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牛込氏3)赤城神社 [牛込シリーズ]

akagijinjyae_1.jpg 鶴巻町「元赤城神社」から赤城元町「赤城神社」へ。そこは平成22年(2010)に三井不動産系住宅分譲会社+隈研吾設計で、境内に分譲マンション建設。現代風に様変わり。ここは勧請当時の「牛込氏」がテーマゆえ、まずは例によって『江戸名所図会』から。

 赤城明神社 牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野國赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云。往古、大胡氏深く此御神を崇敬し、始は領地に勧請して、近戸明神と称す。其子孫重泰(しげやす)当國に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし、其居住の地は牛込わら店の辺なり。先に弁す。祖先の志を継て此御神をここに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。当社始て勧請の地は目白の下、関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、是を赤城の森とよべり。

akagijinjya_1.jpg ※「江戸名所図会」には大きな別当寺「天台宗東覚寺」が描かれているが、今「東覚寺」はどこにあるや。※近戸明神=赤城山の麓の大胡神社が近戸明神と呼ばれていた。※「わら店」は現・毘沙門天脇から登る「地蔵坂」にあった藁店のこと。その先の「光照寺」辺りに「牛込城」があった。※目白の下、関口領の田の中=元赤城神社・田島森。

 そしてモダンな現・赤城神社の由緒説明は~ 後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十余年を経て寛正元年太田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内少輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。

 ※「正安2年(1300)」がまた出て来た。宿題です。※寛正元年は1460年。太田道灌の江戸城築城が長禄元年(1457)。その後に多数神社を江戸城周辺に勧請し、赤城神社遷座もその頃に行われた。

 芳賀著より補足する。大胡氏が現在地に天城神社を移した弘治元年(1555・天文24年)は、重行の子・勝行が北条氏康の重鎮家臣となり、正月に宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏に改めて牛込から赤坂、桜田、日比谷辺りまでも領していた。また勝行の子・勝重の妻に、江戸城の遠山綱景の娘を迎えていた。

 そして天正18年(1590)、江戸城が徳川家康に明け渡され、関東が家康領となり、牛込氏も徳川の家来になった。家康江戸入城に際しては牛込七ヶ村が川崎までお出迎え。その後で牛込城が廃城へ。牛込氏は一旗本になった。

 芳賀著は最後に~ 牛込氏について不明な点が多いのは、徳川に遠慮して史料を処分したため、かつ為政者も黙殺したせいかも知れないと記していた。次は「牛込城」があった地「光照寺」へ行ってみる。

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