SSブログ

金子光晴②生立ちと性遍歴 [読書・言葉備忘録]

mituharahon_1.jpg 金子光晴、明治28年(1895)末、愛知県海部郡生まれ。出生時の姓は大鹿安和。父は資産家だったが博打や事業失敗で名古屋へ。2歳、清水組名古屋出張店主任・金子家の養子になる。16歳の妻・須美が〝おもちゃ〟のように可愛がり育てる。

 翌年、義父の京都出張店転任で京都へ。京都の小学校入学。小学3年の時に日露戦争。小学4~5年の頃、材木置場で近所の子らと〝桃色遊戯〟。包茎チンコを女の子が銜える~など。母は父の茶屋遊び・妾・仕事で不在多く、時に嫉妬のヒステリー爆発。その度に「お前は百円で買った貰いっ子」と当たる。芸人夫婦の娘・静江に惚れ、その頬を「食べたい」衝動。

 明治38年(1905)10歳。父の東京転勤で銀座に仮寓。泰明小学校へ。銀座・竹川町の教会へ通ってキリスト教の世界を覗く。4、5人の手下を従え「かっぱらい」などが発覚し土蔵軟禁15日間。翌年、牛込新小川町へ移転し、津久戸小学校に転校。絵が好きで小林清親に日本画を習う。10歳の時に縁ある押上・春慶寺の豆まき後に、豆を拾いに寺奥まで行くと男女のまじわりを見て、身体が震えるほど驚いている。台所で働く老婆が「従兄弟同士は鴨の味だっていうが、そんな味がしますか。私とここの旦那もいとこ同士だったんですよ」。老婆が彼らに便宜を図り、見張り役をしていたらしい。また友達と牛込から横浜まで歩き、アメリカ密航を企てて失敗したのもこの頃。当時からバガボント(放浪者、漂泊者)の芽生え。不摂生で病んで不登校も、お情け卒業。

kiyotikaten.jpg 写真は2015年の小林清親展ポスター。小生、自転車を買って中村橋・練馬美術館まで観に行った。光晴は「その頃の小林清親は、あの独特の版画〝東京名所〟でもてはやされた全盛期を過ぎて、生活もドン底だった」(『相棒』の「清親のこと」)

 明治40年(1907)12歳。暁星中学入学。優等生だったが、次第に同校のアリストクラシー(貴族主義)やフランス式に反発して「漢文」に熱中。「史書」に親しむ。さらに馬琴作など稗史小説に深入り。義父の浮世絵コレクション(行李一杯に春画があった)に魅了され、友人らと友人姉をクロロホルムで眠らせ、秘所を入念観察。

 中3。親戚から手伝いに来ていた女性に、春画より本物をと本格初体験。この頃から14歳違いの義母と相姦関係が始まったらしい。その罪悪感を薄めるために悪所通い開始。一方、若宮八幡境内の弓道場に通い、道場主から5番目の腕前に。道場の留守番をしていた娘の名「おさい」と二の腕に彫る関係も、彼女は心臓麻痺で急死。

 大正2年(1913)18歳。早大英文科予科に入学。田舎の学生ばかり、かつ自然主義文学の牙城が気に入らず1年半で退学。(下宿の炬燵で友人同士手淫しあって学校へも行かずオブローモフな日を送っている者もあったとかで~)。上野の美術学校・日本画科入学。モデルの身体を撫でまわす。選別試験失敗で退学。慶大英文科に中学。学業に身が入らず、今で云うナンパに明け暮れ。徴兵検査は11貫で丙種。ひ弱ながら荒んだ生活で21歳で病床生活。荷風『珊瑚集』、鴎外『沙羅の木』、与謝野寛『リラの花』など翻訳詩からボードレールに熱中し、試作を開始。父は胃癌で、義母は隣家の相場師くずれの西村某でデキていて、光晴は家の前の娘・君子に惚れ、従妹・秀子と、さらには看護婦とも肉体交渉。そして~

 大正6年(1917)22歳。義父死去。義母と遺産を折半。20万円(現在の2千万年)を手にする。新小川町の家を売り、小日向水道町~赤城元町の崖下の借家へ引っ越し。満州から引き揚げて来た実父が金を引き出し、自身も目的のない旅を続けて見る間に資産僅少。友人と伊豆大島・元村の漁師宅で自炊一ヶ月ほどもあり。道の木陰に蛇が5、6匹ずつ。集まっていた。登山道では蛇が木の枝からぶら下がっていた。坂本繁次郎が牛の絵を描いていて、差木地村には春陽会の画家たちがいた。

 大正8年(1919)24歳。デモクラシーに影響された詩集『赤土の家』自費出版も評価は仲間内だけ。少なくなった家産を盛り返すべく、鉱山(マンガン)に手を出して失敗。義父の許に出入りしていた骨董商・鈴木の誘いで初渡欧。リバプール~ロンドン~ベルギー。鈴木はブリュッセルの〝根付収集家・イヴァンに光晴を託して帰国。そこでの滞在1年半は珍しく向学心に燃え、詩に没頭した。帰国の際に創作ノート20冊のうち10冊をペルシャ湾に捨て、後にそこから『こがね蟲』が誕生。

 大正10年(1921)26歳。『こがね蟲』編纂・推敲で京都に滞在。茨木のりこ著『女へのまなざし』にこんな記述があった。京都下宿先の娘と交渉。京都を去る駅で、娘の母親が駈けつけて「あんさん、うちの娘をよくぞ女にしてくれはりました。一生、男を知らずに終わるところでした」と礼を言われたと記していた。(このエピソードは本人の自伝『詩人』にも、『狂骨の詩人』にも記述なし。『残酷と非常』には京都の下宿先に、妹が仲居で、腰の立たず這うように暮していた姉がいて、姉と懇意にしていたことが書かれている。)

 『こがね蟲』で詩人・金子光晴の名が確立するも2ヶ月後に関東大震災。詩人としての華やかな旅立ちが無に帰す。翌大正13年、光晴の許に森三代子が現れた。翌年、長男・乾が誕生。やがて二人の極貧放浪の旅が始まる。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。