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「済松寺」以前。祖心尼の人脈。 [牛込シリーズ]

yamagahaka_1.jpg 芳賀善次郎著『新宿の散歩道』には「済松寺」の記述僅少。それも「鳳凰の池」中心の説明。同寺記述は~ 三代将軍家光が慶安元年(1648)に建立させた大寺である。「江戸名所図会」によると初期の領地は中里町、天神町、榎町にわたる広大な地域に広がっていて、建物もたくさんあった。建物は戦災にあい、境内の鳳凰の池も戦後は縮小された。

 以上で「祖心尼」の記述もない。だが「済松寺」以前の同地記述は散在していた。それを拾って時系順に組立てると~ この一帯は元・九州豊後のキリシタン大名・大友宗麟の子孫が住んだ大友屋敷跡。宗麟の子・義統(よしむね)は朝鮮征伐で戦線離脱。豊後没収で監禁された。子の義乗(よしのり)は家康に仕え、秀吉死後に恩赦。徳川秀忠の近侍となって筑波郡内3千石と「牛込に屋敷300石」を与えられた。

 義乗はキリシタンで36歳没。子の義親も27歳で死去。子がなく大友家は断絶。その後に大奥側近の御祐筆「大橋隆慶」が同地を含め牛込30町余を拝領。天保2年(1645)没で、翌年に「済松寺・祖心尼」に与えられた。

akibayui.jpg ついでに「祖心尼」経歴も多数サイト参考に簡単まとめ。天正16年(1588)に伊勢国岩手城(三重県)の城主・牧村利貞の娘として誕生。俗名「おなあ」。父が朝鮮出兵で戦死。父が懇意の縁で加賀藩・前田家に引き取られ、後の3代藩主・利常と幼少期を共に過ごす。長じて小松城主・前田家に嫁ぎ二児を授かるも離縁される。

 幼児を抱え、父が生前建立の京都・妙心寺の雑華院へ。同寺住職が叔父の一宙禅師。同じ妙心寺内の寿聖院に出家していた石田三成・長男がいて、両者から禅を学ぶ。その後、三成次女の夫・岡重政の縁結びで会津藩蒲生家重臣・町野幸和と再婚(岡も同家家臣)。娘「おたあ」を産むも、蒲生家は跡継ぎなくお家取り潰し。

 浪人となった夫と江戸へ。町野家に仕えていた山鹿家も随行。当時6歳の山鹿素行がいた。素行は林羅山に学び、祖心尼は叔母「春日局」の補佐役へ。祖心尼の娘が岡吉右衛門と結婚して後の「お振の方」を産む。「お振」が春日局養女となって大奥入り。家光側室になって産んだ「千代姫」が、尾張徳川2代目光友に嫁いだ。

 由比正雪は牛込城跡に道場を構えていたが、同地が正保2年(1645)に「光照寺」となり、済松寺境内の地を借りて移った。そこは済松寺から東榎町~天神町の約5千坪に10数棟。江戸川橋通りと早稲田通り交差点近くに「正雪物見の松」が大正時代まであり、大日本印刷榎工場の南東部が正雪学問所庭先の「正雪桜」が昭和5年まであった。慶安2年(1649)の花見宴で「丸橋忠弥」と陰謀を誓い合ったとか。「慶安の変」で「済松寺」のお咎めは寺領400坪没収で済んだとか。

 写真上は「宗参寺(早稲田)の山鹿素行墓」。写真下は「秋葉神社(矢来町)境内右の正雪地蔵尊」。なお丸橋忠弥墓は豊島区高田の「金乗院(目白不動)」にある。

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