SSブログ

ソール・ライター写真集のアフォリズム [スケッチ・美術系]

saulleiter2_1.jpg 昔の「新宿中央図書館」の地に、今は「下落合図書館」が建っている。そこは高田馬場駅から「さかえ通り」に入って、神田川沿いの東京富士大学(平成14年までは富士短期大学〉の先にあって。昔よく通った図書館だった。

 その「中央図書館」が3年前に我家近くの閉校校舎(区立戸山中学)へ移転して来た。結果、我家から徒歩圏内に「中央図書館・大久保図書館・戸山図書館」が集中。(余談:「家を売って下さい」なる多数不動産家からの電話が多い。中古マンションだが立地が良く需要が多いのだろう、購入時より値下がりせず。執拗に売却を迫る電話には、こう言ってやる。徒歩圏内に図書館が三つもある地が他にあれば、ここを売ってもいいよ~と)

 さて下落合図書館へ行ったのは写真集『永遠のソール・ライター』が〝貸出可〟ゆえ。昨年春の渋谷Bunkamuraでの写真展の際に2冊の写真集があって、あたしが買ったのは絵の掲載が多かった2017年刊『ソール・ライターのすべて』だった。

 同写真展に併せての発売は『永遠のソール・ライター』で、同書を開いて最初に感じたのは写真ではなく、幾頁毎に掲載されてるアフォリズム。そんな「画+アフォリズム」に初遭遇したのは『辻まことの世界』だった。弊ブログでの「辻まこと」は伊豆大島で墜落「もく星号」から散らばった宝石を拾いに行った男として紹介だが、彼の『虫類図譜』や『ノイローゼよさようなら』は「イラスト+アフォリズム」構成で、例えば~

 熱いうちに叩くのは鉄だけです。熱し易い頭には潤滑油が必要。仕事は人を待つだけで、決して人を追ってはこない。小鳥の歌さえも騒音に聞こえるなら、アナタの神経のこずえは枯れかかっている。事件が興奮を作るのではなく、興奮が事件を作るのです。~など。

 さてソール・ライター両写真集に掲載のアフォリズムの幾つかを挙げてみる。それらは「写真家」と「生きる」に大別されるが、まずは「写真家」として~

 私が写真を撮るのは自宅周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも世界の裏側まで行く必要はない。いくつかの出来のよい作品は、近所で撮ったものだ。ストリートはバエレのようだ。何か起きるか誰もわからない。肝心なのは何を手に入れるかじゃなくて、何を捨てるかなんだ。まさに今、どこかで誰かがとてもいい写真を撮っている。時折見逃してしまうんだ。大切なことが今起きているという事実を。私の好きな写真は何も写っていないように見えて、片隅で謎が起きている写真だ。雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。あらかじめ計画して何かを撮ろうとした覚えはない。時折見逃してしまうんだ。大切なことが、今起きているという事実を。私は単純なものの美を信じている。もっともつまらないと思われているものに、興味深いものが潜んでいると信じているのだ。カメラを持って出かけて写真を撮る。瞬間を捉えるのが楽しいから。~など。

 次に「生きる」ことにも通じるアフォリズム。幸せの秘訣は、何も起らないことだ。取るに足らない存在でいることは、はかりしれない利点がある。私が大きな敬意を払うのは、何もしていない人たちだ。私は無視されることに自分の人生を費やした。それで、いつもとても幸福だった。無視されることは偉大な特権である。人生の大半をニューヨークで暮してきたけれど、ニューヨークを知っているとは思えない。ときどき、道を聞かれることもあるが〝よそ者なので〟と答えている。私はときどき無責任な人間になる。税金を払う代わりに本を買ったりする。自分がしていることに対して、深い説明を避けてきた。重要だと思われていることも、たいていはそこまで重要じゃない。大半の心配事は心配に値しないものだ。~など。

 私は常々、自分のブログが長文なのを恥じている。「絵+1行のアフォリズム」に憧れる。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。