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②山鹿素行と七軒寺町・宗参寺 [牛込シリーズ]

sokouikou_1.jpg 21歳で修学終了。その後の山鹿素行は~。広域な学問を学んだ結果、それらを如何にまとめるかが大テーマになった。林羅山の儒教は廃仏論の中国思想、景憲や氏長から学んだ甲州流兵学は仏教の日本思想、光宥・坦斎から学んだのは神仏習合思想。公家と武家思想も縺れ絡まっている。

 著者は「最初は恩師らに習った神・儒・仏・老の4教が一致できる思想を作りあげ、次いで朱子学中心、さらに古学(聖学)へと転向し、最後に日本中朝主義(万世一系の尊王思想)を唱え、兵学の下に統合・従属せしめるにいたる~」と説明。

 そこへ至る道は遠い。まずは兵学。8歳までに「兵法七書」を読み覚え、寛永19年(1642)21歳には尾畑(小畑)甚兵衛景憲、北条安房守氏長より「甲州流・北条流兵学」の修業印可(免許、証明)を賜って『兵法神武雄備集』(城制・武備・争律の3部構成全51巻)を著わして兵学者として名声を得る。各藩主から召抱え希望殺到も、父は「千石下では~」と応じず。同年、素行は町医者の17歳の娘「浄智」と結婚。

 26歳、家光命で北条氏長と共に『城取の作法木図』陰陽両図目録を書いて兵学者の箔をつけ、素行に学ぶ有力諸侯20数名余~。(『配所残筆』には~大猷院様(家光)が北条安房守殿に城を攻略する仕方を示した模型を作るように仰せつけた時、私はおこり(マラリア)に罹っており、安房守殿が私の所にやって来て、同模型についての御相談があり、表裏二つのそれを作り上げました。この模型の書付や目録について私に御相談があって、私が書き上げたのでした~の記述あり)

 27歳、両親や長兄が住む神田佐久間町を出て、本郷中間町(現・本郷3丁目辺り?)に新宅を構える。30歳、長兄が48歳で病没。墓所は牛込七軒寺町の鳳林寺(七軒寺町は現・牛込柳町~弁天町の外苑東通り東側。江戸城の外堀工事で牛込御門付近にあった7寺院が移転して〝七軒寺町〟を形成。絵図を見ると後に菩提寺となる「宗参寺」、祖心尼の「濟松寺」、林大学頭邸、家光老中の酒井忠勝邸などが、この地域に集中している)

yamagasyuhenzu_1.jpg この頃「祖心尼」による素行の「将軍家の御家人登用」工作活動活発。(『配所雑筆』には当時の様子が詳しく記されている。祖心尼から「すでに話は通ており、いずれ上意があろうゆえ、それまで何事も慎重に。また大名の家中などへ奉公することは決してないように」と言われていたが、将軍様が薨去され、話を進めて下さっていた松平越中守殿も逝去されて頓挫。翌年に浅野内匠頭(浅野長直)から千石をいただく事になりました~」とあっさりと書いている。

 進士慶幹著には、この年に由比正雪はじめ浪人らの乱が多発で、幕府の浪人取締り厳しく、その影響もあって素行は後援者で弟子の浅野家へ仕官したと説明されていた。 

 この時の浅野家仕官の主目的は、赤穂城縄張改め(城全体の設計)で、甲州流築城法に基づいて素行が監督。赤穂滞在は約7ヶ月で、あとは江戸赤穂藩邸で兵学を教授。

 この時期、35歳までに約10作ほどの著作を成し、己の思想を進化。「兵道・兵学は単なる戦闘術ではなく、四民の首たる武士の為の修身、治国の天下の道でなければならない」。「兵法=道徳」一致を解く山鹿流兵学が完成する。

 36歳、明暦3年(1657)の大火で、素行の借家焼失。両親を「鳳林寺」に移し、自分は現・市谷富久町の「自証院」内の円乗院に借家。(自証院は祖心尼の孫娘「お振」の寺院。家光側室で「千代姫」を産むも産後3年後に没)。ここでも祖心尼の世話になったと推測。一方『日本の名著 山鹿素行』年譜では〝高田に新造の家(どこだろう?)に移るまで転々とするとある。祖心尼の寺領地は下戸塚村、高田村までに及んでいたから、いずれにしても祖心尼の世話になったのだろう。素行調べが「七軒寺町の由来」や「濟松寺・寺領図」などに及び、牛込氏と山鹿氏のお勉強が、牛込辺りの歴史や町の形成が浮かび上がってきます(続く)。

 写真は文中登場地域の江戸切絵図と国会図書館デジタルコレクション『配所残筆』(育成会、大正2年刊)の素行肖像。


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