SSブログ

瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その2) [読書・言葉備忘録]

tune5_1.jpg  写真は中村彜(つね)「エロシェンコ氏の像」(集英社刊「現代日本美術全集」より)。大正8年、神近市子出所を出迎える車が、新宿・中村屋に寄ってエロシェンコ氏を乗せた。中村彜がこの絵を描いたのは、神近出所の翌年。エロシェンコ氏は大正10年に危険思想ゆえ国外追放されている。ちなみに中村彜は中村屋・相馬黒光の長女・俊子の半裸像を多数描くなど恋仲だったが、結婚を相馬夫妻に反対された。俊子はボースと結婚し、中村は傷心の伊豆大島暮らし。帰京の大正5年に目白(下落合)にアトリエを新築。大正13年クリスマスイブに永眠。37歳だった。

 話を「諧調は偽りなり」に戻そう。神近市子の入獄期に大杉・野枝を監視していたトップは警視庁刑事課長・正力松太郎。彼は後に権力欲から安全性より性急に原発を促進した初代原子力委員長で、読売新聞を使って世論操作などもしていた。(有馬哲夫著「原発・正力・CIA」より)。

 また脱線したが、瀬戸内の小説も大杉・野枝を軸に同時代の人々を次々に織り込みつつ進行・・・が特徴。神近市子の入獄中の、島村抱月のスペイン風邪による急逝と、松井須磨子の後追い心中も描いている。出獄した神近市子は、4歳下の鈴木厚と結婚。落着いた生活を求めるがままならぬ。大正10年「大杉栄は実際の労働を知らないじゃないか」と反発した反大杉派は「労働者」を旗揚げ。神近の新居に居座って編集部にした。

 大正11年、大久保・百人町の荒畑寒村宅で日本共産党の結成準備委員会がもたれた。この時期に、寒村ら社会主義者の多くがロシアに渡っているが、大杉栄もまたベルリンの国際アナーキスト大会から招待状を受け取って同年12月に上海へ。中国人留学生名義の旅券でヨーロッパへ。パリのメーデーで演説して、パリの優雅な監獄暮らし約一ヶ月。

 先日の神田ポタリングの際に、古本街で名著「寒村自伝」と、大杉栄「自叙伝・日本脱出記」(共に岩波文庫)を入手した。彼らの渡欧詳細は、後日の読書に委ねる。

 一方、瀬戸内寂聴は隠遁者のようにひっそりと比叡山で暮す野枝の元夫・辻潤の日々も詳細に描いている。大正12年7月、大杉栄の帰国を報じる「朝日新聞」に、有島武郎と「婦人公論」記者・波多野秋子の心中死体発見の報の載っていた。有島は豊かな遺産を継いでい、大杉のパリ行きの千円をはじめ、多くの運動家らが彼にカンパをせびっている。同年8月、大杉・野枝は内田魯庵の隣の新宿・柏木の借家に転居。そして9月1日、関東大震災。(続く)


コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。