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ちょっと怪な平秩東作(その2) [大田南畝(蜀山人)関連]

hedutu_1.jpgnogutinanpo_1.jpg 野口武彦「蜀山残雨」再読中。過日、新宿・善慶寺の平秩東作お墓を訪ねた。昨年5月の「ちょっと怪な平秩東作」の(その2)として、お墓写真と同書の平秩東作に関する記述をメモ。おや、野口センセイは平秩が亡くなった新宿・成子坂を自転車で走りまわる少年だった・・・と書き出していて、戸山高校卒と。ご近所さんだな。

 天明期はバブル。狂歌界のパトロンが勘定組頭・土山宗次郎。土山は勘定奉行・松本伊豆守の右腕で、その上に老中・田沼意次がいた。年貢米から金・銅・俵物・海産物に手を広げてのバブル。大田南畝も連夜の盛宴・遊芸三昧。

 平賀源内も鉱山発掘など<山師>になり、源内牢死後に白羽の矢を立てられたのが内藤新宿の煙草屋で町人文化の先駆け平秩東作だった。天明3年(1783)8月に物流調べという幕府密命で蝦夷(北海道)に旅立った。同行は源内とも親交の長崎のオランダ通詞・荒井庄十郎。

 天明4年、土山宗次郎は遊女を身請け、祝儀金などで千二百両の大盤振る舞い。南畝がお賤さんを身請けした資金も土山と揶揄される。

 天明6年に江戸大洪水。翌年、大飢饉。田沼政権が吹き飛んだ。八代将軍・吉宗の孫、白河藩第三代藩主・松平定信が台頭し、田沼は老中罷免。厳しい田沼派粛清。土山は横領で死罪。平秩東作は彼の逃亡加担で「急度叱(きっとしかり)」の罰。以来、鬱々として天明9年(1月に寛政元年)3月8日、柏木・成子坂の別邸?で死去。

 辞世の狂歌は「南無阿弥陀ぶつと出でたる法名はこれや最後の屁づつと東作」。な~るほど、確かに墓標に「南無阿弥陀仏」。台座には本名「立松之墓」。そんな平秩がどこか好き。


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