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金子光晴⑥武林夢想庵とは(2 ) [読書・言葉備忘録]

fumiko_1.jpg 武林(中平)文子登場です。明治21年、松山生まれ。夢想庵より8歳下。美人で賢く我儘いっぱいに育った。18歳で見合い結婚して3児を年子で産む(当時はコンドームなく性交=妊娠)ことに嫌気がして離婚。時あたかも松井須磨子がトップ女優になって新たな女性像が現れたことも影響したらしい。

 二度目の夫は嫉妬深いく、自分が外出するときは文子を柱に縛り付けておくほどで、文子は大陸へ逃げた。資生堂化粧品を売り歩きながら、何人もの男と〝必要に応じて肉体関係〟を重ねながら2年余の放浪して離婚成立へ。

 そして大正5年28歳「中央新聞」婦人記者になり芸者、派出婦などになるルポ連載「お目見日記」で人気。同社社長の〝思いもの〟になってわがもの顔の振舞いで、結局は同社を追われた。

 大正9年、鵠沼の文士旅館「東屋」で原稿書き。そこにいたのが夢想庵。彼はここが財産家妻女「鎌倉夫人」との逢引場所だが、文子は彼は北海道の土地を売った3万円で、辻潤と洋行する予定を知って「あたしと行きましょうよぅ」。田山花袋の仲人で帝国ホテルで結婚。夢想庵40歳、文子32歳だった。すでに夢想庵ではない誰かの子を宿していたらしい。

 大正9年5月、支那へ新婚旅行。8月に渡欧。12月、パリでイヴォンヌ(五百子)誕生。(夢想庵が異母妹・豊に産ませた子と同年誕生)。大正10年7月に英国で遊び、8月からベルリン、ドイツ、スイス、イタリーを歴遊してパリへ戻る。文子はなで肩で身長5尺ほど。西洋人からみれば17、8歳に見えて「なんと可愛い」と云われて有頂天。

 大正11年に帰朝。夢想庵は中林家の隠居所に仮寓し『結婚礼賛』『文明病患者』を改造社から刊。同12月に再び渡欧。今度の渡欧費用は僅か4千円で、文子も働いた。ロンドンの日本料理店「湖月」(川上貞奴座の女役者・花子の店で、番頭は彼女のツバメK)に、パリに支店を出すよう持ちかける。文子とKは即〝ねんごろ〟になる。パリ支店は大繁盛で各界名士も集う。文子の男漁り。とりわけ金持ちと見誤ったI青年と〝ねんごろ〟になるなど悶着頻発で、支店は4ヵ月で閉店。Kはロンドンの店も手放してモナコに開店。文子はそこで越後獅子やかっぽれを踊る。夢想庵は文子から小遣いをもらって安宿暮し。

 店の経営が苦しくなって、夢想庵の札幌の土地が狙われた。I青年が実印と白紙委任状を持って、札幌の土地、時価3万円を手にする。モナコでは文子とKの諍いで、文子ピストルで撃たれる。頬を貫き奥歯で止まって一命をとどめる。Kは半年ほどで出所。

tujijyunhon.jpg 夢想庵は文子を寝取られた『Cicuのなげき』を発表。ピストル事件のスキャンダルも相まって大きな話題になった。文子は帰国の際も商売アイデアを発揮。ディーラーPRイベントとして黄色のシボレーで大阪~東京を移動。東京に戻ると女優の仕事が待っていた。ギャラを得てパリに戻る。

 今度はエチオピア皇太子の結婚報に、現地取材で稼ぐべく同国と貿易の宮田社長に接触。文子56歳、社長40歳で3年間の契約結婚。大阪角座に妖婦役で出演後に渡欧。第二次世界大戦後にベルギーから強制送還された二人は、東京で古い電車改造のレストラン開店で成功。宮田の貿易仕事のメドがつくと再びベルギーへ。気がつけば3年の契約結婚が30年余。宮田の包容力、経済力に負うところが大。

 文子77歳。帝国ホテル住まいの彼女に、イヴォンヌ44歳の死が知らされる。イヴオンヌも辻まこと(後、東京で再会した二人は結婚し、子供を三人つくったにもかかわらず、数年後に離婚した。「熱月」より)と別れてからも波乱の人生だが、ここでは省略。文子は夢想庵に対して「私の洋行結婚があなたの一生を不幸に終わらせた」と云ったとか。

 金子光晴と三千代子、武林夢想庵と文子。濃密複数愛(ポリアモリー)で似た者同士。だが文子と宮田には文士にはない実業家の粘り・根性があったようです。ここまで記し、彼女の生涯を小説化した山崎洋子『熱月』(写真上)があるのを知った。写真下はイヴォンヌの最初の夫・辻まこと著『山からの絵本』。同書のなかに三原山で墜落した「もく星号」から散った宝石集め収集の話が書かれている。

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