けと同時に猛暑で熱中症の危険。外へ出れば歌舞伎町近くコロナ感染も怖い。クーラーの効いた自室での読書が一番です。

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③山鹿素行と赤穂藩と墓所 [牛込シリーズ]

yamagahaka_1.jpg 素行35歳からの10年間が成熟期。寛文2年(1662)41歳頃に「朱子学から古学へ転向。(古学=『論語・孟子』など朱子学や陽明学の解釈を介さす、直接原文を読んで真意を求めた学。これを素行は「聖学」、伊藤仁斎は「古義学」、萩生徂徠は「古文辞学」) 寛文5年(1665)44歳で古学の主張を発表。

 同年に父81歳没。宗参寺に葬る(宗参寺は鳳林寺と同じ駒込吉祥寺末寺。父埋葬をもって宗参寺が山鹿家の菩提寺になったと思っていいのだろう)。翌年、妾「駒木根不知」が万助を産むも難産で死去。宗参寺に葬る。

 寛文6年、古学の主張を公にした『聖教要録』が幕府の思想統制に反する(朱子学尊奉者・保科正之の告訴)として、赤穂浅野家へお預け(配流)。『配所残筆』には、家に遺書を残し、死罪の場合を覚悟して懐に一通を忍ばせて参上したと述懐している。

 10月9日未明に江戸を立ち、24日に赤穂着。11月には妻子も合流。「讁居(たっきょ)」とは云え、不自由ない暮しで素行は学問専念。「日本中朝主義」(儒教の中国崇拝思想を自己批判し、日本は中国と違って尊王思想が貫かれ、より優れている)思想を固める。

 寛文9年に保科正之、翌年に北条氏長が亡くなり、延宝3年に江戸より赦免の報。満8年3ヶ月で江戸に戻った。なお著者は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに、素行の教育・思想の影響があったか、また討ち入りの際の山鹿流陣太鼓について、それはなしだろうと記している。

 江戸に戻った54歳~64歳が素行晩年期。浅草田原町(4百坪)に暮して10年。晩年も「学問老いて益々盛ん」。借家にあった「積徳堂」をそのまま堂号にして、諸侯との交際再び活発化。素行の『年譜』は日記体裁で、死去4ヶ月前まで綴られており、再晩年は夢を多く記していた。64歳の3月には「葵の紋の小袖を着る」。最後まで幕府中枢に上がる夢を抱いていたらしい。

 貞享2月(1685)64歳、黄疸重態で没。写真は牛込・宗参寺の「山鹿素行先生墓所」。中央の「月海院殿瑚光浄珊居士墓」が素行墓。左は母・妙智、その左が父・貞以の墓。この3基の向い側に妻・浄智、次女・鶴、嫡子・高基ほかの2墓。山鹿家の他の墓は近年に小平霊園に移されたとか。

 山鹿素行学の信奉者としては吉田松陰、乃木大将が有名。乃木希典は赤坂の自宅から学習院への通学途中に宗参寺墓所をお詣りしていたとか。乃木死後に遺族が乃木「最愛の梅」を墓所に移植。その碑もあり。なお「素行学」お勉強は『山鹿素行全集』(全15巻)、尊王思想歴史書『中朝事実』などをどうぞ。

 また山鹿家子孫は平戸松浦家と弘前津軽家に仕えた二派に分かれた。「積徳堂・山鹿文庫」は平戸(平戸大橋近く)に移築され、平戸藩の学問兵学の道場になった。山鹿文庫はまた立川市役所隣接「国文学研究資料館」(ロバート・キャンベル館長)に寄贈されている。余談だがキャンベル氏は『コロナ後の世界を生きる』で式亭三馬の享和3年(1803)の麻疹を描いた『麻疹戯言』はじめ江戸を襲った感染症の記録を紹介している。

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②山鹿素行と七軒寺町・宗参寺 [牛込シリーズ]

sokouikou_1.jpg 21歳で修学終了。その後の山鹿素行は~。広域な学問を学んだ結果、それらを如何にまとめるかが大テーマになった。林羅山の儒教は廃仏論の中国思想、景憲や氏長から学んだ甲州流兵学は仏教の日本思想、光宥・坦斎から学んだのは神仏習合思想。公家と武家思想も縺れ絡まっている。

