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金子光晴⑦帰国後の反戦詩と遍歴 [読書・言葉備忘録]

kanekozetubo_1.jpg 本題、金子光晴に戻る。昭和7年(1932)37歳。光晴は三代子の旅費を稼ぐべく、再びマレー半島へ。ゴム林を背景にした日本人一家を描くなどで画料・餞別を得てシンガポールへ戻る。すぐに帰国船へ乗れば良いものを、また女に引っかかった。英中の混血で義腕の美女に入れ込んで旅費をなくす。

 そんは彼がシンガポールのホテル滞在中に、三代子が来る。4ヶ月振りに抱き締めようとすると拒否された。彼女の新しい男がいた。マルセイユのホテルでパリ帰りの若者・姉川と知り合い、特別3等室に20日間に籠りっきり。三千代子「彼と一緒に神戸に向かいます」。光晴が対峙すると男は「あなたより彼女を幸福にします」

 光晴はまた絵を売る、知人に借金をして、やっと帰国。三代子の養父母に預けた息子を訪ねると、三代子の手紙。「財閥の若者は、神戸に着くと出迎えの者に家の破産を知らされ、二人の関係は船中だけのことにしてくれ~」と。

 三代子は息子を預けたまま新宿のアパートへ(下が中華料理屋の2階の部屋)。光晴も新宿・大宗寺横の連れ込み旅館「竹田屋」に部屋を借りた。部屋の後ろ廊下を朝から夜中まで連れ込みの男女がミシミシと音を立てて通る。彼女を訪ねて半年ぶりに交歓。昭和9年(1934)39歳。新宿北辰館から牛込余丁町109の独立家屋へ(一地震あれば崩れそうな二階家。五坪ばかりに庭に老木のザクロがあった)。親子3人一緒に暮らす。三代子は欧州帰りの女性ということで「女人芸術」の長谷川時雨はじめの口ききで、原稿依頼が舞い込み始めた。光晴が手を入れつつも、次第に女流作家の道を歩み始める。

nisihigasi_1.jpg この頃の光晴は、文字通りの貧乏神だが、昭和10年(1935)に朗報。実妹捨子のモンココ化粧本舗から広告宣伝担当で月50円で雇われた。余丁町124番地へ移る。翌年に二・二六時間。シンガポールから持ち帰ったノートから推敲した詩『鮫』が雑誌「文芸」掲載。これを機に彼にも原稿依頼。反戦・反権力詩人としての名を確立して行く。

 昭和12年(1937)42歳。詩集『鮫』は三代子の新たな恋人・武田麟太郎主宰の「人民社」から刊。当時は詩壇は「四季」と「歴程」中心で、注目度は僅少も、彼の20代から貫かれt離群性、孤独性に評価。同年12月、日華事変勃発。会社の市場調査と云う名目で、戦争の実態を確かめに三代子と共に北支を旅行。前線の残虐侵略から帰還する兵士らの、人間の様相を失った狂った呈(アモック状態)に、己の反戦・反権力の姿勢に確信を深める。(日中戦争:昭和12年~20年)

 昭和13年(1938)43歳。三代子37歳。正月を万里の長城で迎え、1月半ばに帰国。3月に余丁町を出て、終の棲家となる吉祥寺の家を購入。義父の胃癌看病に、義父の姪・山家ひで子が来て、光晴とひで子の関係が復活(彼女は在学中に芸者になり、小唄山家流家元、戦後は連れ込み宿を経営。光晴74歳の脳溢血時も見舞っている)。

 昭和16年(1941)46歳。12月に太平洋戦争勃発。彼の反戦。半権力の詩は発表の場が無くなった。三代子は昭和18年『和泉式部』で新潮社文芸賞を受賞。昭和19年(1944)49歳。息子に召集令状。荒事をさせて気管支嘆息の診断書を得て召集延期。山之口獏が2ヶ月ほど同居。12月、空襲が激しく、山中湖のボロ別荘に疎開。

 昭和20年(1945)50歳。息子に再び召集令状。嘆息発作の息子を水風呂などで再び召集延期で戦死を免れた。氷点下の家で凍ったインクを溶かしつつ作詩に専念。終戦の玉音放送に『セントルイス・ブルース』のレコードで踊り祝った。昭和21年(1946)51歳。吉祥寺に戻り、息子は早稲田大学に入学。「コスモス」創刊に同人として参加。詩集『落下傘』『蛾』『鬼の児の唄』などを次々に発表。

 ★写真「為政者へ信頼失せて午後8時」「街に出でアブストライク朧かな」を「隠居お勉強帖」にアップ。 

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