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金子光晴③春画と画集 [読書・言葉備忘録]

morikencyo2_1.jpg 金子光晴が極貧旅行中に春画を描き売って糊口を凌いだ~という春画をネットで見た記憶がある。今ふたたびネット検索すれどヒットせず。記憶違いかな、と思った。

 江戸時代の画師は春画で糊口を凌いだ。池田満寿夫だって生活苦に春画4点版画セット4~500円完売で、当時の1か月半の生活費1万円の収入。それで抽象より具象画の方が売れると認識した。昭和35年に限定40部の色彩性交版画『男と女』、昭和43年限定20部『愛の方法』。彼が有名になった時、それら春画は古書市場で120万の値がついたとか。

 金子は小学時代に小林清親から日本画を倣い、上野の美術学校・日本画科に入学。極貧で行き詰まれば春画を描き売っても不思議はない。ネット調べを続けると、最近になって彼の画集2冊が出版されていることを知った。

 昭和50年(1981)の『金子光晴画帖』(三樹書房)、平成9年〈1997)の『金子光晴旅の形象』(平凡社)。ネット巡りを続けると「有名なその春画はインターネットでも見ることができる」の文言はヒット。あぁ、小生は見たのは幻ではなく、恐らくその後に削除されたのだろう。

 次に彼の絵について、子息・森乾著『父・金子光晴伝』の「金子光晴のブルッセルの画」で『金子光晴画帖』以前の作品に出会った思い出を記していた。彼の最初の渡欧は24歳。ベルギーのブリュッセルに1年半滞在。その10年後に、森三代子との旅で食い詰め、再びブリュッセルの〝根付〟収集家ルパージュ氏を訪ねた。そこで描いた絵をもって他の画家らと展覧会を催して金を得てパリへ。その金を使い果たして再度ルパージュの許に戻って帰国の金を工面してもらっている。

aibou1_1.jpg 子息は早大在外研究員として渡欧の際に、父が晩年まで借りたままの旅費を気にし、また大きな好意に感謝していたことを伝えるべく、ルパージュ未亡人(94歳)を訪問。その際、未亡人が木箱に収められた父の画をテーブルに並べ「この画集で、あなたのお父さんの借金は棒引きよ」とほほ笑んだ。

 また当時の展覧会カタログ、展覧会評が載った新聞4紙の切り抜きも差し出した。水彩画30点とデッサン4枚を出品で。(ネットで見ることが出来る『京劇』も含まれているから、それが後に『旅の形象』になったのだろう。

 その新聞評の多くが、藤田嗣治の絵画とも、他の多くに日本人画家のフランス画模倣とも違って、日本版画の繊細タッチと色彩の美しさが評価されていた。なお子息は早大教授を定年退職し、平成12年(2000)に享年75歳で亡くなっている。さて『どくろ杯』続編『ねむれ巴里』を読んでみましょう。

 写真は森乾著『父・金子光晴伝』の金題字と、蝸牛社刊『相棒~金子光晴・森三代子自選エッセイ集』の口絵写真の覗き見。★本日「隠居お勉強帖」アップ

 追記:「金子光晴全集・第12巻」の差込に版画家の永瀬義郎が「光晴夫妻と巴里での出逢い」でこんな事を書いていた。「僕から見れば、金子君は立派なポルノのイラストレーターであった。彼の場合は〝港々に女あり〟ではなく〝港々にヌード絵のファン〟が待っていた。夫妻が無一文で巴里まで辿り着けたのは、このかくし芸のお陰と言っても過言ではなかろう。金子夫妻がクラマールの僕のアトリエに訪ねて来られる前から〝春画の名人が巴里に現われた〟という噂が流れていた。『面白半分』に平野威馬雄さんが、こう書いている。~オレが春画を描くから猥文を書け」という。2、3の本屋に話すとヤンヤの催促。彼は安全カミソリで切った紙を筆がわりにして手より細い線で描く~。フフフッ、見てみたいですねぇ。

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