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由比正雪はエビデンス不足。虚構頼り~ [牛込シリーズ]

akibasyousetu_1.jpg 牛込辺りの歴史散歩をしていると、由比正雪がひょこひょこと顔を出す。芳賀善次郎『新宿の散歩道~その歴史を訪ねて~(昭和48年刊)にも「光照寺に由比正雪の抜け穴」。「牛込天神町の由比正雪旧居跡」、「秋葉神社の正雪地蔵尊」(左写真)が紹介されている。

 山鹿素行お勉強でも「正雪」が幾度も顔を出した。「丸橋忠弥」は自宅で捕まったが、そこは素行と同じ本郷中間町(現・本郷3丁目?)。捕えた町奉行は後に素行門弟。正雪追補に向かった駒井親昌も素行に兵学を学んでいた。素行が1千石で約7ヶ月赤穂藩に滞在(主目的は甲州流の赤穂城縄張り改め)も、由比正雪の乱~翌年の別木庄左衛門の乱(承応の変)など浪人らの反乱続出で、幕府の浪人取締りが厳しく、浪人・素行も身辺に重圧を感じたことが理由のひとつだろうと指摘されていた。また二人がどこかで逢っていた~かにも注目。

 かくして由比正雪がどこに住んでいたかが知りたく、再び進士慶幹著『由比正雪』の年譜を確認をした。だが正雪が事件を起こす47歳までのエビデンス一切なし。生誕から事件まで僅か数行。面白く脚色された芝居「慶安太平記」(=歌舞伎演目『樟紀流花見幕張』作者は狂言作家・河竹黙阿弥)などを参考にする他にないらしい。下のカットは歌舞伎の小生絵。

 前述「光照寺の由比正雪の抜け穴」にはこう説明されていた。~由比正雪は光照寺(元・牛込城)付近に住んでいた「楠不伝」の道場をまかされて光照寺境内に移ってきた。正雪は後に牛込榎町に移った~。進士著には~ 正雪は養子3回。最初は高松半兵衛の養子。2番目は春日局に出入りの菓子屋・鶴屋弥次右衛門の養子。3番目が軍学者・楠不伝の養子。

m_yuinoran_1.jpg 両著に「楠不伝」が絡む。さて「楠不伝とは」。楠木正成の4男・正平の末裔・正虎の子・甚四郎が後の「楠不伝」。その軍法は『太平記』から、楠木正成の戦い方をまとめたもの。それが幾つかの流派に分かれて、楠不伝が教えていたのが「楠正振伝楠流」。

 「慶安太平記」では楠不伝が牛込榎町で表間口45間、奥行き35間の大道場で教えていて、御大名・御旗本衆など門弟3千人余。正雪は不伝の軍学の教えを受けて養子になった~の設定。そこでは不伝は金満家と描かれているも、実際は貧しき老人で、正雪が何くれと面倒をみてやっていたので秘蔵の正成の短刀、楠木氏系図などを譲られた~の説もあり。

 ここでまた思わぬ人物・林羅山が登場する。彼が書いた『草賊前記』(1651)は、島原の乱や由比正雪の乱は熊沢蕃山の学問をキリスト教に変形したものゆえ排撃する趣旨で書かれたものらしい。さらには「正雪は不伝を暗殺して軍法書などを自分の物にし道場も継いだ」とも書いているとか。原作は知らんが、羅山は熊沢蕃山、藤原惺窩、祖心尼、キリシタン、蘭学などを排斥し(異学の禁)、己の朱子学=幕府の正学をアピールしたくての記述だろうか。

razanhon.jpg 以前に林羅山をお勉強したが、そんな書を書いていたとは気付かなかった。さらに次は新井白石も登場する。吉宗の将軍就任で千駄ヶ谷に隠棲した白石は、各地の方と手紙のやり取りを活発化するが、正雪とは?の質問を受け「知人が若い時分に正雪から軍法を学んだそうで、彼によれば神田連雀町の裏店の5間ほどの家での浪人暮し。そこで旗本や御家中のお歴々に軍法を伝授。話に聞く~牛込榎町で大々的に教授をしていたわけでもないから、真面目に論じるほどの価値もなかろう~と返信していたそうな。

 また進士著では当時の浪人数は約23万余。同じ浪人の子ながら、山鹿素行は神童の誉れ高く、人との巡り合せが良かった。由比正雪も志を抱く優秀な少年だったが、素行よりお行儀が良くなかっただけである、と記していた。

 小生の結論。正雪はやはり小説、歌舞伎、講談で愉しむのがいいようで御座います。既に松村友視『由比正雪』~謎の人物・由比正雪。彼をそそのかす妖艶な女・素心尼~を愉しつつ読んだが、大仏次郎『由比正雪』、山本周五郎『正雪記』、早乙女貢『由比正雪』なども楽しんでみましょ~です。史実が少ないだけに作家の想像力の見せどころ。梅雨明けと同時に猛暑で熱中症の危険。外へ出れば歌舞伎町近くコロナ感染も怖い。クーラーの効いた自室での読書が一番です。

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