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牛込氏2)元赤城神社と田島森碑 [牛込シリーズ]

motoakagijinjya_1.jpg まずは当時の歴史把握から~。「応仁の乱」を経て「東山文化」を創った足利義政・没が1490年。その後に戦国時代へ突入。

 関東では1457年に太田道灌が江戸城を築城。1486年に道灌が、内山上杉と扇谷上杉の対決で謀殺される。翌年から18年に及ぶ両上杉の戦い「長亨の乱」。上杉衰退で、北条早雲が1493~5年に伊豆や小田原を、1516年には相模を平定。早雲を継いだ北条氏綱が、反北条勢を打破して関東を掌握した。

 牛込氏は扇谷上杉側だったが、氏綱の江戸城攻め(1524)では北条氏に従った。『東京都の歴史』年譜に、1526年(大永4年)、北条氏綱が比々谷村の陣夫等を免除し、牛込助五郎に充(あ)て行う、とあり。つまり比々谷村(日比谷村)は北条氏の臣・江戸衆の牛込助五郎(=大胡・牛込重行)所領を意味している。1573年に室町幕府滅亡。

 では大胡(牛込)氏の牛込移住は何時だったか? 現・鶴巻町に大胡氏が故郷・赤城山中腹の赤城神社を勧請した「元赤城神社と田島森碑」がある。「江戸名所図会」の「赤城明神旧地」にこう記されていた。田畔小川に傍(そふ)てあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は神輿を此地に渡しまいらす。

 同神社「田島森碑」(写真の左石碑)には~ この宮處は古へ「田島の森」と云ひ、又、椚の大樹ありしを以て「椚の森」とも称へ。赤城元町にある「赤城神社」の旧址跡にて、今より六百三十一年前、後伏見天皇の正安二年といふに創めて赤城の大神を濟ひ鎮め奉りし處なれば、元赤城神社と称へ奉りき。そも牛込の地は北條氏菅領地たりし頃、牛込氏の領地なりしか。同氏は上野國赤城山の麓なる大胡の里より移り来しかは素より赤城の大神を尊び奉れり~(以下略)大胡氏が赤城山中腹の天城神社をここに勧請したと記されていた。

 芳賀著には~ 宗参寺の地が大胡氏最初の居住地。その北にある鶴巻町は「ツル=水路のある低地・原野+牧(巻)」で鶴巻町。水路のある低地原野の牧場の意で、大胡氏が管理していて、田島森に牧場守護の郷土・赤城神社をこの地に勧請と記しているが「正安2年(1300年)」(鎌倉時代)にクエッション。これは「赤城神社」現説明文にも「正安2年(1300)に上野國赤城山の麓から牛込に移した大胡彦太郎重治により牛込早稲田の田島村に創建された」と記されているが、これも年代的に合わない。牛込重行の出生は寛正6年(1465)。重行より前の世代と言っても、時代の隔たりが大き過ぎる。※ここは調べ直しが必要かも。

route2_1.jpg では当時の牧場管理とは? 「元赤城神社」には「江戸・東京の農業 神崎の牛牧」なる説明看板もある。~文武天皇(701~704)の時代、現在の東京中心には国営牧場が何か所もありました。大宝元年(701)の大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするため天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。ここ元赤城神社一帯にも官牧が設けられました。このような事から早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので「牛が多く集まる」と言う意味の牛込と呼ばれるようになりました。(中略)明治19年の資料によると牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町にはたくさんの乳牛が飼われていました。(平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業)※神崎とは?

 大胡・牛込氏は戦国武将であると同時に、牛飼いのボスでもあったらしい。芳賀著には、大胡氏は室町時代初期には牛込に移住していたのだろう。大胡での牧場管理経験があって、牛込の牧場管理・経営の任を関東管領足利氏、または執事・上杉氏の命で牛込に来たと思われる。その頃は宗参寺の弁天町、牛込、戸塚辺りまでを支配していたと推測している。

 牛込氏は室町時代(戦国時代前)のカウボーイのボスだったと思うと面白さが増す。宗参寺~元赤城神社~天城神社~牛込城があった現・光照寺を訪ねるルート図を添える。次は「赤城神社」へ向かう。

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