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金子光晴④『ねむれ巴里』の頃 [読書・言葉備忘録]

nemurepari_1.jpg 大正14年(1925)30歳。長男・乾が誕生。室生犀星が保証人で婚姻届け。大正15年春、佐藤紅緑の代筆100円を得て、二人は上海~蘇州~杭州~南京の新婚旅行。昭和3年、高円寺から夜逃げして中野雑色に移転。

 同年、国木田独歩の息子・虎雄が父の印税を手にし、光晴に上海案内を乞う。約3ヶ月ほど遊んで中野に帰ると三代子の姿なし。彼女は東大生のアナキスト土方定一(草野心平の詩誌「銅鑼」同人。後の神奈川県立近代美術館館長。美術評論家)の許へ。〝子供をダシ〟に連れ戻し、早稲田鶴巻町の貸部屋へ。三代子は2日居ると3日目には土方の許へ。彼女を土方から離すべく「パリ旅行」を提案。子を彼女の実家(長崎)に預け、長崎からアジアへの船に乗った。

 さて『どくろ杯』の続き。昭和4年(1929)34歳。三代子をシンガポールからパリへ旅立たせた光晴は、自分の旅費稼ぎにクアランプール~ピナン島~スマトラへ。日本人の肖像描きなどで旅費を稼ぎつつシンガポールに戻って、リバプール行きの船に乗った。

 マルセイユ港着。夜行列車でパリへ。大使館の在留邦人名簿から彼女のモンパルナスの住所を知る。新たな男がいることを警戒しつつ扉をノック。「入って大丈夫かな」。新婚当時のような濃厚な交歓に相成候。

 パリには日本から送金がある裕福青年の他は概ね挫折。滞在期間も過ぎ、金もなく、乞食になる他にない。だがパリは〝色情狂〟の街。男は老婦人の男妾に、女を口説く男は溢れている。「シャンジュ・シュバリエ」(踊り途中で相手を変える時の掛け声)よろしく、次々に異性相手を変えて生きて行く他にない。

parifujita.jpg その例として光晴は武林夢想庵・中平文子と子・イヴォンヌを挙げている。(彼らについては、以前に読んだ辻潤関連書でスルーしたので、この機会に調べたく次回に紹介)。

 上記から〝性がらみ〟他で生きて行くのは至難も、光晴は困窮の日本人救済を駐在武官に訴えて対策費を懐にする、留学生の博士論文の手伝い、在留邦人名簿の整理や未納会費の集金、日本から進出した宗教団体の教祖伝説を錦絵にしたり、額縁に彫り物を施す仕事などで食いつなぐ。三代子の詩をガリ版で刷って売れとアドバイスしたのは藤田嗣治だった。

 某日、光晴は彼女の父から送られた帰国費用300円(4千フラン)をこっそり懐に入れる。高級店で彼女に衣服を、自分に靴を買い、贅沢な食事と観劇。金は瞬時に半分消え、勇気を絞って金の出所を告白すると三代子は「あ、そう」。

 リヨンに移動した彼らは切羽詰まって、絵を描き売るためにデパートで絵具一式を万引きする。だが水彩の積りが油絵具で描くのに四苦八苦。次第に三代子の働きに頼るようになる。1回50フランで1ヶ月のモデル仕事、日本物産展の売り子、ベルギー・アントワープでの船乗り相手の会社事務仕事~。

 パリで一人になった彼は改めて宿探し。そこは連れ込み部屋が覗ける穴があり、その噂が日本人の間に広まって次々に覗きに来る。食い詰めた二人は、光晴が10年前に訪れたブルッセルの根付収集家イヴァンを再度訪問。光晴は水彩画を描き溜め、他の画家らと展覧会。加えて借金もして帰国の途につく。アントワープの彼女には旅費送り次第に帰国せよと伝言するも、彼女の方が稼ぎよく、彼をシンガポールで追い越した。

 小生、乗りかかった船ゆえ、次の最終編『西ひがし』から彼の晩年まで読みましょう。★本日「隠居お勉強帖」アップ

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