SSブログ

本居宣長④晩年 [読書・言葉備忘録]

morinaga.jpg 明和8年(1771)、宣長の神道説の方向が固まったと言われる『直霊(なおびのみまた)』成立。それはインドの仏教、中国の儒教と同じように、わが国には「天照大御神のうけ給ひたもち給ひ伝へ給ふ道なり」なる皇祖神の道。言うまでもなく『古事記』『日本書紀』の世界。特に道を立てゝ、道を説くこともなかったところに、我が国の古道があったと言う。

 あらゆる自然現象、人事現象は神の所為だが、今の世は「漢籍のクセ」がはびこり、漢土外国のものの考えで律している。これを祓い清め、すがすがしい御国心を回復すべしとするのが我が志だとした日本中心思想、尊王論を確立。

 また同年に『てにをは紐鏡』を完成。「てにをは」の係り結びの呼応法、活用法などを分類・図示。すでに漢字音の研究所で「呉音・漢音・唐音」の三音について考察した『漢字三音考』『漢字呉音弁』を、さらに鎌倉時代以来入れ替わっていたオとヲのア行、ワ行を訂正した『字音仮名用格(じおんかなづかい)』をまとめていて、これまた古典研究の国語学を成した。

 明和9年(1772)、年号が安永と改まった43歳の春、宣長は吉野旅行を門人5名とした。この頃の門人45名ほど。神道に突っ込みながらも歌学・詠歌を捨てず、またそれら講義も止めなかった。宣長は神道と歌の共通項に「物のあはれ」を見ていた。両面で門人はさらに20名増え、晩年には40余国487名に膨らんで行く。

tenioha_1.jpg 宣長の43歳から天明8年(1788)59歳までの17年間は、書斎に籠っての神典研究の『古事記伝』執筆に明け暮れた。世は田沼時代。江戸では武士、商人一帯で「狂歌」熱中。

 当時の宣長の暮し。安永2年(1773)44歳で次女誕生、その2年後に西隣の家を購入。47歳で三女誕生ん。次男が養子に出て、長女が嫁ぎ、49歳で長男の子(孫)が生まれた。天明3年(1782)53歳春、家屋に二階を増築し、その4畳半の茶室風書斎(鈴屋)竣工。天明7~8年ころには門人140名余。いよいよ学者としての名声が高まってきた。

 寛政元年(1789)60歳から享和元年(1801)72歳の没年までの13年間が、学問の円熟期。その学問の啓蒙書、実用書多数で普及・宣伝期にもなる。約40年間書き継いだ『本居宣長随筆』は14巻13冊。

 寛政2年(1790)61歳の時に描かせた自画像に、次の歌を書き添えた。「しき島のやまとごゝろを人とはゞ朝日ににほゝふ山ざくら花」(しき島:やまとにかかる枕詞。匂う:色に染まる。山桜花:優美で柔軟な美しさ、心。染井吉野は江戸時代後)

 寛政10年(1893)69歳、『古事記伝』最終巻完で、30余年かけた『古事記』の厳密注釈の大著完成。写真題字は紀州侯徳川治宝に賜った。藩御針医格で十人扶持から奥医師へ昇格。尾張藩は儒学による政治が行き詰まったとして、今後は古学に則った政治を行うべきと宣長を名古屋に招いた。また京都の公家らとも次第に交渉活発化。学問が政治に呑み込まれて行った。

sikisimano_1.jpg 享和元年(1801)72歳、京都で講義するために70日滞在。公家の間に古学浸透。全国に膨れ上がった門人統制に「鈴屋社」が運営。その後に活躍する多数門人を輩出。

 寛政3年、長男健亭こと春庭が失明。寛政12年(1800)に『遺言書』作成。自身の葬式を菩提所・樹敬寺で、墓所を山室妙楽寺の山)にすることなど詳細に指示・注文。享和元年(1801)9月。風邪から肺炎悪化で29日(太陽暦11月5日)に72歳で没。

 以上、簡単に足跡を辿ったが、後に小林秀雄『本居宣長』関連書や、『古事記』などを読む際の予習でした。資料画像は全て国会図書館データコレクションより。コロナ感染の非常事態宣言再びで、ホームスティはいつまで続きましょうか。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。