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夏の寺南畝の甥を偲びけり [大田南畝(蜀山人)関連]

nangaku1_1.jpg 荷風さんは「礫川徜佯記」で、南畝が後裔にしてわれ等が友たりし南岳大田亨のお墓を掃苔し、彼のエピソードの数々を記している。その文語風文体ではなく、ここは私流下町風翻訳で紹介…。

 …男でもゾクッとするほどイイ男で、あたしに俳句の愉しさを教えてくれた羅臥雲君んチで、初めて南岳君こと亨君に逢った。明治32年だった。亨君は陸軍士官学校を目指したが不合格。大田家が武士ゆえに軍人志望だったのだろうが、子供の頃から耳が悪く、その話し声はえらくデカかった。それで不合格になったのかなぁ。で、彼は絵描きを目指した。

 明治38年の日露講和条約の時に、暴徒が電車を焼くなどして今でいう騒乱状態。亨君は巡査がいない数日間に桜田門のお濠で釣りをして数十匹の鯉を釣り上げた。その頃から豪傑だった。

 大正14年。大婚25年の記念切手発行で誰もが記念切手に当日消印を捺してもらおうと郵便局に押しかけた。亨君は葉書に春画を描いて表に貼った切手に消印をもらった。数枚捺してから局員が春画と気付いた時には脱兎のごとく逃げていた。「これぞ子孫繁栄を祝すものなり」と得意になっていたなぁ。

 絵の腕前も確か。日本美術協会の展覧会出品で入賞。川端玉章より賞状授与されるや寸断放棄。会場の誰もが真っ青になるも、亨君は「我は狂ったのではなく、日頃から川端玉章の言動が気にいらなくて…」と言い放ったとか。以来、亨君は美術界には無縁。

 その後は閑居して薬草の研究本を出版。鈴虫を繁殖させて友人らにわけたりもした。そう、彼は弓や遊泳の達人でもあった。大田南畝の父もまた徳川吉宗謁見の遊泳で褒められていたから、その血を受け継いでいたのかも。

 亨君はずっと四谷在住だったが、大正4,5年に市川に移転。毎日のように釣りを愉しんでいたが、大正6年に江戸川で水死。そう、四谷は荒木町だった。弦歌酒楼の地。おや、やまさんとやらも荒木町を根城に呑みまくっていた時期があると。ふん、おまいさんのことなんてどうでもいいよ。南岳大田亨君はまぁ、そんなに面白き男だった。

 最後にネット検索のデジタル版日本人名大辞典を紹介。大田南岳(1873~1917)。明治・大正時代の俳人、画家。大田南畝の子(私注:正しくは甥だろう)。俳諧、絵画、篆刻、釣魚、義太夫などいずれもすぐれた、下条柱谷に学んで文人画もおさめた。尾崎紅葉や星野麦人らと親交があった。大正6年7月13日死去。45歳。命日は2日後です。


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