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牛込氏1)宗参寺の墓を掃苔 [牛込シリーズ]

sousanjisanmon_1.jpg 「祖心尼」から時代を遡って、「牛込氏」のお勉強です。我家から東方面は地名に「牛込」を冠する町名、駅名、学校、警察署、消防署、郵便局など多数。ウィキペディアに「牛込」冠名一覧あり。数えたら69もあった。

 今まではただ、昔々に牧畜が盛んだった地ゆえ~と思っていたが「牛込氏の牛込城があって、日比谷辺りも領していた」と知れば、お勉強しないワケにはいかない。

 東西線「早稲田駅」から早稲田通りを少し東へ行くと右側に「宗参寺」あり。嘉永年間の切絵図を見れば、「済松寺」と同じく、昔はもっと広かったことがわかる。山門に「牛込氏墓」「山鹿素行墓」の石柱。墓所に入ると「牛込家累代之墓」「大胡家之墓」そして慰霊塔と史跡案内板があった。

usigomesihaka2_1.jpg 牛込氏については、新宿図書館に『大胡系牛込氏の研究』(牛込博康著)、『牛込氏と牛込城』(新宿区郷土研究会)があるも、目下はコロナで閉館中。蔵書の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』『東京都の歴史』、そしてpdfからプリントした『牛込流江戸氏と牛込氏』(矢島有希彦・新宿歴史博物館研究員)を参考に牛込氏調べです。まずは「宗参寺」の史跡説明文から。

 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開祖である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡(おおご)の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によれば、大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。

 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔(くないしょうゆう)の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷、日比谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。(平成10年建設 東京都教育委員会)

 これに芳賀著で補足すれば~ 同寺は神楽坂の坂上近く「袋町」の牛込城(現・光照寺の地)の城主・牛込勝行が、父・重行(法号・宗参)死去(78歳)の翌年、天文13年(1544)に建てた。牛込氏先祖は、赤城山麓の上野国(群馬県)勢多郡大胡町の大胡城の城主・大胡氏。

 「寛政重修諸家請」には大胡重行の牛込移住は北条氏康の招きで~とあり、また「日本城郭全集」では天文6年(1537)前後に移住と推定されている。しかし勧請した赤城神社は応永9年(1402)にはあったゆえ、同社を勧請した大胡氏は室町時代初期には牛込に移住していたと思われると記していた。当時の歴史からお勉強し直してみましょう。(続く)

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