SSブログ

掃苔ポタリングで本念寺の南畝お墓へ [大田南畝(蜀山人)関連]

ohtananpohaka1_1.jpghonnenjiannai_1.jpg 小石川辺りは坂が多い。遠回りだが緩やかなコースで東京ドーム~白山通りを北上。白山4丁目の本念寺へ左折する路面に、史跡案内板が埋め込まれていた。矢印通り左折して坂の途中、左側に本念寺あり。門前に「大田南畝の墓」案内板。境内に入ると「ひと声掛けてからお入り下さい」の張り紙。折よく配達物を受け取る女性がいて、建物(本堂・庫裏)裏側のこぢんまりした墓地を教えていただいた。まずは大きな自然石加工の「南岳大田亨之墓」。南畝末裔のユニークな画家にして文人。「まっ黒な土瓶つつこむ清水かな」の句と、大正六年七月十三日 行年四十五の碑文。その奥の巨石「南畝大田先生之墓」。こちらには一切の墓碑銘なし。読書記憶では、友人から大きな墓石が贈られたが、遺族に墓碑銘を刻む経済的余裕がなかったと。没後188年の今も熱心な南畝ファンがいて、墓前にワンカップ大関二つと野の花二輪が手向けられていた。

 隣のお墓(写真奥)は「大田自得翁之墓」。南畝の父・吉左衛門さんのお墓でしょう。裏にまわると小さな墓石が二つ。一つは寛政五年「晴雲妙閑信女」の戒名で、側面に「不知姓賎為字・・・」の墓碑銘。「姓を知らず賎を字と為す…」で、南畝が吉原から身請けした三保崎さんこと「お賎(しず)さん」のお墓。その隣は「信行院妙理日得大姉之墓」で教育熱心だった母・利世のお墓でしょうか。他に妻・里与、息子の定吉夫婦と子供たち、さらには南畝を看取っただろうお香さんの墓など多数あったはずも今はこれだけ。江戸時代からのお寺ゆえ当時は相当に大きなお寺だったろうが、縮小を繰り返して現在に相成候といったところか。

nanpohaka3_1.jpg 永井荷風は「礫川徜祥記」に「・・・われ小石川白山のあたりを過る時は、必本念寺に入りて北山南畝両儒の墓を弔ひ、また南畝が末裔にしてわれ等が友たりし南岳の墓に香華を手向くるを常となせり」と記した。同随筆は大正13年に本念寺を訪ねた直後の記。川本三郎「荷風と東京」には「探墓の興―墓地を歩く」の章があって、荷風の探墓一覧表が載っていた。全45回。本念寺には昭和16年10月27日にも訪ねている。さっそくその日の「日乗」をひも解けば「…団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変りたるやうなり」。お墓の整備が繰り返されたことが伺える。妻妾同居で辛かっただろう妻の墓がなく、お賎さんのお墓が寄り添う変なことになってしまった。

 最後に探墓のお勉強。「探墓」は辞書にない。(たんぼ)と読むか。「掃苔(そうたい)」は亡き文人や歴史上の人物の墓を訪ね歩くこと。「展墓(てんぼ)」は単に墓参りをすること。墓を展す…と荷風さんがよく記す。「墳墓(ふんぼ)」は墓のこと。川本三郎の「荷風と東京」の前述章には「探墓の興」「展墓趣味」「掃苔趣味」「掃墓」が交互に出てくる。「掃苔」で統一したらすっきりするなぁと思った。我が大田南畝の掃苔記ここまで。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。