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竹田真砂子「あとより恋の~」 [大田南畝(蜀山人)関連]

takedananpo_1.jpg 鳥撮りばかりだと頭ぁ~バカになっちまうんで読書備忘録。4月上旬の朝日の書評に載っていた(評者・逢坂剛)んで、図書館で借りて読んだ。題名は「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」(集英社刊)。南畝さんの遊女・三保崎の身請けがテーマ。これまでは男性著者によって「妻妾同居」とされていたが、女性の立場からそりゃないだろうと云う姿勢。同じ下級武士の娘ながら苦界に身を沈めた三保崎を救い出した南畝の意気に、狂歌仲間(時には彼らの女房連)が手を携えて最後まで看取ったとする小説。そんなワケでほんわかムードで書かれ1日で読了の軽いもの。

 さて小説冒頭…。市ヶ谷の島田左内の屋敷で南畝と平秩東平と山東京伝が偶然逢い、南畝宅で呑み始めるシーンから始まる。「山東京伝、当時二十五歳。傍ら京橋で煙草入れを売る店を出して京屋伝蔵と名乗った」とある。のっけから「待てよぉ~」と思った。手許の京伝資料(小池藤五郎著「山東京伝」)を見れば、「寛政5年(1793)33歳、煙草入店を開く」とある。京伝25歳ではまだ煙草入屋はやっていない。南畝と同じく京伝が吉原の「お菊」を身請けし結婚したのが寛政2年。

 小説最後は南畝が身請の三保崎が亡くなるところ。白山本念寺の葬列に京伝の「お菊」さんも参列し、狂歌仲間の夫人たちと白無垢の死装束を縫い上げたとあった。「お菊」さんは京伝が煙草入れ屋を始めた寛政5年に亡くなっているので、三保崎の白無垢を縫ったり葬儀に参列したりは出来ぬ。そんなワケで小説の最初と最後に京伝がらみで大きな間違い。歴史小説は史実半分としてもこりゃちょっと興ざめ。

 最初に登場の島田左内は、市ヶ谷左内坂の名主。あたしはその左内坂のマンションに事務所を持っていた時期があって、島田左内も狂歌師で狂歌名は「酒上熟寝」で、晩年は禁酒して「瓢空酒(ひさごのからざけ)」と名乗っていた。同じ「酒上」で、より有名なのが「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。定信の寛政改革で自害した狂歌師で戯作者の駿河・小島藩の江戸詰め用人、本名は倉橋格。今も新宿通り沿い成覚寺の入った左側に墓がある。


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