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牛込氏4)「赤城の丘」の思い出 [牛込シリーズ]

akagikitagake_1.jpg 「赤城神社」から「光照寺」へ。ちょっと寄り道をする。野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』の「牛込界隈」から面白い箇所を拾い書きする。

 ~嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若い日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。★荷風『夏すがた』(大正3年・35歳)は発売同時に発禁。妾宅を毘沙門天裏に構えて色事の日々。荷風さん、若い頃から〝覗き好き〟だった。

 (野田氏が20年前・昭和26年に書いた「赤城の丘」文章を振り返って)~赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の鬱蒼たる樹立はすっかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。

 (そして昭和46年の再訪で)~大きな標石が新しくなakagikitakaidan_1.jpgっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変わらず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたしの記憶通りと云ってよい。★現代のモダンな神社と対比すると面白い。

 (こんな記述もあった)~招忠碑の前から急な石段(写真中)が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖(写真上)に面した空地は、明治38年に坪内逍遥は易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらき、自作『妹山背山』を試演した「清風亭」という貸席があった。※その貸席が明治末に江戸川際「長生館」になり、逍遥の許を去った島村抱月や松井須磨子が、大正2年に同館で芸術座を起こす打ち合わせを密かに行った。二人が横寺町に設立した芸術倶楽部や人気演目の説明。そして同倶楽部二階で抱月がスペイン風邪で急逝、2ヶ月後に同館物置小屋で松井須磨子が後追い自殺した経緯を紹介。

 この牛込氏テーマが、東京女子医大創始者・吉岡彌生~もう一人の彌生(草間彌生美術館)~その道路反対側の多門院で松井須磨子のお墓を見たことから始まったゆえ、ご両人の足跡も気になる。

 (「白秋と〝物理学校裏〟」からは) ~大通りから南へ分れた登り坂の道は、以前は江戸以来の通称で「藁店」(写真下が現・藁店)と呼ばれていた。その坂に神楽坂キネマというセカンド・ランの洋画専門の映画館があったのも昭和のはじめのなつかしい思い出である。

waradane_1.jpg ここで野口冨士男『私のなかの東京』で補足する。~藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の「和良店亭」という小さな寄席があった。映画館の「牛込館」はその二、三軒さきの坂上にあって徳川夢声など人気弁士を擁して人気があった、と記している。★大正10年頃の「牛込館」は帝国劇場の内装。震災に遭ったかで明治には平屋の「牛込館」へ。★寄席は時代にとって「牛込藁店亭~和良店亭~藁店笑楽亭」などと名を変えている。

 さて、藁店(地蔵坂)をのぼって「牛込城」があったという「光照寺」へ行ってみましょう。

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