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ミヤコドリいづこで舞ふや遠干潟 [おくのほそ道]

miyakodoritobi1_1[1].jpg このシリーズ、仙台まであと一歩。芭蕉の足跡を辿ってネット検索すれば、東日本大震災の被害地で、改めてお見舞いと復興を祈念せずにはいられない。震災後の五月、早くも「おくのほそ道」を歩かれた方のブログを拝見すると、16句目の笠島道祖神、17句目の武隈の松も無事のようでございます。

 芭蕉は藤中将実方(さねかた、平安中期の歌人)の墓や道祖神を訪ねてみたいが五月雨のぬかんだ道で行くこともできない。これを詠んで<笠島はいづこさ月のぬかり道>

 この道祖神の社は和合の神。木製男根を奉納。実方も祈願を勧められるが「尊い神に男根を奉納するなど」とあざ笑い通り過ぎようとした途端に落馬死したと「源平盛衰記」にあるそうな。金森敦子は自著のなかで「生真面目な芭蕉はどのような反応をしただろう」と記す。その答えが上野洋三著「『奥の細道』の謎」にある。芭蕉自筆本の同句の推敲張り紙下の字を透視し、そこに狂歌があったと発見した。長くなるから引用せぬが、優雅な歌枕ではない地では、江戸初期の紀行文には、これを茶化して狂歌がしばしば登場とかで、芭蕉もそうしてみたが後に削除して当句だけにしたのだろうと推測している。さらに山本健吉は「笠島は」は最初に「笠島や」で、「や」を「は」に訂正して良くなった。「や」の「重く、したるく聞え」を、「は」で甘みを抜いて軽くなったと指摘。いろいろと難しい「おくのほそ道」なんです。

miyakodori12[1].jpg さて、この句のもじり遊び。「いづこ+ぬかり道」を「いづこ+遠干潟」にして<ミヤコドリいづこで舞ふや遠干潟>と詠んだ。三番瀬に行くと遥か彼方まで干潟が広がっていて、先へ先へ歩けば波打ち際に数十羽のミヤコドリがいた。昔から和歌・俳人で詠まれるミヤコドリはユリカモメのこと。今も歌人・俳人は本当のミヤコドリを知らん。

 塚本洋三著「東京湾にガンがいた頃」によると、1956年に浦安に初めて一羽のミヤコドリが飛来。当時のバーダーを騒然・狂喜させたとか。東京湾からガンは消えたが、今はミヤコドリの群れを見ることができる。


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