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床の間に作蔵がゐる炬燵かな [くずし字入門]

toko3_1.jpg 江戸文化(近世文学)の田中優子教授が法政大新総長に決定とか。それを祝して田中優子本を本棚から引き出し読めば、そこから思いがけぬ「データベース」に辿り着いた。「国際日本文化研究センター」のデータで『床の置物』。読み込みに数分かかるが、モニターに現われたは「日文研叢書24・近世艶本資料集成Ⅰ・菱川師宣2『床の置物』」。

 

天保年間刊で全十三丁。テーマは「張形」。武家屋敷の奥女中や公家屋敷の上臈(じょうろう)の世界、つまり大奥や奥女中たちの張型をお使いになる様や、そのハウツーが克明な絵で描かれた珍本なり。ここは弊ブログなど見ずに、上記データベースの妖し絵を愉しむがお勧め。あたしは真面目ゆえに「くずし字」の勉強で「序文」を写筆せり。同書は釈文付きだが、例のごとく自分流解釈を交えて記す。

 

「凡(およそ)交遊のしなある事ハ、一生うれ(愁)へをさつて(去って)よろこ(歓)びを延(のべ)し、寝筵(ねむしろ=寝ゴザ)のうゑにも、千話(ちわ=痴話=床のなかの戯れ合い話)の真砂の数々つくる(尽きる)事なし。」…下世話に記せば「情交の品があるってぇ事は、あの日あの夜の歓びが甦って尽きる事はない」っつう意だな。

 

「往古(むかし)、作蔵と云(いう)色ごの(好)みあり。妻別れをかな(悲)しみけれバ、をの(己)が一物を木像に作り筐(キョウ、コウ、かご、はこ。かたみ=形見の当て字)にあた(与)へしを、逢ふ心地して寵愛のあまり名付けて作蔵と云しを、末世(すえのよ)の人、木像古風なりとて生(いけ)る一物をなべて(おしなべて)作蔵と云。」

 

 作蔵の別れの事情はなんだったのだろう。作蔵は妻と心・身体を通わせあった己の一物の木像を彫り、別れる妻に与えた。妻はそれを作蔵と思って日々寵愛した。

 

男根=作蔵とは知らなかったが、先日読んだ森田誠吾著『曲亭馬琴遺稿』に、馬琴が平賀源内を評し「戯文とはいえ慢心、人倫を踏み外した」と『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』を例にあげた文が紹介されていた。…稚(いとけな)きを指似(しじ)といひ、又、珍宝と呼ぶ。形そなはりてその名を魔羅と呼び、号を天礼莬久(てれつく)と称し、また『作蔵』と称す。

 

 まぁ、偶然に両著より「作蔵」の意を識った次第。春本とて読めば勉強になる。そうとも知らずに、子の名や店名に「作蔵」とすれば、その意は「珍宝」「魔羅」なり。話を戻し、文章はこう続く。「己が知徳を以て生れながらにして是をしり、習ふて是をする。其是をする事、皆一つ成と孔子もつくされたれバ、稽古のためになれとて、床の置物と名を付るのみ」

 

 まぁ、コトは教えなくとも覚えていたすって意だろう。しかし欲は拡大するのも然り。もっと長いの、もっと太いの、もっと形の違ったものをと、さまざまなのが「床の置物」に並ぶことになる。同書は次にその使い方へ入ってゆく。田中優子教授の本にも詳しく解説されているが、弊ブログはここまで。

 

 追記1:丸田勲著『江戸の卵は1個400円!』を読んだら、普及品の水牛角を加工した物でも二朱(1万6000円)はした、と書かれていた。

 

 追記2:杉本苑子著『滝沢馬琴』読んでいたら、元飯田町の家を継いだ長女・幸(さき)は婿・清右衛門を迎えていたが、老いた清右衛門が幸を抱くもコトに致らず、胸下のしこりが大きくなって具合が悪くなったと告白するシーンあり。ここで二人は若き日を思い出す。清右衛門は幸のそれまでの“ひとり遊びの道具”を見せられ、幸をいじらく感じて“いつくしみぬこう”と思ったと告白する。幸は「あれは立花侯の屋敷にお中﨟奉公した時に朋輩の女中衆と使い合った道具で…」と言う。

 まぁ、「作蔵」記述文との出逢いが変に続いている。


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