 著者は「最初は恩師らに習った神・儒・仏・老の4教が一致できる思想を作りあげ、次いで朱子学中心、さらに古学(聖学)へと転向し、最後に日本中朝主義(万世一系の尊王思想)を唱え、兵学の下に統合・従属せしめるにいたる~」と説明。

 そこへ至る道は遠い。まずは兵学。8歳までに「兵法七書」を読み覚え、寛永19年(1642)21歳には尾畑(小畑)甚兵衛景憲、北条安房守氏長より「甲州流・北条流兵学」の修業印可(免許、証明)を賜って『兵法神武雄備集』(城制・武備・争律の3部構成全51巻)を著わして兵学者として名声を得る。各藩主から召抱え希望殺到も、父は「千石下では~」と応じず。同年、素行は町医者の17歳の娘「浄智」と結婚。

 26歳、家光命で北条氏長と共に『城取の作法木図』陰陽両図目録を書いて兵学者の箔をつけ、素行に学ぶ有力諸侯20数名余~。(『配所残筆』には~大猷院様(家光)が北条安房守殿に城を攻略する仕方を示した模型を作るように仰せつけた時、私はおこり(マラリア)に罹っており、安房守殿が私の所にやって来て、同模型についての御相談があり、表裏二つのそれを作り上げました。この模型の書付や目録について私に御相談があって、私が書き上げたのでした~の記述あり)

 27歳、両親や長兄が住む神田佐久間町を出て、本郷中間町(現・本郷3丁目辺り?)に新宅を構える。30歳、長兄が48歳で病没。墓所は牛込七軒寺町の鳳林寺(七軒寺町は現・牛込柳町~弁天町の外苑東通り東側。江戸城の外堀工事で牛込御門付近にあった7寺院が移転して〝七軒寺町〟を形成。絵図を見ると後に菩提寺となる「宗参寺」、祖心尼の「濟松寺」、林大学頭邸、家光老中の酒井忠勝邸などが、この地域に集中している)

yamagasyuhenzu_1.jpg この頃「祖心尼」による素行の「将軍家の御家人登用」工作活動活発。(『配所雑筆』には当時の様子が詳しく記されている。祖心尼から「すでに話は通ており、いずれ上意があろうゆえ、それまで何事も慎重に。また大名の家中などへ奉公することは決してないように」と言われていたが、将軍様が薨去され、話を進めて下さっていた松平越中守殿も逝去されて頓挫。翌年に浅野内匠頭(浅野長直)から千石をいただく事になりました~」とあっさりと書いている。

 進士慶幹著には、この年に由比正雪はじめ浪人らの乱が多発で、幕府の浪人取締り厳しく、その影響もあって素行は後援者で弟子の浅野家へ仕官したと説明されていた。 

 この時の浅野家仕官の主目的は、赤穂城縄張改め(城全体の設計)で、甲州流築城法に基づいて素行が監督。赤穂滞在は約7ヶ月で、あとは江戸赤穂藩邸で兵学を教授。

 この時期、35歳までに約10作ほどの著作を成し、己の思想を進化。「兵道・兵学は単なる戦闘術ではなく、四民の首たる武士の為の修身、治国の天下の道でなければならない」。「兵法=道徳」一致を解く山鹿流兵学が完成する。

 36歳、明暦3年(1657)の大火で、素行の借家焼失。両親を「鳳林寺」に移し、自分は現・市谷富久町の「自証院」内の円乗院に借家。(自証院は祖心尼の孫娘「お振」の寺院。家光側室で「千代姫」を産むも産後3年後に没)。ここでも祖心尼の世話になったと推測。一方『日本の名著 山鹿素行』年譜では〝高田に新造の家(どこだろう?)に移るまで転々とするとある。祖心尼の寺領地は下戸塚村、高田村までに及んでいたから、いずれにしても祖心尼の世話になったのだろう。素行調べが「七軒寺町の由来」や「濟松寺・寺領図」などに及び、牛込氏と山鹿氏のお勉強が、牛込辺りの歴史や町の形成が浮かび上がってきます(続く)。

 写真は文中登場地域の江戸切絵図と国会図書館デジタルコレクション『配所残筆』(育成会、大正2年刊)の素行肖像。


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