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荷風のスペイン風邪 [永井荷風関連]

matuisumako_1.jpg 大正7~9年、インフルエンザウイルス(スペイン風邪)のパンデミックがあった。世界で5億人が感染。死者推定1700万人~1億人とか。米国では50万人が死亡。日本では当時の人口5500万人で約2380万人が感染し、約39万人が死亡。

 著名人では東京駅・日本銀行本店設計の建築家・辰野金吾(64歳没)、画家・村山槐多(22歳没)、軍人・西郷寅太郎(53歳没、隆盛の嫡男)、島村抱月(47歳)ほか多数死亡。(ウイキペディア参考)

 そんな時期に永井荷風はどう過ごしていたかを『断腸亭日乗』から探ってみた。

 大正7年:39歳。『おかめ笹』執筆開始。3月、何となく風邪。8月、盟友・啞々や八重次も病む。11月、荷風再び風邪。筋骨軽痛を覚ゆ。平熱なれど目下流行感冒猖獗の折り、用心して夜具̪敷延べて臥す。16日、なお病床。その後に余丁町邸を売り渡す交渉。家具始末など多忙。28日、突然の悪寒で臥す。12月、築地に仮居。同夜、妓・八重福「無毛美開、閨中欷歔すること頗妙」。その後も八重福お泊まり続きで荷風さんのお盛んなこと。

 大正8年:40歳。正月、風邪未痊えずも、八重福との情交ますます濃なり。俄かに春の來れる心地す。八重福を養女にせんと身元を探れば食わせ者とわかる。5月3日、召使ひたる老婆「しん」病死。荷風家に20年余も仕えて60歳を越えての死(スペイン風邪だろう)。それでも有楽座、帝国劇場、新富座、歌舞伎座など観劇。8月19日、風邪。9月10日になっても癒えず。11月、麻布市兵衛町の新居を見る。12月14日、微熱あり。

 大正9年:41歳。正月12日、夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。13日、体温40度。四谷の妓が泊りがけで看護。15日、大石医師が朝夕診察。翌日も熱去らず。昏々として眠を貪る。17日、大石君来診。19日、万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。21日、大石君来診。気遣ふに及ばずといふ。22日、悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。その後、3月20に発熱38度したりするが無事に回復。5月23日に普請+白ペンキの麻布「偏奇館」へ移居、荷風さん新生活をスタート。

 スペイン風邪のパンデミックは、3年も続いていたことがわかる。第2波、第3波とぶり返したのだろう。また当時の日本は、今のスウェーデンと同じく「集団免疫」でやり過ごす他になかったのだろう。そして今の日本の政府・厚労省もPCR検査を増やそうとせず。世界中で稼働の「PCR自動検査機」が日本製だというのに「アベノマスク」に続く愚かさをいつまでも続けるのだろうか。今年5月7日現在のコロナ世界感染者数3,588,773人、死者247,503人。日本の5日現在の感染者数15,192人は全く信用できずで、死者は543人。

 写真は大正7年にスペイン風邪に亡くなった島村抱月へ後追い自殺した松井須磨子(翌年1月5日、34歳)の墓(新宿区・多門院)。遺書に抱月と一緒に埋葬をと記すも叶わず。同情した方々が「比翼塚」(写真右の自然石)を建てた。何故にここで松井須磨子お墓写真をアップかはいずれまた~。

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