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谷崎・佐藤夫人に第三の男あり [佐藤春夫関連]

 先日、荷風さんが「日乗」に書き写した「谷崎潤一郎・佐藤春夫・千代子夫人連盟の挨拶状」(細君譲渡事件、昭和5年)をアップした。谷崎は芸者・初子と深間になり、初子は旦那がいるからと妹・千代を彼に勧めて二人は結婚。鮎子が産まれると二人を実家に預け、千代の妹・せい子と同棲。谷崎に冷遇される千代に佐藤春夫が惚れた。谷崎はせい子と一緒になりたく、千代と鮎子を佐藤に譲ることことを了とした。しかし後になって千代を手放すのが惜しく約束を反古。佐藤が激怒して絶交。これが「小田原事件」。それから10年を経て、上記三名連盟の挨拶状で細君譲渡となった次第。

 まぁ、これが定説。多くの谷崎評伝書もそう記されている。「いや、実は千代夫人には第三の男がいた」と調べ書いたのが瀬戸内寂聴「つれなかりせばなかなかに」。大意はこうだ。 ・・・三者が亡くなった後、平成5年に両者の未発表手紙群が発見された。その中に昭和4年の谷崎から佐藤春夫宛で「千代さんが別の男と結婚する云々~」の手紙あり。これについて、谷崎の末弟・谷崎終平が昭和63年に「文学界」に「兄・潤一郎と千代夫人のこと」を発表し、これに加筆して平成元年「懐かしき人々~兄潤一郎とその周辺」を出版。誰も注目せぬが、そこに「別の男・第三の男」について書かれた記述があると指摘して真実に迫って行く。

 瀬戸内は、そこに登場する和田六郎(終戦後に「大坪砂男」の名で推理小説でデビュー)を調べ出す。六郎は谷崎が神戸で生活をしていた時期に内弟子風に滞在してい、そこで8歳上の千代夫人と情交。これを谷崎は黙認し、数ヶ月の胎児を流産・堕胎?した。瀬戸内寂聴は和田六郎の子息、和田周氏に逢って当時のことを取材。周氏によるイニュシャル手記の形で回想させている。「仰せのように、父とC子夫人の恋愛関係は昭和3年が白熱状態だったと思われます」。そして昭和4年の谷崎の手紙「千代はいよいよ先方に行くことにきまった」に至る。この手紙をもらった佐藤春夫は驚いて谷崎家に飛んで行き、千代夫人と一晩寝ずに語り合った。これを見た終平が、気の合う和田六郎にご注進。六郎はカッとなって千代夫人に決別の手紙を送りつけた。

 これが真相で、関係各氏は「和田六郎」のことは口にチャックしたまま「三者連盟の細君譲渡の挨拶状」に至ったらしい。なお、和田六郎(大坪砂男)氏の著作は澁澤龍彦が気に入り、二冊本全集が出ているそうな。また瀬戸内寂聴は、千代夫人は控えめでめそめそ泣いているような女性ではなく、けっこう逞しい女性だったと記し、和田六郎、佐藤春夫、谷崎潤一郎が先立った後、昭和56歳に84歳で大往生したと結んでいる。


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